ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

D I A R Y 24年10・11月

2024-11-30 14:55:40 | つぶやき
  10月 某日

 昨年11月、5歳違いの姉は、
横浜の大きな病院で,心臓の手術を受けた。
 そこは、姉の娘が看護師をしており、
それを頼っての療養だった。

 手術は当初予想よりも時間がかかったが、
その後は順調な経過だった。
 しかし、年齢が年齢である。
一時は、もう1度若干の手術が必要かもと、
医師から告げられたこともあった。

 しかし、激減した体重も徐々に回復し、
今夏には、投薬もゼロになり、定期的な診断のみに。
 そして、遂に10月、全快にこぎ着けた。

 手術前の姉は、登別温泉の有名旅館で事務スタッフをしていた。
女将は、「お姉様は私の片腕同然、頼りにしてるんですよ」と私に言った。
 とは言え、11ヶ月に及ぶ病休である。
仕事復帰は、難しいと私は思い込んでいた。
 ところが、旅館からは1日でも早く復帰してほしいとのこと。

 1週間程前、連絡を受け、
新千歳空港まで、迎えに行った。
 横浜での日常品は全て宅配便で送り、
姉はハンドバック1つで、到着ロビーから現れた。
 そして、「明日から、働く」と言った。

 私は、5人兄弟である。
長女と長男はすでに他界しているが、
86歳の二男は、今も毎朝、魚市場に出向き、
仕入れた魚の身下ろしをし、開店と同時に接客に立っている。
 
 そして、健康を回復した81歳の二女は、
休む間もなく、明日から仕事に出ると・・。
 2人は口を揃えて明るく言う。
「何もしないで、家でブラブラしているよりもいいもん」
  
 私は、何もしないでブラブラと毎日を過ごしている訳ではないが、
2人を見てると、少し恥ずかしくなる。


  11月 某日 ①

 ここ2,3年のことだが、
道内では名の通ったラーメンの暖簾がかかる店で、
ラーメンではなく、あんかけ焼きそばをよく注文する。

 その店では、ずっと味噌ラーメンだが、
いつ頃からか、家内は特別メニューのような
あんかけ焼きそばを食べ始めた。

 ここはラーメンで有名な店だ。
なのに違う注文をすることに、当初私は不快な気分だった。
 だが、「そんなに美味しいのなら」と、
一度だけのつもりでオーダーしてみた。
 以来、私もラーメンから方針転換をした。

 しかし、あんかけ焼きそばを他店で食べたことがなかった。 

 そこで、東京に来た貴重な機会だと、
デパートの最上階にあった高級中華料理店で食べてみることにした。
 メニューを見て、まずその価格の違いに驚いた。
いつも食べている約3倍の値がした。

 そして、出てきたあんかけ焼きそばの美味しいこと。
その値段に十分納得した。

 さて、家内と私がその中華料理店へ入ったのは、
まだランチメニューの時間帯だった。
 やや空席はあったが、多くのお客さんで席が埋まっていた。

 窓側の席に案内された私の所から、
丁度、2人用のテーブル席が2つ並んでいるのが見えた。
 そこに、初老の男性と女性が1人ずつ着席していた。

 注文したものを待つ間に、2人が注文した昼食が届いた。
やや遠慮しながら2人の様子を見た。
 高級中華料理店で、
1人で中華を食べていることが気になった。

 テーブルがやや離れていたので、当然2人は別々の客である。
その2人が、同じ方向を向いて食べていた。
 やや不思議な気持ちで、
美味しそうに食べる2人を遠慮しながら、ちら見した。

 東京でも、高齢化は間違いなく進んでいる。
だから、このような高級店でも高齢の単身者が食事を楽しんで当然だ。
 なのに、見慣れない私には、異様な光景のように映ってしまった。
同時に、そんな目で見ていることに、申し訳ない気持ちにもなっていた。


  11月 某日 ②

 高級中華料理店での昼食の翌日だ。
コロナ禍前まで、年に1回は一緒にゴルフをしていたOご夫妻と、
夕ご飯を共にすることになっていた。
 お酒の好きなお二人だった。
夕方、錦糸町のおそば屋さんで待ち合わせをした。

