ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

子どもらに すくわれ

2019-07-26 12:33:04 | 教育
 車で出掛けた朝のことだ。
小学校近くの交差点で、登校時の子ども達に出会った。

 赤信号で、停車している私の横の歩道を、
次々と学校に向っていった。
 どんな会話をしているのか、
ランドセル姿に笑顔がいっぱいだった。

 その明るい表情を、いつまでも見ていたかった。
それだけのことだ。
 なのに、今日がずっといい日になるように思えた。
ウキウキした気持ちになっている私がいた。

 あらためて思った。
「子どもと共にいる毎日って素敵だった。」
 教師としての月日、その幸運が蘇った。

 そうだった。
もう随分と過去のことになってしまった。
 40年もの長い時を、小学校と言う場で、
子どもと一緒に過ごした。

 思うように授業が進まず、イライラした時もあった。
荒れた学級を引き受け、
一時たりとも気が抜けない日々もあった。
 子どもの涙に、私の至らなさを教えられたこともあった。

 しかし、いつだって私を励まし、勇気づけ、
助けてくれたのは、あの子どもらしい明るい姿だった。
 校長職に就いてからの記憶をたぐってみた。


 ▼ 校長として最初に着任した学校では、
今までに経験したことのないことが、次々とあった。
 その驚きで、精神バランスが崩れかけた時もあった。

 初めて、その学校を訪ねた日、
真っ先に気づいたのは、
正面玄関に並ぶ児童用下駄箱の老朽化だった。

 戦後まもなくの物かと思うほど、
粗末で使い古されていた。

 校長になりたての私は張りきっていた。
「これを最初の仕事にしよう。」
 そう思い、教育委員会へ要望をした。
当然、『新規児童用下駄箱の購入』であった。

 数日を置いて、教育委員会の担当者がやって来た。
その反応の早さに驚いた。

 「私らも、下駄箱の古さを気にかけていました。
学校からの要望を待っていたところでした。」
 そんな回答だったので、その後は順調に進んだ。

 約1ヶ月足らずで、正面玄関の広さにあわせた、
オリジナルの全校児童数分の下駄箱が、
運び込まれることになった。

 その前日の職員朝会だ。
私は、少し胸を張って、
新しい下駄箱に替わることを先生方に伝えた。

 ところが、その反応は予想外だった。
強い口調の質問が次々と私に向けられた。
 「いつ、誰が決めたんですか。」
「職員会議の了解がないまま進めたのは、
約束違反ではないでしょうか。」
 「校長1人で決めるなんて、
それはできないことだと思うが・・。」
 
 古い下駄箱を新しくする。
そこに、どんな難しい問題があるのか、
私には考えが及ばなかった。
 
 やがて分かった。
一部の先生から上履き不要という意見が出ていたのだ。
 継続検討になっていた。
そんな経過があったことを知らなかった。

 その先生方は、校内も土足のままでいいと言う。
それで、学校内が汚れることはないと主張した。
 だから、上履きも下駄箱も要らないと言うのだ。

 私は、学校内で上履きを使用するのは、
当たり前のことと思っていた。
 なので、なんのためらいもなく下駄箱を新しくしようとした。

 今さら、後戻りできなかった。
厳しい批判を浴びながらも、
翌朝までに正面玄関の児童用下駄箱は、新しい物に入れ替わった。

 そして、その朝だ。
登校してきた子ども達が、正面玄関を入った。
 自分の上履きが、新品の下駄箱にあった。
明るい歓声が玄関のあちこちで、こだました。

 「先生、新しい下駄箱だよ。」
そう叫びながら廊下を走り、
教室へ向かう子どもが何人も現れた。

 その日の放課後、今度は何人もの担任が、
新しい下駄箱に児童氏名の札を貼っていた。

 その後、先生方から、
新しい下駄箱への批判めいた意見を聞くことはなかった。
 朝の子ども達の歓声が、大きな力になったに違いない。 
   
 
 ▼ 給食を終えた昼休みに、
校庭の真ん中で、その事故は起きた。
 すぐに校長室の私にも連絡がきた。 

 沢山の子ども達が、その子を囲んでいた。
私は、子どもをかき分け、その子に近寄った。

 6年生の男子だった。
青ざめが顔で、痛みにじっと耐えていた。
 「そのまま、動かないで!」。
いつも穏やかな表情の養護教諭が、
張り詰めた声でくり返していた。

 状況が全て飲み込めた訳ではなかったが、
大怪我らしいと分かった。
「救急車を呼びましょう」。
 私は、即決した。
「でも、校庭の中までは・・」
 「構いません。それよりも動かさない方が・・」

