ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

『はなむけの言葉』から

2015-03-27 22:18:21 | 教育
 学校にとって、3月は『別れの季節』である。
私は、幸いなことに、墨田区内3校で計12年間も校長をさせてもらった。
従って、校長として12回、卒業生を見送った。

 卒業式では、卒業証書の授与と共に、式辞という大きな役割があった。
毎年、その年度の卒業生の顔を思い浮かべながら、
どんな内容にしようかと思いを巡らせた。

 北海道に移住して3年。
今では中々卒業式に列席する機会はないが、
あの凜とした式の雰囲気が、私は大好きだった。

 数年前をふり返り、式辞で述べた『はなむけの話』を記す。


 ◎ はなむけの話 その1

 明るく揚々とした未来にはばたく卒業生に、私からのはなむけのお話として、
日本を代表する歴史小説家であります司馬遼太郎さんが書いた
『21世紀を生きる君たちへ』
と題する小論文の一節を紹介します。

 司馬遼太郎さんは、江戸末期に活躍した坂本龍馬の生涯を描いた「竜馬がいく」や、
平安時代の高僧・空海を題材とした「空海の世界」など数多くの著書があり、
皆さんもこれから先、司馬さんの歴史小説を読みふけることがあろうかと思います。

 すでに他界している司馬さんは、
「21世紀というものを見ることができないに違いない。」と考えて、
「21世紀をたっぷりと見ることができるばかりか、
その輝かしい担い手である」君たちへと、メッセージを残しています。

 司馬さんは、21世紀を生きる人々にとって大切なものは、
助け合い、いたわり、やさしさだと説き、そのメッセージにはこう綴ってあります。

 『いたわり、他人の痛みを感じること、やさしさ、みな似たような言葉である。
この3つの言葉は、もともと助け合うと言う一つの根から出ているのである。
根と言っても、本能ではない。
だから、私達は訓練をして、それを身につけねばならないのである。
その訓練とは、簡単なことである。
例えば、友達がころぶ、「ああ痛かったろうな。」と感じる気持ちを、
そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、
いたわりという気持ちもわき出てくる。』

 司馬遼太郎さんは、こう私達に語っています。
 私は、このメッセージにある訓練を、ぜひ皆さんにお願いしたいのです。
「友達がころぶ、ああ痛かっただろうなあと感じる気持ちを、
そのつど自分の中につくりあげていく。」
このような訓練を通して、
いたわりややさしさ、助け合うと言った感情を、
自分の中にしっかりと根づかせてほしいのです。

 皆さんがこれから歩む、3年間の中学校生活。
そこにはきっと様々な喜びとともに、多くの困難が待ち受けていることと思います。
 その困難の多くは、沢山の友人をはじめ、
いろいろな人々との助け合いによって克服されていくに違いありません。
だからこそ、私は皆さんに、助け合うといった感情を、
日常の訓練の中で育ててほしいと願っています。

 新しい歩みをはじめる記念すべき今日、私は卒業生の皆さんに、
司馬遼太郎さんの言う助け合い、いたわり、やさしさを持った人間として、
より大きく成長してほしいと希望し、はなむけの言葉としました。



 ◎ はなむけの話 その2

 本校を巣立つ卒業生に、はなむけのお話をします。
 皆さんの中にはくり返し読んだことのある人もいるかと思いますが、
作・内田麟太郎さん、絵・降矢ななさんの絵本「おれたち ともだち」シリーズから、
その第4巻「ごめんね ともだち」を紹介しようと思います。

 おかしな思いつきから、キツネは「ともだちや」という商売を始めます。
その商売が切っ掛けとなって、
なんとキツネはオオカミと大の仲良しになるのです。

しかし、ある日、ダーツをやっても、けん玉をしても、トランプでも、
オオカミは、キツネにことごとく負けてしまいます。
負けて悔しくてたまらないオオカミは、
「お前がズルしたからに違いない。インチキ。」
と、キツネの椅子を蹴飛ばし、
その上、「インチキはこの家から出て行け。」と、
どしゃ降りの雨の中、傘も持たせずにキツネを追い出してしまいます。
キツネは、ずぶぬれになりながら帰って行きます。

