ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

DATE 語 録 (3)

2022-10-29 12:00:52 | 北の湘南・伊達
 当地で一番大きなイベント会場は、
『だて歴史の杜カルチャーセンター』大ホールである。
 座席数は約1000だ。

 人口3万少々の地方都市のその会場には、
年に数回、演劇や音楽の公演がやってくる。
 その公演を招致するのは、
主に私も会員になっている『伊達メセナ』である。

 会員の特典として、チケットの優先販売がある。
先日行われた小椋佳のコンサートも、
それを使って前列の席を確保した。

 それにしても、都会とは大違い・・。
その会場での公演の多くは、午後6時半に開演する。
 なので、私は、いつもよりやや早い夕食を摂り、
車で5分もかからず、会場近くの駐車j場へ。
 会場着席まで15分もあれば十分。

 電車と徒歩で会場入りまで、
1時間以上かかる都心のホールとは全く違う便利さだ。

 さて、久しぶりの小椋佳サウンドに、
心が揺れた。
 もうラブソングなんて無縁と思っていたが、
どうやら年齢の方が、無関係のようだ。

 会場で聴いた78歳になる声の『めまい』『揺れるまなざし』が
耳から離れない。
 「ときめき・・!」。
ちょっと面はゆいが、
まだしばらくは大事にしたいと感じた。

 そろそろ本題に入る。
伊達に移住して10年が過ぎた。
 数々の出会い、エピソードがあった。
それを思い出すまま、語録として綴る。
 その3回目である。


 4.超 高 齢 者

  ① 今 も 散 歩
 5年前まで、家内と一緒の朝ランは、
自宅前を6時半にスタートした。
 嘉右衛門坂通りを下りはじめて5分もしない辺りで、
反対側の歩道を散歩する女性と、よく出会った。

 見かけると私たちは、すぐに「おはようございます」と、
声をかける。
 すると、その方は、私たちを確認してから、
右手を高く挙げ、朝の挨拶を返してくれた。

 当初は、名前も住まいも分からなかった。
だから、家内とは「手を挙げるおばさん」と言っていた。

 私たちの朝ランも次第に不規則になった。
冬やコロナで、走る頻度も減った。
 だから、その方と出会うことが無くなってしまった。

 もう3年も会っていなかったろうか。
春先のことだ。
 お昼時に、家内と自宅前の歩道を掃除していた。
すると、似た歩き格好の方が、
嘉右衛門坂通りを進んできた。
 
 家内が手を振った。
私たちに気づくと、ゆっくりとその方は近づいてきた。
 「あら~、久しぶりですね」。
家内とは何回か言葉を交わしたことがあるらしい。
 でも、随分とフレンドリーな感じ・・。
 
 その方は、続けた。
「今も走っていらっしゃるのですか。
私は朝は止めて、昼間時々、こうしてゆっくり歩いているの」。
 「毎日ではないけれど、時々は走ってます。
お元気でしたか」。
 家内は訊いた。

 「一応、元気ですよ。
脳梗塞で病院に運ばれたこともありましたが、今はもう大丈夫。
 でも、私も歳だから・・、いつ、どうなるか・・」。

 「お幾つになられましたか?」。
私が口をはさんだ。
 「もう93ですよ」。

 ビックリした。
急いで逆算した。
 「手を挙げるおばさん」と言っていた頃には、
もう85歳を越えていたことになる。
 
 さて、その年齢になった私に、
『手を挙げる』あの元気があるだろうか。
 ただただ「あやかりたい!」と願った。


 ② 今 も 運 転 
 それはゴルフからの帰り、
その交差点を左折すると自宅に到着する所でのことだ。

 6,7名の人が集まっていた。
そして、交差点の先で1台の乗用車が、
歩道の縁石に車輪をのり上げて、停止していた。

 自宅に車を止め、その場へ急いだ。
反対側の車線に、高所作業車と同じカラーの車が駐車していた。
 その作業員らが、乗り上げた車からジャッキを取り出し、
縁石から車を移動させようとしていた。

