ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

『サルビアのそばで』 ②

2015-10-30 22:06:19 | 創 作
 前ブロク・「『サルビアのそばで』①」のつづき


 ある日の土曜日のことです。
学校から帰ると、いつものように家にはだれもいません。
玄関を開いて、家のなかに入ると、古い柱時計がやけに大きな音で
カッチ、カッチとひびいています。
 家のなかのものは、みんな息をひそめているみたいに静かです。

 たけし君は、それがとてもいやで、玄関の戸をいきおいよく開けると、
大きな声で、「ただいま・・。」って言うのです。
 息をひそめていた壊れかけた茶だんすや色のはげたタンス、そしてふすまが、
ちょっとは変わってくれるのではないかと思うからです。
 しかし、何もかもが今までどおり静かなんです。
それでもたけし君は、いばって家のなかに入って行きます。
足音をドンドンとさせてね。

 カバンをいつもの場所におくと、
次に、「まず、昼飯でもくおうか。」
と、ひとりごとを言うのです。
 せまい台所のすみに、おはちがおいてあります。
いつも土曜日には、その上にたけし君のご飯茶わんとおわん、
それに、はしがおいてあります。
 お母さんがそうしておいてくれるのです。

 だれもいない静かな家のなか、
聞こえるのは柱時計の音と、遠くを走っている車の音だけです。
 台所の板の間にすわって、おはちにむかうたけし君。
ごはんをよそい、冷たいみそ汁をおわんに入れて、
今度は、また大きな声で、「いただきまーす。」って言うのです。
 「はいどうぞ、おあがり。」って、
お母さんの声が返ってくるような気がするから、そうするのでした。
 でも、いくら耳をすましても柱時計と車の音だけです。
たけし君はもう何も考えず、ご飯にみそ汁をかけて、口にもっていくのでした。

 だが、その日だけはいつもの土曜日とちょっと違っていました。

 大声で「だたいま。」と言い、カバンをおいてひとりごと、
「まず、昼飯でもくおうか。」を言って、台所に行きました。
 いつものすみに、おはちがありました。
たけし君のご飯茶わんとおわん、それにはし。

 ところがその日は、それだけではありませんでした。
おはちには、かれいの焼いたのとノートの切れはしものっていました。
 たけし君は焼きがれいが大好きでした。
でも、すぐに焼きがれいだとはわかりませんでした。
 「あれ、何かなあ。」と、よく見て、ようやくわかりました。
と言うのは、お皿にのっていた焼きがれいは、
食べやすいようにかれいの頭や骨は、みんなきれいにとってあったのです。
 お母さんがそうしてくれたのでした。

 たけし君は、おはちの前にきちんとひざをおって座りました。
家のなかは、みんないつもとおなじように息をひそめていました。
 たけし君の両手は、ひざをしっかりとにぎりしめていました。
いつまでも、じっとお皿のかれいを見つめていました。

 ふとノートの切れはしに気がついて、
たけし君は目だけを動かして、それを読みました。
 お母さんの置き手紙でした。
たけし君は、その時はじめてお母さんから手紙をもらいました。
声をださずに読みました。

 『一人のお昼はつまらないでしょう。ごめんなさいね。
きょうは、かれいをやいておきましたよ。はいどうぞ、おあがり。』
と、書いてありました。
 たけし君はそれを読むと、なにを思ったのか急に立ち上がりました。
せまい家のなかをかけて、カバンからえんぴつを取りだしました。
お母さんの置き手紙を、台所の板の間におき、
『はいどうぞ、おあがり。』と書いてあるそばに、
『いただきます。』と、書いたのです。
 えんぴつがおれるほど力を入れて、ゆっくり書きました。

 それから、たけし君はまたおはちの前にすわりました。
板の間は足がしびれるけれど、きちんとすわって、
ご飯を食べ、焼きがれいをつまみ、みそ汁を飲みました。
 ご飯も焼がれいも、みそ汁も、もう冷えていたけど、
たけし君の胸はあつくなりました。
 そのあついものは、次第に上へ上へと上がってきました。

 頭がかーっとなって、おはちの上がかすんできました。
焼がれいが、お皿がなみだでかくれてしまいました。
 ズボンにはなみだのしみがつきました。
それでもたけし君は食べるのをやめませんでした。

 台所のかたすみで、小さなおはちの前にきちんとすわり、
ご飯茶わんを左手に、右手にはしをもって、
たけし君は声をたてずになきました。
 なきながらお昼を食べました。

 食べ終わるとたけし君は、なみだをふいて、
またえんぴつを握りました。
 そして、あの置き手紙に、
今度は『ごちそう様でした。』と書いたのです。
 えんぴつのしんがおれるほど力をいれて。

 『いただきます。』
『はい、どうぞ、おあがり。』
『ごちそう様でした。』
と、書いてある手紙は、それからずうっと、
たけし君のズボンの後ポケットに入っています。

 私はそれを見せてもらいました。
ポケットに入れていたから、もうだいぶしわくちゃになっていましたが、
お母さんの字とたけし君の字がありました。

 私がそれをじっと見つめていると、
「おじさん、それからね」
と、たけし君は、また話を続けたのでした。
 今度は、お父さんのことでした。

 製鉄所をやめてから、たけし君のお父さんは、
ときどきお酒を飲むようになりました。
 太陽がたけし君の学校の裏山にかくれるころ、
魚を売りにいったお父さんとお母さんは、
疲れきった顔をして帰ってきます。
 いつもお母さんの方が先に帰ってきます。
それからしばらくしてお父さんが。
お父さんの方が遠くまで売りに行っているからおそいのです。

