ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

23春 東 京 滞 在 記

2023-03-25 14:50:51 | 思い
 ①
 5年間、小学校に併設されていた幼稚園の
園長を兼任していた。
 その園が50年の節目と共に閉鎖することになった。

 公立私立を問わず、S区内幼稚園の無償化が始まった。
その影響で、2年保育の公立園から、
3年保育の私立園へと、選択の流れが一気に加速したようだ。
 それで、園児数が激減し、今年度をもって閉園となった。

 なので、幼稚園と教育委員会連名の閉園式案内状が届いた。
その封筒には、小さな短冊が入っていた。
 『新型コロナ感染予防のため、
式は30分程度の予定・・』とあった。

 「30分の式へ列席!」。
そのための上京に、若干のためらいがあった。

 しかし、『閉園』の重みを感じた。
もう2度と立ち寄れない。
 園児もいない。
園舎にも入れない。
 そう思うと、50年の一端を刻んだことを偲びたくなった。

 3月18日午前10時の開式に合わせ、
小学校の正門を通り、受付に行った。
 そこで、式次第と閉園記念誌を頂いた。

 てっきり来賓控室へ案内があるものと思っていたが、
そのまま式場へと言われた。
 これも、コロナ対応の簡素化なのかと思った。

 式場中央の席には、在園児と保護者、
区内公立幼稚園の現職員・旧職員がすでに座っていた。

 来賓席は、右手に10数脚ずつ3列あり、
それぞれに名札が貼ってあった。
 
 卒園式や周年式典の場合、
歴代園長の席は来賓席の最前列にあった。
 ところが、ここでは3列目に私たち7人の名札があった。
違和感があった。

 その上、他の来賓は控室で待機し、
開式直前に入場してきたのだ。
 あきらかにコロナ対応ではなかった。
どうしてこんな差別化をしたのだろうか。

 園児が大きな声で歌う『ありがとう ようちえん』を聞き、
心動くまで、閉園を偲ぶことも忘れ、
釈然としない疑問を引きずっていた。 


 ② 3年ぶりに夜の銀座へ行った。
向かうは、『キリンシティー』だ。
 
 70才を過ぎた夫婦の来店だ。
店員さんに空席へ案内されると、すかさず訊かれた。
 「お客様、当店へは初めてでしょうか」。

 着席しながら私は「いえ、でも久しぶりです」と。  
すると彼は丁寧な口調で、
 「当店では、ご注文頂いたビールを3回に分けて、
グラスに入れます。
 従いまして、しばらくお時間を頂戴することになります」。
懐かしいフレーズだった。
 うなずきながら、何故が嬉しくなった。

 この店は、キリンビールのビアホールレストランだ。
「キリンラガー」や「一番搾り」が定番だが、
このチェーン店でしかお目にかからない
「ブラウンマイスター」と言う銘柄が私は好きだった。
 
 店内は以前と変わらないが、
タッチパネルで注文することだけが違っていた。

 季節のメニューからホタルイカの和え物、
他に鯛のカルパッチョ、ジャーマンポテトなども一緒に注文した。

 案の定、しばらく待った。
そして、キリンシティーオリジナルのグラスに注がれた
「ブラウン~」が2つ、テーブルにきた。
 すぐにグラスを掲げ、
「グイッグイッ! グイッグイッ。
ううん、美味い!」。
 3年ぶりの美酒に、のども心も潤った。

 この店ならではのホタルイカ、鯛、ポテトの味を、
ゆっくりと堪能し、2杯目3杯目と注文した。

 ふとガラス張りの2階から外を見た。
人通りが絶えない道をはさんだ喫茶ルノアールからは、
いつもと同じ明かりがこぼれていた。

 そして、満席で賑わう店内に目を移すと、
カウンターの一角で、仕事帰りと思われる女性が1人、
肩肘をつきながらビールグラスを手にしていた。

 30歳代から時々利用していた店である。
刻一刻と進化する銀座だが、
知った当初からずっと、ちょっと小洒落た都会の空気感があった。
 きっとそれに今も惹かれているのだと思った。

