約5時間半におよぶフルマラソンの道中、
そこでしか巡り会えないドラマから、2つ目を記す。
それは、私が初めて体験する距離、
つまり中間点(21キロ)を、過ぎてからであった。
まもなく楽しみにしていた『30キロのエイド』
と思える湖畔の道だった。
新緑の若葉が、日差しをさえぎり、
疲れた走りを手助けしてくれていた。
でも、足取りは次第に力をなくしていた。
ここまで来るとランナーは、大きくばらけ、
近くには2,3人しかいなかった。
私の足音と息づかい以外に聞こえるものはなく、
5キロを過ぎてからは、沿道にほとんど人影もなかった。
前方に、短パンもTシャツも帽子も白一色で、
やや年長の男性の姿があった。
若干背中も腰も丸く、小柄な方だった。
後ろから見るその走りは、私よりも遅く、
その上ギクシャクとして重たく、疲れ切っているようだった。
数キロ前からずっと、私の前を走っていた中年女性が、
その彼を追い抜いた。
そして、5,6メートル程離れて、
同じように私も走り抜け、同時に彼を見た。
その時、彼は、前屈みの姿勢で、
今にも立ち止まりそうな足取りだった。
しかも、口元からは、よだれのような白い物が、
2筋3筋と糸を引いていた。
私は、一瞬ハッとした。
「倒れてしまいそう。」
立ち止まって、声を掛けるべきだ。
ところが、私はそのまま一歩二歩と足を進めた。
ここで止まったら、
私の足が動かなくなってしまいそうな気がした。
走り続けたいと思った。
でも、見過ごすことなどできないと強く感じた。
走り去ることに罪悪感があった。
ためらいながらも、また1,2歩進んだ時だった。
前を走っていた女性が、突然向きを変えた。
苦しそうに走る彼の元へ、走り寄っていった。
私は、後ろの気配を伺いながら、
ゆっくりゆっくりと走った。
背中に、女性の声が届いた。
「大丈夫ですか。無理なら止まって下さい。」
天使のような声だった。
「大丈夫、大丈夫。
行っていいよ。ありがとう。」
「そうですか。大丈夫なら……。」
あの時、一番救われたのは誰でもない、私だったと思う。
自分の走りよりも、トラブっているランナーを、
見過ごせないと戻った女性。
それをためらった私。
後悔と一緒に、恥ずかしさが全身を包んだ。
女性は、ここまで私の前を走っていた。
私を追い越してくれるまではと、女性を待ちながら走った。
私の横を走り抜ける女性に、弱々しい声だったが、
「ありがとうございます。」
小さく会釈もした。
女性は、不思議そうな顔をして、通り過ぎていった。
▼さて、私の走りである。
目標は、この大会が設定している5時間30分以内に、
ゴールすることだった。
そのために、5キロ毎にタイムを決め、
その速さを守って、走ることにした。
ハーフつまり中間点までは、自信があった。
予定通りの走りだった。
一番の難所は、22キロ過ぎからの約5キロの坂道だ。
経験者は、最大のポイントと言い、
私も、車での下見で同じ思いだった。
その坂道は、走ったことのない距離に、
突入してから始まった。
不安だったが、予想以上に足には力があった。
思いのほかリズムよく上りを走った。
折り返しての下り、25キロを過ぎても、
まだ多くのランナーが、上りに挑戦していた。
突如、さだまさしの『惜春』が、頭に浮いた。
『君は坂道を登ってゆく
僕は坂道を下ってゆく
すれ違い坂は春の名残りに
木蓮の香り降る夕暮れ』
下り坂からの眺めは、
まさに春を惜しむかのような色をしていた。
何度も大きな息をし、無事坂道を走り終えた。
ホッとして、27キロを過ぎた。
その沿道に、携帯用メガホンを抱えた男性がいた。
「さあ、ここからがフルマラソン。
これからの楽しさのために、ここまで走ってきたんです。
存分に楽しみましょう。」
張りのある声で、同じ言葉をくり返した。
