ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

学校経営 私の心がけ

2016-10-28 22:19:45 | 教育
 平成23年3月までの12年間、
東京都で小学校長を勤めた。

 その間、石原都政のもと、
都教委は様々な教育改革を進めた。
 教員の勤務時間の厳正化、
自己申告と業績評価を柱とした人事考課制度の導入、
そして主幹教諭・主任教諭の新設などが、主なそれである。

 また、学力向上が強調され、
3学期制から2学期制へ、
学校週5日制から土曜授業の復活等の見直しが、
各区市町村教委で進んだ。

 さらに、ICTの普及により、
職員室では教職員の机に、1人1台のパソコンが置かれ、
事務や成績の処理の一切が、それで行われ始めた。
 教室では電子黒板が活用され、
インターネットの接続も容易になった。
 教育の基本的なシステムが、
アナログからデジタルへと進行している。

 さて、その成果は、いかがなものか。
ここで多くを語るのは、早過ぎる気がする。

 しかし、どんな改革・見直し・導入が進もうと、
学校が歩む基本姿勢には、不動のものもある。
そう信じている。

 時に、学校では『不易と流行』なる言葉が語られる。
今だからこそ、その『不易』について強調したい。
 その視点から、校長として心がけた学校経営の一端を述べる。


 1、コンセンサスを重視し

 移住してまもなく、
寒冷地仕様のマイカーに買い換えることにした。
 ご近所さんが、カーディーラーの営業マンを紹介してくれた。

 その上、昔の経験だと言って、
営業マンへの値引き交渉までしてくれた。
 再三の値引き要望に音を上げた営業マンは、
「これ以上は、上司に訊いてから。」と、中座した。

 きっと営業マンには、
値引き裁量の限度額があるのだろう。
それをこえた場合には、上司の指示を仰ぐ。
 これがルールなのだと思う。

 さて、これを学校に置き換えたらどうなるだろう。
例えば、授業中に子ども同士の言い争いが始まった。
 教師が仲裁に入ったが、中々収まらない。
これ以上、授業を中断して、
二人に関わっていいのかどうか。

 「ちょっと待って、どうしたらいいか、
校長先生の指示を仰いでくるから。」
 こんなことは、学校現場ではあり得ない。

 教員は、その場のその状況で、最善と思う手段を即断する。
それが、学校における原則である。

 だから、教員は、教育活動のあらゆる時と場において、
こうあるべきと言う判断力と、
それへの揺るぎない確信を、持っていなければならない。
 
 しかも、その判断と確信は、同じ学校のすべての教員が、
共有できるものでなければならない。
 不揃いの判断と確信は、
子どもに混乱をもたらすだけである。

 だからと、近年こんな動きがある。

 それは、学校を確かな縦組織にすること。
そして、上下関係による指示命令系統を徹底し、
学校を一枚岩にしようする経営手法である。

 これは、「迷ったら。上司の判断を仰ぐ。」
という前述の行為を生みかねない。

 教師の判断力と確信を弱め、
子どもからは、「なんて頼りない先生だろう。」と、
映るに違いない。

 私は、コンセンサスを重視した。
コンセンサスの語源はラテン語で、
「お互いが同様に感じる」の意である。
 お互いの意見が同じになること、
つまり合意することである。

 考えや感じ方が同じであれば、
指導は共有され、同一歩調が実現する。
 上意下達とは大きく違った、
連帯感のある教育活動が実践できるのである。

 1人1人の判断と指導は、
他の先生方から必ず同意を得られる。共感される。
 コンセンサスと言う確固たる指導が、
学校教育のあるべき姿だと思う。

 最近、職員会議や各種校内会議が、
連絡調整だけの場になっている。
 合意形成の場からは縁遠いように思う。
これでは、指導と言う裁量権を持っている教師の
正しい判断と確信は得られない。

 過去には、職員会議での多数決が、
学校の最終判断とされていた時代があった。
 それとは決別した今、
コンセンサスの場として職員会議等は、
機能していい。


 2、どの教員にも活躍の場を

 教頭時代の事例である。

 教職経験20年を超える女性教員が異動してきた。
前評判が悪い。

 今までの学校では、
毎年のように保護者とトラブルがあった。
その主なものは、指導のあいまいさによるもので、
それが、保護者の不信へと発展した。

 どんな教員でも、
自信のない指導はあいまいなものになる。
それを指摘されると、
さらにあいまいな指導になるのが常である。
 校長は、彼女になんとか胸を張って、
仕事をしてもらいたいと思った。

