ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

69歳の 暮春

2017-05-27 14:48:38 | ジョギング
 5月21日(日)、自宅から車で20分の洞爺湖畔は、
初夏を思わせる好天だった。
 いつになく車でにぎわい、人通りも多い温泉街だ。
第43回洞爺湖マラソンの日である。

 私は、2回目のフルマラソンにエントリーしていた。
昨年は、5時間13分でゴールしたものの、
途中で2回歩いてしまった。
 そのことが、達成感に少しだけ水をさした。

 だから、今年はゴールまで走り続ける。
いわゆる『完全完走』を目指した。

 ところが、結果から先に記す。
約3時間走り続け、26,5キロを過ぎた地点で、
私はあえなく棄権した。

 2013年春、5キロだったが、初めてマラソン大会に参加し、
市民ランナーデビューをした。
 それから10数回になるが、各地の大会にエントリーし、
その全てでゴールしてきた。
 途中棄権は初めての経験となった。

 それから、まだ1週間あまりである。
どれだけの記録を記せるか、まずは筆を進めることにする。

 (1)
 この大会のフルマラソンにエントリーしたのは、
男女あわせて約5000人である。
 事前に申請した目標タイムごとに、AからEのグループに分けられる。
私はEグループで、目標タイムは5時間以上である。

 当然、スタート位置は最後尾だ。
30分前には、所定の場所に行き、その時を待つ。
 みんな、事前に郵送されたゼッケンを前後につけ、
靴にはタイム計測用のチップをくくり付けている。

 スタート前の緊張が、ランナーを寡黙にする。
私も、その1人。
 時々、体を左右に動かしながら、刻まれる時を待つ。
最近は、めっきり少なくなった緊張感である。
 時には、この張り詰めた気持ちもいいと思いながら、
周りを見た。

 どのゼッケンもそうだが、
大きく番号が印刷されていると共に、小文字でランナーの氏名と、
エントリーした年代が、印字されている。

 私のは『60歳以上』と記されている。
若干気になり、周りのランナーのそれを見た。

 「この方は、私と同年代?」と思って確かめた。
「エッ、50歳代。」
 もう一人、確かめた。その方も、50歳代だった。

 周りを、何度見ても、60歳以上がいない。
少しの寂しさと、心細さを覚えた。
 「場違い!」
「年齢に合わないことをしているのかも。」
やけに弱気になる私と闘った。

 そんな時、スタート合図が轟いた。
それから約2分半後にスタートラインを越えた。

 思いのほか、体も足も軽かった。
いつもは、大会の3日前で走るのを止めたが、
今回はそれを4日前にした。
 それが好調さに繋がったと思った。

 昨年は目に入らなかった満開の八重桜が、
華やかだった。
 壮瞥の林檎畑の木々が、白い花でおおわれ、
綺麗だ。
 湖畔の道に出ると、
水上バイクにまたがり、湖から応援する人達がいた。
 走りに、余裕があった。
弱気の私は、もういなかった。

 この季節にしては気温が高かったが、
5キロ過ぎまで流れ出ていた汗が、落ち着いた。

 15キロの最初のエイドで、
バナナと梅干しをゲットし、走りながら食べた。
 そこから中間点の21キロまでは、
1キロずつが短く感じた。
 すっかり年齢を忘れ、何人もの若者を抜いた。

 そして遂に、このフルマラソン最大の難所、
約3キロの上り坂になった。
 歩いているランナーが、次第に増えていった。

 この坂道を想定し、長い上り坂を練習コースに入れ、
くり返し走ってきた。
 確かに、息が弾んだ。
それでも、「もう少しだ」と自分を励まし、
順調に足を進めた。
 ここでも何人ものランナーを、追い抜いた。

 とうとう上りきり、折り返し点を回った。
下り道に入ってすぐ、25キロの給水所があった。

 それまでの給水所では、一口だけ水分補給をしてきた。
すごく体が火照っていた。
 グイッグイッとコップの水を勢いよく飲んだ。
それが、良くなかったのか。今もよく分からない。

 再び下り坂を走り始めたが、今までとは違った。
足が思うように前へ進まなくなってきた。
 次第に、歩幅が狭くなり、
私を追い抜いていく人が増えていった。
 前を走っていた方とも、距離がどんどん離れていった。

