ウニとイクラは、今も高級品であるが、
私が小さい頃はそれを食べる機会どころか、
お店でも食卓でも見た記憶がなかった。
この二つの食べ物との出会いをたどると、
ウニとは小学校高学年の頃になる。
海水浴シーズンに友だちと連れだって、
初めて岩場のある防波堤で素潜りをした。
泳ぎの得意ではなかった私だったが、
それでも、みんなで鋭い針に覆われたウニを何個か収穫した。
その後、堤防を上がり、
どうやって割ったのか覚えはないが、
海水と一緒にオレンジ色のウニを口にした。
友人たちは、「美味しい。」「美味しい。」を連発していたが、
ぬれた体でブルブルふるえながら私は、何故か悪事に手を染めているように思えて、
美味しいどころか、ほろ苦さだけが心に残った。
そして、イクラについては、もっと幼い頃にさかのぼる。
つやつやとした真っ赤な『筋子』を、美味しそうに食べる母をまねて、
真っ白な熱々のご飯に、それをのせ食べてみた。
しょっぱい味が口いっぱいに広がった次の瞬間、
ドロッとして生臭さが、
口中どころか、鼻から目元まで抜け、涙が急にあふれ出した。
期待を見事に裏切られ、口の中のご飯と筋子をどうすることもできなかった。
だから、それを大粒にしたようなイクラなど、私は見向きもしなかった。
そんな訳で、大人になっても嫌いな二大食べ物である。
友人たちには、
「実家は小さな魚屋。ウニやイクラなどの高級品は、
魚屋にとって食い物ではなく、売り物なんだよ。だから食べないんだ。」
と、うそぶいてきた。
さて、同じように高級食材としてウナギが上げられる。
実は、大人になるまでにうなぎを見たり食べたりする機会がなかった。
大学を出て、東京のとある商店街で、初めてウナギをさばく場面を見た。
生きたウナギの首を片手で桶から取りだし、
ヌメヌメとした肌と、その動きを無造作にまな板に固定し、
手際よく開いたかと思うと、すぐに骨を抜き取った。
そして、3つ4つの身に切り分け、串を通す。
真っ白なうなぎの串刺しの出来上がり。
それは、食べ物として当たり前の成り行きだが、
私は、ウナギ料理が目の前に現れるたびに、
まな板のウナギの有り様が脳裏をかすめ、
「ウナギは嫌い。」と宣言し、箸をつけなかった。
ところが、40代半ばのことだった。
川魚料理の有名店が、いくつも並ぶ参道のすぐそばの学校に赴任した。
ある時、私が幹事の一人になり懇親会が計画された。
折角なので、その参道にあるウナギの名店を会場にすることになった。
土曜日の昼下がり、地元だからと言うことで、
そのお店との打ち合わせに、幹事を代表して出向いた。
参道で長いこと店を切り盛りしているご主人は、大変気さくな方で、
私の無理難題を快く受け入れてくれた。
私は恐縮すると共に、
私の顔を立ててくれたご主人に感謝感謝で、打ち合わせは終わった。
するとすかざず、ご主人は店の奥に向かって、
「おい、先生にお昼の食事を用意しな。上等なウナギがいいね。」
と、声を張り上げた。
顔色を変えた私に、
「先生、遠慮は無用だよ。ゆっくり食べていっってくださいよ。」
と言い残し、ご主人は店の奥へ消えた。
しばらくして、見るからに高級感のある四角い漆器に入ったうな重が運ばれてきた。
私は、もう食べるしかなかった。
一緒に添えられた吸い物には、ウナギの肝までが入っており、私を青ざめさせた。
「これを残して、店を後にすることはできない。」
それだけをくり返しくり返し自分に言い聞かせた。
私は一粒のご飯も残さず、若干額に汗をにじませ、
お店の方に、「ご主人によろしく。」
と、深々と頭を下げ、店を出た。
まな板のウナギの姿を思い出すことはなかったが、
川魚独特の味が、いつまでも頭から消えず、
益々私はウナギを遠ざけるようになった。