 ところが、1ヶ月に1回か2回、
お母さんが帰って1時間がすぎても2時間がたっても、
お父さんの帰らない日があるのです。

 そんなときは、必ず「たけし、父さんをさがしておいで。」
と、お母さんが言うのです。
 とても怒っているようで、こわい顔なので、
たけし君は、「いやだよー。」と言えず、
暗くなった道を歩きだすのでした。

 たけし君には、お父さんのいる所がだいたいわかっているのでした。
そこは、夜でも人でにぎわっている場所です。
 お酒を飲んだ人が、肩を組みながら大声で歌をうたって歩いていたり、
ろじうらでおしっこをしている大人がいたり、
どこかの店からはレコードの歌が聞こえてきたりしています。
赤いちょうちんをぶらさげている店もあります。
よっぱらいばかりの所です。
たけし君はそんな所へ行くのでした。

 たけし君は、お酒を飲んでいる人ばかりの店を、
一軒一軒のぞいて歩きます。
 のれんをくぐり戸を開けると、決まって女の人が、
「いらっしゃい。」というのです。
 子どもが入ってきたので、変な顔をしてたけし君を見るのです。
たけし君はそんなことを気にもしないで、店の中を見回します。
「お父さんはいないかなあ。」と思って。

 そんなことを何軒かしていると、
お父さんをみつけることができます。
たけし君は、もうだいぶよっているお父さんのところに近づいて、
「父さん、帰ろうよ。」と言うのです。
 お父さんは、なかなか帰ろうとしません。
たけし君は、よっぱらいばかりいる店がいやなので、早く帰りたくなります。
 なんべん「帰ろう。」と言っても、お父さんは腰を上げてくれないので、
たけし君は、そこで大声をはり上げてなくのです。
 すると、お父さんはしかたなく、店を出てくれるのでした。

 店を出てからがまたたいへん。
なかなかまっすぐには歩いてくれません。
横へふらふら、前へよろよろ。
 たけし君は、道路のわきにあるドブにおちやしないだろうかと心配で、
お父さんのうでを、両手で力いっぱいおさえながら、
家までつれて行くのでした。

 しかし、いつもと違う日があったのです。
お酒を飲んでいるらしくお父さんの帰りがおそい日でした。
 たけし君は、いやいやよっぱらいのいる店をさがし歩いていました。
お父さんはやはりお酒を飲んでいました。

 その日だけは、「父さん。」と言うと、
「おう、帰ろう。」と、すぐに店を出てくれました。
 やっぱりよっていました。
でも、そんなにふらふらしていないようでした。
 たけし君は、お父さんのうでを両手でおさえながら歩きだしました。

 すると、「きょうは、だいじょうぶだ。」と言って、
お父さんは、たけし君の前にしゃがみこんだのです。
 たけし君には、それがなんだか、すぐにわかりました。

 たけし君は、お父さんの背中にいそいで飛びつきました。
お父さんの首にしっかりとつかまりました。
 ゆっくりとお父さんは立ち上がって歩きだしました。
大きな背中でした。
歩くたびに、たけし君の体はゆれました。

 たけし君はお父さんの背中に顔をくっつけました。
お父さんの臭いがしました。
 お酒の臭い、たばこの臭い、あせの臭い、そして魚の臭いもしました。
じっと目をとじて、たけし君はその臭いをすいました。
たけし君は、その臭いが大好きになりました。

 大好きなお父さんの臭いを胸いっぱいにすって、
大きな背中にゆられながら、
たけし君とお父さんは夜道を帰ったのでした。

 その大きな背中のぬくもりと臭いを、
たけし君は今もおぼえているそうです。

 私は、赤いサルビアのそばで、
たけし君とお父さん、お母さんのすてきな話を、
ただうなずきながら聞きました。

 最後にたけし君は、
「おじさん、ぼくはね、
さみしくなったときや泣きそうになったときにね、
お母さんの手紙をみることにしているんだ。
 そして、ときどきはね、お父さんのそばにいって、
あの臭いをそっとかいでみるんだ。
 するとね、いやなことも、つらいなあと思うことも、
がまんできるようになるんだ。」
と、言いました。

 私とたけし君の後ろでは、
今も子供たちが野球をしながら、かん声をあげています。
そして、公園の花だんにはサルビア。

 私はたけし君の目をしっかりと見て、
「たけし君、今にきっとまたもとのようにみんなたけし君と遊ぶようになるよ。
ひとりぼっちなんてもうじき終わりになるよ。
おじさんは絶対そうなると思うんだ。絶対に。
 それまでそれまでたけし君、じっとがまんしよう、なあ。」
と、言いました。
 言いながら、私は一日も早くその日が来ることをいのっていました。
 たけし君は、またサルビアに目をうつし、
「うん。」と、力強く首をたてにふりました。

