ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

小さな善意 オアシスのよう

2023-08-19 12:17:28 | 素晴らしい人
 コロナが若干治まっていた昨年の夏、
市内の各自治会はまだまだ自粛ムードだったが、
私の地域自治会は盆踊りと子供縁日だけだが『夏まつり』を行った。

 「ようやく娘に浴衣を着せる機会ができました」
と、若いお父さんが笑顔で話してくれたのが印象的だった。
 加えて、久しぶりの盆踊りを楽しんだ方々も少なくなかった。
だから、是非今年も「夏まつりを!」の声が強かった。

 1週間前に、全市を上げて『伊達武者まつり』が、
4年ぶりに本格開催された。
 だから、自治会が行う『夏まつり』には、
さほど参加者がないのではと、勝手に予想していた。

 ところがだった。
開催10日前の打ち合わせ会で、最初に参加集計を行った。
 なんと、昨年の260名を大きく上回り、
396名の参加申込があった。

 今年は、コロナの規制緩和が進んだから、
焼きそばと串焼きセットの予約販売をすることにした。
 その集計結果もまとまった。

 その数を出席者に知らせると、
「会長、当日1時からの準備じゃ、間に合わないわ。
 10時から始めようよ」。
「人手ももっと集めなければだめだわ」。
 予想を越える賑わいに、対応策の声が次々と上がった。

 初めての経験がいくつも私に向けられた。
それぞれが自分の持ち場で頑張ろうとしていた。
 会長として、「それはできません」は決して言えなかった。

 打ち合わせ会が終わり、私が引き受けた仕事は、
大抽選会の景品購入や串焼き肉の追加発注など、
10指を越えていた。
 それからは頭を痛め、目覚めの早い朝が続いた。

 さて、参加者400人の『夏まつり』だが、
多くの方々の手を借り知恵を借りて、無事終了した。
 その全てをここに記すことは無理。

 あえて、小さな善意を2つ記す。
それは夏祭りの準備に明け暮れる私が、一瞬心安らぐ、
オアシスようなことだった。

  ⑴ 
 会場となった広場の真ん中には、盆踊りの櫓が組まれた。
それを囲むように、受付やら食券売場やら、各種販売所、
ヨーヨー釣りや型ぬきなどの子供縁日、それに休憩所が配置された。 
 参加者が迷わないよう、その1つ1つに表示が必要だった。

 表示作成は私の仕事になった。
『生ビール 次の1杯 コッブの再利用に ご協力を!』。
 こんな表示まで作り、A4で20枚程度をプリントアウトした。

 それをもって、市内唯一の文具店へ行った。
目的は、薄いA4紙ではたよりないので、
パウチ加工するためだった。

 20枚の表示を出し、パウチ加工を依頼した。
「少々時間がかかります。1枚309円です」
と、言う。
 何かの間違いかと思った。
聞き返した。
 「1枚のパウチの値段が309円ですか!」。
私の驚きに、店員さんは再確認をした。
 答えは、「はい、309円です」。

 予想外の高値だった。
パウチ加工を諦めるしかなかった。
 透明なクリアホルダーに挟むと言う代替案を考えたりしながら、
店内をウロウロした。

 そこに、たまたまご近所の奥さんがいた。
私から声をかけた。
 奥さんは明るく
「お祭りの準備、お忙しいんじゃないですか」。

 つい、私は今の状況を話した。
すると、
「あら、パウチなら、私の家に機械あります。
このくらいの枚数ならすぐできます。
 預かって行きますから、買い物が終わって帰ったら、
すぐにやって、届けます」。

