学校にとって、3月は『別れの季節』である。
私は、幸いなことに、墨田区内3校で計12年間も校長をさせてもらった。
従って、校長として12回、卒業生を見送った。
卒業式では、卒業証書の授与と共に、式辞という大きな役割があった。
毎年、その年度の卒業生の顔を思い浮かべながら、
どんな内容にしようかと思いを巡らせた。
北海道に移住して3年。
今では中々卒業式に列席する機会はないが、
あの凜とした式の雰囲気が、私は大好きだった。
数年前をふり返り、式辞で述べた『はなむけの話』を記す。
◎ はなむけの話 その1
明るく揚々とした未来にはばたく卒業生に、私からのはなむけのお話として、
日本を代表する歴史小説家であります司馬遼太郎さんが書いた
『21世紀を生きる君たちへ』
と題する小論文の一節を紹介します。
司馬遼太郎さんは、江戸末期に活躍した坂本龍馬の生涯を描いた「竜馬がいく」や、
平安時代の高僧・空海を題材とした「空海の世界」など数多くの著書があり、
皆さんもこれから先、司馬さんの歴史小説を読みふけることがあろうかと思います。
すでに他界している司馬さんは、
「21世紀というものを見ることができないに違いない。」と考えて、
「21世紀をたっぷりと見ることができるばかりか、
その輝かしい担い手である」君たちへと、メッセージを残しています。
司馬さんは、21世紀を生きる人々にとって大切なものは、
助け合い、いたわり、やさしさだと説き、そのメッセージにはこう綴ってあります。
『いたわり、他人の痛みを感じること、やさしさ、みな似たような言葉である。
この3つの言葉は、もともと助け合うと言う一つの根から出ているのである。
根と言っても、本能ではない。
だから、私達は訓練をして、それを身につけねばならないのである。
その訓練とは、簡単なことである。
例えば、友達がころぶ、「ああ痛かったろうな。」と感じる気持ちを、
そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、
いたわりという気持ちもわき出てくる。』
司馬遼太郎さんは、こう私達に語っています。
私は、このメッセージにある訓練を、ぜひ皆さんにお願いしたいのです。
「友達がころぶ、ああ痛かっただろうなあと感じる気持ちを、
そのつど自分の中につくりあげていく。」
このような訓練を通して、
いたわりややさしさ、助け合うと言った感情を、
自分の中にしっかりと根づかせてほしいのです。
皆さんがこれから歩む、3年間の中学校生活。
そこにはきっと様々な喜びとともに、多くの困難が待ち受けていることと思います。
その困難の多くは、沢山の友人をはじめ、
いろいろな人々との助け合いによって克服されていくに違いありません。
だからこそ、私は皆さんに、助け合うといった感情を、
日常の訓練の中で育ててほしいと願っています。
新しい歩みをはじめる記念すべき今日、私は卒業生の皆さんに、
司馬遼太郎さんの言う助け合い、いたわり、やさしさを持った人間として、
より大きく成長してほしいと希望し、はなむけの言葉としました。
◎ はなむけの話 その2
本校を巣立つ卒業生に、はなむけのお話をします。
皆さんの中にはくり返し読んだことのある人もいるかと思いますが、
作・内田麟太郎さん、絵・降矢ななさんの絵本「おれたち ともだち」シリーズから、
その第4巻「ごめんね ともだち」を紹介しようと思います。
おかしな思いつきから、キツネは「ともだちや」という商売を始めます。
その商売が切っ掛けとなって、
なんとキツネはオオカミと大の仲良しになるのです。
しかし、ある日、ダーツをやっても、けん玉をしても、トランプでも、
オオカミは、キツネにことごとく負けてしまいます。
負けて悔しくてたまらないオオカミは、
「お前がズルしたからに違いない。インチキ。」
と、キツネの椅子を蹴飛ばし、
その上、「インチキはこの家から出て行け。」と、
どしゃ降りの雨の中、傘も持たせずにキツネを追い出してしまいます。
キツネは、ずぶぬれになりながら帰って行きます。
それを見て、オオカミはすぐにしょげてしまいます。
オオカミはつぶやきます。
「俺の言い過ぎだった。あいつはインチキなんか絶対にしていない。」
ですから、オオカミは次の日いつもの散歩道に出かけ、
キツネに会ったら「ごめんな。」と謝るつもりでした。
ところが、翌日、キツネには会えたものの、
いざとなると「ごめんな、キツネ。」とは言えませんでした。
キツネの方も「オオカミさん。」と声をかけたかったのですが、
ぷいとそっぽを向いてしまいます。
卒業生の皆さん、オオカミとキツネに限らず、
一度や二度、誰でもこのような経験があるのではないでしょうか。
オオカミは、この絵本の冒頭でこう言っています。
「俺、オオカミ。俺の苦手な言葉、知ってるか。
ごめんね。ごめん。ごめんなさい。
難しいんだ。心の中なら簡単なのに、その簡単がなぜだか言えない。」
このことは、オオカミだけでなく、キツネも同じでした。
あの時、散歩道でそっぽを向いたりしなければと、
そして、オオカミに「ごめんね。」と言いたくて、
でも、それが言い出せません。
このお話では、なかなか「ごめんなさい。」が言えない不甲斐なさから、
キツネが思わずこぼした涙が切っ掛けとなり、
オオカミとキツネは互いに「ごめんね。」と言い合い、
以前よりももっと仲の良い二人になるのです。
さて、このお話を皆さんはどう受け止めますか。
オオカミやキツネと同様、私達はつい自分の思いや言い分だけを考え、
トラブルになることがあります。
そんな時、自分の至らなさ勝手さに気づいても、
この絵本同様、なかなか「ごめんなさい。」が言えないことがあります。
これから皆さんが歩む道には、
それこそ「ごめんない。」と言い合わなければならない機会が、
たくさんあると思います。
そんな時、私は、このオオカミとキツネを思い出して欲しいのです。
謝りたいのは、オオカミだけではなかったのです。
キツネも同じ気持ちでした。
だとしたら、相手を信じ、なかなか言えない「ごめんなさい。」という言葉も、
簡単ではないにしろ、言えるのではないでしょうか。
皆さんが生きるこれからの時代は、ますますスピードが求められ、
人々の生活も忙しさを増し、社会は複雑化に拍車がかかることでしょう。
だからこそ、間違いを素直に謝ることが、
極めて大切になる時代なのではないでしょうか。
そんな時代を生きる皆さんへ、
私は、はなむけとして絵本『ごめんね キツネ』のお話をしました。
春の日射しをうけ 二羽のカモメが語らう
私は、幸いなことに、墨田区内3校で計12年間も校長をさせてもらった。
従って、校長として12回、卒業生を見送った。
卒業式では、卒業証書の授与と共に、式辞という大きな役割があった。
毎年、その年度の卒業生の顔を思い浮かべながら、
どんな内容にしようかと思いを巡らせた。
北海道に移住して3年。
今では中々卒業式に列席する機会はないが、
あの凜とした式の雰囲気が、私は大好きだった。
数年前をふり返り、式辞で述べた『はなむけの話』を記す。
◎ はなむけの話 その1
明るく揚々とした未来にはばたく卒業生に、私からのはなむけのお話として、
日本を代表する歴史小説家であります司馬遼太郎さんが書いた
『21世紀を生きる君たちへ』
と題する小論文の一節を紹介します。
司馬遼太郎さんは、江戸末期に活躍した坂本龍馬の生涯を描いた「竜馬がいく」や、
平安時代の高僧・空海を題材とした「空海の世界」など数多くの著書があり、
皆さんもこれから先、司馬さんの歴史小説を読みふけることがあろうかと思います。
すでに他界している司馬さんは、
「21世紀というものを見ることができないに違いない。」と考えて、
「21世紀をたっぷりと見ることができるばかりか、
その輝かしい担い手である」君たちへと、メッセージを残しています。
司馬さんは、21世紀を生きる人々にとって大切なものは、
助け合い、いたわり、やさしさだと説き、そのメッセージにはこう綴ってあります。
『いたわり、他人の痛みを感じること、やさしさ、みな似たような言葉である。
この3つの言葉は、もともと助け合うと言う一つの根から出ているのである。
根と言っても、本能ではない。
だから、私達は訓練をして、それを身につけねばならないのである。
その訓練とは、簡単なことである。
例えば、友達がころぶ、「ああ痛かったろうな。」と感じる気持ちを、
そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、
いたわりという気持ちもわき出てくる。』
司馬遼太郎さんは、こう私達に語っています。
私は、このメッセージにある訓練を、ぜひ皆さんにお願いしたいのです。
「友達がころぶ、ああ痛かっただろうなあと感じる気持ちを、
そのつど自分の中につくりあげていく。」
このような訓練を通して、
いたわりややさしさ、助け合うと言った感情を、
自分の中にしっかりと根づかせてほしいのです。
皆さんがこれから歩む、3年間の中学校生活。
そこにはきっと様々な喜びとともに、多くの困難が待ち受けていることと思います。
その困難の多くは、沢山の友人をはじめ、
いろいろな人々との助け合いによって克服されていくに違いありません。
だからこそ、私は皆さんに、助け合うといった感情を、
日常の訓練の中で育ててほしいと願っています。
新しい歩みをはじめる記念すべき今日、私は卒業生の皆さんに、
司馬遼太郎さんの言う助け合い、いたわり、やさしさを持った人間として、
より大きく成長してほしいと希望し、はなむけの言葉としました。
◎ はなむけの話 その2
本校を巣立つ卒業生に、はなむけのお話をします。
皆さんの中にはくり返し読んだことのある人もいるかと思いますが、
作・内田麟太郎さん、絵・降矢ななさんの絵本「おれたち ともだち」シリーズから、
その第4巻「ごめんね ともだち」を紹介しようと思います。
おかしな思いつきから、キツネは「ともだちや」という商売を始めます。
その商売が切っ掛けとなって、
なんとキツネはオオカミと大の仲良しになるのです。
しかし、ある日、ダーツをやっても、けん玉をしても、トランプでも、
オオカミは、キツネにことごとく負けてしまいます。
負けて悔しくてたまらないオオカミは、
「お前がズルしたからに違いない。インチキ。」
と、キツネの椅子を蹴飛ばし、
その上、「インチキはこの家から出て行け。」と、
どしゃ降りの雨の中、傘も持たせずにキツネを追い出してしまいます。
キツネは、ずぶぬれになりながら帰って行きます。
それを見て、オオカミはすぐにしょげてしまいます。
オオカミはつぶやきます。
「俺の言い過ぎだった。あいつはインチキなんか絶対にしていない。」
ですから、オオカミは次の日いつもの散歩道に出かけ、
キツネに会ったら「ごめんな。」と謝るつもりでした。
ところが、翌日、キツネには会えたものの、
いざとなると「ごめんな、キツネ。」とは言えませんでした。
キツネの方も「オオカミさん。」と声をかけたかったのですが、
ぷいとそっぽを向いてしまいます。
卒業生の皆さん、オオカミとキツネに限らず、
一度や二度、誰でもこのような経験があるのではないでしょうか。
オオカミは、この絵本の冒頭でこう言っています。
「俺、オオカミ。俺の苦手な言葉、知ってるか。
ごめんね。ごめん。ごめんなさい。
難しいんだ。心の中なら簡単なのに、その簡単がなぜだか言えない。」
このことは、オオカミだけでなく、キツネも同じでした。
あの時、散歩道でそっぽを向いたりしなければと、
そして、オオカミに「ごめんね。」と言いたくて、
でも、それが言い出せません。
このお話では、なかなか「ごめんなさい。」が言えない不甲斐なさから、
キツネが思わずこぼした涙が切っ掛けとなり、
オオカミとキツネは互いに「ごめんね。」と言い合い、
以前よりももっと仲の良い二人になるのです。
さて、このお話を皆さんはどう受け止めますか。
オオカミやキツネと同様、私達はつい自分の思いや言い分だけを考え、
トラブルになることがあります。
そんな時、自分の至らなさ勝手さに気づいても、
この絵本同様、なかなか「ごめんなさい。」が言えないことがあります。
これから皆さんが歩む道には、
それこそ「ごめんない。」と言い合わなければならない機会が、
たくさんあると思います。
そんな時、私は、このオオカミとキツネを思い出して欲しいのです。
謝りたいのは、オオカミだけではなかったのです。
キツネも同じ気持ちでした。
だとしたら、相手を信じ、なかなか言えない「ごめんなさい。」という言葉も、
簡単ではないにしろ、言えるのではないでしょうか。
皆さんが生きるこれからの時代は、ますますスピードが求められ、
人々の生活も忙しさを増し、社会は複雑化に拍車がかかることでしょう。
だからこそ、間違いを素直に謝ることが、
極めて大切になる時代なのではないでしょうか。
そんな時代を生きる皆さんへ、
私は、はなむけとして絵本『ごめんね キツネ』のお話をしました。
春の日射しをうけ 二羽のカモメが語らう