(略)宇治ちかきところにてまた車にのりぬ。さてれいのところにはかたあしとてとゞまりぬ。さる用意したりければうかひかずをつくして一かはうきてさわぐ。いざちかくてみんとてきしづらにものたてしぢなどとりもていきておりたればあしのしたにうかひちがふ。こうをどもなどまだみざりつることなればいとをかしうみゆ。きこうじたる心ちなれど夜のふくるもしらずみいりてあれば、これかれ「今はかへらせたまひなんこれよりほかにいまはことなきを」などいへば「さは」とてのぼりぬ。さてもあかずみやればれいの夜ひとよともしわたる。いさゝかまどろめばふなばたをごほごほとうちたゝくおとにわれをしもおどろかすらんやうにぞさむる。あけてみれば夜のあゆいとおほかり。それよりさべきところどころにやりあかつめるもあらまほしきわざなり。
(蜻蛉日記~バージニア大学HPより)
七月晦日、女のもとに始めてやるとて、よませし
花薄ほのめかすより白露を結ばんとのみ思ほゆるかな
(和泉式部続集~岩波文庫)
延暦二十四年七月癸巳(二十六日)
使人を遣わして畿内の明神に奉幣した。祈雨(あまごい)のためである。
(日本後紀〈全現代語訳〉~講談社学術文庫)
承和十四年七月丙戌(二十三日)
白馬を幣帛として丹生川上雨師神に奉納した。止雨を祈願してである。
(続日本後紀~講談社学術文庫)
(長保三年七月)二十六日、乙未。
新中将(成房)が立ち寄った。同車して左府の許に参った。馬場において納涼の饗宴が開かれた。
(権記~講談社学術文庫)
(正治二年七月)廿七日。天晴る。参上す。相次で御堂に参ず。中将殿退下さる。未の時許りに京を出で、嵯峨に入る。萩の花盛りの由、木守丸告ぐ。仍来臨す。近辺の井水、多く旱のために止まる。此の井水、又乏少と云々。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)
(建仁二年七月)廿三日。天晴陰。心神又悩む。今日の暑気甚だしきの間、小屋煮るが如し。夜に入り、相扶けて宮廻り、又通夜せず。伊勢園の小屋に宿す。聊か涼しきに似たり。
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)
(元久元年七月)廿八日。天晴る。早旦、殿下に参ず。御供して、五辻の新御所に向ふ。御覧じ廻す。午の時に還りおはします。途より和歌所に参ず。昨日の如く、家隆朝臣参会す(雅経殊に遅参)。大理櫃二合を取り寄せらる。破子・瓜・土器・酒等あり。又寒氷あり。大理自ら刀を取り、氷を削らる。入興甚し。納涼の中と雖も、外人(うときひと)無きにあらず。堪能と称して之を削る。白き布巾を以て、氷を嚢(つつ)みて、左手に之を扣く。皐陶の職、頗る軽々たり。各々饗応して之を食す。(略)
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)
(建保元年七月)廿四日。天晴る。炎旱。日数幾ばくならずと雖も、陽景太だ盛んなり。草木多く枯槁す。暑気又堪へ難し。(略)
(『訓読明月記』今川文雄訳、河出書房新社)
二十日 丁亥、深更ニ及テ、*風(*夜)静マリ、月明ラカナリ。将軍家、俄カニ佐渡ノ前司基綱ガ宅ニ渡御シタマフ。御車ヲ用ヒラル。御共ノ人人ハ、折節*此等(*八九人)バカリナリ。所謂周防ノ右馬ノ助、陸奥ノ掃部ノ助、三浦河内ノ守、毛利蔵人、兵庫ノ頭、*織部頭(*織部正)。同キ駿河ノ四郎左衛門ノ尉、同キ五郎左衛門ノ尉、結城上野ノ判官等ナリ、彼ノ所ニ於テ、勝長寿院ノ児童等ヲ召シ、管絃舞曲等ノ興遊有リト〈云云〉。
(吾妻鏡【延応元年七月二十日】条~国文学研究資料館HPより)