ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

60代が過ぎる

2017-12-22 21:05:49 | 思い
  ◎はじめに
 
 最近、やけに長生きを望むようになった。
誰もがそうだろうが、今日までの私を振り返ってみると、
年令と共に、思いや願い、物事の感じ方などが違っていた。

 その延長線として、このまま年令を重ねていったら、
今後、私にはどんな景色が見えるのだろう。
 その景色にどんな思いを持つのだろう。
想像できないだけに、興味がある。
 ワクワク感が高まる。

 長生きをし、70代の私、80代の私、90代の私の、
それぞれの時々での景色が見たい。感じたい。
 私だけが抱く願いではないだろう。
それを強く思う私がいる。

 時をさかのぼる。
身の丈を越えた何かをつかみたくて、
必死に背伸びをしてきた。
 その貴重な日々があったからの今である。

 あの頃、私の1番の財産は、人だった。
友人、知人、同僚、先輩、教え子、保護者、家族、
それから、街で行く交う人々。
 その多くの人達が私を刺激した。
そして、数々の教えを受けた。力を頂いた。勇気を貰った。
 自分の至らなさも知った。新しい自分に気づいた。

 やがて、勤め人の宿命の時がきた。
いつかは終わると知っていた。
 でも、まだまだと意気込んでいたが、
現職を退く時がきた。動転した。

 身の丈に応じた日々へと、少しずつ思いを切り替えた。
急きたてられていた時の流れが去った。
 曖昧さを許せるようになった。
深夜に目ざめ、思い悩むことがなくなった。
 新しい形の私が育っているように感じた。

 それが、年令を重ねた景色の違いなのだろう。
さて、次に何が見えるのか・・・。


  ◎本 題

 2017年(平成29年)もわずかである。
来年4月、私は古希を迎える。
 60歳代が終わる。

 私の60代は、大きく動いた10年だった。
首都圏での暮らしから、伊達移住を決め、
そして今の日々へと続いていった。


 ① 10年前、還暦を迎えた頃の私は、
悶々としていた。
 現職を退くことに、納得できず、
理不尽さえ覚えていた。

 ところが、幸い再任用の道が開け、
校長職を1年、また1年と更新し、
2年間も長く続けさせてもらった。

 あの時、突然、幼稚園舎の改築が決まった。
当時、私は小学校と同じ敷地内にある幼稚園の園長を、
兼任していた。

 園舎の老朽化は気にはなっていたが、
耐震検査の結果、『震度5強』で赤信号となった。
 区長の大英断で、次年度早々の改築が決まった。

 困難は、そこからだった。
旧園舎を取り壊し、新築する。
 それまで仮園舎が必要になった。
それを建てる用地が全くないのだ。

 区教委のスタッフもお手上げ、
遂には4階建ての小学校舎屋上案まで浮上した。
 4歳と5歳の子を、そこまで毎日階段を上り下りさせる。
それは、無理なこと。到底了解できなかった。 

 私は、学校地内を歩測して回った。
そして、駅周辺の再開発計画も視野に入れて、
小学校の正門移転によって生まれる余裕地を使った
改築計画を作った。
 「これは兼任園長だから思いついたこと」と力説した。

 この案は、当初予算を超えるものだった。
しかし、 幸いなことに区教委をはじめ関係者から理解が得られた。
 工事は、その計画に沿って進んだ。
その年の秋には園舎ができた。
 園庭の整備、そして小学校の新正門等々の工事完了までに、
その後半年を要した。