ようやく難関を走り終えた私には、
その言葉の意味が分からなかった。
そのまま、その言葉を通り過ぎた。
足の重たさを強く感じ始めたのは、
30キロを目の前にした辺りからだった。
『30キロのエイド』では、
名物のしぞジュースとゆで卵をいただいた。
すごく美味しくて、
ゴールしたような安堵感が、体中をめぐった。
エイドから先、誰もがしばらくゆっくりと歩いていた。
同じように歩き始めたが、思い直してすぐに走りだした。
ところが、試練は31、5キロを過ぎた時、
突然やってきた。
「何で、歩いてるんだ。」
我に帰った時、私は自分の意志とは関係なく、
走るのをやめ、3歩、4歩と歩いているのだった。
訳が分からなかった。
予想もしていない私自身の変化であった。
歩いていることに気づくと、
張り詰めていた気持ちが、急に緩んだ。
私は、混乱した。
もう、走る気持ちはどこかへ行ってしまった。
重たくなった足と、それよりも重たい心を引きずり、
湖畔の曲がりくねった道を、トボトボと歩いた。
左手から、湖の小さな波がポチャリポチャリと寄せていた。
寂しい水音だった。益々首が下を向いた。
切なさに負けそうになり、上を見ると、
若い新芽が輝いていた。
まぶしさに、目を背けた。
「ああ、俺の初フルマラソンは終わった。
やはり無謀な挑戦だった。」
背中を丸め、人目も気にせず、全てを伏せながら歩いた。
ふと、「こんな沈んだ気持ちは久しぶりだ。」と、
過去に体験した同じような想いが脳裏を巡った。
あの時は、こんな言葉を教えてもらい、力が湧いたなあ。
こんな出会いや再会から、勇気をもらったなあ。
そんな数々に助けられ、立ち直ったんだったなあ。
そう思うと、改めて私の幸運に、熱いものを感じた。
少しだけ顔を上げた。
何人ものランナーが私の横を走って行った。
そして、一人また一人と、
急ぎ足で私を追い越していく、歩くランナーがいた。
歩きながらでも、私を追い抜いていく、
その後ろ姿を目で追った。
「どうして、私を抜いていくのだろう。」
自問した。
また一人、そして、もう一人と、
何人かが、私を歩きながら抜いていった。
「わかった。あの人たちは、
まだゴールを諦めてなんかいないんだ。
だから、懸命に歩いているんだ。」
前へ前へ進む背中が輝いていた。
私は、教えてもらったんだ。
しぼんでいたものが、再び力を持った。
「俺も、ゴールを目指す。」
急に、ヒバリのさえずりが耳に届いた。
走ると決めた。
GPS付きの腕時計を見た。
2キロ以上も、ふらふらと歩いていた。
走り出すとすぐ、冷えていた太ももの細い筋が、
ピリピリッと切れたような音がした。
そんなことに、構ってなどいられなかった。
もう一度、気持ちを強く持って、
マイペースでゴールまで走り続けた。
『やさしさ故に傷つけて
やさしさ故に傷ついて
君は坂道を登っていく
僕は坂道を下りていく
すれ違い坂を春の名残りが』
また、『惜春』が頭に浮かんだ。
でも、「惜しむのは、まだまだ先さ。」
心が叫んだ。
ゴールまで残り2キロ、
私は、涙どころか笑顔笑顔だった。
68歳にして、初フルマラソンへのチャレンジ。
27キロ過ぎで聞いた、
あの携帯メガホンの言葉が分かった。
確かに、あそこから先に本当のフルマラソンはあった。
来年もう一度、走ると誓いながらゴールした。
5時間30分には、まだ少し余裕があった。
ゴールのすぐそばに家内がいた。
「頑張ったね。すごいね。」
涙が見えた。
「うん、頑張った。」とだけ言った。
近くの芝生で足を伸ばした。
今日一番のいい風が、湖面から流れてきた。
この年令にしてこんな機会に出会えたこと。
挑戦できる強い体があったこと。
様々な人々の励ましに恵まれたこと。
その全ての幸せが、私をここまで連れてきてくれた。