 それを見て、オオカミはすぐにしょげてしまいます。
オオカミはつぶやきます。
「俺の言い過ぎだった。あいつはインチキなんか絶対にしていない。」

 ですから、オオカミは次の日いつもの散歩道に出かけ、
キツネに会ったら「ごめんな。」と謝るつもりでした。
ところが、翌日、キツネには会えたものの、
いざとなると「ごめんな、キツネ。」とは言えませんでした。
 キツネの方も「オオカミさん。」と声をかけたかったのですが、
ぷいとそっぽを向いてしまいます。

 卒業生の皆さん、オオカミとキツネに限らず、
一度や二度、誰でもこのような経験があるのではないでしょうか。

 オオカミは、この絵本の冒頭でこう言っています。
 「俺、オオカミ。俺の苦手な言葉、知ってるか。
ごめんね。ごめん。ごめんなさい。
難しいんだ。心の中なら簡単なのに、その簡単がなぜだか言えない。」
 このことは、オオカミだけでなく、キツネも同じでした。
あの時、散歩道でそっぽを向いたりしなければと、
そして、オオカミに「ごめんね。」と言いたくて、
でも、それが言い出せません。

 このお話では、なかなか「ごめんなさい。」が言えない不甲斐なさから、
キツネが思わずこぼした涙が切っ掛けとなり、
オオカミとキツネは互いに「ごめんね。」と言い合い、
以前よりももっと仲の良い二人になるのです。

 さて、このお話を皆さんはどう受け止めますか。
オオカミやキツネと同様、私達はつい自分の思いや言い分だけを考え、
トラブルになることがあります。
そんな時、自分の至らなさ勝手さに気づいても、
この絵本同様、なかなか「ごめんなさい。」が言えないことがあります。

 これから皆さんが歩む道には、
それこそ「ごめんない。」と言い合わなければならない機会が、
たくさんあると思います。
 そんな時、私は、このオオカミとキツネを思い出して欲しいのです。
謝りたいのは、オオカミだけではなかったのです。
キツネも同じ気持ちでした。
 だとしたら、相手を信じ、なかなか言えない「ごめんなさい。」という言葉も、
簡単ではないにしろ、言えるのではないでしょうか。

 皆さんが生きるこれからの時代は、ますますスピードが求められ、
人々の生活も忙しさを増し、社会は複雑化に拍車がかかることでしょう。
だからこそ、間違いを素直に謝ることが、
極めて大切になる時代なのではないでしょうか。
そんな時代を生きる皆さんへ、
私は、はなむけとして絵本『ごめんね キツネ』のお話をしました。





春の日射しをうけ 二羽のカモメが語らう
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北の味覚と輝き

2015-03-19 22:48:48 | 投稿
 40年勤めた東京での暮らしを終え、
私は、故郷・北海道でその後を過ごすことにした。

 勤務の気晴らしにと始めたゴルフを、体の動く限り気軽にやれたらいい、
そんなことを思いつつの大英断だった。
 移り住んだ伊達には、一人の友人もおらず、
家内だけがゴルフ相手だったが、
自宅から車で15分と恵まれたコースで、週一のプレイを楽しんでいた。

 山々が色づき始めたある日。
コースの片隅の林からグリーンキーパーの方が、
両手に山盛りの黄色く艶のあるキノコを持って現れた。
 彼はとても誇らしげに、それをかざし、
「持っていきな。」
と、気さくに声をかけ、カートの前カゴにそのキノコを入れてくれた。
 私は、どこで採った、どんなキノコかも分からぬまま、
それでも旧知の仲のように振る舞う彼に、
形だけのお礼を言いプレイを続けた。
 彼が遠のいてから、家内に
「訳の分からないキノコ、俺は食べない。あんたも止めとけ。」
と、小声で言った。