 当然、学級担任を決める上で頭を痛めた。
彼女の希望を最優先に担任を決めた。
 そして、校務分掌では、
思い切って、図書室の管理運営を任せる図書主任にした。

 主任という重責に、
彼女なりに想うところがあったのだろう。
 毎日にように、図書室に足を運んでいた。

 さらに、週1回、『朝の読み聞かせ』を行う
ボランティアの方々への対応も、労をいとわず進めた。
 私もそんな彼女を励まし、それとなく手助けした。

 図書主任と言う
学校の根幹を支えていることの自覚とやりがい。
 その生き生きとした姿は、
次第に教室へも持ち込まれていった。
 指導のあいまいさ、自信のなさは影をひそめた。

 保護者とのトラブル等、心配はいらなかった。
『立場が人を造る』と言う。彼女はそれだった。

 彼女に限ったことではない。
人は、自分が活躍できる場を欲しているように思う。
 有用感と呼ぶが、
誰かの役に立っていると言った自覚が、
自信や意欲につながる。

 確かに、教員は直接子どもの指導を行うことが、
大きな役割である。
 だから、学校運営の多くは、
管理職と学校職員に託されることになる。

 しかし、現実には校務分掌により、
学校運営の役割が、教員にも分担される。
 それが通例である。

 起案、そして決裁のシステムは確立してきているが、
教員による、各分掌でのアイディアに富んだ提案と、
その実践が、学校に活気を生む。
 その上、その教員自身をも生き生きとさせる。

 だから、全ての教員が、
自信と意欲をもって活躍できる場を設けることが、
学校経営の重要なポイントなのである。

 まさか、「先生方は子どもの指導とその事務処理、
学校運営の全ては管理職と幹部教員がする。」
 そんな狭い料簡の校長はいないと思うが、
さてどうだろう。



 3.ちょっとした心配りだが

  ① 異動をチャンスに

 3月末、定期異動で学校を去る先生方に、
毎年定まりの言葉を贈った。
 「異動は最大の研修です。それを励みに頑張って。」

 学校によって様々なシステムや、有形無形の校風に違いがある。
今まで当然と思っていたことが、
大きく違ったりすることも、稀ではない。

 その戸惑いが、教師としての足元を見つめさせる。
変化を促す貴重な切っ掛けになる。
 こんな研修の機会は、異動をおいて他にはない。

 とは言うものの、
異動は、教員に大きな不安を抱かせる。
 通勤経路の変更、学校環境、地域性、子供や保護者の実態の違い等々、
気がかりは多い。

 半面、中には、
環境を積極的に変えて、再出発を決意する教員もいる。

 私は、異動予定の教員から、
異動先等の希望を十分に聞き取った。
 そして、その願いが叶うよう努力した。

 しかし、校長が異動について力を発揮できる場は限られる。
人事担当の教委職員によるヒアリングの場のみである。

 私は、毎年、その場で言い続けた。
「来年度、私の学校に着任す
る先生の要望は、一切ありません。
どのような先生においでいただいても、一緒に頑張ります。

 だけど、異動していく先生の希望は、
是非叶えてやってください。
 それは、私の学校で今日まで、
私と一緒に頑張ってくれた先生への、
せめてもの感謝の気持ちなんです。」

 全ては叶わないが、
多くの先生が、希望する地域、学校へ異動していった。

 残った教員は、それをしっかりと見届けている。
これが、意欲につながらない訳がない。
 私はそう思っていた。


  ② ほめ方の 工夫

 子どもも大人も同じだ。
例えば、悪いことやできないことを、
指摘されたり、注意を受けたりしても喜べない。
 しかし、良かったことやできたことを、
認められたり、ほめられたりすると、
決して嫌な気はしない。
 その場でのあり方はともかく、心中は喜びを感じる。

 だが、年齢を増すにつれ、
ほめられても素直に喜ばない傾向はないだろうか。
 パッと表情を明るくしていた頃に比べ、
少し照れたりはにかんだり、
やがて「そんな、おだてられても・・。」と、
かわしたりと変わったのでは。

