ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

だいじな人が 逝く

2021-05-29 14:51:04 | 心残り
  1.「これ、ほしい!」 

 産炭地だった赤平には、
『鞄いたがき』の本店がある。

 札幌狸小路や新千歳空港内に支店があるが、
本店を知ったのは、伊達で暮らし始めてからだ。

 5年前のことになる。
お盆のお墓参りをした日だ。
 滝川の松尾ジンギスカンで昼食をとり、
家内の実家がある芦別へ戻る途中、
私と家内、義母で、その本店に立ち寄った。

 周りの雰囲気とは違う洒落た店構えで、
店内は明るく、外観よりもさらに都会的だった。
 陳列品は、すべて「いたがき」オリジナルの革製品。

 初めて店内に入った義母は、
その高級感に少し驚いていたようだったが、
しばらくすると女性用鞄のコーナーにいた。

 私は、近寄り、やや冷やかし半分に声をかけた。
「何か、お気に入りでもありましたか?」。
 義母は、そこに置かれていたバックの1つを指さし、
「これ、色も形も素敵ね」。

 見ると、ワインレッド色したバンドバックの中でも、
ひときわ洗練されたデザインの物だった。
 「ウウーン、なるほど。
それがいいなんて、センスいいですね。さすが・・。」

 私が、手にとってみるように、薦めると、
すかさず店員さんが義母へそのバッグを渡してくれた。

 すでに92歳になっていた。
それでも義母は嬉しそうに、それを腕にかけた。
 その時、すばやく値札を見た。
やはり高級品らしい値がついていた。

 何を思ったのか、義母は突然、私の顔をのぞき込み、
「これ、ほしい!」。
 女性が恋人にねだるような仕草に似ていた。

 私は、一瞬返す言葉が見つからずにいると、
今度は真顔になって、
「でも、もうこれを持って行くところなんてないし・・。」

 寂しげなその言葉が、私には響いた。
「これからだって、
いつかどこかへ出掛ける時があるかも知れませんよ。
 その時、持って行けばいい。
私が買って上げる。
 今度の誕生日でいい?」。
言いながら、次第に本気になっていた。

 義母は何を思ったのだろう、早口で言った。
「じゃ、100歳になったら、買って!」。
 「それは・・、まだまだ先過ぎるなあ」。
「それでいいの」。
 それまで店内を明るくしていた陽差しが、
急に陰った気がして、私は焦った。

 「でも、それじゃ・・・。
そうだ。私の母が死んだ歳を超えたら、
96歳になったら、プレゼントするね。
 それで、いい?」。

 私の思いつきに、義母は反応した。
「そうね・・! 私も、渉さんも鼠だから、
その年の誕生日まで、頑張って生きるわ」。
 いつもの丸顔が、ニコッと私を見た。
 
 その日から、月々のわずかなお小遣いから、
バンドバック用の積み立てを、私は始めた。


  2.全てはコロナ禍・・と

 昨年は、そのねずみ年だった。
高齢者住宅暮らしだった義母は、
3月からのコロナによる面会禁止も加わり、
認知症が急速に進んだ。
 介助が必要になってしまった。  
 
 でも、私はプレゼント計画を進めた。
いたがき本店に電話し、積み立てたお金を振り込み、
96歳のバースディー祝いを注文した。
 お店の方は快く、その日に義母のいる隣町の施設まで、
それを届けてくれた。

 数日後、ベット上におき上がった弱々しい義母と、
横に置かれた上品なハンドバックが一緒の写真を、
義姉が送り届けてくれた。

 その後、認知症はさらに進んだ。
同時に内臓疾患も悪化し、
施設から病院へ移り、寝たきりになった。

 面会は、親子であっても許されなかった。
「感染予防対策です!」。
 病院のひと言には、誰も逆らえなかった。
ただただコロナ収束をと祈った。
 
 その願いも叶わないまま、1年が過ぎ、
今月、97歳の誕生日の2日前に、
病院から最期の知らせが届いた。

 コロナ禍だからと、思いつつも、
誰1人として家族が看取って上げられなかった。
 理不尽さだけが、心に残り、膨らんだ。

 葬儀は、子供4人の夫婦、つまり8人だけで行った。
北海道も緊急事態宣言下だ。
 これも、8人がそれぞれが、
「致し方ない」と思うしかなかった。

 告別式は、義母の誕生日と重なった。
その朝、棺を前に、
義姉の声かけで『ハッピーバースデー』を8人で合唱した。

 「寝たきりでもいいから、生きていて、
まだ温もりのある手を握れる日を願っていたのに・・」。
 歌いながら、家内の言葉を思い出し、声がつまった。
 
 義母・時子の「時」を生かし、
戒名は『 時 室 松 薫 信 女』となった。
 『松』は長寿、『薫』は風薫る季節の旅立ちの意と理解した。
実に、義母にふさわしい。                     
                         合  掌




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こんなもんじゃ 済まさない!

