ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

68 歳 の 惜 春  (後編)

2016-05-27 22:02:02 | ジョギング
 約5時間半におよぶフルマラソンの道中、
そこでしか巡り会えないドラマから、2つ目を記す。

 それは、私が初めて体験する距離、
つまり中間点(21キロ)を、過ぎてからであった。
 まもなく楽しみにしていた『30キロのエイド』
と思える湖畔の道だった。

 新緑の若葉が、日差しをさえぎり、
疲れた走りを手助けしてくれていた。
 でも、足取りは次第に力をなくしていた。

 ここまで来るとランナーは、大きくばらけ、
近くには2,3人しかいなかった。
 私の足音と息づかい以外に聞こえるものはなく、
5キロを過ぎてからは、沿道にほとんど人影もなかった。

 前方に、短パンもTシャツも帽子も白一色で、
やや年長の男性の姿があった。
 若干背中も腰も丸く、小柄な方だった。

 後ろから見るその走りは、私よりも遅く、
その上ギクシャクとして重たく、疲れ切っているようだった。

 数キロ前からずっと、私の前を走っていた中年女性が、
その彼を追い抜いた。
 そして、5,6メートル程離れて、
同じように私も走り抜け、同時に彼を見た。

 その時、彼は、前屈みの姿勢で、
今にも立ち止まりそうな足取りだった。
 しかも、口元からは、よだれのような白い物が、
2筋3筋と糸を引いていた。

 私は、一瞬ハッとした。
「倒れてしまいそう。」
立ち止まって、声を掛けるべきだ。

 ところが、私はそのまま一歩二歩と足を進めた。
ここで止まったら、
私の足が動かなくなってしまいそうな気がした。
走り続けたいと思った。

 でも、見過ごすことなどできないと強く感じた。
走り去ることに罪悪感があった。

 ためらいながらも、また1,2歩進んだ時だった。
前を走っていた女性が、突然向きを変えた。
 苦しそうに走る彼の元へ、走り寄っていった。

 私は、後ろの気配を伺いながら、
ゆっくりゆっくりと走った。
 背中に、女性の声が届いた。
 「大丈夫ですか。無理なら止まって下さい。」
天使のような声だった。

「大丈夫、大丈夫。
行っていいよ。ありがとう。」
「そうですか。大丈夫なら……。」

 あの時、一番救われたのは誰でもない、私だったと思う。

 自分の走りよりも、トラブっているランナーを、
見過ごせないと戻った女性。
 それをためらった私。
後悔と一緒に、恥ずかしさが全身を包んだ。

 女性は、ここまで私の前を走っていた。
私を追い越してくれるまではと、女性を待ちながら走った。
 私の横を走り抜ける女性に、弱々しい声だったが、
「ありがとうございます。」
小さく会釈もした。
 女性は、不思議そうな顔をして、通り過ぎていった。


 ▼さて、私の走りである。
 目標は、この大会が設定している5時間30分以内に、
ゴールすることだった。
 そのために、5キロ毎にタイムを決め、
その速さを守って、走ることにした。

 ハーフつまり中間点までは、自信があった。
予定通りの走りだった。
 一番の難所は、22キロ過ぎからの約5キロの坂道だ。
経験者は、最大のポイントと言い、
私も、車での下見で同じ思いだった。

 その坂道は、走ったことのない距離に、
突入してから始まった。
 不安だったが、予想以上に足には力があった。
思いのほかリズムよく上りを走った。
 折り返しての下り、25キロを過ぎても、
まだ多くのランナーが、上りに挑戦していた。

