ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

ああ 賞味期限切れ

2022-03-26 12:32:23 | 思い
  その1

 現職だったころのことだ。
赴任した区には、小学生の宿泊施設がT県にあった。
 そこは、閑静な山村で、
峠道は小型車しか通れないような山深いところだった。

 大都会の子ども達が2泊3日の体験学習をするには、
最適な場所と言ってもよかった。

 そこでハイキングや、川をせき止めての魚つかみ、
うどん打ちにコンニャク作りなどをした。
 すべてが静かな時間の中だった。

 3日目の最後は、家族などへお土産を買う計画だ。 
ところが、渓流釣りを相手にした店が2軒あるだけで、
7,80人の子どもが一斉に土産物を買うような店はなかった。
 そこで、毎年、2軒の店が宿泊施設内で臨時の土産物店を開いてくれた。

 子供らは、1000円の現金を握り、
思い思いのお土産を小1時間かけて買い求めた。
 それをリュックにつめ、帰宅の途に着くのである。

 ある年、トラブルが起きた。
帰宅した子が、家族のために買った箱詰めのお菓子が、
賞味期限切れのものだった。

 それに気づいた母親は迷った末に、宿泊施設に電話した。
施設は、土産物店を出した地元店の電話番号を教えた。
 仕方なくそこへ電話し,
お菓子の賞味期限が過ぎていることを伝えた。

 お母さんは、お詫びと共に、
「今後は気をつけます」のひと言を期待していた。

 ところが、電話口の店主は、サラリと言った。
「賞味期限が切れていても、大丈夫だと思いますよ」。
 お母さんには返す言葉がなかった。

 「山村での不自由な生活では、賞味期限に寛大なのだろう」。
そう思いつつもお母さんは、
「放って置いてはいけない!」と、
そこまでの経過を教育委員会に伝えた。
 教育委員会は顔色を失った。

 施設を通して、地元の店に改善を求めた。
後日、地元店主は手土産を持って、
わざわざ東京のお母さん宅へ謝罪に出向いた。

 「こんな大ごとになるなんて!」。
店主の後ろ姿を見ながら、母親はそう思った。


  その2

 前頭葉の老化により感情の抑制ができなくなっていくと、
聞いたことがある。
 まだまだ先のことと思いつつも、
『つまづかない』『ボケない』に加え『キレない』を、
心がけるようにしている。
 
 さて、つい最近のことだ。
昼食で、家内がラーメンを出してくれた。
 生麺もスープも有名ラーメン店が出している市販のもので、
好きな味だった。
 
 「食べている途中だけど、このチャーシューね、
さっき買ってきたのに、4日前が賞味期限だったの!
 買うときには全然気づかなくて・・。
ラーメンにのせてから分かったの。
 それでも、いいでしょう・・」。

 この頃、賞味期限切れを食べることに、抵抗感が薄れてきた。
だから、そのチャーシューを食べることは不快でなかった。

 だが、4日も前に期限が過ぎているものを売っている店には、
若干の不信が芽生えた。
 それよりも、そんな食品を売り続けてはいけないと思った。

 「賞味期限切れに気づかないで買った私も悪いんだから・・」。
家内のそんな声を聞きながらだったが、
当地では数少ない大型スーパーへ電話をした。
 当然、軽い忠告のつもり。
『キレる』心配など全くしていなかった。 

 受話器に、若い女性の声が出た。
私は、穏やかな声でゆっくりと言った。
 相手に不快な思いをさせないよう、
私なりの気遣いだ。

 「忙しいところすみませんが、苦情の電話をしました」。
てっきり苦情を担当する係がいて、その方に変わってから、
対応するものと思っていた。
 ところが、その女性は早口ですぐに言った。
「ハイ、何でしょうか?」

 驚きながら、それでもゆっくりと話した。
「実は、今日午前中ですが、そちらの店で買った焼き豚が、
4日も前が賞味期限だったんです」。
 女性は、間髪を入れずに言った。
「そうですか。すみませんでした!」。