 幸い人手は足りていた。
作業員らは、キビキビとタイヤの下に厚い板を挟んでいた。

 ハンドルを切り間違えての事故だと思った。
ドライバーを探した。
 忙しく動いている作業員のそばに、
腰の折れ曲がった男性が、前かがみのままでいた。
 まさかと思ったが、
車の後ろには色あせた『もみじマーク』が張ってあった。

 車を縁石から動かす準備ができた。
作業員がその老人に運転を促した。
 「いや、無理です。
もう91になる。車を動かすのも頼みます」。
 その老人は、小さく言った。

 作業員の1人が黙って運転席に座り、ハンドルを握った。
ゆっくりと縁石から車を移動させた。

 歩道から車道へ移った車には大きな傷もなかった。
その安堵とは別に、91歳のドライバーへの不安は膨らんだ。
 いつまで運転するのだろう・・?
誰か免許を返納させることはできないのか。


 5.「今朝も散歩ですか」
 夏から秋へ、季節の移ろいがやけに早い。
一日一日、山々には赤みが加わり、
街路樹の紅葉がどんどん進む。
 春とはおもむきを変えた秋ならではの美しさが目を惹く。
散歩する歩調も、つい緩んでしまう。
  
 そんな朝、アヤメ川自然公園入口の道路脇に立ち止まり、
散歩する私を見ている方がいた。
 真っ白な愛犬と一緒だが、顔に見覚えがなかった。

 近くまで行くと、挨拶を交わす間もなく声をかけられた。
「今朝も散歩ですか?」。
 突然の問いに、私はやや驚きながら、
「アッ、ハイ」と応じた。

 「いつも走ってましたよね?」
再び驚きながら、また、
「アッ、ハイ」と応じた。

 その方は明るい表情で会釈をすると、
すぐに愛犬と一緒に公園の木道へ消えていった。
 一方の私は、散歩を続けながら、
不思議な気分を引きずったまま・・。
 「見覚えのない顔だが」と、ブツブツ、ブツブツ・・・。




   街路樹の『山法師』が真っ赤っか
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初めての 頼まれごと

2022-10-22 12:45:02 | あの頃
 高校3年の秋のことだから、
かれこれ55年も前のことだ。

 高校生になってから、彼の家へはしばしばお邪魔した。
私と違って、彼は流行の先端を行っていた。
 私には、そう映った。

 まずは、ギターがあった。
それを小脇に抱え、『禁じられた遊び』を弾いた。
 その流れるような旋律に、ウットリした。

 ギターの楽譜本を譜面台に広げ、
私のリクエストに応えて、色んな流行歌を聴かせてくれた。
 マイク眞木の『ばらが咲いた』を、
弾きながら歌ってくれたこともあった。

 2つ目は、写真だ。
誰もがカメラを持てる時代ではなかった。
 しかし、学校で行事があると彼は自分のカメラで、
私たちを撮ってくれた。

 数日後、その写真を無料で、みんなに配った。
自宅に小さな暗室があり、そこで現像すると言う。

 まったく別世界のことのようだったが、
一度だけその暗室で、現像する作業を見せてもらった。
 
 薄暗闇の中で、様々な薬品と器具を使い、
幾つもの作業工程を慎重に行っていた。
 自由に引き伸ばし、現像した写真が、
液体の中から現れた時は、思わす歓声を上げていた。

 これもギター同様、「1人で勉強した」と彼は言った。

 そして、もう1つはブレンドコーヒーだ。
彼の部屋へお邪魔する度に、壁に掛かった棚の
茶色い豆の入ったガラス瓶が増えていた。
 その豆がコーヒー豆だとは・・・。

 「コーヒーを淹れるけど、飲む?」
ある日、彼の部屋で訊かれた。
 インスタントコーヒーしか知らなかった私は、
その後の彼の動きに、目を見開いた。
 初めて、コーヒー豆を知った。
それを粉にし、そこからコーヒーができるまでを見た。
 部屋中に、お洒落な香りが漂った。