 翌年3月、大震災で東京も『震度5強』の揺れに、
見舞われた。
 新園舎には、なんのトラブルも見つからなかった。
私は、それを見届け、現職を去った。 

 最後まで、人と運に恵まれた。
旧園舎のままを想像すると、
今も背筋が冷える。


 ② 60歳代の第1ラウンドを終える頃、
その後の私を描こうと思い始めた。

 夏休みを利用して、伊達を訪ねた。
知人友人が1人もいない地で、
素晴らしい人々に出会った。
 「こんな好機を逃したくない。」
直感だけだった。

 私は、首都圏でのそれまでの延長戦を歩む暮らしに、
ためらいがあった。
 私はこの機にのろうと決めた。

 当時の友人らは、あきれ顔をしたが、
伊達に土地をもとめた。
 そこからは、勢いだけだった。
もう引き返すことなどできなかった。その気もなかった。

 誰もが口をそろえて訊いた。
「伊達で、何をするの。家庭菜園、それとも・・・」
 「何をするかは、向こうに行ってから・・。
だって、行ってみないと何も決められない。」
「えっ! それでいいの・・・。」
「きっと何かが始まる・・。」

 自宅の設計も建設も、満足だった。
直感は間違っていなかった。
 暮らし始めて、すぐここが気に入った。
日記の題は、『伊達の朝はいい天気』とした。

 四季折々に色を変える大自然に、心が躍った。
その中、ゆっくりと朝のジョギングをした。
 その爽快感を伝える術に、私は困った。

 ところが、2度目の雪融けの季節だった。
自宅前の道路の圧雪が氷になり、溶けない。
 ホームセンターで、氷を砕く鉄の棒を買い求めた。
それを、振り下ろすと硬い氷が見事に砕けた。

 面白かった。何日もそれを続けた。
自宅前だけでなく、お隣さんの所まで砕氷した。
 
 次第に右手に異変がおきた。
医者は、原因はそれと特定できないと言った。
 でも、薬指と小指の動きが不自由になった。
その上、感覚がなくなった。
 やがて、手首を中心に痛みがでた。
何よりも、箸を動かすことが不便になった。

 そのまま春を迎えた。
大好きなゴルフをと、クラブを握った。
 マヒと痛みで、
途中からラウンドができなくなった。

 連休明けに、手術をした。
「少しずつ治ります。」
医者は、明言した。
 それから1年、突然の激痛に困った。
不自由な指の動き、マヒ、痺れが続いた。

 伊達への移住を決めた時、
いち早く苦言を述べた友人がいた。
 「その年令で、慣れない土地での暮らしは、
リスクが大きい。
 健康を損ねかねない。
無理はしない方がいい。
 暮らし慣れたところで過ごすのが、一番だよ。」
 
 不自由な右手を擦りながら、
その苦言を度々思い出した。
 心が沈んだ。
そんな時、今日までの色々が私を力づけた。私を救った。

 忘れてはいけないもの、そして忘れかけていた数々、
あの頃見たもの、想い、得たもの。
そして今、心を熱くするもの。
それらが私の宝物だと気づいた。


 ③ 第3ラウンドを歩み始めた。
 右手の手術から2ヶ月後、
ブロク『ジューンべりーに忘れ物』を始めた。
 それから、3年半が過ぎようとしている。

 ジューンベリーは、庭にある唯一の木だ。
シンボルツリーのつもりで植えてもらった。
 伊達での今とその光景が、『ジューンベリー』だ。
そして、そこに至るまでの一歩一歩を、『忘れ物』とした。
 その2つを重ねたところに、私の居場所があると思った。

 さて、このブロクはこれから、どう進むのか。
60代の私には、わからない。

 しかし、マラソンのランナーは、
見えないゴールテープを目指して、ずっと走り続ける。
 必ずゴールがあると信じられるから・・。

 それを教えてくれたマラソン大会に挑戦しながら、
これからも、4ヶ月後の70代でも、
私らしく綴っていこうと思う。


  ◎ むすびに
 
 そうそう、私の右手は、今も完治していない。
痛みも痺れも和らいだ。少しずつ動きも良くなっている。
 まあ道半ばだが、
それでも、沢山のランナーと一緒にゴールを目指して走る。
 芝生のコースでフルスイングし、
ハイスコアーに夢心地を味わう。





