ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

喰わず嫌い  『ウナギ』編

2015-02-27 22:05:07 | あの頃
 ウニとイクラは、今も高級品であるが、
私が小さい頃はそれを食べる機会どころか、
お店でも食卓でも見た記憶がなかった。

 この二つの食べ物との出会いをたどると、
ウニとは小学校高学年の頃になる。
 海水浴シーズンに友だちと連れだって、
初めて岩場のある防波堤で素潜りをした。
泳ぎの得意ではなかった私だったが、
それでも、みんなで鋭い針に覆われたウニを何個か収穫した。
その後、堤防を上がり、
どうやって割ったのか覚えはないが、
海水と一緒にオレンジ色のウニを口にした。
友人たちは、「美味しい。」「美味しい。」を連発していたが、
ぬれた体でブルブルふるえながら私は、何故か悪事に手を染めているように思えて、
美味しいどころか、ほろ苦さだけが心に残った。

 そして、イクラについては、もっと幼い頃にさかのぼる。
 つやつやとした真っ赤な『筋子』を、美味しそうに食べる母をまねて、
真っ白な熱々のご飯に、それをのせ食べてみた。
しょっぱい味が口いっぱいに広がった次の瞬間、
ドロッとして生臭さが、
口中どころか、鼻から目元まで抜け、涙が急にあふれ出した。
期待を見事に裏切られ、口の中のご飯と筋子をどうすることもできなかった。
 だから、それを大粒にしたようなイクラなど、私は見向きもしなかった。

 そんな訳で、大人になっても嫌いな二大食べ物である。
 友人たちには、
「実家は小さな魚屋。ウニやイクラなどの高級品は、
魚屋にとって食い物ではなく、売り物なんだよ。だから食べないんだ。」
と、うそぶいてきた。

 さて、同じように高級食材としてウナギが上げられる。
 実は、大人になるまでにうなぎを見たり食べたりする機会がなかった。

 大学を出て、東京のとある商店街で、初めてウナギをさばく場面を見た。
 生きたウナギの首を片手で桶から取りだし、
ヌメヌメとした肌と、その動きを無造作にまな板に固定し、
手際よく開いたかと思うと、すぐに骨を抜き取った。
そして、3つ4つの身に切り分け、串を通す。
真っ白なうなぎの串刺しの出来上がり。
 それは、食べ物として当たり前の成り行きだが、
私は、ウナギ料理が目の前に現れるたびに、
まな板のウナギの有り様が脳裏をかすめ、
「ウナギは嫌い。」と宣言し、箸をつけなかった。

 ところが、40代半ばのことだった。
 川魚料理の有名店が、いくつも並ぶ参道のすぐそばの学校に赴任した。

 ある時、私が幹事の一人になり懇親会が計画された。
折角なので、その参道にあるウナギの名店を会場にすることになった。

 土曜日の昼下がり、地元だからと言うことで、
そのお店との打ち合わせに、幹事を代表して出向いた。
 参道で長いこと店を切り盛りしているご主人は、大変気さくな方で、
私の無理難題を快く受け入れてくれた。
私は恐縮すると共に、
私の顔を立ててくれたご主人に感謝感謝で、打ち合わせは終わった。

 するとすかざず、ご主人は店の奥に向かって、
「おい、先生にお昼の食事を用意しな。上等なウナギがいいね。」
と、声を張り上げた。
 顔色を変えた私に、
「先生、遠慮は無用だよ。ゆっくり食べていっってくださいよ。」
と言い残し、ご主人は店の奥へ消えた。

 しばらくして、見るからに高級感のある四角い漆器に入ったうな重が運ばれてきた。
私は、もう食べるしかなかった。
一緒に添えられた吸い物には、ウナギの肝までが入っており、私を青ざめさせた。

 「これを残して、店を後にすることはできない。」
それだけをくり返しくり返し自分に言い聞かせた。
私は一粒のご飯も残さず、若干額に汗をにじませ、
お店の方に、「ご主人によろしく。」
と、深々と頭を下げ、店を出た。
 まな板のウナギの姿を思い出すことはなかったが、
川魚独特の味が、いつまでも頭から消えず、
益々私はウナギを遠ざけるようになった。

