ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

誰かの役に立つ

2022-05-28 15:04:17 | 思い
 ▼ 1年を通して一番快適な季節と言っていいだろう。
朝ランも、爽やかな風が心地いい。
 それに加えて、山々の緑と次々と開花する春の花が、
私の走りを軽くする。

 先日、5キロを走り終えた矢先に、
自宅前を通った方から、いきなり訊かれた。
 「今年の伊達ハーフマラソンは、走ったんですか?」。

 同じようなことを、度々尋ねられる。
気にかけている方がいると思うと、それだけで嬉しくなる。
 返答は、いつも同じだ。
「まだ、高齢者が迷惑をかけるわけにはいかないから、
今年は遠慮しました」。

 どの方も納得したような、でもやや曇った顔をする。
だから、その後、決まって付け足す。
 「だけど、今年も洞爺湖オンラインマラソンがあるので、
それには参加します。
 スマホさえあれば、期間内の好きな時間に好きなコースで、
42,195キロ以上を走るんです。
 これなら私でも迷惑をかけませんから」。

 そのマラソンイベントに、千人以上が参加すると説明すると、
理解しがたい不思議な顔をしながらも、
どの人も「頑張って下さい」と言い残してくれる。

 そのオンラインマラソンの期限が迫っている。
残り10キロ余りで、ゴールである。
 最後は、洞爺湖の湖畔を走ることに・・・。

 さて、伊達に移り住んで10年になった。
ずっとランニングをしてきた。
 年齢とともに体力の衰えは、仕方ない。
でも、少しでも長く続けたい楽しみの1つである。

 そんな折り、2つの「誰かの役に立つ!」に触れた。


 ① 児童文化研究会の仲間で、
10歳年下の先生からショートメールが届いた。

 定年退職後勤務していた不登校児童生徒の支援教室を3月に辞め、
居住地の町議補選に無所属で立候補した。
 めでたく当選したとの知らせだった。

 急いでネット検索をしてみた。
30歳代と40歳代、そして65歳の彼で、2議席を争った。
 得票数は、2人に大差を付け、圧勝していた。

 当選後だったが、YouTubeで彼の訴えを聴いてみた。
現職時代から、誠実さがにじみ出ていた教師だった。
 そんな彼らしく、決しておごらない、
でも芯のある口調での訴えだった。
 それが、きっと有権者の支持につながったのだと思った。
嬉しかった。

 それにしても、大転身だ。
教職一筋から、人口減少下の町政という重たい任に、
進んで身を投じたのだ。

 何が、そこまで彼を突き動かしたのか、
私には見当もつかない。
 でも、決して私利私欲ではない。
彼なりの「誰かの役に立ちたい」という一念からの行動に違いない。
 ただただ心が騒いだ。

 ② 東京都中央区に在住する方のブログ『心の伊達市民』が、
毎日更新される。
 東京の今が感じられ、楽しみにしている。

 その方が、先日、友人らと『都心を歩く会』を行った。
その時の愛宕神社「出世の階段」の一節が、心に残った。
 転記する。

  *     *     *     *     *

 「出世の階段」を見上げて考えた。
「もう出世も関係無い」・・・と。
 引退すると特に義務となることが少くなるので、
「なんでもいい」とか「明日でも、来週でもいい」となる。
 そうしている内に「いい加減な男」になり、
周りから「嫌われて行く」のも知らずに平然としているようになる。

 現役の時は朝起きると既に戦闘モードに入っていて、
その日の予定が頭に浮かんだ。
 問題を抱えている時は気が重かったが、
逃れられないのでやるしかなかった。
 だからボケることなど、考えてもいなかった。

 人は生きて行く上で、「誰かの役に立つ」ということが必要なようだ。
引退してみると、殆ど私は誰の役にも立っていない自分に気が付く。
 私が居なくなっても、世の中は変らないし、困ることも無い。

 出掛けたきり戻らなければ、家族は困って探すだろう。
でも死んで居なくなった場合は、すぐに諦めるだろう。
 なぜかこの頃の私は暗い話になることが増えた。
軽いうつ病かな?

 コロナ騒動で単独行動が増えた結果、
「1人は気楽でいい」と感じるようになった。
 こうなると益々、「誰かの役に立つ」から遠ざかる。
今回、集まった同級生達は「誰かの役に立っている」のだろうか?