 
 ③ 独身の長男が、世田谷区内にマンションを購入して4年になる。
5泊6日の内、3泊をさせてもらうことにした。
 初めてのことだ。

 小田急線沿線の住宅街だが、ベランダのすぐ前には農園があった。
地元の農家さんが、様々な青果を栽培し、
一角にはコイン販売機まで置かれていた。
 エプロン姿の女性が自転車を止め、野菜を買っていた。

 ところが、マンションの玄関前はと言うと、
道幅の狭いバス通りで、ガードレールで区切られた歩道は、
人がやっとすれ違える広さしかなかった。
 そこを車が頻繁に行き交い、
通勤通学の自転車が忙しく通り過ぎていた。
 
 長男は言う。
「隣りはセブンイレブン。
向かいにはコインランドリーとクリーニング屋。
 買いだめなんていらない。
洗濯物は干す手間もいらない。
 便利なもんさ」。

 マンション内は、都会のけんそうが遮断され、
部屋では2匹の愛猫が待つ暮らしである。
 伊達と変わらないゆったりとした時間が、室内を流れ、
毎晩、なんの違和感もなく眠りについた。

 ところが、早朝散歩へと玄関を一歩出ると、
そこは、すでに車と自転車が途切れることなく流れていた。
 隣のコンビニ駐車場には、
工具を積んだ車や小型トラックが何台も並び、
作業着姿の人たちが、足早に店を出入りしていた。
 
 東京は、目覚めと共に活気づき、
人々は違和感なくそのエネルギーに従っているところだった。
 そして、暮らしの中にあるオンとオフが、
隣り合わせなところだとも・・。
 そんな都会の刺激がちょっと懐かしく感じたり・・。


 

    もうはや 咲き始めた!
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梅 ! 桜!・・・ あ れ こ れ 

2023-03-11 12:25:13 | あの頃
 当地にも春の足音が聞こえ始めた。
根雪がとけた地面からは、福寿草の黄色、
蕗のとうの緑色が顔を出した。
 もうすぐ、色とりどりのクロッカスも、
現れるだろう。
 
 さて、本格的に春を告げる花は、梅と桜だろう。
東京近郊では2月下旬から梅、
桜は3月下旬から4月上旬に咲く。
 この2つの開花前線は、北上の早さに違いがある。
なので、北海道へはゴールデンウィークの頃、
同時に上陸し、一緒に満開する。
  
 2つの花見にまつわる思い出を綴る。

 ① 8年前の2月下旬だ。
当地は、雪に覆われていた。
 初孫誕生の知らせを受けたのは、
洞爺湖の温泉街にある小ホールの出入口でだった。
 農閑期だけ演奏活動をする
農業関係者のオーケストラを聴いた直後、その電話があった。

 帰宅してすぐ、翌日のフライトとホテルの手配をした。
早朝、家内は赤飯を炊いた。
 それを重箱に詰め、息子らが暮らす船橋市内の産院へ向かった。

 昼過ぎ、駅から徒歩10分程度と聞いた道を急いだ。
その途中に海老川橋があった。
 橋のたもとで、1本の紅梅が満開を迎えていた。

 一面真っ白な雪景色ばかりの私に、
梅の紅色は華やかで素敵だった。
 思わず急ぐ足を緩めた。
立ち止まって、もう一度見た。
 「これから初めて会う孫は、きっと幸運に恵まれる」。
そう信じた。

 横にいた家内に、
「この梅の花は誕生の贈り物のようだ。記念の景色にしょう」
と提案した。
 再度、しっかりと脳裏に焼き付けた。

 当地にも、ほうぼうに梅の木がある。
開花の時期を迎えると、花見に足が向く。
 なかなか会えない孫だが、
幸運を信じたことを思い出すことができるのだ。
 
  
 ② 教職について15年が過ぎた時、
1年間学校を離れて研修する機会に恵まれた。

 研修期間が終わる頃、都立A病院を視察した。
この病院は、10年程前に閉鎖になったが、
主に児童精神科診療を行う精神科病院だった。
 当時としては珍しかったが、
その病院内に都立S養護学校の分教室があった。
 入院していても、子ども達には学習する場が
整っていた病院だった。

 その分教室での指導の様子を見せてもらった。
様々な子どもが学んでいた。
 15年間、通常学級での指導しか経験のない私には、
あまりにも難題の多い指導場面ばかりだった。
 次第に気持ちが沈んだ。
そのまま病院を後にした。