 こんな助け船が現れるとは・・・。
明るくなった。
 でも恐る恐る訊いた。
「ありがとうございます。
 いくらでやってくれます?」。

 奥さんは、少し笑いながら、
「何言ってるんですか。
ただに決まってるじゃないですか」。
 私の肩をポンと叩いた。

 深く頭をさげ、善意に甘えた。

  ⑵
 焼きそばと串焼きは、
当日のお昼過ぎから調理を始めることにした。

 伊達も例年以上に暑い夏が続いていた。
保健所からは、『食中毒警報』まで出されていた。

 なので、できた焼きそばや串焼きは、
発砲スチロール箱に入れておくことにした。

 大量の予約注文だった。
自治会の物置にある箱だけでは足りなかった。
 当てなどないまま、箱探しをすることに・・。

 何人もの方に声をかけた。
やっと5箱が手に入った。
 まだまだ全然足りなかった。

 社会福祉事務所にも訊いてみた。
倉庫の奥まで探してくれたが、
食べ物を入れるような清潔な発泡スチロール箱はなかった。

 祭りまで、後数日だった。
パークゴルフの集まりがあった。
 ストレス発散にと時間を作り、参加した。

 プレーの合間に、
「発泡スチロール箱を探しているけど、
なかなかなくて困っている」と愚痴った。
 
 「食べ物を入れておくような綺麗なのはね・・」
どの人も同じ反応だった。
 パークゴルフは楽しいけど、
気持ちは沈んでいた。

 ところが、翌朝だった。
電話が鳴った。
 聞き慣れた声だった。

 「昨日の続きだけど、大きめの箱が4つあったの。
何回も洗ってきれいにしたから、大丈夫。
 どこに届けたらいい。
今、車に積んだからすぐに持って行けるけど」

 急ぎ、自治会の会館で受け取った。
まだ私は朝食前だった。
 空腹を忘れていた。
それよりも、胸が一杯になっていた。




 アジサイのようだけど・・・
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高齢になっても 「頑張る!」人 

2023-07-08 10:34:22 | 素晴らしい人
 ▼ このブログによく登場するわが兄だが、
年齢は10歳も離れている。
 中学卒業後、父がしていた魚の行商の手伝いから始まり、
やがては手広く鮮魚店を経営するまでになる。
 その後、現在の居酒屋風の魚料理専門店を始めたが、
その店も今では代替わりをし、同居する息子に譲った。

 しかし、鮮魚への目利きは確かで、
息子は、足下にも及ばない。
 だから、毎日、早朝の魚市場に行く。
その日の仕入れの全ては、今も兄の役目なのだ。

 店に戻ると、息子と一緒に仕入れた魚をさばき、
その日の店のメニューにする。
 ランチの時間に間に合わせると、
兄の仕事は一端、終わる。

 自宅に戻り、体を休めたり、
雑用をしたりして日中を過ごす。
 そして、夕方の開店に合わせ、
再び店の厨房に立つ。
 その日の宴席予約や、
客の注文にすぐに応じられるよう準備する。

 夜の店は、開店から2時間余りが最も忙しい。
兄はその時間だけ、刺身を造ったり接客したりし、
客の求めに応じ動き回る。

 私は、年に数回、兄がいる時間帯を狙って、
店を訪ね、夕食を注文する。
 店内の賑わいの中を、明るい表情で小まめに動き、
店主の息子やパートさんと一緒に、客の声に応じる兄を見る。
 
 その頑張る姿に、弟の私はいつも脱帽するのだ。
兄は言う。
 「俺からこの仕事がなくなったら、
やることが何も無くなるべ。体が動くうちはやっていたいんだ」。
 ただただ私は恥ずかしい気持ちになってしまう。

 ▼ 市内の自治会長が集まる会議が2種類ある。
1つは、全市の会長が集まる「市連合自治会長会」だ。
 もう1つは、市内を幾つかの地域に分けた会長会である。
私の地域は14の自治会で構成する「T区連合自治会」である。

 そのT区の自治会長会があった。
昨年度までの連合自治会長が退任され、
新会長になった。
 会議の冒頭、新会長が挨拶に立った。

 静かな口調でお話しされた。
自己紹介のくだりが、心に残った。
 彼は、今年80歳になった。
前会長より新会長を打診され、その重責を考えると迷ったと言う。
 しかし、長年にわたる前会長のご苦労を思い、
お引き受けしたらしい。
 
 そして、彼は、
「自分の自治会の会長を引き受けて、5年になります。
まだ健康なので、皆さんのお力を借りながら頑張りたいと思います」。

 聞きながら、ふと思った。
彼が自治会長になったのは、今の私と同じ75歳の時だ。
 それから5年後、
彼は「T区連合自治会長」の任に着いたのだ。

 自治会長の任に限らず、
今の私は、時々『億劫』という2文字と戦っている。
 どんな切っ掛けでもいい。
どんな声かけでもいい。
 私の背中を押してもりたい。
そう思うことがなんと多くなったことか。

