ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

まだまだ まだまだサ!

2016-03-25 19:30:03 | ジョギング
 4月11日は、私の誕生日である。
まもなく68才になる。
 でも、まだ老いの自覚はない。
勝手だが、年令に対して強気で毎日を送っている。
 その源は、何と言っても、
4年前、この地に来てから続けているジョギングにある。

 さて、還暦の年に戻る。
公務員なら誰でもそうだが、定年退職の年だ。

 その年になってまもなく、学校事務を担当する職員から、
退職金の確認と押印を求められた。
 仕事上とは言え、淡々とその書類を差し出され、
私は内心、不快感を覚えた。

 確かに自己本位な言い分になるが、
「貴方はもうトシなのです。これだけお金をあげます。
だから、仕事をやめて下さい。
 どうぞ、若い人に席を空けてやって下さい。」
と、言われている気がした。
 報奨金などとは全く思えず、
心に大きな風穴が空いたようだった。

 元気をなくし、意欲も低下した。
それでも、まだレジスタンス精神が旺盛だった私は、
その後、2年間もその職務を離れなかった。

 だが、それとは裏腹に、心中はやはり穏やかではなく、
いつも私なりの退き時を考えていた。

 「次の世代に、席を譲らなければ。」
「俺はもういい年令なんだ。」
そんな思いが、心から離れなかった。
 次第に、精神的にも老け込んでいった。

 『第二の人生』、その上『老後』
と言う言葉まで、身近なところに寄ってきた。

 そんな時突然、
家内が、「マラソン大会で10キロを走る。」と言い出した。
 勤務校の先生方と一緒にチャレンジするのだとか。
どうやら、それをけしかけたのは、
ガッチリとその学校を束ねた校長先生のようだった。

 「だから、少し走る練習をしなくちゃ。」
と、言い出し、
 「次の休みの朝、マンションの周りを走るから。」

 私は、家内のそんな意欲に目を丸くするだけだったが、
いざその日の朝、運動着姿で今にも出かけようするのを見て、
ほっておけない気持ちになった。
 「じゃ、俺も一緒に走ってみるよ。」
と、運動着に着替えた。

 その大会まで少しずつ走る距離を伸ばした。
同時に、それまで思ってもみなかったことだが、
走り終えた時の、爽快感を次第に感じるようになった。

 家内はと言えば、
その大会で何とか10キロをゴールしたものの、
「大変だった。」を連発し、
走ることに一区切りをつけたようだった。

 しかし、私は目ざめはじめていた。あの爽快感が忘れられなかった。
だから、時々家内の尻をたたき、早朝のジョギングに誘った。

 『退職』、『第二の人生』、『老い』どころか、
それを吹き飛ばしてくれるような、新鮮さがあった。
 すごく嬉しかった。気持ちが明るくなった。
時には、走りきった時の達成感のようなものが、
大粒の汗と一緒に加わった。
私をさらに元気にしてくれた。

 現在、こうして走ることに意欲を持ち、
「まだまだ」と前向きでいられるのは、
人生の節目のあの時、
家内の「マラソン大会で走る。」と言う、
あの切っ掛けがあったからである。
 
 だから、昨年11月末、今度は私が
その大会に挑戦しようと思い立った。

 会場では、全くの想定外だったが、
遠方からの参加者として、沖縄と北海道からの3人に、
特別賞が用意されていた。
 そんな嬉しさも手伝って、こんな詩を年賀状に載せた。


     新 趣

 二度のゴールとも
 「また走りたい」と
 芝生の上に大の字の彼
 眠っていた力があった
 限界を決めていたかも
 まだまだ遅くはない
 そして3度目のハーフマラソン
 落ち着きをなくしたスタート前
 でも健脚たちの足音と一緒に
 永代通りと若洲の堤防へ
 早すぎる10キロの通過に
 「ねえ 大丈夫 大丈夫」
 思わず大声
 そしてあと1キロ
 沢山のランナーと一緒に
 私の前
 「すごい すごいよ」
 私の声にハイタッチ
 自己記録を大きく更新
 渡したタオルで顔を隠し
 「うれしい」と聞こえた
 それでも
 帰りの道々
 「次はもっと」と言う始末


 3月に入り、伊達は雪解けが進んだ。
もうすっかり地面が顔を出し、積雪ゼロとなった。

 朝夕、ウオーキングの人の他に、
時折、ランニングで汗する人を見るようになった。
 来月17日には、『第29回春一番伊達ハーフマラソン大会』がある。
きっとその準備を始めた人たちだろう。
 昨年、私は左足の肉離れと腰痛で参加できなかった。
今年こそはと、ハーフマラソンにエントリーしている。
目標は、完走である。

