源氏物語・真木柱に「いと苦しかべきこと」という文章が出てきて、見慣れない形だなあ、「べし」の上は何形が付くんだっけ?と思い、調べてみました。
動詞+「べし」については、辞書にもしっかり記述されてるのですが、形容詞+「べし」はあまり記載されてないみたい。
形容詞の連体形+べし
ということは、例えばク活用の「清(キヨ)し」なら「清かるべし」で、シク活用の「いみじ」なら「いみじかるべし」というふうに付くわけですね。
ならば、上記の真木柱の文章は「いと苦しかるべきこと」となるはずなのに、「いと苦しかべきこと」となっているのは、なぜでしょう?
源氏物語のデータベースで「かべ」というキーワードで検索して(「壁」は除く)、該当箇所を注釈本で当ってみたところ、以下のことがわかりました。
「いと苦しかるべきこと」
↓
撥音便化「いと苦しかんべきこと」
↓
撥音無表記「いと苦しかべきこと」
古語辞典の「撥音便」の項にも、「あるべし→あんべし・あべし(撥音無表記)」という例が載ってました。「べかめり」とか「なめり」とかなら、よく見る形なのでわかりやすいですが、形容詞でも同様なんですねー。
以下に、源氏物語の用例を挙げます。
・「いと苦しかべきこと」(源・真木柱) ←「苦しかるべき」
・「こころやすかべかめれ」(源・常夏) ←「こころやすかるべかるめれ」
・「もの近かべきほどかは」(源・野分) ←「もの近かるべき」
・「思へば恨めしかべいことぞかし」(源・胡蝶) ←「恨めしかるべき」。「べき」がイ音便化して「べい」に。
・「深う澄むべき水こそ出(い)で来(き)がたかべい世なれ」(源・行幸) ←「出で来がたかるべき」。「べき」がイ音便化して「べい」に。
・「命こそかなひがたかべいものなめれ」(源・澪標) ←「かなひがたかるべき」。「べき」がイ音便化して「べい」に。
・「甲斐なかべいことなれ」(源・真木柱) ←「甲斐なかるべき」。「べき」がイ音便化して「べい」に。
・「人聞きもうたておぼすまじかべきわざを」(源・夕霧) ←助動詞「まじ」の連体形「まじかる」の撥音便無表記
ちなみに、「枕草子」「徒然草」や謡曲でも、「かべ」で検索しましたが、上に挙げたような撥音無表記の用例は見つかりませんでした。源氏例にある「かたし(難)」を使用しても、以下のように撥音便化していません。
・「かたかるべきにもあらぬを」(枕)
・「後世を願はむにかたかるべきかは」(徒然)
擬古文をそれっぽく書くならば、こういうテクも取り入れるとよいのでしょうね。(こうなってくると、「べし」の活用形がどういう形なら直前の形容詞が撥音便化しやすいのか、とかも調べたくなってきます。)
以下は、「形容詞の撥音無表記+べし」の創作例。
・いみじうをかしかべし
・おもしろかべきこと
・すさまじかべきこと
・いとわろかべし
・悪(ア)しかべきこと
・こころづ きなきこと多かべし
・さる人も多かべい
・興(キョウ)なかべし
・見苦しかべいを
・ねたかべし
・こころ憂(ウ)かべし
・(~こそ)口惜しかべけれ
・いみじかべきこと
・いみじかべいもの
・(~こそ)いみじかべけれ
追記
たまたま見つけた「形容動詞の撥音便無表記+べし」の用例です。(撥音便無表記って、奥が深いですねー。)
「いかなべいことぞ」(源・行幸) ←「いかなるべき」
「かげもみえがたかべいことなど」(蜻蛉日記) ←「みえがたかるべき」
「よろしかべいさまに」(蜻蛉日記) ←「よろしかるべき」