ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

続 ・ あの時 あのこと

2016-12-30 20:44:54 | 心残り
 今年6月17日付けブロクの続編である。

 教職に就いていた者だからなのだろうか。
それとも、私だからなのだろうか。
 現職を離れて久しいのに、今も時折、
何の前触れもなく、学校での諸々が頭をよぎる。

 そして、ため息をついたり、嘆いてみたり、
時には、自責の念にかられ、
もう一度あの日に戻ってやり直したいと思ったりする。

 その中から、2つを記す。


  (1)

 5年生の担任だった時だ。
6月の中頃、めずらしく転校生があった。

 朝早く、突然学校に来たらしく、
職員朝会前に校長室で紹介された。

 見るからに寡黙そうなお父さんが一緒だった。
すらっとした長い足の女の子で、
これまたおとなしそうだった。
 氏名の確認など、私のちょっとした問いに、
首をふって応えるだけだった。

 その日から、私の学級に加わった。
今まで転校経験はなかったようだが、
すぐに学級に溶け込み、
女子のなかよしが数人できたようだった。

 学力もある程度あり、いつも落ち着いた表情で、
私の話もしっかりと聞いていた。
 自信がないのか、進んで挙手をすることはなく、
自分の考えを言うこともなかった。

 きっと、もっと学級に慣れれば、手も上げるだろう。
「その内に、その内」
私は、安心していた。

 夏休みが過ぎ、9月末だった。
確か月曜日だと記憶している。

 その子が、何の連絡もなく欠席をした。
珍しく自宅に電話がなかった。
 1、2時間目と連絡を待ったが、
気になり、主事さんに自宅まで行ってもらった。

 3時間目の途中で、
主事さんが教室のドアをたたいた。
息が切れ、若干顔色がなかった。

 玄関に忌中の知らせがあったと言う。
近所の方から、「ご主人が亡くなった。」
と、聞いたとのこと。

 慌てて書類をめくった。
なんと、お父さんと二人暮らしだった。
 「あのお父さんが・・・。」 

 その夜、校長先生と一緒にお通夜に行った。
葬儀の場所は、自宅だった。

 古い安アパートの狭い玄関の奥に、
遺影が置かれていた。
 玄関先でお焼香をした。
奥の間に、親戚の方だろうか、
中年の男女とその子がいた。

 手招きすると、外に出てきてくれた。
私の問いかけに、
 1週間位前に様子がおかしくなり、
救急車で病院に運んだ。
 そして、昨日、何も言わずに亡くなったと言う。
入院している間は、一人で家にいたのだと。

 きっと不安な毎日だっただろう。そして、今夜も・・・。
胸がつまった。
 全く気づいて上げられなかった。

 「そうだったの。大変だったね。・・・。」
それ以上の言葉が、何も浮かばなかった。

 翌日、授業をやりくりして、出棺を見送った。
近所の数人がその場にいた。
 昨日と同じ3人が車に乗り込んで行った。

 次の日、その子は学校に来なかった。
かわりに、昼過ぎ、伯母さんという方が来校した。
 転校の手続きをしたいと言う。

 「身寄りは私だけなので、
引き取るしかないんです。」
 困り切った表情にも見えた。
迷惑な事だという顔にも思えた。

 転校の日を尋ねると、「今」と言われた。
この足で、すぐ田舎に戻るのだと言う。
 私は、急いで転校の書類を整えて渡した。

 その子とは、それっきり顔を合わせることもなく、
別れたままになっている。

 今も悔いている。
一教師として、
その子を救う手立てなどないに等しい。
 また、あの急展開の中で転校することになった子に、
私の言葉など、どれくらいの励みになるか。
 全く力など持たないとも思う。

 しかし、教職にある者として、
せめて、心を込めた励ましのひと言くらいは、
当然だったではないだろうか。

 あの時、5時間目が迫っていた。
でも、授業をお願いすることはできたと思う。
 少しの時間でも、
その子に逢うことはできたはずだ。

 私の自己満足でもよかった。
せめて「頑張って。」のひと言を伝えるべきだった。
 「困ったときには、連絡をするんだよ。」と、
私の電話番号と住所くらいは手渡すべきだった。

 どうして、その一歩を踏み出さなかったのか。
私の甘さに、今も心が痛む。


  (2)

 何が理由で、私の隣りで毎日を過ごすことになったのか、
思い出すことができない。

 冬休みがあけてすぐに、
4年生の女子が学校に来なくなった。
 担任が毎日、家庭訪問をし、登校を促した。

 功を奏して、ある日、校門をくぐった。
しかし、玄関先で体を固くし「教室には行かない。」と、
泣きじゃくった。
 このまま帰宅させる訳にはいかないと、
担任と養護教員、そして教頭の私が、彼女を囲んだ。

 その結果、どんなことがどう彼女の心を動かしたのか。
とにかく、私と一緒なら学校にいると言うのだ。

 その日から毎日、職員室の私の隣りで、
彼女は過ごすことになった。

 私は、日々職務に追われた。
その忙しさの横で、彼女は教科書をひろげ、
時には担任が持ってきたプリントやテストをした。
 給食も一緒だった。

 担任や他の先生には、口数が少ないのに、
私には、自分から進んで話しかけてきた。
 分からないところは、何の遠慮もなく質問した。

 時には急の質問に、手が離せない仕事で、
しばらく待つように伝えると、
彼女は少しすねたような顔を作って言い出した。

 「今、教えて欲しいのに・・、ケチ。」
「すみません。ケチですよ。もう一度考えてみて頂戴!」
「そう言って、時間かせぎですね。
わかってますよ。」
 言いながら、彼女は、再び教科書に向かう。

