ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

名 前 の 力 !

2020-10-31 15:38:45 | 思い
 ▼ シャミチセ川は、自宅から5分程の所にある。
案内表示では、2級河川になっているが、
小さな川で巾は、2メートルもない。
 
 その川原も狭いが、葦が茂り、
朝の散歩では、そこからよく野鳥の鳴き声が聞こえる。
 
 残念なことに、野鳥の名前を全く知らない。
葦の先に止まっている小さな鳥の名が分かれば、
もっと心が動く気がする。

 「なんか、小鳥が鳴いている」。
今は、それだけだ。
 もし、その小鳥の種名を知ったら、
姿がなくても、今以上の想いが生まれるだろう。

 ▼ 数年前、春先のアヤメ川散策路で、
通りがかった方に、路傍に咲いていた3種類の野草の名を、
教えてもらった。

 自宅まで20分の帰り道、
「キクザキイチゲ、キバナノアマナ、アズマイチゲ」
と、つぶやき続けた。

 私にとって、名もない花だったが、
翌春からは、その開花を見ると、
「ほら、キクザキイチゲが咲いている。
アズマイチゲも・・」。
と、なった。

 以来、努めて花の名を覚えようとしている。
四季折々に咲く野草に、それまでとは違う感情が芽生えてくる。

 ▼ 名を知るだけで、小鳥や野草への想いは変わる。
距離が縮む。
 人名になると、その比ではない。 
  
  ①
 入学した中学校は、2つの小学校から生徒が来た。
1年生は8学級もあった。
 しかも、確か1学級55人だった気がする。

 私の特異性もあっただろうが、
入学当初、同じクラスで名前が分かったのは数名だった。
 4月は、毎日心細い気持ちで教室にいた。

 担任は、体育を教える男の先生だった。
毎朝、朝のあいさつと出席確認に教室へ来た。

 いつも、出席簿順に呼名した。
1人ずつ返事をした。
 なのに、担任は声のする方へ顔を上げようとしなかった。
みんな、残念な気持ちになっていた。

 せめて担任にだけは、1日も早く名前を知って欲しい。
誰もがそう思っていた。
 なのに顔を見てもらえない。

 連休前のことだ。
国語の授業があった。
 その先生は、背が低かった。

 その頃、人気の軽三輪トラックを『ミゼット』と言い、
すぐに先生には、「ミゼット」のあだ名がついた。

 そのミゼットが、私たちに作文を書かせた。
どんなテーマだったが、覚えがない。
 私は、何とか原稿用紙を埋め、授業内に提出をした。

 そして、連休があけた。
『5月病』だったのか、2,3日、学校を休んだ。

 その間に、ミゼットは1年生の各学級で、
私の作文を読み上げた。
 予想もしていなかったが、
素晴らしい作文と評価してのものだったらしい。

 病気が癒え、登校するとミゼットに呼ばれ、
職員室へ行った。

 「ワタル君、いい作文だったので、
みんなに紹介したからね。」
 
 ミゼットの言葉にどう返事したのか、記憶は無い。
だが、その時、私を「ワタル君」と呼んでくれた。
 その嬉しさだけは、何十年が過ぎても忘れない。

  ②
 30歳代半ばから勤務した小学校は、
研究が盛んだった。
 毎月のように、誰かが研究授業をした。

 研究授業には、協議会がセットだった。
ここでは、その授業の評価をし、
主に日々の授業に生かせることを整理した。

 授業を参観した先生たちによる意見交換の後、
講師として招いた先生の『指導講評』が行われ、
授業の成果と課題を明らかにするのだ。

 ある研究授業で、大変評判のいい先生を、
講師としてお招きした。

 その指導講評は、期待通りだった。
実は、内容は全く記憶にない。

 しかし、先生の指導講評の一部だけは、
衝撃的で忘れられない。
 それは、出席した教員の名前を、
至るところで上げてのお話だったからだ。

 「Y先生も指摘しましたが・・・」。
「このことは、B先生も同意見のようで・・・」。
 「F先生、G先生の発言に、賛成で・・」。

 協議会の始めに、出席者は自己紹介をした。
しかし、講師とは、みんな初対面だった。
 なのに,講師は私たちの名前を挙げるたびに、
その先生の顔を見た。
 そして、話を続けた。