ナナカマドの花が咲いた≪市内の街路樹≫
そこでしか巡り会えないドラマから、2つ目を記す。
それは、私が初めて体験する距離、
つまり中間点(21キロ)を、過ぎてからであった。
まもなく楽しみにしていた『30キロのエイド』
と思える湖畔の道だった。
新緑の若葉が、日差しをさえぎり、
疲れた走りを手助けしてくれていた。
でも、足取りは次第に力をなくしていた。
ここまで来るとランナーは、大きくばらけ、
近くには2,3人しかいなかった。
私の足音と息づかい以外に聞こえるものはなく、
5キロを過ぎてからは、沿道にほとんど人影もなかった。
前方に、短パンもTシャツも帽子も白一色で、
やや年長の男性の姿があった。
若干背中も腰も丸く、小柄な方だった。
後ろから見るその走りは、私よりも遅く、
その上ギクシャクとして重たく、疲れ切っているようだった。
数キロ前からずっと、私の前を走っていた中年女性が、
その彼を追い抜いた。
そして、5,6メートル程離れて、
同じように私も走り抜け、同時に彼を見た。
その時、彼は、前屈みの姿勢で、
今にも立ち止まりそうな足取りだった。
しかも、口元からは、よだれのような白い物が、
2筋3筋と糸を引いていた。
私は、一瞬ハッとした。
「倒れてしまいそう。」
立ち止まって、声を掛けるべきだ。
ところが、私はそのまま一歩二歩と足を進めた。
ここで止まったら、
私の足が動かなくなってしまいそうな気がした。
走り続けたいと思った。
でも、見過ごすことなどできないと強く感じた。
走り去ることに罪悪感があった。
ためらいながらも、また1,2歩進んだ時だった。
前を走っていた女性が、突然向きを変えた。
苦しそうに走る彼の元へ、走り寄っていった。
私は、後ろの気配を伺いながら、
ゆっくりゆっくりと走った。
背中に、女性の声が届いた。
「大丈夫ですか。無理なら止まって下さい。」
天使のような声だった。
「大丈夫、大丈夫。
行っていいよ。ありがとう。」
「そうですか。大丈夫なら……。」
あの時、一番救われたのは誰でもない、私だったと思う。
自分の走りよりも、トラブっているランナーを、
見過ごせないと戻った女性。
それをためらった私。
後悔と一緒に、恥ずかしさが全身を包んだ。
女性は、ここまで私の前を走っていた。
私を追い越してくれるまではと、女性を待ちながら走った。
私の横を走り抜ける女性に、弱々しい声だったが、
「ありがとうございます。」
小さく会釈もした。
女性は、不思議そうな顔をして、通り過ぎていった。
▼さて、私の走りである。
目標は、この大会が設定している5時間30分以内に、
ゴールすることだった。
そのために、5キロ毎にタイムを決め、
その速さを守って、走ることにした。
ハーフつまり中間点までは、自信があった。
予定通りの走りだった。
一番の難所は、22キロ過ぎからの約5キロの坂道だ。
経験者は、最大のポイントと言い、
私も、車での下見で同じ思いだった。
その坂道は、走ったことのない距離に、
突入してから始まった。
不安だったが、予想以上に足には力があった。
思いのほかリズムよく上りを走った。
折り返しての下り、25キロを過ぎても、
まだ多くのランナーが、上りに挑戦していた。
突如、さだまさしの『惜春』が、頭に浮いた。
『君は坂道を登ってゆく
僕は坂道を下ってゆく
すれ違い坂は春の名残りに
木蓮の香り降る夕暮れ』
下り坂からの眺めは、
まさに春を惜しむかのような色をしていた。
何度も大きな息をし、無事坂道を走り終えた。
ホッとして、27キロを過ぎた。
その沿道に、携帯用メガホンを抱えた男性がいた。
「さあ、ここからがフルマラソン。
これからの楽しさのために、ここまで走ってきたんです。
存分に楽しみましょう。」
張りのある声で、同じ言葉をくり返した。
ようやく難関を走り終えた私には、
