ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

晴れたり曇ったり その7 <3話>

2022-11-26 12:45:08 | 北の湘南・伊達
 ① 夕食後、興味を誘われる番組がなかった。
読書でもしようと、テレビのスイッチを切った。

 居間が静かになると、小さな電子音が聞こえた気がした。
しばらくすると再び、「ピッピー ピッピー」と、
聞こえたような・・・。

 「何か、聞こえない?」。
家内が言う。
 空耳ではないと確信した。
しかし、聞こえた電子音に心当たりがなかった。
 何の音か、どこで鳴っているのか、見当もない。

 「ピッピー ピッピー」。
小さく2回鳴ると、10秒ほど間があり、
再び「ピッピー ・・・」と小さく。

 「きっと何かのコール!」。
音が鳴っている元を探した。
 外からではない。
室内のどこかから・・・、不思議だ。
 2人で聞き耳をたて、あっちこっちとウロウロ。

 2階のゲストルームまで行く。
「見つけた!」。
 ドアの斜め上にある火災報知器からピッピー・・・。
その報知器からは電子音に続いて、
 「電池が切れました」のアナウンスが小さく流れていた。
 
 発信音の箇所と原因にホッとし、
今度は、急ぎトリセツを探す。
 10年前に受け取った自宅引き渡しの大きなファイルに、
そのトリセツはあった。

 指示通り、発信音を止める。
電池の交換については、
「設置した業者へ連絡するように」とあった。

 翌日、業者に電話。
業者からは、我が家の4カ所に同型の火災報知器があり、
10年が過ぎ電池交換の時期になったと知らされ、
3日後に作業に伺うと回答があった。

 多忙のようだったが、約束の日に交換に来てくれた。
手際よく作業を終え、料金の支払いを済ませた。

 その作業をしながら教えてくれた、
火災報知器の説明が面白かった。

 木造住宅に火災報知器の設置か始まったのは、
10年くらい前かららしい。
 つまり我が家を建てた頃から設置が始まった。
設置した報知器の電池は、
10年で消費することになっていた。

 そこで、業者さんは言う。
「そうは言っても、10年前に初めて設置し、作動したものです。
10年で報知器の電池が本当に無くなるかどうか、
私たちは見たことがないんです。

 だから、電池の消費切れを、
この報知器がコールするかどうかも、
その実証は10年後の今が初めてなんです。

 ここにきて、何件か問い合わせや交換依頼がありました。
消費期限と機能に間違いはなかった。
 私たちもやっと納得しているんです」。

 やけに心許なく、「おいおい、大丈夫か!?」
と言いたい気持ちを、微笑みで隠した。


 ② 本屋で、内館牧子さんの『老害の人』が目に止まり、
購入した。

 自分自身を持てあます高齢者特有の言動を、
『老害』と称し、年寄りの生き方を問う物語だった。

 読み進むにつれ、身の回りにもあるようなことで、
面白さより、自分に置き換えて心が沈んだ。

 特に、ある老夫婦の奥さんが急逝した場面が強烈で・・。
早朝、男性が目覚めると、
隣の布団で奥さんが冷たくなっていた。

 男性は、すぐに老人仲間の主人公へ電話を入れた。
急逝を知った主人公は、早々その家へ駆けつけた。

 2人の息子は、東京を離れて遠方で仕事をしている。
いち早く駆けつけた主人公に支えられ、
男性は気丈に葬儀を進めた。
 そんな展開だ。

 「タラレバ」だが、
もしも同じような場面に私が遭遇したら、
どうするだろう。
 すぐに電話をし、
駆けつけてくれる人を探ってみた。

 地縁血縁のない伊達に移り住んで10年が過ぎた。
この10年、そんな私でも交友関係は広がった。
 ご近所さんをはじめ、
沢山の方々とお付き合いをさせてもらっている。

