▼ 父を亡くしたのは、29歳の時だ。
40年も前、1977年の暮れのこと。
その年は、こんな詩を添え、喪中の葉書を出した。
12月9日未明
予期した電話のベル
2ヶ月の乳児を抱えて
降り立った北国
先日 見舞ったときは
まだ
わずかに紅葉が残っていたのに
木々は 寒々と枯れていた
白い布におおわれた父
一昼夜後には
その形さえ消えた
好きだった 大好きだった父の 死
悔やみの言葉に
ただ両手をつく僕
言葉を忘れた合掌は
新春をむかえる事さえ
忘れそう
葬儀を済ませて戻ると、悲しんでいる間がなかった。
2学期末の評価と通知表作成が待っていた。
喪中葉書を読んだ同僚などから、呼び止められ、
改めて、お悔やみの言葉を頂いた。
でも、それよりも学期末の仕事に、心が奪われていた。
ところが、冬休みに入ると突如、
悲しみがこみ上げた。
私にとって、初めての家族親族の葬儀だった。
それが、大好きな父の・・・。
「ちょっと京都へ行ってくる。」
家内に、そう言い残し、新幹線に乗った。
何故の京都なのか、目的は何かなど、
その時の私には明確な想いはなかった気がする。
それまで何度か足を運んだ古都に行くことが、
父の死を受け入れる道のように、
直感したに違いない。
底冷えする年の瀬の嵯峨野を、当てもなく歩いた。
『常寂光寺』という寺名に惹かれ、足を向けた。
多宝塔までの登り道、
こみ上げてくる悲しみを、
必死に堪えたことを、今も思い出す。
そこから回り道をして、
なぜか妙心寺に立ち寄った。
広くて大きなお寺だった。
何の予備知識もないまま、
参観者のいない法堂に入ってみた。
そこに招かれたのかも知れない。
寒々とした4階建て位の大空間の堂内、
その鏡天井に、『雲龍図』が描かれていた。
17世紀の絵師・狩野探幽が、
8年の歳月をかけた作だとか。
別名「八方にらみの龍」と言うらしい。
私は、その龍の目力に驚いた。
法堂を、ゆっくりと一回りしながら、
見上げ続けた。
立つ位置によって、
龍が登っていくようにも、
下ってくるようにも見えた。
様々な表情をする龍に、私は時を忘れた。
時に叱られ、時に励まされ、褒めてももらった。
その力感の凄さに魅せられ、
素直になっていく自分がいた。
法堂を出たとき、
私は、京都の冬空を見上げていた。
▼ 長男が、一浪の末、
京都で大学生活を始めることになった。
大学は自宅からと願っていた。
しかし、大好きな京都とあっては、
反対することもできず・・・。
彼は見事、『合法的家出』に成功したのである。
いよいよ我が子の大学入学である。
無理をきいてもらい、休暇をいただき、
家内と一緒に入学式に出席した。
日本を代表する知識人である学長の式辞に、
興味があった。
当日、事前に学長式辞の印刷物が渡されたが、
それには目を通さず、私は聴くことにした。
大学の創設からその後の歴史的歩み、
そして真理探究への研究者のプライド、
更には、その道を前進させよと新入生によびかける情熱、
その全てに、私は心酔した。
何よりも、平易な言語選択と、
簡単明快な論理性を柱にした静かな語りに、
式辞のあるべき姿を肌で感じ、興奮した。
この場に連れた来てくれた長男に感謝した。
実は、その日、京都でもう1つ素晴らしい体験をした。
入学式を終えると、ちょうど昼食時だった。
湯豆腐で乾杯でもと、南禅寺まで足を伸ばした。
ちょうど、京都はいたる所で桜が満開だった。
案の定、南禅寺も花見客で賑わっていた。
どこの湯豆腐店も、一番混んでいる時間帯だった。
少し時間をずらそうと、
たまたま目に止まった、南禅寺三門に上ってみることにした。
歌舞伎で有名な石川五右衛門が、
この三門からの眺めを、『絶景かな、絶景かな』と、
発したことで知られているところである。
ずばり、その通りだった。
私は、今までこんなすごい絶景を、
見たことがなかった。
三門の上から見下ろした京都の町は、
どこも満開の桜でおおわれていた。
「あそこも、ここも、あっちも、そっちも桜、桜。」
春の柔らかな日差しが燦々と、桜色にはね返り、
町並みの全てを、その色に染めていた。
まばゆいばかりだ。
「きれいだ。」
それ以外の言葉を、いくら探し求めても見つからなかった。
三門から下りるのを、何度もためらった。
2回と見られない美しさに、動きが停まった。
長男に促され、ようやく階段を降りた。
古都の奥深さを、また1つ知った。
▼ 最後に京都を訪ねたのは、東日本大震災直後の夏だった。
翌年の春には、伊達移住が本決まりになりつつあった時で、
京の見納めと思い、1泊で出かけた。
まだ大震災の悲惨さが、生々しく心にあった。
行く先々のお寺と神社では、犠牲になられた方々のご冥福を、
くり返しくり返し祈った。
併せて、原発による被害がこれ以上拡大しないようにと、
懇願した。
いつもの古都巡りとは違い、心がどんよりと沈み、
どこへ行っても、ため息ばかりだった。
1日目は、貴船神社と鞍馬寺へ、初めて行った。
そして、翌日は、いつものように詩仙堂へ。
その帰り道だ。
少し遠回りをと思い立ち、辺りをあてもなく散策した。
素通りしているお寺の前で、立ち止まった。
前年の秋、紅葉の名所として、
テレビで紹介された圓光寺である。
なんでも『十牛の庭』が素晴らしいと思い出した。
早速、拝観を決めた。
苔におおわれた庭園には、拝観者もまばらだった。
その静寂の片隅、縁側のすぐそばに、目が行った。
「あら、水琴窟よ。」
家内が近寄っていった。
「何だ、それ?」
水の張った石の鉢に1本の竹筒が渡してあった。
「いい音!」
竹筒から耳を離し、
家内は、私にも聴くようにと勧めてくれた。
水琴窟なるものに、全く知識がないまま、
その竹筒に耳を寄せてみた。
地中の深いところから、高音の澄んだ音が響いてきた。
少しの間をおいて、再び澄んだ響きが届いた。
家内に説明を求めた。
日本庭園の装飾の1つで、
水手鉢の近くの地中に作った空洞に、水滴を落下させる。
その時、発せられた水音を反響させた仕掛けだと言う。
江戸時代初期、作庭職人が考案したもので、
『わび』『さび』の世界を演出しているのだとか・・・。
私は、何度も何度もその水琴窟に耳を近づけた。
琴の音色のようでもあった。
確かに水滴の響きのようでもあった。
なんの濁りもない清い音の響きだ。
その音は、はるかな地中からの優しいエールのようで、
それまで沈んでいた私の心に、
一音一音、元気を届けてくれた。
今を精一杯生きること、それでいいと思えた。
圓光寺を後にした時、軽い足取りの私になっていた。
今朝の有珠山 きっと最後の雪化粧
40年も前、1977年の暮れのこと。
その年は、こんな詩を添え、喪中の葉書を出した。
12月9日未明
予期した電話のベル
2ヶ月の乳児を抱えて
降り立った北国
先日 見舞ったときは
まだ
わずかに紅葉が残っていたのに
木々は 寒々と枯れていた
白い布におおわれた父
一昼夜後には
その形さえ消えた
好きだった 大好きだった父の 死
悔やみの言葉に
ただ両手をつく僕
言葉を忘れた合掌は
新春をむかえる事さえ
忘れそう
葬儀を済ませて戻ると、悲しんでいる間がなかった。
2学期末の評価と通知表作成が待っていた。
喪中葉書を読んだ同僚などから、呼び止められ、
改めて、お悔やみの言葉を頂いた。
でも、それよりも学期末の仕事に、心が奪われていた。
ところが、冬休みに入ると突如、
悲しみがこみ上げた。
私にとって、初めての家族親族の葬儀だった。
それが、大好きな父の・・・。
「ちょっと京都へ行ってくる。」
家内に、そう言い残し、新幹線に乗った。
何故の京都なのか、目的は何かなど、
その時の私には明確な想いはなかった気がする。
それまで何度か足を運んだ古都に行くことが、
父の死を受け入れる道のように、
直感したに違いない。
底冷えする年の瀬の嵯峨野を、当てもなく歩いた。
『常寂光寺』という寺名に惹かれ、足を向けた。
多宝塔までの登り道、
こみ上げてくる悲しみを、
必死に堪えたことを、今も思い出す。
そこから回り道をして、
なぜか妙心寺に立ち寄った。
広くて大きなお寺だった。
何の予備知識もないまま、
参観者のいない法堂に入ってみた。
そこに招かれたのかも知れない。
寒々とした4階建て位の大空間の堂内、
その鏡天井に、『雲龍図』が描かれていた。
17世紀の絵師・狩野探幽が、
8年の歳月をかけた作だとか。
別名「八方にらみの龍」と言うらしい。
私は、その龍の目力に驚いた。
法堂を、ゆっくりと一回りしながら、
見上げ続けた。
立つ位置によって、
龍が登っていくようにも、
下ってくるようにも見えた。
様々な表情をする龍に、私は時を忘れた。
時に叱られ、時に励まされ、褒めてももらった。
その力感の凄さに魅せられ、
素直になっていく自分がいた。
法堂を出たとき、
私は、京都の冬空を見上げていた。
▼ 長男が、一浪の末、
京都で大学生活を始めることになった。
大学は自宅からと願っていた。
しかし、大好きな京都とあっては、
反対することもできず・・・。
彼は見事、『合法的家出』に成功したのである。
いよいよ我が子の大学入学である。
無理をきいてもらい、休暇をいただき、
家内と一緒に入学式に出席した。
日本を代表する知識人である学長の式辞に、
興味があった。
当日、事前に学長式辞の印刷物が渡されたが、
それには目を通さず、私は聴くことにした。
大学の創設からその後の歴史的歩み、
そして真理探究への研究者のプライド、
更には、その道を前進させよと新入生によびかける情熱、
その全てに、私は心酔した。
何よりも、平易な言語選択と、
簡単明快な論理性を柱にした静かな語りに、
式辞のあるべき姿を肌で感じ、興奮した。
この場に連れた来てくれた長男に感謝した。
実は、その日、京都でもう1つ素晴らしい体験をした。
入学式を終えると、ちょうど昼食時だった。
湯豆腐で乾杯でもと、南禅寺まで足を伸ばした。
ちょうど、京都はいたる所で桜が満開だった。
案の定、南禅寺も花見客で賑わっていた。
どこの湯豆腐店も、一番混んでいる時間帯だった。
少し時間をずらそうと、
たまたま目に止まった、南禅寺三門に上ってみることにした。
歌舞伎で有名な石川五右衛門が、
この三門からの眺めを、『絶景かな、絶景かな』と、
発したことで知られているところである。
ずばり、その通りだった。
私は、今までこんなすごい絶景を、
見たことがなかった。
三門の上から見下ろした京都の町は、
どこも満開の桜でおおわれていた。
「あそこも、ここも、あっちも、そっちも桜、桜。」
春の柔らかな日差しが燦々と、桜色にはね返り、
町並みの全てを、その色に染めていた。
まばゆいばかりだ。
「きれいだ。」
それ以外の言葉を、いくら探し求めても見つからなかった。
三門から下りるのを、何度もためらった。
2回と見られない美しさに、動きが停まった。
長男に促され、ようやく階段を降りた。
古都の奥深さを、また1つ知った。
▼ 最後に京都を訪ねたのは、東日本大震災直後の夏だった。
翌年の春には、伊達移住が本決まりになりつつあった時で、
京の見納めと思い、1泊で出かけた。
まだ大震災の悲惨さが、生々しく心にあった。
行く先々のお寺と神社では、犠牲になられた方々のご冥福を、
くり返しくり返し祈った。
併せて、原発による被害がこれ以上拡大しないようにと、
懇願した。
いつもの古都巡りとは違い、心がどんよりと沈み、
どこへ行っても、ため息ばかりだった。
1日目は、貴船神社と鞍馬寺へ、初めて行った。
そして、翌日は、いつものように詩仙堂へ。
その帰り道だ。
少し遠回りをと思い立ち、辺りをあてもなく散策した。
素通りしているお寺の前で、立ち止まった。
前年の秋、紅葉の名所として、
テレビで紹介された圓光寺である。
なんでも『十牛の庭』が素晴らしいと思い出した。
早速、拝観を決めた。
苔におおわれた庭園には、拝観者もまばらだった。
その静寂の片隅、縁側のすぐそばに、目が行った。
「あら、水琴窟よ。」
家内が近寄っていった。
「何だ、それ?」
水の張った石の鉢に1本の竹筒が渡してあった。
「いい音!」
竹筒から耳を離し、
家内は、私にも聴くようにと勧めてくれた。
水琴窟なるものに、全く知識がないまま、
その竹筒に耳を寄せてみた。
地中の深いところから、高音の澄んだ音が響いてきた。
少しの間をおいて、再び澄んだ響きが届いた。
家内に説明を求めた。
日本庭園の装飾の1つで、
水手鉢の近くの地中に作った空洞に、水滴を落下させる。
その時、発せられた水音を反響させた仕掛けだと言う。
江戸時代初期、作庭職人が考案したもので、
『わび』『さび』の世界を演出しているのだとか・・・。
私は、何度も何度もその水琴窟に耳を近づけた。
琴の音色のようでもあった。
確かに水滴の響きのようでもあった。
なんの濁りもない清い音の響きだ。
その音は、はるかな地中からの優しいエールのようで、
それまで沈んでいた私の心に、
一音一音、元気を届けてくれた。
今を精一杯生きること、それでいいと思えた。
圓光寺を後にした時、軽い足取りの私になっていた。
今朝の有珠山 きっと最後の雪化粧