伊達は、秋の深まりを伝えている。
1週間程前だ。
久しぶりに胆振線跡のサイクリングロードまで足を伸ばし、
朝のジョギング。
数人だが、散歩をする方々がいた。
追い越したり、すれ違ったりしながら、
相変わらずその1人1人に朝の挨拶をする。
チリリン橋に近づいた時だ。
かすかに『クワッ クワッ』。
「まだ早い」、「そんなことない」。
思いを打ち消した矢先だ。
その鳴き声が、近くなった。
走りながら、振り返った。
刈り入れが終わった田んぼに、
10数羽の白鳥が、舞い降りるところだった。
「アッ、ハクチョウだ。」
思わず声になった。
シベリアからの長旅後の勇姿に、
しばらく心が熱いままだった。
そして、チリリン橋まで。
下を流れる長流川が、波立っていた。
遡上する鮭たちだ。
ホッチャレに群がるカモメやカラスもいる。
命をつなぐ大自然の営みである。
毎年、心がザワつく。
そのまま、有珠山を見上げてみた。
木々が赤さを増していた。
これから、秋は急ぎ足で過ぎていく。
先日から、雪虫も飛んでいる。
雪が近いことを知らせてる。
そうか、紅葉の素敵な美しさの後は、
寒さの到来か。
風邪で体調を崩した昨年の冬を思い出した。
やけに不安がつのる。
こんな時は、旅でもしたくなる。
「旅支度を急ぎ、明日にでも出掛けよう。」
そんな心づもりなどない。
今は、いつか機会があったら、そんな程度。
さてさて、どこへ行きたい?
<1>
テレビのニュース特集で、『長崎くんち』を取り上げていた。
それを見て、7年に1度の『コッコデショ』を知った。
祭りへの、地元の熱い思いが、画面から伝わってきた。
長崎は、2度訪ねた。
江戸時代の交易と原爆投下が、この町の原点だと思う。
だからなのか、『他とは違う独自の地域性』が、
私のイメージだ。
「我が道を行く」。
そんなメッセージが、この町にはいっぱいあるように思う。
夏に訪問した時は、精霊流しの日だった。
町中に爆竹の破裂音が響きわたっていた。
ドラの音と共に各家々の精霊船が、
白装束の人々に曳かれながら、大通りに集まり、
海に向かう。
その長い行列には、
新盆を迎えた方の深い悲しみが漂っていた。
初めて目にしたその模様に、
私はその夜、言葉がなかった。
想像を越えた遙か遠いところの催しに思えた。
でも、同じ国内。
ただその風習に、いつまでも驚きだけが、
私を支配していた。
それは、先日テレビで見た『コッコデショ』も、
同じだった。
それでも、2つの伝統行事だけでなく、
長崎の町には、不思議と違和感がない。
どこかで、共感している。
それは、同じ日本の文化だからなのだろうか。
ああ、もう1度、長崎へ行ってみたい。
そして、吉宗本店の茶わん蒸しと蒸し寿司を食べながら、
長崎に浸り、思いを巡らせてみたい。
<2>
これも、テレビからだ。
ある番組で、私と同世代の仲間が、北アルプスの槍ヶ岳へ登った。
それに、テレビのADが同行した。
その数日間を紹介していた。
30歳代の夏、私も槍ヶ岳に登った。
一般的には、上高地のカッパ橋から、
槍沢を通って山頂を目指すようだ。
だが、その時は、燕岳からの縦走コースを選んだ。
各山荘に2泊する行程だったが、
稜線を縦走する登山道は、今も雄大なまま記憶にある。
しかし、やっとの思いで槍ヶ岳山荘に着いた。
そこに荷物を預け、身軽になって小1時間、
鎖とはしごを使い山頂アタックした。
恐怖心と必死に闘った。
そして、ついに山頂に立った。
達成感の中で目にした、大パノラマ。
同じ映像が、先日のテレビ番組からも流れた。
「もう1度行きたい。」
40代、50代は、日々の忙しさに追われた。
睡眠時間を刻んでの生活だった。
体力の自信が失せていた。
当然、山登りなど、思いつきもしなかった。
しかし、70歳になった今だが、それが違う。
「もう1度、フルマラソンにチャレンジしよう」。
そんな意気込みさえある。
年令と共に、衰えは確かだ。
しかし、健康管理さえ間違えなければ、
まだまだ、まだまだ・・。
「もう歳だから」、そんな言い訳で、
何かを諦めるのはまだ先のこと。
来年は、富士山に挑戦かな・・・!