 それから、数年が過ぎ、ある宴席が都心の料亭であった。
小綺麗な高級感のある席ではなかったが、気心の知れた6名ほどの酒宴だった。
美味しいお酒と料理に、私も気分上々で時間が過ぎていった。

 そして、最後の料理が運ばれてきた。
上品な仲居さんが、大皿を両手で重そうにかかえ、
「運がいいことに、今日は四万十川の天然ウナギが入りましたので、
蒲焼きにいたしました。」
と、丸々1匹を人数分に切り分けて、運んできた。
「これはすごい。」
と、めいめい自分の皿にウナギを移した。

私は、いつもの如く
「ウナギ、嫌い。」と、箸を向けなかった。
すると、
「天然物でも超最高品だよ。一切れ4000円はする。
嫌いでも、食べてみたら。」
と、同席の一人から勧められた。
 私は、「一切れ4000円」に心が動いた。

 食べられなかったら、おみやげにしてもらうつもりで、取り皿に移した。
 川魚であることを覚悟で、少量を口に運んだ。
美味しさで驚くことなど、ほとんど経験などないが、
「これがウナギの本当の美味しさなんだ。」と、驚く瞬間が訪れた。
「ウナギってこんなに美味しいんだ、へっえー。」
と、くり返しながら、私は一気に平らげてしまった。
 同席した方々は、
「これは特別だね。」
と、言いながら、大満足の顔で酒宴はしばらく続いた。

 その後、四万十川の天然ウナギにはめぐり会っていない。
しかし、私は「ウナギは嫌い。」を返上し、好んで食べるようになった。
 あれ以降、食べるウナギは四万十川のと同じ味ではないが、
あの美味しさに通じるものが、わずかだがどのウナギにもある。
ウナギを口にし、あの味とわずかでも似た美味しさに出会えただけで
食べてよかったと思う。

 私が苦手としていたウナギを、四万十川の天然ウナギの味が消してくれた。
まさに、それこそが本物が持つ凄さなのだろう。



散歩中に出会ったエゾリス・真冬でも元気一杯


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学級の雰囲気こそが

2015-02-19 23:28:57 | 教育
 『楽しい授業の条件 その3』(2014年11月26日ブログ掲載)で、
「好感のもてる仲間に囲まれた学級」について述べた。
 その中で、
「教師は、開放的で寛容な学級を子ども達とともに築き上げていくように」
と、強調させてもらった。
 先日、学校の冷房化等々で住民投票が行われたという報道があった。
確かに、子どもにとって良好な学習環境は重要な問題であるが、
その最大のものは、『学級の雰囲気』であると私は思っている。
 このことについて、事例をあげて記す。


 1、給食白衣を忘れた事件

 学級編制替えがなかった高学年を担任した4月初めのことだった。

 月曜日の朝、S君が職員室の私に
「洗濯した給食の白衣を持ってこなかった。」
と、大失態を演じたような落ち込みようで報告にきた。
 私は、S君のやや大袈裟とも思える態度に違和感を持ちながらも、
「そう、じゃ明日、忘れずに持っておいで」
とだけ言って、教室に戻した。

 その日の給食当番5人のうち1人が、白衣のないまま牛乳配りをした。

 『帰りの会』のことだった。
反省会が始まると、S君が真っ先に挙手をし、
「明日、必ず白衣を持ってきます。」と言った。
 すると、7,8人の子どもが顔を見合わせながら一斉に手を上げ、
次々に発言し出した。
「白衣を忘れたので、みんな迷惑をした。」
「当番の一人が白衣を着られなかった。かわいそうだった。」
こんな発言だった。そして最後には、
「忘れたから、明日持ってくるというのは、ちょっと無責任だ。」
と、言う子まで現れた。
 この間、S君はじっと下をむきっぱなしだった。

 みんなの意見が出つくしたところで司会が、
「白衣を忘れた人は、みんなの意見を聞いてどう思いますか。」
と、S君を見た。
S君は、重々しく立ち上がり、うつむくばかりだった。
たくさんの鋭い視線が、降り注がれた。
冷たい視線であった。
無言で困りきって立ち尽くす友だちに、
誰一人として助言してやろうとはしなかった。