 たけし君の目には、
真っ赤なサルビアが、いっぱいうつっていたのでした。





 だて歴史の杜公園 ナナカマドの秋色
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『サルビアのそばで』 ①

2015-10-23 17:16:37 | 創 作
 『6年生の皆さん、ご卒業おめでとう。
 この作品は、私がまだ青年教師であったころ、作家を夢見て書いたものです。
 当時、私は子供向けのお話を書きたいと強く思うようになり、
ある作家に教えを受けながら、この作品を書き上げました。
 それからもう40年近くもたってしまい、
今はゆっくり原稿用紙に向かう時間が作れません。
それでもこの年令になってもまだ、その夢だけは持ち続けています。
 私の夢の証として、そして卒業のお祝いに、
この作品をみなさんにプレゼントします。
 すぐにかなう夢、なかなか実現しない夢、夢のままの夢、夢も様々です。
でも、私は夢こそ生きていく上での一番のエネルギーだと思います。
 皆さんには、夢を忘れず、夢をいつまでも持ち続ける、
そんな人間であってほしいと願っています。』

 私は、12年間校長職を努めました。
その間、毎年、卒業間際の6年生を、5、6人のグループに分け、
校長室で給食を共にしました。
 その折りに、前述を「あとがき」にした手製の小冊子を、一人一人に渡しました。
ざっと数えて、800人になるでしょうか。
その内、どれだけの子供が目を通したでしょうか。
 若かりしころに書いたその創作を、2回に分け、このブログに掲載します。





    サルビアのそばで


 これは、町かどにある小さな公園で、ひとりの少年から聞いたお話です。

 私は、その小さな公園にあるサルビアの花だんがとてもすきでした。
5月、6月になるときまって真っ赤な花がさくサルビア。
そのサルビアを見て、情熱とか心が燃えるとか、よく言いますが、
ところせましとさいている姿は、本当にほのおのように思えます。

 その少年に、私がであったのも、
あの公園が、真っ赤に色づいていたころでした。
少年はだれにも気づかれないように、
じっとサルビアの花だんのところにたたずんでいました。
まわりでは、同じ年くらいの子どもたちが、
おにごっこをしたり野球をしたりしているのに、
その少年だけは、遊んでいる子どもたちに背をむけているのでした。
また、遊んでいる子どもたちも、見知らぬ子のように、
気にもとめないでいるのでした。

 私は、「この花が好きかい。」と、
少年の横に、同じように腰をおってたずねました。
少年は、急にそんなことをきかれたので、おどろいていました。
そして、しばらくしてから「おじさんもかい。」
と、言ってくれました。

 あくる日、私はまた公園に行きました。
少年のことなんて忘れていました。
私はサルビアを見に行ったんです。
すると、きのうと同じように、
また少年はじっと花だんを見つめているではありませんか。
私は、昨日と同じように少年の横に、しゃがみました。
その日は何も話さず、しばらくサルビアをながめて、私は帰ってきました。

 そして、同じようなことが一週間近くつづきました。
私は「あいつまたいるかな。」と思って、
公園に行くことがよけいに楽しくなりました。
私と少年は、しだいに話をするようになりました。
サルビアを見ながら考えたことを、私は言いました。
少年は学校のことや友だちのこと、そして、家のことを話してくれました。

 私は、少年の話を一つ一つうなずきながら聞きました。
ある時はなみだをこらえながら、
そして、ある時はさみしそうに、ときには、へいきな顔で、
少年はかたりました。
真っ赤なサルビアが風にゆらいでいるすぐそばでです。

 少年の名前は、たけし君。
たけし君には、今、一人の友だちもいません。
弱いものいじめをしたり、女の子を泣かせたり、
先生の注意をきかなかったりするような悪い子ではありません。
でも、たけし君は、学校でも、家に帰ってからも
ひとりぼっちな少年だったのです。

 昼休みの学校は、
いつも子どもたちのかん声でにぎわっているものです。
先生の言うことをきかず、教室で机と机の間をかけている子、
ろうかでおにごっこをしている子、
そして、校庭ではドッチボールやフットベースボールを。
女の子は校庭のすみのほうで、ゴムふむやゴム跳びをしたりしています。

 しかし、その楽しいはずの昼休みも、
今のたけし君には、つまらない時間なのです。
 たけし君は一人で校庭のまわりを、
ゆっくり、ゆっくり歩いているだけです。
そんなたけし君を見て、
「おい、たけし、ドッチボールしよう。」
と、だれか一人くらい声をかける友たちがいてもいいのに、
みんな知らん顔をしているのです。

 それどころか、たけし君が校庭へ出てくると、
みんなは、あわててドッチボールを始めるのでした。
たけし君をいれないためにそうするみたいです。
たけし君は、そんなようすを見ても、おこりもしません。
それどころか、みんなと遊ぶことをすでにあきらめているようでした。
「ぼくも、ドッチボールに入れて。」
と、たのんだところで
「いやだよ。」と言われるに決まっているから、
だからもう、たけし君は
みんながドッチボールをしているほうさえ見ないようにしているのです。