 私を含め、意見を述べた先生方は、
自分の名前を一度は呼ばれ、コメントされた。

 名前を言ってもらうことで、誰もが、
自分の見方や考え方がしっかり受け止められたと感じた。
  
 指導講評を聞き終え、協議会で発言したことに、
有用感を持った。
 発言してよかったと実感した。
それは、私だけではなかったと思う。

  ③
 まだ校長になったばかりの頃だ。
近くの小学校で会議があった。
 会議が始まるまで、校長室に案内された。

 その時、そこの校長先生とはじめてお話をした。
校長キャリアの長い先生だった。
 室内の掲示物には、子供らの作品がいくつもあった。
素敵な先生だと直感した。

 校長用机の近くにあった掲示板が気になった。
そこには、全学級の集合写真があった。
 そして、写真の横には、
子供の氏名が書かれた同じ大きさの紙が張ってあった。
 
 「毎日、10分間、それを見て、顔と名前を覚えています。
うちは、600人以上だから、全員となるとなかなか・・。
 でも、私が名前を言って話しかけると、どの子も嬉しそうなので・・。
だから・・、ずっと続けています。」

 その後、私も長いこと校長職を務めた。
先輩校長のようにと、一時期、頑張ってみた。
 残念ながら、私にはできなかった。

 私は、もっぱら子供の胸にある名札を見て、
その子の名前を言った。
 それでも、子ども達は嬉しそうな顔をしてくれた。

 その都度、心が少し痛んだ。



  ジューンベリーも 色づく
      
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私 の 街 は  秋 色

2020-10-24 16:18:12 | 北の湘南・伊達
 ▼ 久しぶりに朝のランニングをする。
息が弾むと、喉に入る空気が冷たさを伝えた。
 次第に氷点下の季節がやってくる。

 「コロナ禍の中だ。
さてこれから先、どんな展開が待っているのだろう。
 インフルエンザと新型コロナの同時流行が心配だ。
何とか大混乱だけは、回避できないだろうか。」

 そんなことを思いつつ、
5キロの行程の中盤まで来る。
 進路を、西から東へと進む道へと変えた。
すると、朝陽が紋別岳のある東山の方から差し込む。
 この時季ならではのまぶしさを、
帽子のつばで遮りながら走る。

 何かの気配に、ふと顔を上げてみる。
「そうか!」。
 私の街はすっかり秋色になっていた。


 ▼ 自宅前の道から、一本上った道沿いに、
コスモスとガーベラのお花畑がある。
 
 伊達で暮らし始めて3年目の夏の終わり、
そのお花畑を造っている方と偶然出会った。

 突然だったが、
美しいお花畑へのお礼を口にした。
 すると、80歳をすでに超えていたその方は別れ際に言った。
「じゃ、来年も生きていたら、頑張って花を咲かせるわ。」
 返す言葉がなく、
私は、ゆっくり頭を下げることしかできなかった。

 それからも、毎春、畑にはトラクターが入り、
2種類の小さな苗が綺麗に植えられた。
 徐々に緑色が増し、
やがて、色とりどりの花が私たちの足を止めた。

 ところが、昨秋、お花畑のその方の悲報が伝わった。
なのに、コスモスもガーベラも、凜と咲いていた。

 「もう、このお花畑も見納め」。
そう思いながら、何度もカメラを向けた。
 シャッターを押す指に、力を込めた。

 そして、今春が来た。
雪の解けたお花畑は、いつの間にか整地された。
 そして、網の目のように縦と横にまっすぐ、
小さな苗が植えられた。
 後に、それがガーベラの苗だと知った。