 そんなやりとりが、1日に何度もくり返された。
職員室にいる先生方は、それを耳にして、
目を丸くした。

 そんな1ヶ月が過ぎた頃、
給食を食べながら、
私は、さり気なく言ってみた。
 「教室で食べてみたら・・。」
 「そうしようかな。」

 翌日から、彼女は給食時間だけ教室に行き、
元気よく、また私の隣りに戻ってきた。

 そして、数日後、友だちと約束したからと、
体育の時間だけ、授業に行くようになった。
 その流れは、次第に加速し、
3月初めには、私の横からすっかり姿を消した。

 それでも、毎日欠かさず、帰り際には職員室に寄り、
私と顔を合わせてから、下校した。
 まずは一安心と思い、年度末を迎えた。

 ところが、4月、
私は、他区に校長として異動になった。
 5年生になった彼女は、
学級編制替えがあり、担任も替わった。

 離任式の時、
体育館で、400人の子どもの中にいる彼女を見た。
 目にいっぱい涙をうかべ、
小さく手を振っていた。
 後ろ髪を引かれる思いがした。

 しばらくして、彼女の担任から電話が来た。
再び不登校になった。
 私と話がしたいと言っているとのことだった。

 数日後の夕方、
彼女は担任と一緒に、私の校長室に来た。

 明るい表情でソファーに腰掛けると、
彼女は多弁だった。

 「校長室で何してるの?」
「子ども達は何人いるの?」
「5年生は何人?」
「どうやって通ってるの?電車?」
 私に質問を浴びせた。

 そして、「5年生はつまらない。」
「話しにくい子ばっかり。」
「Mちゃんもいない。Sさんも。I君も。
なかよしは誰もいない。」
 次々と辛い現状を口にした。

 私は質問に答え、聞き役に回るだけだった。
あの職員室でのやりとりのような、
会話のキャッチボールがなかった。
 不安が大きく膨らんだ。
それでも、
「いっぱいしゃべったから、明日から学校行くね。」
そう言い残し、帰って行った。

 翌日、「約束通り登校しました。」と、
担任から電話がきた。
 違和感があった。
私は、彼女と登校の約束などしていなかった。

 しかし、その後の私は、
慣れない校長職に精一杯の日を送った。
 彼女のことは、時折気になったが、
目先の毎日に追い回された。

 夏休み直前、彼女は転校の手続きをし、学校を去った。
私が、それを知ったのは1年後だった。

 悔いが残った。
 あの時、もっと心を開いてあげられたのではないか。
気持ちを楽にしてあげる手立ては、
きっとあったはずなのに・・・。
 もっと気楽に言葉を投げかけてあげれば・・・。

そして、あの時「登校はいつになったっていいんだよ。」
と、一言言えば・・・。

 私は、彼女の胸の内を見誤ったのだ。
どうして、先を見通して、思いを巡らせなかったのか。

 再び、私の甘さを痛感する。
ただ、自分を叱ることしか、今はできない。




   雪化粧したジューンベリー 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Yちゃんとの 1年

2016-12-23 20:19:22 | 教育
 Yちゃんは、脳性マヒで右半身が不自由だった。
右腕は、Vの字のまま脇腹近くにあって、
自力では動かせなかった。
 右足は、つま先立ちの状態だったが、
それを引きずるようにしながらも、歩行ができた。

 Yちゃんが入学した5月に、運動会があった。
私は、高学年の担任だった。
 その年の職員競技は、『借り物競走』。
職員5人1組で走り出した途中に、カードが置いてある。
 拾ったカードに書いてある物を借りて、ゴールするのだ。

 私が手にしたカードには、“1年1組の子ども全員”とあった。
児童席に走り、1年1組の全員を引き連れてゴールした。
 無事にゴールインと思ったが、
はるか先で、女の子が一人足を引きずりながら、
ゴールに向かっていた。
 Yちゃんだった。

 一人置いてけぼりにしたことに気づき、
Yちゃんに駆け寄った。
 不自由な手を握りしめ、2人でゴールした。
たくさんの拍手が聞こえた。
 それが、Yちゃんとの最初の記憶である。

 ▼ それから5年後、
5年生のYちゃんは、隣の学級にいた。
 5年生は2学級だったが、
女性担任の方が、Yちゃんのためだろうと
配慮した結果だった。

 ところが、学級の雰囲気がよくなかった。
明らかにいじめと思われる行為が、くり返された。
 担任は必死で指導した。
親御さんからは、たびたび苦情の訴えがあった。
1年の間、大きな改善が見られないまま過ぎた。

 そこで、私の提案もあり、学校は、
教育委員会と相談の上で、大きな決断をした。

 それは、6学年進級にあたり、学級編制替えはしないものの、
Yちゃんだけ、私の学級に編入させることだった。
 当然、ご両親から同意を得た。

 6年生の初日、Yちゃんと一緒に教室に行った。
「この学級は、みんな仲がいいから、
Yちゃんにもいいと思います。
 だから、今日からYちゃんは、この学級の一員になります。
みんななら、Yちゃんと仲良くできると思います。
よろしくね。」

 私の言葉に、どの子も表情が冴えなかった。
よそよそしさがあった。
 若干の不安がよぎった。

 だが、私の学級には、Yちゃんの幼友達がいた。
もの静かだが、気配りのできる子だった。
 隣り同士の席にし、Yちゃんのお世話を頼んだ。
明るい表情で、Yちゃんに声をかけてくれた。
 その時、Yちゃんは一瞬ニコッとした。