 突如、さだまさしの『惜春』が、頭に浮いた。

 『君は坂道を登ってゆく
  僕は坂道を下ってゆく
  すれ違い坂は春の名残りに
  木蓮の香り降る夕暮れ』

 下り坂からの眺めは、
まさに春を惜しむかのような色をしていた。
 何度も大きな息をし、無事坂道を走り終えた。

 ホッとして、27キロを過ぎた。
その沿道に、携帯用メガホンを抱えた男性がいた。

 「さあ、ここからがフルマラソン。
これからの楽しさのために、ここまで走ってきたんです。
存分に楽しみましょう。」

 張りのある声で、同じ言葉をくり返した。
ようやく難関を走り終えた私には、
その言葉の意味が分からなかった。
 そのまま、その言葉を通り過ぎた。

 足の重たさを強く感じ始めたのは、
30キロを目の前にした辺りからだった。

 『30キロのエイド』では、
名物のしぞジュースとゆで卵をいただいた。
 すごく美味しくて、
ゴールしたような安堵感が、体中をめぐった。

 エイドから先、誰もがしばらくゆっくりと歩いていた。
同じように歩き始めたが、思い直してすぐに走りだした。

 ところが、試練は31、5キロを過ぎた時、
突然やってきた。

 「何で、歩いてるんだ。」
 我に帰った時、私は自分の意志とは関係なく、
走るのをやめ、3歩、4歩と歩いているのだった。

 訳が分からなかった。
予想もしていない私自身の変化であった。
 歩いていることに気づくと、
張り詰めていた気持ちが、急に緩んだ。
 私は、混乱した。
もう、走る気持ちはどこかへ行ってしまった。

 重たくなった足と、それよりも重たい心を引きずり、
湖畔の曲がりくねった道を、トボトボと歩いた。
 左手から、湖の小さな波がポチャリポチャリと寄せていた。
寂しい水音だった。益々首が下を向いた。

 切なさに負けそうになり、上を見ると、
若い新芽が輝いていた。
 まぶしさに、目を背けた。

 「ああ、俺の初フルマラソンは終わった。
やはり無謀な挑戦だった。」
 背中を丸め、人目も気にせず、全てを伏せながら歩いた。

 ふと、「こんな沈んだ気持ちは久しぶりだ。」と、
過去に体験した同じような想いが脳裏を巡った。

 あの時は、こんな言葉を教えてもらい、力が湧いたなあ。
こんな出会いや再会から、勇気をもらったなあ。
そんな数々に助けられ、立ち直ったんだったなあ。
 そう思うと、改めて私の幸運に、熱いものを感じた。

 少しだけ顔を上げた。
何人ものランナーが私の横を走って行った。
 そして、一人また一人と、
急ぎ足で私を追い越していく、歩くランナーがいた。

 歩きながらでも、私を追い抜いていく、
その後ろ姿を目で追った。
 「どうして、私を抜いていくのだろう。」
自問した。

 また一人、そして、もう一人と、
何人かが、私を歩きながら抜いていった。

 「わかった。あの人たちは、
まだゴールを諦めてなんかいないんだ。
だから、懸命に歩いているんだ。」
 前へ前へ進む背中が輝いていた。
私は、教えてもらったんだ。

 しぼんでいたものが、再び力を持った。
「俺も、ゴールを目指す。」
急に、ヒバリのさえずりが耳に届いた。
 走ると決めた。
GPS付きの腕時計を見た。
2キロ以上も、ふらふらと歩いていた。

 走り出すとすぐ、冷えていた太ももの細い筋が、
ピリピリッと切れたような音がした。
 そんなことに、構ってなどいられなかった。
もう一度、気持ちを強く持って、
マイペースでゴールまで走り続けた。

 『やさしさ故に傷つけて
  やさしさ故に傷ついて
  君は坂道を登っていく
  僕は坂道を下りていく
  すれ違い坂を春の名残りが』

 また、『惜春』が頭に浮かんだ。
でも、「惜しむのは、まだまだ先さ。」
心が叫んだ。

 ゴールまで残り2キロ、
私は、涙どころか笑顔笑顔だった。
 68歳にして、初フルマラソンへのチャレンジ。
27キロ過ぎで聞いた、
あの携帯メガホンの言葉が分かった。

 確かに、あそこから先に本当のフルマラソンはあった。
来年もう一度、走ると誓いながらゴールした。

 5時間30分には、まだ少し余裕があった。
ゴールのすぐそばに家内がいた。
「頑張ったね。すごいね。」
涙が見えた。
 「うん、頑張った。」とだけ言った。

 近くの芝生で足を伸ばした。
今日一番のいい風が、湖面から流れてきた。

 この年令にしてこんな機会に出会えたこと。
挑戦できる強い体があったこと。
様々な人々の励ましに恵まれたこと。
 その全ての幸せが、私をここまで連れてきてくれた。




 ナナカマドの花が咲いた≪市内の街路樹≫
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68 歳 の 惜 春  (前編)

