ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

ちょっと 背伸び

2021-12-25 14:51:35 | 今 を
 ▼ また1年が終わる。
心が動く機会が少なくなると、
月日の流れが早く感じるらしい。
 だから、今年もあっという間だったのか・・。

 年々、体の動きが固くなり、
一緒に感性までもが鈍くなっているようだ。
 「これは、一大事!」。
 
 たしか今年1月だったと思う。
このブログに、『これ以上錆び付かないように・・・、
思いつくまま、やりたいと思うことを淡々と重ねよう』と、記した。
 だけど、さほど「やりたい」と思いつくことも、
淡々と思いついたことを重ねることもないまま過ごしている気がする。

 これでは、「いかん!いかん!」。
まだまだコロナ禍は続くだろう。
 便乗して、このまま錆びつくのか。
「とんでもない!」。
 そうだ。今後のプランでも練ろう。 

 ▼ 壮大なロマンを企画するなど、
無理に決まっている。
 地道にコツコツと、でもちょっとだけ背伸びをしてみたい。

   プラン1 
 6年前から、ランニング記録をつけている。
徐々に朝ランの頻度が少なくなっている。
 その上、タイムが随分と遅くなった。

 「年齢と共に、ある程度の後退はいたしかたないさ!」。
そう言いつつも、やはり情けなさがつのる。
それが、日々のストレスにも繋がる。
 ならば、プラン1を目指して、
「今できることは何か?」と、見直してみた。

 タイムを戻すことはなかなか難しい。
でも、今すぐでも、走る回数を増やすことなら、
走る距離を伸ばすことならできそうだ。

 「無駄な抵抗でもいいから!」と、自分に言い聞かせながら、
12月に入ってから、まずは「筋力の回復」と、
4年ぶりにトレーニング室へ通うことにした。

 そして、冬の天候に左右されずに走れるようにと、
外ランをやめ、総合体育館のランニングコースを使うことに。

 今は、2日汗を流し、1日休息のサイクルが
軌道に乗り始めている。
 
 ところが、自分では納得しているつもりでいたが、
やはりタイムが気になる。
 一向に改善の兆候すらない。

 そんな矢先だった。
ランニングコースで2年ぶりの方に出会った。
 私の後ろを追走し、
走り方のアドバイスをしてくださっていた方だ。
 その方は、昨冬、体調を崩されたとかで、
全く姿を見せなかった。

 ところが先日、元気に後ろから私のフォームを見て下さった。
そして「よくなったね。いいフォームだよ」。
 予想しなかった反応だった。
 
 そして、こんなことも、
「ゆっくり走った翌日あたりに、
少し速めに走るとすごく辛いんだよ。
 でも、慣れるとその速さも次第に苦にならなくなる。
辛くても少し速く走り続ける。それが大事なんだよ」。
 
 思い当たるところがあった。
少し速めに走る辛さをついつい回避していた。
 コツコツと続ける課題がはっきり分かった。

 さて、その辛さを続けることができるか。 
自信よりも不安が先行している。
 プラン1の実現には欠かせないことだ。
「頑張ってみるサ!」。
  
   プラン2
 一昨年よりお仲間に加えてもらった
『楽書きの会』の大先輩から、お葉書を頂いた。

 地元紙に掲載された私の随筆に対する嬉しい感想とともに、
末尾にこんな一文があった。
 『市民の為に健筆をお振るい下さい。』

 毎週土曜日の文化欄『大手門』に、
原稿用紙2枚程度の随筆を、今までに12編も載せてもらった。
 嬉しい限りだが、大先輩の一文に戸惑いが走った。

 執筆には当然自己責任はあるが、
12編の全ては、気ままな800字と言っていい。
 ただ、今日までの歩みの中から、
大切に思ったことを、私らしく文字に刻んだ。
 叶うなら、それを読んでもらえたらと願った。
そして、私の大切さが読み手に届くといいと・・・。

 それは、このブログも同じで、
大事なものをどこかに忘れてきたようで、不安だった。
 だから、週に1回だけ私自身と向き合い、
「もう忘れ物はないかい?」と、
キーボードを叩いてきた。
 