 ▼ 6月に2泊3日の宿泊学習・『日光移動教室』が、
予定されていた。

 5年生の夏休みに行った宿泊学習は、
不参加だったYちゃんである。
 だからこそ、6年生では「何がなんでも!」と、
私は意気込んだ。

 しかし、3日間にわたる校外学習である。
歩行移動も多く、長時間であった。持ち物も多い。
 Yちゃんには介助が必要だった。
今とは違い、区教委には、宿泊学習に、
介助員を派遣する制度がなかった。

 そこで、私は、親御さんに引率をお願いした。
さらに、子どもが宿泊する区の施設に、
特例として親御さんの同宿許可を求めた。
 そのため、校長先生は何度も区役所に出向いてくれた。

 それまでの5年間を通し、
親御さんには学校への不信感があった。
 それでも、私はくり返しYちゃんの参加を熱望し、
協力をお願いした。

 出発の数日前、
「仕事の都合が付いたので」と連絡が入り、
お父さんの引率参加が決まった。

 第1日目、子ども達は大きなリュックを背に、
電車に乗り込んだ。
 その最後尾に、Yちゃんと、
2人分のリュックを背負ったお父さんがいた。
 朝、挨拶を交わしたが、車内でも口の重い方だった。

 宿舎に着いた午後、計画通り『霧降の滝』まで行った。
今と違い、滝壺まで降りることができた。
 往復1時間はかかったろうか、記憶は曖昧だ。
急傾斜を降りて、そこを登って戻る難コースだ。
 Yちゃんには、絶対に無理だった。

 「この辺りで待っていて下さい。
1時間位で戻りますから。」
 滝壺への降り口付近で、お父さんにそう伝え、
私は、子ども達を先導した。

 危険を伴うコースに私は神経を使った。
Yちゃんは、お父さんがいるので、
全く心配しなかった。

 滝壺で、若干時間を取り、今度は登りだ。
きつい登りが続いた。
 その中間付近で、Yちゃんとお父さんに出会った。

 お父さんは、表情を変えずに言った。
「もう少し降りてみます。
2人で宿舎に戻りますから、お先にどうぞ。」
 すっかり安心して、私たちは宿舎へ戻った。

 それから1時間以上が過ぎてから、
2人は林道を戻ってきた。
 私一人、玄関で迎えた。

 「滝壺、見た。」
Yちゃんの笑顔は初めてだった。
 ビックリする私に、これまたお父さんが明るく言った。
「娘が、見たいと言うもんですから。」

 「でも、登りは・・・。」と、口ごもる私に、
「おんぶしてもらった。」
 「そう、よかったね・・・。」
突然、熱いものがこみ上げてくるのを必死でこらえた。

 大人一人でも、あの登りはきつい。
そこを、右腕が不自由な6年生を背負って・・・。
 「娘が見たいと・・・。」
その言葉が、何度も心で響いた。

 「先生、こんないい機会を頂き、
ありがとうございます。」
 夕食の時、隣りの席で、
お父さんが静かに頭を下げた。

 「とんでもない。Yちゃんへの深い愛情に、
私が励まされました。」
 涙がこぼれそうで、私はその言葉が言えず、
ただニコッとした。

 2日目も3日目も、2人は楽しげだった。
男子も女子もは、そんな2人が気になり、
時折振り向いていた。

 ▼ 夏休みが終わり、
半月程したころだったと記憶している。
 昼休み後のそうじの時間だ。

 Yちゃんのお世話をお願いした子など女子5人ほどが、
たまたま職員室にいた私のところへ、
物凄い剣幕でやって来た。

 「先生、男子がY菌、Y菌と言って、
Yちゃんが触ったほうきを使わないんです。」
 「そんなのやめてと言っても、やるんです。」
 「ほうきだけじゃないよ。Yちゃんの机も動かさないし、
Yちゃんに近づかない子もいます。」
 「Yちゃん、すごくかわいそうです。」
次々に怒りを訴える子ども達だった。

 私なりに気にかけていたことだったが、
気づいてやれなかった。

 その日の帰りの会、
私は全員の子を前で、話し始めた。
 “Y菌と言って、Yちゃんを避けることは、
良くない。”
 “Yちゃんを含めて、仲良くしてこそ、
いい学級と胸張れるのに。”等々、熱く語りかけた。

 そして、
「みんなが、Y菌Y菌と言って避けているYちゃんだけど、
みんなと同じように、Yちゃんも、
嬉しいとか、楽しいとか、悲しいとか、辛いとか、
そんな心を持っているんだ。
 Y菌と言われ続けたYちゃんの気持ちを、
想像してごらん。」

 そこまで話した時だ。
学級で一番の人気者で、厚い信頼を集めていた
男子のリーダーの一人、
N君が、突如挙手をして、立ち上がった。

 私は話をやめた。
全員が、N君に注目した。少しの静寂があった。
 次の瞬間、N君は真顔でYちゃんに体を向けた。

 「Yさん、ごめんなさい。
僕は、Yさんの心の中を考えないで、
YさんをY菌と言いました。
 本当にごめんなさい。
 僕が悪い。本当に僕が悪い。
もう決して言いません。Yさん、許してください。」

 N君は、両手を膝にあて、深々と頭をさげた。
そして、上げようとしなかった。

 それを見て、男子が次々と立ち上がり、
あやまりの言葉と一緒に頭を下げた。

 私は、Yちゃんに近寄り、
しっかりと目を見て訊いた。
「Yちゃん、みんなを許してあげてはどう?」
 Yちゃんは、うなずいてくれた。

 私は、思わずYちゃんの頭をなでた。
「辛い思いをさせて、ごめんね。」
 また、言葉にならなかった。

 「明日からのみんなを、私は信じるね。」
それだけ言うのが、精一杯だった。

 その日を境に、学級の雰囲気が変わった。

 ▼ 正月が過ぎ、卒業文集作りが佳境に入った。
Yちゃんは、文字が苦手だった。
 何人もの友だちから手助けを受け、
それでも自筆で、ページを完成させた。
 多くはひらがなだった。