それより、穂高? いや矢っ張り、槍だ。
<3>
昭和初期、父は岩手県盛岡で働いていた。
いい給料を頂き、羽振りのいい暮らしだったと、
自慢する父を、うっすらと憶えている。
そんなことも動機の1つだったのか、
大学受験の第一志望を岩手大学にした。
18歳の2月だ。
特急列車と青函連絡船、また特急列車と乗り継ぎ、
早朝の盛岡へ降りた。
同じ高校から10数人が一緒だった。
北上川だろうか、橋から川を見た。
学生自治会が斡旋した旅館に、案内され、
翌日の受験に備えた。
うす暗く貧相な宿だった。
随分と冷える日だったのか、暖房がなかったのか、
みんなで、こたつに足を入れ、震えていた。
翌朝、大学まで歩いた。
雪はなかったが、道幅が狭いことだけが、
印象に残った。
受験を終え、帰りの夜行列車まで時間があった。
それぞれ盛岡見物で時間をつぶした。
受験結果は予測できた。
もう盛岡へ来ることはない。
そう確信したので、
盛岡名物『椀子そば』を食べることにした。
4人で、蕎麦屋ののれんをくぐった。
4人とも、私と同じ心境だった。
思い切って、『100杯以上食べると半額』コースを注文した。
それは、他の椀子そばコースより高額だった。
でも、100杯まで行けばいい。
すると割安なのだ。
2人ずつ挑戦した。
4人とも見事途中でギブアップ。
高い蕎麦代になった。
そして、4人は大学受験も同様の結果だった。
以来、盛岡へは行ったことがない。
しかし、もう1度、椀子そばを・・。
今度は味わって食べてみたい。
それから、地元の盛岡冷麺も・・。
そして、花巻まで足を伸ばし、
宮沢賢治の足跡をたどるのもいいかな。
≪つづく≫
朱の染まる桜 落葉の時
1週間程前だ。
久しぶりに胆振線跡のサイクリングロードまで足を伸ばし、
朝のジョギング。
数人だが、散歩をする方々がいた。
追い越したり、すれ違ったりしながら、
相変わらずその1人1人に朝の挨拶をする。
チリリン橋に近づいた時だ。
かすかに『クワッ クワッ』。
「まだ早い」、「そんなことない」。
思いを打ち消した矢先だ。
その鳴き声が、近くなった。
走りながら、振り返った。
刈り入れが終わった田んぼに、
10数羽の白鳥が、舞い降りるところだった。
「アッ、ハクチョウだ。」
思わず声になった。
シベリアからの長旅後の勇姿に、
しばらく心が熱いままだった。
そして、チリリン橋まで。
下を流れる長流川が、波立っていた。
遡上する鮭たちだ。
ホッチャレに群がるカモメやカラスもいる。
命をつなぐ大自然の営みである。
毎年、心がザワつく。
そのまま、有珠山を見上げてみた。
木々が赤さを増していた。
これから、秋は急ぎ足で過ぎていく。
先日から、雪虫も飛んでいる。
雪が近いことを知らせてる。
そうか、紅葉の素敵な美しさの後は、
寒さの到来か。
風邪で体調を崩した昨年の冬を思い出した。
やけに不安がつのる。
こんな時は、旅でもしたくなる。
「旅支度を急ぎ、明日にでも出掛けよう。」
そんな心づもりなどない。
今は、いつか機会があったら、そんな程度。
さてさて、どこへ行きたい?
