① 夕食後、興味を誘われる番組がなかった。
読書でもしようと、テレビのスイッチを切った。
居間が静かになると、小さな電子音が聞こえた気がした。
しばらくすると再び、「ピッピー ピッピー」と、
聞こえたような・・・。
「何か、聞こえない?」。
家内が言う。
空耳ではないと確信した。
しかし、聞こえた電子音に心当たりがなかった。
何の音か、どこで鳴っているのか、見当もない。
「ピッピー ピッピー」。
小さく2回鳴ると、10秒ほど間があり、
再び「ピッピー ・・・」と小さく。
「きっと何かのコール!」。
音が鳴っている元を探した。
外からではない。
室内のどこかから・・・、不思議だ。
2人で聞き耳をたて、あっちこっちとウロウロ。
2階のゲストルームまで行く。
「見つけた!」。
ドアの斜め上にある火災報知器からピッピー・・・。
その報知器からは電子音に続いて、
「電池が切れました」のアナウンスが小さく流れていた。
発信音の箇所と原因にホッとし、
今度は、急ぎトリセツを探す。
10年前に受け取った自宅引き渡しの大きなファイルに、
そのトリセツはあった。
指示通り、発信音を止める。
電池の交換については、
「設置した業者へ連絡するように」とあった。
翌日、業者に電話。
業者からは、我が家の4カ所に同型の火災報知器があり、
10年が過ぎ電池交換の時期になったと知らされ、
3日後に作業に伺うと回答があった。
多忙のようだったが、約束の日に交換に来てくれた。
手際よく作業を終え、料金の支払いを済ませた。
その作業をしながら教えてくれた、
火災報知器の説明が面白かった。
木造住宅に火災報知器の設置か始まったのは、
10年くらい前かららしい。
つまり我が家を建てた頃から設置が始まった。
設置した報知器の電池は、
10年で消費することになっていた。
そこで、業者さんは言う。
「そうは言っても、10年前に初めて設置し、作動したものです。
10年で報知器の電池が本当に無くなるかどうか、
私たちは見たことがないんです。
だから、電池の消費切れを、
この報知器がコールするかどうかも、
その実証は10年後の今が初めてなんです。
ここにきて、何件か問い合わせや交換依頼がありました。
消費期限と機能に間違いはなかった。
私たちもやっと納得しているんです」。
やけに心許なく、「おいおい、大丈夫か!?」
と言いたい気持ちを、微笑みで隠した。
② 本屋で、内館牧子さんの『老害の人』が目に止まり、
購入した。
自分自身を持てあます高齢者特有の言動を、
『老害』と称し、年寄りの生き方を問う物語だった。
読み進むにつれ、身の回りにもあるようなことで、
面白さより、自分に置き換えて心が沈んだ。
特に、ある老夫婦の奥さんが急逝した場面が強烈で・・。
早朝、男性が目覚めると、
隣の布団で奥さんが冷たくなっていた。
男性は、すぐに老人仲間の主人公へ電話を入れた。
急逝を知った主人公は、早々その家へ駆けつけた。
2人の息子は、東京を離れて遠方で仕事をしている。
いち早く駆けつけた主人公に支えられ、
男性は気丈に葬儀を進めた。
そんな展開だ。
「タラレバ」だが、
もしも同じような場面に私が遭遇したら、
どうするだろう。
すぐに電話をし、
駆けつけてくれる人を探ってみた。
地縁血縁のない伊達に移り住んで10年が過ぎた。
この10年、そんな私でも交友関係は広がった。
ご近所さんをはじめ、
沢山の方々とお付き合いをさせてもらっている。
こんな恵まれた関係性を、
10年前の私は想像できなかった。
実に、幸運である。
しかし、あの男性のように、
その朝、ためらうことなく電話できる人が、
今の私にはいないのだ。
先日、パークゴルフ仲間との
3年ぶりの懇親会があった。
わずかな時間、
近くに座った男性3人で、「タラレバ」だけど話題にした。
「俺も同じだ。
そんな時、電話できる相手なんていない」。
