花と緑を追いかけて

山を愛し、花を愛し、旅と
映画とパソコンと、好奇心も
いっぱいの主婦の日記です

主人の「偲ぶ会」を終えて私は・・・

2014年11月07日 | 日常の日記
11月初めの3連休中日の2日(日)、中華街入り口近くの「横浜スタジアム」横にある
ホテル横浜ガーデン11Fの中華料理店「上海酒家」を借り切って
主人の「偲ぶ会」を無事に済ませました。

亡くなって丁度2ヶ月半になりました。


予報ではマークがずっと付いていたお天気も、温かい薄日のさす日和となり
主人の兄姉一家や私の弟一家、姪や甥の家族、お嫁ちゃんのご両親など
親族26名が集まり故人を偲びました。

主人の上の姉一家が、北海道の親戚の法事とダブり参加できなかったのが残念でしたが・・・

私も息子一家ともども孫のハー君の強力な風邪菌にやられ、この日は声がガラガラでしたが
幸い皆熱も下がり、我が家全員が参加できて良かったです。


当日は主人の遺影はじめ、額に入れた写真を3枚持って行き
用意された影膳席に花々と一緒に飾りました。

献杯の音頭は、告別式の斎場での精進落としの時と同じように主人の弟に頼みました。

2月に長兄を、そして半年後の8月に次兄(主人)を亡くした義弟のショックも大きく
特にすぐ上の主人との子供の頃の思い出はたくさんあり
「いつも下の兄きの後ろにくっついて遊んでいた」とシンミリ語っていました。


主人は男3人女2人の5人兄弟の4番目・・・

男で最後に残った末っ子の義弟はこの春心臓の手術を受けましたが
今は元気に回復し、最近はゴルフも楽しんでいるそうな

主人と同じサイズの彼に、息子が着そうもない明るい色のゴルフウエァーを形見分けしました。
私と同じ歳の義弟には長生きして欲しいです。

息子もこの叔父の中に父親の面影を見ているのですから・・・


円卓を囲んでの中華料理ですから、至ってカジュアルに今回は平服での参加をお願いしました。
私と息子夫婦は各テーブルを廻りホストに徹し、主人にふさわしく陽気に会は催されました。

主人の両親が健在な頃、お正月は必ず元旦に主人の実家に全員集合

夏は息子が3歳の頃から札幌に転勤するまでの5年間
主人の会社が契約していた千葉の富浦の民宿を借り切り、主人の親兄弟一家全員参加の
合宿のような二泊三日の海水浴に行っていましたから

息子と従妹同士のつながりは強いものがあります。


バックミュージック用に主人の好きな「ビリーボーン」のCDを持ち込みました。

♪波路はるかに・♪真珠貝の歌・♪虹の彼方に・♪峠の幌馬車・♪カプリ島
♪夕陽に赤い帆・♪わが心のサンフランシスコ・♪砂に書いたラブレター
♪小さな花・♪ブルーハワイ・♪夏の日の恋・♪白い渚のブルース

接待をしながら息子が時々「懐かしい・・・」と呟いていました。

大勢の兄弟の中で育った主人はとても寂しがり屋で
TVが付いていない時は必ずラジオか音楽が流れていましたね

横浜らしく中華のお店での「偲ぶ会」兄一家のテーブルは兄嫁と姪夫婦、甥家族


2月に夫を亡くした兄嫁はとても元気そうでした。

義兄は肺がんの末期で入院三週間で78歳で亡くなりましたが、
その前には10年間以上の車椅子生活がありました。

義兄が車椅子になった時に甥一家と二世帯住宅を建て同居していますから
兄嫁は淋しさもなく、むしろ長い介護生活からようやく解放された感があり
今では自分の姉妹たちと旅行を楽しむ日々・・・