 みんなは、たけし君と遊ぶのがいやなのです。
それは、たけし君のドッチボールやフットベースがへただからではありません。
反対にたけし君は、とてもうまいと思います。
なのに、みんなはいっしょに遊ばないのです。
それには、ちゃんとした理由がありました。

 その理由を聞いたとき、私はなみだがこぼれおちそうになりました。
 たけし君には、みんなと同じようにお父さんもお母さんもいました。
それに中学校へいっているお姉さんも。
お父さんの仕事はむずかしい言葉では、魚の行商です。
ふつうの魚屋さんとちがって、
たけし君のお父さんは、重いにもつを、自分の頭より高くまでしょって、
遠くの家まで一けん一けんたずねて行き、魚を売って歩くのです。
その仕事は、お父さんだけでなく、お母さんもしていました。

 ところが、今から1年くらい前までは、
お父さんもお母さんも、その仕事をしていませんでした。

 たけし君といっしょの学校へいっている子は、
ほとんどが製鉄所の子でした。
みんなのお父さんは、製鉄所へいっているのです。
たけし君のお父さんも、その製鉄所で働いていました。

 学校の屋上からは、製鉄所がよく見えます。
真っ黒くよごれた工場の屋根が数えきれないほどあり、
高くて太い煙突が5本並んでいます。
 そして製鉄所のいたる所に、
赤ちゃけた鉄くずが山のように積み上げてあります。

 たけし君のお父さんは、その製鉄所で
クレーンという鉄のかたまりを上から持ち上げて
遠くへ運ぶ機械を動かしていました。
 鉄のかたまりは、とても重たくて
クレーンはいつもものすごい音をたてていました。

 ある日、お父さんの動かすクレーンが、
鉄の大きなかたまりをつるしたまま動かなくなってしまいました。
故障したのです。
お父さんは、あわてて機械のいろんなボタンをおしたり、
レバーを引いたりしました。
 早く鉄のかたまりを下へおろそうとしたのです。

 ところが、鉄をつるしていたワイヤーが、切れてしまったのです。
ちょうど、その下で働いていた人がつぶされてしまいました。
 クレーンが、故障したからなのです。
お父さんは、悪くないのです。

 しかし、それを見ていた人までが、お父さんが悪いと言いだしました。
とうとう製鉄所のえらい人たちが、
お父さんに製鉄所をやめるようにと言ったのです。

 その日から、たけし君のひとりぼっちも始まったのです。
同じ製鉄所の社宅にいた友だちも、たけし君とは遊ばなくなりました。
だれも声さえかけてくれないのです。
 学校へ行くとき、「あはよう。」とあいさつすると、
「行ってらっしゃい。」と、こたえてくれたとなりのおばさんまでが、
知らないふりをするようになりました。

 製鉄所をやめたお父さんは、しかたなく行商をはじめたのです。
いつも、たけし君とお姉さんの帰りを待っていてくれたお母さんまでが、
お父さんと同じように重い荷物をしょって働きはじめたのです。

 学校の友だちも、近所の友だちも口をきいてくれない。
学校から帰ると、「おかえり。」と言ってくれたお母さんもいない。
たけし君のそんな毎日は、もう1年もつづいているのでした。

 私は、たけし君にたずねてみました。
「そんな毎日は、いやだろう。」と。
 たけし君は、かなしい顔をしてうなずきました。
それから急に、
「だけどへいきなんだ。」
と、すこし明るい顔で言ったのです。
 そして、私にそのわけを教えてくれました。

 だれにも言ったことのない、ないしょの話です。
それは、たけし君の心の中にある宝物みたいな話です。
 とてもかわいそうなたけし君だけど、
その話だけは、たけし君が少しうらやましくなりました。                        
                              <次回に 続く> 




   収穫の時を待つ ビート畑   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタンキの浜に

2015-10-16 22:20:03 | あの頃
 伊達から東に、30分車を走らせた所に、
私の生まれ故郷がある。
小さい頃、『鉄の町・室蘭』の看板をよく見た。

 噴火湾の先端に位置する天然の良港と言われ、
その港には、大きな貨物船が何艘も停泊していた。
 湾岸には製鉄所、製鋼所、そして製油所まであり、
今も、一大工業地域である。

 私が育った所は、その製鉄所の社宅街で、
毎日毎日、三交替の人々が昼夜を問わずに、
工場と社宅街を行き来していた。
 私は、小さいながらも、
その慌ただしさが好きになれなかった。

 記憶は曖昧だが、小学校入学前後だったと思う。
近所の家族に誘われて、一緒に海に行った。
 私が記憶する、最初の海である。

 その海は、大きな工場が独占する湾内の海ではなく、
太平洋に面した外海だった。
 季節は覚えていない。
晴れ渡った空と海が、青い色で一緒になっていた。
 空と海の区別ができなかった。

 強い風が、吹いていた。
しっかりと踏ん張って、海を見た。
 荒れ狂ったような音と共に、
白く千切れるような高い波が、途切れることなく、
次々と打ち寄せてきた。
 ちょっと足が震えた。怖いと思った。

 「海、見たことないの。じゃ、一緒に行こう。」
と、近所のおばさんに誘われ、
ノコノコと一人、ついて来たことを後悔した。
 その海岸が、
イタンキの浜(通常『イタンキ浜』と言うらしい)だった。