 今朝、弱りきった表情で、私のところに来たS君は、
きっとこのような事態を予想していたのであろう。
そして、何とかそれを打開しようと、私に相談したのであろう。

 私は、
「たかが白衣一着。そんなに困ることはない。
一日くらいなくても給食当番はできる。」
と、気軽に考えて、S君の気持ちを楽にしてあげたつもりでいた。

 私は、静まりかえった『帰りの会』で、ただ立ちつくすS君を見て、
予想だにしていなかった場面に若干動揺していた。
助け船を出す者は現れなかった。
 S君の「明日持ってくる。」の発言は、私の指示通りのものだった。
私にも責任があった。
しかし、「この冷たい雰囲気はなんだ。」私は驚いていた。
おもむろに立ち上がった私は、
「みんなは、一体どうすればいいと思うんですか?」
と、訊いてみた。
「迷惑をかけたのだから、みんなにあやまってほしい。」
女の子が発言した。
たくさんの子から一斉に、「同じです。」と声が上がった。

 私は、たまらず
「いや、それは違う。あやまることはない。
みんなが思うほど、白衣を忘れたことが迷惑にはなっていない。
だって、白衣がなかった子は、牛乳配りにまわっていたじゃない。
一日くらい白衣がなくても、牛乳配りなら立派にできたじゃないか。
それよりも、明日持ってくるという友だちを、なぜ信じてあげないの。
失敗をした友だちを、なぜ励ましてあげないの。」
と、力を込めた。
 何人かの子が明るい瞳で、私を見上げた。

 ※ この事例は、自宅で洗濯した白衣を忘れた子への、
同じ学級の子ども達の対応の問題である。
忘れた子を責める発言とそれを容認する子ども達の態度、
それが圧力となり、S君を萎縮させている。
このような雰囲気の学級で過ごす日々は、それだけで過酷である。
新しいことにチャレンジしたり、助け合って困難を乗り越えたりする学習環境からは
ほど遠いと言える。


2 学級の代表になった一コマ

 N男は、「きたない。」「約束を守らない。」「みんなに迷惑をかける。」等々、
学級の嫌われ者だった。

 しかし、N男は、いかに孤立していても、我関せずとばかり
そのことを意にも介していないようであった。

 夏休みが明けてすぐ、プール納めがあった。
例年、高学年は学級代表4名による100メートルの学級対抗リレーが、
そのプログラムにあった。
 学級で、代表を誰にするかが話題になった。
私は、3才からスイミングクラブに行って、
泳ぎの上手なN君が代表の1人として当然選ばれると思っていた。
 学級全員でその話し合いがあった。
代表の推薦が始まった。
中々N君の名前が上がらなかった。
N君が学級で2,3番目に泳力があることは、誰もが知っていることだった。
6名の推薦者が出ても、まだN君の名前はなかった。

 私はしびれをきらし、「N君を推薦します。」と発言した。
 7名の中から4名を選出する話し合いになった。
私は推薦の理由として、「男子では2番目か3番目に速いから」と言った。
「先生はそう言うけど、リレーはタッチとかチームワークが大切です。」
「N君は、いつもピリッとしていないから、代表として心配です。」
と、次々と反対意見が出た。
そして、「僕はN君となら、一緒にやりたくない。」
と言う子まで現れる始末だった。

 私は、「なぜ、もっと友だちを信じてあげないのだ。」と言いたい気持ちを抑えた。
本当は短かったのだろうが、とても長い時間、私は待った。
すると、弱々しく挙手をし、
「僕は、先生の言うとおりN君は泳ぐのが速いのだから、代表になった方がいいと思う。」
と立ち上がった子がいた。
「同じです。」の声が、教室の所々から聞こえた。

 「N君は、選手になってもいいですか。」
司会者の問いに、それまで手いたずらを続けていたN君は、
「どっちでもいい」と、小声で言った。
 N君は、多数決の結果、4番目に選出された。
教室はざわついた。
N君は一瞬顔を上げ、驚きの表情をした。