2020-07-18 19:42:02 | 心残り
 1ヶ月ぶりにゴルフをした。
朝のランニングもした。
 ゴルフができることが、走ることが、
こんなに嬉しいとは・・。
 今までにはない特別な感情だった。

 例年この時期は、ゴルフ三昧で、
東京からゴルフ友達が来たりして、
『ゴルフ!ゴルフ!』で過ごす。
 だが、コロナで自粛。
それだけが理由ではなかった。

 朝ランには最高の季節だ。
秋のマラソン大会に向けて、
やや長い距離を走る。
 半袖シャツにハーフパンツ姿。
軽快に風を切る爽快感がたまらない。
 それが、無理だった。
 
 実は、ようやくゴルフができる体になった。
走る体力が、やっと戻った。

 6月に入って間もなく、
突然、喉が痛くなった。
 かかりつけの内科医へ行った。
微熱もあって、軽い風邪との診断だった。
 「葛根湯」などの薬が処方された。

 しかし、1日1日痛みが激しくなった。
その箇所も扁桃腺の辺りより奥の方だ。 
 その上、時間をおいて耳にまで痛みが襲った。
ついに、痛さで深夜に目が覚めた。

 3日後、意を決して耳鼻咽喉科へ行った。
耳には異常がなかった。
 「喉の痛みが耳にまで伝播しているのでしょう。」
そう診断し、喉の炎症を抑えるため、
抗生剤や痛み止めなど1週間分の薬を処方してくれた。

 ところが、その後2夜、
痛みに耐えても改善は見られなかった。

 再び耳鼻咽喉科を頼った。
早々医師は、内視鏡で奥の方の喉を診た。
 そこには、3つ4つと水ほうがあった。

 「これは痛かったでしょう。
喉にできた帯状疱疹ではないかと思います。」
 ようやく痛みの正体が分かった。

 薬も変更になり、
その上強い痛みに効く頓服薬まで頂いた。

 「これで、きちんと薬を飲んでいれば治る。」
そう胸をなで下ろした。

 なのに、痛みが続いた。
仕方なく、頓服薬にまで手を伸ばした。

 ずっと喉と耳の痛みが続いた。
37度以上にはならないが微熱も下がらなかった。
 その上に、次第に頭痛までが加わった。
体もだるく、昼間もベットにふせた。

 2日が過ぎた朝だ。
「最近、高血圧気味だから」
と、家内は朝夕に計測をしていた。
 「もしかして、頭痛の原因が血圧かも?」
と、私も測定器に向かった。
 いつもより20も高く150を越えていた。

 翌朝も症状に大きな変化はなかった。
やや頭痛がひどくなったようにも思った。
 血圧を測定してみた。
また20程上がって、170もあった。
 腑に落ちなかった。

 そして、4日目、予約していた耳鼻科への通院の日だ。
血圧は180を越えていた。

 再び、内視鏡で喉の奥を診た。
水ほうが薄くなっていたのが、私にも分かった。
 少し安心した。

 医師に、血圧の上昇を伝えた。
早々薬の副作用を疑い調べてくれたが、
それは否定された。
 そして、内科の受診を進められた。
3日分、同じ薬が新たに処方された。

 その日もベットに伏せたままだった。
痛さが変わらなかった。
 
 頭痛だけはさらにひどくなったように思い、
就寝時にもう1度、血圧を測った。
 198になっていた。
その上、いつもは60程度の心拍数が102もあった。

 「明らかに何かがおかしい!」。
「これはまずい!」。
 なのに、応急の対処が思い当たらなかった。
よく考えることができなかった。

 今、振り返ると、すでにうつろだったのだろう。
ひたすら朝だけを待っていた。
 「朝になったら、いつものS医院へ行こう。」
 
 ベットに横になりながら、
「眠ったら、そのまま目が開かなくなるのでは・・」。
 そんな不安が、何度もよぎった。

 高い木々が林立する深い森に、
小道があった。
 木漏れ日が幾筋も斜めに差していた。
突然、フラフラとそこを進む私がいた。

 「行っちゃダメ!!」。
慌てて目を覚ました。
 鼓動の激しさに、息がついていかなかった。

 「眠ったら、そのまま・・・」
そう思いつつ、
また木漏れ日が差す森の小道を進んていた。
 それに気づき、ハッと目を覚ます。

 くり返しくり返し、同じ映像を見た。
それを中断させ、荒い息をしていた。
 喉が渇いた。寝汗をかいた。
そして、ようやく長い夜が明けた。

 受付時間を待って、家内の車で
かかりつけの内科医院へ行った。
 すでに10人を越える方が、待合室にいた。

 得体の知れない不安が、家内に付き添ってほしいと願った。
しかし、座る席がうまる程混雑してきた。
 「診察が終わったら、連絡するから。」
1人、ボーとしたまま待つことにした。

