ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

もう一度 行きたい  ≪前≫

2018-10-27 17:41:12 | 思い
 伊達は、秋の深まりを伝えている。

 1週間程前だ。
久しぶりに胆振線跡のサイクリングロードまで足を伸ばし、
朝のジョギング。

 数人だが、散歩をする方々がいた。
追い越したり、すれ違ったりしながら、
相変わらずその1人1人に朝の挨拶をする。

 チリリン橋に近づいた時だ。
かすかに『クワッ クワッ』。
 「まだ早い」、「そんなことない」。
思いを打ち消した矢先だ。
 その鳴き声が、近くなった。

 走りながら、振り返った。
刈り入れが終わった田んぼに、
10数羽の白鳥が、舞い降りるところだった。

 「アッ、ハクチョウだ。」
思わず声になった。
 シベリアからの長旅後の勇姿に、
しばらく心が熱いままだった。
 
 そして、チリリン橋まで。
下を流れる長流川が、波立っていた。
 遡上する鮭たちだ。
ホッチャレに群がるカモメやカラスもいる。
 命をつなぐ大自然の営みである。
毎年、心がザワつく。

 そのまま、有珠山を見上げてみた。
木々が赤さを増していた。
 これから、秋は急ぎ足で過ぎていく。

 先日から、雪虫も飛んでいる。
雪が近いことを知らせてる。

 そうか、紅葉の素敵な美しさの後は、
寒さの到来か。
 風邪で体調を崩した昨年の冬を思い出した。
やけに不安がつのる。
 こんな時は、旅でもしたくなる。

 「旅支度を急ぎ、明日にでも出掛けよう。」
そんな心づもりなどない。
 今は、いつか機会があったら、そんな程度。
さてさて、どこへ行きたい?


 <1>
 テレビのニュース特集で、『長崎くんち』を取り上げていた。
それを見て、7年に1度の『コッコデショ』を知った。
 祭りへの、地元の熱い思いが、画面から伝わってきた。

 長崎は、2度訪ねた。
江戸時代の交易と原爆投下が、この町の原点だと思う。
 だからなのか、『他とは違う独自の地域性』が、
私のイメージだ。

 「我が道を行く」。
そんなメッセージが、この町にはいっぱいあるように思う。

 夏に訪問した時は、精霊流しの日だった。
町中に爆竹の破裂音が響きわたっていた。
 ドラの音と共に各家々の精霊船が、
白装束の人々に曳かれながら、大通りに集まり、
海に向かう。

 その長い行列には、
新盆を迎えた方の深い悲しみが漂っていた。

 初めて目にしたその模様に、
私はその夜、言葉がなかった。
 想像を越えた遙か遠いところの催しに思えた。
でも、同じ国内。
ただその風習に、いつまでも驚きだけが、
私を支配していた。

 それは、先日テレビで見た『コッコデショ』も、
同じだった。

 それでも、2つの伝統行事だけでなく、
長崎の町には、不思議と違和感がない。
 どこかで、共感している。
それは、同じ日本の文化だからなのだろうか。

 ああ、もう1度、長崎へ行ってみたい。
そして、吉宗本店の茶わん蒸しと蒸し寿司を食べながら、
長崎に浸り、思いを巡らせてみたい。

 
 <2>
 これも、テレビからだ。
ある番組で、私と同世代の仲間が、北アルプスの槍ヶ岳へ登った。
それに、テレビのADが同行した。
 その数日間を紹介していた。

 30歳代の夏、私も槍ヶ岳に登った。
一般的には、上高地のカッパ橋から、
槍沢を通って山頂を目指すようだ。

 だが、その時は、燕岳からの縦走コースを選んだ。
各山荘に2泊する行程だったが、
稜線を縦走する登山道は、今も雄大なまま記憶にある。

 しかし、やっとの思いで槍ヶ岳山荘に着いた。
そこに荷物を預け、身軽になって小1時間、
鎖とはしごを使い山頂アタックした。
 恐怖心と必死に闘った。
そして、ついに山頂に立った。
 達成感の中で目にした、大パノラマ。