 そんな私の5年先は明らかだ。
どんな使命感も投げ捨て、
『億劫』と妥協した日々を送っているに違いない。
 どう思い直しても、新連合会長のような80歳にはなれそうもない。

 ▼ 確か、コロナ禍の2年前だったと思う。
退職後、写真撮影を趣味にしていると言う大学時代の友人が訪ねてきた。
 住まいは我が家から車で3時間半余りの所だが、
その時は、途中で2、3泊しながらビュースポットにレンズを向けながらの旅だった。
 伊達には2時間ほど滞在し、眺めのいいところを案内した。
途中下車しては、しきりにシャッターを切っていた。

 帰り際、彼は、
「今度は一緒にパークゴルフができるように、
ゆったりと時間をつくって来るわ」と言った。
 しかし、コロナで足止めに。

 今年4月、突然メールが届いた。
洞爺湖温泉に一泊するので、翌日パークをしようと言うものだった。
 彼は、家内にとっても友達だった。
遠慮はいらない。
 我が家に宿泊するよう勧めた。

 2ヶ月後、色々な所に立ち寄りながら、
午後4時過ぎ彼はやって来た。
 挨拶もそこそこ、開口一番
「いつかやろうと後回しにするのは、
そろそろ後悔につながるから、
先送りしないことにしたんだ。
 だから、2人とのパークも、
コロナが開けたらすぐにと思って来たんだ」。

 「そうだね。誰かに教えてもらったけど、
やれることは今のうち、今のうちにできることを、だね!」
と、応じた。

 その後、いつもより遅い時間まで、
思い出話が続いた。

 翌朝、朝食の支度を家内に任せ、
2人で散歩に出た。
 道々、彼は今の暮らしぶりについて話しだした。

 彼には、3人の娘さんがいた。
末の娘さんは、父と同じ教職の道に進んだ。
 結婚をし、彼の家から数軒先に居を構えた。

 現在は、保育園に通う男の子が2人、
しかも年子がいると言う。
 「学校が忙しい上に、年の近い2人の子育てでしょう。
よく助けを求め、2人の孫をつれて来るんだ」。

 そう話している矢先だった。
彼にLINEメールが届いた。

 「丁度その娘からのメールだよ。
今日から2泊3日で5年生をつれて宿泊学習なんだ。
 だから、2人のこと頼みます。
気をつけて早く帰ってきてね、だって」。

 彼は、笑顔でつけ加えた。
「手のかかる孫だけど、かわいいんだ。
娘と2人の孫のため、子育てがひと段落つくまで、
後10年は元気で頑張ろうと思ってるんだ」。

 「10年先・・・まで。
すると85歳か!」
 彼はそこまで視野に入れている。
「すごい!」。
 散歩の足が止まりかけた。

 一緒にパークゴルフをしながらも、
彼の意気込みが脳裏から離れない。
 やけに後ろ姿が、まぶしかった。

  
 

    ビート畑 先は麦畑
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さり気ない 出会いから

2022-01-29 13:54:47 | 素晴らしい人
 ▼ 『光の春』。
この時季を表現するのだろうが、
なんて素敵な日本語なんだ。

 一日一日、陽が長くなる。
それだけで春を感じるのは、きっと私だけではない。
 「冬の峠までもう少し・・!」。
そう思えるだけで、今までとは違う気持ちになる。

 加えて、ここ数日、当地は穏やかな天候が続いている。
特に朝は、風もなく低い雲に覆われることも少ない。
 7時頃、自宅前の歩道まで出てみると、
東山付近の空が次第に赤く染まり、
静けさに包まれた町に、
夜明けを告げているようで、素晴らしい。

 「いい町に、住んでいる!」。
氷点下の冷たい外気を頬に感じながらも
しばらくたたずみ、そう実感する。

 もう10年以上も前になるが、
リタイア後の先を、この地にした。
 それまで全く縁もなく、知人友人も1人もいなかった。
ただただ私の直感だけで、ここを終の棲家に決めた。
 