 夏が近づいた頃、お花畑を囲むように、
無数の緑色の芽が出ていた。
 この新芽が,コスモスだと気づいたのは、
それからかなりの日が過ぎてからだった。

 今は、コスモスの花もガーベラの花も、
盛りを過ぎようとしている。

 あの方は逝ってしまった。
でも、その遺志を継いだ方がいた。
 今年も、この街に素敵な秋色を贈ってくれた。


 ▼ 自宅から数十歩の十字路に立つと、
有珠山の山頂付近がすべて見える。
 この山は、2,30年を周期に噴火をくり返してきた。
最近では2000年に爆発した。

 以前の山容を知る方は、
「噴火前の方がいい形で、好きだった」とよく言う。

 今は、山頂の周りに時折噴煙が見える。
そして、所々に小さな噴火口跡らしい窪みが見てとれる。

 きっと噴火直後の山は、全てが火山灰で被われていたのだろう。
だが、裾野から次第に樹木が育った。
 私が知る有珠山は、山頂付近までその緑が近づいていた。

 さて、9年前、移住した最初の秋だ。
その山が変なのだ。

 夏が終わり、日の出が遅くなった。
十字路に立ち、西にある朝の有珠山を見る。
 朝日で、山は明るい陽差しを受け、
神々しくさえ感じた。
 その山が、昨日とはわずかに違う色なのだ。

 山頂は、灰色のままだが、
裾野から迫る緑が少し変色した気がする。

 翌朝も十字路から見る。
矢っ張り、緑色が薄くなって見える。

 不思議な気持ちを、打ち消せない日が続く。
遂に、明らかに緑が消え、
山頂付近から下が、薄く赤茶けた色になる。
 有珠の全山が、色を変えているのだ。

 それが秋の紅葉だと、誰もが承知しているだろう。
しかし、当時の私は無知だった。

 1本1本の木々が美しく紅葉するのは、熟知している。
だが、それによって、
その山が全て赤や黄に染まるとは・・・。
 心に強く刻まれていなかった。

 だから、秋の有珠山の変色を、
紅葉と思わず、
私は、「噴火の前ぶれでは?!」と疑った。

 当たり前だが、確信などなかった。
だから、誰にも言えず、
朝の有珠山を見ては、一人思い悩み、
胸の鼓動を大きくしていた。

 ある日、朝食のサラダを口に運びながら、
家内がポツリと言った。
 「有珠山も東山の方も、紅葉してきたね。」

 「山が・・、紅葉・・?!」。 
私は、ハッとした。
 そして次に、急に安堵した。
「有珠山が変だ、噴火かも・・」。
 なんて、誰にも言わなくてよかった。

 今年も有珠山をはじめ、周りの山々が紅葉してきた。
その秋色を見上げながら、
『噴火の前ぶれでは?』が蘇り、苦笑している。


 ▼ ご近所さんの庭には、ブドウ棚があった。
散歩しながら、時折、その棚を見た。

 夏からだったろうか。
小さな房に気づいた。
 それが次第に膨らみ、ブドウらしくなっていった。
薄緑色のまま、実りの時を迎えた。
 「品種は、きっとナイアガラ!」。
やがて、その蔓がたわみ、棚には重みが加わった。

 最近のことだ。
そこの奥さんが、我が家の玄関ベルを押した。
 片手には、ブドウの入ったパンパンのレジ袋を下げていた。

 「これ、うちのブドウ。
いっぱい採れて、少し食べてもらっていい。」
 家内は、笑顔でお裾分けを頂いた。

 朝と夕、食卓に薄緑色のブドウが置かれた。
私は、2ツ粒3ツ粒を口に運んで、終り。
 だから、翌日もまたブドウが・・。
その日も、家内は、美味しく食べる。

 やっと、食卓からブドウが消えた日、
再び、パンパンのレジ袋を下げ、玄関ベルが鳴る。
 「また、いっぱい採れたの。
もう少し、手伝って・・。」
 再び,薄緑色が食卓に置かれる日が始まった。
 
 そんな日の矢先だ。
電話が鳴った。
 「いるかい?」
「アッ!はい。」
 「今、カボチャもっていくから。
貰い物だけど、食べて!」
 親しくさせてもらっている近所のご主人からだ。

 「ねえ、カボチャ4個も貯まったよ。
どうする?」。
 家内は、嬉しさと迷いと、半々の顔で私に言う。 

 同じように、大根だって、キャベツだって、
ブロッコリーだって・・。
 みんなみんな、お裾分け。
美味しい秋色が、食品庫で眠っている。




 伊達市大滝区 通称『ナイアガラの滝』のオータム  
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運転免許教習所にて・・