 それでも、実は誰からでもいいのだが、
頂く好評・ほめられることは、
いくつになっても、嬉しいはずである。
 そのことは、日々のエネルギーや意欲に、
大きく影響するのも確かだ。

 私は、子ども、保護者、教職員を問わず、
肯定的な評価に心をくだいた。
 そして、その素晴らしさを口にした。

 しかし、教員には、
そんなほめ言葉を直接伝えることが少なかった。
 主には、副校長を通して伝えた。
「昨日の授業、すごく良かったって、校長先生、言ってたよ。」
こんな調子である。

 私なりの経験なのだが、そんな伝え方のほうが、
教員は、ほめ言葉を素直に受け入れると思う。

 時には、その先生のいない職員室で、
その先生の指導を、心からほめた。
 それを聞いていた教員らが、
いつかそれをその先生に伝える。
 きっと素直に嬉しく思うはずだ。
インパクトが強いに違いない。




   ビートの収穫作業が始まった
 
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悔しさ! それだけじゃ!

2016-10-21 22:03:49 | 思い
 (1)

 私の詩集『海と風と凧と』から記す。

   夢の近くに

 北国の冬はやけに冷たかった。
 強い風が電線をビュービューと鳴らし、
 私は夕方になると
 いつも小銭を手袋の中に入れ、
 空ビンをかかえて、
 父が飲む二合の酒をもとめに走った。
 決して嬉しいおつかいではなかった。
 時には横なぐりの粉雪が、
 片方の頬だけを凍らせた。
 でも、暗くなった細い裏道を、
 小走りに駆け抜けながら私は、
 「大人になったら、ぼくは…」と、
 温かい夢を見ていた。
 つい先日、
 何気なくふり返った足下に、
 そんな小さな日の夢が落ちていた。
 私はそれを両手で拾い上げ、
 そして、今を見つめて微笑んだ。

 1988年の年賀状に添えたものである。

 父は、酒好きだった。
日本酒党で、ビールやウイスキーは飲まなかった。
 とにかく呑兵衛で、一度酒が入ると、
酔いつぶれるまで飲み続ける人だった。

 だから、家に一升酒があると、空になるまで飲んだ。
なので、母は、1日2合までと決め、
小学生の私に、それを毎夕、買いに行かせた。
 まだ、酒の量り売りがあった時代だった。

 その酒屋に、同級生の女子T子がいた。
とても快活で、その上思ったことは遠慮なくすぐ口にした。
 私が、店に入り、毎日、空ビンと小銭を差し出すのを、
店の奥からチラチラ見ていた。
 その視線に、不快感を覚えていた。

 ある日、「ついでに。」と母から、
「味噌も買ってきて。」と、お金を渡された。

 お酒2合と一緒に、
「いつも買っている味噌も、お願いします。」
店のご主人に頼んだ。

 店主は、手際よく味噌を薄皮に盛り、
はかりにかけた。
 その時、T子が店に出てきた。

 「今日は、味噌も頼まれたの。」
悪い予感がした。
 でも笑顔に親しみを込めて応じた。

 「そう、ついでにね。」
「それ、うちで一番安い味噌だよ。」
 ドキッとした。
無理に普通の顔を作って、
「そう…。そうなの。」

 慌てた店主が、T子をにらんだ。
「余計なこと言わないの。座敷に戻りなさい。」

 2合のお酒と味噌をかかえ、
私は暗い裏道をうつむたまま、家へ戻った。

 次の日から、教室でT子に話しかけられても、
絶対に口をきかなかった。

 しかし、そんな安い味噌でも、
朝夕、母が作る味噌汁は、とても美味しかった。
 T子にも、その味を教えてあげたいと思った。


 (2)

 テレビが次第に普及し始めた頃だ。
それまで、大相撲中継はラジオで聴いていた。

 特に、人気力士だった初代若乃花の取り組みは、
ラジオににじり寄り、耳を近づけた。
 「さあ、立ち会い、若乃花がかまえた。
あっ、若乃花、とんだ。
…ガッガーガッー…、若乃花の勝ち。」
 歓声とノイズで、アナウンサーの中継はそう言っていた。