 こんな恵まれた関係性を、
10年前の私は想像できなかった。
 実に、幸運である。

 しかし、あの男性のように、
その朝、ためらうことなく電話できる人が、
今の私にはいないのだ。

 先日、パークゴルフ仲間との
3年ぶりの懇親会があった。
 わずかな時間、
近くに座った男性3人で、「タラレバ」だけど話題にした。

 「俺も同じだ。
そんな時、電話できる相手なんていない」。
 2人は口を揃えた。
「子どもは、東京だし・・ネ」。
 それぞれがつぶやき、ため息した。

 同じ境遇が、近くにいた。
それだけで少し安堵していた。

 ③  トム・クルーズの『マーヴェリック』以来だったが、
映画を観た。
 上映作品は『PLAN75』。
主演は倍賞千恵子だった。

 高齢化が進み、国において高齢者が大きな負担になった。
長生きを賞賛するのとは、真逆のことが始まった。

 75歳以上には福祉を充実させるのではなく、
自死の制度をつくり、それが推奨されるのだ。

 国にとって負担になっている高齢者には、
1日でも早く、1人でも多く、
自死を選び、安楽死の道へ進んでほしい。
 それが「PLAN75」なのだった。

 倍賞千恵子が演じる78歳になった女性は、
それまでの仕事を失い、無職になった。
 高齢で再就職もままならず、
無収入になった単身の彼女は「PLAN75」を選択する。

 制度には、自死の日までをケアするシステムがあった。
マニュアルにそった乾いたケアが行われ、その日を迎える。
 ケアのマニュアルが与えた僅かな安らぎだが、
彼女はそれに満たされる。

 そして、予定通り、置かれた現実と制度の全てを受け入れ、
彼女は安楽死のベットに着く。

 重たく、暗いスクリーンだった。
生きる権利がないがしろにされ、
次世代のために厄介者は命を断つ。
 まさに現代版「姥捨て山」。

 「PLAN75」の制度に関わる若い職員らが、
釈然としないままマニュアルを淡々と遂行する姿も、
社会の深刻さを裏付け、現実味があった。

 しかし、どうすることもできない現実の中、
ラストシーンは、安楽死寸前のベッドから脱出し、
彼女は、自らの足で歩き出す。
 死を思いとどまり、生きる道を選択した。
 
 どんなに大きな困難があっても生きる。
映画のラストは、そんなメッセージを私に伝えた。
 それは、ストーリーを追いながら、
ずっと私が願っていたことだった。
 小さな勇気がわいた。




   秋のなごり ~ジューンベリーの葉
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釣 り ~あんなことこんなこと

2022-11-19 12:32:01 | あの頃
 ▼ 移住して10年が過ぎた。
転居当初、「この先、必要になることもあるだろう」と、
しまい込んだ物が、物置にいろいろとある。

 確かに、その中から取りだして使った物もあるが、
多くは引っ越しからずっと、同じ場所に置かれたまま・・。
 そこで、もう不用品として処分しようと重い腰をあげた。

 その中に、釣り道具があった。
竿が3本、リールが3個、クーラーボックス1個、
それに蓋付きの箱に、重り、各種釣り針、サビキ網、
ハサミやら小道具やらがギッシリ。
 どれも、使ったまま錆とほこりで古ぼけていた。

 それらを、燃えるゴミと燃えないゴミに分別しながら、
しばらくの間、釣りにまつわる思い出に浸っていた。

 ▼ もうかれこれ40年も前になるが、
1984年の年賀状に、こんな詩を載せた。


   テトラポットの上に

 テトラポットの上に
 家族4人

 もうお兄ちゃんは
 鰯を5ひきも釣り上げた
 得意気な顔をして
 またリールを巻き上げている

 その横で
 「また きたか」と
 声をかけながら
 少しあせり顔のパパ
 まだ 2ひきしか

 ぼくは そのそばで
 コマセあみにスプーンで
 エサ係
 手に魚の臭いが
 こびりついても平気さ

 あっ また お兄ちゃんの
 さおが ひいているよ
 今度はくじらかな

 ぼくたちの後ろで
 ママはさっきから
 「危ないよ」
 「おちないで」
 ばっかり


 長男が小3、次男が保育所の年長だった。
好天の秋、休日の昼下がりに、
車と徒歩で15分程のヨットハーバーで、
釣りを楽しんだ。
 詩は、そのワンカット。

 その年だけ、釣りが私の『マイブーム』だった。
1週間前に同じヨットハーバーの堤防で、1人、釣り糸を垂れた。
 すぐから、カタクチイワシが一度に何匹もかかった。
夢中になり、歓喜した。