 1週間ほど前、4人のグループLINEに、
待ち合わせ時間とおそば屋の名前の知らせが届いた。
 
 そのおそば屋は現職の頃、よく利用した。
落ち着いた雰囲気で、居酒屋とは違い、
数人で飲むには最高の店だった。
 しかし、2年前からそこには店がなくなっていた。

 でもOさんは、その店を指定してきた。
もしかしたら、近くに移転したのかもと思い、
ネットで検索してみた。
 案の定であった。
駅の反対側のビルに、その店はあった。

 さて、待ち合わせ時間の少し前に店に着いた。
でも、Oさん夫妻がなかなか現れない。
 5分が過ぎた。
LINEメールが来た。
 「おそば屋さんが無くなっています。
今、どこにいますか?」
 移転に気づかず、店を指定したのだ。

 「お店は、移転しました。
駅の反対側Rビルの2階にあります。
 店の前にいます」
メールで返信しながら、笑いがこみ上げた。

 だって、移転にいち早く気づいたのは、
東京に住む現地の方ではなくて、
北海道の私たちだったのだもの・・・。

 その後の4人でのお酒を囲んでの食事は、
しばらくの間、このことで盛り上がった。 


 

     晩秋の色・ナナカマドの実
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北の大地の紅葉 あれこれ

2024-11-23 12:42:08 | 北の大地
 1週間程上京し、先週末に帰ってきた。
新千歳空港に着陸する時、
眼下には、山すその広大な唐松林が、
太陽光を受けて橙色に染まっていた。

 どうやら、その美しさに見とれていたのは、
私だけではなかったようだ。
 「ねぇ、見た。唐松の紅葉。
やっぱり北海道よね。すごいね!」
 そんな声を、航空機からの出口付近で聞いた。
 
 北海道民になって、12年だが、
その声に、自然と嬉しくなってしまった。

 さて、随分と冷え込むようになった。
1週間ぶりの我が家のジューンベリーも、多くの葉を落としていた。
 周りの山々も紅葉を終え、稜線の木々も落葉した。
すっかりと稜線が透けて見えるまでになっていた。

 まもなく本格的な冬将軍の到来だ。
その前に、少々北の大地の紅葉に想いを馳せてみたい。


 ① リアウインドウに舞い上がった橙色 

  落葉キノコは唐松林にしかない
  その唐松は針葉樹なのに
  橙色に染まり落葉する
  道は細い橙色におおわれ
  風までがその色に舞う
  そこまで来ている白い季節の前で
  私が見た
  北国の深秋の一色

 上記は、当地に居を構えた翌年・2013年の
年賀状に載せた詩『微笑』の一節である。
 
 ゴルフ場を出てすぐの道は、
両側とも背の高い唐松林が続いていた。
 その舗装道路が、橙色になった唐松の葉で覆われていた。
西陽を背に、ハンドルを握りながらそこを通った。

 ふとバックミラーで、リアウインドウを見た。
すると、車が通過した勢いで唐松の落ち葉が舞い上がり、
時にはミラーの一面が橙色に変わった。

 随分と長いことその舞は続いた。
初めての光景に、何度も何度もバックミラーに目がいった。
 私一人が、得をした気分になった紅葉のワンカットであった。

 
 ② 思いがけない眼下の紅葉

 いつかは登ってみようと思いつつ、数年が過ぎた。
秋を迎えてすぐ、
「この時期を逃したら、また1年持ち越しになる」
と思い、紋別岳登山を決めた。

 登山靴に昼食の入ったリックを背に、
家内と自宅を出発した。
 近所のご主人がたまたま雑草刈りをしていた。

 私たちのスタイルを見て、不思議そうな顔をした。
「どこへ行くんですか?」
 「紋別岳登山に挑戦してきます。
登ったことありますか?」
 「ないです。山は見るだけ。気をつけて」

 息子くらいの年齢の方だ。
なのに見るだけとは、勿体ない。
 そんな思いを笑顔で隠して別れた。

 地元では『東山』と呼ぶ方が多いが、
その峰の連なる姿は穏やかで、いつ見てもほっとする。

 だから、さほど苦労なく登れると思っていた。
ところが意外だった。
 急傾斜の登山道が続いた。
「山は見るだけ」が合っていたかもと少し悔いた。

 しかし、山頂付近の縦走路まで登り着くと思いは一変した。
そこはもうすっかり秋で、紅葉の真っ盛りだった。

 着いた先にあったのは、簡単には踏み込めない奥深い峰峰だった。
眼下のその1つ1つの山が、すでに赤や黄色に色づき、
壮大な秋色に染まっていたのだ。
 それを見るための、登山ではなかった。
予期しない景観だけに、インパクトは強かった。
 「見るだけ」の人では、この素晴らしさは味わえないと
息を弾ませながら微笑んだ。


  ③ 「だけど 秋だもの」 
 市内の大きな通りの両側は、どこも街路樹がある。
それが、通りによって樹木の種類が違うのだ。
 従って、木の形状、大きさが違い、通りの趣を変えている。
当然、紅葉も違う。

 今年、特に目に止まったのは、山法師の並木だ。
濃い赤の紅葉が、通りの両サイドに並び、
例年以上の鮮やかさだった。

 そして、毎年のように私の足を止めるのが、
伊達インター通りと青柳通り交差点だ。
 ここに立ち、インター通りを見ると、
両側には、黄色くなった銀杏が立ち並び、
歩道も車道も黄色で染まる。

 そして、同じ所で向きを変え,青柳通りを見るとそこは楓の街路樹で、
赤を基調としてグラデーションで飾られる。
 まさに,天然のイルミネーションなのだ。

 両方の樹木とも年々成長し、ボリュームを増していく。
それを思うと、来年がまた楽しみになるのだ。

 さて、数年前になる。
秋を迎え、1年1年変化し、
そして1日1日進む当地の紅葉の素晴らしさを
挨拶替わりに話題にしたことがあった。

 すると、地元生まれで地元育ちのその方は、
やや不思議そうな表情を浮かべ、
 「そうですか。そう言われると確かに綺麗かも。
だけど、秋だもの、毎年のことでしょ!」

 私は、返す言葉がなかった。
以来、紅葉の時期になると、その衝撃を思い出す。
 そして、いつまでも心豊かでいようと自分に誓うのだ。




     やっと『庭じまい』完了  
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新聞のコラム欄から

2024-11-02 11:03:29 | 思い
 新聞の購読者が少なくなっていると言われて久しい。
今は、情報の入手はスマホで十分である。
 なのに、朝日新聞、北海道新聞、室蘭民報の3紙が、
毎朝、郵便受けに届く。
 スマホの情報を信用していない訳ではない。

 私は、朝日新聞の『天声人語』と『折々のことば』のコラムを、
毎日楽しみにしている。
 家内は、もっぱら北海道新聞の愛読者である。
そして、室蘭民報は土曜日の文化欄に、
私が所属している『楽書きの会』同人のエッセイが掲載される。

 3紙の購読にはそれぞれの動機があるが、
時々、どれか1紙を止めようと話題になるが、
いつも2人の合意ができず、保留になる。
 無駄遣いをしているようで、どうも始末が悪い。

 さて、私が楽しみにしているコラム欄だが、
この半年の間で、強く心に残った記事を紹介する。


  ◎8月3日『天声人語』

  パリ五輪の3日目、柔道女子
 52㌔級の1回戦。開始から45秒
 後、モザンピークの選手を相手
 にきれいな投げ技が決まった。
 その瞬間、マリアム・マハラニ
 選手(24)は拳を握り、泣きそう
 な顔で喜びをかみしめた。インドネシア
 代表の柔道選手が五輪で勝利したのは、
 初めてだった▼ラニの愛称で呼ばれるマ
 ハラニ選手を支えてきたのは、実は日本
 人の指導者たちだ。その一人、安斎俊哉
 さん(64)は10年前、ジャカルタの柔道場
 で「速さと根性」が際立つラニに、ピン
 ときた。鍛えれば、いけるかもしれない
 ▼安斎さんは1988年、国際協力機構
 (JICA)が初めてインドネシアへ派
 遣した青年海外協力隊の一員だ。以来、
 立場が変わっても同国で柔道指導を続け
 ている。これまで7人の代表を五輪へ送
 り込んだが、一度も勝てなかった▼「五
 輪で1勝」は、インドネシア柔道連盟に
 とっても悲願だった。ラニの可能性に賭
 け、安斎さんらの協力で何度も日本の大
 学などへ「出稽古」に送り込んだ。この
 2年は五輪出場に必要なポイントを得る
 ため、国際大会にも派遣。大陸枠に滑り
 込んだ▼ラニは2回戦で、準優勝したコ
 ソボの選手に一本負けした。「すごく速
 くて防御できなかった」。次の五輪を目
 指し、稽古のために翌日の便で帰国した
 ▼パリにいるのは、メダル獲得の大きな
 期待を背負う「スポーツ大国」の選手ば
 かりではない。大舞台で控えめな目標
 に挑む選手らを、国籍が異なる指導者
 が地道に支えていることもあるのだ。

 * インドネシアのラニ選手に限らず、
各国五輪選手の一人一人に、
きっとかけ替えのないドラマがある気がする。
 テレビ映像とは異なり、
このような文面を読むと、心への刻まれ方が違う。
 特に、国籍が異なる地道な指導者・安斎俊哉さんの、
インパクトが凄い!
  

  ◎6月11日『折々のことば』  
 
 僕がもたもたしていると、パッとやって
 くれるでしょう。あれは、やめてもらえ
 ないかな。
                堀田力 
  脳梗塞で倒れ、視力や記憶の一部を
 失った元検事の福祉事業家は、機能回
 復に取り組む中、至れり尽くせりの世
 話をしてくれる妻に一つだけ、注文す
 る。相手が起きようとした時、すかさ
 ず手を添えるのが看護、起ききれず後
 ろに倒れる寸前に手で支えるのか介護
 だと聞いたことがある。婦人公論」4
 月号での妻・明子さんとの対談から。

 * 私の地域にグループホームがある。
自治会長として、そこの運営推進会議に隔月で出席している。
 利用者さんの様子の報告があり、
それを受けて職員への要望や助言などをするのが主な目的である。
 私は、地域とのパイプ役としての参加であり、
介護については全く門外漢である。
 だか、この一文で介護の難しさを知った。
ご苦労に頭が上がらない。


  ◎9月 1日『折々のことば』

 がんがどの段階で発見されるかも運なら
 ば、ベストフィットの専門家にかかるこ
 とができるかどうかも運かもしれません
                仲野徹
  自分のたちを知る人であれば、微か
 な異変にも気づいてもらえそう。診察
 室でも、仕事や家族のことを楽しそう
 に聞いてくれる医師がいい。昔、私が
 早期発見で命拾いしたのも、あんな医
 者嫌いがこの程度のことでわしとこに
 来るのはおかしいと、老医師が訝しん
 だから。ついてたのか。医学者の『こ
 わいもの知らずの病理学講座』から。

  * どんな時にどんな医師に出会うかは運だと言う。
筆者も経験から「ついていたのか」とまで。
 私も、同様の経験をしている。
幸運に恵まれた。
 特に2人の名医との出会いが、今の健康に繋がっている。
詳しくは、本ブログ・16年4月29日『医療 悲喜こもごも』に記した。


  ◎9月14日『折々のことば』

 なんだかうまくいったなとおもうことは、
 全部、つらい思いをしたあとだった
               小田和正
  だから「つらいことは信用できる」
 とシンガー・ソングライターは言う。
 でも無理はしていない。無理しないと
 いうのは楽をすることではない。これ
 までずっと自分に負荷をかけてきた。
 70歳を迎える今もステージではキーを
 下げずに歌い、走る。そのつど駆け抜
 け、後で繕ったりしない。「楽したもの
 は信用できない」からと。2017年
 の発言。『時はまってくれない』から。

  * あの素敵な高音の歌声を生で聴いてみたかった。
実現していない。
 おそらく叶わないと思う。
でも、彼の心情に触れ、
ますますコンサートへ行きたくなった。
 「辛い思いの先に,成功体験がある!」
彼のCDを聴くたびに、これからの私の励みになると思う。




      ジューンベリーの秋色
                 ※次回のブログ更新予定は、11月23日(土)です。
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