ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

自主防災、共助に ・・・ 備えて

2018-08-25 19:24:16 | 時事
 昨年度から、地域の自治会で役員を引き受けている。
それも、総務ということで、
月に1回だが、会長、副会長、総務等で構成する事務局会議に、
出席しなければならない。

 世帯数800を越える自治会である。
事務局会議のメンバーも10数名になる。

 毎回2時間を越える話し合いだが、
その内容は、私のような者には、
時には新発見、時には違和感、時には感嘆等々の連続で、
今までとは異質な体験のくり返しである。

 さてさて、それが今後の私に何をもたらすのか、
これまた未知であるからこそ、見当もつかない。
 だが、お引き受けした役目である。
来年3月までは、
しっかりとその任を努めようと思っている

 もう1年も前の会議のことだ。

 台風が襲来し、近くの小さな川が氾濫した。
隣の自治会の道路が、一部冠水した。
 何日も道路脇は、流れてきた泥土でおおわれていた。
自然公園も被害を受け、閉鎖になった。

 それでなくても、全国各地から自然災害の知らせが相次ぎ、
今も極端な気候が継続している。

 そんなことを危惧してだろうが、
自治会長さんがこんなことを言った。

 「今のままの防災体制では、十分ではない。
このままでは、夜も眠れない。」

 会長という責任の重さ故の発言と感じた。
しかし、
「じゃ、こうしましょう。」「これは、どうでしょう。」
と言うほど、軽い問いかけではなかった。

 会長さんの想いはよく理解できたが、
その場で言える何ものも、私にはなかった。
 「どうしましょうか。」
の問いに、『だんまり』を通すだけだった。
 
 会長さんは、それに屈しなかった。
会議のたびに、防災対策を話題にした。

 そして、ついに、少人数による『自主防災検討委員会』の新設を、
提案した。
 検討委員会では、より有効性のある自主防災を目指した改善策をまとめ、
提案することが、その目標となった。

 7月、第1回の会議があった。
私は、その委員会のメンバーに指名され、出席した。
 ここでも、雲をつかむような話題が続いた。

 考えられる災害に優先順位をつけては・・・。
災害時、自治会の会館は、役にたつだろうか・・・。
 いつ避難所へ行くのがいい・・・。
単身の高齢者を誰がどう手助けする・・・。
 避難所まで、どうやっていけば・・・。

 8月、お盆があけてすぐ、
『北海道自主防災組織リーダー研修会イン室蘭』があった。
 検討委員会のメンバーで、丸一日、それに参加した。
4名の講師から、多くの示唆があった。

 それにしても、1日研修とは、
もう10年以上もそのような機会はなかった。 
 私には大きな刺激になった。

 3.11の大津波、
テレビでは放映されなかった衝撃の映像を、いくつも見た。
 時々、その画面を直視できなかった。

 某地域での津波避難訓練の行動を、解析画像で見ながら、
その特徴を解説してもらった。
 避難の多様性に、課題が山積していることを知った。

 そして、複数の講師から強調されたのが、
減災のための、『自助・共助・公助』の重要性だった。  
 
 『自助』は、「自ら行動し、自分や家族を守ること、
そのため、災害への備えをすること」を言う。
 『共助』は、「近隣住民と共に助け合い、地域の人を守ること、
そのため、災害への備えをすること」。
 そして、『公助』は、『行政機関やライフライン各社等、
公共機関の応急・復旧対策活動」を指す。

 さて、研修会を終えてから、
1つの自治会が目指す『共助』の有り様が、
いつも脳裏から離れない。

 何をどう備えることが、
この地域の住民を守ることになるのか。
 さらには、この地域の被害をより少なくできるのか。
今の私が、思いつく3つを書いておく。

 ① 避難訓練が生きる
 勤務したどこの小学校でも、月1回、必ず避難訓練があった。
若い頃、その訓練を軽く考えていた。
 しかし、あるベテラン女性教員の言葉が、私を変えてくれた。

 「私は、避難訓練が大嫌い。
その日はいつも朝からドキドキするの。
 そうでしょう。
本当にそんなことがあったら、
絶対に子ども達の命を守れるかどうか・・。
 不安で、不安で・・・。」