 今でも現役で頑張り、世の中のお役に立っている男、
老人会の会長で老人のお役に立っている男、
 写真クラブの役員でお役に立っている男、
会社のOB会でお役に立っている男、
 孫のお役に立っている男、
存在が家族のお役に立っている男など色々いる。
 私は「都心を歩く会」主宰で、
少しは彼らのお役に立っているだろうか?

  *     *     *     *     *
 
 ▼ 「心の伊達市民」さんの言葉が、1つ1つ刺さった。

 ・「いい加減な男」になり‥ 
 ・「嫌われて行く」のも知らずに平然として‥
 ・誰の役にも立っていない自分に気が付く‥
 ・私が居なくなっても、世の中は変らないし、困ることも無い
 ・「1人は気楽でいい」と感じるようにな‥ると益々、
  「誰かの役に立つ」から遠ざかる

 最近の、私自身を見透かされたようで、ドキリとする。
「誰かの役に立つ」ことに、腰が重くなる私は、
それよりも私の楽しみを優先させている。
 朝ランもそうだ。週1のゴルフも・・・。
そして、読書や執筆が楽しさに追加される。

 でも、
『生きて行く上で、「誰かの役に立つ」ということが必要なようだ』と、
「心の伊達市民」さんは言う。
 知人は、町議になり、
第2の人生でも『誰かの役に立つ』ためのポジションを奪い取った。

 私はどうだろうか。
若干、気恥ずかしい。
 でも、少しでもお役に立てたらと受けた自治会の仕事に、
誠実でいようと思う。
 そこで、「誰かの役に立つ」真似事ができれば、
それはそれでいいような・・気がする・・が。




  ヒノデツツジ 真っ赤! ~歴史の杜公園~
                    ※次回のブログ更新予定は 6月11日(土)です
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別れ方 さまざま

2022-05-21 12:03:22 | あの頃
 ▼ 義母の一周忌のため、
旭川まで長距離ドライブをした。

 高速道路からの景観は、
どこも新緑に覆われ、
冬期は、透けて見えていた山々の稜線も、
すっかり様相を変えていた。

 北の大地は、躍動の時季を迎えていた。
そんな素敵な季節に義母は逝ったのだ。

 1年前は、全く気づかずに同じ道を急いでいた。
ようやく今、義母からの最後のエールだと感じた。
 これから先、私はどこへ向かうのか、不透明ではあるが、
でも、頑張ってみようと思った。

 法要を終えた帰路は、日帰り温泉が併設されている
由仁町の『ユンニの湯』に宿泊した。

 事前予約で、『どうみん割』があると知った。
これ幸いとお願いした。

 対象のプランは、2食付きで1万円だ。
その内5千円が『どうみん割』である。
 しかも、2千円のクーポン券までがついてきた。
結局は、1人3千円で、
温泉に入浴し、朝夕食付きの1泊である。

 「安い!安い!」と控え目に言いつつ、
今が旬の時知らず鮭の塩焼きやシャコの天ぷらを肴に、
久しぶりの生ビールに、ついつい話は弾んだ。
 義母を偲ぶ好機になった。
 
 振り返ると、1年前の葬儀は緊急事態宣言下であった。
そのため、4人兄弟の夫婦、8人だけで執り行った。
 精一杯心を込めたが、
義母の変わり果てた姿への悲しみとは別に、
少人数の寂しさが浸みた。
 でも、「別れ方はさまざま、どんな別れ方も致し方ないこと」
と、私を納得させた。

 さて、年齢が進むにつれ、いくつもの別れを体験してきた。
特に、私より年若い保護者の逝去は、深く心に刻まれている。
 
 ▼ 教頭として勤務していた小学校に、
2年生と4年生2人姉妹のお父さんが、
急死したと知らせがあった。

 保護者が亡くなった場合、
学校からは校長と担任がお通夜に行くのが通例であった。

 通夜の夜、校長らが戻るのを待った。
担任2人は、目を真っ赤にして職員室の自席に座った。
 その後ろから、口数が少なく穏やかな校長までもが、
赤い目をして校長室へ入っていった。

 気になったので、お茶を入れて校長室をノックした。
「2人の姉妹が、背中を丸めて寄り添っている姿が、かわいそうで」。
 お茶を少し飲みながら、校長はハンカチで涙を拭いた。

