ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

スタート前の時間

2021-09-25 12:16:55 | あの頃
 ▼ 珍しいことだが、
5時半にセットした目覚まし時計の
ベルを待って起床する。
 コロナで習慣になった体温測定の後、
寝室のカーテンを開ける。
 空は青くて高い。
庭の白蝶草は、わずかに揺れている。

 これも朝の習慣にしているが、
心静かに血圧計に向かう。
 130から110の間で、毎朝推移。
「異常なし!」

 前夜に決めた朝ランの条件は整っていた。
洗面後に、20分以上かけて、
入念にストレッチ体操をする。

 家内に見送られ、
腰折れ屋根の牛舎を目指して、
5キロのコースをスタートする。

 緩い坂道を500メートル下ったところに、
花壇の手入れをする奥さんがいた。
 挨拶を交わし走る抜けると、すぐに左折する。

 また500メートル行くと、
市内唯一の4車線道路の交差点に着く。
 ここで、軽快な足取りのランナーとすれ違う。
互いに会釈し、青信号を渡る。
 そこで市街地は終わる。

 畑とビニールハウスの景色を見ながら、
上り下りをくり返す。
 そして、刈り入れが終わったデントコーン畑を過ぎ、
目的の牛舎と積み上げられた牧草ロールを見て、
T字路を曲がる。

 ここから先は、1,5キロの下り坂を、
一直線に駆け下りる。
 すると、まもなく我が家にゴールとなる。

 約35分間のランニングだ。
タオルで頭の汗をぬぐいながら、ゆっくりとコースを振り返る。
 確か、あそことあそこの道で、車が通った。
だけど、あの2人以外は誰とも会っていない。

 何故か、深呼吸して空を見上げたくなった。
いく筋もの秋雲があった。
 「昨日と変わりなく、今日も外出も来客も予定はない!
もう、誰とも会わない一日か・・!」。
 気づくと、心地よい汗がひいていた。
やけに、心が老けていくよう・・・。

 その時・・・、ふと・・。
「あれから、もう2年が過ぎたのか!」。
 参加した各地のマラソン大会を思い出した。
特に、スタート前の高揚感と賑わい、
いくつもの出会いがなつかしい。
 「必ずいつか、同じような光景が戻ってくる!」。
そう信じてることに・・・・・。
 
 ▼ 江東区のシーサイトマラソンには、
4年連続でハーフマラソンの部に挑戦し、完走した。
 この大会では、
2時間7分28秒の自己最高タイムを出している。

 それだけに、毎年参加を楽しみにしていた。
参加希望者が多く、抽選になる。
 昨年は、コロナで中止、一昨年は抽選もれで不参加だった。
だから、もう3年も前のことだ。

 開会式前で混雑する陸上競技場前の広場で、
同じ研究会に所属する現職のMさんに、バッタリ出会った。

 北海道にいるはずの私が、
ランニングスタイルの上、
ハーフマラソンのゼッケンまで付けている。

 「Mさんも走るの?」
挨拶を省いて、声をかけた。
 「いいえ、同じ学校の先生が10キロを走るので・・。
その応援で・・。先生は北海道から、わざわざ・・?!
いつから走っているんですか?」。
 
 目を丸くしビックリ顔のMさんの横には、
10キロのゼッケンをつけた同じ年格好のランナーがいた。
 私は長話を遠慮した。
「北海道へ行ってから走り始めたんだ。
じゃ、お互いに頑張りましょう!」。
 2人に軽く会釈をして、その場を離れた。

 その時、人混みの中で、私の後ろ姿を、
いつまでも驚きの表情で見ているMさんを、
何となく背中に感じた。

 それから約1年が過ぎた。
同じ研究会の研究発表会が、東京であった。
 まだコロナ禍の前だ。

 その懇親会にMさんも出席していた。
100人程度の宴席だった。
 お酒が回り、会が盛り上がりをみせた頃だ。

 若干顔を赤くしたMさんが私の席に来た。
そして、私を立たせて声を張り上げた。

 「凄いです。ボクはビックリしました。
こちらの顧問さんですが、ハーフマラソンを完走したんですよ。
 みなさん。
ボクは、ゴールするところまで見ていました。
 競技場に入り、トラックでも諦めず3人も抜いたんですよ。
長いハーフを走ったその上で、最後の最後まで・・頑張って・・。
感動しました」。    