 プレイ後、ビニール袋にそのキノコを入れ、
「持ち帰るのが、頂いた彼への礼儀。」
と思い、片手にぶら下げ、クラブハウスへ移った。

 ハウス内には、臨時の野菜売場が設けられていた。
その陳列台に目をやると、
私がぶらさげているキノコと同じものが、
五百円の値をつけ、私の半分程度の量でいくつも並んでいた。
値札には『落葉キノコ』と名があった。

 帰宅すると、早速そのキノコについて調べてみた。
すると、唐松の根元にしかないキノコで、
多くの愛好家たちがキノコ狩りをし、その味を楽しむとあった。

 その日の夕食、家内が味噌汁にした。
私は、不安が払拭されないまま、それでもその味噌汁を口にした。
確かにキノコ好きには、たまらない味だと思った。
 キノコをさほど好まない私だが、ついお代わりをしていた。
北国の秋の味覚との出会いであった。

 そして晩秋。
落葉キノコが生息していたゴルフ場のあの唐松林は、
雪を目前にして橙色に紅葉した。
 尖った細い橙色の落ち葉は、風とともに舞い上がり、
あたりの全てを、光り輝く橙に染めた。
私は、そのさり気ない、秋宴の美しさに心を奪われた。

 そして、あのグリーンキーパーさんの、
これまたさり気ない振る舞いを思い出し、
彼から、北の味覚と晩秋の輝きという贈り物を貰った気がした。

   ≪平成25年夏『第5回心に響く…北のエピソード』入選≫




クロッカスが咲いていた! ビックリ!
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ユルリ島に想う

2015-03-13 19:39:19 | 北の大地
 道東は根室半島のつけ根付近、太平洋沿岸に無人の小島がある。
ユルリ島と言う。
『ユルリ』とは、アイヌ語で「鵜の居る島」という意味らしい。

 その名の通りで、この島は、
絶滅危惧種のエトピリカをはじめ、国内有数の北方系海鳥の営巣地であり、
現在は、国指定の鳥獣保護区ならびに北海道指定の天然記念物となっている。
そのため、一般人の立ち入りは禁止されている。

 戦後のことになるが、周囲約8キロの断崖に囲まれた平坦な台地状のこの島には、
地元でもさほど注目されることのなかった歴史がある。

 この島の周辺海域では、昆布漁が盛んだった。
まだエンジン付きの船ではなかった終戦まもない頃、
漁業者たちは、ユルリ島の崖上の平地を昆布の干し場にした。
そして、昭和26,7年頃、昆布を引き上げる労力として、
この島に馬が運び込まれた。
 島には、多い時期には6軒の番屋ができ、夏だけ漁業者が定住していた。

 ところが、昭和40年代にエンジン付き船舶が出回り、
昆布の干し場としての島の役割は薄れていった。
当然、労力としての馬の必要性も無くなっていった。

 とうとう昭和46年、最後の漁業者が島を去った。
北海道本土に、馬を放牧する土地を持たなかった漁業者は、
そのまま島に馬を残すことにした。
 島には、馬のエサとなるミヤコザサなど豊富な食草が生い茂っており、
中央部には湿原もあった。いくつかの小川も流れていた。
 冬は、強い風で深い雪にはならなかったが、
それでも馬たちは前足で雪を掘り、草を食んだ。

 島はその後、馬の生産を目的とする自然放牧地へと用途を変えた。
近親交配による馬の絶滅を防ぐために、
雄馬を間引きし、種雄馬の交換なども行った。
 多いときには、約30頭がいたようだが、
一切人間がエサを与えることはなく、馬は野生化していった。

 そして、平成18年、かつて島に住んでいた漁業者が高齢となり、
馬の繁殖を断念した。
 その時、18頭が生息していたが、その内4頭の種雄馬が間引きされ、
14頭の雌馬だけが島に残されることになった。