<1>
テレビのニュース特集で、『長崎くんち』を取り上げていた。
それを見て、7年に1度の『コッコデショ』を知った。
祭りへの、地元の熱い思いが、画面から伝わってきた。
長崎は、2度訪ねた。
江戸時代の交易と原爆投下が、この町の原点だと思う。
だからなのか、『他とは違う独自の地域性』が、
私のイメージだ。
「我が道を行く」。
そんなメッセージが、この町にはいっぱいあるように思う。
夏に訪問した時は、精霊流しの日だった。
町中に爆竹の破裂音が響きわたっていた。
ドラの音と共に各家々の精霊船が、
白装束の人々に曳かれながら、大通りに集まり、
海に向かう。
その長い行列には、
新盆を迎えた方の深い悲しみが漂っていた。
初めて目にしたその模様に、
私はその夜、言葉がなかった。
想像を越えた遙か遠いところの催しに思えた。
でも、同じ国内。
ただその風習に、いつまでも驚きだけが、
私を支配していた。
それは、先日テレビで見た『コッコデショ』も、
同じだった。
それでも、2つの伝統行事だけでなく、
長崎の町には、不思議と違和感がない。
どこかで、共感している。
それは、同じ日本の文化だからなのだろうか。
ああ、もう1度、長崎へ行ってみたい。
そして、吉宗本店の茶わん蒸しと蒸し寿司を食べながら、
長崎に浸り、思いを巡らせてみたい。
<2>
これも、テレビからだ。
ある番組で、私と同世代の仲間が、北アルプスの槍ヶ岳へ登った。
それに、テレビのADが同行した。
その数日間を紹介していた。
30歳代の夏、私も槍ヶ岳に登った。
一般的には、上高地のカッパ橋から、
槍沢を通って山頂を目指すようだ。
だが、その時は、燕岳からの縦走コースを選んだ。
各山荘に2泊する行程だったが、
稜線を縦走する登山道は、今も雄大なまま記憶にある。
しかし、やっとの思いで槍ヶ岳山荘に着いた。
そこに荷物を預け、身軽になって小1時間、
鎖とはしごを使い山頂アタックした。
恐怖心と必死に闘った。
そして、ついに山頂に立った。
達成感の中で目にした、大パノラマ。
同じ映像が、先日のテレビ番組からも流れた。
「もう1度行きたい。」
40代、50代は、日々の忙しさに追われた。
睡眠時間を刻んでの生活だった。
体力の自信が失せていた。
当然、山登りなど、思いつきもしなかった。
しかし、70歳になった今だが、それが違う。
「もう1度、フルマラソンにチャレンジしよう」。
そんな意気込みさえある。
年令と共に、衰えは確かだ。
しかし、健康管理さえ間違えなければ、
まだまだ、まだまだ・・。
「もう歳だから」、そんな言い訳で、
何かを諦めるのはまだ先のこと。
来年は、富士山に挑戦かな・・・!
それより、穂高? いや矢っ張り、槍だ。
<3>
昭和初期、父は岩手県盛岡で働いていた。
いい給料を頂き、羽振りのいい暮らしだったと、
自慢する父を、うっすらと憶えている。
そんなことも動機の1つだったのか、
大学受験の第一志望を岩手大学にした。
18歳の2月だ。
特急列車と青函連絡船、また特急列車と乗り継ぎ、
早朝の盛岡へ降りた。
同じ高校から10数人が一緒だった。
北上川だろうか、橋から川を見た。
学生自治会が斡旋した旅館に、案内され、
翌日の受験に備えた。
うす暗く貧相な宿だった。
随分と冷える日だったのか、暖房がなかったのか、
みんなで、こたつに足を入れ、震えていた。
翌朝、大学まで歩いた。
雪はなかったが、道幅が狭いことだけが、
印象に残った。
受験を終え、帰りの夜行列車まで時間があった。
それぞれ盛岡見物で時間をつぶした。
受験結果は予測できた。
もう盛岡へ来ることはない。
そう確信したので、
盛岡名物『椀子そば』を食べることにした。
4人で、蕎麦屋ののれんをくぐった。
4人とも、私と同じ心境だった。
思い切って、『100杯以上食べると半額』コースを注文した。
それは、他の椀子そばコースより高額だった。
でも、100杯まで行けばいい。
すると割安なのだ。
2人ずつ挑戦した。
4人とも見事途中でギブアップ。
高い蕎麦代になった。
そして、4人は大学受験も同様の結果だった。
以来、盛岡へは行ったことがない。
しかし、もう1度、椀子そばを・・。
今度は味わって食べてみたい。
それから、地元の盛岡冷麺も・・。
そして、花巻まで足を伸ばし、
宮沢賢治の足跡をたどるのもいいかな。
≪つづく≫
朱の染まる桜 落葉の時