 「僕がブレンドしたコーヒーだ。
この味が好きなんだ」。
 そう言って、コーヒーの入ったカップを私の前に置いた。
彼の言う「この味」とはどんな味なのか、
さらには「ブレンド」の意味も私には分からなかった。
 
 それでも、インスタントではない、
本物のコーヒーを美味しいと思った。
 
 その後もしばしば彼が新しくブレンドしたと言う
コーヒーをご馳走になった。
 残念だが、『違いが分かる男』にはなれなかった。

 その彼が、卒業後に選んだ道は、
首都圏の小さな会社への就職だった。
 てっきり東京かその近郊の私立大学へ進むものと思っていた。

 「大学で勉強なんて、性に合わない。
それより、体を使って働くほうがいい」。
 進路が決まった日の帰り道、彼はつぶやいた。
あまりにも意外で、私は返答に困り、
「そうか!」とだけ言った気がする。

 さて、そんな彼とのやり取りがあってから数日後の休日、
突然、我が家に来客があった。
 ネクタイに背広と和服姿のご夫婦だった。

 丁度、父母と私だけがいた。
狭い2間きりの家だった。
 2人を招き入れると、
母は、私にどこか外にいるようにと言った。
 私は、家の前の広場にあったシーソーに、
腰掛けて待つことにした。

 2人が彼のご両親だと気づいたのは、
10分か20分して我が家からの帰りに、
シーソーの私の前を通ったときだった。

 私は2人に軽く会釈した。
すると、立ち止まったおばさんが、
「渉チャン、よろしくお願いします」と、
ていねいに頭を下げた。
 その声と顔に見覚えがあった。
 
 急ぎ、我が家に戻った。
父も母も、珍しく神妙な顔をしていた。
 母は、やや高揚した表情で、
「あんたのことを頼ってきたのよ」と言い。
 父は、いつも以上に難しい声で、
「重たい役目だけど、ご両親の気持ちに応えてあげなさい」と。

 子どもがいなかった2人は、
1歳にも満たない彼を養子とし、家族になった。
 それは、ご両親だけの秘密だった。

 高校卒業後、彼を進学させようと考えていた。
しかし、家を出て働くと彼は決めた。

 秘密はやがてわかることになる。
ならば、この機会に知らせようと、ご両親は考えた。
 しかし、自らそれを切り出すことができなかった。

 なぜ、その白羽の矢が私だったのか。
父母も聞いてなかった。
 私も考えがつかなかった。

 誰にも相談できず、1週間ほど悩んだ。
そして、誰もいない放課後の教室で彼と待ち合わせた。

 彼の両親が、きちんとした服装で訪ねてきたことから、
父母を通して私が知ったことまでを、
ありのままに順を追って、彼に話した。
 いつだって穏やかな表情の彼だ。
だから、私の話も最後まで静かに聞いてくれた。

 「そんなことかもと思ったこともあったけど、
やっぱりそうだったか」。
 やや気落ちした表情を、今も覚えている。

 しばらく間をあけてから、彼は私を直視した。
「これからも僕の親はあの2人だ。
でも、ワタルよ。本当の親は誰なんだ。
どこでどうしているんだ」。
 全てを言い終え、ホッとしていた私は即答した。
「知らない」。
 急に彼の顔が豹変した。
あんな厳しい人の表情を見たことがなかった。

 そして、次のひと言を、私は生涯忘れられなくなった。
頼まれごとに慎重になる私の原点である。

 「そんな大事なことを知らないで、
ワタルは話したのか」。
 彼の胸の内を察すると、当然の怒りだとすぐに気づいた。
想いが至らなかった。 
 「ごめん!」。
頭を上げることができなかった。 