 そして、この7年半、毎週のように、
ブログを訪ねてくださる方々がいる。
 書き記した思いを読んでくださるのだ。

 それが励みになった。
「少しでも濁りのない言語で、思いを伝えたい!」。
 そんな欲が、書き綴るごとに膨らんだ。

 何を隠そう。
地元紙への掲載も、このブログも、 
「私」自身の想いを書き記したくて、
それを読んで貰えるなら・・の動機からの作業だ。
 それが、今、プラン2に繋がろうとしていた。

 そこへ飛び込んだ「市民の為に健筆を」の一文。
やけにインパクトがあった。
 思い悩んではみたが、
私への激励メッセージと受け止めることに・・。

 だって、迷うことなんてない。
ここまでの道を歩み続けることしか、
私にはできない・・・。
 「○○の為に」なんて、無理!
 
 先日、帰宅するなり、
家内がDさんの伝言だけどと言い出した。
 「気が早いけど、期待を込めて第2弾を予約しますだって。
急がないと! 待ってる人たちがいるうちに・・」。
 歩み続けた証として、そろそろプラン2の時かも!?・・・。




  厳寒の昭和新山 <歴史の杜公園より>
                ※次回のブログ更新予定は 1月8日(土)です
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もう一度行けたら ~日 光

2021-12-18 15:42:15 | あの頃
 「今を逃したら、またしばらく行けなくなるかも・・。
だから、思い切って2年ぶりに、
東京へ孫の顔を見に行くことにしたの」。
 正月の予定を明るく話す方がいた。

 私は、まだその勇気がない。
しばらくは、オミクロン株の推移と、
3回目のワクチン接種の状況を見て・・・。
 「それまでは、東京は控えよう!」。

 それにしても、テレビでは様々な旅番組が流れる。
行ったことない海外は論外だが、
国内でも、何度か足を運んだ名所には、
ついつい『あの時のあのこと』を思い出し、
「叶うなら、もう一度行けたらいいなぁ」と・・・。
 
 再放送だったが、先日放送された『日光』には縁があった。
数々の場面が浮かんだ。

 ①
 中学1年の正月、父母と一緒に叔母が暮らす宇都宮を訪ねた。
その時、初めて日光を訪ねた。

 最初に東照宮へ行った。
陽明門の前で、ガイドの旗をもった方の説明を聞いた。
 1日中見ていても飽きないくらいの装飾を自慢するガイドさんが、
すごく偉い人のように見えた。
 そして、有名な『眠り猫』を、
なかなか探せない母に、父が指を差して教えていた。

 その後、中禅寺湖まで行くことなった。
かなり前に廃線となったが、
「馬返し」と言う所から、初めてケーブルカーに乗った。
 最前列に座り、急な線路をドンドン進んだ。
途中で、降りてくる車両とすれ違うのだが・・。
 そこだけ線路が単線から複線になっていた。
すごい仕掛けに、思わず声を張り上げそうになった。

 中禅寺湖の湖畔は、「馬返し」までとは違い一面の雪だった。
雪には慣れていた。
 母の履く雪草履が、歩くたびにキュッキュッとなった。
一緒だった叔母が、不思議そうに訊いた。
 「さっきから、雪の中で何が鳴いているの?」。
「この音ですか、寒い日に雪の上を歩くとなるんですよ」。
 その時だけ、母は得意気な顔をした。

 ② 
 教職1年目から、日光へは宿泊学習で子ども達と一緒に行った。
1年に3度の時も・・・。

 子ども達連れの日光では、その都度、数々のドラマがあった。
このブログでも、その幾つかを書いてきたが、
景勝地をハイキングしたエピソードを2つ。

 ▼ 5年生との宿泊学習の2日目は、
奥日光のハイキングだった。
 その年はやや距離が長くハードコースを選んだ。

 夏山の涼しい風を受けながら、どの子も軽快に歩いた。
中間点で、昼食を済ませ、
後半がスタートした矢先だった。

 どうしたのか、太い木が横倒しになり、道を塞いでいた。
子どもが一またぎするには、大きすぎた。
 どの子も一度木の上に立ってから、
飛び降りて、その障害を越えた。
 1人1人に手を添えて、先生たちが手助けをした。