    冬のせせらぎ 水草の緑
                <次回は、1月5日更新予定>   
 
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幸運に恵まれて

2017-12-15 21:37:04 | 感謝
 『運とは、
その人の意志や努力ではどうしようもない巡り合わせを指す。
 運が良い(幸運・好運)とは、
到底実現しそうもないことを偶然実現させてしまうことなどを指す。』

 上記は、辞書にあった解説だが、
今日までの私を省みるたび、幸運に恵まれていたと感謝している。
 私自身の『意志や努力ではどうしようもない巡り合わせ』によって、
『偶然実現』したこと、つまり幸運な出来事にしばしば巡り会った。
 その中から2つを記す。


 1、最初の幸運

 まもなく昭和30年という頃、まだ小学校入学前のことだ。
雪融けの季節だったので、3月末が4月上旬だろう。
 札幌に住む母の実母が亡くなった。
急きょ、父と母、それに私が室蘭から札幌へ向かった。

 私の記憶では、初めての汽車の旅だった。
4人が向かい合わせに座る固いボックス席で、
駅弁と陶器の急須にお猪口のついたお茶で、
食事をした記憶がある。

 だが、どれだけの時間をかけて行ったのかなど、
多くは思い出せない。
 ただ、経験のない旅行に小さくおびえ、
いつも母の手を握っていた。

 葬儀の様子も忘れた。
母が、手にした小さな布で、何度も鼻と口をおさえていたのを、
不思議そうに見上げていた。

 葬儀のため、何泊したのだろうか。
再び汽車に乗って、帰る日がきた。
 春の明るい陽差しが降りそそいでいた。
辺りは雪融けが進んで、茶色い水が溜まっていた。

 親戚の方々がそろって、門前で見送ってくれた。
父も母も、両手に着替えや土産の荷物を持っていた。
 私は二人の後ろを、
雪融け道に足をとられながら歩いた。
 
 ようやくバス停のある大通りまで出た。
当時はまだ、完全な車社会ではなかった。
 バスやタクシー、トラック、オート三輪車などと一緒に、
雪道では馬そりが荷を運んでいた。
 所々にその馬糞が落ちていた。

 大通りに出てすぐ、私は災難に見舞われた。
雪融けが進む道路で、足が滑った。
 あっという間に、空を仰ぎ、お尻と背中を、
車が作ったあぜ道に滑らせた。

 慌てて立ち上がったが、
一瞬で馬糞入りの雪解け水で、全身がずぶ濡れになった。
 久しぶりに、体中の全てを使い、大声を張り上げ泣いた。

 「あらあら・・」
その時、私のそばで、とほうに暮れる母と父に、
通りの向こうから声が飛んできた。
 
 「こっちにおいで! こっち、こっち!」
事務所のような店構えのガラス扉を開け、
女性が手招きしていた。
 
 (ここから先は、後日、母から聞いたことだ。)

 泣きじゃくる私をつれて、
通りを横切り、その店に駆け込んだ。
 「冷たいでしょう。さあさあ脱いで、脱いで。
うちの子のお古があるから・・・」

 その女性は、手際よくタオルや着替えを用意してくれた。
ストーブに、薪も追加した。
 父も母も、シクシクが止まらない冷たい私の裸の体を拭き、
替えの服を着せた。
 温かさが増したストーブで、体をあぶった。

 下着も靴下も、ゴム長靴も、全てを借りた。
「世の中に、こんな親切な人がいるんだ。」
 そう思いながら母は、
その好意にくり返しくり返し頭をさげた。
 
 私は、馬糞臭さと冷たさが消え、泣くのを止めた。
差し出された、熱いお茶をすすりながら、
両親は、改めて深々と頭をさげ、お礼を述べた。
 すると、女性が恥ずかしそうな表情で言った。

