結婚した年から、年賀状には自作の詩を載せてきた。
愛猫『ネアルコ』が、
その年賀状に登場したのは、18年も前になる。
長男が猫と一緒に帰省
わずか3週間
ペットのいる暮らし
猫かわいがりの二男と
猫なで声の私と
やがて妻のひざにだかれる猫
今までにない団らんの風景
何かこれからを予感させる
真夏の出来事ひとつ
<後半・略>
確か、その年の春だったと思う。
急にお金が必要になったと、
京都の大学に通う長男から、電話があった。
何か間違いでもと、ドキッとしたが、
猫の手術と入院に予定外のお金がかかったとか。
後ろ足から大出血をし、動けない野良猫がいた。
あわてて洗濯用のネットにくるみ、動物病院へ運んだ。
緊急手術が行われ、そのまま長期入院。
高額の医療費に驚いた。それで、親への借金を申し出た。
無事退院したが、野良猫に戻す気にはなれなかった。
密かに、下宿の一室で飼うことにした。
当時、彼が夢中になっていた競馬から、
伝説の名馬『ネアルコ』をそのまま、呼び名にした。
そして、翌年の年賀状。
4月1日京都
二男の入学祝い
久しぶりに4人集う
ビールとジュースでカンパイ
<中 略>
二人に送られ新幹線
子どものいない暮らしにと
車内に猫の入ったペットバック
「二人とも京都とは」
「まったく でも俺の好きなまちだから」
「そうだけど でも」
そんな会話がきょうもまた
猫の鳴く横でくり返し
思い出すと、それは、突然の提案だった。
京都市内で、家族4人そろって二男の入学祝いをした。
長男が、「ネアルコを連れて行きなよ。」と言い出した。
「だって、僕たち二人ともいない暮らしだよ。誰もいないんよ。」
「ネアルコが役に立つと思うよ。」
すごい説得力だった。
私は、パッと明るい気持ちになった。
「じゃ、もらうよ。」と即答した。
そして、新幹線で持ち帰った。
ところが、当時、私たちが暮らしていた団地では、
ペットとの同居が禁止されていた。
完全な家猫とし、飼っていることをひた隠しにした。
しかし、我が家での暮らしに慣れはじめると、
ネアルコは、夫婦二人には広すぎる家の中に、
お気に入りの場所をみつけた。
それが、なんと一番人目につく、出窓だった。
日中、そのガラス窓には温かい陽があたった。
そこでの昼寝が気に入った。
私も家内も、「そこだけはダメ。」をくり返したが、
ネアルコはそれを無視した。
仕事で私たちが留守の昼日中、
堂々と、その窓に姿をさらしていた。
私たちは、猫の愛らしい仕草と声に、
毎日癒やされたものの、
団地の約束事を破っていることに、
肩身の狭い思いをするようになった。
それから2年後、近くに建てられたマンションが、
ペットとの同居が許されることもあり、思い切って転居した。
住まいは9階だった。
大好きな出窓はなく、ネアルコは外に出ることも、
9階の窓からは、人通りを見ることもできなくなった。
毎朝早く出勤する私たち二人を、
ひたすら待つだけの毎日を13年も送った。
そのためか、私たち以外の人にはなつかず、
来客があるとすごすごと押し入れに潜り、出てこなかった。
ある日、珍しく鼻水をたらし、息苦しくしていた。
早速、家内が動物病院に連れて行った。
案の定、風邪の診断だった。
「朝晩2回、この薬をのませるんだって。」
と、家内がその薬袋を私に見せた。
私は、その袋に書かれた名前に釘付けになった。
そこには、『ネアルコ』の前に苗字があった。
『塚原 ネアルコ』となっていた。
家族なんだと、思いっきり気づかされた。
そして、時折、ストレスからなのだろうか、
食べた物をもどすことがあった。
誰もいない時の、不始末である。
帰宅のドアを開けるとすぐ、困り声で鳴き出し、
玄関で、私の目を見る。
「どうしたの。」と言いながら、後をついて行くと、
そこには、決まってもどした汚れ物があった。
「いいんだよ。」
と、後始末をする私に、済まなそうな声で
また鳴いた。
そんなことのくり返しが、
可愛らしい以上の感情を、私にも家内にも育てた。
そして3年半前、私たちは首都圏から伊達に移住した。
3ヶ月前に引っ越しの計画を立てた。
私は、マイカーで仙台から苫小牧までフェリー。
そして、千歳空港で家内とネアルコを迎えることにした。
早速、家内の航空券購入とペットの同乗手続きをした。
早割航空料金は、10500円と格安だった。
そしてペットの同乗は、5000円とのことだ。
ペットも大切な家族。
でも大人料金に比べて、高いような気がした。
旅行代理店の女店員に、そう話すと、
彼女は目の色を変え、専用のパソコンに向かい、
しきりにキーボードを叩いた。
しばらくして、女店員は、
「お客様、ペットに早割がございません。」
と、詫びた。
私は、両手を叩き、笑いながら納得した。
いずれにしても、ネアルコにとっては、
とんでもない長旅の末、伊達まで来た。
案ずるようなこともなく、予想外に元気だった。
初めて経験する2階までの階段も興味津々。
やがて、2階のゲストルームは、お昼寝の絶好の場所になった。
毎日、私たちと一緒の暮らし。
だからなのか、人にも慣れ、
来客にも進んで近づいていくようになった。
時々は、ウッドデッキの窓から、
庭の緑に目をやったりもしていた。
穏やかな日が続いた。
ところが、昨年の夏から、急に食欲が落ちた。
口の周りを痛そうにする仕草が多くなった。
医者からは、歯肉炎と言われ、痛み止めの注射と薬が処方された。
そして、「もう高齢だから、
こうして生きているだけでも凄いことですよ。」と。
もう推定年齢は19歳である。人間なら95歳だ。
それから1年が過ぎた。
体重は、最盛期の半分以下になった。
二階へも行かなくなった。
私の腰の高さくらいに置いた水にも、ジャンプができなくなった。
固形の餌は口にしなくなり、
私たちは、ネアルコが好む猫スープを探して、
何軒ものペット用品売場を歩き回った。
そして、とうとう最期を予感させる日が、近づいた。
ご近所さんから、
「うちの犬が亡くなるとき、あわてて病院に連れて行ったの。
すると点滴をして、酸素マスクをして、寝かされて、
かわいそうだったの。
そんなことしないで、家で息をひきとらせたかった。」
と、経験談を聞いていた。
どんなことがあろうと、最期は家においておこうと決めていた。
何も食べない日が、2日続いた。
さらにやせ細った。毛並みもパサパサになった。
それでも、お気に入りの玄関先にころがり、
時々トイレまで、よろけながらも歩いた。
夕方、そのトイレ近くのお風呂場で横になった。
必死にトイレに近づこうとしているのが分かった。
何度も挑戦をくりかえし、トイレに前足をかけた。
だが、5,6センチの高さのトイレをまたぐことができなかった。
仕方なく、そのそばで用を足した。
「それでいいよ。いいよ。」と声をかけると、
安心したように、玄関に向かおうとした。
もう目も見えなくなっていた。
足も立っていることさえやっとだった。
抱きかかえて玄関に置いてやった。
荒い息をしながら、横になった。
そのまま深夜まで家内と見続けた。
もう、その荒い息を聞き続けるのが苦しくなった。
ネアルコをそのままにしてベットにもぐった。
早朝、もう息がないだろうと近づいた。
荒い息のまま、見えない目で私に顔を向けた。
立ち上がろうとするが、もうその力はなかった。
トイレかと察して、容器ごとトイレを運んできた。
そこに入れてやると、安心したように倒れこんだ。
「もういいよ。もういいよ。」
私は、ネアルコを抱えて床に置いた。
次の瞬間だった。荒い息が止まった。
「ネアルコ。ネアルコ。」
大声が出た。
一瞬、体が動いたが、全てが静まりかえってしまった。
家内のすすり泣きが聞こえた。
悲報に
『朝まで、生きていたかったのよ。』
と、義姉から返信メールが届いた。
そう気づかされ、急に涙があふれた。
18年間を共にした家族が逝った。
今年の終わり、ブログにそれを記す。