 私は、次の言葉を待った。
きっと買った品物の詳しいことについて、
問いかけがあるだろうと予想していた。
 しばらく間があった。
無言の時間が、流れた。

 仕方なく、半信半疑のまま、ややきつい声で訊いた。
「それだけですか?」。
 すぐに答えが返ってきた。
「ハイ!」。

 もう、何も言えなかった。
再び、無言の時が流れた。
 そして、受話器を置く音が聞こえた。

 しばらくして、男性の声に変わった。
「賞味期限が過ぎた物をお売りしたようで、
申し訳ありませんでした。
 今後、気をつけてまいります」。

 「こんなときは、期限切れの品物は何か、
期限がいつになっているかなどを、
お訊きにならないのですか」。
 穏やかに尋ねてみた。

 「先の者が、お聞きしたものと思っておりました」。
「私が賞味期限の過ぎた焼き豚を買ったと言ったら、
そうですか、すみませんと、答えただけです」。
 「そうでしたか。もう一度、教育をしておきます。
それから、お買い求めの品は交換させてもらいます」。

 もう私の沸点は近かった。
「それは結構です。P社製造の焼き豚です。
他に期限切れがないか調べて、売るのはやめてはいかがですか。」
 その返事を聞かずに、静かに受話器を置いた。

 『たかが賞味期限 されど賞味期限』
と、粋がって電話してみたものの、
見事な返り討ちにあった気分だ。
 こんな電話はいつものことなのだろう。
もう手も足も出ない。
 「完敗だ!」。




      まもなく 終演!
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もうすぐ春・・だが・・

2022-03-19 10:37:16 | 思い
 ▼ ずいぶんと日の出が早くなった。
その明るさに誘われて、久しぶりに早朝の散歩を楽しんだ。

 伊達で、10回目の冬を越える日が近づいてきたが、
こんな大雪の冬は初めてだ。
 この時季、いつもなら畑から地面が顔を出しているが、
まだ一面を雪が覆っている。
 でも、散歩する歩道は、大方雪が解けた。

 そろそろランニングも、
体育館のランニングコースとサヨウナラ。
 沿道の草花や畑の作付けを見たり、
小鳥の鳴き声を聴いたりしながら、
わずかだが風を切る時間が始まる。
 今年も元気で走れそう。
ワクワクしてきた。

 なのに、春とは真逆なことで心が重い。

 ▼ コロナ禍で、職種によってはテレワークが定着してきたようだ。
次男の仕事ももっぱらテレワークで、出社は週1,2回でいいらしい。

 想像もつかない私は、
「そんな仕事の仕方で大丈夫なの?」と、
不安げに尋ねた。

 「やってみると、ずっとずっと効率がいいし、
毎日、電車に乗って出勤する必然は、元々なかったことに気づいたよ。
 どうしても、会って打ち合わせが必要な場合は、
相手が出社する日が分かってるから、その日にこっちも行けば済むんだ」。

 「でも、仕事って、みんなでワイワイガヤガヤとやるところがなくちゃ、
楽しくないだろう」。
「当然そんな時も必要だけど、それは時々あれはいいんだよ。
その他は全て、テレワークでできるんだ」。
 