 最寄り駅までの通りに、
「梅まつり」と書いた赤いのぼりが、
何本もあることに気づいた。
 きっと気分転換がしたかったのだろう。
のぼりに導かれるように、
梅林のある公園の坂道を登った。

 「梅まつり」のわりには、人出はまばらだった。
公園のいたる所、小道の両脇で紅梅も白梅も開花し、
咲き誇っていた。
 私の背丈ほどの満開の木からは、
いい匂いがそっと漂ってきた。
 
 近くで、春色のコートの女性が、
ちょうと背伸びをして手を伸ばし、
小枝を顔に近づけ香りを楽しんでいた。
 映画のワンカットみたいで、印象的だった。

 右へ行っても、左でも、
前も後ろも、赤と白の梅だった。
 次第に足どりも気持ちも軽くなった。

 駅までにどれだけの時間、寄り道したのか忘れてしまった。
でも、その駅名が『梅ヶ丘』なことだけは、ずっと覚えている。

 
 ③ 移住した翌春、北上する桜前線が、
北海道へ上陸したニュースが流れた。
 以前から「桜は松前」と聞いていた。
勇んで向かった。

 函館からは予想以上に時間がかかった。
左手に津軽海峡を見ながらの長距離ドライブだったが、
松前城公園に着いた。

 桜の種類が豊富とかで、開花の時期が微妙に違っていた。
なので、満開の木もあれば、すでに散った木も、
まだ蕾のままも。
 
 一面の桜が一斉に咲き誇るのを期待していたので、
消沈した。
 「致し方ないこと!」。

 前年に見物した千鳥ヶ淵のソメイヨシノを思い浮かべながら、
長い長い帰路のハンドルを握った。

 翌年、また期待外れでもいいと覚悟して、
今度は、函館の五稜郭公園の桜を見に、愛車を走らせた。
 ソメイヨシノ1500本が、星形のお堀の内側と外側で、
一斉に咲いていた。

 五稜郭タワーに上り、見下ろすのもいい。
お堀にそって間近で、同じ背丈の桜を見上げながらの、
散策もいい。
 春の青い空と桜色の美しさを、十分に堪能できた。

 帰り際、その一角で花見の宴席を準備しているところを見た。
ガスコンロの上にのっていたジンギスカン鍋だった。
 北海道らしさに、つい微笑んでしまった。

 
 ④ 車通勤をしていた先輩の先生から、こんな誘いがあった。
「私の団地を出てしばらく行くと、道の両側が桜並木なんだ。
 今は、桜のトンネルがずっと続いて、
運転しながらでも見ごたえがあるんだ。
 どう桜見物に行かない!」。

 長男が1才になる前だった。
なれない育児に追われていたが、
「ずっと続く桜のトンネル」に惹かれた。

 日曜日に待ち合わせ場所まで、
家内と息子を乗せて1時間ほど車を走らせた。 
 同じ学校の同僚家族4組が集まった。

 『桜まつり』の最中だった。
桜のトンネル道では、地元小学生が鼓笛パレードをしていた。
 その沿道で、私は長男を抱きかかえながら、
パレードと満開の桜を交互に指さした。

 息子が、私の誘いに気づき、
指さす方を見たかどうかは忘れた。
 でも、開花した桜並木の人混みの中で、
小さな我が子に語りかけながら、
抱きかかていた新米パパを思い出すことは、今もできる。

 千葉県松戸市常盤平駅付近の3キロも続く「さくら通り」では、
あれから50年が過ぎる今年も『桜まつり』があるらしい。

  


      春  春  春だっ!
                 ※ 次回のブログ更新予定は 3月25日(土)です。
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『アイテム』を片手に 

2023-03-04 14:12:25 | 思い
 どこまでも澄んだ大空
 すぐそこの濃い山々
 急き立てられない時の流れ
 本来の営みを手に
 ここで一歩 また一歩
 確かな想いを刻んでみたい

 上記は、11年前の6月、
当地に移住してすぐに書いた詩の一節だ。

 「自分らしさとは何か」。
「自分は根本的に何を求めているのか」。
 そんな直球を投げて自問するほど、若くはない。
でも、『自分探しの旅』は続くと新天地でも意気込んだ。

 だから、そんなテーマの公募があると、
日常を切り取り、エッセイにして郵便ポストに入れた。
 時に「佳作」や「入賞」の知らせを受けた。
なのに、次第に満たされなくなった。

 2年が過ぎた14年7月、
『ジューンベリーに忘れ物』の題で、
ブログを書き始めた。
 週1回の更新を、私に課した。 

 特別の評価が得たかった訳じゃない。
誰かがきっと読んでくれると信じた。
 それでよかった。
それを、励みにした。

 「想いをブログに託す!」。
不思議だったが、満たされていることに気づいた。
 「自己顕示欲!?」なのかも知れないが、
それよりも、書くことで何かを確かめられた。

 当初は、話題はあっても構成が決まらず、
書き始めるまでに時間がかかった。
 時には、途中までで立ち止まり、
一字も進まなくなった。

 週一ペースに、不安が大きくなったこともあった。
更新予定日までに書けなかったらと、
何日も前からブログで頭がいっぱいになった。
 何も手に着かない時期も・・・。
でも、毎週の彷徨を経て、徐々に要領を会得した。

 やがて、編集社から依頼があったかのように、
週刊誌に連載するエッセイスト気取りで、
金曜日にはキーボードを叩いた。

 ブログ記事が100件に達した頃だ。
丁度、フルマラソンへ初チャレンジするため、
練習に力が入っていた。
 その熱量をブログに載せた。

 毎年、年賀状のやり取りだけの方から、
大会間際に葉書が届いた。
 『3月に主人も東京マラソンを完走しました。
・・・・頑張ってください』とあった。
 
 ブログでマラソン出場を知ったとは書いてなかった。
読んで下さっているとは思ってもいなかった。
 でも、ブログがつないでいることが嬉しかった。
くり返しくり返し目を通した。
 力が湧いた。

 1枚の葉書の向こうに、何人もの声援を感じた。
それを背に、洞爺湖を一周し42キロをゴールした。
 
 これに限ったことではない。
次々と思いがけないドラマを、ブログは運んできた。
 その度に、新しい想いが生まれた。

 ブログは日々の私に欠かせないアイテムになった。
やがて、暮らしにしっかりと根付いた。

 さて、8年8ヶ月が流れた。
今日、ブログ記事は400件目に達した。 
 
 今年の正月、年賀状にはこんな詩を添えた。
  *     *     *     *
     二  月  
  
 日記を広げる前に
 必ず鉛筆を削る
 今日の温もりを思い浮かべながら
 古いけずり機をグルグルグルグル
 気づかないほどだが
 削りくずの分だけ短くなる
 いつか握れなくなる日が

 朝の洗顔を済ますと
 蛇口はそのままで
 眼鏡レンズの汚れを流す
 ティッシュで水滴と一緒に
 時には前日の失態も拭きとる
 引き出すのは1枚だけだが
 いつか空の箱になる日が

 そんな「いつか」はずっと先でいい
 と願った二月
 無残な映像が流れ
 ひまわりと麦畑の大地と空を
 砲弾が飛び交い
 望まない悲しみと憎しみの連鎖が続く
 だから
 その日から終わりの祈りが加わった
  *     *     *     *

 「先行き不透明な時代」と言う古い言葉が、
今も生き続けている。
 誰が言い出したのか『新しい戦前』が、
日に日にリアリティーさを増している。

 そのような時に、
制度でしかない『後期高齢者』に
くくられる年齢を、私は迎えた。

 『「いつか」はずっと先でいい』と思いつつも、
『削りくずの分だけ短く』なった鉛筆は、
『いつか握れなくなる』としょげた。

 毎朝ティッシュペーパーを
『引き出すのは1枚だけだが』、
『いつか空の箱になる日が』と肩を落とした。

 しかし、私は今・・・。
これは何へのレジスタンスなのか。
 「このままでは終われない!」と強く思う。

 老兵にできることはわずか。
それでも、しょげたり肩を落としたりしたくない。

 それよりも、私の「アイテム」を片手に、
「まだまだ」と叫びながら、キーボードを叩きたい。
 決して困難な時代から目をそむけないで、
1人の目撃者として想いを1つ1つ綴り続けようと思う。

 『自分探しの旅』は、ブログ記事「500件」へ向かう。




  なに見てるの? ~「歴史の杜公園」の朝 
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