2016-05-20 19:23:09 | ジョギング
 ▼4月17日は、
『春一番第29回伊達ハーフマラソン大会』であった。
 昨年は、エントリーはしたものの、
体調不良等で参加を断念した。

 伊達に来て、丸4年。
遂にこの大会でハーフマラソンに挑戦できる日がきた。
 1年目、2年目そして昨年の大会を思い起こすと、
それぞれの年毎に様々な想いがあった。

 それにしても、私のランニングは、
地元開催のこの大会を知ったことが、大きな動機になっている。
 だから、スタート位置に立った時、
昨年3度走ったハーフマラソン大会とは、
違う想いが脳裏にあった。

 当然、目標は、『自己記録の更新』であっていいはず。
ところが、それどころか、私は、
「どんなことがあっても、完走しよう。」
と、くり返し自分を励ましていた。

 実は、昨年の大会前のことになるが、
総合体育館を利用している有志で、
この大会に参加する人達のサークルができた。

 性別、年令、職業、ランニング歴を問わず、老若男女が集まり、
『スマイル・ジョグ・ダテ』とチーム名をつけた。
 私もその『老』の一人として、加えてもらった。

 今年も、20数名がチーム名入りの、
Tシャツを着て走ることになっていた。

 チームは、大会を前にして3回の練習を計画した。
私は、1,2回目不参加だったので、
大会1週間前の3回目だけでもと、参加した。

 顔馴染みの方も初顔の方もいた。
20名程で、準備体操をし、
大会と同じスタート位置に移動した。

 リーダーが、
「じゃ、ハーフの方、スタートして下さい。」
 私を含めて、6人が走り始めた。 

 走り始めてすぐに、私は近くの女性に尋ねた。
「ねえ、どこを走るの。」
「ハーフのコース。」
予想外の答えだった。
「えっ、ゴールまで全部ですか。」
「そう。」
 当初からの計画だったようである。
私以外はそのつもりで走り出したようだ。

 体が温まった頃、
「早いグループは5分代、遅い方は6分代で走ります。」
と声がかかった。2対4に分かれた。

 当然、私は遅いグループで、
「途中まででも着いていきます。」
と、声を張り上げたものの、
ハーフの全コースを走る心づもりができていなかった。

 他の3人は、表情一つ変えず、淡々と走っていた。
いつの間にか、4人は2対2になり、私は後ろから走った。
 気づくと、前の一人は経験豊かな中年の女性で、
1キロ毎のラップをしっかりと刻んで、走ってくれた。

 その上、坂道では下り方や上り方のホーム、
筋肉の使い方等を的確にアドバイスしてくれた。
すごく参考になった。
 私たちは、一度も足を止めずに走り続けた。

 当然だが、ハーフの距離をグループで走ったのは、
初めての経験だった。
今までとは違う達成感や連帯感があった。

 走り終えて、予定より遅い帰宅に、
「どうしたの。」と家内が玄関まで出てきた。
 「あのね、みんなでハーフ走ってきたの。」
平然とした顔で言う私に、
家内は言葉が出ない有り様だった。

 このことは、私に自信を付けた。
「もう、ハーフならば完走できる。」
胸を張りたい心境だった。

 ところがであった。
翌日そしてその翌日になっても、疲れが抜けないのである。
 朝、目ざめても走る気力がない。
3日後、「こんなんじゃダメだ。」と走ってはみたものの、
足が重く、思うように前へ進まない。

 そんな訳で、私は、予定外の疲れを残し、
しかも、最後のランニング練習も十分ではないまま、
大会のスタート位置にいた。
 だから、「なんとしても完走だけは。」
そんな心境だったのだ。

 天候は、あいにく曇天。
それでも、伊達では滅多にない人の賑わいであった。

 2年越しの大会である。
 いつもより重い足取りで、たくさんのランナー達と走った。
ハアハアと荒い息をしながらも、明るい表情で走る私がいた。

 10数キロを過ぎたあたりから、
予報通り荒れ模様の天気になった。
突然、真正面からの強風に見舞われた。
 16キロからは、時折強い雨も降った。
体力が奪われていくのを感じた。
 でも、気力は充実したままのゴールだった。