 しばらくして看護師さんが問診に来た。
耳鼻咽喉科での診断のこと、
数日前から血圧が上昇していることを伝えた。

 看護師さんは、その場に血圧計を持ってきた。
測定を終え、看護師さんの表情が一瞬変わった。

 「歩けますか。」
「あっ、ハイ。」
 「別室のベットへ行きましょう。
横になりましょう。」 

 思考が前へ進まない私に比べ、
看護師さんの行動は素早く感じた。
 私の腕を抱え、立たせると、
そのままゆっくりと処置室のベットへ導いてくれた。

 ベットで横になった。
タオルケットをかけてくれた。
 「すぐに先生を呼びますからね。お待ち下さい。
ここに呼び出しボタンを置きます。
 遠慮しないで押してくださいね。」
 
 急な状況の変化についていけないまま、
カーテンの仕切りが閉じた。
 「きっと血圧は200を越えていたんだ。」
「俺はどうなるのだろう。」
 「ここでも眠ると、あの森も小道がでてくるのだろうか。」
 不安が、ゆっくりとかけめぐった。

 10分も待たなかったと思う。
いつものように、穏やかな表情の医師が現れた。
 「血圧が高いですね。すぐに処置しますからね。」
私の目を見てそれだけを言って、仕切りのカーテンを閉めた。

 すぐに、同じ処置室にいた看護師さんへの指示が聞こえた。
穏やかな声のはずが、尖っていた。
 「すぐにS薬を飲ませて、それからB点滴を始めて、
O注射も追加してくださいね。」
 「はい、分かりました。」
看護師さんの返事は、速かった。  

 医師の足音が去るのと同時に、
看護師さんが打つキーボードの早くて強い音が聞こえた。
 カシャカシャ、カシャ。カシャカ・・。
「急ぎ対処しているんだ」。

 頭と喉、耳から押し寄せる痛みの中で、
漠然とだが、その音が急を告げているように聞こえた。
 「多くの患者さんが待つ中で、
特段の対処してくれている」。
 不安と向き合いながら、
何かが込み上げてくるのを感じていた。

 時間を置かず、薬1錠と冷たい水が届いた。
そして、点滴もすぐだった。
 看護婦さんは、再び言った。
「ここに呼び出しボタンがあります。
遠慮しないで押して下さい。」
 「わかりました。」
彼女を安心させたくて、ハッキリと即答した。 
 
 それから、1時間後、点滴を終え診察室に呼ばれた。
血圧は160まで下がっていた。

 「この後は、徐々に下げていく薬を飲んで様子を診ましょう。」
いつもの穏やかな先生だった。

 予断になるが、ずっと気になっていることを訊いてみた。
「耳鼻科で頂いた痛み止めの頓服薬は、飲まない方がいいのでしょうか。」
 「お医者さんが、必要だと思ってお出しした薬です。
また血圧が上がったら、今日のように下げればいいんです。」
 毅然とした回答に、医師の矜持を感じた。
でも、あの頓服はもう飲まないと勝手に決めた。

 さて、その後だが、血圧は4日後には元に戻った。
同時に頭痛も消えた。
 やがて耳の痛みも忘れた。
1週間後には平熱になった。
 喉の違和感は今も残っているが、
私の日常は、ほぼ元に戻った。

 異常な6月が去った。
時々、くり返し目を覚ましたあの夜を思い出す。
 頼りない思考力と、激しい鼓動のまま、
死を予感しそうになっていた私だった。

 しかし実は、一方で、
「もし、また元気になれたら、
俺は、こんなもんじゃ済まさない!」。
 そう強がっていた。




  収穫のときは間近  秋蒔き小麦
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それを越えて ふたたび

2018-04-14 16:27:46 | 心残り
 貧しい筆力を承知で、
まずは、私が走る10キロのジョギング4コースをスケッチする。


 ① 自宅からすぐの十字路を左に折れる。
すると緩い一直線の下り坂が、噴火湾の近くまで2キロも続く。
 丁度その真ん中辺りで、国道37号線を横切る。
走り始めの下りだ。
 これほど楽な走り始めはない。

 さほど苦にもならず、海の匂いがする道を右折。
そこから、西に向かう。
 朝日を背に、平坦な歩道を住宅街の外れまで行く。

 旧国鉄胆振線の跡地を整備したサイクリングロードに出ると、
桜の並木が続く。
 今年もきっと5月の連休には、満開を迎えるだろう。
そこを1キロ、宿泊もできる『伊達温泉』に着く。

 この付近からの左前方は、伊達のビュースポットの1つだ。
広がる田園の先に、荒々しい有珠山がある。
 走るたびに、ここからの山容に力を貰う。

 この辺が、中間点の5キロだ。
大きく右へUターンし、一般道に出る。
 少し急な上りを過ぎると、製糖工場とその先に大きな海が広がる。
いつも、ここで深呼吸し、足を緩める。
 その雄大さを目で追いながら、下り坂を進む。