 私は、その時の海の音と、
遠慮を知らない猛々しい波の勢いを恐れ、
海嫌いになった。

 私が、高校時代を過ごした学校は、
そのイタンキの浜の近くにあった。
今は、校庭と砂浜の間には、国道が走っているが、
私の時代には区切るものがなく、学校を抜け出し、
海岸で弁当を広げる強者もいた。

 イタンキの浜は、その砂浜から10分も歩けば着いた。
 今は、その荒波を使ったサーファーを見ることができる。
また、『日本の渚百選』にもなり、
道内唯一の『鳴き砂の浜』としても有名になった。

 高校3年の時、誰の提案だったのか、
友人の誕生祝いを、イタンキの浜で行うことになった。
 5人の仲間で、土曜日の午後、学校近くの肉屋から、
ジンギスカン用の肉ともやしを買い、それ用の鍋を借り、
イタンキの浜の先にある、岩場に向かった。

 相変わらず、荒々しい波音と乱暴な波が打ち寄せていた。
やはり、海は少し怖かった。
 砂浜を歩きながら、小学校4年生の
大好きだった担任から聞いた、
イタンキ浜と言う名前の由来を思い出した。
  
 『イタンキ浜には、悲しい伝説があるのよ。
イタンキは、アイヌ語で「お椀」のことを言うの。
 昔、食べる物がなくなった日高のアイヌの人たちが、
室蘭に行けばと、食べ物を求めて、海辺を歩いてやって来たの。
 そして、イタンキの浜まで来たのね、
波間に見え隠れする岩を見て、クジラと思ったの。
 それで、クジラが岸に流れ着くのを、
寒さに耐えながら待ったのね。
 その内に、寒さをしのいでいた薪もなくなり、
最後には、持ってきた自分のお椀まで燃やしてしまったの。
 クジラだと思った岩は、決して岸に寄って来ることはなく、
アイヌの人たちは、みんな死んでしまったのよ。』

 30分程度、波打ち際を進みながら、
5人は、私のそんな話に耳を傾けてくれた。
 しばらくは、誰もなにも言わなかった。

 イタンキ浜の行き止まり近くの岩場付近は、
南西に伸びた高さ数十メートルの崖が、
砂浜のすぐそばまで迫っていた。
 白い岩脈とでも言うのだろうか、
波と風、そして雨などによって浸食され、
変化の富んだ、美しい横縞模様を作っていた。
 ここにしかない、雄大で迫力のある大自然だった。

 無言のまま、5人して立ち止まり、
肩で大きく息をし、その崖を見上げた。
 そして、振り返り、クジラの漂着を待った雄々しい海原を見た。

 岩場に着くと、大きな石を拾い集め、炉を作った。
流木に火をつけ、ジンギスカン鍋を載せた。
 そこら中に、あの特有の臭いをまき散らし、
私たちは、威勢よく、ペコペコのお腹を満たした。

 誰かが、「アイヌの人の分も食べてやる。」
と、力を込めた。
「そうだ。」、「そうしよう。」
と、言い合いながら、
時々、岩に砕ける波しぶきを受けながら、肉ともやしを口に運んだ。

 食べ終わると、一人が、岩によじ登り、
打ち寄せる波に向かって、
「腹いっぱい、喰ってやったぞー。」
と、叫んだ。
 すると、また一人よじ登り、立ち上がって、
「うまかったぞー。」
と、声を張り上げた。

 「もっといいこと言えよ。」
声が飛んだ。
 また一人、岩の上に立った。
「もっともっと勉強するぞー。絶対に、だまされないぞー。」

 私は、3人のいる岩を見上げながら、
「すごーい。」と、手を叩いた。

 その日以来、雪の季節まで、
毎月、イタンキの浜でジンギスカンを囲んだ。
 いつも、岩に登り、海の大空に向かって叫んだ。
 みんなは、夢や目標、社会の不条理を声にした。
未熟な私は、
「海は広いぞー。大きいぞー。」
などと、全く意味のない大声を張り上げ、満足していた。

 でも、もうイタンキの浜は恐くなかった。
それよりも、多感な少年の大好きな場所になっていった。

 もう20年も前になるだろうか。
私に、一通の封書が届いた。
喪中の知らせだった。

 冒頭に「本年8月に、夫が永眠致しました。」と記されていた。
印刷されたB4の書面には、
「喪中のハガキ1枚で済まさないように……
夫への最後のお願い」とあった。
 奥様の彼を愛しむ想いと最期の時までが、
短い文面にあふれていた。
 ガン発見から、1年余りの闘病生活だったらしい。
全く知らなかった。

 「死んだら、俺の骨を大好きだったイタンキ浜にまいてくれ。」
彼は、そんな思いを奥様に託した。
 まだ、自然葬など数少ない時代だった。
全国でも8ケース目、北海道では初めてだった。
 49日が過ぎた10月、家族と何人かの友人に見守られ、
室蘭の海に、散骨が行われた。

