ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

3人の 悲報

2025-01-18 12:57:21 | 思い
 朝刊でいの一番に開くページは、お悔やみ欄である。
自治会の役員になってからは、
葬儀に参列したり、近隣の方へ訃報を伝えたりする。
そのために、必要な情報源なのだ。

 先日、そのお悔やみ欄に、
市内の方で50歳男性の氏名があった。
 喪主は、妻となっていた。

 知らない名前だったが、
その年齢の逝去に驚いた。
 まだまだ若い。
いったい何があったのだろう。
 きっとお子さんもまだ小さいのでは・・。
そんなことが脳裏を走った。

 それから数日後だ。
ある会合に、その方と一緒の職場だった人がいた。

 「前日まで、元気に仕事をして、
夕方、別れたんです。
 でも、翌朝、奥さんからの電話で、
亡くなったと知らせが入ったんですよ」
と言う。

 お子さんが3人いて、
一番下の子はまだ小さいと顔を曇らせた。

 いつもと変わらず就寝し、
翌朝、奥さんが起こすと、
すでに冷たくなっていたそうだ。

 どれだけ同情しても仕切れない。
どれほど無念だったことだろうか。
 ただただ切なくなった。

 さて、私にはこの1年もたたない間に、
親しくしてもらった友人らの悲報が3つも届いた。
 冷静に思い出を綴ることはなかなか難しい。
でも、その努力をしたい。


 ◆ 彼は、初めて校長として着任した小学校の、
PTA会長だった。
 下町の小さな建築会社の社長さんで、
いつも忙しく動き回って仕事をしていた。

 だから、4月1日に校長として彼と挨拶を交わした時も、
所々に汚れがしみ込んだ作業着姿だった。

 「Bチャン、今日くらいはネクタイ締めて、
初めての校長先生に挨拶しなければ」
 ネクタイにスーツの副会長さんが
あきれ顔でそう言った。

 でも、彼は笑顔だった。
「そうしようと思ったけどサ、時間が足りなくて。
校長先生すみません。こんな格好で」
 私は、肩肘をはらないそんな下町気質が、
いっぺんに好きになった。

 だからその日、校長室で2人きりになった折りに、
「会長さん、お互いに遠慮なく、
本音でお話ができればいいなあと思います」
と言った。

 彼は、即答した。
「いいんですか。一番望んでいたことです。
 よかった!」

 以来、2人の距離が急激に縮まった。
PTAの会議が終わると、
彼が声をかけ、役員さん達と一緒によく居酒屋の暖簾をくぐった。
 若干お酒の力もかりながら、本音での付き合いが始まった。

 その後、異動で他の小学校に行ってからも、
彼ら役員さんとよくお酒を飲んだ。
 やがて、年1回の旅行が恒例行事になった。

 旅行では、彼はいつも私の横にいた。
10歳離れた弟のように、遠慮なく接した。
 出会ったときの言葉通り、付き合い続けた。

 その彼が、脳腫瘍に見舞われた。
手術のできる箇所ではなかった。
 腫瘍は徐々に進行した。

 入院し療養生活を送っていることを知らなかった。
突然、逝去のメールが飛び込んだ。
 「えっ、そんな!」と返信するのがやっとだった。
  
 ある時、彼に仕事を頼む関連業者さんが私に言った。
「この社長は、いい加減な仕事は決してしないんです。
いつも頼まれた以上にしっかりと仕上げてくれます。
 だから、安心して依頼できるんです」

 私は肉親が褒められたような気分になった。
「立派だね。そんな風に仕事を褒めてもらえる人って
めったにいないと思うよ。私まで嬉しくなった!」
 その時の少しテレた彼の顔を思い出した。
涙があふれた。

  
 ◆ 私より6歳上の先輩だった。
近づきになれたのは、初めて教頭になり赴任した小学校の、
彼は前教頭だったから。
 新任教頭で、事務手続きなど分からないことだらけだった。
遠慮なくよく電話をし、教えてもらった。
 生真面目だった彼は、いつも丁寧に応じてくれた。
心強かった。

 彼がゴルフを始めた頃、私もクラブを振るようになった。
やがて、年齢差を気にせず一緒にラウンドする機会がふえた。
 一時は、ライバルと互いに認め合った。
しかし、ゴルフへの熱意が違った。
 彼はドンドン上達し、1ランクも2ランクも上を行くようになった。

 年に数回、同じメンバーでのゴルフコンペがあった。
そこで、彼と顔を合わせた。
 先輩であることを気にせず、
コンペでも親しくさせてもらった。

 伊達に移り住んだ翌年の夏、
奥様と一緒に、我が家を訪ねてくれた。

 そこで児童文化研究会の大先輩が、
奥様の小学生時代の担任であることがわかった。
 早速、大先輩の連絡先を教えて上げた。

 奥様は、東京に戻るとすぐ、
小学校の懐かしい担任に電話をした。
 そして、60年ぶりの再会を果たした。

 彼との縁は、それに限らない。
私が所用で東京へ行った時には、
都心の賑わいの中で、
「あれ塚原さん!」と呼び止める声がした。
 思わず声の方を見ると、
あの生真面目な顔だったことも・・。

 その彼が癌にやられた。
闘病生活を送りながら、
退職校長会の仕事だけは最期までやり通した。

 死期が迫っていることも知らず、
私は会誌への原稿提出が遅れ、彼をやきもきさせた。
 届いた原稿を奥さんに託し、その数日後に彼は逝った。
やっぱり生真面目な彼のままだった。 
 
 
 ◆ 今年になってからだ。
伊達に来てからは、年賀状交換だけになったが、
毎年元日には、彼からの年賀状が届いた。
 なのに今年は来なかった。

 今年の私のように体調を崩し、
発送が遅れたものと、さほど気に止めなかった。

 ところが、数日前だ。
奥様の名で葉書が届いた。
そこには『夫I・Tは 昨年12月15日逝去しました』とあった。
 寝耳に水のごとくであった。

 教頭時代から15年に渡り、
彼を含めた4人で、月1ゴルフをしていた。
 教頭4人の共通の趣味であったが、
毎月そろってラウンドするのは、難しいことだった。

 それぞれの家族の理解と協力があって、
続けることができた。

 4人は、偶然だが私を先頭に1歳違いだった。
そして、校長昇進も偶然1年違いで、年齢順だった。

 しかし、ゴルフの腕前は、彼が遙かに上で年齢順でなかった。
どんなスポーツも同じだろうが、
体力や技術の他に、メンタルが勝敗を左右する。

 彼のゴルフは、いつも強気だった。
どんな場面でも、自信をもってクラブを振った。
 いつも不安げにプレーする私とは大違い。
彼の強気は、多くの場合いい結果につながった。
 それに比べ私の結果は、期待外れの連続。
いつも彼のメンタルに一目置いた。

 3年前に、癌が見つかった。
医師からは、「余命1年」と言われたらしい。

 その時から、大好きなゴルフは止めた。
もしかするとできなくなったのかも。
 昨年の年賀状には、
「ゴルフはしてません」とだけ記されていた。
 体調のことなど一切記述はなかった。
だから、闘病生活など想いもしてない。
 そこへの悲報だ。

 きっとゴルフと同じ。
「余命1年」の宣告に、彼は強気で立ち向かったに違いない。
 辛い日々をひと言も私たちに告げず、
強いメンタルで、1年の命を3年に延ばしてみせた。 
 「凄い!」


 

      やっと 畑も 銀世界

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