ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

京都を訪ねて(後)

2017-03-31 21:41:13 | あの頃
 ▼ 父を亡くしたのは、29歳の時だ。
40年も前、1977年の暮れのこと。
 その年は、こんな詩を添え、喪中の葉書を出した。


  12月9日未明
  予期した電話のベル
  2ヶ月の乳児を抱えて
       降り立った北国
  先日 見舞ったときは
  まだ
  わずかに紅葉が残っていたのに
  木々は 寒々と枯れていた

  白い布におおわれた父
  一昼夜後には
  その形さえ消えた
  好きだった 大好きだった父の 死
  悔やみの言葉に
       ただ両手をつく僕
  言葉を忘れた合掌は
  新春をむかえる事さえ
         忘れそう


 葬儀を済ませて戻ると、悲しんでいる間がなかった。
2学期末の評価と通知表作成が待っていた。

 喪中葉書を読んだ同僚などから、呼び止められ、
改めて、お悔やみの言葉を頂いた。
 でも、それよりも学期末の仕事に、心が奪われていた。

 ところが、冬休みに入ると突如、
悲しみがこみ上げた。
 私にとって、初めての家族親族の葬儀だった。
それが、大好きな父の・・・。

 「ちょっと京都へ行ってくる。」
家内に、そう言い残し、新幹線に乗った。

 何故の京都なのか、目的は何かなど、
その時の私には明確な想いはなかった気がする。

 それまで何度か足を運んだ古都に行くことが、
父の死を受け入れる道のように、
直感したに違いない。

 底冷えする年の瀬の嵯峨野を、当てもなく歩いた。
『常寂光寺』という寺名に惹かれ、足を向けた。
 多宝塔までの登り道、
こみ上げてくる悲しみを、
必死に堪えたことを、今も思い出す。

 そこから回り道をして、
なぜか妙心寺に立ち寄った。
 広くて大きなお寺だった。
何の予備知識もないまま、
参観者のいない法堂に入ってみた。
 そこに招かれたのかも知れない。

 寒々とした4階建て位の大空間の堂内、
その鏡天井に、『雲龍図』が描かれていた。
 
 17世紀の絵師・狩野探幽が、
8年の歳月をかけた作だとか。
 別名「八方にらみの龍」と言うらしい。
私は、その龍の目力に驚いた。

 法堂を、ゆっくりと一回りしながら、
見上げ続けた。
 立つ位置によって、
龍が登っていくようにも、
下ってくるようにも見えた。

 様々な表情をする龍に、私は時を忘れた。
時に叱られ、時に励まされ、褒めてももらった。
 その力感の凄さに魅せられ、
素直になっていく自分がいた。

 法堂を出たとき、
私は、京都の冬空を見上げていた。


 ▼ 長男が、一浪の末、
京都で大学生活を始めることになった。

 大学は自宅からと願っていた。
しかし、大好きな京都とあっては、
反対することもできず・・・。
 彼は見事、『合法的家出』に成功したのである。

 いよいよ我が子の大学入学である。
無理をきいてもらい、休暇をいただき、
家内と一緒に入学式に出席した。

 日本を代表する知識人である学長の式辞に、
興味があった。
 当日、事前に学長式辞の印刷物が渡されたが、
それには目を通さず、私は聴くことにした。

 大学の創設からその後の歴史的歩み、
そして真理探究への研究者のプライド、
更には、その道を前進させよと新入生によびかける情熱、
その全てに、私は心酔した。

 何よりも、平易な言語選択と、
簡単明快な論理性を柱にした静かな語りに、
式辞のあるべき姿を肌で感じ、興奮した。
 
 この場に連れた来てくれた長男に感謝した。

 実は、その日、京都でもう1つ素晴らしい体験をした。

 入学式を終えると、ちょうど昼食時だった。
湯豆腐で乾杯でもと、南禅寺まで足を伸ばした。

 ちょうど、京都はいたる所で桜が満開だった。
案の定、南禅寺も花見客で賑わっていた。
 どこの湯豆腐店も、一番混んでいる時間帯だった。

 少し時間をずらそうと、
たまたま目に止まった、南禅寺三門に上ってみることにした。

 歌舞伎で有名な石川五右衛門が、
この三門からの眺めを、『絶景かな、絶景かな』と、
発したことで知られているところである。

 ずばり、その通りだった。 
私は、今までこんなすごい絶景を、
見たことがなかった。

 三門の上から見下ろした京都の町は、
どこも満開の桜でおおわれていた。
 「あそこも、ここも、あっちも、そっちも桜、桜。」

 春の柔らかな日差しが燦々と、桜色にはね返り、
町並みの全てを、その色に染めていた。
 まばゆいばかりだ。

 「きれいだ。」
それ以外の言葉を、いくら探し求めても見つからなかった。

 三門から下りるのを、何度もためらった。
2回と見られない美しさに、動きが停まった。
 長男に促され、ようやく階段を降りた。
 
 古都の奥深さを、また1つ知った。


 ▼ 最後に京都を訪ねたのは、東日本大震災直後の夏だった。
翌年の春には、伊達移住が本決まりになりつつあった時で、
京の見納めと思い、1泊で出かけた。

 まだ大震災の悲惨さが、生々しく心にあった。
行く先々のお寺と神社では、犠牲になられた方々のご冥福を、
くり返しくり返し祈った。

 併せて、原発による被害がこれ以上拡大しないようにと、
懇願した。

 いつもの古都巡りとは違い、心がどんよりと沈み、
どこへ行っても、ため息ばかりだった。

 1日目は、貴船神社と鞍馬寺へ、初めて行った。
そして、翌日は、いつものように詩仙堂へ。

 その帰り道だ。
少し遠回りをと思い立ち、辺りをあてもなく散策した。
 素通りしているお寺の前で、立ち止まった。

 前年の秋、紅葉の名所として、
テレビで紹介された圓光寺である。
 なんでも『十牛の庭』が素晴らしいと思い出した。
早速、拝観を決めた。

 苔におおわれた庭園には、拝観者もまばらだった。
その静寂の片隅、縁側のすぐそばに、目が行った。

 「あら、水琴窟よ。」
家内が近寄っていった。
「何だ、それ?」

 水の張った石の鉢に1本の竹筒が渡してあった。
「いい音!」
 竹筒から耳を離し、
家内は、私にも聴くようにと勧めてくれた。

 水琴窟なるものに、全く知識がないまま、
その竹筒に耳を寄せてみた。
 地中の深いところから、高音の澄んだ音が響いてきた。
少しの間をおいて、再び澄んだ響きが届いた。

 家内に説明を求めた。

 日本庭園の装飾の1つで、
水手鉢の近くの地中に作った空洞に、水滴を落下させる。
 その時、発せられた水音を反響させた仕掛けだと言う。

 江戸時代初期、作庭職人が考案したもので、
『わび』『さび』の世界を演出しているのだとか・・・。

 私は、何度も何度もその水琴窟に耳を近づけた。
琴の音色のようでもあった。
 確かに水滴の響きのようでもあった。
なんの濁りもない清い音の響きだ。

 その音は、はるかな地中からの優しいエールのようで、
それまで沈んでいた私の心に、
一音一音、元気を届けてくれた。

 今を精一杯生きること、それでいいと思えた。
圓光寺を後にした時、軽い足取りの私になっていた。





  今朝の有珠山  きっと最後の雪化粧 
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京都を訪ねて(前)

2017-03-24 21:48:45 | あの頃
 ▼ 初めて京都を訪ねたのは、高校の修学旅行だった。
全く古都に興味などなかった。
 でも、東京から京都までの新幹線にはワクワクした。
車窓から、これまた初めての富士山を見た。
その雄大な美しさは、今も新鮮な驚きのままである。

 京都周辺は、観光バスによる団体見学で、
もっぱら居眠りばかり。
 街並みも景色も目に入らなかった。

 だが、滋賀の石山寺と苔寺で名高い西芳寺だけは、
記憶に残った。
 2つのお寺に流れる静けさと凜とした空気感の魅力を、
17歳なりに感じたらしい。

 「いつか、もう一度訪ねたい。」
お寺を離れる時、そうふり返った気がする。
 しかし、それは実現しないままである。


 ▼ 2度目は、昭和48年のことだ。
2泊3日の新婚旅行である。

 東京都内での挙式と披露宴の後、
そのまま会場から車で東京駅へ行き、京都へ向かった。

 実は2人だけの旅ではなかった。
はるばる私たちの結婚式のために北海道から上京した、
私と家内の両親も一緒、6人による旅行だった。

 ホテルは、3部屋を用意したが、
京都観光は、2台のハイヤーを予約した。
 私と家内が分乗し、両親に付き添うことになった。
ちょっと、変な気がしたが、致し方なかった。

 京都に詳しい先輩教員が、観光ルートを作ってくれた。
清水寺、金閣寺、嵐山、嵯峨野など、
昼食を挟んで巡った。

 龍安寺の庭に着いた時、4人ともドッカと座り込んだ。
枯山水の方丈庭園を見ながら、互いに
「いいところですね。」と言い合っていた。
 「これでよかった」と安堵した。

 北海道から遠く離れた所での結婚に、
諸手を挙げては祝っていなかった家内の父だった。
 この旅行を通して、私と随分距離が縮んだ。


 ▼ 結婚して2年目の夏だ。
まだヨチヨチ歩きの長男を連れて、京都に行った。

 和風旅館を予約していたものの、
計画のない旅だった。

 新幹線で京都駅に降りたが、
旅館に行くには時間があった。
 「こんな時は思い切って、タクシーに乗り込み、
運転手任せにしよう。」

 後部座席に着いて、
「小1時間ほどあるので、
どこか京都らしい所へ案内して下さい。」
 きっと驚くと思いつつ、そう切り出した。

 ベテラン運転手さんは、しばらく発進をためらった。
小さな子をつれた家族3人を、
バックミラーからくり返し見た。

 「少し遠方でもよろしいですか。」
私に念を押して、走り出した。
 そして、運転手さんはハンドルを握りながら、
こうガイドした。

 「これから、お客様をご案内するのは、
洛北にあります『シセンドウ』と言う所です。
 ポエムの詩、仙人の仙、お堂の堂と書いて、
詩仙堂です。
 家康公に仕えた文人の、
石川丈山という方が隠居した所です。
 失礼ですが、文学好きの方と思いましたので、
そちらがいいかと。」

 一度に興味が湧いた。

 宮本武蔵の決闘の地・一乗寺下り松の横を
抜けて、上り坂を進む。
 その坂の途中で下車すると、詩仙堂があった。

 思いのほか小さな山門をくぐる。
若干薄暗い竹林に囲まれた石畳の参道を進む。
それを左に折れたところに玄関があった。

 拝観料を払って入ると、すぐに詩仙の間だ。
私は、その先にある書院の間が好きになった。
 そこに座り、
凹凸窠(でこぼこした土地に建てた住居)にある
庭園を見た。
 次第に、すべての喧騒が私から消え、
透明感だけにしてくれた。

 ここでは『僧都』というらしいが、
静寂の庭に、思い出したかのように「鹿威し」が響いた。

 先人が残した文化の継承に、
癒やされる一時があった。

 あの時の運転手さんには、感謝しきれない。
あれから何度京都を訪ねたろうか。
 その都度、欠かさず私の足は、
詩仙堂に向かった。


 ▼ 2年前のブロクに「喰わず嫌い『ウナギ』編」を記したが、
40歳代半ばまで、私は鰻を口にしなかった。

 従って、京都のこの店でしか食べられない鰻料理に、
目を輝かせたのは、50歳前後のことだと思う。
 情報は、京都旅行のガイドブックだ。

 7条通り、三十三間堂そばにある、
老舗料理店『わらじや』がそれである。
 創業400年、豊臣秀吉が草鞋をぬいで休憩した場所から、
この店名がついたらしい。

 メニューは、鰻のコース料理1つだけ。
抹茶に落雁、先付けが出てから、
この店でしか食べられない『うなべ』と
『う雑炊』が出てくる。

 中骨を抜いた鰻のぶつ切りに、
麩と九条ネギだけのさっぱりとした『うなべ』。

 その後に、別の鍋で今度は、開いた白焼きの鰻と、
ゴボウや人参、椎茸、餅、溶き卵、
ご飯の『う雑炊』が出てくる。
 『うなべ』とは違う味付けで、
私はどちらも好きだ。
 最後は、締めの果物で、口直し。

 珍しい鰻の食べ方に、好みは分かれるのだろう。
私は、おもむきの違う鰻料理に、
京都ならではの奥行きを感じるのだが・・・。




   いつの間にか フキノトウ
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巡り会う ~全てを歌う

2017-03-17 22:17:31 | あの頃
 卒業式シーズン真っ只中である。
毎年訪れる「別れの季節」だ。

 巣立っていく子ども達を見送りながら、
充実感を味わった記憶など、私にはない。
 いつもいつも、この子らにとって、
自分が果たした役割を問い、
だただたその至らなさに、悔いていた。

 それでも、その子の成長に、
きっと、わずかでも関わっている。
 そう信じて、次の一歩を踏み出した。

 さて、その卒業式にまつわる、
私のちょっとしたエピソードを書く。

 今から半世紀以上も前のことから。
小学校4年の時、初めて卒業式を体験した。

 とは言うものの、その記憶はほどんどない。
だが、そこでの歌だけは、今も口ずさむことができる。

 まずは、その時の、
『オペレッタ形式による「卒業式の歌」』
の歌詞を抜粋する。

  * * * * * * *

  オペレッタ形式による
       卒 業 式 の 歌

   小林 純一 構成・作詞
   西崎嘉太郎 作曲・編曲

〔全 員〕
うららかに 春の光が降ってくる
よい日よ よい日よ
よい日よ 今日は
桜よ薫れ 鳥も歌え
よい日よ よい日よ
よい日よ 今日は
よい日よ よい日よ
よい日よ 今日は

〔低学年〕
1、なかよく遊んで下さった
  6年生のお兄さん
  やさしく世話して下さった
  6年生のお姉さん
  おめでとう おめでとう
  ご卒業 おめでとう
〔卒業生〕
  ありがとう 君たち
  ありがとう
〔低学年〕
2、もうすぐ中学いいですね
  6年生のお兄さん
  それでも遊んでくださいね
  6年生のお姉さん
  さようなら さようなら
  ご進学 おめでとう
〔卒業生〕
  さようなら 君たち
  さようなら

〔中・高学年〕
1、よい日 この日 あなた方は
  この学校を ご卒業
  雨の日も また風の日も
  通い 励んだ 6年の
  学業を終えて 今巣立つ
  おめでとう おめでとう
  おめでとう
〔卒業生〕
  ありがとう 君たち
  ありがとう
〔中・高学年〕
2、朝に 夕に あなた方と
  遊び 学んだ 年月よ
  運動場に あの窓に
  数々残る 思い出が
  まぶたに 胸に 今浮かぶ
  さようなら さようなら
  さようなら
〔卒業生〕
  さようなら 君たち
  さようなら

〔先 生〕
1、君たちよ 光は空に満ちている
  翼を連ねて 胸張って
  羽ばたき 巣立つ 君たちよ
  例え 嵐が吹こうとも
  羽ばたけ 羽ばたけ
  行く手には 明るい希望が開けてる
2、君たちよ 先生はいつも見つめてる
  育み育てた 君たちの
  かけゆく姿を 君たちよ
  例え 荒波高くとも
  羽ばたけ 羽ばたけ
  行く手には 明るい未来が開けてる
  君たちよ
〔卒業生〕
  ありがとう 先生
  ありがとう

〔卒業生〕
1、春 夏 迎える 数六たび
  思えば長い年月を
  先生 本当に ありがとう
  日々に 新たな導きの
  ご恩は 決して忘れません
  先生 本当にありがとう

  仰げば尊し 我が師の恩
  教えのにわにも 早幾とせ
  思えばいと年 この年月
  今こそ 別れ目 いざ さらば

2、あの窓 あの庭 この講堂
  仲よく遊んだ お友達
  みなさん 本当にありがとう
  あの日 この日の 思い出が
  いつまで 残ることでしょう
  みなさん 本当にありがとう
3、育てかしこく 丈夫にと
  今日の この日を待っていた
  父さん母さん ありがとう
  こん度は いよいよ中学生
  しっかりやります 励みます
  父さん母さん ありがとう

〔全 員〕
美しく 春の光が降ってくる
よい日よ よい日よ
よい日 今日は
よい日よ よい日よ
よい日 今日は
今こそ 巣立つ卒業生
お幸せに お幸せに
さようなら さようなら
ご機嫌よう お幸せに お幸せに
さようなら さようなら
さようなら

  * * * * * * *

 この歌は、今でいう卒業生・在校生による
『よびかけ』の代わりだった。
 卒業証書授与、校長・来賓の祝辞等々後、
式のクライマックスで歌った。

 私は、4年生の時、〔全員〕部と〔低学年〕部の箇所を、
5年生で、〔全員〕部と〔中・高学年〕部を歌った。

 式の数日前から、体育館でくり返し練習した。
見慣れない男の先生が中心になり、
4,5年生だけ、あるいは卒業生と一緒などの練習があった。
 いつもピリピリした練習で、気が重かった。

 しかし、卒業の時は、それも3度目となり、
曲の全てに聞き覚えがあり、
歌うことが苦にならなかった。

 式当日、4、5年生の歌声が、ジワリと心に響いた。
それにも増して、先生たちの歌声は、今も心にある。

 『君たちよ 光は空に満ちている …胸張って 
…例え嵐が吹こうとも …君たちよ 
先生はいつも見つめている…』

 男の先生方の太い声、力強い歌声が、
体育館中に広がった。
 中学生活にちょっと意欲的にもなった。

 数年前になるが、
小学校卒業式後の帰り道を、私はこう回顧した。

 『丸めた証書を片手に持ちながら、
校舎を背にして帰宅する道を
とぼとぼと歩いた場面だけは、
はっきりと覚えています。

 黒のゴム長靴で路傍の土で汚れた雪を
蹴散らしながら、
どういう訳が体全体から
力が抜けていくような気がしました。
 私は、その時初めて、こんな気持ちが
『寂しい』ということなんだと知ったのでした。

 ……あの時ばかりは、、
一緒に遊び、共に学校生活を送り、
学んだ6年1組のみんなとの別れが、
訳もなく無性に寂しく思えたのでした。』

 どんどんと縮んでいく胸の内。
今にも涙がこぼれ落ちそうな帰り道。
 突然、先生方の歌声が蘇った。
空を見上げた。明るい空だった。

『…育み育てた 君たちの
…羽ばたけ 羽ばたけ
行く手には 明るい未来が開けてる…』

 その後の多感な時期、時折、この歌を思い出した。
先生方の歌声に、自分を鼓舞したこともあった。
 しかし、時間と共に、次第に忘れ去った。

 それから、何と20数年が流れてからだ。

 私は、東京の小学校に勤務し、2回目の異動となった。
それまでの学校とは、子どもも環境も大きく違った。

 しかし、10数年のキャリアがあった。
何とか折り合いを付けながら、
あっという間に、低学年担任の1年が過ぎようとしていた。

 確か、1月末の職員会議だったと思う。
3月の卒業式について、会議が紛糾した。

 論点は、国旗でも国歌でもなかった。
なんと『卒業式の歌』の取り扱いなのである。
 私の小学校卒業式のあの歌である。

 赴任した小学校では、長年、「よびかけ」に代わって、
この歌が、在校生、卒業生、先生方によって、
歌われていたと言う。

 「それが、本校の伝統です。」と管理職は言い、
卒業式での継承を主張した。
 しかし、先生方からは、
「もう時代に合っていない。
他校と同じように、よびかけにすべきです。」
の声が上がった。

