ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

D I A R Y 6月

2024-06-29 11:46:11 | つぶやき
  6月 某日 ①
 家内が所属しているママさんコーラスは、
市内の音楽団体に加入している。
 だから、伊達カルチャーセンターで行われる年1回の
「伊達市民音楽祭」で練習の成果を披露している。

 同じように、隣接する室蘭市の音楽団体にも加入している。
なので、「室蘭市民音楽祭」にも出演する。
 こちらは、毎年6月と10月、年2回開催だ。
会場は、『室ガス文化センター』である。
 この音楽祭が今年も実施されたので、聴きに行ってきた

 家内がママさんコーラスに加えてもらったのは、
伊達に来てすぐである。
 もう10年以上のキャリアになった。

 私は、ステージに立つ彼女たちの名前がほとんどわかるようになった。
それだけに身内のようで、聴いていてもついつい力が入ってしまう。
 無事に歌い終えると、いつも大きく息を吐き安堵するのだ。

 さて、会場の『室ガス文化センター』についてである。
この名称は、2018年4月に室蘭ガス株式会社が命名権を取得した。 
 それまでは『室蘭文化センター』と言った。
私は、今もその呼び方が自然である。

 ここは、1964年に建てられた。
ちょうど最初の東京オリンピックの年であった。
 高校1年だった私は、
大きな新築のこの文化センターには、
窓が1つもないと聞き、驚いた。

 「それじゃ、空気の入れ換えってどうするんだ?」
真顔でクラスメイトに訊いた。
 「知らんよ。なんか仕掛けがあるんだよ」
わずらわしそうな答えに、
「どんな仕掛けなんだ。大丈夫なのかな?!」
どうしても不安を払拭できなかった。

 当時、どこの映画館も、
休憩時間には客席の両側の暗幕と窓を開け、
空気の入れ替えをしていた。
 まだエアコンや空調設備など、
目にしたことも耳にしたこともなかった。
 私には、「不思議な建物」にしか思えなかった。

 初めてこのホールに入ったのは、
建設の翌年だった。
 東京オリンピックの記録映画が完成し、
全校生徒がそろってここで鑑賞した。
 市川崑監督の天然色映画だった。
真っ赤な太陽が昇るところが、強烈なインパクトを私に残した

 その時に、文化センターの外観も内装も2度3度と見て回った。
本当に窓がなかった。
 帰りの道々、
「空気の入れ換えはどうするんだ?」。
 同じようにクラスメイトに尋ねた。
やはり、面倒な顔をされた。

 それから60年が過ぎた。
きっと老朽化は進んでいるのだろう。
 それでもこのホールでは、次々と合唱団がステージに立ち、
コーラスを響かせていた。

 ふと、ある会合の席で、
室ガス文化センター解体に反対する署名用紙が、
回ってきたことを思い出した。
 その用紙に私が名を記すことが、どれだけのものかは不明だ。
でも、色々な経緯があっての解体だろうと思いつつも、
「できることなら、残して欲しい」
そんな願望だけで署名した。

 「その後、解体はどうなったのだろう・・?」
終演と共に会場を背にしながら、
斜陽の町を歩いた。


  6月 某日 ②
 数日前より、朝食前のルーティンが変わった。
例年よりやや早いようだが、
ジューンベリーが実りの時を迎えている。

 なので、私は脚立に上がり、
赤紫色に熟した実を1つ1つ摘み取り始める。

 歩道は、熟れすぎて落ちた実や
小鳥たちが食べ残した実で汚れている。
 家内は、そこの掃除からだ。
その後は、手の届くところの実を、
同じように摘み取っていく。

 まだ朝早い小1時間だが、
何人もの方が私たちの横を通っていく。

 どの人も朝の挨拶は忘れない。
そして、足を止めずに通りすぎながら声をかける人、
立ち止まって二言三言話しかける人、
私たちの様子を見ながらしばらく話し込む人などが・・・。
 話題は、どの人もジューンベリーだ。
いくつかを記してみる。

 「どんな味ですか」
「ちょっと種が大きいけど、甘いですよ。
一粒食べてみませんか」
 ご近所の奥さんは、やや遠慮気味に赤紫色になった一粒を取り、
試食する。
 「あら、お洒落な甘さ!」
「成る程! お洒落な甘さですか」
 「上品な味の甘さです」
「それはそれは、ありがとうございます」
 なぜか、嬉しい気持ちになっていた。