 そして、5月には、遂にフルマラソンに挑戦する。
洞爺湖畔を1周する『第42回洞爺湖マラソン2016』である。

 フルなんて、夢のまた夢でしかなかった。
ところが、体育館で知り合った経験豊富なランナーさんから、
こんな声をかけられた。

 「ハーフマラソンを完走したのだから、
フルマラソンも走れますよ。
とにかく、35キロ付近の辛さだけ超えれば、大丈夫。」
 驚きで、身が固まった。
ようやく、「いや、私は、もうトシだから。」と尻込みした。
「そんな、まだまだ…。年令なんて関係ないですよ。頑張って。」

 私は、その気になってしまった。
無理を覚悟で挑戦する。
きっと身の程知らずを痛感させられことになるのでは。
それでもいいと思う。
 だって、私の気持ちは、
「まだまだ、まだまだサ!」
って言っている。
 年令に強気の私が、そこにいる。




旧三戸部家住宅≪明治10年頃開拓当時の民家・国重要文化財≫
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シリーズ『届けたかったこと』   (3)

2016-03-18 22:07:19 | 教育
 週1回、わずか5分間、
それが、全校児童と教職員に対して許された、
私のプレゼンテーションの時間だった。

 言語による表現力は、
①コミニュケーション力、②プレゼンテーション力、③ディベート力に
大別されると言われている。
 教師には、この全ての言語表現力が求められているが、
とりわけ多数を対象に、
一方的に何かを伝達する力(プレゼンテーション力)は、
教師の指導力として欠くことのできないものである。

 全校朝会等での校長講話は、
子どもにとって教育的な役割を持ったものであるが、
一方、教職員にとっては、
子どもへのプレゼン力を培う、生きた貴重な研修の場である。

 私は、子どもに話す内容を吟味すると共に、
教職員には、話し声の質、抑揚、速さ、間合い、
そして話の構成、時にはドラマ性など、話術を十分意識して、
子ども達が聞く、壇上に立った。

 余談だが、「子どもが話を聞かない。」
と言う教師のなげきを耳にするが、
それは、「子どもが聞きたくなるような魅力ある内容、
あるいは話し方でないから」ではなかろうか。

 さて、講話の内容である。
その基本は、子どもの知的好奇心を揺り動かすなど、
学習をはじめとする、様々な意欲を喚起するものでありたいと思う。

 子ども一人一人、その子の持つ関心事には違いがある。
自然現象、社会事象、史実、文学、化学、メカニック、人間関係等々、
興味はその子によって多種多彩である。
 だからこそ、朝会での話題は、多岐にわたっていいと私は思っている。

 ある話題が、その子の関心事を直接刺激することもあるだろう。
またある子には、今まで全く興味の無いことだったが、
突然関心をもつことになる場合もあるのではなかろうか。

 あらゆる可能性を信じて、
子ども一人一人の興味関心を目ざめさせること、
その子の関心事の視野を広げてあげること等、
私は、そんな想いを強く持ちながら、5分間を使った。

 今回は、その折々の季節感を意識した話題を記す。


   5 「おはぎ」と「ぼたもち」

 昨日は、秋分の日でお休みでしたね。
お彼岸の中日と言って、
家族でお墓に行かれたお家もあったのではないでしょうか。
 中にはおはぎを作って食べたお友達も、
いるのではないかな。

 実は、私は30才前に父を亡くしました。
だから、私の家には小さな仏壇があります。
 なので、毎年、この時期にはおはぎを作ります。

 そう、二人の息子が小さかった頃は、
ママと一緒におはぎ作っていました。

 炊いた餅米を少しつぶしてから丸め、
小豆で作った甘いあんこを、その丸めた上にぬりつけます。
その後、形を整えて「おはぎ」の出来上がりです。

 出来上がった時には、両手はあんこで黒くなります。
その黒い手をかざして、二人の小さな息子は、
「ママ、きたないね。」と、よく言っていました。
 私は、「きたないね。」と言いながら、
甘くて美味しいおばぎを作っているのがおかしくて、
近くで笑っているだけでした。

 そんな息子達もすっかり大人になりました。
今では毎年くり返されていた、
もう何十年も前のお彼岸のことが、懐かしく思い出されます。

 さて、この「おはぎ」ですが、「ぼたもち」とも言いますね。
「おはぎ」と「ぼたもち」、
特に違いはなく、どちらの言い方でもいいそうです。

 ところが、「いやおはぎとぼたもちは違う。」
と、言う人もいます。どう違うのでしょうか。

 実は、こんな違いがあるんだそうです。
「おはぎ」と言う時の『はぎ』は、
秋に咲く花「萩」のことなんです。
 だから、秋に食べるのが、「おはぎ」なんです。

 そして、「ぼたもち」は、
春に咲く花「牡丹」からついた名前で、
春に食べるのが、「ぼたもち」なのだそうです。

 その上、「おはぎ」と「ぼたもち」は、
食べる季節の違いだけではないのです。
 「おはぎ」はつぶあん、
「ぼたもち」はこしあんで作るものなんだとか。

 それは、どちらも小豆のあんこなのですが、
秋に収穫したばかりの小豆は、皮がまだ柔らかいので、
つぶあんが美味しいのです。
 それにくらべ、冬を越した小豆は皮が固くなります。
だから、春の「ぼたもち」は、こしあんにして作るのです。
 