 突然の、予期しない会議展開に私は、目を丸くした。
すぐに、この曲の全てが、私の中で歌い始めた。
 懐かしさで、胸が騒いだ。

 「小学校の卒業式で、歌いました。
私の心の故郷です。
 卒業してからも、思い出して口ずさんだ歌です。」
立ち上がって、そう発言したくなった。

 しかし、それが会議の流れのどっちに、どう左右するか、
微妙な気がして、押し黙った。

 実は、その時の私には、
この歌が、卒業式に相応しいか否か、その成否を吟味する、
そんな気持ちにはなれずにいた。

 懐かしさと共に、『棚からぼた餅』『夢のまた夢』、
そんな心境だった。

 まさかである。
北海道の小学生が3年間歌った『卒業式の歌』に、
それから20数年後、東京で再び巡り会うなんて・・・。

 今度、私が歌うのは、先生方が歌ったあのフレーズ。
私の心の中で生きていた先生の歌を、
私が卒業式で歌う。
 願っても叶うことではない。

 私は、とんでもないときめきの中にいた。
先生の部分を歌いたい。
 卒業式で、『君たちよ 光は空に……』と歌いたい。

 それは、全くのプライベートな思いである。
偶発的で感傷的な願いだった。

 私は、職員会議の推移をじっと見守った。
「取りあえず、今年度は伝統を守って」となった。

 卒業式当日、職員席から〔先生〕部を、
心を込めて歌った。
 他の先生方とは違う、
特別な感情で胸が焦げそうになった。
 小学生の私、その時の先生方、今の私が、
次々と現れた。
 まさに、夢心地。地に足が付いていなかった。
どんな小説にもないシーンだった。

 式後、同僚たちにこのことを何も言わなかった。
翌年は、どうなるのか気がかりだった。

 私の想いとは無関係に、
次の年、式から〔先生〕部が消えた。
 そして、私が卒業生を出した4年後には、
完全に、その歌は式からなくなった。
 十分に納得している。

 好運がくれた自己満足だが、
『オペレッタ形式による卒業式の歌』の全曲を、
卒業式で歌った人は数少ない。
 ちょっとだけ胸を張っている。




   光の春が来た・ナナカマドの新芽も 
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『わたし遺産』大賞から

2017-03-10 22:27:25 | 出会い
 三井住友信託銀行が主催する
『私が綴る、未来に伝える物語。「わたし遺産」』
の第4回結果発表があった。
 400字に込められた8236作品の中から、
3つの大賞作と選定委員のコメントが朝日新聞にあった。
 その2つに、心がふるえ、知らず知らず熱いものがこみ上げた。

 実は、数日前から、インフルエンザで寝込んでいた。
そんな霞のかかった頭をクリアーにしてくれた。
 

  ◎ たった、それだけで
           宮崎 祐希(長野県27歳)

 私の睫毛がちょっと好きだ。
 19歳の夏、深夜。うまくいかない世界のことや、
今までの悲しい記憶や、形を成さない不安や寂しさに
堪えきれずに大泣きして、誰でもいいから助けて欲し
いと警察署へ電話した。今思えばとても非常識だけれ
ど、当時の私は粉々になる寸前だった。
 サイレンを消したパトカーに乗り、取調室のような
所でばかみたいに泣きじゃくった。もういなくなりた
い。最後に私がぽつりと言うと、向かいに座った警察
官の男性が、
 「睫毛長いじゃん。すっぴんでその長さなんて、珍
しいからもったいないよ。」
 いきなり睫毛の話が来るとは夢にも思わず、ふあ?
と変な声が出た。でも自分の何かを誉めてもらえたの
は随分と久しぶりで、勝手に涙が出た。先ほどのとは
全く違う涙が。
 今でもあの言葉をふと思い出す。睫毛にそっと触る
と、何だか全部大丈夫な気がする。


   ◆深夜、誰も知らない命の物語
            選定委員:大平一枝(ライター)

 「ごめんなさい。死にたいんですけど、
 どうしたらいいですか」

  深夜2時。19歳の祐希さんは地元の警察署の生活安全課に、
 泣きながら電話をした。
 若そうだが、穏やかな声の男性が出た。
 「迎えに行くから、とりあえず落ち着き」
 「あの……、サイレン鳴らしてもらったら困るんですけど」

  家族に内緒でそっと家を出て坂道を下ると、
 パトカーが停まっていた。
 「宮崎さん?」「はい」「乗り」。

  スチールの机と椅子がある署の個室で、
 警察官は熱いココアを出してくれた。
 そして黙って最後までうんうんと聞いてくれた。
 「説教も、いい悪いも言わない。
 最後まで話を遮らずに大人に話を聞いてもらったこと、
 私、あれが初めてでした」。

  で、27歳という警官が最初に言ったのが
 「睫毛長いじゃん」。
 9年前の話だ。
 今、どの警官もそうするのか、正しい法規を私は知らない。
 ただ、どう考えてもそれは正義そのものだ。
 誰にも褒められず、認められず、やることがうまくいかず、
 友達もいない。
 生きる意味を見失った少女に、全力で、だけどさりげなく、
 精一杯真摯に向き合った。
 睫毛は、「あなたは生きる価値のある人間だよ。」
 の言い換えだと彼女にもわかった。
 誰も知らない深夜の一室で、
 警官はたしかにひとつの命を救ったのだ。
 夜明け前に帰宅した祐希さんは思った。
 ーーー夢だったのかな。

  その警官は見事だ。
 命を救った挙句、
 時を経て大賞という贈り物まで彼女にしたのだから。
 名もなき公人の、
 隠れた尊い行為に光を当てた祐希さんに、
 最大の賛辞を送りたい。


   *私の想い

   粉々になる寸前、深夜の大泣き。
  そして、次は取調室で若い警官を前にして、
  泣きじゃくった。
   その後、彼女は、警察官のひと言を聞き、
  それまでとは全く違う涙を流す。

   選定委員は記す。
  「深夜の一室で、警官はたしかに
  ひとつの命を救ったのだ。」

   私は、言葉がもつ力を再認識した。
  しかし、その言葉に、驚きを隠せない。
  「睫毛長いじゃん。
  すっぴんでその長さなんて、
  珍しいからもったいないよ。」

   どう逆立ちしても、
  私からは出てこない言葉である。
   瑞々しい言語感覚に、驚いた。
  
   それもそうだが、選定委員は言う。
  『今、どの警官もそうするのか、
  正しい法規を私は知らない。
  ただ、どう考えてもそれは正義そのものだ。』

   ともすると、今時、
  年齢に関係なく、睫毛と言えども、
  女性の容姿についてコメントすることは、
  薄氷を踏む行為のように思える。

   しかし、『精一杯真摯に向き合う』警察官の言葉を彼女は、
  「あなたは生きる価値がある人間だよ。」
  と、理解し、今もそれを力にしている。 
   
   ひとつの言葉がこんなエネルギーを持っているのだ。
  まさに正義である。

   それから9年後、救われた彼女は、
  「名もなき公人の、隠れた尊い行為に
  (大賞という)光を当てた」。
   凄い。 


  ◎ 「卒業」証書
           高橋 彩(神奈川県27歳)
 
 「右の者は高等学校普通科の課程を修了したとは認
められなかったがー」私の卒業証書は、こんなふうに
始まる。早春、薄い光の差し込む国語科準備室で、私
はその手書きの証書を受け取った。私と恩師二人きり
の卒業式だった。大学受験を前に挫折し不登校になっ
た私に、「ちょっと出てこないか」と電話してくる人
だった。準備室は私を拒まず、進学校唯一の退学者と
なった私に、先生は居場所をくれた。「-困難な状況
と闘い、最善の努力をし続けた」と続く証書は、私と
いう存在の証書でもあった。塾で「先生」と呼ばれる
今、高校生には、十八歳だった自分のことを話す。あ
のとき言葉にならなかったことも、ゆっくり話す。そ
れがほんのわずかでも彼らの背中に手を添えること
になればと、話す。あの頃先生がそうしてくれたよう
に。疲れて帰宅する深夜、つぽん、と筒を開けると、
先生の達筆が見える。十八歳の私も手を振ってくれる。
私の遺産は、今も机の上にある。


   ◆教え子と「時をともに過ごす」
            選定委員:栗田 亘(コラムニスト)

  卒業証書は、貴重です。
 でも、のちのちくり返し読むものではない。
 文面は卒業生全員、同一ですし。
 しかし、高橋さんの「卒業」証書は違います。
 実物を読ませていただいて、
 ボクは、不覚にもウルウルッとなりました。
 ≪……最善の努力をし続けた
 よって卒業生と等しいものとここに証する
      第五十期生正担任団教諭 平高 淳≫

  世界にひとつだけの「卒業」証書です。

  受け持ちだった平高先生によれば
 「本物の卒業証書と同じ紙質の紙を選んで、
 書体も本物に似せて書き、学校印のところには、
 むかし私が彫った(篆刻)作品を押した」そうです。
 その学校印(!)は、古代中国の老子の言葉を引いて
 ≪孔徳之容≫と刻まれています。
 「すべてを受け入れる器」といった意味のようです。
 ひょっとすると本物の学校印より上等じゃないかしら。

  誠意に満ちたパロディー、ともいえますが、
 「先生」という立場でこれを制作するには、
 ちょっとした覚悟がいるはずです。
 平高先生はそれを軽々とやってのけた。
 そして同学年のほかの担任の先生たちも
 「異議なしっ」だったそうです。

  高3になった春、高橋さんは挫折し、
 登校できなくなった。
 けれど先生は高橋さんを信頼し、
 高橋さんも先生を信頼した。
 国語科の準備室で師弟はどんな話をしたのでしょうか?
 「たいした話はしてません。
 ただ、教室に来られなくなった彼女と
 <時をともに過ごす>
 のを大切にしようと心がけていました」
 と平高先生はおっしゃいました。


   * 私の想い

   ここでも、公人に光が当たっている。
   進学校唯一の退学者である教え子に、
  「ちょっと出てこないか」と電話し、
  国語科準備室という居場所を提供した高平先生。

   その先生手作りの「卒業」証書が、
  彼女の遺産となった。

   その証書には、
  『…困難な状況と闘い最善の努力をし続けた
  よって卒業生と等しいものとここに証する』
  とある。

   選定委員は記す。
  『誠意に満ちたパロディー、ともいえますが、
  「先生」という立場でこれを制作するには、
  ちょっとした覚悟がいるはずです。』

   学校現場や教師の社会性を、
  十分に理解した一文である。
   だからこそ、
  平高先生の子どもに寄り添った力強いあり方に、
  喝采である。
 
   加えて、学校印代わりにした、
  先生が彫った(篆刻)作品≪孔徳之容≫
  (すべてを受け入れる器)の意味合いが、
  これまた先生の想いを伝えており、私の心を打った。

   彼女は言う。
  「卒業」証書は、「私という存在の証し」。
   そして、平高先生は言う。
  「彼女と <時をともに過ごす>のを
  大切にしようと心がけていました」。
   その2つが、私の中で重なった。
  
   教師と教え子が、ずっと時をともに過ごすこと。
  本当の卒業証書の姿を見せてもらった。




   明日にも 福寿草が
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絵心をたどって

2017-03-03 22:11:33 | あの頃
 欠かさず、朝ドラ『べっぴんさん』を見ている。

 先週だったと思う。
定年退職した良子ちゃんの夫・勝二さんが、
『名前のない喫茶店』を開く決心をした。
 その動機は、良子ちゃんの仕事仲間・明美ちゃんのひと言だ。

 「回顧録なんか書いてないで、何かやったら・・・。」
そのような言葉だった。

 「ドキッ!」とした。
人生をふり返ってなんかいないで、前を向いて進め。
 そんな意味合いが含まれていた。

 「私は・・?」と問えば、毎週こうして、
『どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして』と、
まさに回顧録まがいを綴っている。

 「それじゃ、ダメじゃないか!」
さり気ないお叱りを受けたようで、しばし気持ちが沈んだ。

 しかし、「ブロクから、時折心の栄養を頂いています。」
そんな言葉を思い出し、今日も想いを記すことにした。


  ① チューリップの絵

 小学校に入学して最初の図工の時間だ。
真新しいクレヨンを、机に置いた。
 画用紙が1枚ずつ配られた。

 優しそうな女の先生だった。
「その紙に、好きな絵を描いてください。」
 大好きな動物でも花でも、誰かの顔でもいいと言う。

 クレヨンなど書き慣れていなかった。
何をどう描こうかと、迷った。
 隣の子も、周りの子も、次々と描き始めた。
慌てた。

 思いついたのが、チューリップだった。
真っ白な紙の横一線に、
赤と黄色のチューリップの花と、
緑色で茎と葉を、5つ6つ並べて描いた。

 「あら、きれいね。つぼみもあるといいよ。」
私の絵をのぞいて、先生が教えてくれた。
 「よし!」とばかり、花と花との間に、
2つ3つと、赤や黄色の丸いつぼみと小さな葉を塗った。
 背景は、真っ白のままだった。
目を閉じると、今もその絵が浮かぶ。

 翌朝、教室の後ろと横の掲示板に、
名札のついたみんなの絵が張ってあった。
 どの子も、自分の絵を見つけて、
明るい表情をしていた。

 ところが、何度見返しても、私の絵がない。
思い直して、休み時間にもう一度見直した。
 やっぱり、チューリップの絵も、
私の名札もなかった。

 「あまりにも下手だったので、
張ってもらえなかったんだ。」
 すごく後悔した。
「もっといっぱい、つぼみを描けば良かったのに・・。」
 一日中、泣きそうになるのをこらえて過ごした。

 ところが、帰りの会でビックリした。
「上手な子の絵は、廊下に張りました。」
 先生が、そう言ったのだ。

 廊下にも、絵が張ってあるなんて知らなかった。
ランドセルを背負ってから、廊下に出た。
 そこの掲示板の、一番右上にチューリップの絵があった。

 1日中、泣きそうだった分も加わり、
廊下の「上手な絵」に、
跳びはねたい気持ちをこらえて、帰り道を急いだ。

 
  ② 工場の写生

 4、5、6年生の写生会は、同じ場所からだった。
学校から10分くらい行った小高い丘から、
製鉄所を描くのだ。
 私は、それが好きになれなかった。

 「工場の力強さを写生しなさい。」
どの先生も、毎年同じことを言った。

 茶色く錆びついた鉄くずの山、山。
うす汚れた灰色の屋根が折り重なった
窓のない細長い工場建物。
 製鉄所のシンボルだという5本の煙突。
そして、動いているのを見たことがない巨大クレーン。

 私は、そのどれにも心が動かなかった。
興味がなかった。
 誰が、どんなに力強いと言っても、
その無機質な色合いに、惹かれるものは何もなかった。

 それでも、大きな画用紙が配られ、
半日は、その製鉄場が見える丘にいる。
 なので、しぶしぶ画板にむかった。
そして、適当に下書きをし、汚い色をのせた。

 出来上がると担任へ見せた。
早い仕上りに、担任は当然あれこれと注文をつけた。
 分かり切っていた。
私は、「ハーイ。」と心ない返事をする。
 でも、2回と絵筆を持たなかった。

 その後は、先生の目を盗んで、
丘のさらに上に駆け上がり、時間をつぶした。
 集合の合図があると、係の子が集める画用紙に、
そっと自分の絵を潜り込ませて終わりにした。

 後日、戻ってきた写生画の評価は、
当然最低なものだった。
「もっとチャンと描きなさい。」
母から何度叱られても、「嫌いだ。」と答えた。
 他の図工の時間まで、嫌な時間になってしまった。


 ③ 友の油絵

 中学生、そして高校生になっても、
絵画に対する興味は皆無だった。
 だから、高校の芸術科選択では、
真っ先に美術を対象外にしていた。

 放課後、油くさい部屋にこもり、
キャンバスに向かう美術部員を、
変人のような目で見ていた。

 その1人に、口数が少ないが、
人当たりのいい同級生・N君がいた。

 いつごろからか、昼は一緒に弁当を食べるようになった。
何故か、彼だけは変人と思わなかった。
 どんな会話をしていたのか、思い出すことができないが、
いつも、心休まる時間が流れていた。

 そのN君が、全道の大きな油絵コンクールで、
大人たちの絵画を出し抜き、
大賞に輝いたニュースが飛び込んできた。
 一躍時の人となり、新聞でも大きく扱われた。
彼の顔写真も載っていた。

 私は、驚きと共に、彼が遠い人になってしまった気がして、
喜びよりも寂しさを強くした。
 でも、彼は翌日からも一緒に弁当を食べてくれた。

 数日後、その受賞作品が、生徒玄関の正面に展示された。
畳2枚分もあったろうか。大きな油絵だった。
 タイトルは、『浮標(ブイ)の夕焼け』。

 私は、その絵を前に、しばらく動けなくなった。
放心というのだろうか。圧倒された。
 「すごい!」「なんだ、これは!!」

 埠頭へ無造作に陸揚げされた鉄製の大きなブイ。後ろの港。
そこに、朱色に燃える夕焼けが輝やいていた。

 静かなN君の内にある、
底知れないエネルギーが伝わってきた。
 胸の鼓動が、どんどん激しさを増した。

 絵画のもつ偉大さに、初めて気づいた。


  ④ 単位取得の静物画

 学生時代、教員免許を得るため、『小学校図工』の講義を受けた。
半年間の受講の最後に、水彩画を描き、
その評価が単位取得を大きく左右した。

 静物画が課題になった。
中学校以来の絵筆だが、この単位を逃すと面倒なことになった。
 私は、いつになく集中した。
教室の中央に置かれた、ざるに盛られた果物を描いた。

 翌週、ベテランの教官から作品とその評価が渡された。
最後の最後に、私の名前が呼ばれた。

 「この絵は君のですか。」
のぞき込むようにして、顔を見られた。
「大変素晴らしい。好みもあるでしょうが、
この色合いと構図がいい。
 もしよかったら、私にゆずってくれませんか。
今後の講義で使いたいので・・。」

 何を言われているのか、しばらくは理解できなかった。
ゆっくり反すうした。
 その絵に未練などなかった。
単位が欲しかった。
 「うれしいです。もらって頂けるなんて。」

 講義を終え、その老教官は、
私の絵を持って、嬉しそうに退室していった。

 自分の絵を褒めてもらったのは、
小学校1年生以来、2度目だった。


  ⑤ 展覧会で出会う

 教員として、日々を東京圏で過ごした。
大都会には、沢山の刺激が待っていた。

 特に、音楽コンサート、演劇、スポーツ観戦、そして展覧会。
それらの全てが、今の私に生きている。
 もし、それらに触れていなければ、
豊かさと無縁で、貧相なままの私だったと思う。
 東京に感謝である。

 いつしか展覧会にも、魅せられるようになった。
気の向くまま、足を運んだ。
 東京圏での、最初と最後の展覧会を記す。

 赴任してまもなく、図工の先生から展覧会に誘われた。
同僚4、5人で、日本橋のデパートの特設会場に行った。

 メキシコの画家の展覧会だった。
確かシケイロスという名だった。
 壁画を得意としているようで、1つ1つの絵が大きかった。

 一面、真っ赤な風景画に釘付けになった。
まぶしい程の赤色だった。
 「きっとメキシコの太陽の色なんだね。」
図工の先生が、私の横で教えてくれた。

 しばらくその絵の前から離れられなくなった。
「シケイロスの赤はすごい。本物だ。」
何も分からないのに、そう感じた。
 以来、この時の赤が、私にとって最高の赤色になっている。

 伊達に移住する間際だった。
東京国立博物館140周年特別展
・『ボストン美術館「日本美術の至宝」』があった。
 そこで江戸時代の奇才・曽我簫白の水墨画を初めて見た。

 幾つもの作品の中に、
縦165センチ、横10、8メートルの巨大水墨画があった。
 この展覧会に合わせ、ボストン美術館が修復したと言う。

 『雲龍図』と名があった。
『墨一色が生み出したスペクタクル、見る者を圧倒する迫力』
とふれ込みがあった。
 言葉通り、その凄さに後ずさりしそうになった。

 一度はその場から離れたが、引き返して、
今度は長時間見続けた。

 こんな力強い絵を描くエネルギーが、日本人の画家にもあったのか。
そんな驚きを、無知なりに知った。
 龍の顔を、真正面から捉えている大胆さにも、胸が騒いだ。

 順路の最後に、記念品売場が特設されていた。
あの『雲龍図』の模写が、掛け軸になっていた。
 高価な値がついていた。

 その日は見送ったが、あきらめがつかなかった。
私の退職記念と称して、後日、買い求めた。
 今は、我が家の和室で、
その龍が、毎日、私をにらんでいる。
 背筋が、ピンと伸びる。



 歩道の片隅に スイセンの芽だ! 
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