その言葉の意味が分からなかった。
そのまま、その言葉を通り過ぎた。
足の重たさを強く感じ始めたのは、
30キロを目の前にした辺りからだった。
『30キロのエイド』では、
名物のしぞジュースとゆで卵をいただいた。
すごく美味しくて、
ゴールしたような安堵感が、体中をめぐった。
エイドから先、誰もがしばらくゆっくりと歩いていた。
同じように歩き始めたが、思い直してすぐに走りだした。
ところが、試練は31、5キロを過ぎた時、
突然やってきた。
「何で、歩いてるんだ。」
我に帰った時、私は自分の意志とは関係なく、
走るのをやめ、3歩、4歩と歩いているのだった。
訳が分からなかった。
予想もしていない私自身の変化であった。
歩いていることに気づくと、
張り詰めていた気持ちが、急に緩んだ。
私は、混乱した。
もう、走る気持ちはどこかへ行ってしまった。
重たくなった足と、それよりも重たい心を引きずり、
湖畔の曲がりくねった道を、トボトボと歩いた。
左手から、湖の小さな波がポチャリポチャリと寄せていた。
寂しい水音だった。益々首が下を向いた。
切なさに負けそうになり、上を見ると、
若い新芽が輝いていた。
まぶしさに、目を背けた。
「ああ、俺の初フルマラソンは終わった。
やはり無謀な挑戦だった。」
背中を丸め、人目も気にせず、全てを伏せながら歩いた。
ふと、「こんな沈んだ気持ちは久しぶりだ。」と、
過去に体験した同じような想いが脳裏を巡った。
あの時は、こんな言葉を教えてもらい、力が湧いたなあ。
こんな出会いや再会から、勇気をもらったなあ。
そんな数々に助けられ、立ち直ったんだったなあ。
そう思うと、改めて私の幸運に、熱いものを感じた。
少しだけ顔を上げた。
何人ものランナーが私の横を走って行った。
そして、一人また一人と、
急ぎ足で私を追い越していく、歩くランナーがいた。
歩きながらでも、私を追い抜いていく、
その後ろ姿を目で追った。
「どうして、私を抜いていくのだろう。」
自問した。
また一人、そして、もう一人と、
何人かが、私を歩きながら抜いていった。
「わかった。あの人たちは、
まだゴールを諦めてなんかいないんだ。
だから、懸命に歩いているんだ。」
前へ前へ進む背中が輝いていた。
私は、教えてもらったんだ。
しぼんでいたものが、再び力を持った。
「俺も、ゴールを目指す。」
急に、ヒバリのさえずりが耳に届いた。
走ると決めた。
GPS付きの腕時計を見た。
2キロ以上も、ふらふらと歩いていた。
走り出すとすぐ、冷えていた太ももの細い筋が、
ピリピリッと切れたような音がした。
そんなことに、構ってなどいられなかった。
もう一度、気持ちを強く持って、
マイペースでゴールまで走り続けた。
『やさしさ故に傷つけて
やさしさ故に傷ついて
君は坂道を登っていく
僕は坂道を下りていく
すれ違い坂を春の名残りが』
また、『惜春』が頭に浮かんだ。
でも、「惜しむのは、まだまだ先さ。」
心が叫んだ。
ゴールまで残り2キロ、
私は、涙どころか笑顔笑顔だった。
68歳にして、初フルマラソンへのチャレンジ。
27キロ過ぎで聞いた、
あの携帯メガホンの言葉が分かった。
確かに、あそこから先に本当のフルマラソンはあった。
来年もう一度、走ると誓いながらゴールした。
5時間30分には、まだ少し余裕があった。
ゴールのすぐそばに家内がいた。
「頑張ったね。すごいね。」
涙が見えた。
「うん、頑張った。」とだけ言った。
近くの芝生で足を伸ばした。
今日一番のいい風が、湖面から流れてきた。
この年令にしてこんな機会に出会えたこと。
挑戦できる強い体があったこと。
様々な人々の励ましに恵まれたこと。
その全ての幸せが、私をここまで連れてきてくれた。
ナナカマドの花が咲いた≪市内の街路樹≫