2020-10-10 16:22:44 | あの頃
 真夏の暑い盛りの頃だ。
定期点検で、愛車のディーラーへ行った。
 やや時間があったので、店内の展示車を見ていた。

 「どうぞ、ドアを開けて運転席に座ってみてください。」
それが、その後の流れの切っ掛けになった。
 言われるままにシートの具合を確かめたり、
ハンドルを握ったりした。

 新しい車のワクワク感があった。
特段、購入意欲がないまま、価格を尋ねてみた。
 もう4年近く付き合いのある営業マンが、
誠実な人柄そのままに、説明を始めた。

 途中で遮ることができずに聞いた。
これが「脈あり!」と思わせたらしい。

 数日して、詳細な価格表をもって自宅へやって来た。
「是非、もう一度車を見てください」。
 くり返しそう言う。
その物腰の柔らかさと誠意に押され、
来店を約束した。

 再び、展示車に座った。
しかし、買う気にはなれなかった。

 彼に諦めてもらおうと、断りの弁を言った。
「この車が気に入りましたとは・・。どうもそうならなくて・・。
申し訳ありません。またの機会に・・」。
 私は、大人対応をしたつもり・・。
察して欲しかった。

 ところが、
「他の車種なら気に入るかも・・」。
 彼はそう理解したようだ。
翌日には、2車種のカタログを持ってやって来た。

 そして遂には、そのカタログと同じ試乗車を、
数日を置いて、1台また1台と我が家に横付けした。
 
 次第にその熱意に押されていった。
この機会に、「乗り換えても・・・」。
 そんな気持ちが芽生えはじめた。

 優秀な営業マンは好機を逃さないようだ。
とうとう店長さんまでつれてやって来た。
 大人が2人揃って深々と頭を下げるのだ。

 1ヶ月余りの売り込みのすえ、
ついに新車契約を結ぶことになってしまった。

 25歳で、初めてマイカーを買った。
それから10台目になる。
 人生最後の乗り換えだろう。

 ふと、初めて愛車を買ったあの頃を思い出した。
特に、運転免許取得の教習所は忘れることができない。
 そこでの、エピソードを2つ記す。

 ⑴
 最初に着任した小学校は、交通の便が悪かった。
一番近いバス停には、
1時間に1本しかバスが来なかった。

 だから、自家用車が次第に普及し始めた頃だったので、
マイカー通勤をする先生が多かった。

 結婚が決まり、運良く抽選で新しい団地が当たった。
そこから、勤務校まではバスや電車を乗り継ぐと、
片道1時間半もかかった。
 ところが、車だと40分足らず。

 早速、夏休みを利用して、運転免許を取ることにした。
密かに、いつかは車通勤にしようと決めていた。
 
 教習所は賑わっていた。
夜の運転実習はなかなか予約ができない。
 だが、私は休み中なので、昼間の時間帯が取れ、
実習は順調に進んだ。

 まだ仮免許前のことだ。
S字カーブやら、狭い道のハンドル操作の段階だったと思う。
 隣に座った教官は、
「そこを右に曲がる」、「次を左」と指示した。
 しかし、私の操作に対し、
指導や注意など一言もなかった。

 なのに、その教程時間が終わると、
「もう一度、同じ講習を受け直し・・」。
 そう言って、さっと車を降りていった。

 納得できなかったが、
それでも仕方なく、
翌日、同じ講習の予約を取って、やり直した。
 
 それから、何日かが過ぎた。
坂道発進など難しい技能に冷や汗を流した日だ。
 教官から、なんとか履修OKをもらい、
ホッとして車を降りた。

 直後だった。
所内の近くの路上で、大声を張り上げ、
大人2人がつかみ合いのケンカを始めた。

 私も仲裁に駆けつけたが、
何人かで2人を引き離した。

 1人は見覚えのある顔だった。
あの何も教えない教官だ。

 もう1人は、同じ教習生だ。
彼は、引き離し後も、怒りは収まらす声を張り上げた。
 「こいつ、今日もこの前も何も言わないで、
やり直しにしやがった」。

 その後、2人は教習所の方に促され、
事務所へと移動した。
 そこでどんなやり取りがあったかは知らない。

 その日以来、その教官の姿を見ることがなくなった。
「あの教官に当たったら、ハズレって評判だったから・・。」
 「きっと、辞めさせられたんだよ。」
「当然さ!、みんな頭にきてたもん。」
 そんな声が、しばしば聞こえてきた。