 その作文には、こんな一文があった。
「わたしは、これからもみんなにやさしくします。
やさしくすると、わたしもやさしくしてもらえるからです。」
 
 ある日の放課後、お楽しみ会のために、
紙で輪飾りを作った。のりづけの行程が始まった。
 その担当になったYちゃんだったが、上手く作れなかった。
机に向かったまま、手を止め、一人ボロボロと涙をこぼした。

 数人の女子が手を貸そうと近寄った。
でも、「私の仕事だから、自分で作りたいの。」
 そう言い切り、唇をかんだ。

 1時間近くかけて、1メートル位、輪をつなぎ合わせた。
机は、ところどころにのりが付いていた。
 同じ係の子が、Yちゃんの輪飾りを教室の真ん中に張った。

 その場面と卒業文集の一文が、私には重なった。

 35年も前の1年間だが、
教師として大切なことを学ばせてもらった。




 『だて歴史の杜公園』脇の道にある 立て札 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『終わった人』とは・・・?!

2016-12-16 22:15:52 | 文 学
 10数年前になるが、
内舘牧子さんのエッセイを読んだことがある。
 優しさにあふれた繊細な視線と、
乱れのないしゃれた言葉遣いが、印象に残っていた。

 だから、書店の棚に並んだ話題作に、
彼女の名前があり、目に止まった。

 なんと、そのタイトルが凄い。
『終わった人』である。
 横に『「定年」小説』の文字。
そのインパクトに、つい手が伸びた。

 表紙の帯には、こんな説明があった。

『大手銀行の出世コースから子会社に出向、
転籍させられそのまま定年を迎えた田代壮介。
仕事一筋だった彼は途方に暮れた。
生き甲斐を求め、居場所を探して、惑い、
あがき続ける男に再生の時は訪れるのか?』

 定年を過ぎた者を「終わった人」と称することに、
若干の反発を感じながらも、読むことにした。

 この本は、彼女が初めて書いた連載新聞小説に、
加筆したものだった。

 その書き出し、第1行目が、また強烈だ。
『定年って、生前葬だな。』ときた。

 そして、こんな言葉が続いた。

『… 定年の最後の日だけ…、
ハイヤーで自宅に送ってもらえる。……

 ハイヤーの後部座席に身を沈め、窓を開ける。
全社員が車を囲み、声をあげたり、手を振ったり。
生前葬だ。
その中を、静かに黒塗りは動き出した。
これで長いクラクションを鳴らせば、まさに出棺だ。

 車が動いて間もなくふり返ると、もう誰もいなかった。
サッサとオフィスに戻り、業務の続きを始め、
会社はいつものように動くのだ。
 俺がいなくとも。
 誰も何も困らずに。』

 大同小異である。
彼ほど屈折していないものの、私も同じような風景を体験した。
 足下を見られているようで、恥ずかしくなった。

 小説では、主人公・田代壮介は、その後3年間程、
自分の落ち着く先を求め彷徨う。
 そのドラマについては、是非、一読をお勧めする。

 しかし、様々な場面での彼の想いについては、
同じ『終わった人』として、共感できることが多々あった。

 時に小説は、主人公の言葉を通して、
作者の想いを代弁すると言う。
 きっと、壮介に、内舘さんの想いも、
にじんでいるに違いない。

 大変乱暴なのだが、私の視線で
全370ページの小説から、そんな言葉を探してみた。


 ① 今、咲き誇っている桜は、
散っていく桜を他人事として見ているだろうけど、
しょせん、そいつらもすぐに散る。
残る桜も散る運命なんだ・・・。


 ② ・・15才からの努力や鍛錬は、
社会でこんな最後を迎えるためのものだったのか。
 こんな終わり方をするなら、
南部高校も東大法学部も一流メガバンクも、
別に必要なかった。

 人は将来を知り得ないから、努力ができる。
一流大学に行こうが、どんなコースを歩もうが、
人間の行きつくところに大差はない。 


 ③ 中には「やることがないなんで最高だ。
早くそうなりたい。
やることに追われる日々から解放されたい。」
と言うヤツがいる。

 ヤツらはそう言ってみたいのだ。
その言葉の裏には、自分の今の日々が充実していて、
面白くてたまらないということがある。
本人もそれをわかっているから、言ってみたい。

 たったひとつ、わかっていないのは、
そういう日々がすぐに終わるということだ。


 ④ 俺は一流大学から一流企業こそがエリートコースだと思い、
実際、そう生きてきた。
・・・。
 サラリーマンは、人生のカードを他人に握られる。
配属先も他人が決め、出世するのもしないのも、
他人が決める。・・・

 出世も転籍も、他人にカードを握られ、
他人が示した道を歩くしかなかった。
それのどこがエリートコースだ。

 ならば辞表を叩きつけよと言われても、
それはできないものだ。
生活があり、家族がある。


 ⑤ オンリーワンは、人として大切なことだ。
 だが、社会ではよほど特殊な能力でもない限り、
オンリーワンに意味を見てくれない。
替えは幾らでもいるからだ。
世間はその替えにすぐ慣れるからだ。

 とはいえ、ナンバーワンでさえ、
替えは次々に出てくる。
それが社会の力というものなのだ。


 ⑥ よく「身の丈に合った暮らしをせよ」と言う。
 それは正しい。だが、身の丈は人それぞれ違う。

 俺は定年後も社会に出て、
競争したり張り合ったり、
肝を冷やしたり走り続けたりということが、
身の丈なのだ。

 世間では、定年後までそんな暮らしをするのは、
あまりにも人として貧しいだとか言う。
・・・、生きる喜びを知らないだとか言う。
大きなお世話である。

 趣味を持たねばと、自分に習いごとを課したり、
読書や仲間作りに精をだしたりする方が、
俺にとっては貧しい人生なのだ。
身の丈にあわないのだ。


 ⑦ サラリーマンとして成功したようであっても、
俺自身は「やり切った。会社人生に思い残すことはない」
という感覚を持てない。
成仏してないのだ。
だからいつもまでも、迷える魂がさまよっている。


