「コロナ禍で活動ができなかったけれど、
再開できそう・・。
久しぶりの集まりなので、楽しい時間にしたい。
そこで、以前お話を聞いた方から、
塚原さんの名前があがり、お願いしたいのですが・・。」
昨夏のことだった。
ご近所さんが、自宅へ来て、こう切り出した。
地元老人クラブでの講演依頼だった。
突然のことだが、快諾した。
しかし、その後コロナが再度猛威を振るい、
講演は、立ち消えとなった。
ところが、今年度からクラブは活動を再開。
そして、6月の定例会で私の話を聞く会が行われることに・・。
「1時間半程度で、何か楽しい話をして・・」
そんな要望だった。
参加者は多くて30人とのこと。
話すネタは全てこのブログから探した。
そして、前半を『「3つ子の魂・・」みたいな話題』、
後半を『「人生100年時代・・」みたいな話題』とし、
話を構成した。
話し始めにこんな大見得を切った
「2年も前から毎日毎日、コロナ感染者数に振り回されてきました。
それに加え、今はウクライナの戦争で、素敵な町が破壊され、
戦車が残骸になった映像を、繰り返し繰り返し見る日が続いています。
誰が敵でも誰が味方でも、命の重みに違いはないのに、
ウクライナの人の死には心を痛め、
ロシア兵の死へは何の感情も湧かない自分に気づき、
ぞっとすることもしばしばあります。
多少の違いはあるでしょうが、
そんな今に、みんなザラザラした日を送っています。
大それた言い方で恥ずかしいのですが、
『お茶を一杯入れますから、まあゆっくり』。
これからの私の話が、お茶の一杯でも口にする、
そんな時間になればと願いながら、始めたいと思います。」
さて、約1時間半を話し終え、結果はどうだったのか、それは知らない。
でも、「またお願いします」の声が、幾つも寄せられたのは事実。
まあ、よかったことにしようと勝手に決めた。
講演後半『「人生100年時代・・」みたいな話題』の一部を再現する。
* * * * *
最近よく耳にしますが「人生100年時代」と言われています。
好きな言い方ではありませんが、
昔に比べ「職場から墓場までが長く」なりました。
墓場までの長い日々を、私も今生きているわけです。
叶うなら、これからまだまだ続く、
長い人生が充実したものであってほしい。
そう願うのは私だけではないはずです。
実は、伊達に移り住んでからランニングを始めました。
ランニング中に、登下校の子供らに出会います。
挨拶を交わし、すれ違ったり追い越したりの、
ほんのわずかな時間に、ちょっとしたふれ合いがあります。
その時に子ども達から、
充実した今を生きる大切な刺激を受けています。
3つほど紹介します。
ただし、ここ2年は、子どもの登下校を避けて走っています。
全ては、コロナ禍以前のことです。
めすらしく3時頃に、10キロを走ることにした日でした。
コースの後半、小学校の脇を通ることにしました。
丁度、下校する高学年の子ども達に出会いました。
学校が近づくにつれ、行く交う子どもが増え、
私は、その1人1人に「おかりなさい」と声をかけました。
朝とは違い、多くの子どもは、その返事に困り、
軽く頭を下げたり、私をちょっと見るだけだったり、
中には、あわてて「ただいま」と、応じる子もいたりして、
やけに明るい気持ちになっていました。
しばらく進むと、前方から楽しそうに会話しながら、
2人の男の子が肩を並べて、近づいてきました。
私は2人の邪魔にならないように、
ちょっとだけ車道に出ました。
すれ違う、その時、その1人が私に向かって、
「オジサン、がんばって!」。
元気な声で言ってくれました。
嬉しかったので、「ありがとう」と、言おうとしたその瞬間、
もう1人の子が、「エッ、ちがうよ! オジサンじゃないよ!」。
小さな声でしたが、私の耳にはっきり届きました。
私は「ありがとう。」を飲み込み、その場をかけぬけました。
曲がり角まで走って、ふり返ると、
2人は私を見ながら言い合いをしてました。
何を言っていたか、私には想像ができました。
「あの人、オジイサンだよ!」。
「でも、オジサンでいいんだよ」。
そんなやりとりだと思います。
なんて子どもらしいのでしょう。
これが本当の子どもの姿です。
どんなことも、曖昧にしない。
白黒をつけようとするのが子どもです。
だから、トラブルも多い。
それが子どもなんです。
次は、こんな子です。
連休明け、洞爺湖マラソンに向け、
朝のランニングを再開しました。
5月の風に誘われながら、一斉に花咲く野草に心寄せながら、
ゆっくり走っていました。
中学校近くの道まで来ると、
まだ真新しい制服の男子3人が、横一列でやって来ました。
楽しげに会話する姿が、青空によくにあっていました。
すれ違い際に、声が聞こえました。
「いくつ、ぐらいだ?」。
同時に、そう言った子と目が合ってしまいました。
応じる必要などないのに、春の陽気がとっさに誘導したのでしょう。
「七十二!」。
「余計なことを口走った」。