 私は、避難訓練にそこまでの現実感を持っていなかった。
しかし、いつ、どこで、何が起こるか、誰にも分からない。
 その災害時に備えることの1つが、避難訓練だ。
子どもの命を守る大事な行事だと痛感した。

 以来、どこかで聞いた言葉だが、
『訓練は実際のように、実際は訓練のように!』と、
子ども達にも、職員にも言い続けた。

 3.11の時、都内は震度5強に見舞われた。
初めての大きな揺れに、子ども達はきっと恐怖を覚えたと思う。
 それでも、先生を信頼し、その指示に従い、整然と行動した。
くり返しの避難訓練があったからと、私は思った。

 地域の共助とて、訓練の重要性は少しも変わらないと思う。
しかし、学校などとは比較にならない程、
想定される災害には多様性がある。
 考えられる様々な災害に応じた住民参加の防災訓練など、
現実性が乏しい。
 
 それでもできる訓練は、いくつもある。
避難指示の伝達訓練、近隣弱者の安否確認訓練、
水防の土嚢積み訓練等々。
 無理のない防災訓練をくり返すだけでも、
実際の時に必ず生きる。 

 ② 非常時用備品を蓄える
 都内の小中学校の1室には、備蓄倉庫がある。
非常食をはじめ、水、毛布、簡易トイレ等々、
始めてその備えを目にした時、若干心強ささえ感じた。

 学校の近隣住民は、年1回の訓練時に、
倉庫に入り、その備えを確認している。

 さて、伊達市には、どこにどれだけの備品があるのだろう。
全く知らない。
 残念ながら、私の自治会ではそれらしき物を備蓄していない。

 避難所に行けば、安全に寝る場所と、3食を提供してもらえる。
最近は、そんな思いでいる方も少なくないと聞く。

 確かに被災された方には、できる限りの援助は惜しまない。
しかし、災害時こそ、共助だろう。
 共に助け合い、力を持ち寄り難局を切り抜けることが、
求められる。

 だから
避難・情報収集・伝達用の備品が必要になる。
 初期消火・水防・救出・救護用具があるといい。
飲料水や非常食だけでなく、
ガスコンロ、ボンベ、鍋、やかんなど給食給水の機材もほしい。

 備品の必要性と使用頻度は、災害の規模によって異なる。
しかし、できうる限りの備えが、悔いを残さないことにつながる。
 とにかく、地道にコツコツと、備蓄品を充実させるに限る。

 ③ リーダーシップを発揮する
 平常時に防災力を高めるため、
避難を初めとした各種訓練の実施が必要だ。
 それには、自主防災組織のリーダーシップが欠かせない。

 円滑な訓練が進められるよう、
十分なコミュニケーションがとれる「気配りができる人」。
 活動を継続できる「忍耐強い人」。
そして、訓練の企画運営など、「行動する時は先頭に立つ人」。
 そんな資質を持ったリーダーが求められている。

 また、災害時では、リーダーシップを発揮するこそが、
何よりも強く求められるに違いない。
 そのために、次の3つの力が必要とさえるだろう。

 ・地域をよく知り、地域を大切に思う心を持っていること
・防災の知識等々、防災の「知恵者」として信頼されていること
 ・相手の要望や状況を的確に把握し、
自らの考えを的確に伝えるコミュニケーション力を持っていること

 ある1人の方に、
このようなリーダー性を期待するのは、困難だろう。
 防災意識が高い複数の方に、
その時々のリーダー役を託すしかないと思う。

 今は、そんな人材を発掘することが、
最重要課題なのではなかろうか。





  秋の七草 『オミナエシ』が もう
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閉校 ・ 廃校に 想う ・ ・ ・