 ⑧ 年齢と共に、
それまで当たり前に持っていたものが失われて行く。
 世の常だ。
親、伴侶、友人知人、仕事、体力、運動能力、記憶力、
性欲、食欲、出世欲、そして男として女としてのアピール力…。

 男や女の魅力は年齢ではないと言うし、
年齢にこだわる日本は成熟していないとも言う。
だが、「男盛り」「女盛り」という言葉があるように、
人間には盛りがある。

 それを過ぎれば、あとは当たり前に持っていたものが
次々に失われて行く。
・・・とはいえ、そんな年齢に入ったと思いたくない。
だから懸命に埋めようとする。
まだまだ若いのだ、まだまだ盛りだ、まだまだ、まだまだ…。


 ⑨ 10代、20代、30代と、
年代によって「なすにふさわしいこと」があるのだ。
 50代、60代、70代と、あるのだ。

 形あるものは少しずつ変化し、やがて消え去る。
それに抗うことを「前向き」だと捉えるのは、
単純すぎる。

 「終わった人」の年代は、
美しく衰えていく生き方を楽しみ、
讃えるべきなのだ。


 ⑩ (高校時代の友「16番」と再会。その「16番」の言葉)
 「死んだ女房の口癖思い出してさ、
俺が何か落ちこんだりして、
昔はいがっただのって嘆いたりするたんびに、
女房は東京の下町の女だからべらんめえで叱るのす。
『ああ、しゃらくさい。
思い出と戦っても勝てねンだよッ』てさ」

 俺は黙った。・・・。
ああ、俺は定年以降、
思い出とばかり戦ってきたのではないか。

 思い出は時がたてばたつほど美化され、
力を持つものだ。
 俺は勝てない相手と
不毛な一人相撲を取っていたのではないか。


 ⑪ 何にでも終わりはある。
早いか遅いかと、終わり方の善し悪しだけだ。
 いずれ命も終わる。
そうなればいいも悪いもない。
 世に名前を刻んだ偉人でもない限り、
時間と共に「いなかった人」と同じになる。
 そう考えれば、気楽なものだ。


 ここでもう一度、田代壮介の想いをふり返ってみる。

 彼は想うのだ、
 “人はみんな、散る桜の運命にある”と。(①から)
ましてや、“人生の旬は一瞬、すぐに終わる。”(③から)

 その上、“サラリーマンは、
人生のカードを他人に握られている”(④から)
 そして、“オンリーワンもナンバーワンも替えは幾らでもいる。
それが社会の力なのだ。”(⑤から)

 だから、“定年とは、自分の仕事にもう思い残すことはないと
成仏することである。”(⑦から)
 しょせん
“終わった人としてのゴールには、大きな差などない。”のだから(②から)

 壮介は、自身を顧みて、そう納得する。
だが、
“身の丈にあった暮らしは、人それぞれ違っていい。”(⑥から)
“確かに年齢と共に失うものはあるが、
まだまだ盛りだ、まだまだ…。”(⑧から)
と、強がりたい。
 
 しかし、“思い出と戦っても、勝てない。”(⑩から)
“終わった人は、美しく衰えていくべきだ”(⑨から)
と、想うに至るのだ。

 さて、私ごとになる。
私の町を横断する基幹道路の国道37号線は、
10月末から今も、大型ダンプカーの往来が激しい。

 道南各地で収穫したビート根を、
町外れの製糖工場に運んでいるのだ。
 昨年も一昨年も、その車両を見た。
しかし、今年の私は、それを見る目が違う。

 雪解けと共に、畑に植え付けたビートの苗が、
春、夏、秋を経て、大きな根に育った。
 それまでの月日は、決して順風満帆ではなかったことを、
私は知っている。

 その苦労の成果を収穫し、ダンプカーは積み、
製糖工場へ走る。
 やがて、あの真っ白な砂糖に生まれ変わる。

 1年間におよぶ砂糖作りのご苦労を思うと、
国道を走り抜けるダンプカーは、
力強く頼もしく、輝いて見える。
 「頑張れ、ダンプカー!」

 去年までと違った想いに、感情が高ぶる。
同時に、そんな私自身に、驚きも覚える。

 最近、富みに思うことだが、
この年齢、そしてこの生活リズムだからなのか、
ビートを積んだダンプカーに限らず、
新しく芽生える感情や想いに心がざわめく。

 それを『美しく衰えていく生き方』というのだろうか。
ならば、その生き方を大いに楽しみたいと、私も思う。





   雪化粧した 有珠山
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

68歳の 夏畑から秋雲

2016-12-09 22:09:12 | ジョギング
 5月20日、27日のブログで、『68歳の惜春』と題し、
『第42回洞爺湖マラソン2016』で、
フルマラソンに初挑戦した模様を記した。

 5時間13分でゴールした後、私は、
「この年令にしてこんな機会に出会えたこと、
挑戦できる強い体であったこと、
様々な人たちの励ましに恵まれたこと、
その全ての幸せが、
私をここまで連れて来てくれた。」
と、胸を熱くした。
 そして、数日、経験したことのない達成感に包まれた。
 