 その夜、彼は私から伝え聞いたことをご両親に話した。
そして、変わりない家族でいつまでもいた。

 20年も過ぎた頃、
久々に彼と顔を合わせる機会があった。
 いっぱい酌み交わしながら、
突然、小さい声で彼が耳打ちした。
 「この前、本当の両親にはじめて会ったよ。
ワタル、心配してるかなと思って」。
 ずっとタブーにしていたことだった。
「ありがとう。よかった」。
 私は小声でしか言えなかった。




 サイカチの老木 ~150年前亘理藩の方が移植 
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晴れたり曇ったり その6 <3話>

2022-10-15 11:52:37 | 北の湘南・伊達
 ① 退職は、東京都S区だった。
細々とでも縁をつないでおこうと、
S区の退職校長会には、毎年、年会費を納めている。

 遠方の私が、会の活動に参加できるのは、
年1回発行の『会誌』への寄稿だけ。
 文字数は、300字程度。
私だけでなく、会員はみんな,
わずかなスペースに頭を痛めながら、
想いを綴っているに違いない。

 今年も9月にその小冊子が届いた。
『晴れたり曇ったり その4』で、
S・Yさんの急逝を書いたが、
彼女の一文も、掲載されていた。

 人柄を偲ぶには、十分過ぎた。
まさかこれが遺稿になるとは・・・。
 誰が、これを書かせたのだ。
雨上がりの白い紫陽花と共に、彼女は逝ったのか・・。

 転記する。

   *     *     *     *     *
 
        雨 上 が り
                    S・Y

 6月半ば、蒸し暑い日。新潟実家で三姉妹、兄と4人で会う。
久しぶりの里帰り。
 「俺が、8月で80になるから、最後だと思って集合か。」
邪推する兄。
 ひとまず、「無事あえてよかったね。」
お互い70代だから、いつ、どこで、どうなるか分からない。
 足腰の痛みや視力の衰え、めきめき。
「あっ仏様忘れていた。」
 線香に火を灯し、手を合わせる。
母の好きだった笹団子をいただき、幼い頃の話。
 父が植えた「ナナカマド」の梢から、
雨のしずくが、キラリ。
 庭に白い紫陽花が、朝方の雨を忘れ、
青空に、ポッカリと浮かぶ。

   *     *     *     *     * 


 ② 19年1月のブログに、
『風船に特別な想い ふたつ』と題した一文を載せた。
 まずは、2つ目の想いの一部を抜粋する。

   *     *     *     *     *

 ・・・・随分若い頃に聴いた、
さだまさしの歌・『天までとどけ』だ。
 まずは、その歌詞を添付する。


     天までとどけ

 出逢いはいつでも 偶然の風の中
 きらめく君 僕の前に
 ゆるやかに立ち止まる
 懐かしい風景に 再びめぐり逢えた
 そんな気がする 君の胸に
 はるかな故郷の風
 ※舞いあがれ 風船の憧れの様に
  二人の明日 天までとどけ
  ようこそ ようこそ
  ようこそ僕の街へ ようこそこの愛へ

  ≪2番 省略≫

 求愛ソングとでも言えそうだが、
この曲では、3回も『舞いあがれ 風船の憧れの様に』のフレーズが、
くり返されている。

 さだまさしは、あるコンサートで『風船の憧れ』について、
あるエピソードを語っていた。
 古い話だ。

 まだまだかけ出しの頃らしい。
ある高名な詩人宅に招かれた。
 そこでの歓談で、彼は詩人に問われた。

 「さだ君、風船の恋人を知っていますか。」
彼は、突然の問いに戸惑った。答えに困った。

 すると、詩人は、静かに言った。
「さだ君、風船の恋人は空だよ。
 風船を持っている手をぱっと放してごらん。
すると、風船は、大好きな空へ、
さっと一直線に舞いあがっていくだろう。」