 同世代の見慣れない男性が、私の脚立の横を通った。
ジューンベリーを見上げて、
「おはようございます。いっぱい実りましたね。
楽しみですね」と言う。
 「はい」
私の返事など要らないように続けて、
「いいことです。いいことです」
と、すたすた去って行った。

 どうしてだろう。
脚立の上から私は、摘み取る手を止め、
しばらくその後ろ姿を笑顔で追っていた。

 週に数回は、愛犬と一緒に我が家の前を通る奥さんがいる。
私たちは、犬の名前を覚えた。
 そして、犬は私たちの顔を覚えた。
最近では、私たちを見るとやや急ぎ足で近寄ってくる。
 これにはいささか情がうつってしまった。
次第に可愛くなった。

 それに加え、ジューンベリーの実が大好きなのだ。
歩道に落ちた実を見つけては、ペロペロとなめ始める。
 次々と黙々となめ続けるのだ。

 家内の竹箒での掃除など不要な程、
綺麗にしかも夢中になって食べる。 
 食べ過ぎで、お腹を壊さないかと心配になり、
奥さんに尋ねると、「全然、大丈夫!」と言う。

 今朝も、立ち寄ってくれないだろうかと、
犬と奥さんが現れるを心待ちしていた。


 

    ジューンベリーの実がたわわに   
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あの頃の給食事情

2024-06-15 19:00:27 | あの頃
 ▼ 家内と一緒のゴルフは、
いつも、地元・伊達カントリーの午後スタートである。
 18ホールを一気に回ると、
スコアーの善し悪しに関わらず、
年々、疲労感が強くなってきた。

 だから、帰宅後は2人とも、
テレビの前に座り動こうとしない。
 夕飯は、スーパーの弁当や外食が、
ここ1、2年の定番になった。

 先日も、ハンバーグレストランへ行った。
若年層に人気のお店であるが、
この店の味が好きになり、年に数回は行くようになった。

 席に着くとすぐに、
店員さんから期間限定メニューの紹介があった。
 最近聞き慣れてきた『ディッシュ』だった。

 きっとボリュームがあるだろうと思いつつ、
美味しそうな写真に引かれて、注文した。

 運ばれてきたのは、1枚の平たくて深い皿に、
写真通りハンバーグともう一品、
それにライスと野菜が載っていた。

 案の定、食べ応えのある量に驚きながらも、
時間をかけて、箸を動かした。

 くり返しになるが、『ディッシュ』で使う食器は、
1枚の皿だけである。
 ふと、食事後の食器洗いは皿1枚と箸1膳で済む。
安価で料理を提供したいお店にとっては、
人件費削減を考えるとこれは最適なメニューではなかろうか。

 そんなことに想いを巡らせながら、
ついついあの頃の給食事情を思い出していた。

 ▼ 今もそうだろうが、都内23区の小中学校は、
それぞれの学校の給食室で調理をして提供する自校給食であった。
 ところが、教頭として赴任したK区の某小学校には、
栄養士が配属されてなかった。
 
 区教委から届いたその月の献立表を基に、
学校行事に合わせてアレンジした独自の献立を作成するのも、
その食材を発注するのも、調理の手順を決めるのも、
業者への支払いも、
給食担当の先生と調理員さんで手分けして行っていた。
 教頭の私は、そのまとめ役だった。

 担任の頃は、子ども達と一緒に配膳をし、
楽しい雰囲気の中で、残さず時間内に食べさせることが役目だった。
 それとは異なる経験のない仕事であった。

 ▼ 毎週、給食担当の先生と調理員さんに、
私も加わり、打ち合わせ会を行った。
 次週の発注から調理手順まで、細部にわたって話し合った。

 その場で、度々押し問答になることがあった。
それは、その日その日の食器の種類だった。

 用意する食器は、献立によって異なるはずだ。
でも、調理員さんからは、
「1人2種類までの食器にしてほしい」
と、いつも要望したのだ。
 
 「この献立は、食器を3つにして食べさせたい」
給食担当の先生が主張する。

 「食器2つと3つでは、食器を揃えて運ぶのも食器洗いも、
作業量が全然違います。
 度々は、無理です。
今週の野菜炒めは、使い捨てアルミ皿で出しましょう」

 「使い捨てにすると、それ分だけ給食費を使うことになります。
献立にも影響します。
 決していいことではありません」

 険悪な雰囲気で話し合いはしばらく続く。
そして結論は、次の3つのいずれかに決まる。
 ・本来は3つの食器のところを、何とか2つで盛る
 ・1つの食器を使い捨て皿にする
 ・調理さんに頑張ってもらって3つの食器に盛る。