 研究会で知る限り、雄弁家ではないMさんだ。
その彼が、1年前の出会いを忘れずに、
しかも、私のゴールを密かに見届け、心熱く語ってくれた。
 
 その後のお酒は、いつも以上に美味しかった。
勧められるまま、笑顔でグラスを何度も空けた。

 ▼ 旭川ハーフマラソン大会は、5年連続で参加した。
ここでも、ハーフを全て完走できた。
 この大会は、5キロの部に家内もいつもエントリーした。

 どの大会も同じだが、参加者にはゼッケン配布と一緒に、
参加者の市町村と年齢、氏名が記されたプログラムが事前に配られる。

 前日に受付を済ませ、ホテルでそのプログラムを見ると、
伊達からの参加者は、私たち2人だけだった。

 さて、ここからは、大会当日の、
それもハーフマラソンと10キロのスタート後のことだ。
 会場の花咲陸上競技場には、
最後にスタートする5キロのランナーだけが集まっていた。
 家内は、その最後尾に陣取り、
スタート時間をポツンと待っていた。

 すると、同じように5キロのゼッケンを付けた、
やや年下の男性が近寄ってきた。
 「あのー、伊達の方ですか?」。

 不思議な顔のまま、家内は「はい」と応じた。
「プログラムを見て、伊達の方が参加していると分かったので・・、
ゼッケン番号で、声をかけさせてもらいました。」
 
 安心した表情に変わった家内に、
その方は明るく言った。
 「半年前まで、伊達にいたもんですから・・、
それで、つい・・」。
 「そうでしたか。伊達のどちらに・・?」。
「長いことF町に・・。」
 「Fですか。私はT町です。」

 男性の表情からすっかり緊張が消え、
「T町には、義理の兄が住んでいます。
あの辺りは、兄たちが暮らし始めたころに比べ、
随分と変わりましたね。
 あっ、兄はSと言います。S・Aです。
分かりませんよね。失礼しました」。

 家内は、旭川で突然、聞き覚えのある名前を聞き、
驚きと一緒に言った。
 「じゃ、お姉さんはS子さん?!」
「そうです。S子です。」
 「私、一緒にコーラスサークルで歌ってます」。

 翌日、自宅にS子さんから電話があった。
「弟が、旭川のマラソン大会でお会いしたとか・・。
珍しく嬉しそうな声で、電話くれたの・・・」。

 今度、その弟さんと花咲陸上競技場で会えるのは、
いつだろう。
 私も是非、挨拶だけでもしたいと思う。
きっと、わざわざ伊達から参加した珍しいランナーを、
弟さんは笑顔で迎えてくれるに違いない。

 いつも、スタート前の会場には、
そんなエピソードが待っている。
 至るところで・・・・!



      栗の実 生まれた朝    
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ゴルフ GOLF Golf

2021-09-11 11:33:18 | 思い
 ▼ T君は、幼なじみの上、
中学3年からは仲良し5人組の1人だった。
 30歳を過ぎて間もなく、全くの偶然だが、
同じ団地のしかも隣の棟に、彼と私は住み始めた。

 北海道室蘭で18歳まで過ごし、
別々の道を歩んでいた2人が、
遠く千葉市の一角で再び出会ったのだ。

 自動車関係の仕事をしていた彼には、
マイカーの購入から点検整備まで、
何かと便宜を図ってもらった。

 丁度バブル景気が始まった頃だったろうか。
お客さんが、彼の仕事ぶりを見て、
ヘッドハンティングをした。

 そして、起業したばかりのカーリース会社の、
営業マンとして、毎日、都心にある営業所へ通勤していた。

 「ワタル、俺、ゴルフを始めたんだ。
最初は、仕事の接待で社命が出て、
クラブを買ったんだ。
 やってみると、それが中々面白い。
ワタルもどうだ。一緒にゴルフ・・・」。
 
 久しぶりに、少々酒を酌み交わしながらの近況報告で、
彼はそんなことを言いだした。

 話は止まらなかった。
芝生の緑が広がるコースの綺麗なこと、
洒落たクラブハウスのこと、
そして、白球がカップインした時の嬉しさ等々。
 
 中学、高校を通して、文化系だった彼が、
夢中でゴルフを語ることが不思議だった。

 最後には、
「とにかく、練習場に行こうよ。
クラブを振ってみようよ!」。
 そうくり返し、とうとう誘いに同意することになってしまった。

 次の日曜日、彼と2人で国道沿いの、
打ちっ放しのゴルフ練習場へ初めて行った。
 1階と2階に、100席余りの練習席があった。
大勢の人がクラブを振っていた。

 『ゴルフは金持ちの道楽!』。
そんな先入観があったが、
熱心に練習している人たちの顔ぶれは、
彼や私と大差を感じなかった。
 どの人も乾いた打球音で、
遠くへボールを飛ばしていた。