少し悔いたその時、すれ違った背中から言葉が飛んできました。
「すげーえ、ぼくのおじいちゃんより上だ!」。
「俺のじっちゃんよりもだ。すげーえ、すげー!」。
私は急に恥ずかしくなって、
それまでより少し早足に走って、照れを隠しました。
私の年齢に対し、感動を真っ直ぐに表現する中学生、
なんて素敵なんでしょうか。
理屈も価値も何も追加しない言い方に、胸が熱くなりました。
もう1人、こんな子にも出会いました。
雪解けが進んだ3月、久しぶりに朝ランニングに出ました。
10分も走れば、住宅地は畑の景色に変わります。
その人通りのない道で、ランドセル姿の少年によく出会います。
いつも、棒きれを振り回したり、鼻歌に石蹴りだったりと、
のんびりゆったりのマイペース登校です。
ところが、その日は珍しく、私の姿を見るなり、
「おはようございます」と一緒に、「今ね、リスが横切ったの」
の声が飛んできました。
そして、走り寄る私に、
「車にひかれない?」「大丈夫?」
と矢継ぎ早に訊くのです。
「心配なんだね」
「ねえ、誰に言ったらいいの」
「あのね、リスは賢いから、きっと大丈夫だよ。
心配しないで、学校へ行きな」
その子は、不満げな顔をしながらもうなずき歩きだしました。
私は、その横を走り抜けながら、
もう一度「リスは賢いから、大丈夫」と、念を押しました。
しばらくして、後ろから「ありがとう」。
少年の声が届きました。
リス出現に驚き、その後の不安、困惑、
そして私の回答を聞いた後の安堵感が、手に取るように分かります。
その透明感がいい。
子どもならではの姿ですね。
さて、ここまでランニング中に出会った子どものエピソードでしたが、
先日、同世代の方からこんなことを聞きました。
「昔は、仕事で毎日室蘭まで運転していた。
苫小牧や札幌までも、なんなく行っていた。
なのに、最近は室蘭までの運転が億劫になってしまって・・」。
確かに体力の衰えは致し方ないことです。
でも、億劫になったからと、
「なんでもいい、どうでもいい、後でいい、
明日でも来週でもいい」と、
どんどん「いい加減」になってしまっては、
一大事です。
「人生100年時代」です。
出会った子らのようでありたいと思いませんか。
どんなことも曖昧にせず、感動を真っ直ぐに表現し、
リスを見たあの子のように、透明感を持ち続けたいと、
私は思うのですが、いかがでしょうか。

アカシアも 花盛りを迎え
※次回のブログ更新予定は 7月2日(土)です
再開できそう・・。
久しぶりの集まりなので、楽しい時間にしたい。
そこで、以前お話を聞いた方から、
塚原さんの名前があがり、お願いしたいのですが・・。」
昨夏のことだった。
ご近所さんが、自宅へ来て、こう切り出した。
地元老人クラブでの講演依頼だった。
突然のことだが、快諾した。
しかし、その後コロナが再度猛威を振るい、
講演は、立ち消えとなった。
ところが、今年度からクラブは活動を再開。
そして、6月の定例会で私の話を聞く会が行われることに・・。
「1時間半程度で、何か楽しい話をして・・」
そんな要望だった。
参加者は多くて30人とのこと。
話すネタは全てこのブログから探した。
そして、前半を『「3つ子の魂・・」みたいな話題』、
後半を『「人生100年時代・・」みたいな話題』とし、
話を構成した。
話し始めにこんな大見得を切った
「2年も前から毎日毎日、コロナ感染者数に振り回されてきました。
それに加え、今はウクライナの戦争で、素敵な町が破壊され、
戦車が残骸になった映像を、繰り返し繰り返し見る日が続いています。
誰が敵でも誰が味方でも、命の重みに違いはないのに、
ウクライナの人の死には心を痛め、
ロシア兵の死へは何の感情も湧かない自分に気づき、
ぞっとすることもしばしばあります。
多少の違いはあるでしょうが、
そんな今に、みんなザラザラした日を送っています。
大それた言い方で恥ずかしいのですが、
『お茶を一杯入れますから、まあゆっくり』。
これからの私の話が、お茶の一杯でも口にする、
そんな時間になればと願いながら、始めたいと思います。」
さて、約1時間半を話し終え、結果はどうだったのか、それは知らない。
でも、「またお願いします」の声が、幾つも寄せられたのは事実。
まあ、よかったことにしようと勝手に決めた。
講演後半『「人生100年時代・・」みたいな話題』の一部を再現する。
* * * * *
最近よく耳にしますが「人生100年時代」と言われています。
好きな言い方ではありませんが、
昔に比べ「職場から墓場までが長く」なりました。
墓場までの長い日々を、私も今生きているわけです。
叶うなら、これからまだまだ続く、
長い人生が充実したものであってほしい。
そう願うのは私だけではないはずです。
実は、伊達に移り住んでからランニングを始めました。
ランニング中に、登下校の子供らに出会います。
挨拶を交わし、すれ違ったり追い越したりの、