 その興奮が忘れられず、3人を誘った。  
まずまずの釣果があり、楽しい家族の時間になった

 しかし、釣りはそんな日ばかりではない。
2時間待っても3時間待っても、
一匹も釣れない。
 そんなことが、2度3度と続いた。
すると、どんなに誘っても3人は「行かない」と口をそろえた。
 徐々に、私の『マイブーム』も冷めていった。

 ▼ 毎年、夏休みには家族で北海道に帰省した。
その年は、家内の実家に3日ほど滞在した。
 初日、義父の案内でニジマスの釣り堀へ行った。
2人の息子は、次々と竿にかかる魚に、大喜びたっだ。

 その夜、夕食を囲みながら、
「渓流釣りがしてみたい」と思いつきで言った。
 すかさず、義父が「じゃ、明日行くか?」。

 それまで義父が、渓流釣りをするなんて知らなかった。
2つ返事で、明朝の日の出前に2人で行くことになった。
 義父は、慌ただしく準備をしてくれた。

 まだ真っ暗な時間に、義父の運転する車に乗り込んだ。
どこに向かっているのか、詳しい説明を聞けないまま、
運転席にいた。
 ざっと2時間は、乗っていたと思う。

 運転席でウトウトしていると、川の水音で目が覚めた。
すっかり夜は明け、快晴の空だった。

 義父は、止めた車のトランクを開け、準備を始めていた。
急いで外に出ると、
太ももまでの長靴に履き替えるように言われた。

 その後、麦わら帽子をかぶり、
腰に魚籠とエサの入った道具箱をさげた。

 「いくぞ。渉君」。
竿を持った義父は、小さな橋のたもとから、
流れの早い川の渕へ。
 私も、義父を真似、竿を肩にかけ、後に続いた。

 2メートルほどの川幅だが、浅瀬でも流れは急だった。
それに逆らって上流へ進んだ。

 「この辺りから釣れると思う」。
エサのつけ方、投げ入れ方の手ほどきを受けた。
 そして、釣れそうな川のポイントも教えてもらった。

 立った位置より上流に、釣り糸を投げ入れ、
流されるまま竿を下流へと動かす。
 それを繰り返した。

 同じ場所で、何回か試して引きがないと、
上流へと釣り場を変えた。
 義父は、あきらめが早かった。
引きがないと、どんどん上流へ移動した。

 やがて、義父の竿先が動いた。
勢いよく上げた釣り糸の先で、ヤマメが跳ねていた。
 続けて数匹が義父の竿にかかった。

 「渉君、流れが静かなあそこを狙え!」。
義父の指さす方へ、竿を向け釣り糸を投げた。
 瞬時だった
握っていた竿が小刻みに振動した。
 凄い引きがきた。

 教えてもたったように、勢いよく竿を上げた。
糸の先で、ヤマメが跳ねて、青空に舞った。
 とっさだったが、こんな言葉で喜んだのは、
後にも先にもその時だけだ。

 私は、ヤマメの跳ねる竿を片手に、
川音にも負けない声で2回叫んだ。
 なんと、「ブラボー!」「ブラボー!」だ。

 その後、その声に驚いたのか、
2人の竿には全く引きがなくなった。

 だから、義父は再びどんどんどんどん上流へ。
そこで、初めて狭い川原にある小さな立て札に気づいた。
 黒い太字でこう記されていた。
『クマ出没注意 営林署』。

 目に止まらないのか、構わず上流へ行く義父。
進む先々に同じ立て札があった。
 たまりかねて、「父さん、ここにもこんな立て札が・・」。
指さして私は立ち止まった。

 「気にすんな!」。
義父はサラッと言うと、それまで以上の速さで川を上り、
釣り糸を垂れた。

 その後、私の竿にも強い引きがたびたびあった。
腰の魚籠も重くなった。

 でも、「ブラボー」なんて、2度と言えなかった。
立て札が恐かった。
 早く帰路に着きたくて、それだけを願っていた。

 渓流釣りは、その1回で懲りた。
確かに「ブラボー」と叫ぶほどだったが・・。

 ▼ 5年を担任した学級に、釣り好きな子が数人いた。
その子らの提案で、翌年、釣りクラブができた。

 月に3回、火曜日の6時間目のクラブ活動の時間に、
5,6年生の男子約20名が釣り道具を持って集まった。
 たまたま私が、そのクラブの担当になった。