 「だって、坊やの泣き声、裏の子とそっくりで・・。
私、てっきりそうだと思ったの。
 それで、おいでおいでって言ってしまって・・。」

 「そうでしたか。それは・・・。」
父も母も、もう言葉が出なかった。

 「でも、よかったね。気をつけて、室蘭まで帰るのよ。」
 笑顔で、私の頭をなでてくれたと言う。


 2 急患の幸運

 その痛みをすっかり忘れてしまって、30年が過ぎた。
このブロクの『医療 悲喜こもごも』でも書いたが、
20代、30代の私は、痔を患い、辛い思いをした。

 幸い、3度目の手術で、名医に出会い、完治した。
その出会いも、幸運と言えるが、
ここでは、2度目の手術について書く。

 肛門の周辺が化膿し、痛みとともに腫れあがる。
最初は、年に1回程度だったが、
次第にその回数が増え、
痛みも腫れもひどくなっていった。
 高熱が出ることもあった。

 30歳になろうとしていた頃、
それまでで一番と思える程の症状が続いた。
 腫れと痛み、高熱、その上、片足の感覚も違った。
3日もすれば、患部から血膿が出て、回復へ向かう。
 だが、そんな気配もなく、
痛みと高熱で起き上がれない日が続いた。

 休みが続く私を気にかけ、
日曜日に、同じ学校の先輩教員が自宅に来てくれた。
 そして、半ば強引に、家内と一緒に、
外科の休日診療医院へ車で運んだ。

 診察を終えた医者は、
困り顔で緊急手術が必要だと告げた。
 私は、少しでも楽になれるならと、手術をお願いした。
「これから準備をしますので、しばらく時間をください。」
 相変わらず、医者の表情は暗かった。

 それから1時間も待たされただろうか。
他に患者のいない待合室の長椅子で、
横になっていた。

 すると、救急車のサイレン音が聞こえてきた。
次第に病院に近づいた。
 看護士らが、移動ベットと一緒に忙しく動き回った。

 しばらくして医者が私のところに来た。
「今、屋根から落ちて、骨盤を骨折した方が運び込まれました。
緊急手術が必要です。
 実は、患者さんを運んできたお医者さんは、肛門科の方で・・。
そちらでの手術をお願いできませんでしょうか。
 私は、整形が専門なので・・。」 

 こんな幸運はない。
すぐに、半分苦笑いを浮かべ、肛門科の医師が来た。
 「よろしくお願いします。」
寝たまま、頭を下げた。

 私は、骨盤骨折の人を運んできた救急車に乗せられ、
隣町にある外科の休日診療医院に向かった。
 家内と先輩教員の車が、その後を追った。

 日曜日の少し冷えたオペ室で、私は手術を受け、
10日ほど入院した。

 痛みも腫れもすっかり消え、平熱に戻った日、
「後1,2日遅かったら、危険でしたよ。」
 医者は、表情も変えずに言ってのけた。

 「それにしても、すごい偶然ですね。
整形の方に、あの手術は難しかったと思います。
 私は、骨盤骨折にお手上げでしたし・・・。
よかった、本当によかった。」

 誰にでもなく、幸運に心から感謝した。

 つけ加えるが、当時、休日診療医院は、
その地域の開業医の輪番制だった。
 外科医に限らず、専門外の治療を求められることも、
多かったようだ。



   夏も冬も人気のない『恋人海岸』  
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はじめての『独学自修』

2017-12-08 22:06:11 | あの頃
 前回、校長として勤務した小学校で、
開校100周年記念式典が行われたことを記した。

 この学校の校歌は、なんと北原白秋・作詞、山田耕筰・作曲なのだ。
昭和11年に作られ、歌い継がれている。

 1番の歌い出しは、「煙(けぶり)煙(けぶり)空になびく」である。
当時は、近くに工場群があり、煙がモクモクあがっていたのだろう。
 きっと、それが賞賛された時代だったのだと思う。

 また2番の「勇まし我等 日本児童 日本児童」の1節に、
戦争への道を感じるのは、私だけではなかっただろう。

 そんな時代観の違いもあり、戦後になってすぐ、
それまでの校歌を見直し、新しい校歌にした学校も少なくない。
 しかし、この校歌は生き残った。

 それは、3番の「励めよ我等 独学自修 独学自修」にあると、
私は思う。
 『独学自修』は、今日の教育課題に通じている。
「自ら考え、自ら課題を解決する力」、そのものなのである。
 この言葉は、長年にわたり校訓として、
子ども達の心に刻まれてきた。

