想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

年号を震災に!

2017年03月11日 | エッセイ

震災7年3月11日

 

 丁度今から、6年前の今日のことだった。私は嶺田地区コミュニティセンターに勤務していた。マルティメディアルームで地域の方とお話していたが、なぜか、大きく部屋が揺れている。地震だと分かり、テレビのスイッチを入れ確認をした。数十分揺れていたと思う。今までの揺れと違うと思った。震源地は東北の沖合だった。あんなに長く大きな振幅の揺れがあったのは初めての経験だった。阪神淡路大震災の時と少し揺れ方が違った。暫くしてテレビでは大きな津波の画面に変わっていた。自動車が次々流されたり、田畑に迄大きな津波が押し寄せていた。逃げ遅れた自動車もあった。あの津波もあれだけの大きさは初めての経験だった。なにもかも、大きな凄い物だった。

 その後、原発が津波に襲われ、最悪の事態となった。いわゆる放射能汚染である。チェルノブイリ以来の大きな汚染である。あれが、東京都まで襲ったと考えるともう、日本も終わりかと誰もが思っただろう。それだけ、大きな地震被害だった。おまけに、原発までやられてしまったのである。そして、最悪のメルトダウンまで起こってしまった。誰もが初めての経験で何がなんだか分からないようだった。

 日本が根本的に変わってしまうように思えた。経済も大きな打撃を受けた。原発の近くの人は避難を余儀なくされた。

 あれ以来、私はそのことを決して忘れまいと思い、その日を震災元年と決めた。いわゆる年号を変えた位のインパクトがあったからである。そして、その日の事を忘れない為にも自分では震災〇年という年号に決めた。あれから、6年の歳月が流れたかと思うと、光陰矢の如しはとはよくいったものだと思う。少しずつ復興も進み、もとの街がよみがえって来ている。しかし、まだまだ、色々な所に当時の後遺症が残っている。ましてや、心の傷は幾ばくかと思うと胸が痛む。二度とあってはならないと思うが自然災害なので、どうしようもない。それを避ける術を各人や国で考えるしかない。いつか、地震は起こるのである。

 自然災害は必ず忘れてころにやってくるのである。そういう、事を念頭において行動しないと、命はいくつあっても足りない。そういう意味で、日本人の誰もがあのことから学ぶとすれば、あの日を震災元年と位置づけ初心を忘れないと心に誓う事である。人間とは時が経つの過去のいやなこともすべて忘れてしまう。だから、年号のように唱えることが大事だと思い、私はブログにその震災〇年を使うようにしている。

 

 

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つくしとエンドウ豆のコラボから想う

2017年03月09日 | エッセイ

震災7年3月9日

 つくしとエンドウ豆が仲良く共存しています。こんな菜園ができればいいなと、いつも思っていました。エンドウ豆は雑草の中の方が育ちがいいように思います。

 エンドウの緑と、つくしの肌色の組み合わせ、どれを取っても自然の造形は素晴らしいと思わずにはいられません。これも、神の為せる技なんでしょう。感謝感激です。Viva nature!

 そのわけもどうにか、豆科植物の持つ根粒菌の働きが大きいようです。根粒菌とマメ科植物は、お互いに共生し、根粒菌は植物の根に形成した根粒中で大気中の窒素を固定してアンモニアに変換し、一方、宿主であるマメ科植物は、窒素固定活動のエネルギー源として光合成産物を根粒菌に提供しています。この関係性が、根粒菌とマメ科植物をして、“共生”と呼ぶ所以です。マメ科植物は、根粒菌との共生窒素固定の故に、植物体そのものの栄養価値を高める他、成育中、また枯死後に至っても近傍の土壌環境の肥沃化に寄与することから、緑肥としても重要な役割を果たしています。田んぼに昔、レンゲの花が沢山咲いていたと思います。これも、豆科であるレンゲの根粒菌効果を期待して栽培されていたようです。太古の昔から、この根粒菌の恩恵を受けて来たようです。

 豆科の植物は野菜の大豆、ソラマメ等たくさんあります。また、大きな植物では、アカシア、ネムノキなどもそうです。根粒菌の謎はまだ解明されていない部分がたくさんあるようです。窒素以外にも多くの不思議があるのではと思います。

 下のエンド豆も、雑草の中でもすくすく育っていく訳が分かります。自然界はまだ、不思議ワールドで色々な神秘に包まれているのですね。私たちは、これからも、自然と共に生きて行く道を選ぶのが一番いい方法だと思います。そこに、もし、人間の知恵を加えるなら、しいていえば、里山的農法だと思います。自然の力を助けるために人間の知恵を使う方法だと思います。

 この考えに従えば、現在の医療、介護及び物の効率的生産で動いている現在の経済の仕組みもいつか、大転換していかないと大きな過ちを犯すことになるのではと、危惧しています。

 医療や薬も何のために使うかということを、しっかり精査していかないと、過剰医療など、人の幸せと矛盾することに成ってしまいます。難しい問題ですが、少しずつ、寿命の考え方も健康寿命が大切だという風に成ってきているようで少しは安心しました。生きることとはどういうことかについて益々今後議論が為されていくでしょう。介護でのQOLの問題も避けて通れません。また、人には長く生きたいと思っても運命という物があって、自分以外の大きな力でそうなっているとしか思えないこともあるのでしょう。

 今後益々、高齢化社会になればなるほど生老病死の問題は人の幸せとの関連で脚光を浴びてゆくでしょう。長寿はいいことに決まっていますが、これも、QOLが補填されていて初めて価値のあることです。そう、考えると人間も、生き物であるので、いずれかは死を迎えるわけです。世の中は諸行無常な訳ですので、一時も同じ状態ではないはずです。認知症患者が増加の一歩をたどっていると言うことは、人間の体のバランスがどこか崩れているように思います。

 この辺のことは、また、いつか、詳しく考えていきたいと思います。

 

 

 



 

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