 しばらくして、救急車がその子の間近まで近寄り、
大きな病院へ搬送した。

 右足大腿骨の骨折と分かり、緊急手術が行われた。
絶対安静でベットから動けない日が、1ヶ月以上も続くことになった。

 校庭に出てすぐ、男子数人で鬼ごっこが始まった。
鬼に追いかけられ、全力で逃げ、向きを変えた。
 その時、足が滑り、転倒した。

 何人もの子が、その時の様子をそう話した。
怪我した本人も、同じように言った。

 当初、私もその怪我の大きさと状況に開きがあり、
鵜呑みにできなかった。
 一緒に遊んでいた子だけでなく、
その時校庭にいた他の子たちにも尋ねた。
 同じ説明ばかりだった。

 しかし、両親は、そんな説明に納得しなかった。
「校庭で転んだ。それだけで、
あんな大怪我をするもんなんですか。」

 みんなで口裏を合わせている。
そんな不信感まで臭わせる場面もあった。
 両親の思いも理解できた。
 
 私は、毎日病院へお見舞いに行き、
付き添う両親に、同じ説明をくり返すことしかできなかった。

 そして、
「もうその説明はいいです。信じられないんです。
お見舞いも遠慮してください。」
 遂に、そうまで言われた。

 私は沈んだ。
ついついため息をつくことが多くなった。
 両親の理解を得るための方法がなかった。

 そんなある朝だ。
いつものように、校門前で登校する子ども達を迎えた。

 すると、確か3年生の女子だったと思う。
「校長先生、これ上げる。」
 両手で差し出したのは、1枚の真っ赤に色づいた落ち葉だった。
「家の前にあった桜の葉っぱ。キレイだがら。」
 「そう、ありがとう。」

 明るい顔を私にむけた後、
一緒だった子と校舎へ向かった。
 その後姿から、2人の会話が小さく聞こえた。

 「喜んでいたね。よかったね。」
「だって、元気になってほしいもん。」

 涙を、必死でこらえた。
私は見られていた。
 小さな温かい心に、大きく励まされた。

 数日後、両親そろって来校した。 
そして、「校庭のどこで転んだのか。」
事故のあった場所での、詳しい説明を求めた。
 精一杯それに応じ、校長の責務に務めた。

 翌日、電話があった。
「十分に納得できました。
救急車の要請など適切な対応をして頂き、
ありがとうございました。」

 安堵とともに、
机上に置いた、あの真っ赤な一葉を見た。
 
 

   

 北海道で『アジサイ』は夏の花
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内  省 ~ い く つ か 

2019-07-20 19:47:08 | 思い
  その1
 毎日、楽しみにしているコラムに、
朝日新聞の『折々のことば』がある。
 鷲田清一さんが取り上げる名言・明訓の数々がいい。
また、その解説にいつも刺激を受けている。
 その中から、1つ目。

 【自由はある日突然なくなるものではない。そ
  れは目立たない形で徐々に蝕まれ、気がつい
  たときにはすべてが失われている
                  宮澤喜一

   かつて内閣総理大臣・自由民主党総裁を
  務めた人の言葉。戦時下の日々をふり返り
  まず思い出すのは、生活の困窮以上に、自
  由と批判への圧迫だったと言う。僅かな変
  調を軽く見たことが強権への全面屈服につ
  ながった。そしてこの「魔性の歴史」を二度
  とくり返すまいと、≪蟻の穴から堤も崩れ
  る≫という諺(ことわざ)を引く。
         『新・護憲宣言』から。】