 100周年祝賀会で、挨拶に立った卒業生の中年男性は、
胸を張って言った。
 「高校、大学へ進んだ時の私にとって、
独学自修の言葉は、大きな力になりました。」
 校訓が生きていることに、私は一人胸を熱くした。

 さて、私の「はじめての『独学自修』」に移る。
この体験は、恥ずかしさが先行し、
全校朝会での話題にできなかった

 かなり曖昧な記憶である。
小学校4年生になり、A先生が担任になった。
 綺麗でやさしい先生だった。

 私は調子にのっていた。
毎日、学校に行くのが楽しかった。
 年令も手伝っていたのだろうが、
すごく快活で、わんぱく盛りな時だった。
 それでも、大好きなA先生の困った顔がいやで、
叱られると素直に、それを受け入れた。

 ところが、母や兄の勧めで通い始めたそろばん塾では、
騒ぎまくった。
 なかよしだった同級生と一緒になり、
そろばん塾の先生を困らせた。

 週3回だったが、最初の読み上げ算が始まるとすぐに、
『好き勝手』をやりはじめた。
 くり返されるごとに増す読み上げの速さについていけない。
なら、周りの子と同じように、
指を止め、静かに次を待てばいい。
 それが、そろばん塾のルールだった。

 ところが、私はそうしなかった。
「早くて、できないよ。」
  決まってそろばんを振り回し、大声で叫んだ。
「ぼくも、できない!」。「ぼくも・・」。
  次々と声を張り上げ、数字を読み上げる先生の邪魔をした。

 「できなかったら、静かに待ってなさい。うるさい!」
「はーい。」
 声をそろえて返事をしながら、
しばらくするとまた同じことを、毎回毎回くり返した。

 そんな悪態が、親や兄弟に伝わらない訳がない。
ついに、母と兄の逆鱗に触れた。
 「そろばん塾の迷惑。もう行かなくていい。」
私の反省の弁など入る余地などなかった。

 当時、そろばん塾のお宅は、
小さな魚屋だった我が家のお得意さんだった。
 店を手伝っていた兄が、店の品を持って、
弟の悪態を詫びに行った。
 
 私がそろばん塾を辞めてすぐ、
一緒に騒いでいた同級生も、同じように辞めさせられた。

 私は、しばらく小さくなって毎日を過ごした。
心を入れ替えようと思った。

 数日して、10歳違いの兄に謝った。
「これからは、そろばんくらいできないと困るぞ。」
 兄は、真顔だった。
塾での悪態の数々を思い出し、泣きそうになった。

 「絶対に迷惑をかけないから、もう一度行かせて。」
思っていても、口にできなかった。

 ある日、学校からの帰り道、
そろばん塾を辞めさせられた4人がそろった。
 「これからはそろばんができないと困るって・・・」。
みんなして、うなだれた。
 「取り返しがつかないことをした。」
同じ思いで、秋の夕暮れ時をとぼとぼ歩いた。
 「でも、そろばんができるようになりたい。」
4人とも同じ思いだった。

 思い切って兄に相談した。
「そろばん塾に行かなくても、4人でやればいい。」
兄は、簡単に言ってのけた。
 
 再び、下校の道々、4人になった。
「4人でそろばん塾をやろう。」
 言い出しっぺは私だった。

 『月水金、週3回。5時から6時まで』。
それは、そろばん塾と同じだった。
 場所は、週ごとに1軒1軒を持ち回りにすることにし、
親の許しをもらうことになった。

 どこの家も簡単には同意してくれなかった。
くりかえしお願いした。
 しばらくして、半信半疑のまま許しがでた。
我が家でも、兄が両親に言ってくれた。
 「いつまで続くか、やらせてみれば・・・。」
 