 今、世界中で、日本食がブームになっています。
単に美味しいと言うだけではなく、
きめ細やかな調理法が注目されているんです。
 「おはぎ」と「ぼたもち」の違いにも、
それに通じるものがあるような気がします。

 お話を終わります。


   6 鬼は ウチ !?

 2月3日は節分です。
年に1回、豆まきをするお家が多いかと思います。
 家の中と外に豆をまきながら、
「福は内、鬼は外」
と、大きな声を張り上げるのが、豆まきのやり方ですね。

 ところが、 
「鬼がかわいそう。あっちの家でもこっちの家でも、
豆をまかれて追い出され、
鬼は、さぞかし痛い思いをしていることだろう。
寂しいことだろう。きっとどこにも行くところがないのだろう。
それじゃ、私の家にいらっしゃい。」
と、肩をすぼめて逃げ迷う鬼を哀れに思う人がいるのです。

 聞くところによりますと、
「鬼は内、鬼は内」
と、鬼たちを手厚くもてなす旧い家があるのだそうです。
山形市や、東京では小平市、
そして、その他の土地にもあるようです。

 だいぶ以前に耳にしたことですが、こんな家もあるそうです。

 そこの家では、節分の夜、「鬼の宿」と言う札をかけ、
お赤飯をたき、酒を供えて、姿のない鬼を待つのだそうです。

 夜になり、家々から追い出された姿のない鬼は、
やがてその家に集まってきます。
 鬼たちは、たんまりとご馳走を食べ、お酒を飲んで、
いい気分になって寝てしまいます。

 真夜中、この家の人たちは、これまたお酒のかかった赤飯を
「三方」という物に盛り、
姿の見えない鬼たちを、村のはずれの四辻まで
送って行くのだそうです。

 今もそんな行事が続いているのかどうかは、定かではありません。
でも、鬼と言えども、哀れに思って、
もてなす人がいることを知り、私はとても嬉しく思いました。

 「福は内、鬼は外」と言って、嫌なものを、ずるいものを
追い出すこと、捨ててしまうこと、
 それはそれでいいことに違いありません。
しかし、それだけはなく、
その後のことを想う人がいるって、素晴らしいことではないでしょうか。

 お話を終わります。 





  雪が消えた『秋蒔き小麦』の畑
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南吉ワールド PART4  ~原風景を訪ねて

2016-03-11 22:31:44 | 文 学
 新美南吉の作品に、心動かされはじめたのは、
20代の頃、教職についてまもなくだった。

 南吉が紡ぐ物語のいろんな場面に共感した。
そして、文学が持つ力を信じるようになった。
 巧みなストーリー性を生み出す彼の賢さとは別に、
いつからか、新美南吉という人そのものに 
勝手に私を投影することも、しばしばあった。

 彼の作品にある「せつなさ」や
「さみしさ」、「優しさ」に心が騒いだ。
私が奥底にしまっていたものと同じものを、彼は描いてくれた。
 今だから言えるが、それが私を力づけていた。

 いつ頃からだろうか、
愛知県半田市にある、彼のお墓に詣でたいと思うようになった。
 彼のそばで、「ありがとうございます。」と掌を合わせたかった。

 しかし、それをやらずに今日まで来てしまった。
私の忘れ物の一つと言える。

 3月1日、名鉄名古屋駅から、急行で40分、知多半田駅に降りた。
若干冷たい風があったが、
そこまでの車窓を流れる空にも、この地にも雲はなかった。

 駅前に街を案内する大看板があった。
そこに大きく、『山車と蔵と南吉の街 半田』と記されていた。
 そして、そばの赤い郵便ポストの上には、
キツネのマスコット(ごんぎつね)が置かれてた。
 それだけで、この街が南吉を大切にしていることが分かった。
無性に、嬉しかった。

 早速案内所に行き、パンフレットを頂いた。
そこにこんな一文があった。

 『平成2年のこと、
南吉と同じ岩滑に生まれた小栗大造さんは、
ある壮大な計画を思い立ちました。
“南吉がよく散策した矢勝川の堤をキャンパスに、
彼岸花で真っ赤な風景を描こう。”
ただ一人で草を刈り、球根を植えるその姿に、
一人また一人と手伝う人が現れ、やがてその活動は
「矢勝川の環境を守る会」へと発展します。
こうして現在では、秋の彼岸になると東西1、5キロにわたって
300万本もの彼岸花が咲くようになりました。』