 その後は、住宅が『館山』の山裾まで続く道を行く。
毎回、この5キロから7キロあたりが、軽い走りになる。
 私なりに、風を切る。心地いい。

 秋には、気門別川を遡上する鮭を、橋上から見る。
そして、市街地の歩道を東へ。
 その後、市役所前の通りを左折し、緩い上り道から国道に出る。

 後は、歴史の杜公園を突き抜け、総合体育館の横を通る。
最後は、住宅街の緩い上り坂を、
汗だくで自宅まで、ひたすら腕を振る。 


 ② 自宅から2キロの下り坂を進み、
海の匂いがする道までは、同じコースをたどる。
そこから、今度は左折する。

 民家と民家の間から、右手に海を見ながら、
北舟岡駅の十字路まで行く。
 折り返し地点のそこまで、ダラダラとした上り道が続く。
その丁度真ん中付近に300メートル程の急坂がある。

 そこが第一の難関である。
潮騒や潮風も、路傍の花も、どうでもよくなる。
 ただただ、前傾で腕を振り、何とか上りきる。

 第二の難関は、北舟岡駅から国道までの1キロの上り坂だ。
畑と畑の間の舗装路だが、平坦な箇所が全然ない。
 上り上り、その上、日陰もない。
脱水症状で、ここで1度だけリタイアしたことがある。
 トレーニング走には最適な難所だ。
ここで、中間点を通過する。

 国道に出ると、下り坂の復路になる。
2つの難関を駆け抜けた爽快感もあって、
緑の耕作地とその先の噴火湾を、背筋を伸ばして見る。
 そして、反対側にある、ゆったりとした稀府岳にも目がいく。

 朝の国道は、マイカー通勤で賑わう。
その運転席から視線を感じる。
時には、小さくクラクションが聞こえることもある。
 勝手に声援と受け止め、それを力にして走る。

 残り2キロは、国道を右に折れ、
デントコーンの畑の間を通る。
 そして、右に左に腰折れ屋根の牛舎を見ながら帰路を急ぐ。

 最後は、再びデントコーン畑の下り坂を、
スイスイと足を進める。
 

 ③ 自宅横の十字路を、右に曲がる。
上りの緩い坂なのだが、走り始めにはきつい。
 0,5キロで、伊達インターと洞爺湖を結ぶ道道に着く。
そこを左折して、平坦な道をまた0,5キロで再び十字路。
 そこを右へ。

 スネークしたダラダラ坂が約10分間、
ただひたすら黙黙と駆け上る。
 高速道路の下を通り過ぎ、ようやく高台の平坦な道で左折する。

 その道からの晴れた日は、素晴らしい景観が広がる。
右手の遠方には、羊蹄山の美形。
 そして、左手前のすぐそこに有珠山と昭和新山がある。
もっと左には、伊達の市街が遠望できる。
 そして、真っ直ぐな道の両側は、小麦やビートの畑が続く。

 「ここまで、上ってきてよかった。」
そう思いながら、足を進める。
 道沿いの関内小学校を過ぎて、間もなく、
目の前にトンネルの道が見えてくる。
 その交差点を左折し、今度は同じ道道を市街地方向へと折り返す。
道の両側は、矢張り伊達野菜の畑だ。

 緩い下りを10分程行って、右折。
短い急坂を上ると、『館山』の台地が、
有珠山の麓まで続いているかのように見える。

 広大な耕作地だ。
様々な野菜が作られ、美瑛や富良野と同様の景観に出会える。
 さらに、私の後ろには、昭和新山と羊蹄山があり、
左には紋別岳や稀府岳が連なる『伊達・東山』だ。

 この道には、春と夏と秋と冬の色を教えてもらう。
四季の流れと共に、
ここでの暮らしに満たされている私に気づく。
 足は不思議と軽くなる。
  
 その台地を下った後は、国道を東に走る。
歴史の杜公園と総合体育館横を通過し、緩い上りの帰路になる。
 アップダウンはきついが、伊達郊外の魅力を満喫する10キロだ。


 ④ 自宅そばの十字路から、息を弾ませ、
伊達インターからの道道までたどり着く。
 そこを左折した後は、一本道を1キロ。
息が整った頃、坂を駆け上り、『館山』の台地に着く。

 前述した景観を通過し、そこを駆け下りた後、
今度は、高台にある光陵中学校までの上り坂だ。

 伊達ハーフマラソンのコースでは、10キロ付近にトンネルがある。
その入口には、急坂が待っている。
 それを、思わせるきつい坂道を進む。
足が次第に重くなる。息が弾む。それでも、いつも上りきる。
 ちょっとした達成感がある。

 その思いを持ったまま、平坦な道から下り坂へ。
伊達警察署前から左折する。
 ここから国道を東へ東へと走る。

 朝のジョギングでは、この道で
最初に、バスを待つ高校生たちの前を通る。
 その一団に、朝の挨拶をする。
驚いた声で、挨拶をかえす生徒が数名いる。
 それだけでも、気分はいい。