 さて、その後であるが、
6月は道南の八雲町で、9月は道北の旭川市で、
11月は東京の江東区で、ハーフマラソンに挑戦した。


 1、6月の八雲町

 北の大自然は、もの凄い足取りで、
新緑から草花が謳歌する時へと移っていく。

 特に6月の伊達は、アヤメが綺麗。
家々の庭を陣取る紫色も、道端にすっくと立つ黄色も、
そして公園で群れるビロード色も。
 「私だけでは勿体ない!」
その鮮やかさを、誰かに教えてあげたい。
 そんな衝動に、襲われる。
畑も、トウモロコシの茎がすっくと並び、
ビートの緑も、力を持ち始めるのだ。

 そんな躍動の時、私は昨年同様、
八雲の陸上競技場に立った。

 逃げ出したい心境でいた1年前のスタートとは違い、
まわりの人々に、目をやりながら号砲を待つ。

 この大会には、アットホームな雰囲気があった。
昨年、走り終えると、競技場の芝生席で、
弁当を広げる人たちの多さに驚いた。
 今年は、家内におにぎりをリクエストし、持参した。

 参加者300人少々。でも、健脚ぞろいだ。
 スタート前の熱気がすごい。
そのエネルギーに気おされて、最後尾から着いていく。

 案の定、声援は2キロも行かないうちに、
牛だけになる。
 周りにいたランナーもばらけ、私は一人旅。
1キロごとにいる大会スタッフに、
軽く手を挙げ、また1キロ。

 昨年よりもコースのアップダウンが厳しく感じる。
気のせいと言い聞かせ、14キロを通過。

 沿道の家内から、「少し遅いよ。」と激が飛ぶ。
目が覚めた。一歩一歩に力を込める。

 残り2キロの直線コース。
昨年は歩きたい衝動と戦っていた。、
 スイスイと足が出た。
成長していると思え、明るくなる。

 ゴール後、おにぎりが待っていた。
きっと、ここは年に1,2度の賑わいだろう。
 応援席のあちこちから、
走り終えた明るい声が、飛び交う。

 密かに設定していたタイムには届かなかった。
それでも、この場にいることが嬉しかった。

 ミルクロードと緑、
そして、疲れた足を投げ出してのおにぎり、
格別だった。
 大空で、ひばりが一羽、忙しくさえずっていた。


 2、9月の旭川市

 お盆が過ぎてから、北海道は4つの台風に見舞われた。
その度に、農作物が大きな打撃を受けた。

 東京暮らしとは違い、今はすぐそこの田畑で、
農家さんがトラクターを動かし、
腰を屈め、汗する姿を見ている。
 だからだろう、
ニュースから流れる被害農家さんの声に、
ひと際、胸がつまった。

 「台風だもの、しょうがないしょ。
でも、来年がどうなるか。がんばるだけ。」

 さらに、最後の台風10号は、伊達をも大きく変えた。
深夜強い風が吹いた。
 樹齢百数十年と言う大木を、何本も根こそぎなぎ倒した。
 
 散策路は閉鎖になり、
ゴルフ場では、百本以上の倒木を見た。
 太い木が縦に裂け、生の木肌が露出していた。
歴史の重みを無視する、自然の非情さを痛感した。
 恵みとは裏腹な自然の脅威を、
目の当たりにし、私は混乱した。

 そんな夏の出来事から、4週間後。
私は、旭川の花咲陸上競技場にいた。
 異常気象は、ここにもあった。

 旭川は、もう秋が始まっていていい。
なのに、この日は快晴の上、
気温がどんどん上昇した。真夏のようだった。

 しかし、私の体調は万全、自信があった。
自己記録の更新をと、意気込んでいた。

 走り始めて2キロを過ぎた辺りだったろうか、
手首と手首を紐で結んだランナーがいた。
 視覚障害の方と伴走者だ。

 私は、2人を追い抜きながら、声を上げた。
「頑張って下さい。」
「ありがとうございます。」
 2人は、一緒に頭を下げた。

 私の後ろで、1人また1人から、
「頑張って!」の声が飛んでいだ。
 体も心も、爽快な走りが続いた。

 ところが、思いのほか暑さを感じ始めた。
5キロと10キロの給水ポイントでは、
多めの水分を摂った。

 12キロを過ぎた辺りからだっただろうか、
異変を感じ始めた。
 いつもより汗がひどい。足が重たい。息が荒い。
ハイペースからか、暑さからか、
思うように足が進まない。

 疲れを感じる。
こんな体験は初めてだった。
 いつかペースが戻ると信じて、腕を振り続けた。

 残り5キロ付近まで来た時だ。
ランナーが一人、倒れていた。
人だかりができていた。
 大会スタッフが救急車を呼んでと叫んでいた。

 私は、安全走行に切り替えた。
制限時間内でのゴールインだけを目指した。

 競技場のトラックで、
エールを送った、あの視覚障害の方と伴走者に抜かれた。

 体調の良さを過信したこと、
気象条件を軽視したことを悔やんだ。
 走ることの難しさを、教えてもらった。


 3、11月の江東区

 大会の1週間前、
伊達で初めて風邪をひき、内科医へ行った。
 ハーフマラソンの予定を伝えると、
疲労感の少ない薬を処方してくれた。

 当日、ホテルで朝食をとりながら、迷った。
走るかどうかは、会場に行ってから決めることにした。
 それだけ、体調は万全でなかった。

 夢の島陸上競技場に着くと、
沢山のランナーと応援の人で熱気があった。
 心は決まった。
絶対に無理はしない。
完走が難しいようなら、途中で棄権する。
 そう自分に約束し、スタート位置に立った。