 まだ新米先生だった私には、
『・・当たったら、ハズレ・・・』の言葉が、
やけに重たく心に響いたのだ。 

 ⑵
 教習所では、運転実習と同時に法令等の講習があった。
確か数時間、1つの教室で講義を聞くだけだった。
 そして、最後は運転免許試験所での筆記試験に備え、
模擬テストを受ける。
 それでよかった。
 
 さほどの難関ではない。
気軽に教室前で、開講時間を待った。

 その廊下の同じ椅子に、
いつも座っている中年の男性がいた。

 「試験に4回も落ちて、またやり直しさ。」
彼は、笑顔で話しかけてきた。
 その時、私はきっと不思議な顔をしたのだろう。

 「運転の実習は苦労しなかったんだ。
でも、小さい頃から勉強が嫌いでさ、
読めない字がいっぱいあるんだ。」
 彼は、あっけらかんとした表情でつけ加えた。

 突然、10歳違いの兄が運転免許に挑戦した時を思い出した。
私が小学生の頃だ。
 兄は教習所の本を読みながら、しきりに国語辞典を開いていた。
「字が読めなくて、時間ばかりかかる」。
 そう言いながら、ため息をついていた。

 「私でよければ、何かお手伝いしましょうか?」
思わず、口から出てしまった。
 「あのさ、ほかの人にも頼んでるんだけど、
読めない字のところを教えてもらっていいかな。
 オレ、すぐふりかな書くから。」

 彼の教本には、一字一字にふりがながあった。
「みんな、ここで教えてもらったんだ。
だいぶ読めるようになったよ。
 仕事で免許、取りたいからさ。
頼むわ。」

 それから、数回、講義までの待ち時間に、
廊下でルビのお手伝いをした。
 彼は、ゴツゴツした指で、漢字にふりがなを書いた。

 ある日、彼が廊下で手招ぎをした。
「模擬試験、受かったよ。
 明日、運転免許試験所へ行ってくる。
もうひと頑張りだよ。
 ありがとう!」。
 彼のはち切れそうな笑顔が、心に残った。




   マイガーデンも とうとう秋 
               ※次回のブログ更新予定は 10月24日(土)
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「いつか酒席」と望みつつ 

2020-10-03 16:19:15 | あの頃
 ▼ 銀座キリンシティのビールが飲みたい。
今どき、あの店の『旬のメニュー』は何だろう。

 今年1月と2月に東京へ行った。
その時は、こんなコロナ禍は想像してなかった。
 だから、次の機会にと立ち寄っていない。

 東京が、GoToトラベルの対象になった。
息子たちにも、孫にも、知人・友人にも逢いたい。
 ついでに、キリンシティにも・・。
しかし、「じゃ!」と腰を上げる気には、
なかなかなれない。

 高齢者は重症化のリスクが高い。
しかも、ここは小さな町だ。
 感染したら、「噂に噂が膨らみ」大変な騒ぎになる。
東京行きのハードルが下がるのは、先の先のようだ。

 それにしても、酒席がない。
年齢とともに、酒量は減った。
 だが、お酒を酌み交わしながらの、
ワイワイガヤガヤが好きだ。

 感染防止策として、マスクと手洗いと共に、
三蜜が強調される。
 だから、家内と2人で外食することはあっても、
3月以降、誰とも飲み会などしていない。
 「寂しい!」。
だが、これまた、1歩を踏み出すにはハードルが高い。