 いよいよその日、N君はいつになく陽気だった。
消しゴムをちぎって近くの子に投げ、私から注意されたり、
訳もなく突然椅子から立ち上がったりした。

 プールサイドに立つN君は、緊張しきっていた。
私は、何一つ声をかけなかった。
N君は、一人もぬくことなく、またぬかれることなく、
25メートルを泳ぎきった。
私の横をぬれた体で通りすぎるN君に、「よかったね。」と声をかけた。
小さくうなずいたN君は、学級の列に戻り、背筋をのばして座った。
 その日から、N君とその周りに少しずつ変化が見られるようになった。

 ※ どんなことがきっかけであろうと、周囲の友達から期待を寄せられることは、
成長の大きな力になる。
 ましてや大なり小なりしろ、その期待に応えることができたなら、
それは、その子の不動の自信につながる。
 この事例は、その一片を示していると思う。
N君にとっては大きな出来事であっただろうが、
そんなN君の姿を見て、周りの子ども達も選出してよかったと思ったことだろう。
 そんな経験の積み重ねが、
助け合ったり、支え合ったりする学級の雰囲気を築き上げていくのである。




すっかり雪が消えた 伊達の冬

 
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な ら で は

2015-02-12 21:57:14 | 北の湘南・伊達
 地元の方に『伊達メセナ協会』を教えてもらったのは、
移住してすぐのことだった。
 私にとって『メセナ』という言葉は、聞き慣れないものだった。
早速調べてみると、
フランス語で芸術文化活動の支援を意味しており、
古くは紀元前のローマ帝国皇帝アウゲストゥスの家臣アエケナスが、
時の芸術家を擁護したところに由来するものらしい。

 日本では、1990年頃普及しはじめたようで、
主には企業が資金を提供して、芸術文化活動を支援する「企業メセナ」が主流であった。
すかいらーくが東京交響楽団の公演を支援したり、
サントリーがサントリーホールの運営をする等は、
よく知られているところである。

 しかし、伊達のメセナは、若干おもむきが違い
「市民メセナ」と称されるものである。
伊達市民が育てる芸術文化の振興を目的とした組織で、
現在、この活動に参加している市民会員は約200名、地元法人会員は約40社・団体である。
早速、私もその末席に加えてもらっている。

 この協会が、今年創立20周年を迎えた。
その記念公演が、昨年10月にあった。なんと、人形浄瑠璃「文楽」である。
伊達で、「文楽」の観劇など思ってもみなかった。
私をはじめ、多くの市民にとって初めてだろうと察してか、
公演に先駆けて、その道の方から30分程度「文楽」について解説があった。

 すっかり文楽は見るものと思っていたが、
「見るとは言わず、『文楽は聴く』と言う。」
と、教えられ、私はその時点でもう深く感銘を受けていた。

 演目は2つであったが、
太夫の義太夫節と太棹三味線の迫力。
その響きが文楽ならではの世界観を創り出し、
その雰囲気の中、三人一組で一体の人形を操る、
その様は人形ならではの素晴らしさを演出していた。

 あの喜び、あの悲しみ、あの躍動感、
静寂とともに織りなすあの絵画のような一瞬のポーズ。
全てが今も目に焼き付いている。
そして、その場面に重なる深みのある声、音色に心がおどった。
私は、ただただ伝統芸能の凄さを心ゆくまで堪能した。

 20周年記念公演と言う機会に恵まれ、感謝の一語である。
伊達ならではのことであった。

 さて、伊達メセナ協会では、
毎年数回の演劇やコンサート等を企画してくれる。

 その中の一つとして、昨年4月に“山崎まさよしコンサート”があった。
 若者達に人気のシンガーだと知ってはいたが、
それでも、メセナ主催だからとチケットを求め、前列から3番目の中央席を確保した。

 伊達にこんなにも沢山の若者がいるのかと思えるほど、
会場は熱気に包まれていた。
指定の席に着こうとしたら、
隣の席の、高校生らしい娘さんに、上から下まで異様な者を見るような目で見られ、
場違いな所に来てしまったと直感した。