 ところが、しばらく行くとランドセルの後姿に追いつく。
ここでも、私は朝の挨拶をする。
 追い抜く小学生は、どの子も欠かさず挨拶を返してくれる。
いつも感心する。そして、明るい気持ちが増す。

 続いて国道をそのまま行く。今度は伊達中学校が近づく。
追い抜く中学生も、欠かさず私に挨拶を返す。
 その上、校庭でライン引き等の作業をする先生と生徒までが、
「おはようございます」と声を張り上げてくれるのだ。

 ここまで7キロを走ってきた。この先長い上りが続く。
息は荒いけど、笑顔で走ることができる。

 坂の途中に、もう1つ小学校がある。
そこでも、挨拶を交わす。
 そして、辛さを忘れ、坂を上りきり、残りの道を急ぐのだ。


 さて、ここまで10キロのジョギングコースを綴った。
その道々で、走りながら心熱くしている私がいる。
 幸いなことに、そんな楽しさを、この年令で感じている。
じつにハッピーだ。

 ところが、風邪が全快しない。体調がすぐれない。
走れないことに、イライラする日が続いている。

 夕方になると、翌朝の天気が気になる。
目覚めと共に、カーテン越しに空模様をみる。
 いい天気なら、急いで身支度を整える。
入念なストレッチの後、ジョギングを開始する。
 それが、6年前から日課なのだ。
 
 それができない。
誰も言いはしない。
 「もう、年なんだから・・。」
時々私がそう思う。
 でも、それを越えたい。
まだまだと思いたい。

 珍しく弱気な私に気づく。
明日は、そんな思いのまま、沿道から
伊達ハーフマラソンのランナー達に声援を送るのだろうか。

 



    『歴史の杜公園』湧水池の 水芭蕉 
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続々・あの時 あのこと

2018-03-02 19:52:07 | 心残り
 2月、総武線の黄色い電車に乗った。
車窓に流れる都会は、北のどんよりとした冬とは違い、
青空の下やけにまぶしく感じた。
 何度も紅梅に目が止まった。
春の息吹きに、羨ましいとつぶやく私がいた。

 さて、その黄色い電車からの眺めは、
現職時代、くり返し目にしてきた。
 実は、もう35年以上も前のあの日から、
総武線H駅のすぐそばの家並みを通過するたび、
心を突き刺す出来事を思い出した。

 異動してすぐに、5年生を担任した。
教室で初めて子ども達と対面した時、
どの子も好奇な目で私を見た。
 その表情に、何となく暗さがあった。
この先に不安を直感した。

 案の定、男子はよくケンカをした。
仲裁に忙しかった。
 女子は、3つのグループに分かれ、
牽制し合っていた。
 和気あいあいとした雰囲気はなく、
常に攻撃的な子ども達だった。

 蛇足だが、先生方も仲が良くなかった。
職員会議でも、セクトがあり言い争いをくり返し、
勢力争いもどきをしていた。
 大人がそうである。子どもに影響しない訳がない。

 職員はともかく、
私の学級の雰囲気を変えなくてはならなかった。
 様々な手立ての1つとして、連休が過ぎてすぐ、
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』を教室の前面に掲示した。

 そして、その詩の素晴らしさなど、何の説明もせず、
私は下校指導の時間に、こんな提案をした。

 「この詩を、暗唱できないかな。
今すぐでも、明日でも、いいや何日かかってもいい。
暗唱できた人は、みんなの前で言ってみよう。
言えたら、免許皆伝だ。」

 早速、教室の横掲示板に、
『雨ニモマケズ免許皆伝』コーナーを作った。
 みんなの前で暗唱できた子の名前を、
そこに掲示することにした。

 翌日の帰り、暗唱にチャレンジする子が現れた。
3人が、免許皆伝となった。
 その日、暗唱した子をみんなで拍手をし、讃えた。
驚きと賞賛が、今までと違う学級の空気を作った。

 その活気は、翌日もその翌日も続いた。
免許皆伝になった子を讃える。
 だから、どの子もそれを目指して頑張った。
学級が変わる大きなきっかけになった。

 約2ヶ月半が過ぎた。
S君を除いて、みんな免許皆伝となった。

 そのS君のことである。
口数が少なく、色黒で小柄な子だった。
 この間、ずうっとみんなの前で、
暗唱にチャレンジしなかった。
学級のだれも、暗唱できないS君を責めたりしない。
それでいいと私は見過ごしていた。

 ところが、夏休みあけ、2学期が始まってすぐだった。
下校指導の時間、突然S君が手を挙げた。
 そして、一度も間違えず『雨ニモマケズ』を暗唱したのだ。
私だけでない。それは、学級全員にとって驚きだった。

 長い大きな拍手が続いた。
私は、すぐにS君の氏名を書いた札を、
免許皆伝コーナーに貼った。
 満足そうな、S君の明るい顔を見た。

 11月下旬、個人面談で、
初めてS君のお父さんにお会いした。
 どんな事情なのか、父子家庭だった。
お父さんは、仕事の合間をぬっての来校だったらしく、
汚れた作業着姿のままだった。

 「Sが、世話をかけて申し訳ありません。
私と同じで、できが悪くて・・。」

 人の良さそうなお父さんは、何度もそう言いながら、
「毎晩、『雨ニモマケズ』をくり返し私に聞かせたんです。
免許皆伝ですか、その日は、うれしそうでした。
 ありがとうございます。
あんな笑顔、私もうれしくて、先生。」

 2度3度と頭を下げながら、
お父さんはそう話し、教室を出て行った。
 胸が熱くなった。
誰にも何も言わず、モクモクと頑張っていたS君。
 『雨ニモマケズ』の最高の理解者だと思った。

 そのS君が、行方知れずになったのは、
6年生になってまもなくのことだった。

 欠席の連絡もなく休みが続いた。
住まいを訪ねてみた。
 2階建ての木造アパートの1室だった。
しかし、そこに人の気配はなかった。

 お隣さんが、つい先日引っ越したと言った。
S君からの連絡を待つ以外方法がなかった。

 それから1か月くらいが過ぎた頃だ。
学級の子が、川向こうのH駅の近くで、
S君を見たと教えてくれた。
 
 翌日から、自転車で大橋を渡り、
夕方のH駅周辺を走り回った。
 何日かかっただろうか。
随分とH駅周辺の道に精通した。
 遂に、狭い路地をトボトボと1人歩いているS君を見た。

 声をかけると、一瞬驚いたようだったが、
すぐにいつもの顔に戻った。
 「今、どこに居るの?」
「あっち]
私の問いに、指を差して応えた。
「つれてって」。

 S君は、壊れかけのうす暗い階段を上り、
かしがったドアの前に案内してくれた。
 そっとドアを開けてみた。
4畳半と小さな台所の部屋だった。

 薄くて汚れた布団と毛布が、そのままになっていた。
急に部屋の窓が揺れた。
 総武線の黄色い電車が、すぐそばを通った。
足の踏み場にこまるほど、雑然としていた室内だった。

 辺り構わず雑誌や食べ散らかした物を、
1カ所に寄せながら色々訊いた。
 急に引っ越すことになり、ここに来たこと。
 学校には、ずっと行ってないこと。
 時々お父さんが帰ってくること。
 夜は、一人でここで寝ていること。
ポツリポツリ、時間をかけて話してくれた。

 そして、昨日から何も食べてないと言った。
何が食べたいか訊くと、ラーメンと応えてくれた。

 「すぐに食べに行こう。」
急ぎ靴を履こうとする私に、小声が返ってきた。
「でも、お父さんに叱られるから・・。」
「そうか、じゃぁ、ごめんなさいって、
先生が、お父さんに謝りの手紙を書いてあげる。
それでいいだろう。」

 『とても心配していた。S君に会えて安心した。
学校に連絡がほしい。
そして、今夜はラーメンを一緒に食べる。
お子さんを叱らないで。』
 そんなことを、手紙にした。

 S君は、安心したようで、
私と一緒にラーメン店の暖簾をくぐった。
 「どう、美味しい?」
箸を動かしながら、浅黒いS君の顔が明るくなった。
 今も、ハッキリとその顔を覚えている。
「うん、美味しい!」。

 あの時、私はようやく探し出したS君との一時に、
安堵していた。
 きっと深い事情があるのだろう。
性急な解決よりも、
お父さんからの連絡に期待しょうと思った。

 だから、ラーメン店を出るとすぐ
「また来るからね。」
S君の肩に両手をやって、学校へ戻った。

 ところが、お父さんからの連絡は来なかった。
1週間が過ぎた。これ以上待ちきれなかった。
 再び、あのうす暗い階段を、
ギスギスと音をたてて上った。

 かしがったドアにカギはなかった。
そっと部屋を覗いた。
 食べ残しのすえた匂いが鼻をついた。
誰も居ない。
 1週間前同様、汚れた布団と毛布、
それに、足の踏み場に困る散らかりようだった。

 しばらく待ってみたが、
仕方なく「連絡を待ってます」と、
学校と自宅の電話番号を添えた手紙を、
ドアに挟んで戻った。

 それから、また1週間後、
うす暗い階段の先の、かしがったドアの前に立った。
 私の手紙はそのままになっていた。
S君もお父さんも、もうここにはいない。

 それでも、数日後に再び訪ねた。
何も変わっていない。
 何度も行き来した大橋を、
自転車をこぎながら学校に戻った。
 その日、川風が冷たく思えた。
切なさと無力さを、必死にこらえた。
 