 下り坂なのに、息が荒い。
やがて耳鳴りが始まり、軽い頭痛がしてきた。
 体調が変わってきた。
長い距離を走るのだ。体調にも山あり谷ありだ。
 私は自分を励まし、
1歩1歩を踏みしめながら進んだ。

 その時、救護所が見えた。
気が緩んだのだろうか。
 突然、左足のふくらはぎがつった。
痛みで顔がゆがんだ。

 立ち止まるのをくり返しながら、
やっと救護所まで行った。
 冷却スプレーを何度もかけてもらった。
痛みは和らいだが、歩くのもつらくなった。

 救護所の横に腰を下ろした。
耳鳴りと頭痛が、続いていた。
 救護の方から、ペットボトルの水をもらった。

 周りには、何人ものランナーが腰を下ろし、
うな垂れていた。
 少しの日陰で、横たわっている方も数人いた。
どの人も、胸のゼッケンをはずしていた。

 それが途中棄権のサインだと知った。
私も、安全ピンを抜き、ゼッケンを取った。

 まだ、心は静かだった。

 (2)
 30分以上は、その場にいただろうか。
リタイアするランナーが増えていった。

 やがて、収容車と書かれたバスに乗り込んだ。
何も考えられないまま、運転席の真後ろの席についた。
 すぐに、私の隣に大きなため息と一緒に青年が座った。
落胆が伝わってきた。

 暑さのためか、途中棄権が多く出ていたようだ。
このバスも、席がなく立ったままの方で埋まった。

 やがて、ゴール地点の温泉街へと動き出した。
マラソンコースの片側車線を進んですぐ、
まだ走り続ける女性ランナーを1人、2人と見た。

 そして、その数が増え、10数人が長い列を作っていた。
必死に走り続けるランナーの後ろ姿があった。

 ところが、そこから2,300メートル先だろうか。
4,5人のスタッフが、青い布テープを張り、
横一線に並んでいた。
 27キロの関門である。
すでに所定の制限時間が過ぎているのだ。

 それでも、あのランナー達は、
そこまでの道を必死に走り続けていた。

 ゼッケンを外し、収容車から私は、それを見た。
彼女らは、もう制限時間を越えていることに、
気づいていると思う。
 それでも、力をふりしぼり関門まで走っている。

 その健気さに心打たれた。
こみ上げてくるものがあった。
 隣でうな垂れる青年がいたが、
熱いものが目頭を、くもらせた。
 あわてて持っていたゼッケンで顔を覆い、上を向いた。

 その時だった。
急に、今日にむけ走り続け、自分と向き合い、
頑張ってきた日々を思い出した。

 もう棄権してから、かなりの時間が過ぎていた。
なのに、初めて悔しさで胸がいっぱいになった。
 走れなくなったことを悔いた。
なぜ関門で止められるまで、足を引きずってでも、
前へ進まなかったのか。「弱虫!」。
 私を責めた。

 年齢を忘れ、人目もはばからず、号泣したかった。
 しかし、隣にますます背中を丸める青年がいた。

 涙をこらえ、バスの車窓から、
新緑の優しい若葉を見続けた。
 いつもの私に戻っていった。
   
 (3)
 その日の夕食は、回転寿司にした。
久しぶりの生ビールで、10キロを一応完走した家内と、
私の次でのリベンジに乾杯した。

 美味しいお寿司とお酒に満たされた。
そして、疲れが深い眠りに誘ってくれた。

 ところが、深夜のことだ。
長い夢を見た。
 次から次に知人、友人、そして教え子、ご近所さん、
親戚、兄弟、我が子、旧友が現れた。

 そして、棄権した私へ、励ましの言葉をくれるのだ。
言い方は、それぞれ違っていた。
 でも、一人一人の温かさ、優しさが私を包んだ。

 最初は、笑顔でそれを聞いていた。
やがて顔がゆがんだ。
 心がふるえだした。
嬉しかった。人に恵まれていた。

 「よし、また頑張ろう。」と誓う私。
目ざめると、枕元が少し濡れていたかも。

 2日間、休養をとった。
でも、また走り始めた。
 夢が私を押してくれている。




   だて歴史の杜公園の 春色
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シルバーを ウオッチ

2017-05-19 22:07:39 | 北の湘南・伊達
 私が初めて教頭職についた小学校では、
1年に数回の大きな行事ごとに、
歴代校長先生らが、来校された。

