1.「これ、ほしい!」
産炭地だった赤平には、
『鞄いたがき』の本店がある。
札幌狸小路や新千歳空港内に支店があるが、
本店を知ったのは、伊達で暮らし始めてからだ。
5年前のことになる。
お盆のお墓参りをした日だ。
滝川の松尾ジンギスカンで昼食をとり、
家内の実家がある芦別へ戻る途中、
私と家内、義母で、その本店に立ち寄った。
周りの雰囲気とは違う洒落た店構えで、
店内は明るく、外観よりもさらに都会的だった。
陳列品は、すべて「いたがき」オリジナルの革製品。
初めて店内に入った義母は、
その高級感に少し驚いていたようだったが、
しばらくすると女性用鞄のコーナーにいた。
私は、近寄り、やや冷やかし半分に声をかけた。
「何か、お気に入りでもありましたか?」。
義母は、そこに置かれていたバックの1つを指さし、
「これ、色も形も素敵ね」。
見ると、ワインレッド色したバンドバックの中でも、
ひときわ洗練されたデザインの物だった。
「ウウーン、なるほど。
それがいいなんて、センスいいですね。さすが・・。」
私が、手にとってみるように、薦めると、
すかさず店員さんが義母へそのバッグを渡してくれた。
すでに92歳になっていた。
それでも義母は嬉しそうに、それを腕にかけた。
その時、すばやく値札を見た。
やはり高級品らしい値がついていた。
何を思ったのか、義母は突然、私の顔をのぞき込み、
「これ、ほしい!」。
女性が恋人にねだるような仕草に似ていた。
私は、一瞬返す言葉が見つからずにいると、
今度は真顔になって、
「でも、もうこれを持って行くところなんてないし・・。」
寂しげなその言葉が、私には響いた。
「これからだって、
いつかどこかへ出掛ける時があるかも知れませんよ。
その時、持って行けばいい。
私が買って上げる。
今度の誕生日でいい?」。
言いながら、次第に本気になっていた。
義母は何を思ったのだろう、早口で言った。
「じゃ、100歳になったら、買って!」。
「それは・・、まだまだ先過ぎるなあ」。
「それでいいの」。
それまで店内を明るくしていた陽差しが、
急に陰った気がして、私は焦った。
「でも、それじゃ・・・。
そうだ。私の母が死んだ歳を超えたら、
96歳になったら、プレゼントするね。
それで、いい?」。
私の思いつきに、義母は反応した。
「そうね・・! 私も、渉さんも鼠だから、
その年の誕生日まで、頑張って生きるわ」。
いつもの丸顔が、ニコッと私を見た。
その日から、月々のわずかなお小遣いから、
バンドバック用の積み立てを、私は始めた。
2.全てはコロナ禍・・と
昨年は、そのねずみ年だった。
高齢者住宅暮らしだった義母は、
3月からのコロナによる面会禁止も加わり、
認知症が急速に進んだ。
介助が必要になってしまった。
でも、私はプレゼント計画を進めた。
いたがき本店に電話し、積み立てたお金を振り込み、
96歳のバースディー祝いを注文した。
お店の方は快く、その日に義母のいる隣町の施設まで、
それを届けてくれた。
数日後、ベット上におき上がった弱々しい義母と、
横に置かれた上品なハンドバックが一緒の写真を、
義姉が送り届けてくれた。
その後、認知症はさらに進んだ。
同時に内臓疾患も悪化し、
施設から病院へ移り、寝たきりになった。
面会は、親子であっても許されなかった。
「感染予防対策です!」。
病院のひと言には、誰も逆らえなかった。
ただただコロナ収束をと祈った。
その願いも叶わないまま、1年が過ぎ、
今月、97歳の誕生日の2日前に、
病院から最期の知らせが届いた。
コロナ禍だからと、思いつつも、
誰1人として家族が看取って上げられなかった。
理不尽さだけが、心に残り、膨らんだ。
葬儀は、子供4人の夫婦、つまり8人だけで行った。
北海道も緊急事態宣言下だ。
これも、8人がそれぞれが、
「致し方ない」と思うしかなかった。
告別式は、義母の誕生日と重なった。
その朝、棺を前に、
義姉の声かけで『ハッピーバースデー』を8人で合唱した。
「寝たきりでもいいから、生きていて、
まだ温もりのある手を握れる日を願っていたのに・・」。
歌いながら、家内の言葉を思い出し、声がつまった。
義母・時子の「時」を生かし、
戒名は『 時 室 松 薫 信 女』となった。
『松』は長寿、『薫』は風薫る季節の旅立ちの意と理解した。
実に、義母にふさわしい。
合 掌
マイガーデン・「ブルースター」