枯れ木にナナカマドの赤い実が目に止まる
愛猫『ネアルコ』が、
その年賀状に登場したのは、18年も前になる。
長男が猫と一緒に帰省
わずか3週間
ペットのいる暮らし
猫かわいがりの二男と
猫なで声の私と
やがて妻のひざにだかれる猫
今までにない団らんの風景
何かこれからを予感させる
真夏の出来事ひとつ
<後半・略>
確か、その年の春だったと思う。
急にお金が必要になったと、
京都の大学に通う長男から、電話があった。
何か間違いでもと、ドキッとしたが、
猫の手術と入院に予定外のお金がかかったとか。
後ろ足から大出血をし、動けない野良猫がいた。
あわてて洗濯用のネットにくるみ、動物病院へ運んだ。
緊急手術が行われ、そのまま長期入院。
高額の医療費に驚いた。それで、親への借金を申し出た。
無事退院したが、野良猫に戻す気にはなれなかった。
密かに、下宿の一室で飼うことにした。
当時、彼が夢中になっていた競馬から、
伝説の名馬『ネアルコ』をそのまま、呼び名にした。
そして、翌年の年賀状。
4月1日京都
二男の入学祝い
久しぶりに4人集う
ビールとジュースでカンパイ
<中 略>
二人に送られ新幹線
子どものいない暮らしにと
車内に猫の入ったペットバック
「二人とも京都とは」
「まったく でも俺の好きなまちだから」
「そうだけど でも」
そんな会話がきょうもまた
猫の鳴く横でくり返し
思い出すと、それは、突然の提案だった。
京都市内で、家族4人そろって二男の入学祝いをした。
長男が、「ネアルコを連れて行きなよ。」と言い出した。
「だって、僕たち二人ともいない暮らしだよ。誰もいないんよ。」
「ネアルコが役に立つと思うよ。」
すごい説得力だった。
私は、パッと明るい気持ちになった。
「じゃ、もらうよ。」と即答した。
そして、新幹線で持ち帰った。
ところが、当時、私たちが暮らしていた団地では、
ペットとの同居が禁止されていた。
完全な家猫とし、飼っていることをひた隠しにした。
しかし、我が家での暮らしに慣れはじめると、
ネアルコは、夫婦二人には広すぎる家の中に、
お気に入りの場所をみつけた。
それが、なんと一番人目につく、出窓だった。
日中、そのガラス窓には温かい陽があたった。
そこでの昼寝が気に入った。
私も家内も、「そこだけはダメ。」をくり返したが、
ネアルコはそれを無視した。
仕事で私たちが留守の昼日中、
堂々と、その窓に姿をさらしていた。
私たちは、猫の愛らしい仕草と声に、
毎日癒やされたものの、
団地の約束事を破っていることに、
肩身の狭い思いをするようになった。
それから2年後、近くに建てられたマンションが、
ペットとの同居が許されることもあり、思い切って転居した。
住まいは9階だった。
大好きな出窓はなく、ネアルコは外に出ることも、
9階の窓からは、人通りを見ることもできなくなった。
毎朝早く出勤する私たち二人を、
ひたすら待つだけの毎日を13年も送った。
そのためか、私たち以外の人にはなつかず、
来客があるとすごすごと押し入れに潜り、出てこなかった。
ある日、珍しく鼻水をたらし、息苦しくしていた。
早速、家内が動物病院に連れて行った。
案の定、風邪の診断だった。
「朝晩2回、この薬をのませるんだって。」
と、家内がその薬袋を私に見せた。
私は、その袋に書かれた名前に釘付けになった。
そこには、『ネアルコ』の前に苗字があった。
『塚原 ネアルコ』となっていた。
家族なんだと、思いっきり気づかされた。
そして、時折、ストレスからなのだろうか、
食べた物をもどすことがあった。
誰もいない時の、不始末である。
帰宅のドアを開けるとすぐ、困り声で鳴き出し、
玄関で、私の目を見る。
「どうしたの。」と言いながら、後をついて行くと、
そこには、決まってもどした汚れ物があった。
「いいんだよ。」
と、後始末をする私に、済まなそうな声で
また鳴いた。
そんなことのくり返しが、
可愛らしい以上の感情を、私にも家内にも育てた。
そして3年半前、私たちは首都圏から伊達に移住した。
3ヶ月前に引っ越しの計画を立てた。
私は、マイカーで仙台から苫小牧までフェリー。
そして、千歳空港で家内とネアルコを迎えることにした。
早速、家内の航空券購入とペットの同乗手続きをした。
早割航空料金は、10500円と格安だった。
そしてペットの同乗は、5000円とのことだ。
ペットも大切な家族。
でも大人料金に比べて、高いような気がした。
旅行代理店の女店員に、そう話すと、
彼女は目の色を変え、専用のパソコンに向かい、
しきりにキーボードを叩いた。
しばらくして、女店員は、
「お客様、ペットに早割がございません。」
と、詫びた。
私は、両手を叩き、笑いながら納得した。
いずれにしても、ネアルコにとっては、
とんでもない長旅の末、伊達まで来た。
案ずるようなこともなく、予想外に元気だった。
初めて経験する2階までの階段も興味津々。
やがて、2階のゲストルームは、お昼寝の絶好の場所になった。
毎日、私たちと一緒の暮らし。
だからなのか、人にも慣れ、
来客にも進んで近づいていくようになった。
時々は、ウッドデッキの窓から、
庭の緑に目をやったりもしていた。
穏やかな日が続いた。
ところが、昨年の夏から、急に食欲が落ちた。
口の周りを痛そうにする仕草が多くなった。
医者からは、歯肉炎と言われ、痛み止めの注射と薬が処方された。
そして、「もう高齢だから、
こうして生きているだけでも凄いことですよ。」と。
もう推定年齢は19歳である。人間なら95歳だ。
それから1年が過ぎた。
体重は、最盛期の半分以下になった。
二階へも行かなくなった。
私の腰の高さくらいに置いた水にも、ジャンプができなくなった。
固形の餌は口にしなくなり、
私たちは、ネアルコが好む猫スープを探して、
何軒ものペット用品売場を歩き回った。
そして、とうとう最期を予感させる日が、近づいた。
ご近所さんから、
「うちの犬が亡くなるとき、あわてて病院に連れて行ったの。
すると点滴をして、酸素マスクをして、寝かされて、
かわいそうだったの。
そんなことしないで、家で息をひきとらせたかった。」
と、経験談を聞いていた。
どんなことがあろうと、最期は家においておこうと決めていた。
何も食べない日が、2日続いた。
さらにやせ細った。毛並みもパサパサになった。
それでも、お気に入りの玄関先にころがり、
時々トイレまで、よろけながらも歩いた。
夕方、そのトイレ近くのお風呂場で横になった。
必死にトイレに近づこうとしているのが分かった。
何度も挑戦をくりかえし、トイレに前足をかけた。
だが、5,6センチの高さのトイレをまたぐことができなかった。
仕方なく、そのそばで用を足した。
「それでいいよ。いいよ。」と声をかけると、
安心したように、玄関に向かおうとした。
もう目も見えなくなっていた。
足も立っていることさえやっとだった。
抱きかかえて玄関に置いてやった。
荒い息をしながら、横になった。
そのまま深夜まで家内と見続けた。
もう、その荒い息を聞き続けるのが苦しくなった。
ネアルコをそのままにしてベットにもぐった。
早朝、もう息がないだろうと近づいた。
荒い息のまま、見えない目で私に顔を向けた。
立ち上がろうとするが、もうその力はなかった。
トイレかと察して、容器ごとトイレを運んできた。
そこに入れてやると、安心したように倒れこんだ。
「もういいよ。もういいよ。」
私は、ネアルコを抱えて床に置いた。
次の瞬間だった。荒い息が止まった。
「ネアルコ。ネアルコ。」
大声が出た。
一瞬、体が動いたが、全てが静まりかえってしまった。
家内のすすり泣きが聞こえた。
悲報に
『朝まで、生きていたかったのよ。』
と、義姉から返信メールが届いた。
そう気づかされ、急に涙があふれた。
18年間を共にした家族が逝った。
今年の終わり、ブログにそれを記す。
枯れ木にナナカマドの赤い実が目に止まる