2018-08-17 20:02:03 | 思い
 ①
 ◆ 先週11日のことだ。
兄と家内、私の3人で、登別までお盆のお墓参りに行った。

 その帰り、
「虎杖浜で昼メシを食べないか。」
 兄から誘われた。

 わざわざ行き先まで指定してのことだ。
何か当てがあるのだろうと、二つ返事で応じた。
 
 お墓から、愛車で白老方向に国道を10分程進んだ。
「そこを左に」。
 兄に言われるまま左折。
真新しい大きな看板があった。
 『ナチュの森』

 そのまま1本道を数分行く。
きれいな駐車場に着いた。
 降車してすぐに、そのリゾート感に驚いた。

 小高くて、濃い緑の森に囲まれたそこは、
ゆったりとした柔らかな風を感じさせた。

 静かな音楽が流れていた。
広場の芝生のあちこちで、若い家族づれが、
緑色のパラソルの下で、テーブルを囲んでいる。

 すぐ近くに、白を基調にした2,3階の建物が2棟あった。
それを見て、直感した。
 「ここには、学校があったんだ。」

 「そうなんだ。学校の跡地に、
化粧品会社が工場を造ったんだ。
 レストランもある。」
兄が教えてくれた。

 東京に本社がある化粧品メーカーが、
この地の「湧水」に目をつけた。

 そして、長年、白老町と協議をくり返し、
閉校となった虎杖浜中学校の校庭に、
昨年10月、『ナチュラルファクトリー北海道』と言う
化粧品工場を造り、操業を始めた。

 湧水を使った料理を提供するレストランをはじめ、
自社の化粧品の展示・販売、エステサロン、ハーブなどのガーデンがあり、
そこは、軽井沢や箱根にあるリゾート地を思わせた。

 廃校を利用した素敵な環境に、
自然と嬉しさが生まれた。

 案内してくれた兄に感謝しつつ、
できて間もない『ナチュの森』だが、
今後、軌道に乗り、脚光を浴びることを、しきりに祈った。

 ◆ その翌日、朝刊を手にした。
私の想いを察したかのような、
代弁するかのようなコラムがあった。
 朝日新聞『天声人語』である。

『 生徒は全員海の生き物。教室
 ではウミガメやエイがすいすい
 泳ぐ。跳び箱の中に隠れている
 魚もいれば、わがもの顔で25㍍
 プールを行くシュモクザメもい
 る。映画の世界ではない。高知
 県の室戸岬に今春オープンした「むろと
 廃校水族館」での光景だ▼小欄で先月、
 廃校が年間500校にのぼると書いた。
 一方で、空き校舎の再利用も進んでいる
 と知り、その実例を見に室戸市を訪ねた
 ▼「学校らしさを全面に出しました。大
 人には懐かしく、子どもには親しめる場
 所です」と若月元樹館長(43)。長く飼育
 されているカメなどを「在校生」と紹介
 し、地元の定置網にかかって新たに展示
 された仲間を「転校生」と呼ぶ。遊び心
 である▼12年前まで市立小学校だった。
 戦後の高度成長期には約170人が通っ
 たが、人口減の波にあらがえず廃校に。
 NPO「日本ウミガメ協議会」(大阪府
 枚方市)と市が話し合い、水族館構想が
 浮上。シロアリの巣と化していた校舎を
 市が補修した▼筆者の通った三重県内の
 小学校も昨春、廃校となった。帰省の折
 にのぞいたが、校庭やプール、花壇はほ
 ぼ卒業時のまま。サビの浮いた体育館が
 痛々しかった▼廃校水族館はこの夏、盛
 況が続く。第二の人生を歓声の中で送る
 ことができてきっと校舎も本望だろう。
 廃校を地域のにぎわいの場に変えられれ
 ば、悲しみも乗り越えられる。「廃校シ
 アター」「廃校市場」「廃校自動車学
 校」。何だってあり得る。地域の柔軟
 な発想が問われる大廃校時代である。 』

 少子化と地方の衰退が、閉校・廃校の根幹にある。
時代の大きな流れなのだ。
 あらがえない。

 でも、せめて校舎や校地の再利用を通して、
子ども達が育み、巣立った学校の痕跡を、
しっかりと残してほしいと願う。

 それが、閉校・廃校という『悲しみを乗り越え』る唯一の道だと、
改めて確かめた出来事と朝刊だった。


 ② 
 ◆ さて、閉校・廃校の悲しみについて、
筆を進める。

 40年間の教職生活だったが、
その間、東京都内4区の9校に勤務した。
 幸いと言っていいと思うが、
閉校・廃校になった学校はない。

 しかし、私が管理職になった頃から、
東京都内でも小中学校の統廃合が相次いだ。

 12年も前になるが、
その年、S区内の2校が閉校となった。

 私は、S区の校長会長として、その閉校式で挨拶をした。
まずは、その1つを記す。

 『 今年度、小学校長会長を勤めております
H小学校の塚原でございます。
 S区立小学校27校を代表して、D小学校の閉校にあたり、
ご挨拶をさせて頂きます。

 歴代校長先生を始め、D小学校にゆかりの深い学校関係者の皆様、
そして地域・保護者の皆様、さらには12700名を越える同窓生、
教職員、児童の皆さん、
明治24年に開校してから、116年という、
1世紀をゆうに超える時間を積み重ねてこられた貴校が、
その歴史に幕を閉じる時を迎え、
感慨無量のことと推察いたしております。