 ところが、飛び降り方が悪く、足をくじいた男の子がいた。
しばらくは、痛みを堪えて歩いたが、
次第に列から遅れ始めた。 

 その日の私は、列の最後尾を担当していた。
ハイキングの終着点まで1時間を切ったあたりで、
足を引きずっている隣の学級のその子と出会った。

 傷めた足を見ると、
くるぶしのあたりが膨らみ熱をもっていた。
 持参した湿布薬を張り、一緒にゆっくりと歩いた。
しかし、次第次第に立ち止まる回数が増え、
辛そうな顔になった。
 子ども達の列からは、大きく離れてしまった。

 私は決めた。
リックを胸にし、その子を背中におんぶした。

 立ち上げって、歩き出してから初めて分かった。
予想していた以上に太っていた。
 重いのだ。
その上、両腿の開きが小さく、
背中にぴったりと背負えないのだ。

 「おぶりにくい!」。
次第に、重さが辛くなり、
「少しでも楽におぶりたい!」。
 ついにその子に訊いてみた。
「ねえ、もう少し股のところ開かないかな」。
 その子は、すまなそうに小さな声で、
「無理です」。 
 
 私は、おんぶする両腕がパンパンになりながらも、
予定した最後の休憩地点を目指して、みんなを追った。

 気づくと、背中でその子は何度も鼻をすすっていた。
「足、痛いんだね。もう少しだから、我慢して!」
 私も山道での思わぬハプニングに精一杯だった。

 「痛いのより・・、先生、ありがとう!」。
その子の涙声に、
私は、首を振って応えることしかできなかった。

 ▼ この年も、2日目は奥日光のハイキングだった。
宿舎からバスで『いろは坂』を上り、湯の湖まで行って下車する。
 そこから湯の湖畔を回り、
戦場ヶ原の木道をハイキングする計画だった。

 目覚めると、薄曇りながら穏やかな朝だった。
ところが、天気予報は不安定な空模様を告げていた。
 念のため、宿舎の管理人さんに尋ねてみた。
「奥日光の天気はこことは違うことがあります。
雨具の用意をして、出かけてはどうでしょう。」
との、返事だった。

 なので、私は、子ども達全員を集めての朝会で、
「もしかすると、途中で雨になることもあるので」と、
ハイキングのリュックに、雨具を追加するよう指示した。
 
 そして、いよいよ湯の湖からのハイキングがスタートした。
空を見上げても一向に変わりなかったのに、
歩き始めて20分位がたっただろうか。
 雷鳴と共に、雨が落ちてきた。
みるみる間に、雨脚が強くなった。

 先頭を歩く私は、湖畔沿いの遊歩道で立ち止まり、
子ども達に雨合羽の着用を指示した。
 私も合羽を着て、となりの校長先生を見た。

 小さな折りたたみ傘を差していた。
「安易でした。大丈夫と思って・・」。
 合羽の私たちとは違い、
校長先生は次第にびしょ濡れになった。

 しばらくして、校長先生は立ち止まり、私に言った。
「私は、これから引き返します」。
 聞き間違いかと耳を疑った。

 驚きの表情をする私に、いつになく強い口調で校長先生は続けた。

「塚原先生は、子ども達を湯滝の駐車場まで
誘導してください。私は、急いで戻って、バスに連絡して、
湯滝へ行くように手配します。
 このまま戦場ヶ原をずっと歩き続ける訳にはいかないでしょう。」

 とんだ私の誤解だった。
このような場合、校長が、子ども達と一緒の場を離れるのは、
リスクが大きいことだった。
 しかし、引き返してもすでにバスが移動した後なら、
携帯のないあの時代は連絡が難しくなる。
 それに対応できるのは、「私しかいない」と、
校長先生は判断したのだ。

 私は重責を託された。
豪雨の中を70数名、
全員無事に湯滝の駐車場まで誘導しなければならない。

 そのころ校長先生は、小さな傘もささず、
小走りで、湯の湖で降りたバスを目指した。
 その2台のバスが、戦場ヶ原へ向かって走り出し、
大通りに出たばかりだった。
 ずぶ濡れの校長先生が、その車道の真ん中で両手を広げ、
バスを止めた。

 事情を知ったバスは、校長先生を乗せ、
子ども達が向かっている湯滝へと急いだのだ。

 あのまま降りしきる雨の中を戦場ヶ原まで歩いていたなら、
それを想像すると、今も校長先生の決断に頭が下がる。

 ③
 6歳違いの姉夫婦が、東京旅行に来た。
ぜひ日光へ行きたいとのことだったので、
マイカーで案内した。
 
 宿泊の予定がないので、慌ただしく名所巡りをして、
名物のゆば懐石を食べた。

 そして最後に、明るい義兄ならきっと大笑いするだろうと、
老舗の羊羹店へ案内した。

 車を降り、3人でその店に入った。
すると、年老いた店主が大きなガラスケースの奥に立っていた。
 私たちを見るなり、
「羊羹なら、もうない。明日だ、明日!」。

 私は何度もその店で羊羹を買っていた。
竹皮に包んだ本格的なもので、実に美味しいのだ。
 だから、店主への対応は心得ていた。

 「そうですか。でも、
わざわざこちらの羊羹をおみやげにと、
立ち寄ったんです。」
 「どこからきたんだ?」
「私は、千葉から、こっちの2人は北海道からです。」
 「そうか。何本いるんだ。」
「3本でいいです。」
 「おーい、3本用意してやれ。
今持ってくるから」。
 
 その後、店の奥から綺麗に包装された羊羹3本が運ばれてくる。
料金を払い、客が頭をさげ、退店するのだ。

 店を出て、車のドアをしめるなり、
案の定、「あんな商売ってあるのか!」と、
義兄は大声で笑い出した。
 
 


   一夜にして 雪景色
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こ の 先 へ・・・妄 想 !?

2021-12-11 15:27:36 | 思い
 ▼ 11月に、喪中欠礼ハガキを出した。
すると、何人もの方から、
ご丁寧なお悔やみの返信ハガキを頂いた。

 その度、2月の長兄と5月の義母の最期を思い出し、
胸が詰まった。

 12歳違いの兄ちゃんの死は、今も実感がない。
体調不良で入院し、突然「もしかすると危ないかも」と連絡があった。
「じゃ、見舞いを」と思い立ったが、コロナで病院から遮断された。

 その翌朝、訃報の電話が鳴った。
あれよあれよと言う間に葬儀が進み、
気づくと、火葬場でお骨を拾っていた。
 
 そして、葬儀場をあとにする時、
兄の息子らへ、
「コロナ禍、私の兄の葬儀を立派にあげて頂き、
ありがとうございました」。
 深々と頭をさげた。
私自身がその言葉に、突然涙をこぼした。
 
 誕生日を2日後にし、96歳で逝った義母とは、
コロナで1年以上会えないままの別れとなった。

 大往生と思いつつも、あまりにもやつれた母の死に装束に、
ただ呆然とするだけだった。
 しかし、陽気な団らんが好きだった母を忍び、
あえて悲しい話題を避け、
賑やかな通夜を兄弟みんなが心がけた。
 
 今は、義母が一生を過ごした芦別が、
遠い所になったことだけをくり返し思う。

 ▼ 私もいい歳になったから、
とみに、悲報が多くなった。

 ここ2,3年を振り返っても、
長姉、恩師を始め、友だちや知人とその家族、
同僚、ご近所さんなどが逝った。
 寂しさとともに切なさだけがつのるが、
どの方の遺影にも、それに負けないと誓ってきた。

 だが、時には「まだまだ」と言いつつも、
この先々について、不安を抱きながら想いを巡らすことがある。

 当然、すぐに長兄や義母を追うつもりはない。
それにしても、これ程まで頻繁に人の死が身近にあると、
つきなみだが「まずは健康で元気に」と、つい誓うことに・・・。

 ▼ ところが、若い頃の私は、半分本気で半分冗談で、
教職を終えたなら、その後はどうでもいいと、妄想していた。

 「今はいいよ。
どれだけ役に立ってるかは別にしても、
毎日、目の前の子ども達と一緒に勉強して、
子ども達の成長を見届ける。
 子どもからも当てにされている。
だけど、退職したら、その全てを失う。
 生きているハリのようなものが無くなるだろう。
だったら、その時、俺の人生はそれで終わってもいい」。

 誰からの同意がなくても、
しばしばその場の勢いでそう口走っていた。

 ▼ それを思い出すと、今はただ赤面するだけ。
だって、退職後の私は、伊達で新たな暮らしを始め、
急き立てられることのない日々の中で、
新しい感情が生まれたから・・。