 通夜の席の情報では、
2日前、お父さんはオートバイによる交通事故で亡くなった。
 予期しない、まさに突然の死だった。

 「2人には、あまりにもショックが大きいようだから、
教頭さん、明日の告別式に行ってあげてくれないか!」。

 翌日、校長から言われるまま、私は告別式に出席した。
出棺まで見送るつもりで時間をあけ、参列した。

 弔辞は、お父さんの勤務先の社長さんが述べた。
社長さんは何度も何度も声をつまらせながら死を惜しんだ。
 その様子から、優秀な社員だったことが伝わった。

 お父さんの唯一の趣味はバイクのツーリングで、
その日も大好きなツーリングの途中で事故にあった。
 お母さんとはツーリングが縁で結ばれたとのこと・・。

 告別式が終わり、出棺のため最後の別れの時となった。
親族が次々と棺に花を入れた。
 お母さんも2人の姉妹も、沢山の花を入れていた。
私は、ホールの片隅でその様子を見ていた。

 悲しみをこらえながら、
棺のそばに立つ親子の姿が涙を誘った。 

 次の瞬間だった。
「いかないで!」。
 静かな葬儀場に、女性の声が響いた。

 目をこらした先には、棺に顔を埋め、
お父さんに両手を添え、頬ずりをするお母さんがいた。
 そのお母さんに姉妹がピッタリとしがみついた。

 親族も、周りの弔問者も何もできなかった。
「あなた、こんなのいやー!」。
 しぼりだすようなお母さんの声がした。
3人に誰も近寄れない時が続いた。

 しばらくして、白髪の女性が近寄り、
泣きながら、棺の中のお母さんの手を握り、
お父さんから引き離した。
  
 呆然と火葬場へ向かう車に乗ったお母さんと、
そのそばを決して離れようとしない姉妹が、
目に焼き付いたままになった。
 
 ▼ 2年生の担任が妙な表情で、校長室に来た。
「僕のお母さん、死んだんだよ。
明日、海に骨をまくんだって言うんです」。

 その男の子は、嘘を言っているように思えないので、
何度も訊き返した。
 でも、それ以上のことがわからない。

 腑に落ちない相談だったが、
思い切って担任から、自宅に電話してみることにした。
 電話には、お父さんがでた。
男の子の言うことに間違いはなかった。

 母親は病死し、葬儀は終了していた。
明日、海に散骨すると言う。
 子どもは、つれていかないので、
いつも通り登校させるとの返答だった。

 担任から報告を受け、何か訳があると直感した。
自宅を訪ね、焼香したいと、私が電話し願い出た。
 お父さんからは、息子がいない明日の夕方にきてほしいと返事をもらった。

 翌日、香典を包み、担任と一緒に自宅マンションを訪ねた。
その高級マンションは、廊下前に一軒一軒門扉があった。
 玄関ドアを開け、出てきたお父さんは、
PTA行事などでいつもすごいカメラをもって参加する方だった。

 何度か、懇親会の席でご一緒したこともあった。
その席で、プロのカメラマンだと聞いていた。
 
 面識があることで、少しハードルが低くなった。
それでも、気を配りながらの会話になった。

 居間に通された。
用意した香典を渡し、お悔やみを述べ、
遺影に手を合わせたいと伝えた。

 お父さんは、私たちにソファを勧めた。
そして、言葉を選びながら話してくださった。

 お母さんは半年ほど前に末期がんが見つかった。
入院と自宅療養を何度も繰り返した。
 その半年の間に、お母さんは自分の全てを消すことを決心した。

 自宅にいる時間を使って、お母さんは、自分の私物の全てを処分した。
思い出として残るものを、何一つとして残さなかった。
 だから、お母さんが映っている写真でさえ一枚もないと言う。

 「なぜ、そこまで」と問う私に、お父さんは、
「あなたの人生は、まだまだあるでしょう。
息子だって、まだまだ助けが必要です。
 私を忘れてください。
それが一番いいことです。
 いつまでも私をひきずらないで、
次へ進んでください。
 お願いします。
だから、骨も海に蒔いて下さい。
 その後は、手を合わせることもしないでね。
それが、彼女の遺言でした」。
  