 イタンキの浜で、一緒にジンギスカンを囲んだ仲間の一人だった。
 私が、時々詩を書いているのを知っていた奥様が、
喪中の書面の裏に、自作の詩を自筆してくれた。

 その詩から、彼らしさが、心の深くまで浸み込んできた。
私もそうありたいと思った。

 イタンキ浜のあの岩に立ち、
背後に美しい断崖が迫る、雄々しい海原に向かい、
彼は、そんな人間を誓っていたのだろう。


     線香花火

  あなたの引き出しの奥に
  線香花火をみつけた
  線香花火は
  うすい小さな紙の帯で
  束ねられているものと思っていた
  みつけたのは二本だけ

  わたしの気がつかないところで
  あなたが火をつけていたもの

  サラダボールに水を汲んで
  遺影の前に座った
  ローソクの光りに
  あなたの顔が揺れて
  わたしに微笑む
  シュルシュルと
  丸い炎の固まりも
  小さく揺れている

  愚痴のひとつくらい
  言ってから落ちるものだ





伊達のはずれ 山間の小さな川にも 鮭は遡上していた

   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

確かな信頼関係を その2

2015-10-09 22:17:25 | 教育
 9月11日のブログ『確かな信頼関係を その1』で、
今日の学校現場が感じている、多忙感について触れた。

 その多忙感の要因の一つが、
「保護者・地域からの要望・苦情等への対応」である。
 持ち込まれた苦情等への、対応に費やすエネルギーが、
多忙感になっている。

 また、教師は、校内でおきた苦情に接し、
いつ、いかなる苦情が、
我が身に舞い込んでくるかと
不安な思いにとらわれる。
 これが、精神的に厳しい現実となっている。

 現職時代、私は若い先生たちに、
保護者からの苦情への心得として、
こんなことを言ってきた。

 「親は、我が子の成長する姿については、
誰よりもよく知っている。
 しかし、教師は、その子を含めた学級の全ての子どもの今を、
誰よりもよく知っている。
 つまり、親はその子の縦軸、
教師はその子の横面を熟知している。
 だから、教師として保護者とは違う視点から、
その子を語ることができる。」と。
 
 私は、先のブロクで、リスクマネージメントの観点から、
苦情をなくしたり、苦情を少なくしたりするキーワードを、
『確かな信頼関係づくり』にあるとした。
さらに加えて言うなら、
このキーワードは、苦情を解決し、
保護者と教師の相互理解へと進めていく上でも重要なものと言える。

 先回述べたことだが、
『確かな信頼関係づくり』の第一の策(=条件)は、
以下のような子どもの姿にある。

 ・毎日、学校での様子を嬉しそうに家族に話す子ども。
 ・リレーの選手にはなれなくても、全力で選手の走りを応援する子ども。
 ・授業で進んで挙手し、間違いを恐れない子ども。
 ・鼓笛パレードで、胸を張って演奏する子ども。

 このような生き生きと成長する子どもの姿が、
保護者や地域から学校や教師が、信頼を得ることに直結している。
 保護者や地域が、学校に求めるものの第一は、
日々生き生きと変容していく子どもの姿である。
 そんな求めに応じることが、
『確かな信頼関係づくり』の第一の条件だと思う。


 続いて、第二の条件だが、
 それは、学校や教師の子どもへの
思いや願い等に対して、共感を得ることである。
  
 教師は、その子が所属する集団(主には学級)やその子自身に、
様々な思いや願いを持っている。
 その思いや願いを基にして、一人一人の子どもと関わり、
集団や個人への授業や指導を実践する。

 そんな教師の思いや願い、
さらにはその指導・実践の裏付けとなるのが、
教育的使命感や児童愛・子供愛、教育観、
教育的情熱、人間性等々である。

 学校における教育活動は、
そんな教師の心情に裏打ちされた、
教育者としての姿勢によって生み出されている。

 教師は、日々くり返される授業を通して、
一人一人の子供に、その子の気づきや成長に期待を寄せる。
 子どもの多くは、その期待に応じるように努める。
その懸命さこそが、子どもそのものと言える。

 しかし、中にはその期待に応じきれずいる子どもがいる。
そのような子にどう向き合うか。
 その時の指導の違いが、鮮明になる場面がある。

 大雑把な言い方をすると、
期待に応じられず、意欲を失っている子を、
叱責するか、激励するかである。
 全ての教師は、その子に応じて、
その場その時で、最適な指導策を実践するのである。
繰り返しになるが、そこにはその子への思いや願いが働く。

 しかし、保護者は、
「あの場面で励ますなんて、甘い。」
「あんなこと位で叱るとは、子どもが可哀想。」
等と、批判的に教師の指導を、評価することがある。
 このようなことの積み重ねが、
ある顕著な場面を切っ掛けに、苦情になる。

 つまり、苦情の背景には、
教師の子どもへの思いや願いをくみ取ることのない、
希薄な信頼関係がある。
 教師が、最適と判断した指導・実践への揺るぎない信頼こそが、
大切なのである。

 しかし、その信頼を得るため、
個々の指導に対し、その場その場での、
教師の説明と保護者の理解、ましてや、同意など求めるなどは、
全くのナンセンスである。

 それに代わるのが、教師の思いや願いに基づいた
日々の教育姿勢への理解と、とりわけ共感である。

 よく、年度当初の保護者会で、
校長は学校経営方針を、学年主任は学年経営方針を、
担任は学級経営方針を説明する。
 その役割は大きいが、
1年を通して目指す教育とその指導方法への、
十分な理解と共感を得ているがどうか。大いに疑問が残る。
 私自身の現職時代への深い反省でもある。

