ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

歴史を継承する町会

2021-03-27 14:48:57 | 思い
 江戸時代以前からあった地域だと聞いていた。
碁盤の目のように区画された街は、
昔から縦と横に真っ直ぐな道で仕切られていたらしい。

 その一角にある小学校に、校長として赴任したが、
驚いたことに、世帯数が3百から5百戸程度の町会が12もあった。

 当時は、10数年前にできた団地自治会を除いた各町会に、
大きな神輿が1基ずつあった。
 毎年の祭りでは、その神輿を中央に奉った神酒所が設けられた。

 5年に一度の大祭では、総勢150名におよぶ
『神幸祭・鳳輦(ほうれん)行列』がある。
 なんと牛が神輿を載せた車を曳いて練り歩くのだ。

 その翌日には、大勢の屈強な大人が各町会の神輿を担ぎ、
神社への渡御が行われた。
 49基もの神輿がその日、神社に集結する姿は圧巻である。

 また、祭りにあわせて、
各町会では『奉納踊り』と称した盆踊りが行われた。
 小さな公園広場を利用する町会もあるが、
多くは道路の一部を通行止めにし、
張り巡らした提灯に明かりを灯し、
櫓の上で和太鼓を打ち鳴らしての踊りの輪が、
ほうぼうでくり広げられた。

 祭りに限らない。
町会によっては、毎月縁日が開催された。
 これまた、一般道を止め露店が並び、家族づれで賑わった。

 そして、夏休みのラジオ体操は、学校の校庭は使わない。
町会毎に、その時間だけ車道を通行止めにし、町会総出で行った。 
 ラジオ体操が始まった戦前から、
そうやって続けてきたと言うことだった。

 このように各町会は、代々受け継がれてきた神輿を大切にし、
その祭りを中心とした伝統的な行事を粘り強く継承してきたのである。
 後々知ったが、『氏子町会』と呼ばれるらしい。
 
 「御輿があり祭りがあるから、この町会があるんです。
それを受けつぎ次へつなぐのが、俺らの役目なんですよ。」
 お祭りの日、お祝いの日本酒を持って神酒所を訪ねた時、
町会長さんが、お揃いの半纏姿で話してくれた。

 どれ位長い伝統があるのか。
詳しいことは分からない。
 しかし、祭りのポスターに『御鎮座千百・・年』の文字があった。
「平安時代前期に歴史は遡る」とも聞いた。
きっと、町会もその道を歩んできたに相違ない。

 それを今につなぐ町会、
取り分け町会役員さんにかかる使命感は、
計り知れないだろう。

 次々と神輿が宮入するのを道路脇で見ながら、
町会役員さんが私に呟いたひと言が忘れられない。

 「神輿の担ぎ手を集めるのに、どの町会も大変なんです。
こうして神輿が担がれてくるのを見ると、もうたまりません。」 

 あの時、歴史の重みを背負いながらの町会活動がヒシヒシと伝わった。
だからこそ、きっと勝手気ままにその任についたり、
退いたりできないだろうと思った。

 さて、今の私の住まい、地域の自治会はどうだろうか。
そのような重厚な伝統など、比較にならない。
 「軽い!」。
 
 世帯数37戸で自治会が結成されてから、
まだ70年にも充たない。
 私の近隣に至っては、住宅地として分譲されはじめてから、
わずか20年少々でしかない。
 培われてきた伝統など、ほんのわずかである。

 当然、自治会に神輿はない。
近くに神社はあるが、祭りの時に神酒所などは設けない。
 神社の本神輿がこの地域まで来ることもない。

 それでも、近隣の地域住民が安全で健やかに暮らすために、
自治会は必要不可欠だ。

 神事がいいとは言わない。
しかし、受け継ぐ何かがあるといい。
 それを軸として、地域は結束するのだが・・・。

 子どもみたいに『無い物ねだり!』。
思わず笑ってしまう。




   いつの間にか 水芭蕉まで    
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これまでも これからも