 「若乃花、とんだ」と聞いた私は、
土俵の上で宙に舞う姿を、無理矢理連想していた。

 小学校3年の冬だったと思う。
テレビを買ったN薬局さんが、
大相撲中継を窓の外から見させてくれると知った。
 胸が躍った。

 夕方、N薬局さんの裏庭に行った。
すでに、20人以上の大人と子どもが窓に群がっていた。
 私も、その群れに入り、座敷をのぞいた。

 テレビの前に、N薬局の人たちが座っていた。
それでも、窓の外から見ている私たちにもと、
場を選んでくれているようだった。

 初めてテレビの中にいるお相撲さんを見た。
当然だが、外の私たちに中継の声は、届いていない。
 それでも、寒さを忘れ夢中で見た。
若乃花も見た。

 全ての取り組みが終わり、テレビが切られた。
窓に群がっていた私たちは、
踏み固められた雪で滑りそうになりながら、
そこを離れた。

 若乃花がどうやって飛ぶのか見たかったが、
それ以上にテレビ中継に酔っていた。
 翌日もその翌日も、N薬局さんの窓に通った。

 そんな日をくり返していた時、
すごいニュースが飛び込んできた。
 同じ商店街の呉服店では、
大相撲中継を、広い座敷で見させていると言うのだ。
 遠慮はいらない。誰でも入っていいのだと。

 何よりも寒くないのがいい。
その上、中継の音も聞こえるだろう。
 早々、友だちを誘って、
2人で呉服店の広間に座った。

 この店には、みんなから好かれている
同級生の女子Yちゃんがいた。
 テレビの近くには、お店の家族や親戚の方がいた。
Yちゃんもそこにいた。
 私たちに気づくと、ニコッとしてくれた。

 テレビからは遠い隅の方に陣どった。
ざっと50人はいただろうか。

 畳の温もりを感じながら、
時には中腰になって中継を見た。
 土俵の歓声、アナウンサーの声も聞こえた。

 若乃花が土俵に上がった。
ものすごい声援が聞こえてきた。
 そして、呉服店の広間からも声がとんだ。

 勝敗は一瞬で決まった。
若乃花は、すぐに体を横へ動かした。
 相手の力士は、いなくなった若乃花に気づかず、
思いっきり土俵下に落ちた。

 大きな歓声と拍手が、テレビと広間で上がった。
近くに座っていたおじさんが、明るい声で言った。
 「今日も、とんだか。」
「エッ、とんだ。」
 私は、混乱した。

「あれをとんだって言うの?」
 想像とは、大きく違った。失望した気分になった。

 やがて中継が終了し、テレビが切られた。
すると、前に座っていた呉服店の家族5人が、
すっと立ち上がった。
 ご主人も奥さんも、高価そうな和服を着ていた。
広間の戸口に、5人が並んで座った。

 テレビ観戦をさせてもらった方々が、順に列を作った。
流れに従って、私たちもその列に加わった。
 列は、次第次第に5人に近づいた。

 ついに、私たちの番がきた。
次々と、5人1組で両手をつき、
「ありがとうございます。」と言い、頭を下げた。
 ご主人らは、正座しまま背筋を伸ばし、
軽く頭を下げていた。