 さだまさしは、詩人の言葉に感激した。 

   *     *     *     *     *

 退職して、毎日がサンデーになってからは、
NHKの朝ドラが日課の1つになっている。
 もう10年になるから、20作も見ている。

 1作1作、制作者も俳優も違う。
だから、出来不出来もある。
 それでも、いつも、楽しみにしている。

 さて、2週間前から始まったのが、
『舞いあがれ』である。
 空に憧れる女性のお話のようだ。
ゆくゆくは、パイロットにでもなるのだろうか。
 まだ、その子ども時代の場面だから、
確かなことは言えない。

 それにしても、さだまさしの『天までとどけ』と、
共通点を感じる。
 その上、このドラマの語り手が、さだまさしなのだ。

 ドラマの舞台は、大阪と長崎県五島だ。
だから、長崎と関わりのある前川清が、
早々と島の医者役で登場した。
 さだまさしも同様の起用なのかもしれない。

 でも、それよりも、やっぱり『風船の恋人は空』が、
『主人公「舞」の恋人は空』になっているようで・ ・・。
 だから、ドラマのベースに、「天までとどけ」の
『舞いあがれ 風船の憧れの様に』があるように思えてならない。
 きっと私だけの理解・・・。
「それでもいい!」。

 その想いが勝手に、回を重ねるごとに期待を膨らませている。
「舞」ちゃんには、風船のように
憧れの大空へ真っ直ぐ飛んでいってほしい。
 さて、握った風船の糸を、ドラマではどんな風にパッと放すのか。
想像するだけで、ワクワクしてしまう。


 ③ 左膝の痛みで、走れなくなったのは、
7月の半ばだった。
 一時は、歩行も不自由でゴルフにも行けなかった。

 MRI検査の結果、半月板損傷と診断された。
医師からは、ランニングからウオーキングに切り替えるよう勧められた。
 検査から2週間位で歩行時の痛みは消えた。
でも、ラジオ体操の飛び跳ねる運動は、痛みで片足だけでしか・・。

 8月中旬、静かに歩きながらゴルフを再開した。
9月のある日、ゴルフのラウンド中、
バンカーにつかまり、後続の方を随分と待たせてしまった。

 グリーンからカートまでの、10数メートルを家内が走った。
私は、急ぎ足でと思ったが、試しに駆け足をしてみた。
 「予想していた痛みが・・・!」。
不思議だった。
 
 その日から、徐々に徐々に恐る恐る、
ゴルフコースでは走る距離を伸ばした。
 散歩でも、横断歩道で「信号が点滅したから」と走ってみた。

 10月1日の朝、思い切って、
家内に伴走を頼み、2キロを目標に走ることに・・。

 痛みを感じ、1キロを過ぎた所で少し歩いたが、
数メートルで再び走り出した。
 もっと走れると思いつつ、その日は2キロ手前まで・・。

 それから3回目の朝ランは、3ヶ月ぶりに5キロへの挑戦。
スロースローのランニングだが、やや冷たくなった風が心地いい。
 「無理は禁物!」。
でも、「走れる! 走れる!」。
 久しぶりの汗が、「気持ちいい!」。

 このまま順調に痛みが消えるとは思えない。
でも、時々は朝ランができそうだ。
 「今度は、いつ走る?」
ずうっと晴れの日が続くといい。 




    落  陽 ~2階の窓辺より
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晴れたり曇ったり その5 <3話>

2022-10-01 12:23:20 | 北の湘南・伊達
 ① ワクチンを4回も打ったし・・、
行動制限もないし・・、「ならば、思い切って!」。
 家内の友達夫妻が、「北海道でゴルフを」と、
東京からやってくることになった。