2021-03-20 11:29:09 | 思い
 氷点下の朝ではなくなった。
久しぶりに外で朝ランニングをする。
 
 まだまだ空気は冷たいが、
大きな青空を、7羽の白鳥が「く」の字に並び、
餌場を求めて飛んで行った。
 その勇姿を仰ぎ見ながら、
私は大きく息をし、マイペースで走る。

 やっぱり、体育館の周回コースとは違う。
心地いい。
 足取りも思いのほか軽やかな感じ・・・。

 待ち望んでいた春がそこまで来ている。
「季節はめぐる・・か!」。
 あらためて、そう思うと明るく気分がさらに膨らむ。

 さて、2014年7月にこのブログを始めた。
ここまで、週1回の更新を心がけてきた。
 数えると、6年8ヶ月が過ぎた。
その間に、300件を越えるブログ記事を載せてきた。

 毎回、ノートパソコンに向かいながら、
記事の吟味を始める。
 迷いに迷い、何も決まらないまま、
丸1日が過ぎることもある。
 気づくとわずか数行に、
数時間が過ぎていたことも。
 なのに、不思議と苦にならない。

 それよりも、出来不出来は別にして、
曲がりなりにも、その時々の想いを一文に託すことが楽しい。
 それが、新しいエネルギーを生み出してきた。

 今やこのブログは、ランニングと共に、
私を活性化させてくれる大事なアイテムになっている。

 少々、始めた動機に立ち返ってみたい。

 2014年は、伊達に居を構えて2年目だった。
その年の5月、右腕の尺骨神経麻痺で入院手術をした。
 残念なことに、術後の経過がよくなかった。
痛みと痺れに悩まされた。

 ランニングもままならない。
ゴルフも、ドクターストップ。
 唯一、早朝の散歩が気晴らしになっていた。

 悶々としていた気分の私に、『喝』を入れたのは、
翌年の年賀状の詩にも記した散歩で出会った人々だった。

   *     *     *     *
     洗  心

 新雪で染まった山々の連なりを遠くに
 晴れわたった土色の台地のふもと
 畑から掘り出したビートが長い山を作るのも
 去年と同じなのでしょうか

   沖合を漂う木の葉色の小舟を載せて
   波間の大波小波は遠慮を知らない
   黒い海原のざわめきに身を任すのも
   いつものことなのでしょうか

 積み重ねた白い牧草ロールのとなりで
 地吹雪に腰折れ屋根の飼育舎がつつまれ
 悲しい瞳をした雄牛をトラックの荷台が待つのも
 どこにでもあることなのでしょうか

   すぐそばで続く営みの数々に
   思わず足を止める私
   黙々とした淡々とした悠々とした後ろ姿がまぶしい
   額に手を当て
   まだまだ私だって磨けばと呟いてみる

   *     *     *     *

 1年を通し作物と向き合う人々。
波間に揺れながら網をたぐる人々。
 休みなく牛を飼い続ける人々。
 あの時、私の住むこの町が、
そんな人たちに囲まれていると知った。

 無条件でただただ凄いと思った。
「私だって!」。そんな気持ちが徐々に芽生えた。
 腕の不調に滅入っているのが、恥ずかしくなった。
「落ち込む姿は、私の柄じゃない!」と前を向いた。

 この気づきが、ブロク開設の切っ掛けになった。
そして、その後の私については、
延々とこのブログに書き綴ってきた通り・・・。
 
 その歳月を言い換えれるとしたら、
まさかまさかの連続。
 充実した時また時。
そして、いつだってチャレンジャーのまま。

 さあ、今春から始まる新たな歩みが待っている。
「これまでも、これからも」変わらずに歩もうと思う。

 「安心安全な街」、「潤いのある住宅街」。
そんな活動の一助に、しばしの間、私を委ねてみる。
 きっとまた新しい何かに出会える気がする。




    アヤメ川 春の水音 
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『非常事態宣言』下 あの店は?