産炭地だった赤平には、
『鞄いたがき』の本店がある。
札幌狸小路や新千歳空港内に支店があるが、
本店を知ったのは、伊達で暮らし始めてからだ。
5年前のことになる。
お盆のお墓参りをした日だ。
滝川の松尾ジンギスカンで昼食をとり、
家内の実家がある芦別へ戻る途中、
私と家内、義母で、その本店に立ち寄った。
周りの雰囲気とは違う洒落た店構えで、
店内は明るく、外観よりもさらに都会的だった。
陳列品は、すべて「いたがき」オリジナルの革製品。
初めて店内に入った義母は、
その高級感に少し驚いていたようだったが、
しばらくすると女性用鞄のコーナーにいた。
私は、近寄り、やや冷やかし半分に声をかけた。
「何か、お気に入りでもありましたか?」。
義母は、そこに置かれていたバックの1つを指さし、
「これ、色も形も素敵ね」。
見ると、ワインレッド色したバンドバックの中でも、
ひときわ洗練されたデザインの物だった。
「ウウーン、なるほど。
それがいいなんて、センスいいですね。さすが・・。」
私が、手にとってみるように、薦めると、
すかさず店員さんが義母へそのバッグを渡してくれた。
すでに92歳になっていた。
それでも義母は嬉しそうに、それを腕にかけた。
その時、すばやく値札を見た。
やはり高級品らしい値がついていた。
何を思ったのか、義母は突然、私の顔をのぞき込み、
「これ、ほしい!」。
女性が恋人にねだるような仕草に似ていた。
私は、一瞬返す言葉が見つからずにいると、
今度は真顔になって、
「でも、もうこれを持って行くところなんてないし・・。」
寂しげなその言葉が、私には響いた。
「これからだって、
いつかどこかへ出掛ける時があるかも知れませんよ。
その時、持って行けばいい。
私が買って上げる。
今度の誕生日でいい?」。
言いながら、次第に本気になっていた。
義母は何を思ったのだろう、早口で言った。
「じゃ、100歳になったら、買って!」。
「それは・・、まだまだ先過ぎるなあ」。
「それでいいの」。
それまで店内を明るくしていた陽差しが、
急に陰った気がして、私は焦った。
「でも、それじゃ・・・。
そうだ。私の母が死んだ歳を超えたら、
96歳になったら、プレゼントするね。
それで、いい?」。
私の思いつきに、義母は反応した。
「そうね・・! 私も、渉さんも鼠だから、
その年の誕生日まで、頑張って生きるわ」。
いつもの丸顔が、ニコッと私を見た。
その日から、月々のわずかなお小遣いから、
バンドバック用の積み立てを、私は始めた。
2.全てはコロナ禍・・と
昨年は、そのねずみ年だった。
高齢者住宅暮らしだった義母は、
3月からのコロナによる面会禁止も加わり、
認知症が急速に進んだ。
介助が必要になってしまった。
でも、私はプレゼント計画を進めた。
いたがき本店に電話し、積み立てたお金を振り込み、
96歳のバースディー祝いを注文した。
お店の方は快く、その日に義母のいる隣町の施設まで、
それを届けてくれた。
数日後、ベット上におき上がった弱々しい義母と、
横に置かれた上品なハンドバックが一緒の写真を、
義姉が送り届けてくれた。
その後、認知症はさらに進んだ。
同時に内臓疾患も悪化し、
施設から病院へ移り、寝たきりになった。
面会は、親子であっても許されなかった。
「感染予防対策です!」。
病院のひと言には、誰も逆らえなかった。
ただただコロナ収束をと祈った。
その願いも叶わないまま、1年が過ぎ、
今月、97歳の誕生日の2日前に、
病院から最期の知らせが届いた。
コロナ禍だからと、思いつつも、
誰1人として家族が看取って上げられなかった。
理不尽さだけが、心に残り、膨らんだ。
葬儀は、子供4人の夫婦、つまり8人だけで行った。
北海道も緊急事態宣言下だ。
これも、8人がそれぞれが、
「致し方ない」と思うしかなかった。
告別式は、義母の誕生日と重なった。
その朝、棺を前に、
義姉の声かけで『ハッピーバースデー』を8人で合唱した。
「寝たきりでもいいから、生きていて、
まだ温もりのある手を握れる日を願っていたのに・・」。
歌いながら、家内の言葉を思い出し、声がつまった。
義母・時子の「時」を生かし、
戒名は『 時 室 松 薫 信 女』となった。
『松』は長寿、『薫』は風薫る季節の旅立ちの意と理解した。
実に、義母にふさわしい。
合 掌
マイガーデン・「ブルースター」