 堤が真っ赤に色づいた写真が誇らしげに載ったパンフレットを片手に、
幸せな気分で、私はタクシーに乗った。
 これまた親切なドライバーさんだった。

 私の要望通り、南吉の生家、記念館、
そしてお墓へと案内してくれた。

 大した知識ではないけどもと言いながら、
ガイド役もかって出てくれた。
 そして、家内との記念写真のシャッターまで押してもらった。

 父が畳屋、そして義母が下駄屋を営んでいた生家は、
東海道の裏街道ともいわれる大野街道の分岐点にあった。
 南吉はこの店の前を通る
旅人や物売りを眺めながら育ったそうだ。
 今は閑静な住宅地の一角だが、
思いのほか道幅が狭かった。

 その生家の隅に、ひっそりとたたずむ石碑があった。
『冬ばれや大丸煎餅屋根に干す』と刻まれていた。
 当時、隣が煎餅屋で、
顔の大きさ程もあった「大丸煎餅」が名物だったらしい。
 屋根を見上げていた南吉の姿を想像した。
そして、冬ばれの日に訪ねることができた好運に感謝した。

 そして次は、新美南吉記念館である。
そこは、「ごんぎつね」の舞台、中山の地にあった。
遠くには、ごんが住んでいたと言う権現山が、
穏やかな稜線を見せていた。

 予備知識がないままの来場だった。
降車しても、記念館を見つけることができなかった。
 平成6年に開設したその建物は、
全国コンペで選出された斬新なもので、
隣接する童話の森にすっかりと溶け込み、緑に包まれていた。
 他の館とは趣きが異なるたたずまいに、言葉を無くした。

 半地下にある展示室の入口では、
『この石の 上を 過ぎる 小鳥たちよ
 しばし ここに 翼を やすめよ』
と、南吉の詩「墓碑銘」の書き出しが迎えてくれた。

 現代アート風に展示された南吉の世界。
自筆原稿をはじめ、書籍、童話のジオラマ模型が、
そっとその場にマッチしていた。
ここでも、南吉は大切にされていると思った。

 余分な解説など不要な展示だが、
その中の一つに私の目が惹かれた。
丸く縁取られた額に、こんな言葉が並んでいた。

 『ナフタリンの匂いのする着物は
  何かよいことがあるときにしか
  僕の家ではきられなかったので、
  僕の鼻は今でもナフタリンの匂いを
  幸福の匂いと思っている。』

 昭和12年6月7日(23才)の日記である。
 なんて繊細で素直な、柔らかな感性なんだろう。
こんな瑞々しさがほしいと思った。
 この一文に接しただけで、満たされている私がいた。

 帰り際、もしかしたらここでしか手に入らないのではと、
館長を長年務めた矢口栄氏著の
『南吉の詩が語る世界』を求めた。
 
 その本に、何十年も前、心を熱くした詩を二つ見つけた。

     貝 殻 

  かなしきときは
  貝殻鳴らそ。
  二つ合わせて息吹きをこめて。
  静かに鳴らそ、
  貝がらを。

  誰がその音を
  きかずとも、
  風にかなしく消えゆるとも、
  せめてじぶんを
  あたためん。

  静かに鳴らそ
  貝殻を。


     林 檎

  手もて撫づれば
  きゆるきゆると
  笑ふなり
  その肌はなめらかに
  しつとりとして
  わが指にからむなり
  陽にかざせば
  ぴかつと光るなり
  さびしくてならぬ日
  きまぐれに一つ買ひたれど
  まことにめでたし
   りんご 木の果
  詫びつつおもしろくなりて
  きゆるん きゆるんと
  笑はせていくなり
 
 2作とも、辛く、もの悲しい。
はかない程にきれいだとも思う。
 ひたすらに純粋なものを求めるこんな南吉に、
励まされるのは私だけだろうか。
 いや、そんなことよりも、南吉には、
半田の眺めと、半田の光りと、半田の匂いが一番あうと思った。

 さて最後は、公設の「北谷墓地」に眠る南吉の墓を訪ねた。
周囲と変わらない広さの墓であったが、
墓石は立派なものだった。お父上が建立したそうだ。

 墓前に立つと、色とりどりの綺麗な花が手向けられていた。
いつもお世話をしている方々がいらっしゃるとか。

 伺えたことの幸せ、作品との出会いに感謝等々、
深々と頭を垂れ、しばしの時間合掌をさせてもらった。
 「ここまで来てよかった。」

 帰り際、墓地の脇に、
ひっそりとあの六地蔵が並んでいた。

 また一つ、私の忘れ物が減った。




 雪解けの地面から今年も福寿草が
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