 理解できそうだが、なかなかイメージできない。
しかし、次男は週1の出勤を念頭に、
自宅を都心から離れた郊外の一戸建てに住み替える計画を練っていたようだ。

 そこで、電話がきた。
その計画を報告しながら、一番気になっているが、
一番聞きにくい本題を、さり気なく切り出した。

 「あのさ、まだまだ先とは思うけど、
この先、2人はどうするつもりでいるの。」

 「最後まで、伊達にいるつもりだよ。」

 「だけど、いつになるかわからないけど、
僕らがそっちへ行くわけには・・・。」

 「ああ、その心配なら、要らないよ。
大丈夫、なんとかするから・・・。
 だから、あなたたちは貴方たちのプランで、
転居を考えれはいいんだよ・・」。

 その後、次男は「じゃ、そうするけど、いいんだね」と、
念を押し電話を切った。

 私の返答に一片の迷いもなかった。
いつ訊かれても変わりはない。

 しかし、我が子から初めて問われた内容が、
いつまでも心に残った。
 「足下に、ヒタヒタと迫っている時間がある!」。
季節はもうすぐ春・・だが、沈みそう。

 ▼ 私の朝は、いつも朝日新聞「折々のことば」に、
目を通すことから始まる。
 18日、執筆者・鷲田清一さんのこの小欄は、
ウクライナ侵攻の惨状を、思い起こさせるものだった。
 『誰が誰の敵かと言っている場合か』の一文が、
心に刺さった。
 転記する。

   *     *     *     *
    
 誰が誰の敵なのですか
 私たちはみな不死ではないのに
 生きていてほしいんです
               谷川俊太郎
  誰が誰の敵かと言っている場合か。命は
 露のように儚い。だから生きていて、兵士
 も「兵士の靴が知らずに踏みつけた蟻」
 も。その痛切な願いにさえも塩を擦りつけ
 る戦争。詩「願い 一少女のプラカード」
 から。テレビには今日も、とっさに横の老
 人をおぶって駆ける人たち、幼児や犬を抱
 きかかえて逃げまどう人びとの像が映る。

   *     *     *     *

 同じ朝、テレビは、軍事侵攻が間近と言われる首都キエフで、
今もなお幼子3人と暮らす若い母親の現状を伝えていた。
 恐怖の中、集合住宅の一角でインタビューに応じたその女性は淡々と。
「私は、ここに居ます。
 どんな時だって、悪い人からここを守るのは私です」。

 それを聞いたニュースキャスターは、
複雑な表情で、
 「もし私なら・・、どうだろう・・・。
日本が大好きですから・・、
同じように守りたいと思う・・・」と。

 その後も、テレビは途切れなくウクライナの悲惨な現状を、
映し出していた。
 私はコーヒーカップ片手に、
眉を寄せながらそれを見続けた。
 もう、それが日常に!    

 登場した専門家は、私の願いとは裏腹に、
「停戦に向けて打つ手はありません。
それよりもますます拡大することになると考えます」
と言う。
 でも、あのキャスターに伝えたい。
「性急に何かを導き出すのは止そう・・」と。

 それよりも、もうすぐ春・・だが、浮かれない。
無力な私。
 でも、目を背けずに、今起きている現実を、
まっすぐに精一杯見続ける勇気を持ちたい。
 春野菜入りのペペロンチーニを食べながらでもいい。
辛く切ない、悲惨な現実の1つ1つを、
胸にしっかりと刻みたい。
 理不尽への膨らむ怒りを忘れずに過ごしたい。

 そして、「ウクライナとの連帯として、
今日は、ネクタイを黄色と青のものにした。」
と言う長男のように・・。
 それを知り、「私も」と、
早速、黄色と空色のTシャツを重ね着する家内のように・・。
 募金箱があったら、何度でもワンコインを取り出し、
協力は惜しまない私でいたい。

 そうした連帯が、いつか必ず実を結ぶ時が来ると、
固く信じる。




     早春の 空もよう
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洞爺湖は すぐそこ !

2022-03-12 13:04:09 | 北の大地
 春を思わせる陽気が続いた。
まん延防止期間中だが、
「どこかへドライブにでも!」。
 そんな気になった。
遠出を控え、洞爺湖まで車を走らせた。

 自宅から緩い上り坂を少し行くと、道道「滝の町・伊達線」に出る。
そこから「伊達トンネル」と「北の湘南橋」を過ぎると、
正面に有珠山、右手に昭和新山が見える。
 上り坂にさしかかると、
徐々に昭和新山が大きくなり、やがてその横を通過する。
 そこが峠の頂点だ。
その後、若干曲がりくねった急坂を下ると、
青一色の洞爺湖全景が、一気に現れる。