 お母さんのもので最期まで残ったのは、
病室にあったお箸と湯飲みだけ。

 私と担任は、それにそっと合掌して、
自宅を後にした。

 お母さんの想いの深さは、
私の想像を超えていた。
 同世代の担任とは言葉のないまま、
学校まで戻った。
 そして、いつも通り自分の机に向かった。
それが、一番の供養だと信じた。

 その男の子は3年生を終える日に、
「今月で転校します」と、父子で校長室に来た。
 2人とも、明るい表情だった。

 何も言おうとしなかったが、
お父さんのメッセージは私に伝わった。
 私は、深く頭を下げ、廊下で2人を見送った。  

  

   
  イベリス(別名・トキワナズナ)~マイガーデン~ 
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続・晴れたり曇ったり <3話>

2022-05-14 13:47:43 | 北海道・伊達
 ① 毎年のことだが、宿根草の庭に、
次々といろんな新芽が顔を出した。
 これまた、毎年だが、先の尖ったその芽が、
一日一日背を伸ばし、去年と同じ容姿になっていく。
 自宅に居ながら、「春 到来!」を実感する一コマである。

 それに加え、2年前からになるが、
新しい「春 到来」が登場した。

 朝食を済ませ、窓越しに見た庭から、
雀の鳴き声がする。
 新芽の緑色が、徐々に広がりつつある庭で、
3羽がゆっくりと動き回っていた。
 
 そのうちの2羽の動きに目がいく。
あきらかに小雀なのだ。
 動きも心許ない。

 親らしいのが飛び立ち、我が家の物置屋根に止まった。
そして、しきりに鳴いた。
 「ここまで飛んでおいで」と、言っているよう・・。

 1羽の小雀が、私の車のボンネットで一度止まり、
その後、物置屋根まで羽を忙しくばたつかせながら、
親雀の近くまでたどり着いた。
 
 次に、親雀はもう1羽からよく見える位置まで移動し、
そこで再び、しきりに鳴き続けた。
 しばらくして、庭の小雀は羽をばたつかせた。
やっと車のボンネットまで飛んだ。
 変わらず親雀は休みなく鳴き、小雀も鳴き声で応じ、
ついに物置屋根へ向かって羽ばたいた。

 途中から、その様子を見始めた家内も一緒に、
小雀の動きに固唾を飲んだ。

 屋根のひさしまでもう少しだった。
だが、小雀は失速し、物置脇の通路にゆっくりと舞い降りた。
 
 春のドラマはここから・・・。
次の瞬間、今度は屋根にいた小雀が、通路まで舞い降りてきた。
 そして、すぐに物置の外壁沿いに、
羽をばたつかせながら屋根まで飛び上がった。
 下の小雀にだろう。
屋根に着くと何度も何度も鳴いた。

 しばらく間があったが、
通路の小雀が、飛び立った。
 先の小雀と同じような早さで羽を動かした。
物置の外壁沿いに、これまた同じような経路で、
屋根を目指した。
 やっとひさしまでたどり着くと、
そこには先の小雀が待っていた。 

 2羽は、チュンチュンと鳴き交わしたようだったが、
すぐに屋根の上を小さく飛びはねた。
 その後は、同時にもう1度通路まで降り、
さっきよりも簡単そうに屋根まで飛び上がった。

 気づくと、親雀はやや離れたテレビのアンテナに止まり、
静かに2羽の方を向いていた。

 雀は、民家の軒下でも、
わずかな隙間があれば巣をつくるらしい。
 2年前から、この季節になると、
お隣さんの屋根付近に、よく数羽の雀の姿がある。
 きっとそこで子育てをしているのだろう。
その巣立ちの時を、今年も見させてもらった。