 同じ映像が、先日のテレビ番組からも流れた。
「もう1度行きたい。」

 40代、50代は、日々の忙しさに追われた。
睡眠時間を刻んでの生活だった。
 体力の自信が失せていた。
当然、山登りなど、思いつきもしなかった。

 しかし、70歳になった今だが、それが違う。
「もう1度、フルマラソンにチャレンジしよう」。
 そんな意気込みさえある。

 年令と共に、衰えは確かだ。
しかし、健康管理さえ間違えなければ、
まだまだ、まだまだ・・。

 「もう歳だから」、そんな言い訳で、
何かを諦めるのはまだ先のこと。

 来年は、富士山に挑戦かな・・・!
それより、穂高? いや矢っ張り、槍だ。

  
 <3>
 昭和初期、父は岩手県盛岡で働いていた。
いい給料を頂き、羽振りのいい暮らしだったと、
自慢する父を、うっすらと憶えている。

 そんなことも動機の1つだったのか、
大学受験の第一志望を岩手大学にした。
 
 18歳の2月だ。
特急列車と青函連絡船、また特急列車と乗り継ぎ、
早朝の盛岡へ降りた。

 同じ高校から10数人が一緒だった。
北上川だろうか、橋から川を見た。
 学生自治会が斡旋した旅館に、案内され、
翌日の受験に備えた。 

 うす暗く貧相な宿だった。
随分と冷える日だったのか、暖房がなかったのか、
みんなで、こたつに足を入れ、震えていた。

 翌朝、大学まで歩いた。
雪はなかったが、道幅が狭いことだけが、
印象に残った。

 受験を終え、帰りの夜行列車まで時間があった。
それぞれ盛岡見物で時間をつぶした。

 受験結果は予測できた。
もう盛岡へ来ることはない。
そう確信したので、
盛岡名物『椀子そば』を食べることにした。

 4人で、蕎麦屋ののれんをくぐった。
4人とも、私と同じ心境だった。
 思い切って、『100杯以上食べると半額』コースを注文した。

 それは、他の椀子そばコースより高額だった。
でも、100杯まで行けばいい。
 すると割安なのだ。

 2人ずつ挑戦した。
4人とも見事途中でギブアップ。
 高い蕎麦代になった。
そして、4人は大学受験も同様の結果だった。

 以来、盛岡へは行ったことがない。
しかし、もう1度、椀子そばを・・。
 今度は味わって食べてみたい。
それから、地元の盛岡冷麺も・・。
 
 そして、花巻まで足を伸ばし、
宮沢賢治の足跡をたどるのもいいかな。 

                       ≪つづく≫  




    朱の染まる桜 落葉の時
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戸別訪問 ・ ・ ・ !?

2018-10-20 15:01:11 | 出会い
 それは、8月中旬のこと。
自宅に1本の電話がきた。

 同じ自治会で、顔馴染みになった方から、
「頼まれてほしいことがあるんですが・・」。
 そんな言い出しだった。

 その頼み事とは、
 ・市役所が人探しをしている。
 ・私も頼まれたが、他に引き受け手が中々いない。
 ・そんな難しいことではない。
 ・決められた地区の住宅を見て回って、調査を依頼する。
だいだい、そんな内容だった。

 「なぜ私なの?」
そんなことより、
「引き受け手がいない。」ことに心が動いた。
 さほど面倒な仕事でもないように思えたので、
「私でもできるのなら・・。」
と、お引き受けした。

 数日後、市役所の担当から、
依頼文が届き、一緒に手続き書類の提出が求められた。
 顔写真と共に必要な記載をし、返送した。

 それにしても、久しぶりに目にした行政の文書は、
分かりやすいようで分かりにくいと、感じた。

 10日程置いて、仕事内容の説明会があった。
5年に1度、全国一斉の統計調査だとか。
 市から委託を受けた50人を越える調査員が集まっていた。

 説明は、VTRとパワーポイントを使い、
しっかりと事前準備がされ、行き届いたものだった。
 後は、その場で配られた大小4種類のマニュアルに目を通せば、
理解できると思った。