 第1回は、M君宅の居間だった。
そろばん塾で使っていた練習帳を持っていった。
 4人とも同じ腕前だった。
読み上げ算の先生は、私。
見取り算は、M君。
かけ算は、S君。
割り算は、T君。
 役割分担の後は、
10分の休み時間を入れて時間配分も決めた。
 全ては、そろばん塾のまねだった。

 だが、休み時間以外はふざけたりせず、
それぞれの先生の言う通りにした。
 時間も守った。
分からなくなると、その先生に訊いた。
 先生も分からない時は、みんなで頭を寄せ合った。

 いつ頃からか、休み時間になると、
どこの家でもおやつの差し入れがあった。
 
 どんな経緯があったのか、記憶が曖昧だが、
3か月が過ぎたころ、
4人そろって5級の珠算検定試験を受けに行った。
 見事、4人とも合格した。

 僕らは、やる気になった。
4人が検定試験3級合格まで頑張ろうと約束した。

 級が上がると練習帳もそれ用が必要になった。
お小遣いを持って、本屋へ行った。
 同じ練習帳を買って、4人でそろばんに向かった。

 再び3ヶ月が過ぎた。
確か4年生も終わり頃だったと思う。
 今度は、4級の検定試験に挑戦した。
4人とも、自信がなかった。
 塾にも行かず、子ども4人だけのそろばん塾だ。
もう無理だと思った。

 試験会場の傍らにかたまり、結果発表を待った。
張り出された大きな紙面に、4人の番号を見つけた。
 ビックリした。4人で飛び上がった。
ワイワイガヤガヤ言いあいながら、家に帰った。
 益々やる気になった。

 僕らは、3ヶ月後の3級検定試験を目指した。
目標にした4人そろっての合格を思い描いた。
 おそろいの3級用練習帳を買った。

 休み時間のおやつがだんだん良くなった。
それも嬉しかったが、4人が悪ふざけもせず、
真剣に頑張っているのが、不思議と心地よかった。

 5年生になって間もなく、
4人そろって、今度は3級の検定試験を受けに行った。
 3級合格は高い壁だと聞いていた。

 会場は、今までとは違う張り詰めた雰囲気だった。
4人とも、オドオドしていた。
 誰かから、励ましがほしかった。
4人だけなことが、心細かった。
 いつものように指が動かないまま、試験が終わった。

 私だけでなく、4人とも不合格だった。
オドオドしていた自分が情けなくて、涙がこみ上げた。
 4人とも、目を真っ赤にしたまま家に帰った。

 「3級は簡単じゃないの。また頑張ればいいのよ。」
居間の隅で、ふさぎ込む私を、母はくり返し励ました。
 「そろばん塾へ行きたいなら、頼んでやるぞ。」
あまりにも落胆している私を見て、
兄はそうまで言ってくれた。

 しかし、翌日4人はいつもの時間に、
そろばんと練習帳をもって集まった。
 「もう1回だけ頑張ろう。」
そんな気持ちだった。
 
 私は、読み上げ算が得意だった。
私なりのコツを惜しみなく教えた。
 そして、一番不得手な見取り算の目の動きを、
くり返し教えてもらった。
 それぞれが、それまでに会得した技を教え合った。
次は、4人そろって絶対に3級合格しよう。
 そう意気込み熱中した。
4人とも、立派な先生だった。
 その先生の教えを信じ、くり返しそろばんを弾いた。
時には、終わりの時間を忘れた。

 再び3ヶ月後、4人そろって試験会場にいった。
なぜか、オドオドしていなかった。
 誰の励ましもいらなかった。
不思議なことに自信があった
 4人がそろって、リズムよくそろばんを弾いた。
見事、そろって合格した。

 翌日、地元の朝刊にこんな記事が載った。
『4人でそろばん塾 みごと3級合格!』





 氷点下の朝 有珠山の麓 ビートの収穫
 
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