 しかし、そこは年の功。めげずに席に着いたものの、
バラード調のオープニングが終わると、会場は一変。
全員総立ちでノリノリのコンサートになった。
 私も家内も座っているわけにはいかず、
立ち上がり、中々のれないリズムにそれでも無理に体を動かした。

 翌日、ブログの書き込みを見ると、
沢山の若者が、「山崎さん、わざわざ伊達まで来てくれてありがとう。」と記していた。
その中に、きっと二階席にいたのだろう、
 「前の方の席にいたお年寄りも、みんなと同じように体を動かし、楽しそうだった。」
とあった。
 何故か嬉しいような、気恥ずかしいような、
それでも、その書き込みに「ありがとう。伊達の若者。」と言いたくなった。

 このコンサートでもう一つ、嬉しいことがあった。

 山崎まさよしさん一行は、どうやら列車で伊達紋別駅に降りたらしい。
 駅前は、実に閑散としている。
 彼は、トークの場面でその驚きに触れ、
 「ここには、飲み屋さんはあるの?」と言い出した。
すかざず、遠くの席から
 「あるよ。錦町にいけば・・・!」
と、若い女子の声が返ってきた。
そして、彼は
 「そうそう聞いたよ。伊達の名物。キンキの飯寿司(いずし)だって。
どうやって食べるの。夕食の時、毎晩食べるの。」
しばらくの静寂があった。そして、再び若い女子のかわいらしい声、
「ちがうの、お歳暮とかでもらうの。」
私は、可笑しさを堪えきれず笑ってしまった。
質問したシンガーは、コメントもなく次の曲へと移っていった。

 キンキは、超高級魚である。易々とは食卓にはのらない。
キンキの飯寿司も同じである。
だから、その女子の答えはその通りである。
それにしても、伊達ならではのやりとりである。
コンサートの熱気をよそに、清々しい気分が私を包んでくれた。





私のジョギングルートのそばに 白鳥
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外国人アレルギー

2015-02-05 21:17:09 | 出会い
 高校2年の修学旅行は、東京そして新幹線で京都・大阪まで行った。
 東京では、丸一日の自由行動があった。
級友4人で、それぞれ行きたい所を出し合い、そろってそこを回ることにした。

 私は、上野公園以外の名所を知らなかったので、
「俺の行きたい場所は」と、真っ先に言った。

 宿泊場所が近かったので、いの一番でそこへ行った。

 忘れもしない。山手線を上野駅で降り、公園口改札を出て、
東京文化会館前を4人そろって通り過ぎようとしていた時だった。
男女二人の外国人に、突然話しかけられた。
 その二人は私を見た。見上げるような大きな男の目と私の目が合った。
笑顔で私を見ながら、どうやら同じようなことをくり返し言っていた。
 私は、すぐ舞い上がってしまった。私の周りだけ急に時間が止まってしまった。
きっと英語だったのだろうが、何も聞こえてこなかった。
青い目をした白人を、こんなにも近くで見るのは初めてだった。
私は、オドオドと級友に寄り添っていった。

 級友の1人が、何やら言葉を交わし、笑顔で握手をした。
「ここは東京文化会館かって訊かれたから、そうだって言っておいたよ。」
 明るい表情の彼とは反対に、私は、折角楽しみにしていた自由行動の日が、
沈んだ気分の一日になってしまった。

 ちなみに、その日外国人に対応した級友は、後々新聞記者になり、
海外特派員として随分と活躍した。
それに比べ私は言えば、あの一件ですっかり外国人アレルギーになり、
英語をはじめ、外国の文化すべてに興味を失ってしまった。

 だから、ちょうどバブル期の頃だろうか、
盛んに教員海外研修が行われ、私も度々お誘いを受けたのだが、
理由にもならない言い訳をして、ことごとくお断りをしていた。

 ところが、教頭なって初めて着任したS小学校は、
当時、東京都K区で唯一の国際理解教育推進校であった。
 K区等がお招きした外国からのお客様で、学校視察が計画される場合、
そんな時は、決まってS小学校がその要請を受け入れていた。
 私が着任したその年度だけでも、6カ国の方々が来校された。