 雄馬のいなくなったユルリ島で、
新しい子馬が産まれることは永遠になくなった。
 
 この事実に興味を持った新進気鋭の写真家・岡田敦さんが、
何度も断られながらも熱意が実り、
根室市から上陸許可を受け、島に上がった。

島には平成23年8月12頭、25年8月10頭、
そして、昨年2月には6頭の生存が確認された。
それから1年、今、何頭生き続けているのか、私に知る術はない。

 私が、ユルリ島のこんな歴史を知ったのは昨年4月のことだった。
地元のテレビと新聞でこの報道に接した。

 特に新聞記事の
『強風が吹き付ける北の小島に残され、
やがては消滅を運命づけられた雌馬たち。』
の一文に、胸をつまらせ、涙で文字がにじんだ。
切なさが、ずうっと心から離れなかった。

 しかし、この雌馬たちを撮り続ける岡田氏は、
「家畜であれば、人間に役割を与えられ、それぞれの価値が決まる。
ここの馬は自由に生きて幸せなのかなあ、と。
『生きる』ということを考えさせられる。」
と、言う。

 いつも人間の都合で振り回されたユルリ島の馬たち。
私は、その馬への扱いに異議を唱えるつもりなど毛頭ない。
 様々な時代の宿命の中で人々も馬たちも生きている。
そのことを淡々と受け止めたいと思う。

 そして、なによりも、あの日、14頭の雌馬を残し、
島を去った年老いた漁業者の後ろ姿を私は想像する。
 きっと、その背中はいつまでもいつまでも震えていたのではないだろうか。




少しずつ 伊達にも 春の足音が 
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言葉にできないまま

2015-03-06 22:05:17 | 心残り
 母は、10年前に亡くなった。96才だった。
あと一息で100才だと思うと、若干残念ではあったが、
それでも、天寿をまっとうしたと納得している。

 葬儀では、22才も違う長姉の強い推薦もあり、
末っ子の私が弔辞を述べることになった。

通夜の後、一晩かけて書き上げた文面には、
『明治の女性であった我が母のその生涯は、
ただただ子を想い、家族を案じる暮らしぶりでした。』
と、記した。
 そして、『時に人は、“美しく老いること”に憧れます。
母の晩年は、そんな言葉がふさわしいものでした。
80才を越えてもなお、月に一度は美容院に行き、髪を整えた母。
まるで、文学好きの少女のように、目を輝かせ歴史小説を読みふけった母。
毎日、朝刊に目を通し、社会の動静に一人心を痛めた母。
「何もないけど、食べていってね。」と、
いつもいつも、健気に甲斐甲斐しく人をもてなした母。
私は、この年令になった今でもなお、
そんな貴方から、多くのことを学んでいました。』
と、遺影に語りかけ、
一人の女性としての、そして母としての、その生涯に称賛と感謝を伝えた。

 実母の弔辞など、異例のことのように思うが、
大勢の弔問の方を前に、
舌足らずとは言え、母への別れを伝えることができ、
私は、この上ない幸せを感じた。

 しかし、その弔辞でどうしても言葉にできず、
今も悔いていることがある。
それは、何を隠そう、母へのお詫びであった。

 何時の時代でも、子は親にいくつもの隠し事をする。
そして、沢山の隠し事を抱えながら、子は成長するのである。
だから、私も親には言わないその時々の秘密を持ち、
それを何とか親に内緒でクリアーし、少年期と青年期を越えてきた。
だが、私の悔いは、それらとは全く違った。

 私は、父41才、母40才の時に産まれた。
まだ、戦後の混乱した時である。
すでに成人を迎えていた長姉は、母が身ごもったことを知ると、
「そんな恥ずかしこと。」と口走ったと言う。
それだけ、当時として珍しい高齢での出産だった。

 私は、我が家の都合で3才から保育所で育った。
 確か、5才の時だったと思う。
毎月決まった日に納めていた保育料が、袋ごと保育カバンから無くなった。
盗まれたものか、落としたものか、分からなかった。