 朝日で明るさを増す東山の尾根を見ながら、
「間違ってなかった」と、独り胸を張る。

 最近、この町で出会った、
さり気ない小さな出来事を、2つ記す。

 ▼ 人口3万数千のコンパクトシティーだ。
美味しいお店も、もうおおよそ見当がついている。
 でも、まだ、行ってない店が数軒あった。

 その中の1店だが、
特段、興味があった訳ではない。
 国道沿いにあっていつも車を運転しながら、
横目で見ていた。
 いつかは行ってみようと思いつつ、月日が過ぎた。

 「オミクロンが怖いけど、ちょっと外食を」と、
思いついたのが、その店だった。

 ファミリーレストランと銘打った店は、
住まいが兼用の建物のようだった。
 ドアを開けると、落ち着きが感じられた。
ケバケバしさがなく、ゆっくりできそうな雰囲気だった。

 椅子席と小上がり席があった。
椅子席を選んだ。
 早々、オリジナルのグラスに氷の入ったお水と、
メニューが届いた。

 セットメニューの全てに、その写真があった。
ファミリー向けらしく、定食はご飯と味噌汁だった。

 私はハンバーグとエビフライの定食、
家内はしょうが焼き定食を、注文することにした。
 
 人当たりのよさそうな若々しい女性が、
注文を受けてくれた。
 些細なことだが、その応対が店の好感度を上げた。

 彼女は、持参した伝票に、
私たちの注文を記録し、明るい声で言った。

 「ハンバーグとエビフライの定食と、
しょうが焼き定食ですね。
 ありがとうございます。
ご用意します」。
 その後、私たちに深々と一礼し、厨房へ急いだ。

 それだけだが、最近の多くの店とは明らかに違った。
注文の品を反すうした後、
「・・・で、大丈夫ですか」に慣れていた。

 聞き流してよさそうだが、
「ありがとうございます。用意します。」とその後の一礼に、
妙に明るい気持ちになっていた。
 その後の食事への期待が、自然と膨らんだ。

 ▼ 朝夕に1錠ずつ服用する薬のために、
2ヶ月ごとに、通院している。

 1時間近く待たされ、診察室へ入る。
そこで、
「では、同じように薬を続けてください」と言われ、
処方箋を持って、調剤薬局へ行く。
 そこで、8週間分の薬を受け取り、終了である。

 通院なのだから、
定まった時間が淡々と流れるだけである。
 何かを期待する場でないのは、当たり前のこと。

 だがら、つい先日も、同様のパターンで薬局まで進んだ。
そこで、受付に処方箋を渡していた時だった。
 
 突然、私の背後から、白髪の女性が走り寄った。
「すみません。私の薬の数が違ってるんです」。
 調剤室へ向かって、大声で言った。

 私への対応を中断し、店長らしい薬剤師さんが、
「Tさん、お願いします」と、調剤室へ言った。

 すぐにTさんが、カウンターに進みでて、
その女性に対応を始めた。
 やや遅れて、女性のご主人もそれに加わった。

 私は、薬局の長いすで薬を待ちながら、
無関心を装いつつ、推移をうかがった。
 
 女性は、2日前にこの薬局で薬を貰った。
そして、昨日一日、ご主人と一緒に、何回も薬の数を確認した。
 どの錠剤も漢方薬も、間違いなく2週間分が足りなかった。

 持参した薬の入った袋の表記を、Tさんに見せながら、
2人は、薬の不足を懸命に訴えた。

 予告なしの老夫婦の来店だ。
そして、性急な訴えである。
 なのにTさんは、すぐに応じた。

 「薬をお渡ししたのは、2日前でしたね。
息子さんもご一緒でしたよね」。

 2人がうなずくのを確認した後、
Tさんは、やや耳が遠い2人を知ってか、
大きめな声で続けた。

 「家に薬がたくさん残っているから減らしてほしいって、
息子さんが言ったでしょう。
 それで、全部の薬を2週間分少なくしたのよ。
その時、お2人もそれでいいって」。 

 そこまで聞くと、老夫婦は、顔を見合わせた。
そして、Tさんに言った。
 「ごめんなさい。思い出しました。そうでした」。
丸い背中をさらに丸くし、2人は小さく頭を下げた。

 「よかった。安心しましたね!」。
そう言い終わると、Tさんはすぐに調剤室へ入り、
次の仕事を始めてた。

 一部始終を聞きながら、
私は、変哲のない通院場面での、
さり気ないやりとりに、小さな温もりを覚えていた。




     快晴の冬空に ナナカマドの赤
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『 冬 花 火 』 ・ そ の 後

2021-04-17 15:34:55 | 素晴らしい人
 昨年1月末、若い頃からずっと『憧れの人』だったA氏が逝った。
その知らせが届いた日、伊達で1件だけの酒屋に出向き、
沢山の銘柄から、道内酒蔵の『冬花火』を買い求めた。

 「冬の花火はひときわ美しく、
華やかにひろがり、さっと消えていく。」
 一升瓶のラベルにあった言葉を、くり返し声にしながら、
粉雪が舞う深夜まで眠れずに過ごした。

 翌日、千葉県内のご自宅へ、
奥様(画家)宛で、供花を送った。

 数日が過ぎ、息子さんからお礼の電話があった。
「父とは、どんな関係だったのでしょうか。」
 一通りの挨拶の後、そんな問いがあった。

 「奥様は、私の事を知っているはず・・。
なのに・・。その質問・・?」。
 若干の違和感があった。

 簡単にA氏との関わりを伝えた後、
「お母さんは、どうしてますか。」
 思い切って、訊いてみた。

 「母もガンで、闘病生活をしてまして・・。」
丁度いい言葉も、心の籠もった励ましも言えなかった。
 ただただ会話を濁した。
 
 最後に、
 「父は、何もかも捨てなかった人だったので、
これからしばらくは、アトリエの整理が残っています。」
 口調の端々に、何となくA氏を感じながら、電話を終えた。

 そして、6月、2人の息子さん連名の小包と
「ご挨拶」の一葉が届いた。
 転記する。

  *    *    *    * 

 ご挨拶

このたびは父「A」の永眠に際して
お心遣いをいただき 誠にありがとうございました
その後 母「J」も三月に後を追うように旅立ちました
今 世の中も大きく変わろうとしています
心の整理がつくのは 少し時間がかかりそうです
幸いにも私たちには
父と母が遺してくれた作品が在ります
その一つひとつに向き合い
二人の感性に触れることが
私たちの今後の道しるべになると思っています

長い間 父「A」とお付き合いいただき
ありがとうございました
御礼のご挨拶と代えさせていただきます

  *    *    *    *

 『長い間 父「A」とお付き合いいただき』が、
心に刺さった。
 「もう彼とはおしまい!」。
そんな決別の最後通告を受けたようで、
息子さんの想いを、汲み取ろうとも思わなかった。

 しかし、先月のことだ。
一枚の葉書が、届いた。

 A氏のサイン入り墨絵には、2人の顔が描かれ、
「どっちもどっち』の文字が踊っていた。
 そして、『二人展』と描かれたその案内状には、
息子さん2人からのこんなメッセージがあった。

『父が亡くなり一年が過ぎ、母の命日も近づいています。
 遺された作品を通して、二人を偲ぶ回顧展を開きます。
 大変な世の中が続いています。もし、お気持ちが許せば、
 足を運んでいただけますと幸いです。』

 4月上旬の11日間、東京銀座のギャラリーで開催する
と、記されていた。
 A氏がグループ展などでよく利用していた画廊だ。

 何が何でも、飛んででも、行きたかった。
そして、息子さんらと同様、
『その一つひとつに向き合い
二人の感性に触れ』たかった。
 彼の想いの一端でいいから、再会したいと思った。