 その行事への評価と共に、
学校の様子をしっかりと見ておられた。

 そして、その感想を口にする方、何も言われない方、
時にはその場の雰囲気にのって、教頭の私を、
厳しく指導される方など様々だった。

 だから、私は行事の度に、最善の準備をし、
大先輩をお迎えしていた。

 その中のお一人に、穏やかな笑みを絶やさず、
人当たりのいい方がおられた。
 「教頭さんが来てからは、学校の雰囲気がいいね。」
きっと、全ての教頭にそう言っていたのだろうが、
嬉しくて、それだけで励みになった。

 その先生が、ある席でのご挨拶で言ったことが、
まだ45歳前後だった私の心に、強く残った。

 「私たち年寄りは、寝たきりになったり、
いつも介助が必要になったりするようじゃいけないんですよ。
 そうなった年寄りへの行政負担は、物凄い額になります。
年寄りが多くなるこれからは、
生きている間は健康でいること。
 それを目標にしなければいけません。」

 「お年寄りは、老後をのんびりと過ごせばいい。」
漠然と、そんな思いでいた私に、
老後のあり方を考えさせる第一歩になった。

 そして、シルバー世代となった今、
大先輩のこの教えは、私に根付いている。
 体力維持、貯金ではなく貯筋、
決して寝たきりの道には行かない。
 そのため、体と頭の健康へ努力を惜しまない。
今、最大・唯一の私のテーマのように思う。

 ところで、伊達は全道でも高齢者人口の割合が、
高い所と聞いた。
 確かに、私の暮らしの周辺も、
同世代と、それ以上の方々が目に止まる。

 そんなシルバー達を、ちょっとだけウオッチしてみた。


 ①
 5年前、移住してすぐのことだ。
私たちは、まだ伊達の道に不慣れだった。
 朝のジョギングは、いつもワンパターン。
同じコースを走った。

 なので、いつもお決まりの場所で、すれ違う老夫婦がいた。
私と家内の挨拶に、ご主人だけが挨拶を返してくれた。
 奥さんはと言うと、常に顔色が悪く、伏し目がちで、
私たちを見ようともしなかった。
 明らかに健康を害し、毎朝の散歩もやっとだと、
推測できた。