 さて、数日後のあの小雀だが、遙か先の電線にいた。
成長の早さに、つい目を細めてしまう。


 ② 5月5日はこどもの日だ。
私たちには、まったく無縁な祝日になってしまったが、
この日くらいは、かしわ餅でもと、
⒉人で伊達の銘菓店へ立ち寄った。

 レジ近くの棚に、いつもより多いかしわ餅といっしょに、
北海道のご当地銘菓である「べこ餅」も並んでいた。

 「かしわ餅とべこ餅を2つずつ」。
私の希望通りに、家内は店員さんに注文した。

 この店には、年に数回は来る。
だから、3,4人の店員さんだが、
なんとなくなじみの顔だった。

 ベテラン店員の1人が、やけに明るい表情で注文を受け、
早々に4つの餅をパック詰めし、支払いレジへ進んだ。

 私はその場からやや離れ、店の出入り口付近で、
家内の会計を待った。

 やや時間がかかっていたので、振り向いてレジを見た。
その店員さんはレジから離れ、
家内と立ち話をしていた。

 時折、その目が私を見ているようだった。
ちょっと気になり、⒉人に近づいた。

 「走っているご主人、かっこよかったです」。
突然、早口で私に向かって言った。
 訳がわからず、家内に説明を求めた。

 数日前の朝、店員さんは車を運転し、
信号待ちしていた。
 その交差点を、私と家内が朝ラン姿で走り過ぎたらしいのだ。 
 
 「2人で一緒に、子ども達が通学する前の道を、
走っているなんて、すごいなあって驚きまして・・・」。

 私たちの後から、次々と来店者があった。
注文を待つ方もいた。なのに、構わず、
 「すいすいと走っていて・・・、
ご主人、かっこよかった。」
と、また繰り返す有様。

 「それは、それは」
と、返すのか精一杯だった。
 年齢を忘れ、私は照れていた。

 それを知られないよう、早々に店から退散し、
急いで車に乗り込み、アクセルを踏んだ。


 ③ 視力の老化が気にかかり、眼科医を受診した。
すると、白内障に加え緑内障の点眼薬まで処方された。

 それから、1ヶ月が過ぎ、薬の効果を診るため、
再び予約通院をした。

 眼科の受診は、どこの医院も同じだろうが、
医師の診断前に、いくつも検査がある。

 薄暗い部屋で検査機器を挟んで、スタッフと向き合う。
指示通りレンズをのぞくと、
「まばたきをしないで、動きません」などと言われる。
 これも、2度目になると慣れたもんだ。

 その後、医師による検査があり、
診断の結果は、
「お薬の効果で、改善が見られます。
このまま毎日、欠かさず続けてくだい」だった。

 だから、2ヶ月分の処方箋を頂き、
「一安心!」な筈だが、
意に反し、私の気持ちは沈んでいた。

 実は、診断結果を聞きに、
医師の待つ診察室に入った時のことだ。

 医師と対面する私との間には、
検査用機器のテーブルが設置されていた。
 その手前に、患者用の椅子がある。

 診察室に呼ばれた私は、その椅子に座ればいいのだ。
それだけのことだ。
 前回は、そうした。

 ところが、今回は、手慣れた感じの看護師が、私を待っていた。
私の名前を確認した後、ゆっくりとていねいな口調で言った。
 「椅子の背もたれが横を向いてます。
横を向いて座ってから、
体を先生のいる検査器械の方へ動かしてください」。

 椅子の向きには気づいていた。
親切な言い方にやや不快な思いがしたが、
指示通りに座り、ゆっくりと向きをかえた。

 すると、私の動きに合わせ、看護師は丸みのある声で続けた。
「そうです。そうです、横向きです」。
 次に、「向きを先生の方へ、そうそう・・・」。
そして、ついに「それでいいです」。

 医師と向き合った時には、もう不快感を超えていた。
敬老精神には感謝する。
 でも、その恩恵を受けるほど老けていないと思っていた。
なのに、手慣れた看護師には、
それを求めているように見えたのだろうか。
 
 眼科受診後は、車の運転はできない。
自宅まで20分余り、ずっとうつむいて歩いた。


  

  八重桜の下は小学校の通学路だ
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私 『楽書きの会』 同 人 (5)

2022-05-07 11:36:43 | 思い
 「楽書きの会」は、今月から1人入会し、
現在13名になった。
 土曜日の地元紙『室蘭民報』・文化欄に、
その中から1名の随筆が掲載される。

 仲間に加えてもらって、もう3年になる。
これまでに、14ものエッセイを載せて頂いた。
 それだけで嬉しいのに、その都度、様々な反響があり、
励みになっている。
 最近作3点の紹介とその声(【◎ 】印)を記す。

   *     *     *     *     *

 = 2021年12月4日に掲載された。
本ブログ2016年7月に記した「私の保育所くらしから」の1部に筆を加えた。
 ジングルベルが聞こえてくると、何故か思い出す光景だった。
その時季にあわせて投稿した。=