 さて、児童の皆さん。私はこれから皆さんに、
「ごんぎつね」の作者として有名な新美南吉さんが書いた
童話『おじいさんのランプ』の一端を、お話をしようと思います。

 貧しい育ち方をした主人公・巳之助は、
その村でたった一軒のランプ屋を始めます。
 明治の中頃、そう、このD小学校が開校して間もない時のことです。
まだローソクの明かりがたよりだった頃に、
ランプは、夜を照らす素晴らしい道具でした。

 しかし、時代が進み、
ランプ屋が軌道にのっていた巳之助の村にも、
電気が引かれることになります。

 初めは色々な理由をつけて反対していた巳之助でしたが、
電気という新しい文明を認めるざるを得なくなり、
ある夜、巳之助は、
店の全てのランプをリヤカーに積んで、持ち出します。
 そして、それに灯をともし、村はずれにある、
池の端の木に吊すのでした。

 赤、青、黄と色とりどりの形をしたランプが、
真っ暗闇の池に照らされ、
巳之助は、その一番大きなランプをめがけて石を投げつけます。
 パーンと大きな音がし、明かりが一つ消えてなくなります。

 その時、巳之助は、
「ランプの時代は終わった。電気という次の新しい時代になる。」
と叫ぶのです。
 パーン。パーン。
三つ目の明かりが消えた時、もう涙で、
巳之助には、ランプが見えなくなっていました。

 児童の皆さん。
巳之助のランプ屋は、こんなやり方で店を閉じました。

実は、私は皆さんより一足先に、
D小の『閉校記念誌』を読ませてもらいました。
 そこには、皆さん一人一人のD小での楽しかった思い出と共に、
S校長先生を始め、多くの方々からは、
D小の閉校を心から惜しみ、悲しむ言葉が沢山記されていました。

 それはあたかも、涙をこらえ、
『D小の時代は終わった。次の新しい時代になる。』と、
色とりどりの思い出というランプを、
パーン、パーンと消しているように、私には思えたのであります。

 児童の皆さん、こんなにもD小を愛し、大切に思う、
先輩と地域の方々と、お家の方と先生に囲まれた学校で、
皆さんは今日まで学んできたのです。
 皆さんには、是非そのことを誇りとし、
来年度からの新しい学校での、
エネルギーにしてほしいと私は願っています。

 結びになりますが、116年間に渡る先輩から後輩へ、
そして地域の多種多様な方々から、育まれてきたD小学校の、
輝かしい伝統と校風に敬意を表する共に、
今後は統合新校『T小学校』にそれを受け継ぎ、
さらに飛躍、発展されますことを願い、
閉校式典の挨拶と致します。』

 「自分の学校が閉校になる。」
私には、その経験がなかった。
 だから、その実感が想像できない。
精一杯、想いを巡らした挨拶が、これだった。

 式を終え、退席する私を、
呼び止める先生がいた。

 「私達の気持ちを代弁して頂いて・・。
ありがとうございます。
 学校がなくなるのは、複雑な気持ちです。
でも新しい時代、なんですよね。
 よかった。
よく分かりました。」

 尋ねると、その先生は、D小学校の卒業生、
そして現在の勤務校だと言う。

 そして、もう1人。
玄関で、私たち来賓を見送るPTA役員・顧問の方々がいた。
 その中に、知った顔の方がいた。

 元PTA会長さんで、地域の名士だ。
いろんな機会に言葉を交わし、
誠実な人柄を知っていた。

 私に近づくなり、言いだした。
「こんなに寂しいとは、分かりませんでした。
娘も息子もお世話にになり、今は孫が通っています。
 私には、思い出のつまった、
たった1つの学校だったんです。」
 ハンカチを取りだし、私の前で頭をたれた。