 2階席を1つ借りて、2人で使うことにした。
彼は、マイクラブの入ったキャディーバッグを持ってきた。
 私は、彼に言われるまま、受付でクラブを3本借りた。

 最初は、彼が打つのを見た。
乾いた音と一緒にボールが空へと飛んだ。
 やや方向が違うことがあっても、
白球は高く、遠く飛んでいった。
 途中で違うクラブを握った。
これも、心地よい音といっしょにボールが飛んだ。

 彼の打ちっぷりと一緒に、近くの席で練習する様子も見た。
みんな変わりなく、次々とボールは空へと向かった。

 そこで、私はとんでもない誤解をした。
文化系の彼ができる。
 私とさほど変わりない人たちも、
周りでポンポンと打っている。
 だから、「簡単にできる!」と思い込んだ。

 「ワタル、やってみるか?」。
彼に、クラブの握り方を教えてもらい、
一番短いクラブを持って、練習席に立った。
 彼や周りと同じように、2,3回素振りをして、
緑色の人口芝シートにあるゴルフボールに向かった。

 クラブを振りきると、「ボールは遠くへ飛んでいく・・」
はずだった。
 ところが、打球音も打感もない。
予想していた方向にボールが飛んでない。
 急いで、緑色のシートを見た。
白球が、そのまま残っていた。
 「カラ・・フ・リ!」
誰にでもなく、小さく言った。

 その日、くり返しくり返し彼から、
スイングのアドバイスを受けた。
 しかし、白球が乾いた打球音で、
遠くへ飛んでいくことはなかった。
 2階席から打ったボールが力なく地面に落ちるのを、
何度も何度もくり返した。

 数週間後、再び練習場へ誘われた。
今日こそはと、アドバイスを受けながら、
時には彼のクラブも借りて、スイングした。
 結果は前回と大差なく、
2階席からぽとりとボールが落ちた。

 以来、彼と練習場に行くことも、
ゴルフを話題にすることもなくなった。

 ▼ それから、40年が過ぎた某日。
いつもより1時間も早い昼食を済ませると、
ゴルフ用のポロシャツとズボンに着替える。

 玄関でゴルフシューズを履き、
キャディーバッグを愛車のトランクに積み込む。

 そして、通い慣れた道を有珠山の麓へ向かう。
農道のような十字路の脇にある『熊出没注意』の看板を、
見ながら右折すると、まもなく伊達カントリー倶楽部に着く。

 自宅から15分で、クラブハウスでの受け付けが終わる。
キャディーバッグをゴルフ場のスタッフに預けると、
持ち物は財布とスマホだけ。
 ロッカーも使わない。着替えもしない、
レストランで食事もしない。

 マスター室へ直行すると、
「クラブは、31番カーに積んであります。
いつでも出発できます。
 用意ができたら、どうぞ!」。
常連さんのような振る舞いには、できるだけ気をつけ、
家内と二人乗りカートで、静かに1番ホールへ向かう。

 予約は、12時30分スタート。
でも、それより15分も早い時間にティーグラントへ。

 70を過ぎた夫婦のラウンドへの気配りか、
次にスタートする組との間隔が空いている。
 だから、ゆったりとした気持ちでプレーする。

 中々パーは取れないが、
ドライバーもフェアーウエイウッドもアイアンも、
乾いた打球音で飛んでいくことが多い。
 白球が、イメージ通りの弧を描いて緑の中を飛ぶ。
その爽快感の虜になって、
次へ次へとカートを走らせ、コースを進む。

 珍しく17番ホールまで好成績で進んだ。
谷越えのパー3だった。
 ワンオンねらいで、ショートアイアンを振った。
思いもしない、ミスショット。
 ボールは谷へぽとりと落ち、「OB!」。
突然、40年前の練習場の私を思い出した。

 T君は、10年以上にわたる闘病生活の末、3年前に他界した。
一緒にラウンドすることはなかった。

 「あの時、君が語っていたゴルフの楽しさを、
今、満喫している!」。
 その日の日記に、そう記した。




     薄紅色のコスモスが 町中に
                      ※次回のブログ更新予定は、9月25日(土)です  
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学校の危機をマネージメント

2021-09-04 13:50:18 | 教育
 ▼ コロナウイルスの変異によって、
10代以下の年齢にも感染が広がっているようだ。
 各地の学校では、夏休み期間の延長や分散登校など、
対策が工夫されている。

 伊達市内の学校は、
8月下旬から平常通り2学期が始った。
 毎朝、我が家の前を数人の小学生が登校していく。

 当地も緊急事態宣言下である。
しかし、同じ北海道内でも人口3万程度の小さな町だ。
 感染者は、多い時でも1か月に数人だ。

 でも、きっと小学校は通常の感染対策をとって、
2学期を迎えただろう。
 そう思っていた矢先だ。 
近所の子らが通う小学校が、
31日から当面の間、休校になった。

 新聞や市ホームページによると、
3名の子どもと教職員が、感染したことが判明した。
 なので、関係者のPCR検査の結果がでるまで休校するとのこと。

 小さな町である。
口コミ情報は、一気に広まる。
 私の耳には、こんな声が届いた。

 「最初、子どもが1人感染していることが分かったの。
でも、家庭内で他に感染者はいないの。
 それで、学校関係を調べたら、先生と子ども1人がコロナに・・。
どうやら、先生が札幌の結婚式で感染してきたらしいのよ。」

 事実かどうか、確かなことはわからない。
しかし、コロナが足もとまで来ていることは、事実である。
 だからと言って「PCR検査の結果がでるまで休校」とは・・・。
私の理解の範疇を超えている。

 昨年3月、当時の安倍総理大臣が、
『全国の学校を一斉に休校』にしたことを思い出す。
 当時は、今以上にコロナの正体が分からなかった。
だから、あのような乱暴な大なたを振るった。
 釈然としないままだが、私も多少は理解できた。

 しかし、子どもへの甚大なマイナス影響があった。
もう2度と、あのような施策は遠慮してもらいたい。
 それが、コンセンサスになっていたのではなかろうか。

 だから、多少のリスクはあっても、学校を開く。
そして、できるだけ安心して学校生活が送れるよう先生方は努力する。
 それが、今の学校に課せられた務めだと思っていた。

 さて、「PCR検査の結果がでるまでの休校」についてだ。
きっと校長は、保健所や教育委員会の指導・助言を受けて、
決断したのだと思う。
 難しい判断だとは思う。
多くの児童に感染させないための苦渋の措置と想像する。

 しかし、3人のコロナ感染者のために、
全校を閉じる。
 そのことに、多くの子どもと保護者は、
「もしかしたら感染しているのでは・・」と、
大きな不安を抱いたのではないだろうか。
 そして、「ただじっと家にいればいいの?」とも・・。

 学校は、どんな休校の通知を保護者に届けたのだろう。
学校のホームページにも教委のそれにも、その掲示はない。
 だから、私などの一市民が知る手段はない。

 もし私が校長なら、今回の休校措置の通知を、
どんな文言にするだろうか。
 まさか、「PCR検査の結果がでるまで休校にします」。
それだけでは、済ませないはずだが・・。


 ▼ 校長職だった時だ。
「迷走台風がどうやら首都圏を直撃するらしい!」。
 そんな予報が数日前から出ていた。

 前日には、早朝5時頃から10時頃までが、
暴風雨のピークになるようだと報道された。
 ちょうど登校時間と重なった。

 教委からは、「登校の安全を最優先に措置するように」と、
ファックスで通知が届いた。
 当時、私の勤務する区では、
区立学校に対する登校時間の一斉変更措置の施策はなかった。
 従って、各校の校長が個々に、
その判断をすることになっていた。

 私は、前日から学校に宿泊することにした。
副校長が女性だったこともあり、
1人校長室のソファーで、一夜を過ごした。

 夜が明けるにつれ、雨風が強くなった。
予報通りだった。
 登校時間を変更する場合の連絡は、
学級ごとの緊急電話連絡網を使うことになっていた。
 遅くとも6時までに判断し、
電話連絡を始めなければ手遅れになる。
 
 子ども達が登校する8時前後の様子が、
なかなか予想できなかった。
 共働きの家庭も少なくない地域だった。
突然の登校時間の変更があっても、
嵐の最中を子どもだけを置いて仕事に行くことになる保護者もいるだろう。
 親も子も、大きな不安を抱えることになる。
それでも、暴風雨の中を登校させることの危険性を回避しなければ・・・。

 慎重な判断が求められた。
私は迷った。
 時間だけが迫った。
「登校時間を10時30分に変更します」。
 受話器を持ち電話連絡を始めた時、
まだ学校には私だけだった。
 
 危機へのマネージメントは時に、孤独な場合がある。




    田園は もう秋の気配 
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