 学校そして教師は、年度当初の取り組みに限らず、
さらに工夫を凝らし、絶え間なく、保護者や地域から、
日々取り組んでいる教育活動への
理解と共感を得る努力をしなければならない。

 加えて、
通常、保護者が、学校や教師への共感の源になるのは、
担任をはじめとする教師集団の教育活動、
つまり指導・実践の正しい把握にある。
 その情報を保護者にもたらすのは、唯一、家庭に帰る子どもである。
子供が語る、その日の教師の言動が、教師の思いや願い、
日々の指導への共感の手がかりなのである。

 だからこそ、教師と子供は深い信頼で結ばれることが全てと言える。
このことが、教師の思いや願いへの共感を呼ぶ力となり、
『確かな信頼関係』を生み出すのである。


 第3の条件は、学校の情報公開である。
 私は校長として、担任には学級だより、
そして学年だよりの充実を求めてきた。
私自身は、学校だよりを重視した。
 それは、学校は常にオープン、
開かれているところであるべきと言った思いからであった。

 ところで、若干余談になるが、
学校から、子供の手を通して届けられる印刷物は、多種多様、大量である。

 区市町村のもの、教育委員会のもの、
時には保健所、町会の催し物まで。
また、学校からは、先にあげたものの他に、
定期的には、保健だより、給食だより、
学校図書館だより等々がある。

 さらに、保護者会や各種行事の案内、
防犯や防災への通知等々もある。
時に、「校区内で起きた事件の情報が、
学校から何もなく、不安だった。」
と、言った声が届いたりする。
 その都度、私は、学校の責任には、際限がないのかと思う半面、
きめ細かな情報の提供が、
学校への信頼につながっているとも痛感した。

 さて、ある調査によると、
保護者が最も活用する学校からの印刷物は、
給食の献立表とのことだ。
 確かに、家庭での朝夕の献立を決める上で、
それは大事な情報である。
家庭のよく目につくところに掲示するといった行動も理解できる。

 私は、献立表まででなくても、
保護者にとって子育ての有効な資料として、
学校からの様々な情報が、
生きて働くものであってほしいと願っている。

 一人一人の行動にまで言及できなくても、
学校での子どもの姿が、見て取れるような情報の提供。
そして、その子どもに応じた教育活動の様子と、
その時の教師の思いの伝達。
時には、その教育的価値や今後の見通しの解説。
 このような情報を、分かりやすく保護者や地域に届けるようにしたい。
学校をガラス張りにすることと言い換えてもいい。

 つまりは、日々繰り広げられている教育活動への
深い理解を容易にすることが、学校への安心感になる。
 ゆくゆくは、それが信頼へと発展すると信じる。 
 
 『確かな信頼関係づくり』の根幹である。




秋晴れ 伊達のビュースポット 海の先は渡島半島
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

67 歳 の 秋 涼

2015-10-02 22:26:42 | ジョギング
 9月27日、私が立ったトラックは、
『花咲陸上競技場』と言う名だった。

 山岳丘陵に囲まれた内陸盆地の地形、その中心部を石狩川が流れ、
そこに牛別川、美瑛川、忠別川等の河川が合流していた。
今は、『かわのまち』をキャッチフレーズにしているようだ。

 地名の語源は、アイヌ語で「チェプ・ペッ」と呼ばれていたことにある。
「チェプ」は日、「ペッ」は川の意味で、日を「旭」と置き換えて、
『旭川』と言う説が有力とのことだ。

 この町には、家内の姉と弟の一家が、長年暮らしている。
人口36万人、北海道第2の都市である。
 盆地気候の特徴らしいのだが、年間を通して風が弱い。
しかし、一日の温度差が大きく、
真冬は雪も多く、冷え込みは半端ではない。

 この地で、『第7回旭川ハーフマラソン』が開催された。
昨年までは、石狩川の河川敷を走っていたが、
今年から、「市街地をかけ抜ける」コースに変更になった。

 私は、6月に『八雲ミルクロードレース大会』で、
初めてハーフマラソンにチャレンジした。
 コースの沿道に人はなく、参加者も少なかった。
途中からは、一人で一本道を淡々と走り続けた。

 その反動からか、「市街地をかけ抜ける」という言葉に惹かれた。
人生2度目のハーフマラソンは、旭川にしようと決めた。

 前日、伊達から高速道路を運転した道中、
北へ進むにつれ、山々は緑色を所々秋色に変えていた。
 大会のスタート会場も、忍び寄る秋の気配がした。
八雲の大会に比べ、10倍の参加者だった。
私は、ランナーの群れの最後尾に陣取った。

 目標は、2時間18分の自己記録の更新である。
そして、何よりも21,0975キロの完走にあった。
 不安と共に、最近メッキリ経験がなくなった緊張が、
何度も何度も私に深呼吸させた。

 まだ、手袋をするランハーはいなかったが、
なかなか完治しない右手をかばい、
薄手の黒手袋をして、スタート合図を待った。
 そう、体を左右に動かし、肩を上下させたりしながら。