それから、数年が過ぎ、ある宴席が都心の料亭であった。
小綺麗な高級感のある席ではなかったが、気心の知れた6名ほどの酒宴だった。
美味しいお酒と料理に、私も気分上々で時間が過ぎていった。
そして、最後の料理が運ばれてきた。
上品な仲居さんが、大皿を両手で重そうにかかえ、
「運がいいことに、今日は四万十川の天然ウナギが入りましたので、
蒲焼きにいたしました。」
と、丸々1匹を人数分に切り分けて、運んできた。
「これはすごい。」
と、めいめい自分の皿にウナギを移した。
私は、いつもの如く
「ウナギ、嫌い。」と、箸を向けなかった。
すると、
「天然物でも超最高品だよ。一切れ4000円はする。
嫌いでも、食べてみたら。」
と、同席の一人から勧められた。
私は、「一切れ4000円」に心が動いた。
食べられなかったら、おみやげにしてもらうつもりで、取り皿に移した。
川魚であることを覚悟で、少量を口に運んだ。
美味しさで驚くことなど、ほとんど経験などないが、
「これがウナギの本当の美味しさなんだ。」と、驚く瞬間が訪れた。
「ウナギってこんなに美味しいんだ、へっえー。」
と、くり返しながら、私は一気に平らげてしまった。
同席した方々は、
「これは特別だね。」
と、言いながら、大満足の顔で酒宴はしばらく続いた。
その後、四万十川の天然ウナギにはめぐり会っていない。
しかし、私は「ウナギは嫌い。」を返上し、好んで食べるようになった。
あれ以降、食べるウナギは四万十川のと同じ味ではないが、
あの美味しさに通じるものが、わずかだがどのウナギにもある。
ウナギを口にし、あの味とわずかでも似た美味しさに出会えただけで
食べてよかったと思う。
私が苦手としていたウナギを、四万十川の天然ウナギの味が消してくれた。
まさに、それこそが本物が持つ凄さなのだろう。
散歩中に出会ったエゾリス・真冬でも元気一杯
私が小さい頃はそれを食べる機会どころか、
お店でも食卓でも見た記憶がなかった。
この二つの食べ物との出会いをたどると、
ウニとは小学校高学年の頃になる。
海水浴シーズンに友だちと連れだって、
初めて岩場のある防波堤で素潜りをした。
泳ぎの得意ではなかった私だったが、
それでも、みんなで鋭い針に覆われたウニを何個か収穫した。
その後、堤防を上がり、
どうやって割ったのか覚えはないが、
海水と一緒にオレンジ色のウニを口にした。
友人たちは、「美味しい。」「美味しい。」を連発していたが、
ぬれた体でブルブルふるえながら私は、何故か悪事に手を染めているように思えて、
美味しいどころか、ほろ苦さだけが心に残った。
そして、イクラについては、もっと幼い頃にさかのぼる。
つやつやとした真っ赤な『筋子』を、美味しそうに食べる母をまねて、
真っ白な熱々のご飯に、それをのせ食べてみた。
しょっぱい味が口いっぱいに広がった次の瞬間、
ドロッとして生臭さが、
口中どころか、鼻から目元まで抜け、涙が急にあふれ出した。
期待を見事に裏切られ、口の中のご飯と筋子をどうすることもできなかった。
だから、それを大粒にしたようなイクラなど、私は見向きもしなかった。
そんな訳で、大人になっても嫌いな二大食べ物である。
友人たちには、
「実家は小さな魚屋。ウニやイクラなどの高級品は、
魚屋にとって食い物ではなく、売り物なんだよ。だから食べないんだ。」
と、うそぶいてきた。
さて、同じように高級食材としてウナギが上げられる。
実は、大人になるまでにうなぎを見たり食べたりする機会がなかった。
大学を出て、東京のとある商店街で、初めてウナギをさばく場面を見た。
生きたウナギの首を片手で桶から取りだし、
ヌメヌメとした肌と、その動きを無造作にまな板に固定し、