とても若々しくなりました

私とは対照的で・・・
でも同じ未亡人同志、そんな姿を見るのも嬉しいものです

こちらは下の姉一家と義弟一家のテーブル同じ松戸住まいですから、和気あいあいと賑やか


兄一家の皆からは「いつまでもメソメソと悲しんでいると、叔父さんも昇天できないですよ」
「まずは叔母さんが元気に生き生きと生活しなければ」と言われ

義弟や下の姉からは「マーチャンのことはnaoさんの胸の中でちゃんと覚えていてね」と頼まれ・・・
その両方と、主人の仕事の後片付けが私の役目なのだと思っています。


今回の「偲ぶ会」は、告別式に流した主人の71年間のスライドショーをもう一度ゆっくり観たいという希望が
主人の姉弟から出て、それに応え企画しました。

主人の少年時代の写真を、中学時代の仲間や兄嫁にも協力してもらい加えました。

主人の3兄弟、今ではもう弟しか遺っていないのですね


そして16年前、広告会社を早期退職し庭師になった主人が、
さるTV局のドキュメンタリーで取り上げられました。

その時のビデオも流しました。
50代中頃の、まだまだ若い私たち夫婦が画面に写し出されていましたよ

私は最後のあいさつで
「まだまだやらねばならない事がたくさんあり、自律神経が乱れて不安な日々ですが・・・」
「今日を節目に、自分の生活を取り戻していくようにします」
涙声になりましたが、自分自身に言い聞かせるように〆ました。


宴の後の一人は淋しいものです。
「Mさんはまだ我が家の和室におりますので、いつでも会いに来て下さい」というと
62歳で夫を亡くした下の姉が「naoさんの淋しさが良くわかる」と言って
息子の車で帰る私と一緒に我が家に来てくれました。

床の間横の出窓にいる主人の前で、義姉はしばし「号泣」
この姉も血を分けた弟の死をとても悲しんでいるのでした。

本当は我が家に泊まって頂き主人の子供の頃の話をまだまだ聞きたかったのですが
「薬を持ってきていない」とのことで諦め・・・

夜は義姉を送る方々上大岡に出てお蕎麦を食べながら3時間のお喋りしました

膠原病という難病を抱えながらも義姉は7年間一軒家で一人で生活し
その後の5年は未婚の次男と同居しています。

「T男が食事まで作ってくれるのよ」と嬉しそうでした。
最後に義姉を見送って帰ったこの日の夜は、私も興奮して殆ど眠れませんでした。



          



関東南部の紅葉も山から里へと下りてきたようです。
翌日の「文化の日」も暖かい日和に恵まれました。

前日の「偲ぶ会」で使用したプロジェクターを返却しに
以前勤めていた地区センターまで往復1時間10分を歩いていきました。


我住宅地に通じる環状線の街路樹も色付きだしています。

体重も4kg痩せて、筋肉がすっかり落ちました

健康と経済性を考え、買い物やお出かけもできるだけ歩け歩けで行こうと思っています。

4日の火曜日は久しぶりに「女子会」です。
この日も会場の駅近くの和食屋さんまで、20分歩いていきました


2年前の自治会役員の部長をやった女同士4人・・・

40代で未亡人となったAさんは去年一人住まいだった一軒家を売り、
娘さん一家の住まい近くの藤澤駅前のマンションに引っ越し

Sさんは私の夫が亡くなった8月に、ご主人に「脳腫瘍」が見つかり手術
ようやく来週退院だそうで、その前に皆に会いたいと急きょ決まった食事会

あれから皆色々あり過ぎましたね。
私など役員をやっていた2年前に母を亡くし、今年は父と夫を亡くしたのですから
そういう歳になったということでしょう・・・


「カニ御膳」を戴きながら3時間のお喋りで息抜きを致しました。

「一軒家での一人暮らしはとても不便で不経済」
「70歳を過ぎたら駅近くのマンションがとても便利で良いわよ」
「引っ越すのなら体力的にも、今の私の歳の70歳が限界よ」

Aさんの話を聞きながら、今後の私自身の事を考えました




コメント (34)
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