 ちょうど、私の前がYちゃんだった。
同級生のYちゃんに両手をつき、頭を下げた。
 恥ずかしそうな小さな声で、Yちゃんは言った。
「明日も、どうぞ。」

 ゆっくりと頭を上げながら、心が傷ついていた。
 「若乃花がとんだ。」
その失望感など、どこかに行ってしまっていた。

 「いや、もう絶対にこない。」
そう言い返したかった。

 一緒に行った友だちが、別れ際に言った。
 「僕、明日からN薬局で見る。」
少し明るい気持ちになった。
 走り去る後ろ姿に叫んだ。
「俺も、そうする。」


 ※

 (1)(2)に限ったことではない。
小さい頃も、多感な頃も、それからも、
幾度も唇を噛んできた。

 人知れず涙しながら家路に着いたこと、
山道で大声を張り上げたこと、
誰かに八つ当たりしたこと、そして、・・・ことも。

 しかし、いつも必ず思い直した。
どこかに温もりや明るさ、そして力添えがあると信じた。
 それを求めた。探した。

 人生は、決して四面楚歌なんかじゃない。
“悔しさ! それだけじゃ!”人の道は終わらない。





   街路樹のもみじ 「凄い!」  
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S記念病院に 想う

2016-10-14 22:01:59 | あの頃
  前置 1

 今年のことだ。
雪が解けると、お隣さんとの境になっている木製の柵が、
壊れていることに気づいた。

 早速、業者さんに修理をお願いした。
数日後、2トントラックに小石を積んで、
男の作業員が2人やって来た。

 破損の原因は、冬場の凍結だと言う。
だから、雪解け水などが溜まらないよう、
柵の脇に1メートル程の溝を掘って、そこに小石を入れるのだとか。

 1人は屈強な中年、もう1人は明らかに高齢者だった。
2人で、剣先スコップで溝を掘った。

 作業を見計らって、お茶を勧めようと声をかけた。
わずかな休憩だったが、その高齢男性は多弁だった。
 私は、もっぱら聞き役に徹した。

 もう80になると言う。5年前、会社を息子に譲った。
膝が悪くて、動くのが大変になったからだ。

 そして3年前、思い切って、その膝を人工関節にした。
すごく調子が良かったので、翌年、もう片方も手術した。

 「S記念病院の若い医者だったけど、うまいもんさ。」
「昔と変わらず、動けるようになると、
息子の社長が、人手不足を理由に、この俺にも仕事を頼むんだ。」
 その後ろ姿は、こうして働けることが嬉しいと語っていた。


 前置 2 

 数ヶ月ぶりに、兄の魚料理店を訪ねた。
ランチ時で、相変わらずの賑わいだった。

 しかし、カウンターの中の兄にいつもの覇気がなかった。
調理の合間をぬって、私の席まで来る兄は、
「膝が痛くて、この有り様さ。」
苦笑いをしながら、杖を頼りにし、
両足はくの字に曲げて歩いていた。

 数年前から、膝は徐々に悪化していた。
何軒もの整骨院の世話になった。

 昨年、近所に評判のいい整形外科医が開業した。
すぐにそこを頼った。
 週に数回、膝に注射をしてもらった。
改善どころか、深夜でも痛みで目が覚めるようになった。

 それでも、早朝の仕入れ、下ごしらえ、調理、接客と、
いつも通りに仕事を続けていた。


 前置 3

 パークゴルフで顔馴染みになったご近所さんと、
世間話のついでに「兄の膝が悪い。」と話した。

 その方は、長いことS記念病院の整形外科に
入院したことがある。
 すかざず、こんなことを教えてくれた。

 「私が、入院している間、
けっこう沢山の方が、膝の手術をしていましたよ。
皆さん、数週間で歩けるようになって、退院していきました。
 中には、一度に両足とも人工関節にする方もいました。」

 「そうか。よし決めた。兄には人工関節を勧めよう。
S記念病院で手術だ。」
 私の気持ちは、固まった。


 前置 4

 珍しく、お盆のお墓参りに兄姉と一緒に行った。
その帰り、姉宅でお茶をいただいた。

 その席で兄に、棚を修理に来た高齢男性の話、
S記念病院で膝の手術をした方のことを伝えた。
 そして、S記念病院での手術を勧めた。

 「いろいろと治療を試みたが、一向に治らない。
だから・・・。」
 兄は、ためらった。

 「それぞれのお医者さんは、
最善と思うやり方で治療をしてくれたんだ。
でも、今日まで治らなかった。
 だから、今度も治らないかも知れない。
それで、今までと同じなんだよ。
 でも、もしもだ。もしも、それで良くなったら、
それは、儲けもんじゃないの。
 ダメでもともとだよ。やってみる価値はあると俺は思うよ。」
私は、普段にも増して、力説した。


 前置 5

 私以外の方々からの助言もあり、
両足の人工関節手術を決断した兄から、電話がきた。

 「手術の前日に入院する。
……その時、執刀医から手術について説明がある。
……俺と女房だけでは心許ないから、一緒に話を聞いて欲しい。」
と言う。

 前日の夕方、年若い整形外科医から話を聞いた。
4時間を越える手術だと言う。
もしものことをいくつか上げ、説明があった。
 「でも、この医師なら大丈夫。」
私は、何度か言葉を交わしながら、そう確信した。