 それは、例えばだが・・・・。
晩秋になると、市内の国道を、
収穫したビート根を山積みにしたダンプカーが、
製糖工場へとドンドン走って行く。
 
 この町の秋の1コマに思え、
道路脇でそのダンプを見ながら、毎年私は声にする。

 「春から秋までかけて育てたビートだ。
それが今年もこれから砂糖になるんだ。
 すごいことだ! 本当に凄い!」。

 誰の同意がなくてもいい。
私は、ビート根を山積みしたダンプに、毎秋、感動する。
無性に、心躍る。

 そして、来年も再来年もこの道路脇で、
同じ1コマを見たいと願う。
 
 ビート根に限らない。
この町の春と夏と、秋冬の数々に魅せられてきた。
 いつからか、毎年訪れる1つ1つの、
そのドラマの目撃者になりたいと、思うようになった。

 「終わっていい」なんて、恥ずかしい。
何の役にも立たなくていい。
 それより、少しでも長く生きたい。
ずっとずっとあの目撃者でいたいのだ。
 そんな欲が次第に大きくなった。

 ▼ この先について、もう一つ願望が芽生えている。
これまた半分冗談半分本気みたいで、赤面する。
 勇気を出して、記す。

 ともに96歳で逝去した実母も義母も、
晩年に同じ事を言っていた。
 「昔から知っていた人が、1人又1人と逝ってしまったでしょう。
だから、このごろは話し相手がいなくなって、寂しいよ」。

 長寿への覚悟を、この言葉は教えているように思う。
夫をはじめ、兄弟、親戚、友人、知人、ご近所さんまで、
次々と旅立っていった。
 その都度、お線香をあげ、別れを惜しんだ。
ふと気づくと、回りからは自分を知る人たちが居なくなり、
寂しさだけが漂うようになった。
 それが長寿の現実なのだろう。

 それでも、最近の私は長寿がいいと思っている。
いや、一人取り残されるまで生きていたいとまで・・・。

 笑いを誘うのを承知で言う。 
私に関わってくれた全ての人を見送りたい。
 すぐ近く、いや遠く離れていてもいい、
私が知るその人の歩みに惜別の合掌がしたい。
 時には、涙だってはばからない。 
そうして、今私がこうであることへの、
謝意を伝えたい。
 「そうしないまま私が先に逝くわけには」と・・・。

 それよりも、もしかして・・・?
妄想かも知れないが、
私の死を悼み、霊前で涙されるのが辛いから、
だから、「みんなを見送ってから」と、
強がってるのかも・・・。

 いやいや、我ながら、呆れ果てること・・・!!




  秋の風物詩  搬入を待つビートの山  
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パンディミック2年目の冬・周辺

2021-12-04 14:16:31 | 時事
  ①
 朝、寝室のカーテン越しに外を見ると、
庭はうっすらと雪化粧をしていた。
 遂に、本格的な冬が訪れたよう・・。

 伊達に移り住んだのは、12年6月だから、
10度目の冬になる。

 私の癖のようなものだが、
四季の変わり目には、決まって「この春は・・・」「この夏は・・・」と、
新たな気持ちで踏み出そうとする。
 今は「この冬は・・・」と思案を巡らせている最中だ。

 10度目だからと、「特段の冬にしたい」などと、
力を入れるつもりはない。
 しかし、昨冬を振り返ると、コロナ禍とあって、
何一つとして足跡らしきものがない。
 せめて「この冬は何かを」と・・。

  ②
 そんな緩い私の日常に、
現職小学校教諭から久しぶりのメールが届き、
ハッとさせられた。

 『先週は校内音楽会、今週は持久走大会、
そして来週の土曜日は、保護者が参観できる学校公開と続きます。
 コロナで延期していた行事のラッシュです。』

 コロナが沈静化している好機だ。
この時を有効活用して、今までできなかった活動を何としても実施したい。
 そんな学校の強い意志が、伝わってきた。

 同時に、子どもも先生も、それから保護者も、
目まぐるしい日々が続いていることだろう。
 どの行事も十分な準備ができないまま、
満足のいくものではないに違いない。
 そう直感した。

 きっと保護者からは厳しい声も届くだろう。
子ども達も先生たちも、
1つ1つの行事から大きな達成感を得られないかも・・。
 それでも、やらないよりはやった方がいいに決まってる。