 彼らとは、パンデミック前の2019年秋に、
長野県の開田高原で、ラウンドして以来、
3年ぶりになる。

 今回は、札幌にホテルを取り、3泊4日の予定で来道。
2日目と3日目がゴルフである。

 とんでもない私の失敗は、その初日だった。

 2人が、羽田空港からのフライトで、新千歳空港に着くのは、
午後4時過ぎだった。

 私と家内も、札幌での4日間を同行するため、
ゴルフバックと一緒に宿泊の着替え等を持って、
空港への出迎えに行く時間になった。

 車のトランクへその荷物を運ぼうと・・。
ところが、思いのほか旅行バックがパンパン。
 その大きさに、「驚いた!」。

 でも、家内が「必要だと詰めたのだから・・・」と、
私自身を納得させ、そのまま車へ積んだ。
 なのに、違和感が残っていた。

 加えて、久しぶりの再会とラウンドに、
気持ちが珍しく高揚していた。

 だからだったと思う。
出発前の確認ルーティーンが、おろそかになった。
 そのまま「よし!」、と車を発進させた。

 北海道の高速道路は、大きな事故でもない限り、
渋滞や通行止めの心配はない。
 強い雨は降り続いていたが、
順調に空港インター出口から一般道へと進んだ。

 空港駐車場が迫った時だ。
ふと、いつも運転席横の肘かけに置いてある
セカンドバックが気になった。
 ハンドルを握ったまま、左手でそのバッグを探った。
「ない!」

 前方を見ながら、急ぎ記憶を追った。
自宅のいつもの場所から、セカンドバッグを手にした覚えがないのだ。
 出発間際の確認をないがしろにしたことを悔やんだ。
「うかつにも・・! ヤッチまった!」。

 セカンドバッグには、財布が入っていた。
現金の他に、運転免許証、キャッシュカード、保険証が・・。
 免許証不携帯なんて、25歳で運転を始めてから、
初めてのことだった。

 一瞬、不携帯でも、4日間を過ごせるかもと・・。
しかし、4日間のこの運転は、私一人だけではなかった。
 「ないままではまずい」。
それに、ホテルでは『どうみん割』などで住所確認が、
求められることにもなっていた。

 急きょ、家内を空港での出迎えに残し、私は自宅へトンボ帰り・・。
3人には札幌へ向かい、夕食などを済ませてもらうことに・・。

 結局、私は、伊達から新千歳空港、そして、新千歳から伊達、
その後、セカンドバックを運転席の肘かけに置いて、
伊達から札幌市内のホテルまで、5時間ものドライブになってしまった。

 誰に怒りをぶつけることもできない。
ただただ、「こんな時こそ事故なく、安全運転で!」。
 強い雨、札幌が近づくにつれて増す交通量、迫る夕暮れ。
その中、冷静にハンドルを握り続けた。

 忘れられない4日間の始まりになってしまった。
「ボケの始まり・・?」
 「そんな訳ない!」 


 ②  9月3日(土)、地元紙・室蘭民報の文芸欄に、
16本目の随筆が載った。
 今回は、教育エッセイ「優しくなければ」のものを加筆した。
読んだ友人から「実話なんですよね」と念押しのメールが届いたが、
幼い体験を再現したものだ。

  *     *     *     *     *

        エ  ス

 近所のシゲちゃんとはよくケンカした。
シゲちゃんは、私に負けず劣らずきかん坊で、
小学校入学前から、道端の棒をひろってはそれを振り回し、
泣きながらやりあった。
 勝負は、いつも仲裁が入って引き分け。
でも、私の気持ちは治まらなかった。

 そこで、いつも愛犬『エス』に登場してもらった。
エスは、すでにかなりの高齢で、見かけは大型だが、
犬小屋の横でデレッと寝ていた。
 そのエスに私はそっと「エス、シゲちゃん、かめ!」と命じた。
するとエスはのらりくらりと歩き出し、
シゲちゃんに近づいていく。
 私は物かげからその後ろ姿を見る。
シゲちゃんはエスにまったく気づかず、私の胸は次第に高鳴った。

 次の瞬間、エスはシゲちゃんのお尻をガブリと。
シゲちゃんは、火がついたように泣き、
エスはそれまでのエスとは見違える素早さで、
犬小屋にもぐり込む。

 しばらくして、シゲちゃんのお母さんがやって来る。
「またお宅のエスがうちの子をかんだ。」とどなって帰っていく。
 母は、床に頭をこすりつけて詫び、すぐに竹の棒を握って犬小屋へ。