 あの日、S君を探し出した。
それが、不都合を招いたのだろうか。
 部屋の様子からは、
全てを投げ出し、急いで姿を消したように思えた。
 事情を知らず、
私は余分なことをしたのだろうか。

 個人面談でお会いした、
あの人の良さそうなお父さんを思い出した。
 『雨ニモマケズ』を暗唱したS君、
ラーメンをすするS君、
そして教室でのいつものS君が、次々と私を囲んだ。

 親子2人、人目をさけながら、
どこで過ごしているのだろう。
 2人に、私ができることはないのだろうか。

 学校に戻ってすぐ、私の想いを教頭先生にぶつけた。
「わかりました。後は、校長先生と相談して、
学校ができることをします。
 先生は、学級の仕事に戻って、頑張りなさい。」

 その後、S君についての情報は、
誰からも何も届かなかった。
 
 時折、消息不明の子どもの数が報道される。
あの頃、S君もその1人になったのだ。

 まもなく50歳になることだろう。
あの時、何もできなかった私。いや余計なこと・・。
 先日も、それを悔いながら、
総武線の車窓から、H駅そばのあの家並みに、私は頭をさげていた。




  猛吹雪 自宅前もホワイトアウト寸前 
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続 ・ あの時 あのこと

2016-12-30 20:44:54 | 心残り
 今年6月17日付けブロクの続編である。

 教職に就いていた者だからなのだろうか。
それとも、私だからなのだろうか。
 現職を離れて久しいのに、今も時折、
何の前触れもなく、学校での諸々が頭をよぎる。

 そして、ため息をついたり、嘆いてみたり、
時には、自責の念にかられ、
もう一度あの日に戻ってやり直したいと思ったりする。

 その中から、2つを記す。


  (1)

 5年生の担任だった時だ。
6月の中頃、めずらしく転校生があった。

 朝早く、突然学校に来たらしく、
職員朝会前に校長室で紹介された。

 見るからに寡黙そうなお父さんが一緒だった。
すらっとした長い足の女の子で、
これまたおとなしそうだった。
 氏名の確認など、私のちょっとした問いに、
首をふって応えるだけだった。

 その日から、私の学級に加わった。
今まで転校経験はなかったようだが、
すぐに学級に溶け込み、
女子のなかよしが数人できたようだった。

 学力もある程度あり、いつも落ち着いた表情で、
私の話もしっかりと聞いていた。
 自信がないのか、進んで挙手をすることはなく、
自分の考えを言うこともなかった。

 きっと、もっと学級に慣れれば、手も上げるだろう。
「その内に、その内」
私は、安心していた。

 夏休みが過ぎ、9月末だった。
確か月曜日だと記憶している。

 その子が、何の連絡もなく欠席をした。
珍しく自宅に電話がなかった。
 1、2時間目と連絡を待ったが、
気になり、主事さんに自宅まで行ってもらった。

 3時間目の途中で、
主事さんが教室のドアをたたいた。
息が切れ、若干顔色がなかった。

 玄関に忌中の知らせがあったと言う。
近所の方から、「ご主人が亡くなった。」
と、聞いたとのこと。

 慌てて書類をめくった。
なんと、お父さんと二人暮らしだった。
 「あのお父さんが・・・。」 

 その夜、校長先生と一緒にお通夜に行った。
葬儀の場所は、自宅だった。

 古い安アパートの狭い玄関の奥に、
遺影が置かれていた。
 玄関先でお焼香をした。
奥の間に、親戚の方だろうか、
中年の男女とその子がいた。

 手招きすると、外に出てきてくれた。
私の問いかけに、
 1週間位前に様子がおかしくなり、
救急車で病院に運んだ。
 そして、昨日、何も言わずに亡くなったと言う。
入院している間は、一人で家にいたのだと。

 きっと不安な毎日だっただろう。そして、今夜も・・・。
胸がつまった。
 全く気づいて上げられなかった。

 「そうだったの。大変だったね。・・・。」
それ以上の言葉が、何も浮かばなかった。

 翌日、授業をやりくりして、出棺を見送った。
近所の数人がその場にいた。
 昨日と同じ3人が車に乗り込んで行った。

 次の日、その子は学校に来なかった。
かわりに、昼過ぎ、伯母さんという方が来校した。
 転校の手続きをしたいと言う。

 「身寄りは私だけなので、
引き取るしかないんです。」
 困り切った表情にも見えた。
迷惑な事だという顔にも思えた。

 転校の日を尋ねると、「今」と言われた。
この足で、すぐ田舎に戻るのだと言う。
 私は、急いで転校の書類を整えて渡した。

 その子とは、それっきり顔を合わせることもなく、
別れたままになっている。

 今も悔いている。
一教師として、
その子を救う手立てなどないに等しい。
 また、あの急展開の中で転校することになった子に、
私の言葉など、どれくらいの励みになるか。
 全く力など持たないとも思う。