 ここまでわずか15分。
「洞爺湖は、すぐそこ!」を実感する。

 車を走らせながら、ここが景勝地であることを再認識しつつ、
何故か、ふと昔と今に想いを馳せる。


  ① ここに熱帯植物園が・・

 2,3年前になるだろうか、昭和新山の麓から、
有珠山ロープウエイに乗った。
 その頂上駅からは、洞爺湖、有珠山の噴火跡、
周辺山々の絶景などが堪能できた。

 小1時間程で、下りのゴンドラに乗る。
間もなく下の駅へ到着する時だ。
 おみやげ店などに隠れていて、
地上からは見えない廃屋が数棟、眼下にあった。
 そこに、おぼろ気であやふやだった熱帯植物園の痕跡を見た。
「やっぱり、ここに熱帯植物園があったんだ!」。

 確か小学5年の見学だったと思う。
昭和新山の説明を聞いた後、そばにあった熱帯植物園に行った。
 そこは、昭和新山の地熱を利用した温室だと聞いた。

 言われるままに一列になって、
見たことのない樹木を見て回った。
 動かない草木に興味などなかった。

 なのに、目に止まり、心に焼き付いたものが2つあった。
1つは、バナナの木だ。
 当時、高級品だったバナナは、
運動会の校庭で広げるお弁当でしか食べられなかった。
 私は、それさえ叶わず、その味を知らなかった。

 そのバナナが大きな木になっていたのだ。
木は4、5本あり、その全てに房になったバナナが幾つもあった。
 私だけでなく、どの子の足もそこで止まった。
あのバナナが、木に実っていることが不思議でならなかった。

 もう1つは、パイナップルだ。
パイナップルは缶詰でした見たことがなかった。
 でも、そのラベルからパイナップルの外形は知っていた。

 温室を進んでいくと、
案内表示がパイナップルとなった。
 急に興味がわいた。
「バナナのように大きな木になっているに違いない」。

 ところが、地面から出ていた太い茎と葉の上に、
缶のラベルと同じ色と形が、ズッシリと乗っかっていた。
 私の驚きは、尋常ではなかった。
 
 帰宅してすぐ、2つの驚きを家族に話した。
バナナにもパイナップルにも、みんな無関心だった。
 なのに、洞爺湖の遊覧船や湖中にある中島のことを訊き返してきた。
それには、全然答えられない私だった。


  ② めざせ! 洞爺湖

 中学3年の時、一気に仲良し5人組ができた。
その5人とは、高校を卒業するまで色んな所へ出かけた。
 夏は、テントを背負ってキャンプへ。
冬は、寂れた温泉宿に泊まり、スキーへ。

 その5人で初めて計画し実行したのが、
洞爺湖へのサイクリングだった。

 私たちが暮らしていた室蘭市中島町から洞爺湖まで、
自転車でどれくらいかかったのか、覚えがない。
 確か・・、日帰りだった気がする。

 どんな自転車で行ったのかも覚えがない。
5人のうち、私ともう1人は、
自転車屋さんからその日だけ貸してもらったのを、
使ったことだけは間違いない。

 夏休みが始まってすぐ、快晴の日だった。
サイクリングは初めての経験で、
5人にとってそれは、冒険旅行のようだった。

 5台の自転車が1列になって、
国道37号線の道路脇を走った。
 きっと伊達も通ったはずだが、町並みなどは記憶にない。
ただペダルをこぎ続けて疲れた体に、
行く先々での海風が柔らかく、心地よかった。

 当時は『虻田』と呼んでいたが、
洞爺湖町に着くまでは、さほど起伏がなかった。
 ところが、そこから国道を右折すると上り坂が険しくなった。
5人とも途中で音を上げ、自転車を降り、押して峠を目指した。

 峠越えから下りになって、すぐだったと思う。
眼下に洞爺湖が広がった。
 近くの道路脇に展望台のようなところがあった。
そろって自転車を止め、一斉に洞爺湖に駆け寄った。

 誰も言葉が出なかった。
青空が、そのまま湖面になっていた。
 中島のこんもりとした山が、
緑色のままツヤツヤしていた。
 周辺の山々だけが、じっと息を潜めていた。