ほんのわずかな時間に、ちょっとしたふれ合いがあります。
その時に子ども達から、
充実した今を生きる大切な刺激を受けています。
3つほど紹介します。
ただし、ここ2年は、子どもの登下校を避けて走っています。
全ては、コロナ禍以前のことです。
めすらしく3時頃に、10キロを走ることにした日でした。
コースの後半、小学校の脇を通ることにしました。
丁度、下校する高学年の子ども達に出会いました。
学校が近づくにつれ、行く交う子どもが増え、
私は、その1人1人に「おかりなさい」と声をかけました。
朝とは違い、多くの子どもは、その返事に困り、
軽く頭を下げたり、私をちょっと見るだけだったり、
中には、あわてて「ただいま」と、応じる子もいたりして、
やけに明るい気持ちになっていました。
しばらく進むと、前方から楽しそうに会話しながら、
2人の男の子が肩を並べて、近づいてきました。
私は2人の邪魔にならないように、
ちょっとだけ車道に出ました。
すれ違う、その時、その1人が私に向かって、
「オジサン、がんばって!」。
元気な声で言ってくれました。
嬉しかったので、「ありがとう」と、言おうとしたその瞬間、
もう1人の子が、「エッ、ちがうよ! オジサンじゃないよ!」。
小さな声でしたが、私の耳にはっきり届きました。
私は「ありがとう。」を飲み込み、その場をかけぬけました。
曲がり角まで走って、ふり返ると、
2人は私を見ながら言い合いをしてました。
何を言っていたか、私には想像ができました。
「あの人、オジイサンだよ!」。
「でも、オジサンでいいんだよ」。
そんなやりとりだと思います。
なんて子どもらしいのでしょう。
これが本当の子どもの姿です。
どんなことも、曖昧にしない。
白黒をつけようとするのが子どもです。
だから、トラブルも多い。
それが子どもなんです。
次は、こんな子です。
連休明け、洞爺湖マラソンに向け、
朝のランニングを再開しました。
5月の風に誘われながら、一斉に花咲く野草に心寄せながら、
ゆっくり走っていました。
中学校近くの道まで来ると、
まだ真新しい制服の男子3人が、横一列でやって来ました。
楽しげに会話する姿が、青空によくにあっていました。
すれ違い際に、声が聞こえました。
「いくつ、ぐらいだ?」。
同時に、そう言った子と目が合ってしまいました。
応じる必要などないのに、春の陽気がとっさに誘導したのでしょう。
「七十二!」。
「余計なことを口走った」。
少し悔いたその時、すれ違った背中から言葉が飛んできました。
「すげーえ、ぼくのおじいちゃんより上だ!」。
「俺のじっちゃんよりもだ。すげーえ、すげー!」。
私は急に恥ずかしくなって、
それまでより少し早足に走って、照れを隠しました。
私の年齢に対し、感動を真っ直ぐに表現する中学生、
なんて素敵なんでしょうか。
理屈も価値も何も追加しない言い方に、胸が熱くなりました。
もう1人、こんな子にも出会いました。
雪解けが進んだ3月、久しぶりに朝ランニングに出ました。
10分も走れば、住宅地は畑の景色に変わります。
その人通りのない道で、ランドセル姿の少年によく出会います。
いつも、棒きれを振り回したり、鼻歌に石蹴りだったりと、
のんびりゆったりのマイペース登校です。
ところが、その日は珍しく、私の姿を見るなり、
「おはようございます」と一緒に、「今ね、リスが横切ったの」
の声が飛んできました。
そして、走り寄る私に、
「車にひかれない?」「大丈夫?」
と矢継ぎ早に訊くのです。
「心配なんだね」
「ねえ、誰に言ったらいいの」
「あのね、リスは賢いから、きっと大丈夫だよ。
心配しないで、学校へ行きな」
その子は、不満げな顔をしながらもうなずき歩きだしました。
私は、その横を走り抜けながら、
もう一度「リスは賢いから、大丈夫」と、念を押しました。
しばらくして、後ろから「ありがとう」。
少年の声が届きました。
リス出現に驚き、その後の不安、困惑、
そして私の回答を聞いた後の安堵感が、手に取るように分かります。
その透明感がいい。
子どもならではの姿ですね。
さて、ここまでランニング中に出会った子どものエピソードでしたが、
先日、同世代の方からこんなことを聞きました。
「昔は、仕事で毎日室蘭まで運転していた。
苫小牧や札幌までも、なんなく行っていた。
なのに、最近は室蘭までの運転が億劫になってしまって・・」。
確かに体力の衰えは致し方ないことです。
でも、億劫になったからと、
「なんでもいい、どうでもいい、後でいい、
明日でも来週でもいい」と、
どんどん「いい加減」になってしまっては、
一大事です。
「人生100年時代」です。
出会った子らのようでありたいと思いませんか。
どんなことも曖昧にせず、感動を真っ直ぐに表現し、
リスを見たあの子のように、透明感を持ち続けたいと、
私は思うのですが、いかがでしょうか。

アカシアも 花盛りを迎え
※次回のブログ更新予定は 7月2日(土)です