 そんな時だった。
 大会会長の慣れた開催者挨拶が終わり、
明るく澄んだ女性司会者のアナウンスが聞こえた。

 彼女は、
「ここで、今日の大会、ハーフマラソンの部に参加した
最高齢の方を紹介します。」
と、声を張り上げた。
 88歳の男性だった。その姿は、私の所からは見えなかった。
しかし、年令と氏名が、会場中に響いた。

 司会者は、続けて、
「どうぞ、皆さんで、大きな大きな拍手の、
プレゼントを贈りましょう。」
一層元気な声で、会場中の全ての人に呼びかけた。

 私は、今までに経験のない、粋な計らいに弾けた。
ランナーの人混みの中で、不安と緊張を胸に一人佇んでいたが、
その女性の呼びかけは、
私だけではなく、会場の全ての心を一つにした。

 黒手袋を急いで取り、両手を頭上にかざし、
「頑張れ。ガンバレ。」
と、声を張り上げ、長くて力のこもった拍手を続けた。

 両隣のランナーたちも前も後ろも、みんな晴れ晴れとした表情で、
思い思いの声援と拍手をしていた。

 88歳の最高齢ランナー、そして、その方を讃えるランナーたち。
私は、そんな方々と一緒に、これから延々21キロの道を駆け抜ける。
そう思い、嬉しさがこみ上げた。
 大会主催者の企画にも、感激した。

 スタート合図の花火が、大空に轟いた。
走り始めた私に、もう不安も緊張もなかった。
 黒手袋の手には、拍手の温もりが残っていた。
沿道の人にちょとだけ手をふり、走り続けた。

 しかし、右も左も前も後も、老若男女のランナー。
行っても行っても人、人に囲まれ、走り続けた。
 私は、私のペースではなく、周りのペースで走っていた。

 スタートから2キロが過ぎたところで左折し、
自衛隊旭川駐屯地の道に入った。
 ここを4キロほど走って、また一般道に出ることになっていた。

 駐屯地内の道の両側には、
迷彩服に青い帽子の自衛隊員が、2メートル程の間隔に立ち、
拍手をしながら声援してくれた。
 その姿は、実に整然としており、
街中とは違う空気が流れたいた。

 戦前の旭川は、「北の軍都」と呼ばれていたことを思い出した。
旧陸軍の「最強師団」と称され、北鎮部隊とも言われた
精鋭「第7師団」がおかれた地である。

 当時、駅前からの通りは「師団通り」と呼ばれていた。
戦後「平和通り」と改称された。
 日本で最初の歩行者天国となったことで有名である。

 そんな歴史を持つ地で、自衛隊員の拍手と声援を受け、走った。
どうしても、自分のペースをつかめないままだった。

 やがて石狩川の河川敷添いを進み、10キロを折り返した。
旭川のシンボルとも言える『旭橋』が近づいた。
 この橋は、北海道三大名橋の一つである。
全長200メートル強、巾18メートルの、
優美なアーチ曲線をした鉄橋である。

 橋の袂で、家内のお姉さんが、
日本ハムファイターズのユニフォームに小旗を振って、
応援してくれた。
 嬉しさと共に我に返って、旭橋を渡り始めた。

 車で通り抜けたことはあるのだろうが、
この鉄橋を間近にするのは初めてだった。
 話には聞いていたが、見るからに頑強な橋だった。

 昭和7年、ドイツから輸入した高張力鋼を使い、
当時の最新技術で作られた。
 最重量戦車が通れて、敵の攻撃にも耐えられる橋だった。

 私は、この橋をやっとの思いで走りながら、
第7師団から戦地にむかう兵隊さんの隊列が、
この橋を行進する白黒写真を、思い出していた。

 今、私はランナーのスタイルで、沢山の人々と一緒に
この橋を走っている。
 スタートでは、最高齢の方に、みんな笑顔で拍手を贈った。
今、平和を体現していると感じた。
 「平和。平和。」
思わず口をついた。
 走りながら、目元に熱いものを感じた。 

 ゴールまで残り2キロの沿道、
人混みの中に、家内の姿を見つけた。
 「うまく走れなかった。」と、小声で弱音を吐いた。
しばらく、歩道を伴走してくれた。
 ゴールまでの力が湧いた。

 一度も歩くことなく、歩きたいと思うことなく、ゴールした。
タイムは、わずかだったが自己記録を更新していた。
 家内と義姉から、「頑張ったね。」の労いをもらった。
私は競技場の芝生に、大の字になった。

 国会では、安保法制が成立した。
しかし、旭橋だけではないが、戦地にむかう隊列など、
私に拍手と声援をくれた自衛隊員が戦地に行くなど、
決して、そんな橋を渡らせてはならないと思った。

 平和のための法整備だと強調する。
危うい平和でしかないと思う。
 全ての子供たちと孫たちに、揺るぎのない平和を残したい。

 「旭橋を渡る人々は、永遠に、ランナーたちでいい。」
 大の字で見た大空に、そう言いながら、荒い息を整えた。

 67歳の秋涼、穏やかな青色の下だった。




 札幌・大通公園の秋 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする