ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

健気さを残して

2015-12-25 19:32:36 | 感謝
 結婚した年から、年賀状には自作の詩を載せてきた。
 愛猫『ネアルコ』が、
その年賀状に登場したのは、18年も前になる。

   長男が猫と一緒に帰省
   わずか3週間
   ペットのいる暮らし
   猫かわいがりの二男と
   猫なで声の私と
   やがて妻のひざにだかれる猫
   今までにない団らんの風景
   何かこれからを予感させる
   真夏の出来事ひとつ
       <後半・略>

 確か、その年の春だったと思う。
 急にお金が必要になったと、
京都の大学に通う長男から、電話があった。
 何か間違いでもと、ドキッとしたが、
猫の手術と入院に予定外のお金がかかったとか。

 後ろ足から大出血をし、動けない野良猫がいた。
あわてて洗濯用のネットにくるみ、動物病院へ運んだ。
 緊急手術が行われ、そのまま長期入院。
高額の医療費に驚いた。それで、親への借金を申し出た。

 無事退院したが、野良猫に戻す気にはなれなかった。
密かに、下宿の一室で飼うことにした。
 当時、彼が夢中になっていた競馬から、
伝説の名馬『ネアルコ』をそのまま、呼び名にした。

 そして、翌年の年賀状。

   4月1日京都
   二男の入学祝い
   久しぶりに4人集う
   ビールとジュースでカンパイ
         <中 略>
      二人に送られ新幹線
      子どものいない暮らしにと
      車内に猫の入ったペットバック
      「二人とも京都とは」
      「まったく でも俺の好きなまちだから」
      「そうだけど でも」
   そんな会話がきょうもまた
   猫の鳴く横でくり返し

 思い出すと、それは、突然の提案だった。
 京都市内で、家族4人そろって二男の入学祝いをした。
長男が、「ネアルコを連れて行きなよ。」と言い出した。
 「だって、僕たち二人ともいない暮らしだよ。誰もいないんよ。」
 「ネアルコが役に立つと思うよ。」
 すごい説得力だった。
私は、パッと明るい気持ちになった。
「じゃ、もらうよ。」と即答した。
 そして、新幹線で持ち帰った。

 ところが、当時、私たちが暮らしていた団地では、
ペットとの同居が禁止されていた。
 完全な家猫とし、飼っていることをひた隠しにした。

 しかし、我が家での暮らしに慣れはじめると、
ネアルコは、夫婦二人には広すぎる家の中に、
お気に入りの場所をみつけた。
 それが、なんと一番人目につく、出窓だった。

 日中、そのガラス窓には温かい陽があたった。
そこでの昼寝が気に入った。
 私も家内も、「そこだけはダメ。」をくり返したが、
ネアルコはそれを無視した。
 仕事で私たちが留守の昼日中、
堂々と、その窓に姿をさらしていた。

 私たちは、猫の愛らしい仕草と声に、
毎日癒やされたものの、
団地の約束事を破っていることに、
肩身の狭い思いをするようになった。

 それから2年後、近くに建てられたマンションが、
ペットとの同居が許されることもあり、思い切って転居した。
 住まいは9階だった。
大好きな出窓はなく、ネアルコは外に出ることも、
9階の窓からは、人通りを見ることもできなくなった。

 毎朝早く出勤する私たち二人を、
ひたすら待つだけの毎日を13年も送った。
 そのためか、私たち以外の人にはなつかず、
来客があるとすごすごと押し入れに潜り、出てこなかった。

 ある日、珍しく鼻水をたらし、息苦しくしていた。
早速、家内が動物病院に連れて行った。
 案の定、風邪の診断だった。
「朝晩2回、この薬をのませるんだって。」
と、家内がその薬袋を私に見せた。

 私は、その袋に書かれた名前に釘付けになった。
そこには、『ネアルコ』の前に苗字があった。
『塚原 ネアルコ』となっていた。
家族なんだと、思いっきり気づかされた。

 そして、時折、ストレスからなのだろうか、
食べた物をもどすことがあった。
 誰もいない時の、不始末である。
 帰宅のドアを開けるとすぐ、困り声で鳴き出し、
玄関で、私の目を見る。
「どうしたの。」と言いながら、後をついて行くと、
そこには、決まってもどした汚れ物があった。
 「いいんだよ。」
と、後始末をする私に、済まなそうな声で
また鳴いた。

 そんなことのくり返しが、
可愛らしい以上の感情を、私にも家内にも育てた。

 そして3年半前、私たちは首都圏から伊達に移住した。
3ヶ月前に引っ越しの計画を立てた。
 私は、マイカーで仙台から苫小牧までフェリー。
そして、千歳空港で家内とネアルコを迎えることにした。

 早速、家内の航空券購入とペットの同乗手続きをした。
早割航空料金は、10500円と格安だった。
そしてペットの同乗は、5000円とのことだ。
 ペットも大切な家族。
 でも大人料金に比べて、高いような気がした。
 
 旅行代理店の女店員に、そう話すと、
彼女は目の色を変え、専用のパソコンに向かい、
しきりにキーボードを叩いた。
 しばらくして、女店員は、
「お客様、ペットに早割がございません。」
と、詫びた。
 私は、両手を叩き、笑いながら納得した。

 いずれにしても、ネアルコにとっては、
とんでもない長旅の末、伊達まで来た。
 案ずるようなこともなく、予想外に元気だった。

 初めて経験する2階までの階段も興味津々。
やがて、2階のゲストルームは、お昼寝の絶好の場所になった。
 毎日、私たちと一緒の暮らし。
だからなのか、人にも慣れ、
来客にも進んで近づいていくようになった。
 時々は、ウッドデッキの窓から、
庭の緑に目をやったりもしていた。
 穏やかな日が続いた。

 ところが、昨年の夏から、急に食欲が落ちた。
口の周りを痛そうにする仕草が多くなった。
 医者からは、歯肉炎と言われ、痛み止めの注射と薬が処方された。
そして、「もう高齢だから、
こうして生きているだけでも凄いことですよ。」と。
 もう推定年齢は19歳である。人間なら95歳だ。

 それから1年が過ぎた。
体重は、最盛期の半分以下になった。
 二階へも行かなくなった。
私の腰の高さくらいに置いた水にも、ジャンプができなくなった。
 固形の餌は口にしなくなり、
私たちは、ネアルコが好む猫スープを探して、
何軒ものペット用品売場を歩き回った。

 そして、とうとう最期を予感させる日が、近づいた。
 
 ご近所さんから、
「うちの犬が亡くなるとき、あわてて病院に連れて行ったの。
すると点滴をして、酸素マスクをして、寝かされて、
かわいそうだったの。
 そんなことしないで、家で息をひきとらせたかった。」
と、経験談を聞いていた。
 どんなことがあろうと、最期は家においておこうと決めていた。
 
 何も食べない日が、2日続いた。
さらにやせ細った。毛並みもパサパサになった。
 それでも、お気に入りの玄関先にころがり、
時々トイレまで、よろけながらも歩いた。

 夕方、そのトイレ近くのお風呂場で横になった。
必死にトイレに近づこうとしているのが分かった。
 何度も挑戦をくりかえし、トイレに前足をかけた。
 だが、5,6センチの高さのトイレをまたぐことができなかった。
仕方なく、そのそばで用を足した。
 「それでいいよ。いいよ。」と声をかけると、
安心したように、玄関に向かおうとした。

 もう目も見えなくなっていた。
足も立っていることさえやっとだった。
 抱きかかえて玄関に置いてやった。
荒い息をしながら、横になった。

 そのまま深夜まで家内と見続けた。
もう、その荒い息を聞き続けるのが苦しくなった。
 ネアルコをそのままにしてベットにもぐった。

 早朝、もう息がないだろうと近づいた。
荒い息のまま、見えない目で私に顔を向けた。
 立ち上がろうとするが、もうその力はなかった。
トイレかと察して、容器ごとトイレを運んできた。
そこに入れてやると、安心したように倒れこんだ。

 「もういいよ。もういいよ。」
私は、ネアルコを抱えて床に置いた。
 次の瞬間だった。荒い息が止まった。
「ネアルコ。ネアルコ。」
大声が出た。
 一瞬、体が動いたが、全てが静まりかえってしまった。
家内のすすり泣きが聞こえた。

 悲報に
『朝まで、生きていたかったのよ。』
と、義姉から返信メールが届いた。
 そう気づかされ、急に涙があふれた。

 18年間を共にした家族が逝った。

 今年の終わり、ブログにそれを記す。




枯れ木にナナカマドの赤い実が目に止まる
               
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実現したい学力向上策 ②

2015-12-18 22:37:11 | 教育
 11月20日のブログで、『実現したい学力向上策①』として、
(1)45分間の授業時間を厳守、(2)担任による個別指導の実施
を上げた。
 その続編を記す。