 高名な政治家からのメッセージだ。
インパクトがある。

 『「まさか、まさか」と思っている間に、
戦争は始まってしまったんだよ。』
 小学生の私に、母がそう言っていたことを思い出す。

 確かに、蟻の穴を軽視してはならない。
でも、どれもこれも蟻の穴に見えたり、見えなかったり。
 蟻の穴を瞬時に見極める、そんな目がほしい。

 つい先日まで「グローバルな時代」「共存共栄」
「共生社会」などの言葉が躍っていた。
 ところが、「自国第一」が歩みはじめ、止まらない。

 それでいいのかと不安がつのる。
「でも待てよ、それは『蟻の穴』なのだろうか。」
 自問が続く。

 ニュースは、途切れることなく国内外の異様さをを伝える。
「もう、いや! わかりません。」
と、チャンネルを変えたくなる。
 でも、それはよそう。
だって、蟻の穴を知る貴重な手がかりになるのだから。


  その2  
 『折々のことば』からの2つ目である。
 
 【 虎の威を借る狐
                ことわざ

  虎に捕まった狐が、私は天帝の使い、私
 を食えば天帝の意に背くことになると虎に
 偽る。そして、私について来るがいい、み
 な逃げだすからと、虎を引き連れて歩むと、
 他の獣たちはその虎に怯え、逃げ去ったと
 いう故事による。したり顔の狐だったが、
 本当に怖いのは狐の狡知ではなく、狐がそ
 のうち「威」を借りていることを忘れ、自
 分が真に強いと思い込んでしまうことだ。】


 古い記憶が蘇った。
わずか1ヶ月足らずの実習経験しかない若者が、
はるか北海道から上京し、教壇に立った。
 そして、まばゆい笑顔の子ども達から、
『先生』と呼ばれた。

 毎日そう呼ばれて、私は有頂天になった。
全てが未熟なのに、先生気取りで毎日を過ごした。
 子ども達との夢のような時間を送った。
完璧に『先生』という『虎の威』を借りての日々であった。

 今だって、思う。
「はじめは、それでいいんだ!」。
 その『虎の威』があるからこそ、
若い先生たちは、教育活動ができる。
 それに、救われていい。

 でも、いつかは『虎の威』を借りない教師になろう。
それを目指すのだ。

 さて、あの頃から私は、まもなく50年になる。
ずっと『先生』と呼ばれてきた。
 退職してからも、伊達に移住した今も、
「先生」と、私を呼ぶ方が時折いる。

 鷲田さんは言う。
『本当に怖いのは、・・「威」を借りていることを忘れ、
自分が真に強いと思い込んでしまうことだ。』
 
 ドキリとした。
思い込んでなどいないつもり。
 だが、確信が持てない・・・。


  その3
 北海道新聞に『いずみ』という読者投稿欄がある。
家内が参加している朗読ボランティアサークルが、
そのコラムを録音し、視覚障害の方に届けている。
 なので家内は、欠かさずその欄に目を通している。

 もう半年も前になる。
家内に勧められ、
その日の『いずみ』にあった一文を読んだ。
 心に残った。

 滝川市の64歳女性からの投稿だ。
題はズバリ、「校長先生」だった。

 【 娘が小学校の低学年のころ、
当時の校長先生にせっせと手紙を書いていた。

 子どもたちの間でブームだったのだろう。
ちょっと小耳に挟んだだけでも、何人かが書いているようだった。

 返事をいただくと、子どもはうれしくて、
すぐにまた手紙を書く。
 校長先生は、さぞや大変なことだろうなと思いながら、
「迷惑だからやめなさい」とも言えず、
「もう少し日を置いてから返事を書けば?」
と娘に促したくらいで、
後は校長先生に、げたを預けていた。

 娘が高校生になり、大学生になっても、
季節のあいさつ程度だったが、
手紙のやりとりは続いていた。

 いつのころからか、校長先生からの返事は、
美しい絵手紙になっていた。
 実は、この絵手紙が私を大いに喜ばせてくれた。
時々、娘から取り上げては玄関の小さな額に収め、
満足していた。
 
 教員の過剰な時間外労働が問題となっている昨今。
先生方の情熱と善意に支えられて成り立っているというクラブ活動や、
居残り学習などのほかに、
子どもたちとの文通まで受け止めてくださったことに、
いまさらながら、おわびと感謝を申し上げたい。