 毎朝のことである。
次第に遠方の姿でも、その老夫婦だと見分けがついた。

 ご主人は、奥さんの歩速にあわせながら、
よく話しかけていた。
 時には足を止め、樹木や野鳥を指さし、
奥さんにそれを見るように促した。

 ご主人のそんな働きかけに、
奥さんが応じることはまれで、
いつもトボトボとご主人の後を歩いていた。

 来る日も来る日も、出会う2人は、
同じように見えた。
 様子に全く変化がなく、心が詰まった。

 ところが、2年程前からその姿が変わり始めた。
奥さんが、「おはようございます。」と、
小声で応じてくれた。
 やがて、その声に張りが出てきた。

 ついに、ご主人と肩を並べて歩く姿を見た。
時には、明るい表情で、ご主人の前を歩いた。
 私たちを見ると、奥さんから先に挨拶することも増えた。

 どんな病気だったのか、一切知ることはなかった。
でも、毎日の散歩が役立ったのだと思った。

 「ご主人、頑張ったね。」
2人とすれ違い、少し足早になりながら、
涙声で、家内に呟いた。
 見上げた空は、青一色だった。


 ②
 これまた老夫婦である。
朝のジョギングで、
時々この夫婦に出会うようになって、
1年になるだろうか。

 最初の出会いは、明らかに驚きだった。
奥さんはものすごくやせ細り、弱々しく、
足には全く力がなかった。

 一歩一歩がやっとで、ご主人は力を入れて片手を握り、
もう一方の腕は、奥さんの腰に、しっかりと添えられていた。
 つい手を貸したくなるようなシーンだ。

 必死に体を支え、声をかけながら、
ゆっくりと進む姿に、私は挨拶の声かけを遠慮した。

 その日、どこからどこまで散歩したのか、
きっとわずかな距離だったに違いない。

 それからしばらくして、再び出会った。
今度は、奥さんの片手に、
ストックのような杖が握られていた。
 そして、もう一方の手は、
ご主人がしっかりと握っていた。

 相変わらず、ゆっくりとした足取りだった。
でも、わずかだが、ご主人の表情には明るさがあった。

 走りながらだが、思い切って挨拶をした。
少しの笑顔と一緒に、ご主人が会釈をしてくれた。
 奥さんは、私の挨拶に気づいていなかった。

 きっと大病後の機能回復が、目的の散歩なのだろう。
奥さんの無表情とは対象的に、
ご主人の全身からは、優しさがあふれていた。

 つい先日の朝も、反対側の歩道を、
ゆっくりとした足取りの2人に出会った。

 走りながらの私の挨拶に、
いつも通りご主人は笑顔で会釈した。
 そして、しきりに奥さんの肩をつつき、
私への挨拶を促した。
 相変わらず、無反応の奥さんだ。
でも、その足取りが、少しだけ力強くなった気がした。

 ご主人は、朝のこの時間の介護だけでなく、
日常の全てをそうしているだろう。
 奥さんをいたわる。
その温かさが、にじみ出ているご主人の姿に、
心打たれてきた。

 私には、朝の挨拶しか接点がない。
でも、エールだけは届けたいと、いつも思う。

 いつか我が家の前も通って欲しい。
庭の花壇に、綺麗な花を咲かせておこう。


 ③
 伊達市には、『交通安全指導員』と呼ばれる
非常勤嘱託職員がいる。
 その15名は、市内の主要道路に立ち、
子ども達の交通事故防止に努めている。
 その制服は、一見警察官を思わせるほど凜々しい。

 しかし、子ども達の安全は、
その人たちだけでは十分ではない。

 我が家の近隣には、
私が知るだけでも5名のボランティアの方が、
毎朝、自前の服で黄色い旗を持ち、
交差点に立っている。

 5名とも、シルバー世代である。
中には、地元の小学校長を退職された方もおられる。
 真冬の氷点下、寒風の日でも立ち続けるのだ。
ただただ頭が下がるだけである。

 皆さん、そのキャリアは約10年と聞いた。
毎朝、出勤のためハンドルを握り通り抜ける方にも、
深々と頭を下げ、安全運転へのサインを送る。
 運転する方も、軽い会釈でそれに応え、走り抜ける。

 子ども達は、朝の顔馴染みに、
気軽でさりげない挨拶をする。
 それだけで、長い歳月の歩みと関係性が、
見て取れる。

 先日、そのボランティアの方と、
盃を交わす機会があった。
 私は、労をねぎらう同じ言葉をくり返すだけ。
それ以外のしゃれた言葉も振る舞いもできず、
赤面していた。

 すると、こんな経験談を教えてくれた。

 「いつもの所に立っているとね、
赤い車が私の近くで、急に停まったんです。
 車のドアウインドーを下ろしながら、
『おじさん、久しぶり!』って言うんだよ。
 『ほら、私!』
若い女性なんだ。
 よく見ると、小さい頃の面影があった。
5年くらい前まで、
いつも横断歩道を渡っていた子だった。

 成人式なので帰ってきたんだそうだ。
嬉しかったね。
 こんなことがあるから、矢っ張り止められない。

 もう年齢だからと、誰かに言われても、
私はまだまだ続けるよ。」

 それを聞いていたもう1人のボランティアの方も
言う。

 「私の健康の秘訣さ。
毎日、元気な子ども達の顔を見て、
私も元気にそれを見守る。
 それが、今、私のできることなんだわ!」

 その気迫に、私は息を飲んだ。

 北のシルバー達の力強さに、追いつきたいと思ったが、
声には出せないまま、その場にいた。 
 



  八重桜の下を登校するランドセル
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想いは 色あせることなく

2017-05-13 20:29:51 | 教育
 教職を離れて、丸5年が過ぎた。
現場を去った者として、できることは何か。
 毎日、奮闘する先生方の、
『後方支援』が少しでもできればと思いつつ、
その歩みは、欠落したままである。

 それでも、学校や子ども達への想いは、
色あせることなく、今も脈々と私の中にある。

 何気ない日々の中で、思い立ったことがある。
その2つを記す。


 1、未熟な実践から

 現職の実践を思い出し、その時々の1コマ1コマへの、
私の対応の是非を問い直すと、心が暗くなる。

 教職に生きた者の宿命だろう。
未熟な実践者だった自分の指導には、
弁解の余地がない。
 自責の念を抱くことがいくつもある。

 異年齢集団による交流活動が、まだ珍しかった頃だ。
1年生から6年生で班を作っての、
全校遠足が計画された。

 6年担任だった私は、学級で強調した。
「6年生がリーダーです。全員が班長か副班長になる。
楽しい遠足になるかどうかは、みんな次第ですよ。
 間違っても、迷子なんて出さないようにね。」