 教頭は、その受け入れの窓口であった。
歓迎セレモニー、学校の概要説明、
学校施設や授業等の視察など、その対応の先頭に立った。

 着任してまもなく、ウイーン市の一行5名が来校した。
K区の重職の方々も大勢随行された。
 分刻みのスケジュールが事前に組まれ、
私はそれに沿って、その場を切り盛りした。

 外国人アレルギーの私には、最も避けたい仕事だった。
しかし、それはできないことだった。
 東京文化会館前のあの日の光景を思い出し、
オドオドしてしまう自分が、
20年の歳月が過ぎてもまだ、私の胸に歴然と生き残っていた。

 私は、そんな胸の内を誰にも気づかれないよう、
何度も何度も深呼吸をした。
そして、精一杯の明るい顔を作った。
 「外国から来た人は、その時出会った何人かの日本人を通して
日本を知ることになる。」
この言葉を、何度も思い出し、私を励まし続けた。

 ところが、その日、私のアレルギーを軽減させてくれることがあった。

 5名の方を授業参観へと案内した。
 1年生から6年生までの全授業をご覧頂くのだが、
そのガイド役を私が務めた。

 全く未経験のことであった。
足がわずかに震えていた。
 私が先頭になり、すぐそばに若々しい女性の通訳さんがついてくれた。
まずは1年生の教室へと進んだ。

 教室に入り、さっそく
「ここは1年生、7才の児童22名が学んでいます。」
 すると、隣にいた通訳の女性が、
突然5名の方に向かってドイツ語で話し出した。

 私の言葉がドイツ語になっていくことに驚いた。
 そして、分かる訳もないのに、夢中でそのドイツ語に聞き耳を立てた。
 通訳さんが、急に振り返り私を見た。
ハッとしたが、ガイドの続きを言うのだと気づいた。
しかし、今、何をどこまで話したのか思い出せなかった。

 小声で、「私、何って言いました?」と、通訳さんに尋ねた。
怪訝そうな表情を浮かべながら、「年齢と人数です。」と、教えてくれた。
 「今は、国語の時間で最も簡単なひらがな文字を学んでいます。」
と、何事もなかったように私はガイドを続けた。
すかさず、通訳さんがドイツ語で伝えた。
そのドイツ語に私は、また夢中で聞き耳を立てた。
再び、どこまでガイドしたのかを忘れ、通訳さんに尋ねた。

 何度もそれを繰り返してしまった。
とうとう隣の通訳さんが、
可笑しさを堪えきれずに、笑い出してしまった。
 私は、恥ずかしさと申し訳ない気持ちで、
次の教室に移動する廊下で、通訳さんに謝罪した。
通訳さんは、私の馬鹿げた言い訳を聞きながら、またまた笑い出してしまった。

 その時、私達の様子を見ていたウイーンからのお客様の一人が、
明るく話しかけてきた。

「楽しそうな訳を教えてと、言ってます。」
通訳さんは少し困り顔だった。
私が取りつくろう言葉を見つけられずにいると、
通訳さんが、笑顔でその方に話し出した。

今度は、私が困り顔になった。
しかし、その方は、時折笑い声を交えながら、何やら通訳さんに言い、
明るい表情で、何度も私を見た。
 「ありのままをお話ししましたところ、この方も同じで、
どんな日本語になるのかと、つい言ったことを忘れてしまうそうです。」
「外国の方とお話しすることに慣れてないので。」
と、伝えてもらうと、
「私も同じです。」と笑顔が返ってきた。

 初めて、外国人と気持ちがつながった。
 それが、外国人アレルギーから脱皮する第一歩になった。

 お客様が学校を去られるとき、それぞれ握手をしながら別れを惜しんだ。
「私も同じです。」と笑顔を交わした方が、「ダンケシェーン」と私の手を握ってくれた。
私は、何もためらうことなく、「ダンケシェーン」と、明るく返すことができた。




昭和新山の隣に 真っ白な蝦夷富士(羊蹄山)が





 
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