 沢山のランナーと一緒に走る魅力に負けた。
とにかく走りたかった。

 明治通りから永代橋通りへ曲がった。
沿道での応援が多くなった。
 『〇〇さん、ガンバレ』のプラカードが、
いくつもあった。
 そんな賑わいは、
参加した北海道の大会ではなかった。
 やっぱり、いい雰囲気だ。

 さて、若干話題が変わる。
沿道の人々は、それぞれ声援を送りながら、
ランナーの走りを見ている。

 ランナーはと言えば、
走りながら、声援を送る沿道の人たちを、
何気なく目で追っているのだ。

 この日は曇天だった。
ランナーの中には、
レース用の簡易ビニールカッパを着ている人がいた。

 その一人が、そのカッパを脱ぎ、
沿道にいた穏やかそうな中年男性に近づき、
「捨ててください。」と、頼んだ。

 「エッ。俺かよ。」
沿道の紳士は、不機嫌そうにそれを手にすると、
道路わきの生垣に、思いっきり投げ捨てた。

 カッパを渡したランナーは、
それを見たが、そのまま走っていった。
 すぐそばを走っていた私は、不快感を覚えた。
重たいものが胸に残ったまま、しばらく走り続けた。

 カッパを渡したランナーが悪い。
突然カッパを頼まれ、不快に思った方が悪い。
 甘えとも、不寛容ともとれる双方の行為に、
私は、走りながら堂々巡りをしていた。
 足取りも重くなった。

 それから、数分後、
「ガン、バレー! ガン、バレー!」
やや奇妙な抑揚の声が聞こえてきた。
 注意しながら、その声の沿道を見た。

 車いすには、厚手の毛布がかけられていた。
小旗を片手にした老婆は、
焦点の定まらない表情で、
くり返し声を張り上げていた。

 車いすの後ろでは、
50代かと思われる似た輪郭の女性が、
フェイスタオルで、何度も目頭を押さえ、
立っていた。

 この後は、私の想像を許してほしい。

 『母は病に倒れた。
その母が、沢山のランナーに夢中で声援を送っている。
 大きな声など、久しく聞いてなかった。
いつも「頑張って、頑張って」と言われる母が、
今日は、そう言って、精一杯声を張り上げている。
 それが嬉しい。涙があふれる。』

 その場を走りぬけてからも、
勝手に、しばらくそんな想像をしていた。
 そして、これまた勝手に心を温め、
その声援に応えて、走り続けた。

 沿道の2つの光景の順が、反対でなくてよかった。
その後の私は、気持ちのいいままで走った。
 万全でない体調だったが、無事ゴールした。

 苦しかった旭川に比べ、
走り切った心地よさが残った。

 迎えた家内に開口一番、
「楽しかった。」と笑顔を見せた。

 そして、ゴールしたランナーの晴れ晴れとした顔が、
そこにもここにも溢れていた。
「あぁ、この雰囲気が、好きだ!」

 次の大会は、来春、69歳になってから。




 我が家の玄関で来客を待つ、楽し気な二人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『北の国から』 あのシーン ③

2016-12-02 22:04:59 | 北の大地
 東京の知人たちが、夏休みを利用して、
わざわざ伊達に足を運んでくれた。

 車で小1時間もかからない市内観光だが、
色々な所で下車しシャッターを切り、
風景をカメラに納めていた。

 小高い農道から、なだらかな丘陵に広がる、
色とりどりの畑を見下ろし、
大きく息をはき、つぶやいた。

 「わざわざ富良野まで行かなくても、
ここは『北の国から』と同じ。」

 私もそう思っていた。嬉しかった。
その言葉を、宝にしている。

 さて、前々回、前回に引き続き、
ドラマ『北の国から』の、生き続けている場面を綴る。


  ⑥ 大人の壁を越え

 1992年5月22日・23日、
2夜連続で放映されたのが、『‘92巣立ち』だ。
 純は、東京のガソリンスタンドで働き、
蛍は旭川の看護学校にと、
2人とも富良野を離れていた。 

 この『‘92巣立ち』のいくつもの場面に、
私は、よく立ち止まった。
 何度も、心動かされ、熱いものがあった。
私の中では、名作なのである。

 ▼ 蛍は、帯広の大学にいる
恋人・勇史に会いには行くものの、
富良野には帰らなかった。

 蛍は言う。
「お兄ちゃん、私たちは勝手よね。
あんなに独占したがっていた父さんの愛情を、
今度は、私たちがよそに、
その愛情を向けようとしている。」

 この言葉は、成長する子どもの当然の成り行きだが、
しかし、寂しさを痛感したのは私だけではないだろう。

 ▼ さて、純だが、大変な出来事が・・・。

 純は、ピザハウスで働く松田タマコと知り合いになる。
そして、2人は渋谷のラブホテルで、
大人の壁を越えた。

 しかし、れいちゃんのように、
タマコを愛している訳ではないと純は思う。

 「東京に出て、4年7か月。
不純なことが平気でできる様な、
汚れた人間になってしまった。」
 こんな純の感性が、私は好きだ。

 しかし、つまるところ、タマコは妊娠。
そして、中絶。

 その知らせを、タマコの叔父から受けた五郎が、
大きな鞄を抱えて、駆けつけた。

 早々、五郎は尋ねる。
「その娘と結婚する気があるか。」
 純は、黙っていた。

 「あやまっちゃお! 純、あやまっちゃおー!」
優しく語りかける五郎。
 そして、自分と同じようにやれと言い、
タマコの叔父の豆腐屋を訪ねる。

 五郎は、挨拶代わりにと、
鞄からカボチャを6個取り出し、並べる。
 部屋に上がると2人は、ずっと頭を下げ続けた。

 富良野は丁度、カボチャの収穫時期である。
取り急ぎ、鞄に入るだけつめてきたのだろう。
 それを差し出し、謝罪する五郎。
五郎の不器用さと真心が、心にしみ込んだ。
 切なさに、私まで包まれた。