 「そうでしたか。」
あの時、私には、それ以上の言葉を探せなかった。
 
 ◆ 私が卒業した小学校と中学校は、室蘭にある。
伊達に住み始めてすぐ、訪ねてみた。

 両校とも、閉校になっていた。
そのことを知らなかった。
 校舎のガラス窓が、ベニヤ板でふさがれているのを、
真っ直ぐに見ることができなかった。

 こみ上げてくるものを感じ、急いで立ち去った。
私の少年時代までが朽ちていく。
 そんな気がして、いたたまれなかった。

 今なら、あの時よりも、
D小学校のあの先生とも、元PTA会長さんとも、
悲しみを共有できると思う。 

 



路傍に見つけた『アメリカオニアザミ』?(外来種)    
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続 ・ 宿泊学習の『危機』

2018-08-04 16:05:42 | 教育
 梅雨がないはずなのに、
『蝦夷梅雨』などと言う耳慣れない言葉を聞き、
北海道での気候変動を感じた。
 だが、2週間程前から、本格的な夏がやってきた。

 伊達も「暑い!」。
と言っても、30度を越える日はまだない。
 「35度だ!」「40度だ!」と、
危険な猛暑が続く各地の皆さんには、
申し訳ない思いでいる。

 さて、全国的に夏休みである。
この休みを利用して、東京都内の小学校では、
5,6年生の『林間学校』『臨海学園』等々と呼ばれる、
宿泊学習が行われているだろう。

 この時期は、避暑地である長野県、栃木県や、
房総、湘南方面の海水浴場での2泊3日が多い。

 今年3月のブロク「宿泊学習での『危機』」で書いたが、
『学校内の日常とは違う3日間である。
 思いがけない出来事に遭遇することも、珍しくなかった。
「危機」とは、やや大袈裟だが、そんな出来事』が、しばしばあった。

 夏休み中の宿泊学習ではないが、続編を2つ記そうと思う。


  その3

 校長として着任してまもなく、5月末だったと思う。
6年生の宿泊学習があった。

 前年度末には、
宿泊先から3日間のスケジュールの大枠が決まっていた。
 私は、事後承認のような形で、
それを確認するだけだった。

 だが、一つだけ反旗を振った。
それは、その3日間を終えた翌日のことだ。

 計画では、宿泊体験から戻った次の日、
6年生の登校は2時間遅れになっていた。

 理由は、「3日間の宿泊で子供が疲れている」と言うのだ。
私は、納得しなかった。

 今までの経験から、確かに翌日の子供には疲労感からか、
覇気が薄れていた。
 だからと言って、登校を2時間遅らせることが、
その改善になるとは思えなかった。

 疲労の残る子ども達であっても、
それに応じた内容や進め方など、
学習を工夫すれば、それでいいだけなのだ。

 職員会議で話し合った。
そして、私は、若干強引に、翌日の通常登校を指示した。
 6年担任をはじめ、教職員は渋々それに応じた。

 ところが、このことが、意外な展開をみせた。

 宿泊学習から戻った翌朝、
6年生も他学年と一緒に通常通り登校した。

 しかしなのだ。
各学級で朝の出欠を確認した。
 6年担任がそろって、校長室に駆け込んできた。

 6年生の2学級とも、
半数近い子が登校していないのである。

 連絡のあった欠席や遅刻の理由は
『体調が悪いので、病院へ行きます。』
 『おきられないようなので、様子をみてから・・。』
『昨日、戻ってから、元気がなく・・。』等々だった。

 6年担任は、そんな状況を報告しながら、
「だから、2時間遅れの登校がよかったんです。」
 ありありとそう言いたげな表情をした。

 出欠の報告を受け、私も若干反省するしかなかった。 
それにしても、体力のない6年生に、
若干違和感を抱いた。

 10時を回った頃だったろうか。
養護教諭が、緊張した表情で校長室にやって来た。
 「保健所から緊急連絡がありました。」 

 本校の6年生児童に集団食中毒の疑いがあると言うのだ。
学校近隣の内科医院から、
「食中毒とみられる同じ症状の6年生が来院している」。
 保健所にそんな通報があったのだ。