 体育館に、全校児童が集まって、
初めての顔合わせ会があった。
 始まってすぐ、私の学級の子が倒れた。
救急車で病院に運んだ。
 幸い、大事には至らなかった。

 後ほど、母親のひと言で、その原因が分かった。
「うちの子、今まで1度も、
班長なんてしたことがなかったんです。
 なので、朝から緊張していて・・。」

 全く気づいてやれなかった。
大きな負担を感じさせていたんだ。
 細やかな指導ができなかったことを恥じた。

 同様なことは、他にもある。

 学期ごとに、学級代表を決めていた頃だ。
学級会で、男女1名ずつの選出が議題になった。

 男子には、2名の推薦があった。
K君は、意欲満々だったが、
Y君は、それ程でもない様子だった。
 全員投票の結果、なんと大差でY君が選ばれた。

 学級代表といっても、さほど重要な役割はなかった。
全校集会などで、整列の先頭に立ったり、
時々は学級会等の司会をしたりした。

 なのに、学級代表になってからのY君は、
持ち前の明るさを次第になくしていった。

 個人面談での母親の話から、その訳が分かった。
「ぼくは、学級代表だから、
誰よりもキチンとしなければならないんだ。
 でも、忘れ物もする。廊下も時々走る。
ぼくは、学級代表なんかじゃない。」
 家では、そう言って暗い顔をしていたそうだ。

 Y君の気持ちに寄り添ってやれなかった。
どれだけ辛い思いで、学校生活を過ごしたことか。
 私の至らなさに、怒りを覚えた。
 
 このような未熟な指導は、計り知れない程ある。
しかし、これら数々の不十分な実践を通し、
私は、子ども達や保護者、同僚から多くのことを学んだ。
 そして、育ててもらった。

 満足な指導は、退職のその日まで、遂に実現できなかった。
それでも、反省ばかりの実践を糧に、
私は教師としての階段を、1つ1つ上ったと思う。
 教職の道とは、そんな歩みなのではなかろうか。


 2 新聞記事から

 朝日新聞の3月13日『天声人語』に、
しばらく心が冷えた。

 その内容は、昆虫写真家・山口進さんの、
仕事ぶりと功績の紹介だった。
 コラムは、こう締めくくっている。

 『▼約40年にわたり「ジャポニカ学習帳」の表紙を
飾ってきた虫や花の写真も、山口さんの作品である。
しかしここ数年は「気持ち悪い」という声に押され、
虫の写真はなくなった。
一部の復刻版を除き、花だけである
▼「子どもは虫が好きだと思う。
でも先生や親に苦手な人が増えているのでしょう」
と残念そうだ。
昆虫を入り口に、自然や科学へと目が開かれる。
そんな道はこれから細くなってしまうのだろうか。』

 学級全員のノートを集め、点検をした。
特に、男子の表紙に、虫の写真が多かった。

 バッタの眼光に、たくましい生命力を感じた子。
チョウチョウの羽根模様に、綺麗な自然美を知った子。

 一人一人のノートの内容をよそに、
表紙の写真で、
どれだけ子ども達との会話が弾んだか。

 今、その場面が教室にはない。
豊かなはずの学校教育が、
痩せていくようで、切ない。

 そんなことへの警告と思えるコラムが他にもあった。
5月5日・こどもの日の「折々のことば」である。

 『だいたい子どもというものは、「親の目の届
 かないところ」で育っていくんです。
                 河合隼雄
   これに「先生の目が届かないところで」
  もつけ加えたい。子供の自治が成り立つ場
  が今、社会のあちこちに埋め込まれている
  か? 子供は仲間とともに、ときに少々怖
  い目にもあいつつ、してよいことといけな
  いこと、どこまで人を頼りにできるかを学
  ぶ。これに親が信頼感をもてるかどうかに
  子供の成長は懸かっていると、臨床心理家
  は言う。「Q&Aこころの子育て」から。』

