ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

光の春 朝のジョギング語録

2019-03-23 19:22:26 | 北の湘南・伊達
 伊達の町から、すっかり雪が消えた。
まだ朝夕の風は冷たいけど、陽光は春である。
 そんな日差しを待っていたのか、
戸外に人の姿が増えてきたように思う。

 私も、3月の声と共に、
ジョギングの場所を、体育館のランニングコースから、
路上へと変えた。

 毎朝とはいかない。
週に3,4日、5キロか10キロをマイペースで、
ゆっくりと走っている。

 くり返しになる。
私が走る道々にも、すれ違う人、見かける人が、
徐々に増えてきた。

 見知らぬ人であっても構わない。
走りながらだが、出会った人へは必ず挨拶をする。
 すると、走り抜ける私へ、挨拶と一緒に、
時々、何か声をかけてくれる方がいる。

 走り抜けるわずかな時間だ。
そこでの言葉のキャッチボールは、
二言三言、いや一言二言だ。

 早春のそのやり取りを、いくつか紹介する。

 ①
 歩道の雪融けが進んだ。
「これなら走れる。」
 そう思って、快晴無風の朝を選んで、
今年初めての路上ジョギングへ出た。

 まだ、畑には雪が残っていた。
厚手のトレーニングウエアーにニット帽、手袋で、
ハアーハアー、ハアーハアー。
 吐く息は、まだ白い。

 しかし、大きな青空、真っ白な山々、まっすぐな道、
久しぶりの景観だ。
 その広大さに魅せられながら、足を進める。

 そして、約30分、5キロを走り、自宅が見えた。
その十字路で、愛犬と散歩する知った顔の奥さんと出会った。
 走りながら私が、先に挨拶をした。

 すると、
「ようやく春めいて、いい天気。今日が走りはじめ・・?」
 確かにその通りだ。でも、「走りはじめ」を・・。
よくそんなことまでと驚く。
 そして、次に、
「あら、奥さんは・・?」
 とっさに、
「今日は、ひとりです。」
 「そう、まだ寒いから、それはそれは・・。」

 やり取りは、そこまでだ。
私は、小さな十字路を横切り、
奥さんに背を向け、
変わらないテンポで、我が家へと走った。

 今までにあの方と、何回言葉を交わしただろう。
記憶をたどった。
 1回か、2回だろうか。
こんな長いやり取りは、今日が初めて。

 きっとこれを機に、
距離感が短くなるだろう。

 自宅に着くなり、家内に
「・・それはそれは・・。だって」
笑顔で教えた。

 ②
 歩道の雪融けが進んでも、
北側の道端には、雪かきでできた雪山が残っている。

 そのままにしておいても、やがてその雪山も消える。
だが、多くの家々では、天気のいい日に、
その雪を路上にまき散らす。
 雪山を崩し、雪融けを早めるのだ。

 朝から好天だった。
明るい日差しに促され、久しぶりに10キロのジョギングに出た。
 その途中だった。
 
 車道と歩道の間にある街路樹の並木にそって、雪山が残っていた。
その雪山に上がり、スコップで車道に雪まきをする方が見えた。
 2、3度、雪を放ると休み、また放っていた。

 次第にその姿が近づき、ハッキリした。
真っ白なタオルで、キリリと頭をおおっていた。
 しかし、私より明らかにかなり高齢の老人だ。
休み休みの作業テンポが理解できた。

 その歩道を走り抜ける時、
私は、何のためらいもなく口にした。
 「おはようございます。無理しないで。気をつけて!」
優しい声で、ねぎらいを込めた。

 老人は、スコップをとめ、
雪山からじっと私を見下ろした。
 そして、走り抜ける私の後ろ姿に向かって言った。
 
 「あんたもな、・・無理しないでな!」

 その声は、ハッキリと私に届いた。
ねぎらいの返礼だと思う。
 素直に、右手でも挙げ、それに明るく応じればいい。

 しかし、私よりずっと高齢の方からの、
「あんたもな」に、ショックを受けていた。
 急に、足が止まりそうになった。
 
 あの朝、老人の言葉を激励と思い直すまで、
随分と時間がかかった。

 ③
 伊達ハーフマラソンまで、3週間余りとなった。
例年、この時期は、市内を走るランナーが増える。
 みんな、その日に備えて頑張っているのだ。
そんな姿に、私は励まされている。

 ハーフマラソン4キロ付近から約5キロのコースは、
伊達サイクリングロードと呼ばれる道幅3メートル程の遊歩道である。

 つい先日、その道まで足を伸ばした。
マラソンコースの一部とあって、
スイスイと走るランナーが私を追い抜いていった。
 そして、また1人。

 そんな軽やかな後ろ姿を見ながら、
私はいつもと変わらず、マイペースでチリリン橋で折り返す。

 そして、ついさっきUターン前に、
挨拶をしながら追い抜いた散歩の男性とすれ違った。
 同世代だと思った。

 「伊達ハーフ、走るの?」
走りながら、私はうなずく。
 「走ってみたかったなあ俺も。頑張って!」
無言で、もう一度大きくうなずいた。

 軽快な走りにはほど遠いが、
足どりが心持ち速くなった。
 こうして走っていることに、幸せ感が加わった。

 それから1キロも行っただろうか。
同世代の女性が2人、笑顔で話しながらの散歩だった。
 次第に近づいた。

 私の「おはようございます」に、話しながら笑顔で会釈した。
その会話が、すれ違う私の耳に小さく届いた。

 「ここ、マラソンのコースだから・・。」
「走るのかしら、今度・・。」
 「その練習よ、きっと・・!」
「頑張るわね。すごいね。」

 それ以上は、聞き取れなかった。
しかし、近くには私しかランナーはいない。
 すると、「あの会話は私のこと・・!?」。
そう類推した。
 急に心も体も弾んだ。
呼吸が苦しくなり始めたことも忘れて、足が前へでた。

 さて、どれだけ走ることができるか。
不安だけが先行している。
 しかし、同世代のさり気ないエールを耳にした。
「よし、今年も頑張ってみよう。」
 そんな気に、私をさせてくれている。





 歴史の杜公園 せせらぎの小道も早春
 
      ※次回のブロク更新予定は、4月6日(土)の予定      
    
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何ができる? ~立ち止まりつつ

2019-03-09 17:30:54 | 思い
 3,11から8年になろうとしている。
今年もここ数日、『被災地の今』などと題した特集が、
テレビ報道で流れてくる。

 『復興した町や宅地』の一方で、
一向に変わらない、さらに深刻さを増すものがあり、
暗い気持ちになる。

 それに比べ、大都会・東京を中心に、
1年数ヶ月後に迫ったオリンピックに向け、
準備が急ピッチで進んでいる。

 その建築ラッシュの槌音に、
釈然としないギャップを感じるのは、私だけだろうか。

 それはさておき、
過去の自然災害から、有事への備えの大切さは、身にしみている。
 しかし、何ができるか。つい立ち止まってしまう。
今は、小さな経験からの陰と陽を記すことしかできない。

 
 ① 毛布も ない!
 まだ30歳代のころ、1986年11月のことだ。
伊豆大島の三原山が噴火した。
 観光の島である。
噴火当初、物珍しさもあって観光客が押し寄せた。
 ところが、同月末、予想外の大爆発がおきた。

 その日、テレビニュースは、
大噴火の被害と島民の避難の様子を知らせた。
 それは尋常の事態ではなかった。

 夜10時からのニュースは、いの一番に伝えた。
「ついに伊豆大島に、全島避難の命令が出ました。」
 切迫した様子の口調だった。

 「全島民が、これから船で東京に向かうんですね。
大変なことです。」
 キャスターは、驚きの表情を浮かべていた。

 そのテレビを観ていた私だが、
「他山の石」のごとくだった。
 いつものように、風呂上がりに寝酒を飲み、
おかわりのウイスキーをグラスに注いでいた。

 「東京に避難。」
そこだけは耳に残ったが、やはり他人ごとに変わりなかった。
 そのまま布団に入り、酒の勢いもあり寝入ってしまった。
  
 ところが、深夜だった。
電話の音に起こされた。
 受話器を取ると、これまた眠たそうな声だった。
勤務校の教務主任からだ。ビックリした。

 「伊豆大島から避難してきた船が、H埠頭に着くんだって。
その後、その人達は歩いて、うちの学校の体育館に入るんだそうだ。
 だから、その人たちをむかい入れる準備をするんだってさ。  
私も、これから学校に向かいます。
 先生もできるだけ早く学校に来てくれない。
車なら1時間位で来れるよね。
 よろしくね。」

 急に、伊豆大島の全島避難が身近になった。
予期しない連絡に、一気に鼓動が高鳴った。
 家内をおこした。
お風呂を追い炊きし、酔い覚めに汗を流した。
 そして、高速道路をマイカーで学校へ急いだ。

 校長も教頭も深夜に学校まで来る交通手段がなく、
指揮は、区の若い職員と教務主任が当たっていた。
 駆けつけた教職員は、数人だった。

 学校に着くなり、私へ指示があった。
「避難用の毛布が学校のどこかにあるはずだから、
それを探してほしい。」

 学校中のあらゆる部屋を探した。
倉庫や体育館の屋根裏まで、
埃をかき分けながら、考えられる全てを見て回った。
 しかし、どこにもそれらしい物がない。
時間だけが過ぎた。

 ついに伊豆大島の方々が、
のぼり旗を先頭に列を作って、学校に来た。

 毛布1枚、温かなお茶1杯用意できないまま、
3階の体育館へ案内した。

 着のみ着のままで船に乗り、やっと着いた東京の避難所だ。
その体育館は、明かりこそあるものの、他に何もない。
 まさかへの備えが何一つできていなかったのだ。

 「どうぞ、ゆっくり体を休めてください。」
決して、言えなかった。

 私は、迎える言葉もなく、
無言で体育館の入り口に立っていた。
 問われるままに、トイレや流し場を教えるだけだった。

 その体育館に毛布や非常食が運び込まれたのは、
昼過ぎだったらしい。

 学校は、体育館をのぞき、その日も平常授業だった。
いつもと同じように子どもは登校し、1日を過ごした。
 なので、避難してきた方々のその後は、ほとんど記憶がない。 
確かその日から数日を体育館で過ごしたと思う。

 しかし、あの時、何の準備もできずに、
伊豆大島の方々を迎えた無力さは、深く私の心に刻まれた。 
 今も、忘れられない。

 
 ② 信じて もらえない!
 校長職を終える3週間前に、3,11が発生した。
勤務校の区は、早々と区内の全小中学校を避難所にした。
 
 都内の全ての電車が止まっていたのである。
夕暮れとともに、
帰宅が困難な人々が私の学校にもやって来た。

 午後9時をまわり、近くの大型スーパーが閉店すると、
そこで電車の開通を待っていた人たちが大勢、避難してきた。

 職員総出で対応した。
私たちも初めての経験だった。
 なぜ9時を過ぎて、一気に人々が来たのかわからないまま、
毛布とペットボトルと非常食を配り、教室へ案内した。

 一晩中、情報は錯綜し、
情報の信ぴょう性を推し測りながら、
私は、職員へ指示し、避難所を切り盛りした。
 ずっと難しく未経験な局面が続いた。

 その様な中で、チョットした事件があった。
10時過ぎのことだった。
 制服を着た女子高生が1人、職員室のドアを開けた。
 
 厚手のハンカチで涙を抑え、無言で立っていた。
入り口そばの教員が近寄り、話を聞いてあげた。
 すぐにその事情が、校長室の私にも届いた。 
 
 女子高生は、下校途中の電車で地震にあった。
駅で止まったまま、いつまでも電車が動かないので、下車した。
 そして、駅前にあった大型スーパーで待機した。
でも、大型店が閉まった。
 しかたなく私の学校へ来た。
その経緯は、逐一千葉県内の自宅に携帯で伝えた。

 そこまではよかった。
ところが、避難所となった学校へ泊まることに、
両親は難色を示した。

 「私が、H駅近くの小学校が避難所だから、
そこに泊まるって言っても、信じてくれないんです。
 誰のところに泊まるんだって、疑って・・。」
女子高生はそう言って、私の前でも涙を流した。

 私は、女子高生のご自宅に電話した。
お父さんが受話器を取った。

 学校だけでなく、どこでも情報が混乱していた。
その信ぴょう性が問われた。
 「お嬢さんを避難所になった本校でお預かりしています。
ご安心ください。」
 校長と名乗った上だが、半信半疑のような応対だった。

 仕方なく、学校にある3本の電話番号を全て伝えた。
「折り返し、そのいずれかに電話をください。」
 そう言って電話を切った。

 まもなく電話が鳴った。
お父さんからだった。
 その電話に私が出ると、
ようやく安堵したように「よろしくお願いします。」と言った。
 その後、女子高生に替わった。
表情が次第に和らいだ。

 全てが災害時の予期しない展開だ。
我が子を案じる親心がどれ程か。
 それは、十分に理解できた。

 しかし、それに過剰反応し、娘に疑いを持った両親。
そのことに彷徨い涙し、職員室をノックした女子高生。

 彼女にとって助けを求める場所があった。
初めての学校でも、職員室がそれだった。
 今も、私を明るい気持ちにしてくれる。
 
 
 

   ついに今年も開花 福寿草

      ※次回のブログ更新予定は、3月23日(土)です。
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信頼を 得るには

2019-03-02 21:41:34 | 思い
 住まいの自治会か呼びかけて、
『もっと身近に伊達日赤!』と言う地域懇談会があった。
 私も役員の1人として参加した。

 伊達赤十字病院は、市内にある唯一の総合病院である。
この病院が、昨年度から市民の声を直接伺いたいと、
各自治会へ懇談会を呼びかけた。

 懇談会のねらいや意義について、
役員の中で様々な憶測がとんだ。
 その多くは、「病院の信頼回復」・「立て直し策」
ではなかろうかと言う。

 確かに『伊達日赤病院』については、
ご近所からもいい評判が聞こえてこない。
 
 つい先日、最近体調が優れないと言う方と立ち話をした。
通院先は、『日赤』だと言う。
 何種類もの薬を処方され、
それを飲み続けても良くならない。

 そこで、予約診察の時に、担当医に遠慮がちに尋ねた。
「このままの薬でいいんでしょうか。
何か別の薬の方がいいのではないでしょうか。」

 すると、その医師からの返事がこうだった。
「貴方の症状を診て、これでいいと思って出した薬です。
病気を治すのは私ですよ。」
 まさに、「医者の言う通りにしていろ。」
そんな言い方だったと言う。

 それを聞いて、私は言った。
「何か、ひどくない?」。
 「でもね、仕方ないよ。
何かあった時には、近くの病院の方がいいから・・。
 だまって、薬を飲み続けるさ。」

 「しょうがないか・・・。」
医師の対応は不快だったが、
小さな町の医療の現実を知った思いがした。

 これに類似した声は、他にも時々聞こえてくる。
それは当然、病院関係者の耳にも入っているだろう。
 だからこその地域懇談会だと私も理解した。

 夜7時からだったが、病院関係者6名がやってきた。
こちらの参加者の少なさに、ちょっと赤面した。

 挨拶や職員紹介の後、
約20分をかけてパワーポイントを使って、
病院の概要と医療活動について説明があった。

 さすが日本赤十字社の病院である。
各地での大災害では、
いち早く救護班を編成して駆けつけていた。
 そんなスタッフがいることに、
頼もしさと心強さを感じた。

 しかしだ。
冒頭に報告されたのは、圧倒的な医師不足だった。
 同程度の病床数を持つ室蘭市内の病院には、
63名の医師がいた。
 それに対し『日赤』は、わずか26名しかいない。
 
 報告では、「医師が定着しない原因」をいくつか羅列していた。
「地元ではないから」「家族の問題(子どもの進学、単身赴任)」
「自分の専門領域の研鑽のため」
「1人当たりの業務負担、責任の大きさ」
「当直が多い」「供与などの待遇面」
「田舎より都会が良い」「噂が広まりやすく、窮屈」。

 聞きながら、病院の規模からすると、
倍の医師が必要なところで勤務する大変さを想像した。
 上記の理由を挙げて、他地域の病院へ行くことを、
非難できないと感じた。
 その上、『日赤』への否定的な声の色々も、
きっと医師にも聞こえているはずだ。

 しかし、地元の総合病院に私たちは寄り添いたい。
いざという時に、頼れる病院であってほしい。
 全てを信頼してベットに横になりたい。
『日赤』への期待感は、大きいのだ。
 
 だがら、懇談会では1利用者として、
いくつかの意見・要望が参加者から述べられた。
 その多くは、医師をはじめとした病院スタッフの対応への不満だった。

 その声に対し、出席した職員から1つ1つに回答があった。
私は、しばしばその回答に首を傾げた。
 若干正確性には欠けるが、そのおおよそを記す。  

 患者への対応の悪い医師がいた。
何度も上部から注意を促した。
 でも、改善が見られなかった。
だから、「その先生には、辞めてもらいました。
 医師は不足しますが、どうにもなりませんでした。」

 診察室や病室のドアを音をたてて締める看護師がいて、
よく患者さんから苦情があった。
 「なのでその都度、気をつけるように言うんです。
でも、言われたときだけで、また元にもどってしまうんです。」

「苦情や要望があると、
その都度、病院長や副院長、看護師長など上部へ報告し、
指示を頂くようにしています。」

 抜かりなく1つ1つしっかりと対応していると言う。
「それでも、なかなか改善しない。」
 そんな胸の内が垣間見えた。
同情と一緒にエールを送りたくなった。

 医師、看護師等、職員総数460人越える総合病院と
教員と職員等、わずか50人余りの小学校では、
すべてにわたって大違いだ。
 しかし、公的機関に寄せる期待感は同じだ。

 私が着任したどの小学校も、
保護者や地域住民から不動の信頼を得ていたわけではない。
 中には、苦情が絶えず、教員の転出入の多い学校もあった。

 そんな学校の最大の相違点は、教職員が一枚岩かどうかだ。
平易な言い方すると、
「子どもを大切にした教育を、
全教職員が力を合わせて取り組んでいるかどうか。」
 そのことが、大きな分岐点だった。

 ある学校では、教員がいくつかのセクトに分かれていた。
一方のミスを大きく取り上げ、非難した。
 その応酬をよくしていた。
私は、ほとほと呆れた。
  
 またある学校では、
職員会でも朝会でも誰も発言などしなかった。
 一人一人がバラバラ、勝手に1人で子どもと対応していた。
助け合ったり協力し合ったり、そんな気運などなかった。

 そんな学校では、
どんな人でも自分を解放することなどできない。
 私もどこか萎縮しながら過ごしていた。
ミスを恐れたり、
多くの思考が自己防衛に向けられたりするのみだった。 

 それに比べ、相手の考えに耳を傾け、意見の違いを認め合う。
そして、共通項を見つけ出す努力をする。
 時には相手の言動を受容し、
不足部分を補い合いながら、共に進む。

 そんな環境であれば、素直に自分を表し、
困難にも立ち向かおうとする。
 支え合える関係なら、
いつも補ってもらうだけの自分から、自ら脱皮しようする。

 長々と自論をくり返した。
排他的集団ではなく、親和的集団こそが、
みんなの力を集結できるのである。
 そんな環境を作ることが、人を変え、学校を変えた。
病院とて同じではなかろうか。
 上意下達や、注意喚起のくり返しでは、何も変わらない。

 懇談会が終わりに近づいたころ、思い切って手を挙げた。
数年前の経験を話した。

 「初診だったからか、随分と待たされました。
私が診察室に入ってまもなく、
正午を告げるチャイムがなりました。
 すると、看護師さんが鞄を肩にかけ、黙って退室しました。
まだ、私は先生の診察を受けていたんです。
 若い先生でしたが、1人でその後の診療予定や薬の処方など、
事細かに説明し、診察が終わりました。
 後5分、どうして看護師さんはいないのだろう。
違和感を持ちました。
 それ以上に、この若い先生が気の毒にと思いました。
だからかどうか、次の年、その先生はいませんでした。
 1患者の推測です。
参考までにと思い、話しました。」 
   

  

  ついに スイセンの芽が ヤッター!
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