 いつか再び、酒席での楽しい会話を望みながら、
あの時のあの席での、食の会話を思い出し、
今夜の酒のつまみにしようかな・・・。


 ▼ 数年前の初夏だ。
ワンボックスカーをレンタルし、
美瑛のパッチワークロードへ行った。

 宿は富良野の郊外にとった。
男女8人だが、全員酒好きだった。
 夕食は、ゆっくり飲みたいからと、
ホテル近くの居酒屋にした。
 
 2階の広間に案内されたが、
他に客はなく、遠慮なく会話しながらお酒が進んだ。

 しばらくして店員さんが、追加注文を訊きに来た。
お店のお勧めメニューを尋ねた。
 「きょうは、アスパラのいいのがありますよ。」
迷わずそれを頼むことにした。

 「茹でますか。焼きますか。炒めますか。天ぷらにもできます。」
店員さんの問いに、全員が沈黙した。迷った。
 しばらくして、「じゃ、全部、一皿ずつ!」と声が上がった。

 店員さんが2つ返事で退室してから、
話題は、『茹で、焼き、炒め、天ぷら』へ進んだ。
 「どの食べ方が美味しいんだ?」。

 お酒が入ってからの会話だ。
銘々が好き勝手に自分の好みを言った。
 「どの食べ方でもいいじゃないか!」。
「人それぞれだ!」。
 だが、アスパラはどれが一番美味しいのか。
気になった。結果がほしくなった。

 そこで、提案があった。
「4皿を食べ比べて、多数決で決めよう」。
 全員が同意した。

 その後、トイレに立つ者はいたが、
なぜか、静かにアスパラの登場をみんなで待った

 調理法の違う極太のアスパラ4皿が、
同時に運ばれてきた。
 生ビール、日本酒、焼酎のお茶割、ハイボール等々、
それぞれ好みのお酒と一緒に、
4皿のアスパラを順々に、黙って食べた。

 遂に評決の時が来た。
私は迷った。
 炒めが一番と主張していたが、
食べ比べると違った。
 素直に茹での美味しさを認め、
挙手することにした。

 「茹で」が圧勝した。
「でも、焼きも美味しかった!」。
 「焼きよりは、天ぷらだった」。
「オレは、茹でと炒めがきん差だった」。

 その後も、その話題は長々と続いた。
以来、アスパラは茹でたのが一番美味しいと、
思い込んでいる。 


 ▼ 自治会で催し物があると、
その後の懇親会はいつもいろいろな話題が沸騰し、楽しい。

 その2次会の席だった。
10数人で残り物と、誰かが持ち込んだ一升瓶を囲んだ。

 たまたまそのオードブルに、
カニかまがいくつも残っていた。
 それが、引き金になった。
「蟹はなにが美味しいか」。
 そんな話題になった。

 全員、北海道民だ。
松葉ガニやタカアシガニを主張する者はいない。
 毛ガニ派とタラバガニ派に大別された。

 中には、蟹の部位について長々と語り、
『ザブトン』の美味しさのみを主張する者もいた。
 
 私は毛ガニ派だが、
タラバのボリュームと大味さにも惹かれていた。
 好みは二分し、意見は拮抗した。

 そんな時、いつも物静かな方が突然言いだした。
「蟹は、花咲だべ。
あれは美味い。他の蟹は食べる気にならない。」

 実は、店頭で花咲ガニを見たことはある。
だが、値も張り、食べたことがなかった。
 興味がわいた。

 彼は、長らく根室で暮らしていた。
花咲ガニの本場だと言う。
 鮮度抜群のものを食べていたに違いない。

 機会があったら、ご当地に出向き、
食べてみたい。
 彼の一言に、心が動いていた。

 相当、お酒が回っていた。
だから、その後の言葉の信ぴょう性は疑わしいが、
記す。

 「きっと、花咲ガニって美味しいんだろうなあ。
毛ガニやタラバの味に比べ、どこが違うの?」
 彼に向け、尋ねた方がいた。

 彼は即答した。
「他は食べたことないから、わからない。
でも、蟹は花咲きがいい。」

 大いに納得しながら、笑ってしまった。 
嗜好はそれぞれだ。それでいいのだ。
 何だって、比べることに、必ずしも真理はないのだから・・。

 『アッパレ!』




    ホオズキも実る <歴史の杜・野草園>
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