 いじめが、依然として大きな教育課題のままである。
いじめによる自殺が、最近のニュースから消えることはない。

 学校では、「いじめのサインを見逃すな!」の声が、
くり返される。
 いじめが問題化する前に、
いじめが起こらない指導の重要性が強調される。

 そのため先生方は、片時も教室を離れない。
注意を怠らず、過干渉かとも思えるほど、
指導と称した指示・助言が次々と飛ぶ。

 “子供は、目の届かないところで育っていく。”
そのような子育ての真理など、どこかに置き忘れているようだ。

 久しぶりに高学年を担任したベテランがいた。
その先生は、明るく楽しい学級にしたいと心を砕いた。
 自分の思い描いた学級、授業、子ども達なら、
決していじめも学級崩壊もない。
 楽しい日々が来ると信じた。

 だから、「こんなことをしようね。」「今はこうしましょう。」
「決してこのようなことはしないでね。」
次々と自分の思い描いたことを、くり返した。

 当初、担任の思いに、
精一杯応えようとしていた子ども達である。
 しかし、その指示・助言の多さ、細かさ、
口うるささが不快になっていった。

 “子供は、親や先生の目の届かないところで育っていく。”のだ。

 だから、担任の思いや指示には関係なく、
行動することが次第に増した。
 担任は、子供の気持ちをくみ取ることなく、
それを身勝手と決めつけた。

 ギスギスした関係が始まった。
それは、子供同士にも広がった。
 遂には、担任の思いに反し、
いじめや学級崩壊へと進んだ。

 くり返しになるが、河合隼雄氏は言う。
『親(先生)が信頼感をもてるかどうかに
子供の成長は懸かっている』
 教師や親の思いだけでは、子供は育たないのだ。

 子供の成長、それは『目の届かないところで』、
たくさんの秘密=親や教師への隠し事を持つことだ。

 私たちは、それを十分に理解しつつ、見届けること。
そんな豊かさをもった大人でなければと思う。

 結びになる。
山口県のある教育者が、長年の教育経験をまとめたものに、
「子育て四訓」がある。

 1,乳児は しっかり肌を離すな
 2,幼児は肌を離せ 手を離すな
 3,少年は手を離せ 目を離すな
 4,青年は目を離せ 心を離すな

 このような教えを基にした、揺るぎない信頼感を、
大切にしていきたい。 




  いたるところで 水仙が満開  
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エッ! そんなことって

2017-05-05 19:59:48 | あの頃
 NHKの朝ドラ『ひよっこ』に、夢中だ。
みね子の澄んだ心、すっかりファンになってしまった。

 今週は、みね子が集団就職で東京に着き、
初めての仕事に、悪戦苦闘する日々が続いていた。
 『頑張れ、みね子!』

 高校を卒業してすぐ、
列車で上野駅に降り立ったみね子。
 その不安げな表情と、
駅の壁に大きく張ってあった
『きょうからは東京の人です』のスローガンに、
もう45年以上も前の私が、共感していた。

 それはさておき、みね子と同じように、
私の友人の1人も、高校を卒業するとすぐ、
東京に就職した。

 彼のことを、幼友だちと言うのだろうが、
私はそう思っていない。
 彼に改めて尋ねたことはないが、
彼は、同じ保育所に私がいたことさえ、
記憶にないと思う。

 3歳児から保育所生活をしていた私だが、
彼=T君は、5歳児つまり年長さんの時に、
保育所に通い始めた。

 だから、私の方がはるかに先輩なはずなのに、
その待遇は全く違っていた。

 T君とY子ちゃんの2人は、
すべての子どもが登所してから、いつもやって来た。
 しかも、当時としては大変珍しく、
乗用車での登所だった。

 2人は、なかよく手をつないで車から降りた。
T君は、ワイシャツに上下そろいの半ズボンと上着、
Y子ちゃんは、ひだスカートにブラウス、ベレー帽だった。

 2人が玄関に着くと、沢山の子が出迎えた。
私も大勢の1人として、その集団の最後尾あたりにいた。

 帰りも、誰よりも早かった。
迎えの車が来ると、先生が声を張り上げた。
 「T君とY子ちゃんが帰りますよ。
さよならしましょう。」

 遊んでいた子ども達が、一斉に玄関へ集まった。
「T君、さようなら。」「Y子ちゃん、また明日!」
めいめい声を張り上げた。
 その時も、私は最後尾あたりで、
その様子を見ていた。

 Y子ちゃんはもちろん、
T君とも遊んだことも、言葉を交わしたこともなかった。
 すごく賢そうな2人を、遠くからだけ、
そっと見ていた。

 それから約10年後だ。
『若くして逝った友』と題してこのブログにも書いたが、
「中学3年の時だった。
担任が替わり、学級の雰囲気が一変した。
 それまで、さほど交流がなかったクラスメイトが、
打ち解け合った。
 自然、気の合った者同士が、さらに交流を深め、友情が芽生えた。」

 その時、私には、5人グループができた。
その1人が、なんとT君だった。

 1年後、彼と私は、同じ高校へ進学した。
彼は放送部、私は生徒会で充実した高校生活を過ごした。
 学級は違ったが、行動を共にすることが多かった。
夏のキャンプ、冬のスキーを一緒に楽しんだ。
 
 保育所の頃の近寄りがたさは、ウソのよう。
彼は、気さくで遠慮など不要な人柄だった。

 高校3年になった。
当然、私立大学への進学だって可能な家庭環境に、彼はいた。
 しかし、突然、東京のガソリンスタンドで働くと宣言し、
大学受験を回避した。

 何故、大きく進路を変更したのか。
その真意を知る機会はなかったが、
「東京で頑張るよ。」
彼は明るく言い残し、旅立っていった。

 そんな彼との再会は、大学を卒業し、
東京の小学校に赴任してからだった。

 彼は、その4年間で、
車整備等仕事に関する様々な資格を取得した。
 そして、会社からは、大きなガソリンスタンドの店長を、
任されるようになっていた。

 それだけではない。
その働きぶりは、
そこのガソリンスタンドを利用するお客さんからも、
高い評価を受けていた。

 数年後、遂にお客さんの1人であった、
車関係の会社社長から誘われた。
 結婚を機に、彼は好条件でその会社へ転職した。

 「こうして体を動かして働くのが好き。」
時々、顔を合わせ、酒を酌み交わすたびに、
彼が口にした言葉だ。

 会うごとに、彼らしさに輝きが増した。
人当たりのよさに、私も惹かれた。
 並みの努力ではないと思った。
保育所のエリート、そんな面影などどこにもなかった。
 誠実に仕事と向き合うビジネスマンだった。

 まったく職種は違ったが、大きな刺激を受けた。
併せて、自慢の友人として、胸を張った。

 30歳を少し越えた頃だった。
彼も私も、2人の子どもに恵まれていた。
 世間では、しきりに団地住宅の分譲販売があった。

 私は、思い切って人生初の、
大きな買い物を決断した。 
 
 その分譲団地の完成を待って、引っ越しをすることにした。
彼には、事前に転居を知らせるべきかどうか、迷った。
 
 私より4年も早く働き始めた彼である。
その彼より先に、分譲団地とはいえ家を持つ。
 余分な気遣いと言えなくもないが、私はためらった。
結局は、無事に引っ越しを終えてから、
知らせることに決めた。

 引っ越しの日が来た。
私は、5階建ての団地の1階を選んだ。
 多くの家族が、同時に引っ越し作業をしていた。

 急に、前の棟の同じ5階建てに、目が止まった。
心臓も止まりそうになった。

 引っ越し荷物を積んだトラックと、
芝生の広場を越えた、すぐそこに、
見憶えのある顔があった。

 「何、してるの?」
かけ寄って、声をかけた。

 ビックリした顔が答えた。
「君こそ、何、してるの?」
 「エッ!俺?・・・引っ越し!」
「どこに?」
 「そこ、目の前。・・・T君は?」
「エッ!俺?・・・引っ越し!」
 「どこに?}
「ここに。」

 同じ間取りの分譲団地の真向かいの棟。
しかも同じ1階を彼は選んだ。

 転居の知らせについては、
私と同じ思いでいたことを後で知った。
 その余分な気遣いに、
二人で手を叩いて大笑いをした。

 それにしても、北海道から東京へ。
そして、それぞれの道を歩んできた二人が、
再び、間近な所で暮らすことに。

 偶然とは言え、遠くて長い旅の途中、
そこでの出会いに、
 『エッ! そんなことって』と、
思うのは、私だけでしょうか。

 人生には、こんな面白いことがあるんだ。





  ジューンベリー 『開花宣言』
 
コメント
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