 「エス、出ておいで」。
エスは、その棒で一撃される。
 『キャン』、痛そうに鳴くエス。
その声は、私の耳に残った。
 でも、数日後、また同じことをエスに命じた。

 小学校2年のある朝、
とうとうエスの体が、動かなくなった。
 兄弟でなんとか犬小屋に入れ、学校へ行った。
その日、学校の時計がやけにおそく感じた。
 放課後、走って家に戻り、犬小屋を開けた。
エスは、目を開けたまま冷たくなっていた。

 中学生の兄と2人で、大きなりんごの木箱にエスを入れ、ふたをし、
自転車の荷台にくくりつけ、海まで運んだ。
 防波堤の先端から、2人でその箱をほうり投げた。

 真っ赤な大きな太陽が、ちょうど海に沈みかけていた。
水しぶきが一瞬、夕陽に輝いた。
 兄は、手のこうで涙をふいた。
私は、そんな兄に何も言えず、
だまって自転車を引いて、後ろから歩いた。
 初めての死別体験であった。

  *     *     *     *     *  
 
 後日、こんな嬉しいメールが、息子から届いた。
『年間十数本の有名私立中学校模試を作る国語の先生が、
「エス」の文章を絶賛してくれたよ。
 評論について専門的にやっていたこともある人で、
映像が浮かんでくる、こういう文はなかなか書けない、
だそうです。』


 ③ コロナで、地元自治会の活動も大きく制約を受けている。
そんな中、地域を5つに分割している私のブロック=Eブロックで、
『E焚き火の集い』を開催した。

 私は昨年度より、そこのブロック長を務めている。
「コロナ禍でもできる活動はないか!」。
昨年も今年も役員事務局の5人で、話し合いを重ねてきた。
 そして、この状況下でもできることを手探りした。

 事務局には、私の息子よりも若い役員が2人いる。
自治会会館の横は、公園予定地の広場になっている。
 2人は、かねてよりその広場を使って、
テントを張って家族でキャンプがしたいと、漏らしていた。
 それが無理なら、
「キャンプでよくする焚き火だけでもできたらいいのに」とも・・。

 飲食を伴わない催しの手探りは、そこから始まった。
まずは、アウトドア用の焚き火台を数台使い、
公園予定地で焚き火をすることが可能か、
土地を管理する市役所と消防署本部へ、問い合わせることから・・。

 数日後、「自治会の行事なら」の条件で
許可できるだろうと回答があった。
 そこから、自治会行事としての企画を本格的に練った。

 そして、当日午後4時半、
その集いは私の挨拶から始まった。

 参加者約40名、9つの焚き火台を用意し、
1台1台に、子ども達が火付け棒を擦って点火を試みた。
 薪の火が大きくなるたびに、次々と歓声が上がった。

 焚き火台の炎が9つ、静かに燃えさかる中、
プログラムは、電子ピアノの生演奏に進んだ。
 地元出身のピアニストがこの企画に賛同してくれ、
コンサートが実現した。

 4,5名ずつ焚き火を囲み、約1時間の音楽ライブに
聴き入った。
 澄んだ秋空は、パチパチと燃える薪の音と、
ゆったりとしたピアノ曲、そして夕焼けとともに暮れていった。

 最後の曲が終わった6時、辺りはもう真っ暗。
ピアノ演奏の舞台照明と、焚き火の炎だけが闇の中にあった。

 参加者へは、帰りに当たりと外れの野菜セットをお土産に用意した。
その袋を手にさげ、参加者からは「素晴らしかった」の言葉がもれた。

 こんな催しができる地域にいることに、しばらく私は酔っていた。




     栗の木も 実りのとき
               ※ 次回のブログ更新予定は、10月15日(土)です。 
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