 しかし、今、それは絶対に叶わない。
せめてその想いを、彼を知る方に託したかった。
 同時に、こうして再びA氏に胸躍っている私に気づいた。

 「何かできることを探したい!」。
思いついたのは、会場に花を届けること。

 「でも・・、回顧展に花を贈ってよいものか」。
迷った末に、会場であるギャラリーへ電話し、相談した。
 言葉遣いの丁寧な女性が応じてくれた。

 「それは、きっとお喜びになられると思います。」
女性は、そう言いながら、注文先の花屋まで教えてくれた。

 そして、鼻声につまりながら、こう私に言った。
「お二人には、いつもいつも大変よくしてもらいました。
私も悲しいです。」

 突然、胸がいっぱいになった。
誰にでも気配りの出来るA氏だった。
 改めて、それを思い知らされた。
彼を惜しむ電話の向こうの声が、涙を誘った。

 きっと、『二人展』は、
春の陽が注ぐ都心の一角で、A氏らしく、
そっと人々を迎えていたに違いない。

 もう、結びにする。
彼が登場した私のエッセイを思い出した。
 その駄文に、『ほろ酔いしての 五・七・五』と言いながら、
A氏から、一句を頂いていた。                
 
  *    *    *    * 
  
    親を見て育つ 

 それは、私の第一子が誕生した時でした。
孫の顔を一目見ようと北海道から父が、
単身上京してきた時のことです。

 「わざわざお父さんが来られたから」
と、酒好きの父を知って、
当時の同僚達が酒席を設けてくれました。

 しばらくして少し口先も滑らかになってきた頃合いを見計らって、
同僚の一人が
「ところでお父さん、塚原先生は小さい頃どんな子だったのですか。」
と、切り出したではありませんか。

 その時私は、決して自慢できる幼少時代ではなかった私の恥部が
さらされることに身を固くし、
若干顔を赤らめた父の言葉を待ちました。

 ところが、
「ワシは五人の子に飯を食わせるのに精一杯で、
この子がどんな子だったかよく知らないんだよ。」
と言ったのです。

 あえてそうして私をかばってくれた父に、
その時、熱いものを感じたのですが、
しばらくして
『いや、あの言葉はそのまま、その通りなのではないか。』
と考えを改めたのでした。

 しかし、そんな父であっても、
私は間違いなくその父の姿をいつも見ていたし、
有り様は違っても今も父を目標にしていると、
私はその時強く思ったのでした。
 まさに、子は親を見て育つのでは……。

  *    *    *    *

 春燈や子を持って知る 子の恩と
                
                       合  掌



 『ザゼンソウ』と言うらしい 「なるほど!」    
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ア ン タ は ・ ・ ・

2020-07-11 19:47:00 | 素晴らしい人
 ▼ 毎年くり返されるが、各地で水害が発生している。
特に、今年はコロナ禍の災害である。
 沈みがちな気持ちが、怒りに変わりそうだ。

 ところが、我が家の庭は、
ジューンベリーの実が最盛期を迎えた。
 毎朝、3、40分かけて、ボールにいっぱいの
紫色になった実を収穫する。
 年中行事になってしまったが、
ご近所さんへ、そのジャムのお裾分けにまわる。

 私たちも、この時季だけは、
ヨーグルトにこのジャムを加え、楽しんでいる。

 ▼ さて、友人知人に恵まれてきた私だが、
5歳上のYさんについて、初めて記そうと思う。

 校長に昇任した初日だ。
都内小中高校の新任校長の辞令伝達式が、
池袋の東京芸術劇場大ホールで行われた。

 花冷えのする日だった。
開場を待って、入口前広場にいた。
 すると、顔見知りの校長先生がYさんを連れてきて、
私に紹介してくれた。

 Yさんは、私と同じS区の新任校長だった。
その年度は、二人だけがその区の小学校に着任した。
 貴重な同期の校長だった。
だが、明らかに私より年上だと思った。

 Yさんは、略礼服の上に薄いコートを着ていた。
でも、少し寒そうな表情をし、背を丸めていた。
 「Yです。」と小さく頭をさげた。

 小柄な方だった。
頭は、丸くスポーツ刈りにしていた。

 すかさず,私も頭を下げた。
その時、目が合った。
 今も新鮮に思い出せるが、眼光が鋭かった。
「何ものだ!」。
 そんな言葉が一瞬頭をよぎった。

 教師とは思えないような、目力だった。
ちょと怖かった。
 それが、彼との初対面だ。

 ▼ その後、よく出張先で一緒になった。
特に、新任校長を対象とした研修会等では、
隣り同士の席になることが多かった。

 言葉を交わす機会が、次第に増えていった。
口数が少なかった。
 その分、一言一言には重みがあった。
それまで接してきたタイプにはいなかった。
 だんだん惹かれていった。

 彼は、教職のかたわらで、空手の師範をしていた。
自宅には道場があった。
 小さな子から成人まで、
多くの弟子が彼の教えを受けていた。

 「今は、子どもらの指導は門下生に任せている」。
空手について、それ以上語ったことはなかった。
 しかし、その時、あの眼光の起源が分かった。

 ▼ 校長としての彼の職歴は、5年で定年を迎えた。
校長は皆同じだが、
彼も、その間、様々な難しい問題に直面した。

 その1つは、着任して1年後のことだった。
指導力不足の教員へ保護者の不満が爆発した。
 毎日のように保護者が、校長室に押しかけ、
改善を求めた。

 彼は、区教委そして都教委へと何度も足を運び、
その教員の処遇や、子ども達への援助策をお願いして回った。

 顔を合わせる毎に、彼の頭に白髪が増えた。
時を見て、何度か夕食に誘った。
 多忙の最中、彼は時間を作り、
馴染みになった蕎麦屋に、必ず来てくれた。

 お酒は得意ではなかった。
でも、少しは私に合わせてくれた。

 飲みながら、学校の現状をポツリポツリと話した。
決して多くを語ろうとはしなかった。

 ▼ ただ、こうして2人で少しのお酒を飲むとき、
彼には決め台詞があった。

 ボソボソとした口調で言った。
「アンタは、エリートで弁も立つ。
 俺は、アンタの半分も言えない。
分かってもらうのに、時間がかかる。」

 もし、彼以外が言ったなら、きっと棘がある。
だが、私は素直に彼の言葉を受け止め、
度々こう応じた。
  
 「だけど、Yさんの言いたいことが、分かったら、
誰だって強く信頼して、全てを受け入れるよ。
 俺とは、説得力が全然違う。」  
 
 すると、
「そうか・・。やっぱりアンタは弁が立つ。」
 まんざらでもない顔をしながら、
彼は私を鋭い目で見た。

 私もややいい気分で、
目の前のお酒に手を伸ばした。

 ▼ もう20年も前になるが、
当時、東京都は様々な学校改革に着手していた。
 校長は、その先頭に立ち、改革の浸透を図った。

 当然、教職員から異論反論があった。
職員室の雰囲気が悪くなることもしばしばだった。

 こんな時こそ、校長の同期同士だ。
よく情報交換をした。
 いつもの蕎麦屋で会った。

 2時間程を過ごした後、最後は、
「Yさんは、強いから・・。」
 「いや、アンタなら、大丈夫・・!」。
いつも、彼に背中を押され、別れた。
 それが、あの難局を乗り越える力になっていた。

 ▼ ついに5年が過ぎ、彼は学校を去った。
その年の6月だ。
 彼の退職を祝い『Y先生を囲む会』が、
PTAや町会が中心になり、開催される運びになった。

 その前年度末、彼は、わずか5年の校長歴にも関わらず、
全国や都道府県校長会長の経験者と一緒に、
文部科学大臣賞の栄誉を受けていた。

 なので、「囲む会」は、その受賞祝いも兼ね、
広範囲の人々を招いた盛大なものになった。
 当然、私にも招待状が届いた。

 ところが、当日と翌日、私は、
長野市で開かれる関東甲信越ブロックの校長会研修会に、
出席することになっていた。

 早々、彼に会った。
開口一番、切り出した。
 「囲む会の日と次の日、長野で校長の研修会なんだ。
その日の夜、東京に戻って、また次の日、行けるけど・・。」

 「そんな無理しなくて、いいよ。」
彼からのそんな返答を期待していた。
 ところが、彼は表情一つ変えずに、
ボソリと言った。
 「そうか。すまないな。」

 予想外だった。
だが、不思議と嬉しかった。
 「長野から駆けつけよう。
そして、翌日朝一番で再び長野へ行こう。」
 そう決めた。

 ▼ 囲む会を終え、久しぶりにまた蕎麦屋で会った。
私は、盛大な会を讃えた。
 その時、彼はこれまたボソリと、 
「無理してでも、アンタにはあそこにいて欲しかったんだ」。
 彼の想いがビンビン伝わった。
つい、「ありがとう」と言っていた。
 



  市内『館山公園』 遠景は昭和新山
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