 しかし、教職にある者として、
せめて、心を込めた励ましのひと言くらいは、
当然だったではないだろうか。

 あの時、5時間目が迫っていた。
でも、授業をお願いすることはできたと思う。
 少しの時間でも、
その子に逢うことはできたはずだ。

 私の自己満足でもよかった。
せめて「頑張って。」のひと言を伝えるべきだった。
 「困ったときには、連絡をするんだよ。」と、
私の電話番号と住所くらいは手渡すべきだった。

 どうして、その一歩を踏み出さなかったのか。
私の甘さに、今も心が痛む。


  (2)

 何が理由で、私の隣りで毎日を過ごすことになったのか、
思い出すことができない。

 冬休みがあけてすぐに、
4年生の女子が学校に来なくなった。
 担任が毎日、家庭訪問をし、登校を促した。

 功を奏して、ある日、校門をくぐった。
しかし、玄関先で体を固くし「教室には行かない。」と、
泣きじゃくった。
 このまま帰宅させる訳にはいかないと、
担任と養護教員、そして教頭の私が、彼女を囲んだ。

 その結果、どんなことがどう彼女の心を動かしたのか。
とにかく、私と一緒なら学校にいると言うのだ。

 その日から毎日、職員室の私の隣りで、
彼女は過ごすことになった。

 私は、日々職務に追われた。
その忙しさの横で、彼女は教科書をひろげ、
時には担任が持ってきたプリントやテストをした。
 給食も一緒だった。

 担任や他の先生には、口数が少ないのに、
私には、自分から進んで話しかけてきた。
 分からないところは、何の遠慮もなく質問した。

 時には急の質問に、手が離せない仕事で、
しばらく待つように伝えると、
彼女は少しすねたような顔を作って言い出した。

 「今、教えて欲しいのに・・、ケチ。」
「すみません。ケチですよ。もう一度考えてみて頂戴!」
「そう言って、時間かせぎですね。
わかってますよ。」
 言いながら、彼女は、再び教科書に向かう。

 そんなやりとりが、1日に何度もくり返された。
職員室にいる先生方は、それを耳にして、
目を丸くした。

 そんな1ヶ月が過ぎた頃、
給食を食べながら、
私は、さり気なく言ってみた。
 「教室で食べてみたら・・。」
 「そうしようかな。」

 翌日から、彼女は給食時間だけ教室に行き、
元気よく、また私の隣りに戻ってきた。

 そして、数日後、友だちと約束したからと、
体育の時間だけ、授業に行くようになった。
 その流れは、次第に加速し、
3月初めには、私の横からすっかり姿を消した。

 それでも、毎日欠かさず、帰り際には職員室に寄り、
私と顔を合わせてから、下校した。
 まずは一安心と思い、年度末を迎えた。

 ところが、4月、
私は、他区に校長として異動になった。
 5年生になった彼女は、
学級編制替えがあり、担任も替わった。

 離任式の時、
体育館で、400人の子どもの中にいる彼女を見た。
 目にいっぱい涙をうかべ、
小さく手を振っていた。
 後ろ髪を引かれる思いがした。

 しばらくして、彼女の担任から電話が来た。
再び不登校になった。
 私と話がしたいと言っているとのことだった。

 数日後の夕方、
彼女は担任と一緒に、私の校長室に来た。

 明るい表情でソファーに腰掛けると、
彼女は多弁だった。

 「校長室で何してるの?」
「子ども達は何人いるの?」
「5年生は何人?」
「どうやって通ってるの?電車?」
 私に質問を浴びせた。

 そして、「5年生はつまらない。」
「話しにくい子ばっかり。」
「Mちゃんもいない。Sさんも。I君も。
なかよしは誰もいない。」
 次々と辛い現状を口にした。

 私は質問に答え、聞き役に回るだけだった。
あの職員室でのやりとりのような、
会話のキャッチボールがなかった。
 不安が大きく膨らんだ。
それでも、
「いっぱいしゃべったから、明日から学校行くね。」
そう言い残し、帰って行った。

 翌日、「約束通り登校しました。」と、
担任から電話がきた。
 違和感があった。
私は、彼女と登校の約束などしていなかった。

 しかし、その後の私は、
慣れない校長職に精一杯の日を送った。
 彼女のことは、時折気になったが、
目先の毎日に追い回された。

 夏休み直前、彼女は転校の手続きをし、学校を去った。
私が、それを知ったのは1年後だった。

 悔いが残った。
 あの時、もっと心を開いてあげられたのではないか。
気持ちを楽にしてあげる手立ては、
きっとあったはずなのに・・・。
 もっと気楽に言葉を投げかけてあげれば・・・。

そして、あの時「登校はいつになったっていいんだよ。」
と、一言言えば・・・。

 私は、彼女の胸の内を見誤ったのだ。
どうして、先を見通して、思いを巡らせなかったのか。

 再び、私の甘さを痛感する。
ただ、自分を叱ることしか、今はできない。




   雪化粧したジューンベリー 
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