手際よく開いたかと思うと、すぐに骨を抜き取った。
そして、3つ4つの身に切り分け、串を通す。
真っ白なうなぎの串刺しの出来上がり。
それは、食べ物として当たり前の成り行きだが、
私は、ウナギ料理が目の前に現れるたびに、
まな板のウナギの有り様が脳裏をかすめ、
「ウナギは嫌い。」と宣言し、箸をつけなかった。
ところが、40代半ばのことだった。
川魚料理の有名店が、いくつも並ぶ参道のすぐそばの学校に赴任した。
ある時、私が幹事の一人になり懇親会が計画された。
折角なので、その参道にあるウナギの名店を会場にすることになった。
土曜日の昼下がり、地元だからと言うことで、
そのお店との打ち合わせに、幹事を代表して出向いた。
参道で長いこと店を切り盛りしているご主人は、大変気さくな方で、
私の無理難題を快く受け入れてくれた。
私は恐縮すると共に、
私の顔を立ててくれたご主人に感謝感謝で、打ち合わせは終わった。
するとすかざず、ご主人は店の奥に向かって、
「おい、先生にお昼の食事を用意しな。上等なウナギがいいね。」
と、声を張り上げた。
顔色を変えた私に、
「先生、遠慮は無用だよ。ゆっくり食べていっってくださいよ。」
と言い残し、ご主人は店の奥へ消えた。
しばらくして、見るからに高級感のある四角い漆器に入ったうな重が運ばれてきた。
私は、もう食べるしかなかった。
一緒に添えられた吸い物には、ウナギの肝までが入っており、私を青ざめさせた。
「これを残して、店を後にすることはできない。」
それだけをくり返しくり返し自分に言い聞かせた。
私は一粒のご飯も残さず、若干額に汗をにじませ、
お店の方に、「ご主人によろしく。」
と、深々と頭を下げ、店を出た。
まな板のウナギの姿を思い出すことはなかったが、
川魚独特の味が、いつまでも頭から消えず、
益々私はウナギを遠ざけるようになった。
それから、数年が過ぎ、ある宴席が都心の料亭であった。
小綺麗な高級感のある席ではなかったが、気心の知れた6名ほどの酒宴だった。
美味しいお酒と料理に、私も気分上々で時間が過ぎていった。
そして、最後の料理が運ばれてきた。
上品な仲居さんが、大皿を両手で重そうにかかえ、
「運がいいことに、今日は四万十川の天然ウナギが入りましたので、
蒲焼きにいたしました。」
と、丸々1匹を人数分に切り分けて、運んできた。
「これはすごい。」
と、めいめい自分の皿にウナギを移した。
私は、いつもの如く
「ウナギ、嫌い。」と、箸を向けなかった。
すると、
「天然物でも超最高品だよ。一切れ4000円はする。
嫌いでも、食べてみたら。」
と、同席の一人から勧められた。
私は、「一切れ4000円」に心が動いた。
食べられなかったら、おみやげにしてもらうつもりで、取り皿に移した。
川魚であることを覚悟で、少量を口に運んだ。
美味しさで驚くことなど、ほとんど経験などないが、
「これがウナギの本当の美味しさなんだ。」と、驚く瞬間が訪れた。
「ウナギってこんなに美味しいんだ、へっえー。」
と、くり返しながら、私は一気に平らげてしまった。
同席した方々は、
「これは特別だね。」
と、言いながら、大満足の顔で酒宴はしばらく続いた。
その後、四万十川の天然ウナギにはめぐり会っていない。
しかし、私は「ウナギは嫌い。」を返上し、好んで食べるようになった。
あれ以降、食べるウナギは四万十川のと同じ味ではないが、
あの美味しさに通じるものが、わずかだがどのウナギにもある。
ウナギを口にし、あの味とわずかでも似た美味しさに出会えただけで
食べてよかったと思う。
私が苦手としていたウナギを、四万十川の天然ウナギの味が消してくれた。
まさに、それこそが本物が持つ凄さなのだろう。
散歩中に出会ったエゾリス・真冬でも元気一杯