2021-03-13 14:22:40 | コロナ禍
 『そこまでの道々
  街には柔らかな陽が降り
  川辺に満開の紅梅
  誕生の贈り物
  「記念の風景にしよう」と
  提案する私』
    (2016年年賀状に載せた詩「新進」の一部)

 6年前の2月末のこと。
初孫が誕生した。

 その知らせを受けた翌日、
重箱に御赤飯を詰め、
二男家族の待つ船橋へ行った。
 
 駅から産院まで歩いた。
その道にあった海老川橋の脇で、
春の陽を受けた満開の紅梅が目に止まった。
 そのワンカットをしっかりと心に刻んだ。

 数日前、同じシチュエーションの映像を、
BS3の『旅ラン』で見た。
 偶然と思いつつも、あの時と変わらず、
今年もあの紅梅が春を告げていると知った。

 そんな首都圏の明るい春が羨ましく思えたのも、つかの間、
今も『非常事態宣言』が続いていることに、
心が傷んだ。

 息子たちの情報や、東京暮らしの方から届くブログでは、
表通りから1歩外れると、
閉店を知らせる張り紙が目につくと言う。
 突然、看板がなくなる飲食店も少なくないらしい。 
 
 さて、私が好きだったあの店は、どうなっているのだろう。
コロナが収束したら、是非行きたいのだが・・・。
 今、私には、遠くからエールを送ることと、
思い出を綴ることしかできない。
 「どうか、頑張って・・・!」。

  ① 「はい! ゆで卵」
 その小学校のPTA役員会は、月1回夕方7時からだった。
校長の私は、必ず出席した。
 毎回、1時間程度で終わった。

 その後、「都合のつく方は・・」と懇親会のお誘いがあった。
私にも、気さくに声をかけてくれた。
 それが嬉しくて、できるだけ参加するようにした。

 その会場としてよく利用した店が『K』だ。
都合がいいことに、『K』は学校と最寄り駅の中間にあった。
 毎回、10人に満たない保護者が参加した。
次第に打ち解け合い、お酒も会話も進んだ。

 ある時、昔の運動会が話題になった。
小学校の頃、校庭で家族みんなで、
お昼を食べていたことを、私は話した。

 だが、私の場合は、家庭の事情で誰も応援に来られず、
昼食は、1人でお握りを食べて過ごしたこと、
そして、あの頃は運動会でしか食べられなかったゆで卵とバナナを、
友だちが近くでほおばっているのが、羨ましかったことを、
熱く語った。

 『K』は、洋食が得意なマスターとママさんの2人で、
切り盛りしていた。
 私よりやや若いが、同世代だった。
そのママさんの耳に、私の運動会が届いていた。
 ママさんは、厨房の隅で涙を流したらしい。

 1ヶ月後、再び役員さんらと『K』へ行った。
銘々がオーダーを済ませ、飲食が始まった。
 しばらくして、ママさんに替わってマスターが、
山盛りの卵が入った真っ白な深皿をテーブルの真ん中においた。

 「ウチのママから差し入れだって。ゆで卵。
校長先生が運動会で食べられなかったから、
食べてほしいんだって!」。

 こんな時、しめっぽくなってはいけない。
私は、頑張って立ち上がり、声を張り上げた。
「すごく嬉しい!」。

 そして、1コを手に取り、
「あの時、見ていたんだ。
 真似するね。
殻をむいたら、先に白身だけを食べるんだ。
最後に、丸い黄身を一口でね。」
 テーブルの角で殻にひびを入れると、
その通りにやって、パクリと食べた。
 その後、みんなも1個ずつ殻をむき、
ワイワイガヤガヤと、まるで運動会のようだった。

 あれから何回『K』へ行っただろう。
数えきれない。
 その都度、「はい! ゆで卵」と、
慣れた手つきでママさんは、
真っ白な深皿をテーブルに置いてくれた。
 私は、やっぱり最後に黄身を食べた。

 今では、ゆで卵の思い出は、
あの運動会より『K』でのことになった。

  ② 1人 カウンターで
 教頭になってから意気投合した彼とは、
2人だけで、しばしば居酒屋で待ち合わせた。

 職種も趣味も同じだった。
飲みながら、時間を忘れた。
 いつまでも話題が途切れなかった。

 きっと、その美味しいお酒が、
ストレス解消に一役かっていたのだと思う。

 ある日、某駅前で待ち合わせた。
時には、違う店に入ろうと言うことになった。

 何軒かの前を素通りし、
その中で、一番小綺麗な店構えの暖簾をくぐった。

 椅子が5つ並んだカウンターの先に、厨房があった。
奥には、小上がりのテーブルが、5つ6つ置かれていた。
 周りを見ると、開店祝いの花輪や生花が並んでいた。
  
 人の良さそうな40歳代くらいのご主人が、
「開店して、5日目です。
まだ慣れないけど、よろしくお願いします。」
 おしぼりをカウンターに置きながら、頭を下げた。

 これも何かの縁に違いない。
注文した生ビールを持ち上げ、ご主人に向かって
「開店、おめでとうございます。」
2人で、祝福をした。

 その後、ご主人は上機嫌で、厨房にいた奥さんや、
しばらくしてから手伝いに来た2人の妹さんを、
次々に私たちに紹介した。

 肉巻きしたミニトマトを串焼きにした自慢メニューをはじめ、
出されたモノは、どれも美味しかった。
 すっかりお気に入りの店になった。

 それから、しばしば2人で、
時には数人でその暖簾をくぐった。

 詩集を出版した後、そのことが飲みながらの話題になった。
ご主人が、1冊欲しいと申し出た。
 お酒の勢いもあり、手持ちの1冊にサインを入れて、進呈した。

 次に、店を訪ねたら、私の詩集がカウンターの横壁に置かれていた。
「一人で飲まれているお客さんが、よく手にとって読んでますよ。」
 顔から火が出るほど恥ずかしかった。
一緒に、嬉しさで胸が熱くなった。

 ある日、実際にカウンターの隅で、お湯割のグラスを片手に、
いつまでも私の詩集をひろげている背中を見た。
 小上がり席で例の彼と向き合いながら、
3杯目の生ビールを前に、涙が浮かんでいた。

 その後、教育エッセイ『優しくなければ』も進呈した。
ご主人は、それもカウンターの隅に並べてくれた。

 あれから10年以上になる。
何人かの方にとって、私の1冊が、
一人飲みの相手になっていたなら・・・。
 そして、いつか再び、
次の1冊を持参できたなら・・・なんて!




     春の陽を受け 福寿草
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続・マラソン大会 小話

2021-03-06 15:42:33 | 出会い
 遂に3月だ。
待ちに待った春が近づいている。
 そんな矢先、数日前だが、
当地での9回目の冬にして、
一番の大雪になった。

 朝、重たい粉雪が降りしきる中、
2時間以上かけて雪かき。

 そして、庭に高く積み上げられた雪山を、
これまた1時間以上かけて、
雪降る中で、平らにする作業。

 ようやく小降りになってきた午後3時頃から、
今度は3時間もかけで、2度目の雪かき。

 わが家だけじゃない。
隣近所、どこもみんな、
同じようなタイミングで雪と格闘した。

 もう雪は、これが今年の最後と願いたい。

 さて、例年なら、伊達ハーフマラソンまで1ヶ月余りとなり、
朝のランニングにも真剣さが増す頃である。
 残念だが、早々大会はコロナで中止になった。

 また、5月の洞爺湖マラソンも同じく中止。
こちらは、よく言うオンラインマラソンを行うらしい。
 メールでそのお誘いが届いた。
参加するかどうか、迷っている。

 いずれにしても、1昨年まで参加した各地のマラソン大会が、
懐かしく思い出される。
 そこでのエピソードの続編を記す。

  ④ お先にどうぞ!
 大会当日の朝食は、いつもとは違って、和食にする。
スタミナを考えると、大会の朝はパンよりごはんの方がいい。
 そんな情報を耳にしたことを信じているからだ。

 それ以外は、いつもと変わらない朝なのに、
どの大会でも、会場に着くとやけにトイレが近くなる。

 マラソン会場のトイレ事情は、
どこでも年々よくなっている。
 まず特設トイレの数が、増えている。
その上、以前は共同だったが、
男女別に設置されるようにもなった。