 もう少しで、自己記録の更新だったが、
「後半の悪天候では。」と納得した。
 それにしても、1週間前の疲れを残しての完走である。

 ゴール付近で待っていた家内には、
「もう大丈夫。ハーフは完走できる。自信がついた。」
と言い切った。
 1年前、あの不安感に包まれた私とは、
まったく違う姿があった。
 そして、1ヶ月先、エントリーしている
洞爺湖畔1周のフルマラソンに、意欲が湧いた。


 ▼しかし、5月15日の
『第42回洞爺湖マラソン2016』が近づくにつれ、
眠れない日が何度もあった。
 どう考え直しても、42、195キロを走るなど、
私にはできないと思った。

 フルマラソン経験者は、
「ハーフを完走できたのだから、走れますよ。」
と、何度も励ましてくれたが、洞爺湖畔を1周走るなんて、
それは、無理なこととしか思えなかった。

 そう思うと、エントリーしたことを後悔した。
でも、そんな不安は、走ることが解決してくれると思い直した。
 だから、伊達ハーフマラソン大会を終えてからは、
42キロを5時間半で走ることを想定し、
スタミナを考慮した速さで、毎朝10キロを走ることにした。
 怪我にも気をつけ、
体の状態と折り合いをつけながらの練習だった。

 そして、大会の1週間前、
マイカーでマラソンコースを下見した。
 中間点を過ぎてから、
湖畔を離れ往復約5キロの坂道があった。
 評判通り、大変な坂だと感じた。

 それにしても、42キロは車で走っても長いと感じた。
確かに、私なりに練習は重ねてきたが、
完走することに、自信をなくすものになってしまった。

 長男からは、
「途中でリタイアする勇気を持って走ること。」
と、忠告のメールが届いた。
 家内の知人からは、
「無理して怪我をしないように。」
と、心配の葉書を頂いた。
 色々な方から、「無理しないでね。」と気遣いを受け、
そのたびに、「無理しないと走れないよ。」と心で呟いた。

 日に日に、不安は大きくなった。
しかし、そんな時、不思議とそれを払拭し、
強気になるのが私の常だった。
 居直りなのかも知れないが、前夜はグッスリと眠った。

 その日、洞爺湖は素晴らしい快晴。
湖畔は新緑にあふれ、その先に雪解けを迎えた羊蹄山が、
くっきりとした稜線を描き、ランナーを歓迎していた。

 会場に着くなり、何度も尿意がおとずれた。
少し照れながら、トイレを行ったり来たりした。
 スタート30分前、決められたスタート場所へ行った。
案の定、不安な気分が押し寄せた。

 隣に同年代のスリムな女性が並んだ。
ふと背中のゼッケンが気になった。
安全ピンがはずれ、ヒラヒラしていた。
 沿道にいた家内を呼び寄せ、
その女性のゼッケンを直してあげた。

 それからスタートの合図まで、
その方のおしゃべりをずっと聞くことになった。
 大ベテランで、マラソン経験の豊かな方だった。
私が初のフルマラソンだと知ると、
「それじゃ、ゴールできたら泣くよ。
20年前になるけど、私は号泣したもん。」
とひやかした。
 そんな経験談の色々が、私から不安感を消してくれた。

 スタートの合図が響くと、その方は
「じゃ、行ってらっしゃい。私は、後からゆっくりと行くから。」
 ポンと軽く私の背中を押し、離れてくれた。
私のペースを乱さないようにとの配慮だと気づき、感謝した。

 そこから、5時間半におよぶランが始まった。
その長時間の行程では、いくつものドラマがあった。
 その中の2つを記す。

 1つ目は、10キロ付近を走っている時であった。
新緑の湖畔を、まだ多くのランナー達と並走していた。
 誰もが無言で、いくつもの足音と私の息遣いだけが聞こえていた。

 しばらく走っていると、前方から、
時々『ウオー、ウオー』と言う、甲高い奇声が聞こえてきた。
 気に止めず、走り続けていたが、その声が次第に近くなった。

 前を走る野球帽をかぶった青年ランナーの声だと分かった。
その青年の隣には、後ろ姿のよく似た、
私よりは年若い男性が並走していた。
 お父さんと息子だろうと思った。