2人は口を揃えた。
「子どもは、東京だし・・ネ」。
それぞれがつぶやき、ため息した。
同じ境遇が、近くにいた。
それだけで少し安堵していた。
③ トム・クルーズの『マーヴェリック』以来だったが、
映画を観た。
上映作品は『PLAN75』。
主演は倍賞千恵子だった。
高齢化が進み、国において高齢者が大きな負担になった。
長生きを賞賛するのとは、真逆のことが始まった。
75歳以上には福祉を充実させるのではなく、
自死の制度をつくり、それが推奨されるのだ。
国にとって負担になっている高齢者には、
1日でも早く、1人でも多く、
自死を選び、安楽死の道へ進んでほしい。
それが「PLAN75」なのだった。
倍賞千恵子が演じる78歳になった女性は、
それまでの仕事を失い、無職になった。
高齢で再就職もままならず、
無収入になった単身の彼女は「PLAN75」を選択する。
制度には、自死の日までをケアするシステムがあった。
マニュアルにそった乾いたケアが行われ、その日を迎える。
ケアのマニュアルが与えた僅かな安らぎだが、
彼女はそれに満たされる。
そして、予定通り、置かれた現実と制度の全てを受け入れ、
彼女は安楽死のベットに着く。
重たく、暗いスクリーンだった。
生きる権利がないがしろにされ、
次世代のために厄介者は命を断つ。
まさに現代版「姥捨て山」。
「PLAN75」の制度に関わる若い職員らが、
釈然としないままマニュアルを淡々と遂行する姿も、
社会の深刻さを裏付け、現実味があった。
しかし、どうすることもできない現実の中、
ラストシーンは、安楽死寸前のベッドから脱出し、
彼女は、自らの足で歩き出す。
死を思いとどまり、生きる道を選択した。
どんなに大きな困難があっても生きる。
映画のラストは、そんなメッセージを私に伝えた。
それは、ストーリーを追いながら、
ずっと私が願っていたことだった。
小さな勇気がわいた。
秋のなごり ~ジューンベリーの葉
読書でもしようと、テレビのスイッチを切った。
居間が静かになると、小さな電子音が聞こえた気がした。
しばらくすると再び、「ピッピー ピッピー」と、
聞こえたような・・・。
「何か、聞こえない?」。
家内が言う。
空耳ではないと確信した。
しかし、聞こえた電子音に心当たりがなかった。
何の音か、どこで鳴っているのか、見当もない。
「ピッピー ピッピー」。
小さく2回鳴ると、10秒ほど間があり、
再び「ピッピー ・・・」と小さく。
「きっと何かのコール!」。
音が鳴っている元を探した。
外からではない。
室内のどこかから・・・、不思議だ。
2人で聞き耳をたて、あっちこっちとウロウロ。
2階のゲストルームまで行く。
「見つけた!」。
ドアの斜め上にある火災報知器からピッピー・・・。
その報知器からは電子音に続いて、
「電池が切れました」のアナウンスが小さく流れていた。
発信音の箇所と原因にホッとし、
今度は、急ぎトリセツを探す。
10年前に受け取った自宅引き渡しの大きなファイルに、
そのトリセツはあった。
指示通り、発信音を止める。
電池の交換については、
「設置した業者へ連絡するように」とあった。
翌日、業者に電話。
業者からは、我が家の4カ所に同型の火災報知器があり、
10年が過ぎ電池交換の時期になったと知らされ、
3日後に作業に伺うと回答があった。
多忙のようだったが、約束の日に交換に来てくれた。
手際よく作業を終え、料金の支払いを済ませた。
その作業をしながら教えてくれた、
火災報知器の説明が面白かった。
木造住宅に火災報知器の設置か始まったのは、
10年くらい前かららしい。
つまり我が家を建てた頃から設置が始まった。
設置した報知器の電池は、
10年で消費することになっていた。
そこで、業者さんは言う。
「そうは言っても、10年前に初めて設置し、作動したものです。