 ▼ ところが、タマコの叔父は、
蛍が同じ状況になった時を、本気で考えるようにと言い、
「誠意とは、いったい何かね。」と、
五郎に問うのだ。

 カボチャを持ち帰るように言われた2人は、
しかたなく、いっぱいやることにする。

 五郎は、飲みながら、
草太の結婚式のこと、蛍や正吉のことを、
しきりに話した。

 純は気づいていた。
五郎は、純を叱らず、話をそらしていた。

 親として様々な思いが、五郎にはあったはずだ。
しかし、それよりも純を気遣う五郎。
 優しさと温かさに、純は泣いた。
私も涙した。

 ▼ 富良野に帰った五郎は、
タマコの叔父が口にした「誠意とは、いったい何かね。」
について考え続けた。
 そして、家を建てるために買った丸太を、
300万で売りたいと言い出した。

 「そんな大金を何に遣う?」と訊かれ、
「誠意だ。」と、答えた。

 11月末の東京、突然、純の前にタマコが現れる。
タマコは、純に封筒を差し出した。
 五郎が送った100万円が入っていた。
受け取れないから、五郎に返すようにと言う。

 その後、タマコはブランコに腰掛けながら、
あの名セリフを言って去る。

 「東京はもういい……私…卒業する!」

 この言葉は、何故か私に強く響いた。
あの頃、私は東京での充実した日々を過ごしていた。
 しかし、いつか私にも、
「東京はもういい…」と思えることがあるのでは…。
そんな思いが心を巡った。
 以来、何かにつけ、この言葉が独り歩きをした。

 ▼ 大晦日、純は約束通り、旭川空港に降り立った。
五郎が迎えた。
 2人で、喫茶店に入った。
純は、例の100万円の封筒を出した。
 ところが、五郎は言う。

 「これは…、おいらの…血の出るような金だー!
だけども、おまえにやったもんだ。
 返してほしいのはやまやまだ。
今にも手が出て、ひったくりそうだ!
 でも、おまえにやってしまった金だ!
やった以上、見栄っちゅうもんがある。」

 父親として、精一杯の正直なプライド。
それを真っすぐに通そうとする五郎。
 私は、脱帽するだけだった。
でも、そんな父親に私も近づきたいと、
密かに思っていた。

 
  ⑦ いつでも富良野に

 『‘95秘密』は、1995年9日10日に放映された。
五郎は、石で建てた家で一人暮らし。
 純は正吉と一緒に、富良野でアパート暮らしをしていた。
仕事は、ごみ収集車の作業員だ。

 このドラマで、私は純と蛍のそれぞれの苦悩と、
2人への五郎の、慈しみとも言える深い愛情に心を揺さぶられた。

 ▼ まずは、純である。

 れいちゃんとは、次第に疎遠になり、
純は、れいちゃんの花嫁姿を、
遠い道路脇からそっと見た。

 純は、新しい恋人シュウと出会う。
ところが、シュウには東京でAV出演の過去があった。
 とうとう、そのことを知ってしまった純は、苦しむ。

 そんな時、五郎は、アパートで手を洗う純に語る。
「お前の汚れは、石鹸で落ちる。
けど、石鹸で落ちない汚れってもんもある。
 人間、長くやってりゃあ、どうしたって、
そう言う汚れはついてくる。

 お前だってある。
父さんなんか、汚れだらけだ。
 そういう汚れは、どうしたらいいんだ。えっ……」

 誰にでもある後悔、人生の汚点。
人はそれを、どうにか許し合い、乗り越え、生きている。
それを、五郎らしく純に諭した。
 共感した。

 雪の舞う夕刻、純はその言葉に押されて、
シュウの待つ喫茶店に行く。
 シュウは、東京でのいきさつの全てを手紙に書いた。
それを、純の前で読み始めた。

 純に限ったことではないだろう。
五郎とシュウの、こんな心ある言動を前にして、
打ち解けない者など誰もいないと思う。

 純はシュウに向かって言う。
「今度の日曜日、山部山麓デパートに行かねぇか?」

 それでこそ純だ!

▼ 一方、札幌の病院に勤めていた蛍だが・・・。

 その病院の医師と許されない恋、そして駆け落ちする。
その2人が、落ち着いた先は、根室の落石だった。

 年が明けてからのこと、
五郎は、自宅を訪ねてきたその医師の奥さんから、
事実を知らされる。

 翌朝早く、五郎は純に、
落石まで一緒に行ってくれと頼む。

 落石に着くと、五郎を食堂に残し、純は蛍を見つける。
そして、少しお酒が入った五郎のところに案内する。

 五郎は訊いた。「今、幸せか。」
「幸せよ。」ポツリと蛍は答えた。
 少し戸惑った笑顔で、
「幸せ、そう、それが一番、なによりだぁー」
  蛍を責めたり、叱ったりしない五郎。

 持参した鮭を渡して別れた。
それから、五郎は蛍に叫んだ。
 「いつでも、富良野に帰ってくんだぞぉ!」

 たまらず、蛍は引き返して言う。
 「父さん、あたし一人のときはね、
ほんとは、毎日自分を責めてるの…、
 だけど、どうしようもないの!
…ごめんなさい。ごめんなさい!」

 傷つきながらも、想いを貫こうとする蛍の健気さ。
五郎でなくても、とがめたりなどできない。

 その後、五郎は、富良野までの8時間、
ずっと口を閉ざしたままだったと言う。
 五郎の切ない胸の内が伝わってきた。
少しでも、それを引き受けてやりたかった。

                  < 完 >


 

 だて歴史の杜公園の広場 まだ緑色! 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする