5月21日(日)、自宅から車で20分の洞爺湖畔は、
初夏を思わせる好天だった。
いつになく車でにぎわい、人通りも多い温泉街だ。
第43回洞爺湖マラソンの日である。
私は、2回目のフルマラソンにエントリーしていた。
昨年は、5時間13分でゴールしたものの、
途中で2回歩いてしまった。
そのことが、達成感に少しだけ水をさした。
だから、今年はゴールまで走り続ける。
いわゆる『完全完走』を目指した。
ところが、結果から先に記す。
約3時間走り続け、26,5キロを過ぎた地点で、
私はあえなく棄権した。
2013年春、5キロだったが、初めてマラソン大会に参加し、
市民ランナーデビューをした。
それから10数回になるが、各地の大会にエントリーし、
その全てでゴールしてきた。
途中棄権は初めての経験となった。
それから、まだ1週間あまりである。
どれだけの記録を記せるか、まずは筆を進めることにする。
(1)
この大会のフルマラソンにエントリーしたのは、
男女あわせて約5000人である。
事前に申請した目標タイムごとに、AからEのグループに分けられる。
私はEグループで、目標タイムは5時間以上である。
当然、スタート位置は最後尾だ。
30分前には、所定の場所に行き、その時を待つ。
みんな、事前に郵送されたゼッケンを前後につけ、
靴にはタイム計測用のチップをくくり付けている。
スタート前の緊張が、ランナーを寡黙にする。
私も、その1人。
時々、体を左右に動かしながら、刻まれる時を待つ。
最近は、めっきり少なくなった緊張感である。
時には、この張り詰めた気持ちもいいと思いながら、
周りを見た。
どのゼッケンもそうだが、
大きく番号が印刷されていると共に、小文字でランナーの氏名と、
エントリーした年代が、印字されている。
私のは『60歳以上』と記されている。
若干気になり、周りのランナーのそれを見た。
「この方は、私と同年代?」と思って確かめた。
「エッ、50歳代。」
もう一人、確かめた。その方も、50歳代だった。
周りを、何度見ても、60歳以上がいない。
少しの寂しさと、心細さを覚えた。
「場違い!」
「年齢に合わないことをしているのかも。」
やけに弱気になる私と闘った。
そんな時、スタート合図が轟いた。
それから約2分半後にスタートラインを越えた。
思いのほか、体も足も軽かった。
いつもは、大会の3日前で走るのを止めたが、
今回はそれを4日前にした。
それが好調さに繋がったと思った。
昨年は目に入らなかった満開の八重桜が、
華やかだった。
壮瞥の林檎畑の木々が、白い花でおおわれ、
綺麗だ。
湖畔の道に出ると、
水上バイクにまたがり、湖から応援する人達がいた。
走りに、余裕があった。
弱気の私は、もういなかった。
この季節にしては気温が高かったが、
5キロ過ぎまで流れ出ていた汗が、落ち着いた。
15キロの最初のエイドで、
バナナと梅干しをゲットし、走りながら食べた。
そこから中間点の21キロまでは、
1キロずつが短く感じた。
すっかり年齢を忘れ、何人もの若者を抜いた。
そして遂に、このフルマラソン最大の難所、
約3キロの上り坂になった。
歩いているランナーが、次第に増えていった。
この坂道を想定し、長い上り坂を練習コースに入れ、
くり返し走ってきた。
確かに、息が弾んだ。
それでも、「もう少しだ」と自分を励まし、
順調に足を進めた。
ここでも何人ものランナーを、追い抜いた。
とうとう上りきり、折り返し点を回った。
下り道に入ってすぐ、25キロの給水所があった。
それまでの給水所では、一口だけ水分補給をしてきた。
すごく体が火照っていた。
グイッグイッとコップの水を勢いよく飲んだ。
それが、良くなかったのか。今もよく分からない。
再び下り坂を走り始めたが、今までとは違った。
足が思うように前へ進まなくなってきた。
次第に、歩幅が狭くなり、
私を追い抜いていく人が増えていった。
前を走っていた方とも、距離がどんどん離れていった。
下り坂なのに、息が荒い。
やがて耳鳴りが始まり、軽い頭痛がしてきた。
体調が変わってきた。
長い距離を走るのだ。体調にも山あり谷ありだ。
私は自分を励まし、
1歩1歩を踏みしめながら進んだ。
その時、救護所が見えた。
気が緩んだのだろうか。
突然、左足のふくらはぎがつった。
痛みで顔がゆがんだ。
立ち止まるのをくり返しながら、
やっと救護所まで行った。
冷却スプレーを何度もかけてもらった。
痛みは和らいだが、歩くのもつらくなった。
救護所の横に腰を下ろした。
耳鳴りと頭痛が、続いていた。
救護の方から、ペットボトルの水をもらった。
周りには、何人ものランナーが腰を下ろし、
うな垂れていた。
少しの日陰で、横たわっている方も数人いた。
どの人も、胸のゼッケンをはずしていた。
それが途中棄権のサインだと知った。
私も、安全ピンを抜き、ゼッケンを取った。
まだ、心は静かだった。
(2)
30分以上は、その場にいただろうか。
リタイアするランナーが増えていった。
やがて、収容車と書かれたバスに乗り込んだ。
何も考えられないまま、運転席の真後ろの席についた。
すぐに、私の隣に大きなため息と一緒に青年が座った。
落胆が伝わってきた。
暑さのためか、途中棄権が多く出ていたようだ。
このバスも、席がなく立ったままの方で埋まった。
やがて、ゴール地点の温泉街へと動き出した。
マラソンコースの片側車線を進んですぐ、
まだ走り続ける女性ランナーを1人、2人と見た。
そして、その数が増え、10数人が長い列を作っていた。
必死に走り続けるランナーの後ろ姿があった。
ところが、そこから2,300メートル先だろうか。
4,5人のスタッフが、青い布テープを張り、
横一線に並んでいた。
27キロの関門である。
すでに所定の制限時間が過ぎているのだ。
それでも、あのランナー達は、
そこまでの道を必死に走り続けていた。
ゼッケンを外し、収容車から私は、それを見た。
彼女らは、もう制限時間を越えていることに、
気づいていると思う。
それでも、力をふりしぼり関門まで走っている。
その健気さに心打たれた。
こみ上げてくるものがあった。
隣でうな垂れる青年がいたが、
熱いものが目頭を、くもらせた。
あわてて持っていたゼッケンで顔を覆い、上を向いた。
その時だった。
急に、今日にむけ走り続け、自分と向き合い、
頑張ってきた日々を思い出した。
もう棄権してから、かなりの時間が過ぎていた。
なのに、初めて悔しさで胸がいっぱいになった。
走れなくなったことを悔いた。
なぜ関門で止められるまで、足を引きずってでも、
前へ進まなかったのか。「弱虫!」。
私を責めた。
年齢を忘れ、人目もはばからず、号泣したかった。
しかし、隣にますます背中を丸める青年がいた。
涙をこらえ、バスの車窓から、
新緑の優しい若葉を見続けた。
いつもの私に戻っていった。
(3)
その日の夕食は、回転寿司にした。
久しぶりの生ビールで、10キロを一応完走した家内と、
私の次でのリベンジに乾杯した。
美味しいお寿司とお酒に満たされた。
そして、疲れが深い眠りに誘ってくれた。
ところが、深夜のことだ。
長い夢を見た。
次から次に知人、友人、そして教え子、ご近所さん、
親戚、兄弟、我が子、旧友が現れた。
そして、棄権した私へ、励ましの言葉をくれるのだ。
言い方は、それぞれ違っていた。
でも、一人一人の温かさ、優しさが私を包んだ。
最初は、笑顔でそれを聞いていた。
やがて顔がゆがんだ。
心がふるえだした。
嬉しかった。人に恵まれていた。
「よし、また頑張ろう。」と誓う私。
目ざめると、枕元が少し濡れていたかも。
2日間、休養をとった。
でも、また走り始めた。
夢が私を押してくれている。
だて歴史の杜公園の 春色
初夏を思わせる好天だった。
いつになく車でにぎわい、人通りも多い温泉街だ。
第43回洞爺湖マラソンの日である。
私は、2回目のフルマラソンにエントリーしていた。
昨年は、5時間13分でゴールしたものの、
途中で2回歩いてしまった。
そのことが、達成感に少しだけ水をさした。
だから、今年はゴールまで走り続ける。
いわゆる『完全完走』を目指した。
ところが、結果から先に記す。
約3時間走り続け、26,5キロを過ぎた地点で、
私はあえなく棄権した。
2013年春、5キロだったが、初めてマラソン大会に参加し、
市民ランナーデビューをした。
それから10数回になるが、各地の大会にエントリーし、
その全てでゴールしてきた。
途中棄権は初めての経験となった。
それから、まだ1週間あまりである。
どれだけの記録を記せるか、まずは筆を進めることにする。
(1)
この大会のフルマラソンにエントリーしたのは、
男女あわせて約5000人である。
事前に申請した目標タイムごとに、AからEのグループに分けられる。
私はEグループで、目標タイムは5時間以上である。
当然、スタート位置は最後尾だ。
30分前には、所定の場所に行き、その時を待つ。
みんな、事前に郵送されたゼッケンを前後につけ、
靴にはタイム計測用のチップをくくり付けている。
スタート前の緊張が、ランナーを寡黙にする。
私も、その1人。
時々、体を左右に動かしながら、刻まれる時を待つ。
最近は、めっきり少なくなった緊張感である。
時には、この張り詰めた気持ちもいいと思いながら、
周りを見た。
どのゼッケンもそうだが、
大きく番号が印刷されていると共に、小文字でランナーの氏名と、
エントリーした年代が、印字されている。
私のは『60歳以上』と記されている。
若干気になり、周りのランナーのそれを見た。
「この方は、私と同年代?」と思って確かめた。
「エッ、50歳代。」
もう一人、確かめた。その方も、50歳代だった。
周りを、何度見ても、60歳以上がいない。
少しの寂しさと、心細さを覚えた。
「場違い!」
「年齢に合わないことをしているのかも。」
やけに弱気になる私と闘った。
そんな時、スタート合図が轟いた。
それから約2分半後にスタートラインを越えた。
思いのほか、体も足も軽かった。
いつもは、大会の3日前で走るのを止めたが、
今回はそれを4日前にした。
それが好調さに繋がったと思った。
昨年は目に入らなかった満開の八重桜が、
華やかだった。
壮瞥の林檎畑の木々が、白い花でおおわれ、
綺麗だ。
湖畔の道に出ると、
水上バイクにまたがり、湖から応援する人達がいた。
走りに、余裕があった。
弱気の私は、もういなかった。
この季節にしては気温が高かったが、
5キロ過ぎまで流れ出ていた汗が、落ち着いた。
15キロの最初のエイドで、
バナナと梅干しをゲットし、走りながら食べた。
そこから中間点の21キロまでは、
1キロずつが短く感じた。
すっかり年齢を忘れ、何人もの若者を抜いた。
そして遂に、このフルマラソン最大の難所、
約3キロの上り坂になった。
歩いているランナーが、次第に増えていった。
この坂道を想定し、長い上り坂を練習コースに入れ、
くり返し走ってきた。
確かに、息が弾んだ。
それでも、「もう少しだ」と自分を励まし、
順調に足を進めた。
ここでも何人ものランナーを、追い抜いた。
とうとう上りきり、折り返し点を回った。
下り道に入ってすぐ、25キロの給水所があった。
それまでの給水所では、一口だけ水分補給をしてきた。
すごく体が火照っていた。
グイッグイッとコップの水を勢いよく飲んだ。
それが、良くなかったのか。今もよく分からない。
再び下り坂を走り始めたが、今までとは違った。
足が思うように前へ進まなくなってきた。
次第に、歩幅が狭くなり、
私を追い抜いていく人が増えていった。
前を走っていた方とも、距離がどんどん離れていった。
下り坂なのに、息が荒い。
やがて耳鳴りが始まり、軽い頭痛がしてきた。
体調が変わってきた。
長い距離を走るのだ。体調にも山あり谷ありだ。
私は自分を励まし、
1歩1歩を踏みしめながら進んだ。
その時、救護所が見えた。
気が緩んだのだろうか。
突然、左足のふくらはぎがつった。
痛みで顔がゆがんだ。
立ち止まるのをくり返しながら、
やっと救護所まで行った。
冷却スプレーを何度もかけてもらった。
痛みは和らいだが、歩くのもつらくなった。
救護所の横に腰を下ろした。
耳鳴りと頭痛が、続いていた。
救護の方から、ペットボトルの水をもらった。
周りには、何人ものランナーが腰を下ろし、
うな垂れていた。
少しの日陰で、横たわっている方も数人いた。
どの人も、胸のゼッケンをはずしていた。
それが途中棄権のサインだと知った。
私も、安全ピンを抜き、ゼッケンを取った。
まだ、心は静かだった。
(2)
30分以上は、その場にいただろうか。
リタイアするランナーが増えていった。
やがて、収容車と書かれたバスに乗り込んだ。
何も考えられないまま、運転席の真後ろの席についた。
すぐに、私の隣に大きなため息と一緒に青年が座った。
落胆が伝わってきた。
暑さのためか、途中棄権が多く出ていたようだ。
このバスも、席がなく立ったままの方で埋まった。
やがて、ゴール地点の温泉街へと動き出した。
マラソンコースの片側車線を進んですぐ、
まだ走り続ける女性ランナーを1人、2人と見た。
そして、その数が増え、10数人が長い列を作っていた。
必死に走り続けるランナーの後ろ姿があった。
ところが、そこから2,300メートル先だろうか。
4,5人のスタッフが、青い布テープを張り、
横一線に並んでいた。
27キロの関門である。
すでに所定の制限時間が過ぎているのだ。
それでも、あのランナー達は、
そこまでの道を必死に走り続けていた。
ゼッケンを外し、収容車から私は、それを見た。
彼女らは、もう制限時間を越えていることに、
気づいていると思う。
それでも、力をふりしぼり関門まで走っている。
その健気さに心打たれた。
こみ上げてくるものがあった。
隣でうな垂れる青年がいたが、
熱いものが目頭を、くもらせた。
あわてて持っていたゼッケンで顔を覆い、上を向いた。
その時だった。
急に、今日にむけ走り続け、自分と向き合い、
頑張ってきた日々を思い出した。
もう棄権してから、かなりの時間が過ぎていた。
なのに、初めて悔しさで胸がいっぱいになった。
走れなくなったことを悔いた。
なぜ関門で止められるまで、足を引きずってでも、
前へ進まなかったのか。「弱虫!」。
私を責めた。
年齢を忘れ、人目もはばからず、号泣したかった。
しかし、隣にますます背中を丸める青年がいた。
涙をこらえ、バスの車窓から、
新緑の優しい若葉を見続けた。
いつもの私に戻っていった。
(3)
その日の夕食は、回転寿司にした。
久しぶりの生ビールで、10キロを一応完走した家内と、
私の次でのリベンジに乾杯した。
美味しいお寿司とお酒に満たされた。
そして、疲れが深い眠りに誘ってくれた。
ところが、深夜のことだ。
長い夢を見た。
次から次に知人、友人、そして教え子、ご近所さん、
親戚、兄弟、我が子、旧友が現れた。
そして、棄権した私へ、励ましの言葉をくれるのだ。
言い方は、それぞれ違っていた。
でも、一人一人の温かさ、優しさが私を包んだ。
最初は、笑顔でそれを聞いていた。
やがて顔がゆがんだ。
心がふるえだした。
嬉しかった。人に恵まれていた。
「よし、また頑張ろう。」と誓う私。
目ざめると、枕元が少し濡れていたかも。
2日間、休養をとった。
でも、また走り始めた。
夢が私を押してくれている。
だて歴史の杜公園の 春色