 そろそろ本題に近づく。
 
 その日、兄が入院したS記念病院の病室は、
2年半前、私が右肘の手術のために使った部屋だった。

 もう、町の様相は変わってしまったが、
6階のその窓からは、高校時代まで、
家族5人で暮らしていた場所が、一望できた。


 本  題

 2年半前、右肘の手術を前日に控えた私の日記である。

 『明日、S記念病院で肘の手術を受ける。
そのため、今夜はそこの病室でペンを握っている。

 人生、巡り巡って何があるか分からないものだ。
まさか、この病院に入院し手術するなんで、
想像すらしたことがなかった。

 昔、この病院は、S所の従業員だけが利用できる病院だ。
私にとっては、高い城壁のむこうにある病院だった。

 50年以上も昔と、今では大いに違う。
だが、決して踏み込めなかった病院に、
私は入院、そして手術を受ける。

 何とも言い表せない不思議さを感じる。
ただ時の流れと済ませてしまうのは、
どうも私らしくないとも思うのだが・・・。』 

 私が7,8才の頃、母の友だちがこの病院に入院した。
母と一緒にお見舞いに行った。
 病室までの廊下を歩きながら、こんな会話をした。

 「私たちはこの病院で診てもらうことはできないんだよ。
入院もできないの。」
「どうして。」
「ここは、S所で働いている人だけの病院なの。」
「へぇ-。」

 母は、友だちの体調を気遣い、
見舞いの品を風呂敷に包み、抱えていた。
 それは、近所の鶏が産んだ卵を数個譲り受け、
それをもみがらの敷いたお菓子の紙箱に並べたものだった。

 大部屋のベットに何人もの患者さんがいた。
「きっと、みんな元のように元気になるんだ。」
 そう思って、何故かうらやましくなった。

 「もしも、僕たち家族が病気になったら、
どうなるのだろう。」
 不安な気持ちのまま、
見舞いのお菓子箱を差し出す母をじっと見ていた。

 それから数年の間に、
父と兄姉が次々と入院、手術を受けることになった。
 でも、すぐそこにある
S病院のお世話になることはできなかった。
 しかたなく、バスで小1時間はかかる病院で、
3人とも治療を受けた。

 小さな私の心は、初めて理不尽さを覚えた。
以来、S病院の横を通る時は、
必ずその建物をにらみつけていた。

 昭和44年4月、
S病院は、一般市民の診療を始めた。
 それでこそ、本来の医療機関の姿だと思う。

 どんな事情が企業にあろうとも、
今は、人の命や健康に『公平』であることに安堵している。

 そうそう、先日見舞った兄は、
歩行器を頼りながらも、
病棟の廊下をゆっくりゆっくり歩いていた。
 その後ろ姿に、ちょっとだけ私の目が潤んだ。




   大通りを飾る 満開のベコニア  
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教室で 『語り聞かせ』(口演童話)を

2016-10-07 22:18:30 | 教育
 私の『教育エッセイ「優しくなければ」』から記す。


 『私は、大学を卒業するまで北海道で生まれ育ちました。
5人兄弟の末っ子で、一番歳の近い姉とでさえ6才も離れていました。
 ですから、貧しい家庭ではありましたが、
我がまま放題に毎日を過ごし、
両親も兄弟もそれを許してくれていました。

 いわゆる団塊の世代で、北海道とは言え、
『鉄の町・室蘭』と言われた工業地帯にあった私の小学校は、
全校児童が千人を超える大規模校でした。
 新築したばかりの真っ白な鉄筋3階建ての校舎は、
教室にペチカがあり、話題を呼んでいました。

 そこでの6年間について、私の記憶は極めて曖昧ですが、
ある1コマだけは鮮明に思い出すことができます。
 それは、その後の私を決定づける指針の
1つになった出来事でした。