 クラブの活動は、学校から歩いて5分程度の土手から、
川に釣り糸を垂れ、魚がかかるのをひたすら待つだけだった。
 釣りが好きな子ばかりが集まっていた。
じっと竿の先を見て、わずか30分程度の釣り時間を過ごした。
 釣れなくでも満足なのか、時間が過ぎると、
釣り道具をきちんとしまい、学校に戻った。

 近所に釣具屋があった。
火曜日の朝、何人かがそこで釣りエサを買った。
 それで、釣りクラブを知った店主が、
いつからか、無料でエサをくれるようになり、
釣り好きの子を励ました。

 ある日、どの子の竿にも次々とフッコがかかった。
土手は、活気づいた。
 多い子は、30分の釣り時間に4匹もつり上げた。
 
 いつも口数が少ない子らなのに、
その日は、学校までの道々、下校途中の子を呼び止めては、
釣れた魚を見せた。
 
 そして、釣具屋の前まで来ると、
勢いよく店の戸を開け、
店主に次々と釣った魚を見せた。

 「よかったネ。よかったネ」。
店主の明るい顔の横で、
私は何度も何度も頭を下げていた。
 
 それは1回だけ。
再び、釣果のないクラブ活動に。
 でも、翌年も釣りクラブに入部者があり、存続した。


 

       白 鳥 飛 来 
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学校の移り変わり ここにも

2022-11-05 12:34:07 | あの頃
 大学を卒業して、東京で小学校教員になったのは、
50年も前のことだ。
 当然だが、学習内容や方法をはじめ、学校の様相は、
その時々で大きく変わった。
 学校を支えるここも、変わった。
その一端を記す。
 
 ▼ 50年前の着任初日のことだ。
手違いで、住まいが決まっていないことが分かった。
 その日、宿泊当番だった警備員さんの計らいで、
学校の保健室に泊めてもらうことになった。

 当時、都内の公立学校の夜は、警備員が宿泊し、
校舎を管理していた。
 だから、知り合いの伝手もない東京での初めての夜を、
路頭に迷わずに済んだ。

 ところが、夜の学校警備は、
それから数年すると、体制が次第に変わった。
 校舎警備の機械化が始まったのだ。

 今では、都内の全ての学校が、深夜は無人になっている。
学校に限らず、警備システムが進化した。
 不審者の侵入、火災だけではない、窓や出入り口の施錠の不備まで、
システムは知らせる。
 その上、無人でも有事の警報があると、
瞬時に警備会社より人員が急行する。
 警備員が宿泊するよりも、夜の学校は安全になったと言える。

 ▼ 給食業務も大きく変わりつつある。
私が教頭をしていたK区は、
区の職員が各学校に配属され、給食を作った。

 ところが、校長をしたS区では、
多くの学校で給食業務が、
民間企業への委託に切り替わっていた。
 行財政の経費削減が主な目的だった。

 しかし、これによって、
学校給食が様変わりする第一歩が始まった。

 民間委託前は、学校規模によるが4名程度の区職員が配属になり、
調理をした。毎日、どんな献立でも、その4人で作業をした。

 ところが、民間委託は違った。
委託された会社には、学校に常駐する調理員の他に、
献立によって人手を必要とする場合は、臨時に派遣するスタッフがいた。

 従って、回数には制限があったが、
子ども達が2つの献立から1つを選べる、
『セレクト給食』ができるようになった。

 また、年に1回だったが、
5年生と6年生には、バイキング給食も実施された。


 ▼ 学校警備の機械化も給食業務の民間委託化も、
長い年月をかけ徐々に進められている。

 さて、3番目は、主事さんである。
この項は、やや長くなる。
 私が小学生だった頃は
『小遣いさん』と呼んでいた方々だ。
思い出がある。

 私の小学校はペチカがあることで有名だった。
教室のペチカに、毎朝、石炭を投げ入れ、
暖かい冬の教室へ私たちを迎え入れてくれたのは、
口数の少ない『小遣いさん』だった。