 その時のできる限りを尽くした経験は、
出来不出来に関係なく、
子どもにとって貴重な財産になると私は信じる。

 だから、「子どもも先生も保護者も、
様々な難しさはあるだろうが、今を頑張ってほしい」。
 私のような老兵が声にすることでもないと思いつつ、
でも、やはりエールの1つでも送りたくなった。

  ③
 パンデミックが2年も続いてる。
子ども達にも大きな変化があって当然だ。
 最近、その一端を知り、危機感をつのらせている。
羅列する。

 ▼月初めに郵送されてくる『楽書きの会だより』に、
こんな1文があった。

 『朝日新聞の「声」欄に、
「昨年の5月に産んだ自分の三女はいわば「コロナネイティブ」だ。
 健康だが上の娘二人より発語が遅い。
家族以外の人との交流が圧倒的に少なく、マスク越しで口の動きが見えない。
 上の娘たちは言葉のシャワーを浴びて育った」という投稿が載っていました。

 とても考えさせられました。
昨年あたりからの小学校の教室での1年生と、それと教える先生。
 口元や表情が見えないって、
それぞれ大変だろうな~って思ってしまいます。』

 マスクがコロナ感染防止にいかに有効かは、
海外との比較でも、十分に立証されている。
 それが、子どもの生育に大きく影を落としているとは、
私も衝撃を受けた。

 ▼先日、テレビ報道でこんな子どものシーンを見た。
小学校2年生が生活科見学へ行った。
 久しぶりの校外学習で、子供らは生き生きしていた。
最後に、見学した施設をバックに集合写真を撮ることになった。
 学級全員が整列し、先生がみんなに言った。
「ではシャッターを押します。マスクをはずしていいですよ!」。
 すると、すぐに1人の子が叫んだ。
「いやだ~!」。

 テレビは、叫んだ子を映した。
列の中で、しぶしぶマスクをはずしはしたが、
その子は、手のひらで口を塞ぎ、先生のカメラを見ていた。
 よく見ると、手で口をふさぐ子が他にも数人いた。

 マスクへの信頼と同時に、
感染への警戒心の強さと恐怖感がどれ程か、
子ども達の心に大きな傷があることに気づかされた。

 ▼ 同様の出来事を私も体験した。
第5波の緊急事態宣言が解除になった秋口だった。

 朝の爽やかな風を受け、足どりも軽く朝ランをしていた。
いつもはなかなか行く気にならない急坂を駆け上り、
中学校の前を通り過ぎた。
 中学生の登校時間帯と重なっていた。

 ランニングの時は、人と会わないことをいいことに、
私はマスクをしていない。
 だから、すれ違う中学生とは、反対側の道路脇を走った。

 マスク姿の中学生はどの子も、車道を挟んで走る私に、
頭を下げ、朝のあいさつをしてくれた。

 ところが、やや小柄な中1らしい男子が、
道のはずれに立ち止まっていた。
 マスクの上からさらに片手で口を押さえ、
もう一方の手を振り、私に近寄るなと合図をしていた。
 顔には、おびえがあった。

 「マスクをしないで、走る私が怖いのだ」。
その様子から、すぐに推測できた。
 「ごめんね。マスクなしで」。
小さくそう言って、スピードを上げで反対の道路脇を走り抜けた。

 コロナへの恐怖心の大きさを目の当たりにし、
心が痛んだ。

 ▼ ご近所に高校の先生がいる。
土曜日の朝、立ち話をする機会があった。

 今日も出勤すると言う。
休日出勤の事情を尋ねてみた。
 「オンラインでの就職面接練習に生徒がくるんです」。

 そして、オンラインの面接にもメリットとデメリットがあることを
教えてくれた。
 それよりもこんな話が心に留まった。

 「練習でもオンラインだから、生徒はマスクを取るんですよ。
もう1年以上もマスクした顔しか見てないでしょう。
 すごく大人になった顔が画面に現れ、
全然イメージが違って、ビックリすることがしばしばで、
面接練習が飛んでしまうこともあるんですよ」。

 マスクで隠され、相手の表情が読み取れないのは、
私の日常にもあることだが、
まさか、子どもの成長や変化までマスクは覆っていたとは・・・。




   当地の芝生 緑のまま雪の下へ 
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