 そして、いつも最後は誰かがつぶやく。
「調理員さんがもう1人いれば、
いつだってできることなのに」と。

 ▼ K区で教頭を6年経験した後、
S区に校長として着任した。
 そこでは、給食調理の民間委託が進んでいた。

 それまで、調理員は学校規模によって若干違ったが、
小学校も中学校も1校4、5名の区職員だった。

 ところが、民間委託になると調理員の人数にも違いがあった。
献立の変化に応じて、民託の会社からヘルプの調理員が、
派遣される仕組みになっていた。
 フルタイムで1、2名増員が日常的にあった。

 教頭として頭を痛めた食器数の問題も、
2種類から3種類になる日は、
会社が、午前中だけ勤務のパートさんを、
時間延長で対応したりしてくれた。
 
 そればかりではなかった。
4,5名に固定されていた調理員では、
決してできなかった給食が、2つ可能になったのだ。

 その1つは、月に1,2回の『セレクト給食』である。
その給食の1週間くらい前に、
各学級で担任から口頭でのアンケート調査がある。 

 例えば、 
「来週の木曜日は、セレクト給食です。
 焼きそばとナポリタンのどちらがいいですか」
担任の問いに、子ども達は挙手で答える。

 セレクト給食の日、挙手した子供の人数分の給食が教室に届くのだ。
誰もが同じ献立ではなく、食べたい方の給食なのである。

 この日の給食室は、完全に2種類の違う献立を作ることになる。
当然、人手も大きく必要になる。
 会社は、それに応じてその日だけの調理員を派遣してくれた。
民間委託だからできることだった。

 もう1つは、私が最後に勤務した小学校で実施していた給食である。
年に1回だけ、しかも5年生と6年生だけ限定の『バイキング給食』だった。

 これには、1学年全員で使える広いランチルームが必要だった。
その部屋に、多彩なメニューが用意される。
 5年生と6年生が日にちをかえての、
バイキング方式での給食だった。
 お盆と取り皿を持ち、
思い思いの好みで好きなだけ取ればいいのである。
 そして、好きな量だけ食べることができた。

 この日、『バイキング給食』でない学年は、
通常の給食であった。
 だから、給食室は他学年の給食と同時にバイキング用も作った。  
それに応じて調理人員を派遣できる民間委託ならではの給食である。

 さて、今はどうなっているのだろう。
伊達市内はセンター方式の給食である。
 これまた、おもむきが違うことだろう。  
 



    花 盛 り 街路樹のヤマボウシ
※次回のブログ更新予定は 6月29日(土)です 
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いつか その時

2024-06-08 11:21:00 | 思い
 ▼ 『終活』!
好きになれない言葉だ。
 でも、どんな生命も必ずピリオドを印す。

 「私達も、いつかは死ぬのよね。
後何年こうしていられるのかしら」
 どんな話から、そんな言葉が家内から飛び出したか、
思い出せない。
 私は言葉に詰まり、曖昧な返答をした気がする。

 「後何年生きていられるのか」
それを思うと、好き嫌いなどではない。
 そろそろ『終活』と正面から向き合わなければ・・・・・。

 さて、1つだけ決めたことがある。
さほどのことではない。
 「終活もどき」のことで、笑ってしまう始末だが。
 
 4月からNHKのテレビ番組に、
5年ぶりに復活したものがあった。
 『新・プロジェクトX』だ。

 番組の初めに、
中島みゆきの『地上の星』が流れ、
その曲を時折交えながら、
名だたる者とは言えないが、ある分野で奮闘した人々を、
ドキメント風に紹介していくものだ。

 そして、決まってエンディングは、
これまた中島みゆきで、『ヘッドライトテールライト』が流れ、
それを聞きながら、45分間の番組は終わる。

 5年前も好きな番組だったので、
期待しながら先日も観た。

 震災で壊滅状態になった三陸鉄道の復活に、
奮闘した方々を取り上げていた。
 その献身的な姿に、度々胸が熱くなった。

 そして、やはり番組の終わりは、
いつものように『ヘッドライトテールライト』だった。
 じっと、歌詞を噛みしめながら聴いた。

  語り継ぐ人もなく
  吹きすさぶ風の中へ
  紛れ散らばる星の名は
  忘れられても
   ヘッドライトテールライト 旅はまだ終わらない
   ヘッドライトテールライト 旅はまだ終わらない
  足跡は降る雨と
  降る時の中へ消えて
  称える歌は
  英雄のためと過ぎても
   ヘッドライトテールライト 旅はまだ終わらない
   ヘッドライトテールライト 旅はまだ終わらない
  行く先を照らすのは
  まだ咲かぬ見果てぬ夢
  遙か後ろを照らすのは
  あどけない夢
   ヘッドライトテールライト 旅はまだ終わらない
   ヘッドライトテールライト 旅はまだ終わらない 