 だが、私は特設トイレを使わない。
競技場や公園、近くの体育館にある常設トイレを、
使うようにしている。

 旭川ハーフマラソンでのことだ。
ホテルで朝食を済ませ、会場へ行った。

 ここは、会場の競技場近くにある体育館が、
ランナーの荷物置き場になっている。
 身支度を整えて、そこへ私物を預けてから、
もう1度、館内のトイレへ向かった。

 外には、沢山の特設トイレが並んでいた。
なのに、それに気づかないのか、
私のように特設を嫌ってなのか、
トイレ口から廊下まで、長い行列ができていた。

 スタートまでには、十分に時間があった。
急ぐことはない。
 列の後尾へついた。
するとすぐに、私よりやや小柄な中学生らしい少年が、
後ろに並んだ。
 きっと少年の部にエントリーしているのだろう。
ランナーの身なりをしていた。

 10分以上が過ぎただろうか。
ようやくトイレの入口まで進んだ。
 列の先頭まで、5人程になっていた。

 その辺りから、後ろの少年がモジモジとし始めた。
気になった。
 少年は、時々列から横にそれ、
先頭やトイレ内を見ては、さかんに足を動かし続けた。

 列は進み、ようやく私が先頭になった。
振り向き、思い切って少年に声をかけた。
 「次に、空いたら先に行っていいよ。」
順番を譲ってあげたのだ。

 なのに、少年はハッキリとした声で即答した。
「大丈夫です。お爺さん!」

 その後、スタートまでの間、
少年の答えを何回も何回も思い出し、
そのたび大きなため息をついた。

 そして、21キロの長い道々、
「お爺さんか・・、失礼な!」。
しきりに、私を励まし続けた。 

  ⑤ 長い時間、すみません!
 体育館のランニングコースで、
顔馴染みになったランナーがいる。
 健康維持のためにと、走り始めたらしいが、
メキメキと力をつけ、今では私よりも走力がある。

 その彼に一昨年のことだが、尋ねてみた。
「伊達ハーフマラソンは走らないんですか?」
 「知っている人がたくさん見てるから、
恥ずかしくて・・。だから、無理!」

 彼の回答は、私とは真逆だった。
「そんなことを気にかけるなんて!」。
 驚きと違和感で、しばらく返答に困った。

 私は、賑やかな声援がいつまでも続くコースを走りたいと願っている。
その中に、もしも家族や友人・知人がいたりしたら、
どんなにか嬉しいだろう。
 どれだけ励みになるだろう。
ランナーなら、みんなそうだろうと思っていた。

 彼と私は明らかに正反対なのだが、
ある年の伊達ハーフマラソンでのことだ。

 家内の知り合いUさんは、
毎年、R橋のたもとでランナーに、
声援をおくっているとのことだった。

 なのでと、家内はUさんから頼まれたと
「あなたのゼッケン番号を教えて欲しいんだって・・・」。

 Uさんとはお会いしたことがないが、嬉しかった。
早々、私の番号とその日着るTシャツの色、
橋を通過する予想時間まで、家内を通して伝えた。

 当日、予定通りランナーたちの長い列の後方から、
その橋まで来た。
 先頭が走り過ぎてから、30分以上が経過していただろう。
橋のたもとには、10人程の方が立っていた。

 その1人が、家内から得たイメージ通りのUさんだった。
Uさんは、私が近づいても、忙しなく首を動かしたり、
背伸びをしたりして、私を探していた。

 ランナーたちの間を縫って、
Uさんに近づいた。
 なのに、一向に気づきそうになかった。

 「このまま通り過ぎたら、声援がもらえない。
いや、それよりも、Uさんはこの後も、
ずっと私を探し続けることになる。」

 グズグズしていたら、Uさんの前を通過する。
私は沿道に向かって、言った。
 「ツカハラです。Uさんですよね。」
驚きの表情で、通り過ぎる間際の私を見てくれた。
 「はーい、Uです。」

 私は走りながら振り向き、
「長い時間、すみません!」。
 Uさんへ届くよう、声を張り上げ、
そのまま走り去った。

 ほんの一瞬のやりとりだったが、
その後の私を、力づけてくれた。




     昭和新山 再び冬景色       
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