 今、振り返ると、難しい事は何一つなかった。
しかし、未経験による不安は、年令に関係なかった。
 
 説明会と、マニュアルの読み取りで仕事のおおよそは分かった。
なのに、それが正しい理解かどうか、確信が持てなかった。

 それでも、まず第1ステップが始まった。
調査のお知らせを記したチラシを、
担当地区約150軒の自宅郵便受けに投函するのだ。

 調査員であることを証明する顔写真入りの名札を下げて、
一軒一軒の自宅に、チラシを配布する。

 私は、自宅からやや離れた地区の担当だった。
担当地区には、空き家もあった。アパートもあった。
建築中の住居も、二世帯住宅も、長屋も、いろいろだった。

 あるお宅では、お主人が庭の手入れをしていた。
名札を示しながら、チラシを手渡しした。
 調査は、全世帯ではなく、数軒に1軒の抽出調査だと伝えた。

 「じゃ、当たらないといいけど・・」
「そうですね。でも、当たった時はよろしくお願いします。」
 「その時は、仕方ないよ・・。」
 何気ないやり取りだが、
私が知っている伊達の人と同じ空気感にホッとした。 

 そして、また1人。
 「5年に1度だったか。
ウチは、この前もその前もやったよ。
あれって、どうやって決めてるの。」
 「抽出方法まで、私たちに説明がないので・・」
口ごもる私に、
「いいんだ。いいんだ。
ちょっと言ってみただけだから・・。」

 「案ずるより・・・」だ。
第1ステップは、そんな人の良さに触れながら、
順調にクリアーした。
 
 それから、約2週間後、
市役所の担当から送られた書類には、
30数軒の抽出家屋が明示されていた。

 第2ステップへ進んだ。
抽出されたお宅を戸別訪問するのだ。
 そして、自宅と土地の統計調査をお願いする段取りだ。

 調査票の質問事項に回答する方法と、
インターネットで応じる方法があった。
 統計調査の趣旨と一緒に、調査方法を説明する。

 突然の訪問である。
できるだけ手短で分かりやすい説明を心がけた。

 まずは、訪問宅のインターホンを押す。
応答があると、胸の名札をかざして言う。

 「こんにちは、私は、
国が行っております住宅と土地の統計調査の調査員、
塚原と申します。
 本日は、その調査のお願いに伺いました。」
マニュアル通りを少し明るい口調で伝える。

 「はーい!」
すぐに玄関扉を開けてくれるお宅もある。

 インターホン越しに説明を求め、
「抽出なら、他の家にお願いして・・」
と、言うお宅もある。
 それでも、丁寧に説明すると、
調査票を受け取り、回答を約束してくれた。

 「すみません。もしも変な人ならと、
失礼な口の利き方をして・・・」
 帰り際に、そんな言葉をくれた主婦もした。

 そして、庭でご主人にチラシを渡したお宅も抽出されていた。
インターホンを押し、名札をかざすなり、
突然、聞き覚えのある声が、
 「あれ、ウチ、当たり。そうか、玄関、入って。」
私を快く迎えてくれた。

 一通り調査方法を説明し終えると、
「あれから少し間があったから、
ウチは当たらなかったと思っていたよ。」
 私は、小さく頭を下げた。
「いいんだよ、やり方がわかったから、大丈夫。
ご苦労さんです。」
 笑顔で、見送ってくれた。

 突然の訪問なのに、好意的なお宅が多かった。
初めてのお宅ばかり、そこへの戸別訪問である。

 引き受けたことと言えども、若干気が重かった。
各家の反応が、予測できなかった。
 その分、気を張って、インターホンを押した。
だが、意外だった。
 親しみある応対に、私の気持ちは、軽くなっていった。

 しかし、その日は、おおよそ半数のお宅が留守のようで、
反応がなかった。

 翌日は、休日だ。
午前と午後、2回訪問しようと決めた。
 留守のお宅には、市が用意した訪問の趣旨を書いた置き手紙を、
郵便受けに差し入れることにした。
 その日を終えて、残りが7軒になった。

 次の日、9時前をねらって、訪問してみた。
どこのお宅も、置き手紙が郵便受けにそのままになっていた。

 留守が続いているのか、それとも調査への非協力の意思表示なのか。
ここでも未経験が、不安を駆り立てた。

 それでも、夕方、やや遅い時間帯に再訪問をした。
4軒のお宅が、応対してくれた。

 気をもむことはなかった。
たまたま留守の時に、私が訪ねただけだった。
 「締め切り日までに、回答します。」
どこでも、快諾してくれた。

 また次の日、今度は昼時に、
残りの3軒を訪ねてみた。
 1軒目は、インターホンに応答があった。
「すみません。旅行から今朝帰ったので・・。」
 ホッとしながら、調査依頼をした。 