 エンディング曲を最後まで聴き終えてから、
思いつきのように突然、
一緒に観ていた家内につぶやいた。

 「オレの出棺の時は、この曲を流してほしい」
当然、家内は何も言わなかった。

 その気持ちを察することもなく私は、
「・・忘れられてもいい、・・英雄たちのためと過ぎてもいい。
 でも、旅はまだ終わらない。
きっとそんな想いで、私は旅立つに違いない」
 強くそう思いながら、気づくと寂しさだけになっていた。

 
 ▼ 昨年4月、コロナで中止となっていた
自治会の親睦行事『観桜会』(お花見会)が、4年ぶりに行われた。
 あいにくの雨天で、会館内での飲食となった。

 その席にMさんがいた。
以前は、奥様と一緒に参加していたので、
「今日は、お1人ですか」と声をかけた。
 「はい、体調が悪く今日は私1人で、参加させてもいました」 
いつ声をかけても、丁寧に対応してくださる方だった。 
 
 そして8月、今度は盆踊りを兼ねた『夏祭り』があった。
参加者名簿に、Mさん夫妻の名があった。
 「お元気になられ、参加されるのだ」と、心待ちした。

 ところが、受付に現れたのはMさん1人だけ。
「奥様の名前もありましたので、
 てっきりお2人でとお待ちしていましたが・・」
声をかけてみた。

 「はい、そのつもりで楽しみにしてたのですが、
無理なようです。
 焼き鳥と焼きそばを頂いて、家で一緒に食べることにします」
精気のないMさんの表情が気になった。

 以来、Mさんにはお会いする機会もなく、
今年度を迎えた。

 毎日、いの一番に朝刊のお悔やみ欄に目を通す。
ある朝、そこにMさんの奥さんの名前があった。

 朝食を済ませたら、ご自宅をお訪ねし、
お悔やみをお伝えしようと思っていた矢先だった。
 電話が鳴った。

 Mさんからだった。
「自治会への連絡が遅れてしまいました」と切り出し、
丁寧な言葉遣いで、奥様の逝去を伝えてくださった。
 電話を頂いたことを恐縮しながら、
お悔やみを述べ電話を切った。

 その夜、自治会からの香典を持って通夜へ出向いた。
コロナ禍と同様の葬儀で、通夜前に焼香を済ませて私は退席した。
 Mさんとお会いできなかった。

 そして、2日後の午後、Mさんから再び電話があった。
焼香のお礼と葬儀が全て終了した旨の連絡だった。
 その声には、先日よりさらに力がなかった。

 最後に、その声のまま
「妻に先立れ、私1人になりました。
 でも、これからもここで暮らします。
皆さんにはお世話になると思います。
 よろしくお願いします」
 
 返す言葉に詰まったが、
「お力落としのことを思います。
 私たちにできるでしたら、何でもさせてもらいます。
遠慮なく、ご連絡ください」。
 「はい、分かりました。
ありがとうございます。
 ありがとうございます」。

 受話器を置いても、
「妻に先立れ、私1人になりました。
 でも、これからもここで暮らします」が、
いつまでも、今も、脳裏から離れない。




    い た る 処  ア ヤ メ
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D I A R Y 5月

2024-06-01 16:56:08 | 北の湘南・伊達
  5月 某日 ①
 庭のシンボルツリー・ジューンベリーが、
満開になったのは、連休の最中だった。
 1週間も経たない内に、
愛車の屋根やフロントガラスに白い花びらが降った。
 その後は、柔らかな新緑で枝先まで被われている。