 今年も校長先生から、
街並みをスケッチしたすてきな年賀状が娘に届き、
90歳になられると記されていた。

 退職しても、90歳になっても、
校長先生の“時間外労働”は続いている。 】

 先輩校長の素晴らしさが、
筆者の柔らかい視線を通し、私に浸みる。

 現職の頃も、退職後も、そして90歳の今も、
子どもに寄り添いながらの日々が続いている。
 それを、垣間見ることができた。

 到底、足元にも及ばない。
1人2人ではない。
 先輩らの確かな営みだと思う。

 そんな時間外労働に学びたい。
私なりのやり方で、後ろ姿を追うことにする。



  

 オカトラノオが花盛り <だて歴史の杜 野草園>
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まだ 中々・・ だが

2019-07-06 20:32:17 | あの頃
 まずは、本ブログの2017年7月8日「真相はどこ」から、
その書き出し部分を添付する。 

 【3年前の7月7日に、表題『ブログをはじめます』で、
このブログを開いた。
 その翌々日、表題『ジューンベリー』で、
本格スタートとなった。
 以来、週1回の更新を基本とし、
今回で160回にわたり、私の想いを綴ってきた。

 確かな数字はつかめないが、
読んでくださっている方々が、間違いなくおいでになり、
時には手紙や葉書、メール等々が届く。
 私の大きな励みになっている。

 ブロク開設にあたり、『シンボルツリーはジューンベリー 
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして』、
こんな言葉で、このブロクのテーマ説明を試みた。

 しかし、それが様々な理解を呼んだようだ。
今日までの私の歩みの、ちょっとした拾い物を、
置き忘れないようにしたい。
 そんな思いを説明したつもりだったのだが・・・。

 それにしても、この3年間で記した「拾い物」は、
様々だった。
 しかし、まだ拾い忘れている大切なものはあるような気がしている。

 これからもその1つ1つを私なりのやり方で、しっかりと掌に載せ、
形を整え、このブログに載せていきたいと思う。】

 そして遂に、今日、丸5年の節目を迎えた。
「1つ1つの積み重ねが、ここまで・・。」
 大した1歩ではないにしても、やはり継続はすごい。
私の何かを変えたような気がする。

 『人生は自分探しの旅』。
その言葉に何度か出会ってきた。

 まだまだ私自身を見つけ出せてはいない。
でも、「忘れ物を拾い」ながら、書き綴った5年だった。
 だからか、少しだけ「私理解」が進んだように思う。

 許してはいけないこと。もう許してもいいこと。
宝物にしたいこと。捨ててしまってもいいこと。
 そんな色々な色分けが、少しはできるようになったかも・・。

 さて、ずっと「いつかは」と頭の片隅にありつつ、
話題にできないままにしてきたことがある。
 まだ中々立ち入れないが、
少しずつでも記して行こうと思う。

 まずは、1981年、82年、83年の年賀状に添えた、
4つの詩を載せる。

    今日も前へ

 冬の日陰から
 太陽を求めて
 ローラースケートと三輪車が
 這ったり 引きずったり

  安らぎの隙をついて
  息子を襲う 喘息
  やっと“パパ!ママ!”と
  訴えて せき込む時間
  吸うことと吐くことの不協音が
  ヒュ-ヒューゼーゼーとくり返し
  無力が私の胸と脳裏をかけめぐる
  なすすべもなく ただ背中をさすり
  苦悩する暗い寝室

 すりむいてでも 両手をついてでも
 明るい陽差しの所まで
 きょうも 四人
 足並みそろえて進みたい
 あんな夜が
 遠い語り草になる日を祈りながら
             (1981年)


    期待と共に北の空

 ランドセルと園児カバンが
 パパを送り出し
 明るい陽差しの下を
 踊りながら 登校する姿が
 窓辺に映る時
 ママとチビが
 白いセリカで動き出す

 そんな生活の隙間の日
 収穫を終えた田に
 客土の時まで積もりに積もった
 根雪の美しさを
 初めて見る目と
 六年ぶりの目が
 北の空へと飛び立った

 北は寒いだろう 雲は重いだろう
 地上は凍てついているだろう
 そして
 その空気を胸いっぱい
 吸い込んだ時
 息子の体はどうなるのだろう
 私らは 勇気をふりしぼり
 「パパ ママ
 ボク 力ついたでしょう」の
 言葉を待って
             (1982年)