 放課後に、『小遣いさん』のおばさんに呼び止められた。
ズボンの膝頭に開いた穴を、一針一針かがってくれた。
 その温かさが、心に浸みた。

 いつから『主事さん』と呼ぶようになったか、
分からない。
 小学生の頃の『小遣いさん』と変わらず、
私が勤務したどこの学校にも労を惜しまず、
仕事をする主事さんがいた。
 学校にはなくてはならない人たちだ。

 その主事さんにも、
ついに民間企業への業務委託案が持ち上がった。
 私が、校長会長の任にあった時だった。
学校関係者として、
教育委員会の検討会議に何度も出席した。
 
 そして、丁寧な議論を重ね、
翌年から数校で主事さんの民間委託による業務が始った。
 実は、S区のこの委託は全都でも先駆けだった。
区が提携した民間企業でも、
社員を主事さん業務に派遣するのは初めてだった。

 委託内容や経過を熟知しているからと、
私の学校が最初の委託校に選ばれた。
 
 内容までは知らないが、企業での半月間の研修を終え、
4月1日、50歳前後の男性1人女性2人が民間企業から、
主事さんとして私の学校に来た。

 S区と主事さん派遣の業務提携を結んだ会社は、
業務内容を明示して社員募集をした。
 選考の結果3人が採用になった。
3人とも、学校の主事としての経験はなかった。

 1日目、私が出勤すると、3人はすでに作業着姿だった。
男性を主任と呼び、職員室の掃除を終えるところだった。
 私の部屋の掃除はすでに終わっていた。

 「経験がないのに・・!」。
その日の仕事ぶりに目を見張った。
 3人は、時間を惜しむように、
一日中、学校の内外を忙しく動き回っていた。

 そして、入学式から数日が過ぎた朝だった。
1年生は登校に慣れていないのに、雨が降った。

 体にはまだ大きい真新しいランドセルを背負い、
不慣れな雨傘をさして、
上級生と一緒に1年生が玄関まで来た。

 その時、今まで見たことのないシーンを私は目撃した。
3人の主事さんが、1年生の靴箱前で、
両手にタオルを持って、待ち構えていた。
 1人1人の頭と背中、そしてランドセルの雨を、
忙しく拭きはじめたのだ。

 「頭も背中も鞄も拭いたから、教室へ行っていいよ」。
主人さんの声かけに振り返り、一瞬明るい顔で1年生は、
「ありがとう」と言い、教室へ向かった。

 3人の足下に置かれたカゴには、どこから集めたのか、
乾いたタオルがたくさん入っていた。

 「雨の日は、全員の頭や背中を拭いてあげたかったけど、
今日は、1年生にしかしてあげられませんでした」。
 私が礼を言うと、主事さんは残念そうな顔をした。

 以来、雨の朝の玄関には、
いつもタオルを手にした3人がいた。
 1年生だけでなく高学年も嬉しそうに、
主事さんに頭と背中を向けていた。

 ある日、近隣の方から電話があった。
私に直接言いたいとのこと。
 やや緊張して、受話器を握った。
明るい声だった。

 「4月から、学校の横のゴミ集積所を綺麗にしてくれる方がいて、
助かっていたのです。小学校の主事さんだと今朝分かりまして、
ひと言お礼をと思い、お電話しました」。

 受話器を置きながら、誰にだろうか、
深々と頭を下げていた。

 男性の主事さんが、校長室の蛍光灯交換作業していた時だ。
私は、日頃の仕事ぶりを取り上げ、感謝を伝えた。
 すると、いつも遠慮がちな彼が、小さく言った。

「私たちは、今までの方々と同じじゃ、ダメなんです。
いろいろ考えて、頑張りますので、よろしくお願いします」。
 新規事業に参入した意気込みが伝わってきた。
ここでも、小さな変化が歩み出していた。


 

    ご近所の花壇 マリーゴールド
                   ※次回のブログ更新予定は11月19日(土)です   
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