 お父さんは、息子の手首をしっかりと握っていた。
2、3歩走るたびに、
息子は『ウオー、ウオー』と、甲高い奇声を上げた。
 お父さんは、奇声と一緒に若干興奮気味に走り急ぐ、
息子の手首に力を入れながら走っていた。

 勝手な推測を許して欲しい。
おそらく知的な障害があるのだろう。
 だけど、走ることが好きなのだろうか。
いや、もしかすると、息子にマラソン大会の楽しさを、
教えたかったのかも知れない。
 きっと、私などが想像もできない、
数多くの迷いやためらいがあったことと思う。
 その一つ一つを越えて、
今日、二人で42キロを走ろうと決めたのだと思った。

 私は、しばらく二人の後ろを走った。
息子の手首を、力強く握りながら走るお父さんの背中が、
優しく揺れていた。
 熱いものがこみ上げた。

 まだ10キロしか走っていない。
ゴールははるか先の先だ。

 『私も最後までチャレンジするから、
二人、力を合わせて、どうかゴールしてね。』
 声にはならなかった。

 でも、二人を追い抜きながら、
「頑張って下さい。」
それが、精一杯だった。
 物静かな表情で走るお父さんが、小さくうなずいてくれた。

 励まされたのは、私の方だった気がした。

   <後編につづく>
 



 クロフネツツジが綺麗 ≪だて歴史の杜公園にて≫ 
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シリーズ『届けたかったこと』  (5)

2016-05-13 21:47:48 | 教育
 全校朝会を通して、子ども達と先生方に、
私から『届けたかったこと』を話してきた。
 その5話である。
今回は、事故に関する話題を2つ記す。


 10 急いで、路地から

 先日、帰宅する電車内で、
10年ほど前に担任をしたM君に、バッタリ会いました。
 M君は5,6年生の時、私の学級にいました。

 M君は、席替えのたびに、
「一度でいいから、一番前の真ん中の席になりたいな。」
と明るい声で言っていました。
 その席になったことがないので、
私もそうしてあげたいと思うのですが、
それは絶対に無理なことでした。

 5年生の4月、M君の身長は、
私と同じくらいありました。
 そして、6年生の卒業する頃には、
私が見上げる程になっていました。
 ですから、いつも一番後ろの席に座ってもらいました。

 M君は、少年野球をしていました。
野球を通してM君を知っている大人の間では、
『将来は超一流の野球選手になる』と噂されていました。

 体が大きくて、野球が上手なだけではではなく、
勉強もしっかりしていました。
 また友だちも多く、学級の誰からも人気がありました。
その上、M君には、運動選手らしい、爽やかさがありました。

 ある日の帰りの会で、こんなことがありました。
何故か、その日は珍しくダラダラと帰りの会が続きました。
 私もしびれを切らし、
「終わりにしようよ。」と言おうとしていた時でした。

 M君が、急に立ち上がりました。
「我慢できなかった。やっちまった。」
 一番後ろのM君の席は、
椅子の下がびしょびしょに濡れていました。
 当然、ズボンも色が変わっていました。

 「みんなゴメン。便所で着替えてくる。
後で、床はふくから。先生、いいですか。」
 ロッカーから体操着を取り出すと、
M君は急いで教室を出て行きました。

 突然のことでしたが、
私は、M君がいなくなった教室で、
その時のM君を褒めました。

 6年生にもなって、おもらしをしてしまったけど、
私は素晴らしいと思ったのです

 M君は、帰りの会はきっともうすぐ終わるだろうと、
我慢に我慢を重ねていたこと。
 途中で、トイレに立つのは、
迷惑をかけることになると思ったこと。
 でも、我慢の限界が来てしまったこと。

 そして、おもらしを隠すことなく、
堂々とみんなに知らせたこと。
 恥ずかしさをこらえて謝り、
責任を果たそうとしていること。
 私は、すごく立派な振る舞いだと言いました。

 着替えを済ませたM君は、
水の入ったバケツと雑巾を持って教室に戻り、
濡れた床を一人できれいにしました。
 そして、もう一度「すみませんでした。」と、
深々と頭をさげました。

 その後、みんなは何事もなかったかのように、
いつものように、M君と一緒に仲良く下校していきました。

 私は、その時のM君を見て、
『将来は超一流の野球選手になる』
と、言われている訳が分かった気がしました。
 そして、素晴らしい野球選手になってほしいと
願うようになりました。 

 そのM君と、実に久しぶりに再会したのです。
 周りの人たちより首一つ背が高く、
がっしりとした大きな体をしていました。
 ネクタイにスーツ姿で、懐かしそうな笑顔で、
私に会釈をしてくれました。
 私はあいさつもそこそこに、「どう野球は。」と尋ねました。
 
 電車の中でしたの、深く話を聞くことはできませんでしたが、
私は、ただただ「そうだったの。」と言うだけで、
M君のその時の話に、それ以上返す言葉がありませんでした。

 M君の話は、こうでした。
 M君は、中学校でも野球を続け、
高校は、野球の名門と言われる学校に入りました。
 高校3年生ではレギュラーになりました。

 甲子園を目指した練習に取り組んでいたある日、
M君は不運に見舞われました。
 その日の朝、いつもより少しだけ寝坊をしてしまいました。
いつもの電車に間に合わせようと、自転車で駅まで急ぎました。

 通い慣れた道でした。
いつも気をつけている場所にさしかかりました。
 慌てていて、よく安全も確認せず、
路地から大通りへ、飛び出してしまいました。

 その時、事故にあったのです。
出会い頭、大通りを進んできたトラックに轢かれてしまったのです。

 M君は右足を複雑骨折してしまいました。
もう、全力で走ることができなくなり、
野球をあきらめることになったのです。

 ちょっとした油断だったと思います。
最後に、M君は「悔やんでも、悔やんでもです。」
と、言い残して、電車を降りていきました。

 M君は、おもらし事件でもわかるように、
強くてしっかりした子です。
 ですから、野球が無理でも、
決してくじけたりはしないと思います。
 でも、すごく残念でなりません。



 11 もしも、あの時

 私が、先生になったばかりのころ、
新聞で知った事故のことを話します。

 ある小学校の廊下で、一人の女の子が、
死んでしまいました。
 一人の人間が、学校の廊下で死んだのです。
これは、大変なことです。

 どんなことが原因で死んだのかと言いますと、
廊下を走って、すべってころんだ。
 たったそれだけのことです。 
毎日、どこにでもあるようなことですが、
それで一人の人間が死んだのです。

 4時間目の授業が終わって、給食の時間のことです。
女の子が手を洗いに行きました。
 たくさんの子どもが手を洗いに集まるので、
手洗い場の床は、水でびしょ濡れになりました。

 その上、ハンカチを使わない子が、
手を振りながら教室へ戻るので、
これまた廊下までが、水で濡れてしまいます。

 そこへ、男の子が走ってきました。
男の子は止まろうとしましたが、
廊下が濡れているものですから、
すてーんと転んでしまいました。

 そして、そのままスーッとすべっていったのです。
よくあることです。

 その足が、手洗い場で順番を待って並んでいた、
女の子のかかとにぶつかったのです。
 女の子は、足をすくわれて、でーんと仰向けに倒れました。
頭を強く打ってしまいました。
そして、その場で気を失ったのです。

 周りにいた子ども達はびっくりして、
先生を呼びました。
 保健の先生が来て、様子を見ていると意識が戻りました。
念のため、救急車で病院に行き、入院をしました。

 病院で、元気を取り戻し、一安心していると、
その日の夜、女の子は2回も
夕食で食べた物をもどしました。
 その後、病院は急いで必死に治療が行いました。
しかし、夜明け前、容体が急変し、
女の子は息を引き取ってしまいました。

 もしも、学校中で子ども達全員が、
ハンカチを使っていたら、
あんなに廊下が濡れることはなかったでしょう。
 もしも、誰一人廊下を走る子どもがいなかったら、
そして、もしも、滑って転んでも、
人を倒すほど勢いよく走っていなければ、
女の子の命を奪うことにはならなかったでしょう。

 何にもかえることのできない命が、
こうして亡くなりました。
 二度とこのようなことを、くり返してはなりません。




 一面満開のタンポポ:ご近所の空き地    
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だての人名録 〔4〕

2016-05-06 22:01:54 | 北の湘南・伊達
 終の棲家である伊達で出会った人々とのエピソード。
その第4話である。


  8 来年まで生きてたら

 雪解けと共に、山も野も道端も花壇も、
その木や草花が、芽吹きの時を迎えている。

 今年も、最初に私が足を止めたのは、
ご近所さんの、日当たりのいい庭先に咲いた、クロッカスだ。
 その日、すべての景色が水墨画だった冬の伊達に、
待ち望んだ色が戻ってきた。

 つまり、冬からの目覚めの日である。
これから、全ての生命が彩りの時を迎える。
その『初めの一歩』が来た。

 私は、思わず「春だ。」と、
青や黄、紫の小さな花に、今年も心動かされた。

 クロッカスが咲いた日を境に、
周りは、木や草花に加えて、
小鳥たちも、エゾリスやキタキツネまでもが、活気づくのだ。

 もうすぐ、新緑の時がくる。
続いて、強い日差しに覆われた深い緑色。
そして、いつの間にか10月下旬。
あの唐松が、柔らかな橙色に山裾を染める日まで、
その折々の素敵な色に、街は覆われていく。

 北国は、いま早春。
海に面したこの街は、それを囲むように広がる丘陵の畑で、
盛んに、春野菜の作付けが行われている。

 掘り起こされ、柔らかく整えられた土色の畑に、
キャベツやブロッコリーの新芽が、
凜とした立ち姿で並んでいる。
 そう、まもなくアスパラも芽を出す。

 そんな春の畑を横目に、
のんびりと散歩を楽しむ私だが、
ふと、昨年の夏、
立ち話をした農家の主人を思い出した。

 その方は、農作業用一輪車を押し、
これから畑仕事と言った格好で進んできた。
 私は、真夏の朝、散歩の途中だった。
一輪車に積まれた沢山の野菜の苗に、目が止まった。

 若干腰をかがめ、
頭を真っ白なタオルでおおった小柄なお年寄り。
 そして何よりも、ゆったりとした足取りが、
私に親しみを伝えてくれた。

 「何の苗ですか。」
とっさに尋ねてしまった。
 とうとう私も伊達の人になったようで、
挨拶も自己紹介も省略し、初対面の方に話しかけた。

 「これか、ブロッコリーさ。200個はあるかな。」
「これから、植えるんですか。」
「そうさ。だいたい3ヶ月で収穫できる。
まあ、10月には出荷だな。小遣い銭稼ぎだ。」
「畑は、どちらに。」
「そこ。そのコスモスとひまわりのむこう。」

 立ち話をしている横には、
沢山のコスモスが間もなく開花の時を迎えようとしていた。
 その奥には、満開のひまわりが、これまた一面を覆っていた。

 「このコスモスとひまわりは。」
「俺が、植えたんだ。でも、失敗だ。」
私は、腑に落ちない顔をした。

 「畑と同じ肥やしを入れたんだ。
コスモスが大きくなりすぎた。
これじゃ、ひまわりが見えないもんな。」

 確かに、その通りだった。
でも、見事な眺めだった。
 「そうは言っても、素晴らしいお花畑ですね。
去年もその前の年も、楽しませてもらっていました。」
「そうかい。あっちにあるガーベラとコスモスも、
俺がやってるんだ。」
 「エッ、あのお花畑もですか。」

 例年、秋口になるのを、
楽しみにしているお花畑である。
 見事なまでに色鮮やかなガーベラとコスモスが、
数百坪の畑に咲き乱れるのである。

 「毎年、あの花畑には感激してます。
タダで見せてもらって、申し訳ないくらいです。
こんな機会ですが、本当にありがとうございます。」
 とっさには、うまい言葉が出てこなかったが、
精一杯のお礼を伝えた。

 「そうかい。もう88になるけど、
じゃ、来年もがんばるわ。」
「ありがとうございます。」

 笑顔で、頭をさげ、歩き始めた私。
農家さんも、再び一輪車を押して、畑へ向かった。
 ちょっとの時間が過ぎ、距離があいた。

 「あのさ、来年まで生きてたら、やるから。」
「エッ。」
 立ち止まってふりかえり、言葉を探している私に、
「そう言うこと。」
 後ろ姿がゆっくりと遠ざかっていった。

 今春、その2つのお花畑は、
すでに、柔らかく掘り起こされている。
 


  9 この花の名は

 住まいから徒歩5分の所に、私のお気に入りはある。
1年を通して週に数回は、その場所を散策している。

 早朝も、真昼も、夕暮れ時もいい。
そこは、その時々の自然の素晴らしさを、
いつも私に気づかせてくれる。

 そこは、小川に沿って、
高い木々に囲まれた散策路が、1,3キロほど続いている。
『水車アヤメ川自然公園』と呼ばれている。

 冒頭だが、若干話題がそれる。
 30数年前、市はこのアヤメ川に、
コンクリート3面張りの護岸改善工事を始めた。
 まだ、自然と調和した街づくりなどが、
強調されていない時代だった。

 ところが、市民の有志がこの工事に異議を唱え、
中止を求めて、立ち上がった。
 多くの署名が集まり、市はそれを受け、英断を下した。
工事は数十メートル実施して、取り止めとなった。

 その後、多くの市民が参加し、
当時の国鉄から枕木を無料で譲り受けるなどして、
散策路を作った。

 移住してすぐ、私は、この自然公園の素晴らしさを、
ご近所のお年寄りに熱く語った。
 「まるで、街中のオアシスです。」

 すると、その方は、急にタオルで目頭を抑え、
「そう言って頂き、30年ぶりに報われました。」
と細い声で呟いた。

 一市民として、休みの日には、
せっせと散策路づくりに参加したのだそうだ。
「そうでしたか。」
もっとご苦労に感謝を伝えたかった。
うまい言葉が見つからなかった。

 さて、本題に戻る。
3月の下旬の昼下がりのことだ。
 雪がすっかり消えたその散策路に、
早春を探しにカメラ片手に出かけた。

 現職の頃、草花への興味など皆無だった私である。
野草の名などについては、
胸を張って「無学」と言い切れた。
 それでも、日々伊達の自然に触れ、
草花にも野鳥にも目が行くようになった。

 だから、この日も、誰もが知っている黄色い福寿草以外にも、
レンズを向けた。
 足下に、真っ白な小さな花たちが、
春の淡い光りを受けて咲いていた。

 勇んでシャッターを切ったものの、
その花の名は、当然分からなかった。
 それでも、私は早春の息吹を感じ、浮き浮きしていた。

 アヤメ川は、春の小川らしく
さらさらと澄んだ水音を奏て、流れていた。

 気配を感じ、前方を見ると、
同じ年格好の男女が、カメラにメモ用のファイル板を抱え、
足下の草たちをながめながら、
ゆっくりゆっくりと歩を進めていた。

 私は、二人の横を足早に追い越しながら、
その様子をしっかりとうかがった。
 明らかに、早春の植物観察をしていることが分かった。

 意を決し、振り向いた。
「散策中、申し訳ありません。
全く無学なので、花の名前が分かりません。
今、そこで撮影したのですが、
名前が教えてください。」

 お二人は、すぐに私のカメラをのぞき込んでくれた。
「これは、キクザキイチゲですね。
ほら、ここにも咲いています。」
 足下に、咲き始めたばかりの同じ花があった。

 「花の形が、菊に似てるからキグザキと言うらしいですよ。」
そう言い終わるのを待っていたかのように、今度は女性が、
「その横にある黄色の花は、キバナノアマナです。
もしかすると、甘い草なのでアマナと言うのかも。」

 すかざず、次は男性。
「これこれ、これはアズマイチゲ。
さっきのより、花びらも葉も丸みがあるでしょ。」

 もう、私には弱音をはくしかなかった。
「すみません。最初の花の名前はなんでしたか。」
「キクザキイチゲ。」
「そうでした。どうも覚えが悪くて。」
「漢字で覚えるといいですよ。
イチゲは、数字の一に中華の華と書きます。」
「そうですか。覚えられそうです。」

 お礼もそこそこに、その場を後にした私は、
その後、何も目に入らず、
「キグザキイチゲ、アズマイチゲ、キバナノアマナ」
と呟き呟き、帰宅した。

 わずか3つ、早春の花の名を覚えた。
それだけなのに、散策路を訪ねる楽しみが増した。

 出会った、あの親切なお二人に、もう一度お礼が言いたい。





 ジューンベリーの小さな花・今日、満開を迎えた
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