    うつむかないで
        六月 再入院の一コマ

 人参畑の広がる
 台地の中に
 近代的な病棟が一つ
 長男はそこの患者となった
 たった二時間の面会時間

 孫の急病に
 七十五の祖母が空路を急ぎ
 二男と保育所から家路に
 六月の夕陽は
 やさしく二つの影を伸ばしてくれた

 夕やみの畑道で
 私は
 ふとふり返った
 非常口の明かりの下で
 じっと
 私を追う長男
 小さく手をふり
 そっと涙をかくしてた 
            (1983年)


    軽やかに一日
        十一月 運動会の風景

 早朝の台所が 
 いそがしく のり巻き
 にぎやいだ

 ママと手をとり
 ゴールをめざす
 赤リボンを胸に
 初めてだと明るく語る長男

 半袖半ズボンで
 真剣にかけだし
 やがて顔から転倒
 土色の頬のまま
 一等賞だと
 自賛してみせる二男

 ああ健康
 私はそって指をおり
 何年ぶりだろうと
 空を見上げる
             (1983年)


 この4つの詩は、長男が6、7、8歳、
二男が3、4、5歳の頃のものだ。
 あれから、40年が過ぎようとしている。
でも、忘れられない日々である。

 長男に喘息の発作が始まったのは、
4歳になってからだった。
 次第に、発作をくり返すようになった。
しかも、深夜に症状が悪化した。

 車で15分程の病院が、24時間受け入れてくれた。
喘息発作を止めるため『吸入器』で、治療薬を吸った。
 それでもダメな場合は、2時間程度の点滴をした。
長男の場合、そこまでの治療でほとんど回復した。

 深夜0時から3時頃までの時間帯だった。
彼への付き添いは、私が引き受けた。
 月に数回、そんな緊急処置をくり返した。

 それでも、次の朝になると、
長男は平気なふりして、保育所にも学校にも行った。
 だがら、若干寝不足でも、私も家内も出勤できた。

 その喘息発作は、年々重くなった。
「大きくなったら治るから・・。」
 周りからそんな励ましを受けた。

 でも、深夜に咳込み、発作で苦しむ小さな背中は、
今思い出しでも、涙が浮かんでくる。

 辛い思いをしている我が子を、
病院へ運ぶことしかできない私だった。
 二男の明るさに救われながらも、
無力感だけの私になっていった。

 そんな時、地域のミニコミ誌に、
『東洋医学で喘息を治療』。
 そんな記事があった。
私の団地から、すぐのところの医院だった。
  
 ためらいなど全くなかった。
長男の喘息が治るなら、その一心だった。
 長男を連れて、その医院へ行った。

 そこでの診察や処置が、
さらに病状を悪化させたのかどうか、
それは言い切れない。

 だが、私は父親失格とも言える。
今もその悔いが蘇り、胸を締め付ける。

 何の精査もせず、その医者を頼った。
あの頃、どこの小児科も内科も、
長い待ち時間を覚悟した。
 なのに、いつも待合室に人気はなかった。
私は、その不自然さに気づきもしなかった。

 その医者が勧めるまま、漢方薬を煎じた薬を、
朝夕と飲ませた。
 その耐えがたい苦さを我慢し、
長男は何も言わず、飲み続けてくれた。

 それでも一向に発作は減らなかった。
それどころか、長男は次第に痩せていった。
 その異変に気づいたのは、
半年以上も過ぎてからだった。

 慌てて以前のかかりつけ医院へ行った。
長男の様子を診た医師は
「あの先生は、何を考えているのか・・」
と、絶句した。

 今も自責の念に縛られたままだ。

 長男の喘息に関しては、これだけに留まらない。
いつかの機会に、書き加えることにする。


 

  花菖蒲が咲いていた(歴史の杜公園)

        ※次回ブログ更新予定は 7月20日(土)です
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