 2軒目は、2度、3度とインターホンを押してもダメだった。
あきらめかけた時、弱々しい声で、「ハイ」と聞こえた。
 私は、マニュアル通りの自己紹介をした。

 すると、「2日前から、妻も私も、風邪で伏せてまして・・。」
一緒に、咳き込む声も聞こえてきた。

 「じゃ、後日また伺わせて下さい。」
そう言う私に、ご主人は「短い時間で済むなら・・」と、
応じてくれた。

 私は、玄関先で、本当に手短に説明し、調査票を渡した。
そして、期日までに郵送してくれる返事を頂き、玄関のノブを握った。
 その時だ。
奥の間に居らしたのか、奥さんの声が飛んできた。
 「あのう、お帰りになりましたら、
必ずうがいをしてくださいね。
 風邪移ったら大変ですから。」
「わかりました。ありがとうございます。」
 玄関戸を閉めながら、私はぬくまっていた。

 残りの1軒だが、その後もくり返し訪ねてみたが、応答がなかった。
仕方なく、手書きの手紙を添えて関係書類を郵便受けに入れた。
 後日、分かったが、そのお宅も期日までに、調査回答を返送してくれた。

 最後の第3ステップは、
期日までに回答のなかったお宅への再訪問だった。
 「今からでも、お願いします。」
4軒ほど訪ねた。
 どこも、ちょっとした手違いで、すぐに応じてくれた。

 結びになるが、古い話だ。
大学に入学してすぐ、家庭教師のアルバイトをしようと、
学校周辺を、1人で戸別訪問した経験がある。
 それ以来の『戸別訪問』だった。

 “少しの不安感と緊張感を秘めながら”は当時と同じだった。
しかし、今回は、初対面ばかりなのに、
親しみや温もり、そして誠意に出会えた。
 貴重な経験になった。



 
ご近所のお花畑 マリーゴールドがずっと花盛り 
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味覚の秋 inだて

2018-10-13 19:53:19 | 北の湘南・伊達
 この時期、トラックの荷台に山積みのカボチャを、
しばしば目撃する。

 また、畑の脇に、ジャガイモや玉ねぎでいっぱいになった、
農業用スチールコンテナが、いくつも積み上げられている。

 ブロッコリーも、白菜も、大根も、
次々と出荷を待っている。
 
 秋の深まりと共に、伊達の田畑は収穫の時、
真っ盛りだ。

 野菜だけではないが、味覚の秋である。
あれもこれも、美味しい。
 そこで、最近、惹かれる味覚を記す。 


 1 鮭のムニエル
 
 半身の生鮭を持って、
家内がボランティアサークルの例会から戻ってきた。

 サークルのメンバーが、
伊達の海岸で釣り上げたものを頂いたそうだ。

 鮮やかなサーモンピンクで、ひと目で生きの良さがわかった。
「ムニエルと、残りは焼いて醤油漬けにする。」
 家内は、嬉しそうだった。

 こんな時の私は、悪い癖でついヘソが曲がる。
「ド素人に釣られたドジな鮭だ。
そんな鮭、美味い訳がない。」
 半分正気で、言っているから、手に負えない。

 家内は、いつものことと、無言でキッチンに向う。
「そう言い切った私は?」と言えば、
その後、そのことへの関心が次第に薄れ、時を過ごす。

 やがて、夕食の席になる。
その食卓に、バターのいい香りが・・。
 厚切りの鮭のムニエルである。
すぐに箸が、その皿に行く。

 鮭とバターのマッチングがいい。
バターが鮭の美味しさを際立てせていた。
 思わず、心から言っていた。
「この鮭、美味しいね。」
 「そうでしょう。」
家内は、少しだけ笑った。

 突然、「ド素人が釣った・・・」
そう言ったことを思い出し、恥ずかしくなった。

 だが、それよりもこの時期の生鮭は格別。
そう思いつつ、上機嫌で箸が進んだ。
 

 2 ほっけのフライ

 若い頃、都内では、
『炉端焼き』の看板を掲げた居酒屋が人気だった。

 注文した魚や野菜を、目の前で炭火の網にのせて焼いた。
焼き上げると、特大の木べらにそれを置き、客へ届けた。
 そんな流儀の店へ、よく出入りした。

 私は決まって、そこでほっけの開きを焼いてもらった。
それは、小さい頃からの思い出の味がした。
 北海道の懐かしい味でもあった。
大好きだったので、人目もはばからず、
ほっけの皮まで食べた。