 5年生の晩秋のある日、
高学年児童が体育館に集められました。
そこで東京から来たという偉い先生を紹介されました。

その先生は、『コーエンドーワ』をなさる有名な方だと、
校長先生が話してくれました。

 若干小太りの先生は、ゆっくりと舞台に上がり、
マイクの前で話し始めました。
 時に静まり、時に大笑いをしながら、
私たちはその先生の話に夢中になりました。

 私は、その話の中に出てきた一節を、
それから後、時々思い出し、今に至っています。

 「坊やは、いつもお母さんの読む絵本のお話を聞きながら、
眠りに着きました。
 でも、時々、お父さんが坊やを寝かせるのです。
お父さんは、絵本を読むことなどありません。
 坊やが、何かお話をしてとねだると、
消防士をしているお父さんは、いつも決まって、
“人間は世のため人のために働くこと、
それでお終い。寝なさい、寝なさい。”
と、言うのでした。」

 “人間は世のため人のために働くこと”。
この言葉は、少年だった私の心を強く捉えて放しませんでした。

 当時、小さな魚屋をしていた我が家でしたが、
毎日、朝早くから夕暮れまで忙しく働く両親を見て、
美味しい魚を売るのも、
きっと“世のため人のため”と納得しました。

 そして、大人になったら、
僕も“世のため人のために”働こうと
そっと誓ったのです。』


 あれは、11才の時400人で聞いた。
私は、その中の1人だっただけ。
 その先生が、私にだけ特別に話してくださったことではない。

 体育館に持ち込んだ教室の椅子に座り、
「東京から来た偉い先生」と聞いて、若干緊張し、
背筋をすっと伸ばし、少年の私は話を聞いた。
 そして、私の心は大きく動いたのだった。

 高校生になり、恩師から「先生にならないか。」
と、勧められた時、嬉しさと一緒に、
“人間は世のため人のために働くこと”の言葉が、
突然心に蘇った。
 私を教職の道に導く、強い力になった。

 そして、40年間、未来を背負う子ども達のためにと、
教職の道を歩んだ。
 その道を退いた今も、そのことへの悔いはない。

 改めて思う。
私の人生に、一筋の光りを指し示してくれたのは、
あの東京から来た偉い先生の、『口演童話』だった。
 『口演童話』の素晴らしさを、私は身をもって証明できる。

 まだまだ本が一般に普及していなかった昭和初期の頃まで、
童話は、大人から子ども達に口伝されていた。
 私の幼い頃も、まだそうだった気もする。
母や姉、保育所の先生から、話を聞き、
色々な童話を知ったように思う。
 これが、『口演童話』の原点なのではなかろうか。

 その『口演童話』で全国的に活躍し、高名なのが、
久留島武彦先生である。
 先生は、童謡『夕焼け小焼け』の作詞者であるが、
昭和35年、86才で亡くなられるまで、
子ども達へお話を語って歩くことに、多くの時間を費やされた。
 訪れた幼稚園・学校は、日本全国6000を越えたそうだ。

 今も、先生の『口演童話』は、
各地で継承されているようである。

 また、全国いたる所の学校で『口演童話』は実践され、
研究が続いている。

 私が顧問をしている東京都小学校児童文化研究会の童話部も、
『語り聞かせ』と称し、その努力を重ねている。
  
 童話部は、子供に向けてするお話の全ては『童話』だと言う。
つまり、童話の“童”は「わらべ」、子供をさす。
 その童に話すから、『童話』なのだと説く。

 童話集にある有名な話も、語り手の体験談も、
確かに童話に違いはない。
 それを、自分の言葉で子ども達に語ること。
それが語り聞かせ(口演童話)である。

 子ども達は、自分の身近で、
語り手自身の言葉と感性で、話してくれることに、
小学校5年生の私がそうだったように、
共感を覚えるのだ。

 全国の先生方には、是非、教室で授業で、
その1コマに、これを取り入れ、実践してもらいたいと願っている。

 昨年度、児童文化研究大会実技資料集の、
童話部が作成した『お話は心の栄養 いつでもどこでもお話を』から、
『語り聞かせ』Q&Aを抜粋する。
 実践への一助にしてもらえると、この上ない。


 Q1 「読み聞かせ」と「語り聞かせ」はどう違うのでしょう?

 A1  伝える側(教師)が絵本や物語本を手にしているか、
    していないかという表面的な違いがあります。
    更に、「読み聞かせ」のなかの教師は、
    著者や原作者のテーマやメッセージを伝える媒介者の役割が主です。
    これに対して「語り聞かせ」は、
    語り手が原作を語り手自身の言葉やイメージとして
    創造しながら語っていくものです。
    語り聞かせの中のお話は、語り手の作品であるといえます。

 Q2 「読み聞かせ」のほうがやりやすいように思うのですが?