 いずれも症状は軽く、回復傾向にあるとのことだった。
しかし、集団食中毒の疑いがある。
 時間を待たず、保健所からの『聞き取り班』がやって来た。

 当然、3日間の宿泊学習の食事が疑われた。
調査は、すぐにその宿舎に及んだ。
 結果は、調査を待つしかなかった。

 予想もしない展開に、私はその対応に奔走した。
そうしながら、
今日の6年生の欠席や遅刻の原因が、
「2時間遅れではなく、通常登校に変更したこと」とは、
無関係なことに安堵した。

 1週間後、臨時保護者会を行った。
区教委と保健所から、
集団食中毒の疑いに対する調査報告があった。

 宿泊先からは食中毒の原因と思われるものは、
特定できなかった。
 また、食中毒の感染経路も明確にならなかった。
ただ、6年生の児童に、
集団食中毒と同様の症状が見られたと言うのだ。

 出席した保護者も私も釈然としなかった。
しかし、その後の6年生は何事もなかったかのように、
全員元気に過ごした。

 なので、その出来事はそれで終止符が打たれた。


  その4
 
 その年、同伴した6年生は、1組も2組も際だって仲が良かった。
初日も2日目も、明るい声、笑い声が絶えなかった。
 集団行動もしっかりとしており、
いつも集合時間の5分前には全員がそろった。

 校長として引率していても、
余分な気配り、目配りの必要がなかった。
 私も、自然に子供の輪に入り、
楽しいやり取りを続けていた。

 ところが、最終日、3日目の朝だった。
予定の時間に、宿舎の食堂で朝食を終えた。

 全員で、その後片付けを始めて間もなくだった。
男子の明るい声が、私に言った。

 「先生、僕のヨーグルト、賞味期限、切れていたよ。」
とっさに私は、訊いた。
 「どうした?」
「ウン、食べたよ。平気!平気!」

 「みんな、もう一度、席に着いて・・。
自分の席に、座って下さい。」
 私は、声を張り上げた。

 しっかりした子ども達だ。
後片付けの手を止め、すぐに朝食の時の席に座った。
 私は、訳を説明した。

 賞味期限切れと知りながら、
ヨーグルトを食べた子は、男子1人だけだった。
 他の子は、そんなことを気にも止めず、
確認などしないまま食べていた。
 それは、至極当然のことだと思う。

 班ごとに囲んだテーブル席の上には、
片付け途中のヨーグルトカップが重ねられていた。
 手分けして、そのカップの賞味期限を確認した。

 その男子がいた班のテーブルにあった12個のカップから、
6個の賞味期限切れが見つかった。
 しかし、それを誰が食べたかは、すでに不明だった。

 「きっと大丈夫だ思うけど・・。」
子ども達にそう言いつつ、
『区立の宿泊施設で、賞味期限切れを提供するなんて・・』
驚きと共に、怒りがこみ上げていた。

 食堂の調理さんの答えは、
「気づかなかった」をくり返すだけだった。

 私は、時間を待って、宿舎から区教委へ電話連絡を入れた。
1つは、賞味期限切れのヨーグルトを食べた場合の、
健康被害について調べ、その対処法を知らせてほしいこと。
 もう1つは、本日夕方、帰校するまでに、
事実を保護者に伝え、謝罪する手立てを整えてほしいこと。
 その2つを要望した。

 その後、子ども達と一緒に3日目の見学や体験学習を、
予定通り進めた。
 その間、腹痛や体調不良を訴える子は現れなかった。

 行く先々で、区教委からの電話が入った。
大きな健康被害は考えにくい。
 しかし、発熱や下痢の体調不良も考えられる。
そんな回答があった。

 そして、私からの強い要望を受け、
帰校後出迎えにきた保護者に、
その場で、宿舎の管理者にあたる区教委から、
事実経過の報告、そして謝罪をすることになった。

 帰校すると、その準備が整っていた。
下校する子どもには、
事実と予想される健康被害、謝罪が記された印刷物が渡された。

 子ども達と保護者が下校すると、間髪を入れず、
私は、区教委の幹部と担当職員を連れ、
期限切れを食べた男子と、
その可能性のある子供の家庭を訪問した。

 そして、一軒一軒、丁寧に説明とお詫びをした。
そんな対応に、保護者は恐縮していた。
 12軒目を終えた時には、夜も深まっていた。

 翌日、子ども達は全員笑顔で登校した。
誰一人、体調不良はいなかった。
 安堵した。

 それでも、私は区教委に原因究明を強く求め続けた。 

 



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