 初めて伊達を訪ねた時も、
ホテルの支配人が、勧めてくれたお店で、
焼いた大きなほっけの開きを、出してくれた。
 油ののったその美味しさは、今も印象に残っている。

 さて、私にとってほっけは、焼き魚だった。
それ以外の調理方法で、ほっけを食べたことがなかった。

 煮ても美味しいと聞いたことがある。
だが、関心がなかった。
 焼いて食べるだけで、満足だった。

 ところが、スーパー内で対面販売する魚屋に、
生ほっけが並んでいた。
 そこに『フライでどうぞ』と、添え書きがあった。

 ほっけをフライにする。
初めて知った。

 実は、トンカツ、コロッケを含め、
私は、フライが大好きだ。
 『中性脂肪が高くなる』とか、そんな忠告など無視だ。

 エビフライもいいが、
アジフライの美味しさは、上野のフライ専門店で感激した。
 そして、真だらのフライの美味しさは、伊達に来てすぐ・・。

 早速、生ホッケを買い求め、家内に調理を頼んだ。
どんな味のフライなのか、夕飯が待ち遠しかった。

 フライのさくさく感、そしてふんわりとした魚の食感。
焼いたほっけとは、まったく別物。
 白身魚のやさしい味が、口いっぱいに広がった。

 東京の友人たちに食べさせたいものが、
また1つ増えた。

 
 3 とら豆の煮豆

 小さい頃から煮豆が好きだった。
中学生の頃、それを母に言うと、
翌日から毎日、弁当のおかずが煮豆になった。

 ついに、「違うおかずにして!」と母に怒りをぶつけた。
以来、好きな食べ物から、煮豆が消えた。

 ところが、家内は、煮豆が大好き。
「趣味の欄に、煮豆づくりと書こうかな」と、言うほど。

 なので、よく旅行先のおみやげに、
花豆などその地方の豆を、持ち帰った。
 家内は、それを煮て、食卓にのせた。
私は、あまり箸が進まなかったが、
数日すると、家内と子ども達で完食していた。

 さて、伊達の店頭で懐かしい豆を見た。
とら豆だ。
 白い豆の半分に、濃淡の黄褐色の斑文がある。
そこから『虎』の名がついた。
 私なりに、そう理解している。

 『煮豆の王様』と言う方もいると聞く。
小さい頃、そうまだ煮豆好きだった頃、
私にとって、とら豆は、
超貴重で高級な豆のイメージだった。

 その豆が、他の豆と変わらない値で売っていた。
これだけは、とら豆だけは食べたい。
 早速、煮豆にしてもらった。

 案の定、他の煮豆とは違った。
煮豆の美味しさに、品がある。
 勝手に、高く評価している。

 生産は、北海道でも伊達周辺の胆振と北見地方だけのようだ。
秋の収穫期、その新豆が出回る。
 皮が柔らかく、一段と美味しさが増すのだ。


 4 生プルーン

 伊達の隣に壮瞥町がある。
そこの、支笏湖と洞爺湖を結ぶ国道は、
フルーツ街道と呼ばれている。

 春のさくらんぼに始まり、
今は、リンゴやぶどう、そしてプルーン狩りなどで、
観光客を集めている。

 近隣とあって、伊達観光物産館には、
壮瞥町の果物が、たくさん並ぶ。

 実は、ここで初めて、
生のプルーンを買い求めて、食べてみた。

 それまで、プルーンは、
学校の給食で、ドライフルーツになったものを
食べたことがあった。
 生は、それとは甘みが全く違った。

 一口にプルーンと言えども、
種類は、いくつもあるらしい。
 私は、濃い紫色をした、小ぶりが好みだ。

 国内では、北海道の他、青森県、長野県で、
生食用プルーンは栽培されているとか・・。 
 完熟した甘いプルーンも、あとわずかな期間だけになる。

   

      秋 の 豆 畑 
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