 A2  最近では、テープやCDに録音されたお話も市販されています。
    でも、子ども達にとっては、感動の深まりはあまりないように思います。
    それよりは、読み聞かせのほうが訴える力は強いでしょう。
    本を手にしながらということで、
    読み聞かせは教師にとってやりやすい面もあります。
     しかし、語り聞かせは、
    語り手が聞き手である子ども達の目や表情を
    見つめながら進めていきます。
    そこから生まれる心のふれあいを大切にしながら、
    感動を共有し合うものです。
    「読み聞かせ」にもすばらしい効果はありますが、
    更に一歩、子ども達の心に近づいてみましょう。

 Q3 どう話したらいいのでしょう?話術にも自信がないのですが。

 A3  毎日、学校で子ども達と話しているのに、
    あらためて「お話」というと、身構えてしまいがちです。
    「語り聞かせ」に特別な話術は必要ありません。
    普段の話し方でいいのです。
    大切なのは、話の内容(話材)です。
    自分の話し方(語り口)を大事にしながら、とにかく語ってみることです。
    テープに録音されたお話よりずっと味がありますし、
    子ども達にとっても親しみがわいてきます。

 Q4 身ぶりや手ぶりや声色、また小道具も必要ないのでしょうか?

 A4  語り聞かせは基本的には、絵や人形などの補助的なものは使いません。
    語り手の音声のみです。
    こうした点で「素話(すばなし)」ということもあります。
     身ぶりや手ぶりなどのジェスチャーや特別な声色や擬音効果も
    必要最小限にとどめておいていいでしょう。
    語り手のちょっとした目や首の動きだけでも、
    登場人物の違いを装うことができます。

 Q5 話材はどこから見つけるのでしょう?

 A5  語り手自身が見聞きした体験や感動は、最もすてきな話材となるでしょう。
    また、毎日接している子ども達の学校生活の中での1コマを、
    少し脚色して話材にすることもできます。
    それは子ども達の行動や心の動きを、敏感に感じ取ることのできる
    教師としての力量を高めることにもつながっていきます。

 Q6 「語り聞かせ」のための台本もつくらなければならないのですか?

 A6  最初から難しく考える必要はありませんが、
    おおまかなプロットやメモを作っておくことで、
    思いつくままに語るときに比べ、語りにも余裕ができます。
    また、名作童話などを語り聞かせする場合にも、
    文章を丸暗記するのではなく、
    語り言葉に置き換える必要があります。
    「読むための童話」と「話す童話」には大きな違いがあります。
    例えば、
     『貝ってなんだ。こんぶって何だ。魚ってくえるんか?』たろがきいた。
     『くえるとも、くえるとも。うまいぞう』とうさんがいった。
    「ふしぎなたけのこ」の一部ですが、これを語り聞かせでは
    『たろがきいた』『とうさんがいった』という言葉がなくなっても、
    語り手の首の動きだけで表せます。
     「語り聞かせ」の台本化というやや面倒な気もしますが、
    お話のイメージが明確になっていき、新しい発見もあります。 

    語り聞かせのための例話集や台本集もありますので、
    ぜひ参考にしてから取り組んでみたいものです。
 Q7 いつ、どんな時に「語り聞かせ」たらいいのでしょう?

 A7  「いつでも どこでも だれにでも」やれることが、
    お話童話の持ち味です。
    朝や帰りの学級指導、あるいは国語や道徳の時間、
    学級活動の中で、実践して下さい。
    最近、学校生活にゆとりがなくなってきたという声が聞かれます。
    子ども達も 忙しいスケジュールに追われ、
    言動や表情にも潤いが失われているように見えます。
    教師の語るお話に安らぎを感じ、
    子ども達は自分自身をふり返る契機にもなります。
    『手を洗って、うがいを忘れずに』という形式的な指導より
    「かぜのウイルス(バイキング君)」を主人公にしたお話の方が、
    子ども達に効果的な場合が多いです。
     お話は語り手と聞き手のコミュニケーションを
    大切にした、最も身近な文化活動です。
    教室が豊かなお話の森になることを願います。





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