 (3)恒常的授業改善に取り組む

 学力の3要素である
『知識・技能』、『思考力・判断力・表現力』、『学習意欲』を、
子どもが確かなものにしていく中心に、授業がある。
 その授業が充実することを通して、学力の向上は期待できる。

 私は、学力向上策の第一に、「授業時間の厳守」を挙げたが、
これは、授業の充実の視点から見ると、
授業時間つまり量的側面へのアプローチと言える。

 一方、質的側面へのアプローチは、
恒常的授業改善の取り組みにつきるであろう。

 子どもは、いつの時代でも、一人として同じではない。
そして、その置かれている環境も常に変化している。

 前年度と同じ内容を同じやり方で授業をした。
前年度は、それで理解が進んだが、
今年度の子どもにも同様とは限らない。

 これが、教育活動の難しさであり、授業の深さである。
教師には、絶えず研修が求められる根拠は、この辺にある。
 この研修への情熱が薄らいだ教師には、
優れた指導も授業も決して望めない。

 意欲ある教師による質的な授業の充実を目指した、
恒常的な授業改善への迫り方は、次の3つがある。
 学力向上には欠かせない授業改善の取り組みが、
学校体制の重要な柱になってほしいと願っている。


 ① 授業公開・授業参観から 気づく

 教師は、キャリアや持ち味、技量など同じではない。
したがって、教科や単元への理解をはじめ、授業に対する課題や
子供理解とその対応方法なども異なる。

 授業改善のヒントは、そんな多様な教師による、
一つとして同じではない日々の授業の中にある。

 だから、教師は、常々授業公開を心がけ、
校内をはじめとする先生方からの授業参観の要望に、
気軽に応じるようにしたいものである。

 また、教師は、自身の授業改善のヒントは、
周囲で実践されている先輩や同僚、後輩の
毎日の授業にあることを認識したい。
 そして、積極的にその授業を参観することである。

 学校は、常々、そのような授業の
公開と参観を奨励する環境であってほしい。
そして、随時あるいは定例化した、
公開と参観のシステムを構築するよう願いたい。

 授業改善に意欲ある教師は、自身の工夫した授業実践に、、
達成感と共にいつも反省を忘れない
そして、明らかになった課題を意識するものである。

 その課題は、教師個人によって当然違うものである。
だから、同じ意欲をもつ教師てあっても、同じ授業を参観して、
同一の収穫を得ることなどできない。
 また、参観したい授業にも違いが生まれるものである。

 常時ではないが、自身の課題意識に応じた授業の参観を通して、
ハッとした気づきにめぐり合うことがある。
 この気づきこそが、その教師の授業改善の
大きなヒント、手がかりである。

 それぞれの教師のニーズに応じた授業の公開と参観が、
気づきへとつながり、学力向上を目指した授業改善の力になる。


 ② 授業観察と授業指導から 学ぶ

 校長退職後の1年間、私は都の嘱託として、
若手教員の指導育成の仕事に就いた。
 主には、教職経験1~3年目の先生方30名前後を対象に、
1年で3~6回、各先生の現任校を訪ね、授業を見た。
 その後、その先生と1,2時間面談をし、
見た授業を基にしながら、授業づくりの基本を指導した。

 どんな職業も同じだろうが、
教師としての資質に恵まれ、キャリアとは無関係に
子どもを惹きつけ、巧みに授業を展開できる先生もいれば、
思うように授業が進まず、子どもも先生の意が汲み取れず、
授業の体をなさない先生もいる。

 しかし、指導・助言に素直に耳を傾け、
何かを吸収しようとする先生と、そうでない先生がいる。
 どのような機会であれ、貪欲に学び取ろうとする姿勢は、
決してウソをつかないと、私は思った。
はじめの一歩がどうであれ、1年を過ぎると、
その姿勢の違いが明白になった。

 また、校長時代、私の学校に、
よく授業指導を申し出る教員がいた。
 2週間に一度は、略案をもとに、その先生の授業を観察をした。
そして放課後は,必ず校長室を訪れ、その授業の評価を求めてきた。

 私が指摘した内容は、必ず次の授業では改善が見られた。
しかし、授業は生き物である。決して同じではない。
必ず、新しい課題が生まれた。
 それでも、彼は、そんな私からの新しい指摘を素直に受け入れ、
「では、次回こそ。」と校長室を後にした。
 半年間続いたその実践を通し、
彼の授業に、私は驚きと感動を覚えるようになっていった。

 上記の2つの事例は、授業を観察し、
その後その授業への評価とアドバイスを得ることで、
それが、授業改善の学びとなり、
有効に働いていることを示している。

 これは、若手教員のみのものではない。
全ての教師の授業改善の力になると考える。

 学校には、それぞれ役割をもった教職員スタッフがいる。
一人として無役の者はいないのだが、
教務、生活指導、特活、事務等々を分担している。

 その一つとして、『授業改善アドバイザー』の
新設を提案したい。
 現職でもその任を果たせる授業経験豊かな教員や、
退職者の再雇用でもいいであろう。
当面、その任を校長や副校長、主幹等が担ってもいいだろう。

 そのアドバイザーによる授業観察と指導による学びが、
授業改善に有効に働くことと確信している。


 ③ 研究授業と研究協議から 新規開発

 『校内研修の重要性』は、7月17日のブログに記した。
くり返しになるが、校内研修の大きな役割は、
自校の教育課題を解決することにある。

 その課題解決の研究手法は様々だが、
研究の仮説を、授業実践を通して立証するやり方が主である。
だから、その授業は、仮説実証のためにある。
当然授業には、新しさが求められることが多い。
 つまりは、授業は開発的要素に重点が置かれることになる。

 そのために、校内研修として、研究授業が行われ、
その研究協議を通して、授業と仮説の整合性か検討されるのである。

 学力向上の授業改善と言った研究課題で言えば、
私が、今日重視すべき視点として次の2つを上げる。

 その1つは、指導と評価の一体化をはじめとする、
学習内容を子どもの実態に応じて柔軟に指導する方法の確立。
 もう1つは、授業における一人学習と集団学習のあり方である。

 いずれも、多くの研究授業と協議を通し、その検証が試され、
普遍性をもった授業として各学校に定着していくであろう。

 さて、ともすると授業改善は、校内研究の充実、
つまりは研究授業への取り組みによって実現すると言った
主張が大手を振っている。
 しかし、校内研究は、新しい授業実践の整合性こそに
大きな役割りがある。

 学力向上のための指導と評価の一体化した授業とはなにか。
一人学習と集団学習の有効な仕組みのある授業とは。
それが授業改善のための校内研究の、メインテーマなのである。
つまり、そのような授業の新規開発を、
校内の研究授業と研究協議は担っているのである。


 以上、第3の学力向上策である恒常的な授業改善には、
教師の『気づき』と『学び』、『新規開発』が
重要性をもっているのである。




 
 大きな木の枝先 もう新芽が膨らんで 
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医療の進歩を信じ

2015-12-11 22:51:01 | 思い
 教職10年目前後の頃、通常学級の担任として
自閉症T君(関連ブログ・14年8月4日『9年目の涙』)を、
そして、それから2年後には脳性マヒのYちゃんを受け持った。

 私は、この二人から教師として、かけがえのない財産を沢山頂いた。
その子のニーズに応じること、教師は子どもの鏡であること、
そして何よりも、障害に負けず精一杯生きている姿に
励まされたことなどなど、感謝はつきない。

 この経験が少しでも役立てばと、
40歳を前にして、1年間学校を離れ、
当時は目黒駅近くにあった都立教育研究所の研究生になった。

 その研究所の心身障害教育研究室に、毎日通った。
そこは、私のそれまでの学校生活とは
別世界と思える場だった。
 毎日、主任指導主事はじめ
心身障害教育を専門とする指導主事4名と、
これまた障害児学校・学級で
実践を積んできた2人の研究生と、机を囲んだ。

 障害児教育の文献に目を通し、
時に研修会に参加し専門的な講義を聴いた。
 そして、研究課題であった
「通常学級に在籍する障害児の学習の可能性を探る」ことに、
研究室の全スタッフで、議論を深め研究を進めた。

 まだ、「特別支援教育」と言う言葉も、
インクルージョンと言う考え方もない時代だった。
まさに先行的研究の色彩が強かった。

 それにしても、障害児教育について門外漢であった私にとって、
研究室のスタッフから聞くその実践や教育の視点は、
日々新鮮な驚きであった。
併せて、私自身の無学さを思い知らされた。

 ある日のティータイム、突然、
「医療と教育の違いってなんでしょうね。」と尋ねられた。
思いもしなかった問いに、絶句し、顔を赤くするだけの私だった。
 また、ある時は、「耐性と自己表現のバランスが重要なの。」
と、言うアドバイスに、全く理解不能だった。
 恥ずかしさと共に、自信を失うこともしばしばあった。

 そのような研究室での語らいで、ひときわ鮮烈に心に残ったものがある。
 それは、指導主事の中で一番若いK先生から聞いた。
K先生が、養護学校(今は「特別支援学校」)に、勤務していた時だ。

 小学1年生の男児が入学してきた。
肢体不自由児として入学してきたが、
当初は、健常の子と変わらず動き回ることができた。
 ところが、半年もすると歩行が遅くなり、
1年が過ぎると両足で立つことも難しくなった。
 筋ジストロフィーだった。

 年令を重ねるにつれ、全身の筋肉が衰え、
歩行も困難になり、車いす生活、
やがて寝たきりの生活。そして次へと進行していく。

 K先生は、言った。
「人は成長を続け、やがて一人の人間として生きていく。
そのために教育はあるのに、筋ジスの子は、
どんどん自立から遠ざかっていく。
 その子に、何を教えたらいいのか。どんな教育があるのか。
私は、悩みましたよ。」

 K先生とは、毎日研究室で顔を合わせた。
だから、その実直さはよく知っていた。
 筋ジスの子を前にして、どうその子に接するべきか、
苦慮するK先生の思いが、胸に痛かった。

 私には、K先生に返す言葉も、
私自身の気持ちを落ち着ける考えも浮かばなかった。
 帰りの電車で、つり革に必死にしがみつきながら、
「学校は、子どもの未来のためにある。
それなのにどうして。それなのに何ができるのだ。」
 その言葉だけが、頭をくり返し駆け巡った。
答えのないまま、堂々巡りが続いた。

 しかし、そんなこともやがて、
私の周りにそのような子どもがいないことで、次第に安堵に変わり、
迷いも、時と共に心の奥へといってしまった。

 ところが、校長として2校目に赴任した年の2月だった。
区教委から担当者が来校し、来年度の新一年生に、
筋ジスの子が入学することになったと知らされた。

 すでに、S区の区立小中学校では、学校選択制が導入されていた。
その子の親御さんは、私の学校への入学を希望されたとのことだった。
 K先生の言葉が、突然息を吹き返した。

 その子に、何ができるだろうか。
次第に自由を失っていくであろう子に、
学校はどんな対応が求められるのだろうか。
どんな学びに、努力をすべきなのか。
 さらには、そんなことより、この私に、
その子をしっかりと見つめ続ける、そんな強さがあるだろうか。
 筋ジスが進行する子を目の前にし、心揺れる担任を、
校長として支えることができるだろうか。

 私は、急に大きな不安と言えるだろうが、
口には出せない動揺と自信のなさ、迷いに見舞われた。

 数日後、親御さんと面談することになった。
お父さんは都合で見えられなかった。
 お母さんは、初対面の私への気遣いなのか、
落ち着きのあるスーツ姿で、校長室のソファーに腰掛けた。

 お子さんの病状と、これからやってくる障害について、
淡々と落ち着いてお話になった。
 私は、区教委の担当者と、その揺るぎのない話し方に聞き入った。
私は、時折、お母さんの話す内容に胸がしめつけられ、
息苦しさを感じた。
だが、必死で、それに気づかれないようにした。

 一通り聞き終えてから、私は誤解を恐れず質問した。
それは、何故、障害のある子にとって施設設備が不十分な本校への、
入学を選ばれたのかと言うことだった。

 「校長先生なら、うちの子の理解者になっていただけると思いました。」
お母さんの返事は、明快だった。
 だが、その時の私には、その言葉をしっかりと受け止める
気構えも知恵も度量もなかった。
 同時に、そう決断した思いを、はね返すといった
そんな酷さもなかった。

 「私にどれだけのことができるか。」
それが、必死の言葉だった。そして、
「お母さんも、辛いことがあろうかと思いますが、
学校もお子さんのために、努力を惜しまないつもりです。」

 私は、まだまだその子への対応に道筋が見えないまま、
背伸びをし、お母さんを励ましたつもりだった。
 すると、お母さんは私を見て、静かな口調で、
「校長先生、私は、医療の進歩を信じています。
あの子が生きている間に、必ず医療は進歩します。
私は、そう信じています。」

 暗い雲間が裂けて、一直線に太陽の光が地上を射ることがある。
お母さんの言葉と一緒に、私に明るい一筋の陽光が届いた。
 私は、分かった。
 お母さんのおっしゃる通りだ。
 医療は進歩する。
それを信じ、その子の未来のために、学校はある。
入学してくる全ての子と変わらず、等しく教育活動を進めよう。
 そして、願わくば進行する障害をものともしない子にしよう。

 私は、お母さんの物静かだが揺るぎない言葉に、力をもらった。
そして、自信を持って、その子を迎え入れることができた。

 私が在任中に、歩行ができなくなった。
お母さんが車いすを押して、登校してきた。
 私は、毎朝玄関で迎えた。
いつだって、二人は笑顔だった。

 もうまもなく、成人を迎えるころだろう。
今は、どうすごしているのか。
 時々、心が騒ぐ。

 ips細胞の山中教授が、
「この細胞が、医療で生かされる日を、一日でも早くと待っている人たちがいる。
そんな方々の力になれるよう、努力を続けたい。」
と言った。
 今、私の切なる祈りになっている。




市内を流れる気門別川 まだ鮭が遡上している
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好物は 納豆

2015-12-04 22:12:57 | 
 年令と共に食への欲が、増していくように思う。

 若い頃は、ただお腹を満たしてくれれば、それで十分だった。
だから、食堂に入りメニューを見てもこだわるものがなく、
注文を決めるのに一苦労した。
 それが、少しずつ変化し、
今では、日々の最大の関心事が、三度の献立になってきたように思う。

 だが、相も変わらず喰わず嫌いが治らず、
北の味覚の代表であるウニ・イクラ等々は、今も全くダメ。
 しかし、その反動か、
大好きな食べ物と言えるものもいくつかある。
その一つが、納豆である。

 納豆は、物心がついた頃、つまり3、4才の頃から食べていた。
朝食として出てきた最初の記憶に、納豆がある。
 あの頃、毎朝、豆腐や納豆等は、
自転車の荷台に積んで売り歩く人がいた。
 よく兄姉が、その自転車を止め、買い求めていた。

 我が家では、朝の食卓に納豆は欠かせなかった。
熱々のご飯に納豆の朝食を、毎日食べていたと思う。
 小、中、高校と進んでも、それは変わらず、
飽きるどころか、好きな食べ物になっていった。

 大人になっても、朝食がパン食になった。
代わって夕食で納豆がでた。
それでも、納豆への思いは変わらなかった。

 そんな訳で、徐々にではあったが、
私は、食べることだけでなく、
納豆を話題にすることにも、熱を帯びるようになった。

 教職につき担任の頃は、ちょっとした時間の合間をぬって、
納豆について子供たちによく語った。
 校長になってからは、時折、全校朝会で食についてと称して、
これまた納豆を取り上げ、話をした。
 また、ある時は、同僚たちとの酒の席で熱弁を振るった。

 ところが、その折々の私の語りは、ことごとく失敗。
納豆への私の熱い思いは、なかなか伝わらず、
周りはほとんど関心を示さなかった。
 周りの冷めた空気の中、私には虚しさだけが残った。
 それでも、好物・納豆について、書かずにはいられない。


 1、納豆の起源

ご存じの方も多いかと思うが、
蒸したり煮たりした大豆を納豆菌で発酵させると、
あの独特のにおいと糸を引いた納豆ができる。
 納豆菌は、稲わらに付着している。
だから、煮大豆を稲わらで包んでおくと納豆ができる。

 さて、この食べ物の起源であるが、
中世期の農家では、日常食として食べられていたようである。
だが、発明者が誰なのか、それはいつ頃なのか等は、不明のようである。

 秋田県横手市の「金沢公園」内に、『納豆発祥の地』という記念碑がある。
 この碑には、以下の記述が刻まれている。

 『由来・金沢の柵を含む横手盆地一帯を戦場とした
後三年の役(1083ー1087)は、
八幡太郎源義家と清原家衡・武衡との戦いで、
歴史に残る壮絶なものであった。
この戦の折、農民に煮豆を俵に詰めて供出させた所、
数日をへて香を放ち糸を引くようになった。
これに驚き食べてみたところ、意外においしかったので食用とした。
農民もこれを知り、自らも作り、後世に伝えたという。』

 伝説的なエピソードである。
 どうやら、源義家が兵糧として、農民に差し出させた『煮大豆』が、
わらでつくった俵に詰められていた。
 それが自然発酵し、香りを放ちネバネバとした糸を引いた。
義家の率いる軍勢が、それを思い切って食べてみた。
すると意外なほど美味しかった。
 これが、伝説的な『納豆の起源』らしい。

 私は、この伝説を知るまで、
勝手に納豆の起源をこんなふうに妄想していた。

 『収穫した大豆を、料理の下ごしらえとして煮た。
その鍋を移すとき、これまた収穫を終えて束ねてあった稲わらの上に、
煮大豆をこぼしてしまった。
 それをそのまま放置しておいたら、
においを放ち、ネバネバとした納豆ができた。
それをつまみ食いしてみたら、美味しかった。』

 どこにも根拠のない作り話である。
だが、伝説と同じように、
納豆は偶発的に誕生した食べ物と推測していた。

 しかし、納豆誕生にどんなエピソードがあろうと、
発酵した煮大豆が、あのにおいを放ち、ネバネバと糸を引いている。
今でも、それを手にした西洋人は、こぞって顔をしかめる。
 なのに、平安末期の頃の誰かであろうが、
はじめてその納豆を口にした人がいた。
 その好奇心と探究心、勇気に、私はただただ驚く。
そして、感謝する。
 すごい人がいたものだと、今も心が熱くなる。

 ある資料に、
「日本人の多くにとっては納豆のにおいは独特であるが、
醤油・味噌・漬け物などの発酵食品のにおいに慣れているので、
そんなに違和感はなくむしろ食欲をそそる
においとして受け取られやすい。」
とあった。
 だから中世の日本人は、納豆を口にできたのか?
私は、どうしてもそうは思えない。
 

 2 納豆ご飯の食べ方

 納豆は、よくかき混ぜ、
糸がたくさん引くほどうまくなると聞いた。
100回かき混ぜるのが、理想だとする説も耳にした。

 その信憑性はともかく、私は納豆に大根おろしと、
適当に醤油を加えたのが好きだ。
 人それぞれ、それぞれの工夫があるのだろうが、
刻みねぎ、シラス、生卵、カツオ節などを加えるのもいい。

 私は、そんな一工夫した納豆を、熱々のご飯に混ぜて食べる。
 まずは、お茶碗の真っ白なご飯の真ん中に、箸で穴を作る。
その穴に、ご飯の量に見合った納豆を入れる。
そして、穴の周りのご飯を納豆にかぶせてから、
箸を使ってよくかき混ぜる。
 お茶碗のご飯と納豆が、均等に混じり合うまで混ぜる。
それが完成したら、ご飯茶わんを口まで持っていき、
ご飯と納豆が均等になったものを、口にかき入れる。
 私は、これがどの人もしている、納豆ご飯の食べ方だと思っていた。

 ところが、もう20年も前になるだろうか、
6年生と一緒に2泊3日の宿泊体験学習に行った時だ。
朝食で、珍しく納豆がでた。
 一緒に楽しく食べていたら、私とは違う納豆ご飯の
食べ方をしている子が何人もいた。

 「納豆は、いつもそうやって食べるの。」
と訊くと、どの子も当然といったようにうなずいた。
驚きだった。
 私と違う納豆ご飯の食べ方は、二通りあった。

 その一つは、お茶碗のご飯に、適量の納豆をのせる。
次に、一口程度のご飯とそれに見合った納豆を、
お茶碗の片隅で混ぜ合わせる。
そして、一口で食べる。
再び、一口程のご飯に、納豆を混ぜて食べる。
そのくり返し。

 もう一つは、お茶碗には真っ白なご飯。
そして、別の器に溶いた納豆。
混ぜ合わせることなどはせず、
ご飯と納豆を交互に食べていく。
 まさに、納豆はおかずの一品のようである。

 後日知ったのだが、
納豆の大切な栄養成分は、熱に弱いのだとか。
 つまりは、熱々のご飯に納豆を混ぜるより、
ご飯と納豆を別々に食べる方が望ましいのだとか。

 しかし、長年の食習慣である。
私はやはり、私の食べ方がいい。
 誰がどう言おうと、
美味しいと思う食べ方を、私は変えるつもりない。





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