10年で報知器の電池が本当に無くなるかどうか、
私たちは見たことがないんです。
だから、電池の消費切れを、
この報知器がコールするかどうかも、
その実証は10年後の今が初めてなんです。
ここにきて、何件か問い合わせや交換依頼がありました。
消費期限と機能に間違いはなかった。
私たちもやっと納得しているんです」。
やけに心許なく、「おいおい、大丈夫か!?」
と言いたい気持ちを、微笑みで隠した。
② 本屋で、内館牧子さんの『老害の人』が目に止まり、
購入した。
自分自身を持てあます高齢者特有の言動を、
『老害』と称し、年寄りの生き方を問う物語だった。
読み進むにつれ、身の回りにもあるようなことで、
面白さより、自分に置き換えて心が沈んだ。
特に、ある老夫婦の奥さんが急逝した場面が強烈で・・。
早朝、男性が目覚めると、
隣の布団で奥さんが冷たくなっていた。
男性は、すぐに老人仲間の主人公へ電話を入れた。
急逝を知った主人公は、早々その家へ駆けつけた。
2人の息子は、東京を離れて遠方で仕事をしている。
いち早く駆けつけた主人公に支えられ、
男性は気丈に葬儀を進めた。
そんな展開だ。
「タラレバ」だが、
もしも同じような場面に私が遭遇したら、
どうするだろう。
すぐに電話をし、
駆けつけてくれる人を探ってみた。
地縁血縁のない伊達に移り住んで10年が過ぎた。
この10年、そんな私でも交友関係は広がった。
ご近所さんをはじめ、
沢山の方々とお付き合いをさせてもらっている。
こんな恵まれた関係性を、
10年前の私は想像できなかった。
実に、幸運である。
しかし、あの男性のように、
その朝、ためらうことなく電話できる人が、
今の私にはいないのだ。
先日、パークゴルフ仲間との
3年ぶりの懇親会があった。
わずかな時間、
近くに座った男性3人で、「タラレバ」だけど話題にした。
「俺も同じだ。
そんな時、電話できる相手なんていない」。
2人は口を揃えた。
「子どもは、東京だし・・ネ」。
それぞれがつぶやき、ため息した。
同じ境遇が、近くにいた。
それだけで少し安堵していた。
③ トム・クルーズの『マーヴェリック』以来だったが、
映画を観た。
上映作品は『PLAN75』。
主演は倍賞千恵子だった。
高齢化が進み、国において高齢者が大きな負担になった。
長生きを賞賛するのとは、真逆のことが始まった。
75歳以上には福祉を充実させるのではなく、
自死の制度をつくり、それが推奨されるのだ。
国にとって負担になっている高齢者には、
1日でも早く、1人でも多く、
自死を選び、安楽死の道へ進んでほしい。
それが「PLAN75」なのだった。
倍賞千恵子が演じる78歳になった女性は、
それまでの仕事を失い、無職になった。
高齢で再就職もままならず、
無収入になった単身の彼女は「PLAN75」を選択する。
制度には、自死の日までをケアするシステムがあった。
マニュアルにそった乾いたケアが行われ、その日を迎える。
ケアのマニュアルが与えた僅かな安らぎだが、
彼女はそれに満たされる。
そして、予定通り、置かれた現実と制度の全てを受け入れ、
彼女は安楽死のベットに着く。
重たく、暗いスクリーンだった。
生きる権利がないがしろにされ、
次世代のために厄介者は命を断つ。
まさに現代版「姥捨て山」。
「PLAN75」の制度に関わる若い職員らが、
釈然としないままマニュアルを淡々と遂行する姿も、
社会の深刻さを裏付け、現実味があった。
しかし、どうすることもできない現実の中、
ラストシーンは、安楽死寸前のベッドから脱出し、
彼女は、自らの足で歩き出す。
死を思いとどまり、生きる道を選択した。
どんなに大きな困難があっても生きる。
映画のラストは、そんなメッセージを私に伝えた。
それは、ストーリーを追いながら、
ずっと私が願っていたことだった。
小さな勇気がわいた。
秋のなごり ~ジューンベリーの葉