ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

『つらい境遇の中で生きて ・ ・ ・ 』

2020-02-22 11:56:36 | 文 学
 以前、本ブロクに書いたことから始める。

 教職について2年目だった。
まだ結婚前だ。
 民家の2階の4畳半を、家内は間借りしていた。
日曜日の午後、その部屋で時間を潰していた。

 たまたま手の届くところに絵本『モチモチの木』があった。
寝転びながら、はじめて手にした。
 
 臆病な豆太が、
真っ暗な夜道を医者さまをよびに走るシーンに、
心が熱くなった。

 そして、翌朝、腹痛が治ったじさまが、
豆太に言った言葉が、今も浸みている。

 『・・じぶんで じぶんを よわむしだなんて おもうな。
にんげん、やさしささえあれば、
やらなきゃならねえことは、きっと やるもんだ。・・』

 この一冊が、絵本や児童文学のイメージを一新させた。
と同時に、「やさしささえあれば・・」という言葉が、
しっかりと私に根付いた。

 以来、斎藤隆介作品だけでなく、
童話や物語に興味をもった。
 特に、宮沢賢治作品や新美南吉作品に惹かれた。

 さて、そんな出会いから数年が過ぎた頃だ。
灰谷健次郎さんのデビュー作『兎の眼』を手にした。
 子どもの読み物にしては分厚い本で、
その内容に衝撃を受けた。

 そこから灰谷さんの新作は、
短編であれ長編であれ欠かさず読んだ。
 その上、彼の講演会等にも、よく足を運んだ。
一時はまさに熱烈なファンで、舞い上がっていた。 

 30歳になって間もなくだったろうか。
『この本の物語は、人間のやさしさというものをもう一度
考えなおす機会をぼくに与えてくれた、子どもたちの話です。』
 そんな言葉が帯にあった彼の短編集
『ひとりぼっちの動物園』が、出版された。

 その後、子どもいや人間を理解する
大きな指針になった1冊だ。

 表紙をめくると最初のページに、
こんな言葉があった。

 『あなたの知らないところに
  いろいろな人生がある
  あなたの人生が
  かけがえのないように
  あなたの知らない人生も
  また かけがえがない
  人を愛するということは
  知らない人生を知るということだ』

 つい置き忘れそうになる大事なことに、
はっと気づかされた。
 案の定、この本にあった5つの短編は、
どれもかけがいのないものだった。

 特に、その1つ『だれも知らない』は、
今も時々思い出し、作者が託したメッセージに、
汚れそうになる私の心を洗浄してくれた。

 6年生の麻理子は小さい時の病気で、
筋肉の力がふつうの人の10分の1くらいしかない。
 だから、家から通学バスのバスストップまでの、
わずか200メートルの道を、毎日40分もかけて歩いて行き来した。

 毎朝、私たちの日常では考えられない、
その距離とその時間の中で、
麻理子が出会う人や生き物を、灰谷さんは丁寧に描写していた。   
 驚きと感動の連続だった。
中でも、マツバボタンとの場面が印象的だ。

 そして、5つの物語のあとがきとして、
灰谷さんは、麻理子をはじめ登場した子ども達などについて、
こう振り返っている。 

 『子どもたちの中には、ずいぶんつらい境遇の中で
生きている者も少なくありませんでした。
 しかしかれらは、決してやけくそをおこすということがありませんでした。
絶望するということがありませんでした。
 それどころか、つらい境遇の中で生きている者ほど、
他人に対してやさしい思いやりをしめそうとしました。
 ぼくは、そんな子どもたちをすばらしいと思いました。』

 この一文は、17年間の教職生活で、
灰谷さんが実感した真実だと思う。
 初めてこれを読んだ日から、
私の子どもを見る、いや人を評価する目が変わった。

 つらい境遇の中で生きる者の、
本当のたくましさ、強さに気づいた。

 灰谷さんと同じ道を私は40年歩んだ。
その歩みの中で、何人ものそんな境遇の子に出会った。
 そして、その子たちが示す本物のやさしさに、
支えられ、励まされた。 
 だから、今の私がいると言ってもいい。

 そんな数々の出会いに、感謝している。
 
 結びになる。
灰谷さん、2006年11月、享年72歳で逝った。
 彼も癌だったと聞いた。

 この機会だ。
彼が書き残したり、語ったりした数々の名言から、
記憶にあたらしいものを記しておく。

 『人は時に憎むことも必要な場合もあるのでしょうけど、
憎しみや怒りにまかせて行動すると、
その大事なところのものが吹っ飛んでしまうのが怖い。
 憎しみで人に接していると、人相が悪くなるわ。
正義もけっこうだけど、人相の悪い人を友達に持ちたくない。』

 『自分の方に理があると思っているときほど、
よく考えて行動しなくちゃいけない。
 居場所のなくなった相手に、
自分の方が理があるからと言って、一方的に攻め立てるのは、
本当に勇気のある人がすることなの?』 
 
 『人間の犯す罪の中で最も大きな罪悪は、
人が人の優しさや楽天性を、土足で踏みにじることだろう。』

 『人に好き嫌いがあるのは仕方がないが、
出会ったものは、それが人でも、ものでも、
かけがえのない大事なものじゃ。』
 



  もう福寿草が!  春が早そう!   
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『終わった人』とは・・・?!

2016-12-16 22:15:52 | 文 学
 10数年前になるが、
内舘牧子さんのエッセイを読んだことがある。
 優しさにあふれた繊細な視線と、
乱れのないしゃれた言葉遣いが、印象に残っていた。

 だから、書店の棚に並んだ話題作に、
彼女の名前があり、目に止まった。

 なんと、そのタイトルが凄い。
『終わった人』である。
 横に『「定年」小説』の文字。
そのインパクトに、つい手が伸びた。

 表紙の帯には、こんな説明があった。

『大手銀行の出世コースから子会社に出向、
転籍させられそのまま定年を迎えた田代壮介。
仕事一筋だった彼は途方に暮れた。
生き甲斐を求め、居場所を探して、惑い、
あがき続ける男に再生の時は訪れるのか?』

 定年を過ぎた者を「終わった人」と称することに、
若干の反発を感じながらも、読むことにした。

 この本は、彼女が初めて書いた連載新聞小説に、
加筆したものだった。

 その書き出し、第1行目が、また強烈だ。
『定年って、生前葬だな。』ときた。

 そして、こんな言葉が続いた。

『… 定年の最後の日だけ…、
ハイヤーで自宅に送ってもらえる。……

 ハイヤーの後部座席に身を沈め、窓を開ける。
全社員が車を囲み、声をあげたり、手を振ったり。
生前葬だ。
その中を、静かに黒塗りは動き出した。
これで長いクラクションを鳴らせば、まさに出棺だ。

 車が動いて間もなくふり返ると、もう誰もいなかった。
サッサとオフィスに戻り、業務の続きを始め、
会社はいつものように動くのだ。
 俺がいなくとも。
 誰も何も困らずに。』

 大同小異である。
彼ほど屈折していないものの、私も同じような風景を体験した。
 足下を見られているようで、恥ずかしくなった。

 小説では、主人公・田代壮介は、その後3年間程、
自分の落ち着く先を求め彷徨う。
 そのドラマについては、是非、一読をお勧めする。

 しかし、様々な場面での彼の想いについては、
同じ『終わった人』として、共感できることが多々あった。

 時に小説は、主人公の言葉を通して、
作者の想いを代弁すると言う。
 きっと、壮介に、内舘さんの想いも、
にじんでいるに違いない。

 大変乱暴なのだが、私の視線で
全370ページの小説から、そんな言葉を探してみた。


 ① 今、咲き誇っている桜は、
散っていく桜を他人事として見ているだろうけど、
しょせん、そいつらもすぐに散る。
残る桜も散る運命なんだ・・・。


 ② ・・15才からの努力や鍛錬は、
社会でこんな最後を迎えるためのものだったのか。
 こんな終わり方をするなら、
南部高校も東大法学部も一流メガバンクも、
別に必要なかった。

 人は将来を知り得ないから、努力ができる。
一流大学に行こうが、どんなコースを歩もうが、
人間の行きつくところに大差はない。 


 ③ 中には「やることがないなんで最高だ。
早くそうなりたい。
やることに追われる日々から解放されたい。」
と言うヤツがいる。

 ヤツらはそう言ってみたいのだ。
その言葉の裏には、自分の今の日々が充実していて、
面白くてたまらないということがある。
本人もそれをわかっているから、言ってみたい。

 たったひとつ、わかっていないのは、
そういう日々がすぐに終わるということだ。


 ④ 俺は一流大学から一流企業こそがエリートコースだと思い、
実際、そう生きてきた。
・・・。
 サラリーマンは、人生のカードを他人に握られる。
配属先も他人が決め、出世するのもしないのも、
他人が決める。・・・

 出世も転籍も、他人にカードを握られ、
他人が示した道を歩くしかなかった。
それのどこがエリートコースだ。

 ならば辞表を叩きつけよと言われても、
それはできないものだ。
生活があり、家族がある。


 ⑤ オンリーワンは、人として大切なことだ。
 だが、社会ではよほど特殊な能力でもない限り、
オンリーワンに意味を見てくれない。
替えは幾らでもいるからだ。
世間はその替えにすぐ慣れるからだ。

 とはいえ、ナンバーワンでさえ、
替えは次々に出てくる。
それが社会の力というものなのだ。


 ⑥ よく「身の丈に合った暮らしをせよ」と言う。
 それは正しい。だが、身の丈は人それぞれ違う。

 俺は定年後も社会に出て、
競争したり張り合ったり、
肝を冷やしたり走り続けたりということが、
身の丈なのだ。

 世間では、定年後までそんな暮らしをするのは、
あまりにも人として貧しいだとか言う。
・・・、生きる喜びを知らないだとか言う。
大きなお世話である。

 趣味を持たねばと、自分に習いごとを課したり、
読書や仲間作りに精をだしたりする方が、
俺にとっては貧しい人生なのだ。
身の丈にあわないのだ。


 ⑦ サラリーマンとして成功したようであっても、
俺自身は「やり切った。会社人生に思い残すことはない」
という感覚を持てない。
成仏してないのだ。
だからいつもまでも、迷える魂がさまよっている。


 ⑧ 年齢と共に、
それまで当たり前に持っていたものが失われて行く。
 世の常だ。
親、伴侶、友人知人、仕事、体力、運動能力、記憶力、
性欲、食欲、出世欲、そして男として女としてのアピール力…。

 男や女の魅力は年齢ではないと言うし、
年齢にこだわる日本は成熟していないとも言う。
だが、「男盛り」「女盛り」という言葉があるように、
人間には盛りがある。

 それを過ぎれば、あとは当たり前に持っていたものが
次々に失われて行く。
・・・とはいえ、そんな年齢に入ったと思いたくない。
だから懸命に埋めようとする。
まだまだ若いのだ、まだまだ盛りだ、まだまだ、まだまだ…。


 ⑨ 10代、20代、30代と、
年代によって「なすにふさわしいこと」があるのだ。
 50代、60代、70代と、あるのだ。

 形あるものは少しずつ変化し、やがて消え去る。
それに抗うことを「前向き」だと捉えるのは、
単純すぎる。

 「終わった人」の年代は、
美しく衰えていく生き方を楽しみ、
讃えるべきなのだ。


 ⑩ (高校時代の友「16番」と再会。その「16番」の言葉)
 「死んだ女房の口癖思い出してさ、
俺が何か落ちこんだりして、
昔はいがっただのって嘆いたりするたんびに、
女房は東京の下町の女だからべらんめえで叱るのす。
『ああ、しゃらくさい。
思い出と戦っても勝てねンだよッ』てさ」

 俺は黙った。・・・。
ああ、俺は定年以降、
思い出とばかり戦ってきたのではないか。

 思い出は時がたてばたつほど美化され、
力を持つものだ。
 俺は勝てない相手と
不毛な一人相撲を取っていたのではないか。


 ⑪ 何にでも終わりはある。
早いか遅いかと、終わり方の善し悪しだけだ。
 いずれ命も終わる。
そうなればいいも悪いもない。
 世に名前を刻んだ偉人でもない限り、
時間と共に「いなかった人」と同じになる。
 そう考えれば、気楽なものだ。


 ここでもう一度、田代壮介の想いをふり返ってみる。

 彼は想うのだ、
 “人はみんな、散る桜の運命にある”と。(①から)
ましてや、“人生の旬は一瞬、すぐに終わる。”(③から)

 その上、“サラリーマンは、
人生のカードを他人に握られている”(④から)
 そして、“オンリーワンもナンバーワンも替えは幾らでもいる。
それが社会の力なのだ。”(⑤から)

 だから、“定年とは、自分の仕事にもう思い残すことはないと
成仏することである。”(⑦から)
 しょせん
“終わった人としてのゴールには、大きな差などない。”のだから(②から)

 壮介は、自身を顧みて、そう納得する。
だが、
“身の丈にあった暮らしは、人それぞれ違っていい。”(⑥から)
“確かに年齢と共に失うものはあるが、
まだまだ盛りだ、まだまだ…。”(⑧から)
と、強がりたい。
 
 しかし、“思い出と戦っても、勝てない。”(⑩から)
“終わった人は、美しく衰えていくべきだ”(⑨から)
と、想うに至るのだ。

 さて、私ごとになる。
私の町を横断する基幹道路の国道37号線は、
10月末から今も、大型ダンプカーの往来が激しい。

 道南各地で収穫したビート根を、
町外れの製糖工場に運んでいるのだ。
 昨年も一昨年も、その車両を見た。
しかし、今年の私は、それを見る目が違う。

 雪解けと共に、畑に植え付けたビートの苗が、
春、夏、秋を経て、大きな根に育った。
 それまでの月日は、決して順風満帆ではなかったことを、
私は知っている。

 その苦労の成果を収穫し、ダンプカーは積み、
製糖工場へ走る。
 やがて、あの真っ白な砂糖に生まれ変わる。

 1年間におよぶ砂糖作りのご苦労を思うと、
国道を走り抜けるダンプカーは、
力強く頼もしく、輝いて見える。
 「頑張れ、ダンプカー!」

 去年までと違った想いに、感情が高ぶる。
同時に、そんな私自身に、驚きも覚える。

 最近、富みに思うことだが、
この年齢、そしてこの生活リズムだからなのか、
ビートを積んだダンプカーに限らず、
新しく芽生える感情や想いに心がざわめく。

 それを『美しく衰えていく生き方』というのだろうか。
ならば、その生き方を大いに楽しみたいと、私も思う。





   雪化粧した 有珠山
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南吉ワールド PART4  ~原風景を訪ねて

2016-03-11 22:31:44 | 文 学
 新美南吉の作品に、心動かされはじめたのは、
20代の頃、教職についてまもなくだった。

 南吉が紡ぐ物語のいろんな場面に共感した。
そして、文学が持つ力を信じるようになった。
 巧みなストーリー性を生み出す彼の賢さとは別に、
いつからか、新美南吉という人そのものに 
勝手に私を投影することも、しばしばあった。

 彼の作品にある「せつなさ」や
「さみしさ」、「優しさ」に心が騒いだ。
私が奥底にしまっていたものと同じものを、彼は描いてくれた。
 今だから言えるが、それが私を力づけていた。

 いつ頃からだろうか、
愛知県半田市にある、彼のお墓に詣でたいと思うようになった。
 彼のそばで、「ありがとうございます。」と掌を合わせたかった。

 しかし、それをやらずに今日まで来てしまった。
私の忘れ物の一つと言える。

 3月1日、名鉄名古屋駅から、急行で40分、知多半田駅に降りた。
若干冷たい風があったが、
そこまでの車窓を流れる空にも、この地にも雲はなかった。

 駅前に街を案内する大看板があった。
そこに大きく、『山車と蔵と南吉の街 半田』と記されていた。
 そして、そばの赤い郵便ポストの上には、
キツネのマスコット(ごんぎつね)が置かれてた。
 それだけで、この街が南吉を大切にしていることが分かった。
無性に、嬉しかった。

 早速案内所に行き、パンフレットを頂いた。
そこにこんな一文があった。

 『平成2年のこと、
南吉と同じ岩滑に生まれた小栗大造さんは、
ある壮大な計画を思い立ちました。
“南吉がよく散策した矢勝川の堤をキャンパスに、
彼岸花で真っ赤な風景を描こう。”
ただ一人で草を刈り、球根を植えるその姿に、
一人また一人と手伝う人が現れ、やがてその活動は
「矢勝川の環境を守る会」へと発展します。
こうして現在では、秋の彼岸になると東西1、5キロにわたって
300万本もの彼岸花が咲くようになりました。』

 堤が真っ赤に色づいた写真が誇らしげに載ったパンフレットを片手に、
幸せな気分で、私はタクシーに乗った。
 これまた親切なドライバーさんだった。

 私の要望通り、南吉の生家、記念館、
そしてお墓へと案内してくれた。

 大した知識ではないけどもと言いながら、
ガイド役もかって出てくれた。
 そして、家内との記念写真のシャッターまで押してもらった。

 父が畳屋、そして義母が下駄屋を営んでいた生家は、
東海道の裏街道ともいわれる大野街道の分岐点にあった。
 南吉はこの店の前を通る
旅人や物売りを眺めながら育ったそうだ。
 今は閑静な住宅地の一角だが、
思いのほか道幅が狭かった。

 その生家の隅に、ひっそりとたたずむ石碑があった。
『冬ばれや大丸煎餅屋根に干す』と刻まれていた。
 当時、隣が煎餅屋で、
顔の大きさ程もあった「大丸煎餅」が名物だったらしい。
 屋根を見上げていた南吉の姿を想像した。
そして、冬ばれの日に訪ねることができた好運に感謝した。

 そして次は、新美南吉記念館である。
そこは、「ごんぎつね」の舞台、中山の地にあった。
遠くには、ごんが住んでいたと言う権現山が、
穏やかな稜線を見せていた。

 予備知識がないままの来場だった。
降車しても、記念館を見つけることができなかった。
 平成6年に開設したその建物は、
全国コンペで選出された斬新なもので、
隣接する童話の森にすっかりと溶け込み、緑に包まれていた。
 他の館とは趣きが異なるたたずまいに、言葉を無くした。

 半地下にある展示室の入口では、
『この石の 上を 過ぎる 小鳥たちよ
 しばし ここに 翼を やすめよ』
と、南吉の詩「墓碑銘」の書き出しが迎えてくれた。

 現代アート風に展示された南吉の世界。
自筆原稿をはじめ、書籍、童話のジオラマ模型が、
そっとその場にマッチしていた。
ここでも、南吉は大切にされていると思った。

 余分な解説など不要な展示だが、
その中の一つに私の目が惹かれた。
丸く縁取られた額に、こんな言葉が並んでいた。

 『ナフタリンの匂いのする着物は
  何かよいことがあるときにしか
  僕の家ではきられなかったので、
  僕の鼻は今でもナフタリンの匂いを
  幸福の匂いと思っている。』

 昭和12年6月7日(23才)の日記である。
 なんて繊細で素直な、柔らかな感性なんだろう。
こんな瑞々しさがほしいと思った。
 この一文に接しただけで、満たされている私がいた。

 帰り際、もしかしたらここでしか手に入らないのではと、
館長を長年務めた矢口栄氏著の
『南吉の詩が語る世界』を求めた。
 
 その本に、何十年も前、心を熱くした詩を二つ見つけた。

     貝 殻 

  かなしきときは
  貝殻鳴らそ。
  二つ合わせて息吹きをこめて。
  静かに鳴らそ、
  貝がらを。

  誰がその音を
  きかずとも、
  風にかなしく消えゆるとも、
  せめてじぶんを
  あたためん。

  静かに鳴らそ
  貝殻を。


     林 檎

  手もて撫づれば
  きゆるきゆると
  笑ふなり
  その肌はなめらかに
  しつとりとして
  わが指にからむなり
  陽にかざせば
  ぴかつと光るなり
  さびしくてならぬ日
  きまぐれに一つ買ひたれど
  まことにめでたし
   りんご 木の果
  詫びつつおもしろくなりて
  きゆるん きゆるんと
  笑はせていくなり
 
 2作とも、辛く、もの悲しい。
はかない程にきれいだとも思う。
 ひたすらに純粋なものを求めるこんな南吉に、
励まされるのは私だけだろうか。
 いや、そんなことよりも、南吉には、
半田の眺めと、半田の光りと、半田の匂いが一番あうと思った。

 さて最後は、公設の「北谷墓地」に眠る南吉の墓を訪ねた。
周囲と変わらない広さの墓であったが、
墓石は立派なものだった。お父上が建立したそうだ。

 墓前に立つと、色とりどりの綺麗な花が手向けられていた。
いつもお世話をしている方々がいらっしゃるとか。

 伺えたことの幸せ、作品との出会いに感謝等々、
深々と頭を垂れ、しばしの時間合掌をさせてもらった。
 「ここまで来てよかった。」

 帰り際、墓地の脇に、
ひっそりとあの六地蔵が並んでいた。

 また一つ、私の忘れ物が減った。




 雪解けの地面から今年も福寿草が
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南吉ワールド PART3  ~『疣(いぼ)』~

2015-09-04 22:00:48 | 文 学
 『南吉ワールド』と題し、このブログで新美南吉の著作から、
昨年10月18日には『てぶくろを買いに』『ごんぎつね』、
今年7月10日には『おじいさんのランプ』について、
私の想いを記した。

 今回は、『疣(いぼ)』を取り上げてみる。

 くり返しになるが、南吉は昭和18年3月22日、
30歳の若さで亡くなっている。
咽頭結核の悪化によるものだった。

 彼は、亡くなる年の1月8日に『狐』、
そして9日には『小さい太郎の悲しみ』、
16日に『疣(いぼ)』を書き上げている。
その後、18日に『天狗』を書き始めるものの、完結しないままとなった。

 わずか30年の間に、
童話110、小説60、詩600、短歌300、俳句400を残している。

 その中で、『いぼ』は、彼が書き上げた最後の作品になった。
書き始めてから、「4日もかかった。」という記述があるようだが、
病苦のためか、それとも試行錯誤のせいかは分からない。

 しかし、死の恐怖と闘いながらの執筆である。
体はボロボロで、喉の痛みも相当であったことだろう。
 最悪の状況下での執筆である。その精神力に、心が痛くなる。

 私は、若い頃に大枚を叩いて、『校正新美南吉全集』全12巻を
買い求め、今も書架を飾っている。
 恥ずかしいことだが、いまだその全てには目を通していない。
しかし、絶筆となった作品であったことは別に、
『いぼ』は、私の心を大きくつかんでいる。

 ある研究者が、南吉作品を心理型とストーリー型に分類している。
その中で、心理型に上げたのが、『いぼ』と『屁』である。
多くの作品がストーリー型であることをみると、
『いぼ』は異色と言える。

 確かに、この物語では、
いなかの子である兄・松吉と弟・杉作の
町へのコンプレックスが色濃く描かれている。
心理型と称されることに、納得がいく。

 物語から、兄弟のそんな思いをいくつか拾ってみる。


 『よいとまけーーそれは、いなかの人たちが、
家をたてるまえ、地がためをするとき、
重い大きなつちを上げおろしするのに力をあわせるため、
声をあわせてとなえる音頭です。それはいなかのことばです。
町の子どもである克巳にきかれるのは、はずかしいことばです。』

 
 「よいとまけ」=いなかのことば、それは、はずかしいことば。
松吉と杉作には、町の子どもの前でいなかのことばを遣うことにためらいがあった。


 『町にはいると、ふたりは、じぶんたちが、
きゅうにみすぼらしくなってしまったように思えました。
 これでは、ぼうしの徽章をみなくても、
山家から出てきたことはわかるでしょう。
≪略>きょろきょろが、ふたりともやめられないのでした。
 ふたりは、こころの中では、一つの不安を感じていました。
それは、町の子どもにつかまって、
いじめられやしないか、ということでした。
だから、ふたりはこころをはりつめ、びくびくし、
なるべく、子どものいないようなところをえらんでいきました。』


 強者=町の子どもから、いなかの子だとしていじめられはしないかと言った
弱者の不安感が、みすぼらしさにつながる。


 『「克巳ちゃん。」ということばが、
松吉ののどのところまで出てきました。
しかし、そこで、とまってしまいました。
克巳のあまりに町ふうなようすに対して、
じぶんたちのいなかくささが思い返されたのでした。』


 どこにも根拠のない、「町ふうなようす」と「いなかくささ」の対比意識が、
ためらいと言うネガティブな行動になってしまった。


 『松吉はわかりました。ーー克巳にとっては、
いなかで十日ばかりいっしょに遊んだ松吉や杉作は、
なんでもありゃしないんだと。
町の克巳の生活には、いなかとちがって、
いろんなことがあるので、それがあたりまえのことなんだと。』


 町の子どものドライな暮らしぶりが、いなかの子との大きな開きであり、
二人の諦めにつながっていた。


 いなかことばへの恥じらい、そして強者と弱者の認識、
さらには、『きょろきょろがやめられない』「いなかくささ」と
町の子どものドライさとの大差。
 これら、松吉と杉作の行動と心情を通した、
町へのコンプレックスが、『いぼ』の根幹となっている。

 私は、大人になってからこの物語を読んだ。
もし、少年時代に出会っていたなら、
どれだけ力強く感じ共感を得ていただろうか。勇気づけられただろうか。

 新美南吉は、よく『少年の孤独』を書いた作家と評される。

 人は、村から町へ、地方から都市へ、首都・東京へ、都心へと憧れる。
そして、誰もが自分の立ち位置に、コンプレックスを抱く。
 それは、松吉や杉作に限ったことでないと、南吉は説きたかったに違いない。

 付け加えるなら、自分の出生の環境だけでななく、
特性や能力、容姿とて同様だと、言及したかったのではなかろうか。
 そんな理解が、人の背中を押す力になると、私も思う。


 一方、南吉はこの物語を通して、もう一つ、
「どかァん-」という音を添えて、大きなメッセージを残している。

 松吉と杉作は、農揚げのあんころ餅の入った重箱をさげ、
夏休みになかよくなった、いとこの克巳に会えること、
おじさんおばさんから50銭のおだちんがもらえることに
胸膨らませ、町に向かった。

途中、杉作は、突然「どかァん-」と
とてつもない音で、「大砲を一発」うった。
 しかし、期待はことごとく失望に変わってしまった。

 『じぶんたちは、すっぽかされて、青坊主にされて帰るのだと思うと、
松吉は、日ぐれの風がきゅうに、
かりたての頭やえり首に、しみこむように感じられた。
 「どかァん。」
と、杉作がとつぜん、どなりました。』

 松吉の「なにか、おるでえ。」の問いに、
杉作は「ただ、大砲をうってみただけ。」と言う。

 『弟もじぶんのようにさびしいのです。
そこで松吉も、
「どかァん。」
と、一発、大砲をうちました。』

 町へ向かった、あの時の杉作の「どかァんー。」と、
帰り道の「どかァん。」の対比が、切ない思いに拍車をかけた。

そして、
『ふたりは、どかんどかんと大砲をぶっぱなしながら、
だんだん心をあかるくして、家の方へ帰って行きました。』
 何といじらしいのだろう。ただただ」胸がつまる。

 松吉は、こうも言う。
 『きょうのように、人にすっぽかされるというようなことは、
これから先、いくらでもあるにちがいない。
おれたちは、そんな悲しみになんべんあおうと、
平気な顔で通りこしていけばいいんだ。』

 病魔と闘い、命を削っても伝えた想いがここにある。
 私は、そんな辛抱強さをこれからも受け止めていきたいと思う。

 



市内の各自治会が取り組む 街角の花壇 今が一番きれい 
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あの日 啄木の短歌集に

2015-07-24 21:55:27 | 文 学
 伊達には、写実画家として高名な野田弘志先生のアトリエがある。
先生の発案で、国内外を代表する芸術家や文化人を招き、
質の高い芸術・文化に触れ、教養を高めることを目指した
市民グループによる組織がある。
 聞き慣れないのだが、『コレージュ・ド・ダテ』と言う。
「コレージュ・ド・フランス」は、フランスの最高学府を意味しており、
どうやらそこからの命名のようである。

 そのグループが先日、第11回公開講座として
『短歌に描くしぐさ 表情』と題して、
歌人・今野寿美氏を招いて講演会を行った。
 演題にある『短歌』と『しぐさ』の言葉に惹かれ、参加した。

 サロンのような会場には、30名前後の方が集まっていた。
今野先生は、わざわざレジメを準備してくださっていた。
 「こんなに沢山の方においで頂き」と、恐縮していたが、
それを聞いて赤面したのは、私だけではなかったと思う。

 レジメには、和泉式部、与謝野晶子、柳原白蓮、安永蕗子、
寺山修司、小野茂樹そして本人の歌が紹介されていた。
 いずれも、短歌に織り込まれた「しぐさ」が、
私の心を強く揺り動かした。
 3首、紹介する。

 
 泡だてて白き卵を嚥むときも卓に聖女のごときひだり掌   安永蕗子
   今野先生の解説にもあったが、『卓に聖女のごときひだり掌』とは、
   なんて清楚で詩的なしぐさだろう。心に潤いを取り戻した。


 海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり   寺山修司
   「海ってこんなに広いんだよ。」と、両手を広げる少年。
   映画のワンカットが、背景を伴って目に浮かんだ。
   清々しさを運んできてくれた。


 あの夏の数かぎりなきそしてまたたった一つの表情をせよ   小野茂樹
   今野先生は『表情をせよ』の解釈に疑問を投げていたが、
   いずれにしても、あの夏のワクワク感が堪らない。
   まだそんな憧れが私にもと思い起こした。


 講演が終わり、高台の駐車場に向かった。
ちょうど、噴火湾の方向が、広々と夕焼けに染まっていた。
 どこで学んだのだろうか、
歌は(目で)「読む」ものではなくて、
(声に出して)「詠む」ものだと気づいた。

 車内に入り、レジメを取り出した。
一人、声を出して、一首一首を口で追った。
31音にとじ込められた、短文詩の力に
私は圧倒された。

 朱色の空からきれいな交響曲が流れてきてほしかった。
急に、初めての短歌に心ざわめいた、13歳の私を思い出した。


 あの頃、家族6人で6畳2間の長屋に暮らしていた。
3人の兄姉は成人し、私は中1だった。
 手狭になった家を何とかしようと、
2つあった押し入れの1つに、
大工さんを入れ、2段ベットに改造した。

 私は、その下のベットの住人になった。
カーテンで遮ると一人占めの空間ができた。
 電気スタンドと小さなテーブルを入れた。
そこで勉強もすることになった。
 思いもよらない環境に、私は喜んだ。
自然と「よしっ!」と声が出て、意気込んだ。

 どんな思いつきがそうさせたのか、
あまりにも遠いことなので思い出せないが、
 貯めていた小遣いを持って、近所の本屋に行った。
 図書館で借りた本など、
一度も最後まで読んだことのない私だった。
 なのに、2段ベットの下でカーテンを閉じ、
本を読んでみたかったのだろう。

 本屋で手にとり、買い求めたのが、
書名は忘れたが、石川啄木の短歌集の文庫だった。
 1ページにある文字数が少なかったのが、
その本に決めた動機だったと思う。

 私はプラン通り、その本を手に、
まだ木の匂いがするベットの下段にもぐり込み、電気スタンドをつけた。
 最初に、目に飛び込んできた短歌が、

 東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる

               であった。

 いい知れない孤独感が、私の全てを包んだ。
13歳の少年だったが、共感していた。
『泣きぬれ』・『たはむる』の言葉が、心の奥まで浸みた。
何度も何度も読み返した。
 1首の短歌だったが、読むごとに瑞々しさを感じた。
情景が浮かんできた。勝手にドラマが想像できた。
 初めての体験だった。

 その後は、それこそ宝箱を開くようなワクワクした気持ちで、
1ページ1ページをめくった。
 すでにいくつかのまんが雑誌もあった。身近に子ども向けの本もあった。
毎日、テレビドラマも流れていた。時には映画館にも足を運んでいた。
 しかし、この啄木の短歌集から受けた高揚感は、初めてだった。

 2段ベットの下に閉じこもり、出てこない私に
「なにしてるの。」と、何度も母の声が飛んできた。
 そのたびに、現実の世界に呼び戻された。
それでも、私は再びページをめくり、啄木に夢中になった。

 文学と言っていいのだろう。
 私がその素晴らしさを知った最初の日だった。

 あの日、私を惹きつけて放さなかった啄木の短歌は、今も心にある。


 浅草の夜のにぎはひに
 まぎれ入り
 まぎれ出で来しさびしき心


 はたらけど
 はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
 ぢつと手を見る


 ある朝のかなしき夢のさめぎはに
 鼻に入り来し
 味噌を煮る香よ

 
 ふるさとの山に向ひて
 言うことなし
 ふるさとの山はありがたきかな


 潮かをる北の浜辺の
 砂山にかの浜薔薇(はまなす)よ
 今年も咲けるや


 アカシヤの街樾(なみき)にポプラに
 秋の風
 吹くがかなしと日記に残れり


 かなしきは小樽の町よ
 歌ふことなき人人の
 声の荒さよ

 しらじらと氷かがやき
 千鳥なく
 釧路の海の冬の月かな

 
 ゆゑもなく海が見たくて
 海に来ぬ
 こころ傷みてたへがたき日に



 昨年4月他界した、人気作家・渡辺淳一氏は、
啄木好きの理由として、
『真先にあげたいのは、啄木の歌のわかり易さである。』と言う。
そして彼は、
『目星しい歌は、みな三行に分けて記されている。
短歌を見て、初めに混乱するのは、五・七・五の区切りどころである。
これを平仮名などでだらだら続けられては往生する。
この点、啄木の歌は簡明で要をえている。』とも。
 だから、13歳の私でも理解が容易だったのだろう。

 そして、渡辺氏はこうも綴っている。
『あれ程、日常些事のことを苦もなく詠み、
酩酊感とともにリアリティをもたせ、
そっと人の世の重みを垣間見せるとは、どういう才能なのか。
………そしてさらに、死ぬまで視点を低く保ち続けたところが心憎い。』

 13歳、多感な少年時代の入り口で、
啄木の短歌集に出会えたこと、
それはずっと私の財産だった。今も変わりない。




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