     70年前のサンタクロース

 クリスマス会なんて、前年までなかったのに、
急に遊戯室にクリスマスツリーが飾られた。
 「トナカイがひくソリに乗って、明日サンタさんがやって来ます」。
先生は明るい声で言った。
 それまで、クリスマスという言葉さえ知らなかった。
「遠い国から、真っ赤な服を着た白いヒゲのサンタクロースが、
大きな袋に沢山のプレゼントをつめてやってくるんだ」。
 友だちが得意気に教えてくれた。

 次の日、保育所の全員が遊戯室に集められた。
クリスマスの曲らしい音楽が流れ、
いつしか鈴の音と一緒に、サンタさんが現れた。
 友だちが言った格好で重そうな袋を肩に、
ふらつきながら私たちのそばまで近づいた。

 何やら不思議な言葉を遣った。
その言葉と真っ白な長いヒゲから、遠い遠い国の人だと思った。
私の心は普通でなくなった。
 1人1人に分からない言葉で、プレゼントを渡してくれた。
嬉しかった。
 わざわざ来てくれたんだと思うと、
さらに喜びが増した。サンタさんもクリスマスも大好きになった。

 やがてサンタさんが帰り、会は終わった。
その後、全員で記念写真を撮ることになった。
 用意されたひな壇にみんな座った。
私はたまたま最前列の端になった。
 そして、私の横に椅子が一脚用意された。
いつの間にか、帰ったはずのサンタさんがそこに座った。
 私は、混乱した。

 そして、さらに混乱は続いた。
先生がサンタさんに小声で言った。
 「今日は、ありがとうございます。子ども達、大喜びです」。
すると、サンタさんも私にも分かる言葉で、
「それはよかった。うまくいきましたね」。
 その後も、2人の会話はしばらく続いた。

 私は、ビックリして2人の顔を交互に見た。
そして、気づいた。
 白いヒゲで覆われたサンタさんの顔に、見覚えがあった。
声も聞き覚えがあった。
 よく行く「酒屋のおじさんだ!」。
急に胸の膨らみがしぼんだ。
 「先生のウソつき!」。小さくつぶやいた。

 【 ◎ シンプルさがいい。読者も最後はニッコリ笑っていそう。
70年前を思い出している、ということが、いいスパイスになっている。

 ◎ 懐かしい思い出をよく覚えていて、文章にする!
いつも感心させられています。
 懐かしく、甘酸っぱい心持ちをいただきました。】

  *     *     *     *     *

 = 2022年2月5日に掲載された。 
 原文は、本ブログを開設してすぐの2014年8月に記した。
私にとっては大きな出来事だったが、読み手がどう受け止めるか不安で、
地元紙への投稿をためらっていた。
 昨年11月の「あの子らの今は?」に再録した。
すると教職経験のない方からも、好評を得た。
 それに押され、字数制限等の推敲を重ねた。= 


     9年目の涙

 教職について9年目のとき、1年生担任になった。
その学級に自閉症のT君がいた。
 T君は言葉が少なく、いつもジッと席にいた。
机にノートを広げてやると、勝手に電車の絵を描きはじめた。

 「ダメだよ。お絵かきの時間じゃないよ。国語のお勉強ね」。
電車の絵を辞めさせようとすると、
突然大粒の涙をこぼし「お母さん、かえる。お母さん、かえる」と叫んだ。

 この「お母さん、かえる」が始まると、私はもうお手上げだった。
仕方なく、いつもT君の家に電話をした。
 幸い、学校の近くに住まいがあったので、
5分もかからずお母さんは駆けつけてくださった。
 私はその5分間をただオロオロとしているだけで、
T君の「お母さん、かえる」を止めることができなかった。
 T君に振り回される日が続いた。
そして、いつも「お母さん、かえる」の言葉を恐れた。

 しかし、次第にT君の思いが分かるようになり、
少しずつ距離が縮まった。
 それでも、時折T君の願いに気づけず
「お母さん、かえる」の大声と大粒の涙に見舞われた。

 2年生でもT君を受け持った。
その頃になると、学級の子ども達ともT君はうち解けて過ごすことが多くなった。
 その日の休み時間も、T君は学級のみんなと校庭にいた。
私は職員室で仕事に追われていた。
 突然、外からT君の例の泣き叫ぶ声がした。
久しぶりの声に、体に力が入った。
 ところが、「お母さん、かえる」のはずが、
「先生、かえる」に聞こえた。
 「まさか!」と校庭に走り出た。

 「お母さん、かえる」じゃない。
はっきりと「先生、かえる。先生、かえる」だった。
 私はT君のそばに走りより、いつもお母さんがしたように、
T君のポケットから真っ白なハンカチを取り出し、
大粒の涙をふきながら、
「もう大丈夫だよ。もう大丈夫。先生がいるからね」。
 そう言いながら、私はボロボロと涙をこぼした。
あの時、はじめて教職に魅せられた気がする。

 【 ◎ 泣いてしまいました。
今こそ多様性を受け入れる時代になり、
いろんな人たちと関わることで自分を高められると思っています。
 そう思っていても、自分との距離がある人との関わりは、
とても苦労し悩みます。
 寄り添うことで、心が近づく体験をしていても、
なかなか本当の意味で距離を縮めることができず、
ジレンマを感じます。
 この記事を読んで、本当に距離が縮まったんだなあと思い、
子どもが安心して過ごす場になったのかなと思いました。
 多様性の社会で生きて生活するためには、
いろんな方のそばにスッと行ける自分になりたいです。
 今の私の一番の課題です。】

   *     *     *     *     *

 = 2022年4月9日に掲載された。
平成23年3月初版『教育エッセイ・優しくなければ』の
第1章「芽生えの頃」の最初の項が原文である。
 様々なことへの気づきの第一歩だったように思う。
それだけに、思い入れも大きい。
 戦場と化した市街地の映像に、心を逆なでされる日々。
わずかでも潤いを求め、投稿を決めた。=

  
       文化の香り

 中学生の頃、楽曲の再生はレコードだけだった。
すでに多感な時期を迎えていた私は、音楽のT先生に密かに惹かれていた。
 私だけではない。
多くの男子が同じ思いだった。
 なので、それまではさほど好きでもなかった音楽の時間を、
どの子もやけに待ち遠しい時間に感じていた。
 変声期と併せて楽器音痴だった私が、
打楽器ならと進んで手を挙げてみたり、思い出すと滑稽そのものだ。

 そのT先生について忘れられないことがある。
音楽鑑賞の時間のことだ。
 バッハだベートーベンだと言われても、どうでもいいことだったが、
先生を困らせてはいけないと、おとなしくしていた。
 先生は、丁寧に作曲家や曲の解説をした後、
「では、これからレコードをかけますね」と、
おもむろにLPレコードをジャケットから取り出した。
 そのレコードをそれはそれは大事そうに、
左手の手のひらをめいっぱい指までひろげて片手で持ち、
もう一方の手にスプレーを握り、
レコード盤に吹きかけるのだった。
 そして、専用の赤い布ブラシでやさしく、
ゆっくりとレコード盤にそって拭いた。
 先生の一連のその仕草を、私たちはいつも固唾を飲んで見入った。
私もその一つ一つをじっと見つめ、
レコード盤がプレーヤーに収まるまで見届けた。

 先生はきっと雑音のない美しい澄んだ音色を聞かせようとそうしてくれたのだと思う。
しかし、そのスプレーがどれ程効果のあるものなのか、私にはどうでもよかった。

 なのに、音楽鑑賞でのT先生の仕草に、
私はいつしか『文化という香り』を感じていた。
 私には分からないが、音楽を聞き分けることができる先生にとって、
あのスプレーはすごく大切なこと。
 そう思うと「T先生のその行動はまさに文化なんだ。文化ってそういうものなんだ」。
私は、何も分からない思春期の初めに、そうやって文化という言葉と出会った。

 【 ◎ 何度読んでも感動。
声に出して読むにも、大好きな文体。
 塚原先生の著作は、私の中の「声に出して読みたいエッセイ」ベストセラーで、
ロングセラーです。

 ◎ 昔のことをこんなにも鮮明に覚えていて、
瑞々しく描いている様子が、微笑ましい。
 考えてみれば、「文化」とはなかなか曖昧で使い方が難しい言葉だな。
私が「文化」を強く実感したのは19歳かしら。
 自分以外のある一定数の人が当たり前と感じているものに出くわすと、
文化の違いという言葉で自己処理をするのかな。】




   春 ~リスも楽しげ~ 歴史の杜公園
コメント
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