 ご近所の庭には、赤いシャクナゲが咲き、
色とりどりの芝桜が日差しを受けて鮮やか。
 今年も、つい散歩の足が止まってしまった。

 中旬になると、自宅横の『嘉右衛門坂通り』は、
真っ白なツツジが沿道に連なる。
 目を奪われないように気をつけながら、
毎年ハンドルを握る。

 それも、薄茶に変色し、
今は、その道の街路樹に寄り添うように、
6月のルピナスやアヤメの蕾が膨らみ、
開花の時を迎えている。

 こうして、時を止めず季節は確実に移り行く。
「バラも間もなく香るだろう」
 そう想うだけで、また気持ちが弾む。
 
 だが、先週、歴史の杜公園の野草園に、
「恋の花」と歌われた黒百合が、咲き乱れていた。
 一気に咲いた黒色の花に、癒やされるどころか、
不気味さを感じたのは,私だけだろうか。
 どうしても、この花は馴染めない。

 
 5月 某日 ②
 昨年11月下旬に、大きな手術をした姉が、
連休前に一事帰宅した。
 そして先日、再び横浜の娘の所へと戻っていった。

 しばらく術後の経過を見てから、
もう1度手術が必要かどうかを判断するのだとか・・。
 80歳を過ぎた高齢者であるが、
まだまだ長生きしたいとチャレンジしたこと。
 無事、健康を取り戻すよう、願うばかりである。

 さて、再度新千歳空港まで送る道々、
姉と交わした会話が心に残った。

 半年間、横浜暮らしを体験し、その感想を姉は口にした。
「年寄りにとっては、田舎暮らしより、
都会暮らしのほうがいいと、私は思ったわ」。
 「へえぇ! 意外だなあ。
どうして、そう思ったの?」

 「だって、こっちにいたら、
月に1回の病院通いだって、
バスの本数が少ないから、1日がかりでしょう。
 何か欲しい物があって、買い物をと思っても、
店は少ないし遠いしで、なかなか手に入らないでしょう。
 だから、できないことが多いよね。
本当に、不便! こっちは!
 でも、都会はサッと出かけられて、
簡単に病院へも買い物にも行ける。
 便利で快適だとつくづく思ったの」

 姉は明るく、一気に言い切った。
確かに、利便性で言うと姉の主張通りである。
 異論はない。
だが、私は言った。

 「それは、ある程度財源が
豊かな人だから言えることじゃないか。
 年金だけで暮らす人にとっては、
都会暮らしは辛いもののようだよ」。

 姉は、無言だった。
私は続けた。 
 「退職した映画好きの先生の話だけど、
なかなか映画も見れなくなったって・・・。
 だって、確かに映画館はシニア料金だけど、
駅まで車で行っても駐車料金は取られワ。
 都心まで往復すると電車賃も安くないワ。
それに昼食まで考えたら、大変な出費になるって」。

 「確かに、そうかも・・。
でもね、運転のできない私は、
ここに居たら、目の前のコンビニだけの生活よ。
 車があって、運転してどこにでも行ける人は、
まだ違うのかも・・。
 ここでは何もできないわよ」
姉の想いは確かに否定できない。
 
 今、私は多少不便さを感じながらも、
車がある。
 運転ができる。
都会暮らしよりずっといいと思っているが・・・。
 さて、これから先の正解は、
・・・・分からない。

  5月 某日 ③
 昨年度、自治会長を受けると同時に、
某協議会の副会長になった。
 今年度は、その協議会の役員改選期であった。  

 どこの組織も同じで役員の引き受け手がいない。
会長が私を訪ねてきた。
 「会長をやってほしい」と言う。

 お断りするには、
「引き続き副会長ならできます」
と、言うしかなかった。

 そして、今後も同じ会長、副会長、事務局長の体制となった。
そこで、今年度初の三役会議を行った。

 検討事項が終った後、
多少時間があったので、初めて3人で雑談になった。

 まず会長の年齢を聞いて驚いた。
彼は今年89歳になると言う。
 自治会長は15年も務めているとか・・。

 続いて、事務局長のNさんにもビックリ。
私とさほど変わらない年齢だが、
会長と同じ自治会で、
これまた15年も総務として会長を支えていると言う。

 「誰も引き受け手がなく、
気がつくとこんなにも長くなってしまったよ」
 2人は口を揃えてそう言う。

 そして、
「私もNさんも、病気もちだけども、
頼られているうちはと思ってね」と。

 私は、わずか自治会長2年目のひよっこだと思った。
2人の前で、「大変な役を受けてしまって・・」などと、
軽々しく言えない。
 それよりも、 1つとしてぼやくことなく、
淡々と今を語る2人。
 見習いたいと思った。
 

  

 庭の『ブルースター』 ~例年に増して華やか 
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