 長い長いサイクリングの末に見た洞爺湖の思い出は、
そこまでしかない。
 その後、湖畔で何をしたのか。
どうやって帰路に着いたのか。
 曖昧である。

 ただ、5人で見た洞爺湖のあの美しさは、
ずっと色あせることなく、今も忘れていない。


  ③ とうや湖ぐるっと彫刻公園

 洞爺湖温泉街からはずっと離れた東側に、
小さな日帰り温泉『来夢人(キムンド)』がある。
 5年以上も前になるが、タオルとシャンプーを持参して、
その源泉掛け流しの温泉に行ってみた。

 湯船は小さいが、湯量は豊富だった。
泉質は体の芯まで温めてくれ、湯上がりは最高だった。

 その心地よさのまま、外に出て『来夢人』の周りを散策した。
確かに洞爺八景の1つと言われるように、綺麗な眺めだった。
 そこに、自然と調和するように、4つの彫刻があった。

 後日、知ったが、4つとも1993年に設置されたもので、
『春~風光る』(熊谷紀子・作)、『夏~渚へ』(神田比呂子・作)、
『秋~終日』(秋山知子・作)、『冬~星降る夜』(小野寺紀子・作)という人物の像だった。

 湖畔の白樺林を背景に、たたずむ4つの彫刻が、
初秋の光を受けていた。
 しばらく時を止め、それを見ていた。

 温泉の温もりも手伝っていただろうが、
心を耕し豊かにする素敵な時間が静かに過ぎた。

 それが、洞爺湖の周りにある彫刻を知る
切っ掛けになった。

 80年代、90年代に設置されたようだ。
『とうや湖ぐるっと彫刻公園』と言われ、
58基の彫刻などのアート作品が、
周囲40数キロの湖畔に置かれている。

 まだ、その全てを見ていない。
でも、いくつかを知り、
人と自然が織りなすその様を見る度にいつも、
私は活気づくのだ。

 特に、真夏の大空と洞爺湖を背にした
『漣舞ーリップル・ダンス』(関正司・作)と、
雪の中島を借景にした『波遊』(折原久左エ門・作)がいい。


 

      春 みーつけた!
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「みんなの正しさ」からはみ出しても

2022-03-05 12:21:12 | 思い
 ▼ 重松清・著『きみの町で』(朝日出版社)の最初の章にある
「よいこととわるいことって、なに?」の書き出しを転記する。

   *     *     *     *

 カズオは電車の中にいる。
ロングシートの席に座って、さっきから胸をドキドキさせて。

 目の前に、2人のあばあさんが立っている。

 席をゆずらなくちゃーーー。
でも、カズオが立ち上がっても、シートには1人分のスペースしか空かない。
 あばあさん2人のうち、座れるのは1人だけだ。

 歳をとっているほうのあばあさんに声をかけようか。
だけど、若く見えるあばあさんは大きな荷物を持っている。
 遠くの駅まで乗るほうに座ってもらおうと思っても、行き先なんてわからない。
2人で話し合って決めればいい?
 そんなの、どうやってお願いすればいいんだろう・・・。

 あばあさんはたちは、怒っているかもしれない。
それとも悲しんでいるのだろうか。
 カズオは2人と目を合わせるのが怖くて、うつむいてしまう。
それだけでは足りずに、目もつぶった。
 座れるおばあさんと座れないおばあさんを分けてしまうのはよくないんだ、
自分にいい聞かせた。
 そんなの不公平だもの。
座れないおばあさんがかわいそうだもの。
 だったら2人とも座れないほうがすっきりする・・・はずだ。

 電車は走る。
ガタンゴトンと揺れながら、走る。
 まわりのひとは、カズオのことを「やさしくない子ども」だと思っているかもしれない。
ほんとうは違うのに。
 おばあさんが1人だけなら、すぐに席をゆずってあげたいのに。
カズオは胸をドキドキさせたまま、だたじっと目をつぶって、眠ったふりをする。

   *     *     *     *
 
 この章では、カズオに続いて、
車内のロングシートに座るタケシ、ヒナコ、サユリが登場し、
それぞれ類似したエピソードを語る。
 そして、筆者はこうまとめを記す。

 【 ぼくたちは、みんな、電車の中にいる。
「世の中」という名前の電車に乗り合わせた乗客だ、ぼくたちは誰もが。

 座っているひともいる。
立っているひともいる。
 重い荷物を提げているひともいれば、身軽なひともいる。
「わたしの正しさ」は、乗っているひとの数だけある。
 でも、それは必ずしも「ほかのひとの正しさ」とは一致しない。
なんとなく決まっている「みんなの正しさ」(それを「常識」と呼ぶ)から、
「それぞれの正しさ」がはみ出してしまうことだって、ある。 】

 ▼ 米ロの首脳の言動を耳にしながら、
「まさか。そんなことにはならないだろう!」と。
私の想いは稚拙だった。

 ロシアが隣国ウクライナに侵攻した。
ウクライナ国内で、戦渦がどんどん拡大している。
 毎日、その映像を見ながら、私の思考は混乱し続けている。

 21世紀は、グローバル社会になった。
国家によって、政治体制や制度設計の方法は違っても、
共存共栄こそが、今後人類が進むべき道だと、
誰もが気づき、承知していたはず。
 私は、そう理解し信じ、よりどころにしてきた。

 電車の席を弱者にゆずるのは、「みんなの正しさ」(常識)だ。
同様に、人類は共存共栄の道を進むのが、
「みんなの正しさ」(常識)だったはずだ。

 確かに、重松さんが言うように、
「それぞれの正しさ」が「みんなの正しさ」から、
はみ出してしまうことだってある。
 そう、カズオのように。

 その時、シートに座り続け、席をゆずらなかったカズオは、
『胸をドキドキさせたまま、ただじっと目をつぶって、眠ったふり』をした。

 同じように席をゆずらなかったタケシは、
『くちびるを噛みしめたまま、本を読み始めた』。

 ヒナコは、『降りる駅はまだずっと先だったが、
次の駅で降りよう、と決めた』。

 どんな「正しさ」をもって、
ロシアが「みんなの正しさ」からはみ出したのか、
今日までの私には、十分な理解ができていない。

 分かったのは、
共存共栄の道を進むことからはみ出したロシアがとった行動が、
『眠ったふり』をしたり、『くちびるを噛みしめたり』、
『(途中の)駅で降りたり』したのではないことだ。

 自分の「正しさ」を武力侵攻という暴力を持って主張し、
「みんなの正しさ」に挑んできたことだ。

 これまでに「正しさ」の違いを、武力で解決しようする試みが、
どれだけ大きな悲劇を生んできたか。
 歴史が、明確に教えている。

 戦争という行為だけは、
『みんなの正しさ』云々のレベルではない。
 『絶対悪』のシナリオだ。

 これ以上戦渦が拡がらないよう、
そして、一刻も早く沈静化するように、
世界中の政治家に奮闘をお願いしたい。

 私は、この事態を他人ごととはせず、
しっかりと直視し続けたい。
 そして、武力侵攻というやり方への怒りを、
深く深く心に刻みたい。

 ▼ 若い頃に知った一編の詩を転記して、結ぶ。

       死んだ女の子
              ナーズム・ヒクメット(訳・飯塚 広)

  扉をたたくのはあたし あなたの胸に響くでしょう
  小さな声が聞こえるでしょう
  あたしの姿は見えないの

  十年前の夏の朝 私は広島で死んだ
  そのまま六つの女の子
  いつまでたっても六つなの

  あたしの髪に火がついて 目と手が焼けてしまったの
  あたしは冷たい灰になり
  風で遠くへ飛び散った

  あたしは何にもいらないの 誰にも抱いてもらえないの
  紙切れのように燃えた子は
  おいしいお菓子も食べられない

  扉をたたくのはあたし みんなが笑って暮らせるよう
  おいしいお菓子を食べられるよう
  署名をどうぞして下さい


  

      春はまだ先 <伊達漁港にて>
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