 今思うと、当時の母は更年期障害だったのではないだろうか。
家事も仕事もせず、床に伏せていた。
しかし、月々の保育料は我が家にとって高額だった。
母は、ふらつく体をおして、保育所に出向き、所長さんと面談した。

 母は、ゆっくりとしたたどたどしい足取りで、
保育所の壁に手をそえながら歩いていた。
 私は、遊戯室のガラス窓からそんな母を見た。
いつも近くでしか見ない母の姿を、初めて遠くから見た。
弱々しいその足取りを、まばたきもしないでじっと見た私。
目から涙がいっぱい溢れ出た。
保育所の先生が、後から私をぎゅっと抱きしめてくれた。

 やがて、母はすっかり回復し、
小学校の入学式では私の手を引き、一緒に担任の先生に挨拶をしてくれた。
張り切りすぎた私は、名前を言って頭を下げたのだが、
そこに机があり、音をたてておでこをぶつけ、瘤を作った。
 母は、「まあ、この子ったら。」と言いながら、
今度は母が頭を下げ、私の後頭部に母のおでこをぶつけた。
二人でおでこを擦りながら、泣き笑いをした。

 ところが、2年生の時だった。
忙しい仕事を抜けて、初めて母が授業参観に来てくれた。
私は浮かれていた。
先生の目を盗んで、笑顔で教室の後の母を探した。

 その夜、夕食を囲んだ家族の前で、
「もう授業参観に来なくていいから。」
と、強い口調で言った。
 母からも兄弟たちからも、「どうして?」とくり返し訊かれたが、
私はその訳を決して言わなかった。

 教室の後に立っていた母は、一人だけ違っていた。
まだまだ貧しい時代だった。
それでも、母以外はみんな洋服だった。
母だけ、もんぺ姿だった。
どのお母さんも若々しいのに、母は背を少し丸め、老けて見えた。
急に、保育所でのたどたどしい母の歩き方と私の涙を思い出し、心が沈んだ。

 以来、授業参観どころか、母は学校に一切来なかった。
そして、私は中学、高校、大学の入学式の同伴を父に頼み、
母は、どんな思いだったのか、
「父さん、お願いしますね。」と、入学式のたびに頭を下げた。

 そんなことがあっても、母は、私をいつも心優しく見守ってくれた。
末っ子の特権で、兄弟たちを押しのけ、家では母に甘えていた。
 思春期の頃だったと思う。
何をやっても思うようにならず、気持ちが荒れていた。
どうにでもなれとばかり、母に当たり散らした。
 その時、「あんたは努力家なんだから、何だって諦めたらダメ。」
と、目を真っ赤にしながら言ってくれた。
 心がすうっと静かになった。
そして、その言葉は、私の一生の宝になった。

 それでも、私は母と一緒に人前に立つことを嫌がった。
友だちに母を紹介するのも避けた。

 親は、我が子にできるだけ不憫な思いをさせたくないと思うのが常である。
だから、年のいった母を恥ずかしく思う我が子を察し、
母は、学校へ行くことを諦めたのだと思う。
できるだけ我が子と一緒の場に出ることも避けてくれたのだと思う。
 私は、そんな子を想う母の気持ちを、深く考えもせず、
当然のことのように振る舞い続けた。

 やがて、私も成人し、二人の子の親となった。
自慢の親とまではいかなくても、子どもにとって恥ずかしくない親でありたいと努めた。
そして、我が子に避けられた親の気持ちに気づいた。
母の、心の傷の深さを思い、息が詰まった。
 申し訳ない気持ちを適当に濁すことなく、いつか、母に、
「辛い思いをさせてしまったね。済まなかったね。」
と、心から詫びようと思っていた。

 けれど、生前も、そしてあの弔辞と言う最後のチャンスでも、
それを、言葉にできないまま終わってしまった。
その悔いは、これからも消えることはない。




福寿草が咲いている・今年の伊達は春が早い
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