ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

D I A R Y 1 ・ 2 月

2024-02-24 11:28:06 | つぶやき
  ① 1月 某日

 成人の日にドカ雪があった。
それまでの暖冬が、一気に真冬の景色に変わった。

 その後、2週間は日中も氷点下のままが多かった。
雪かきが必要な朝が、たびたびあった。
 厳しい寒さの日が続き、例年の冬に戻った感じで、
訳もなくホッとしていた。
 
 ところが、2日続けて急に気温が上昇した。
北海道全域が同じ、
テレビニュースはしきりに落雪に注意を呼びかけた。
 「雪解けが進みます。
屋根からの落雪に気をつけて下さい」
をくり返した。
 しかし、当地は暖かさで、
落雪と共に別の事態が発生した。

 大雪が降ると、住宅街の車道は、
市や委託業者の重機が除雪を行う。
 なのに、先日のドカ雪では、
除雪をやり残したままのところが多かった。
 我が家の前もそうだった。

 除雪しないまま車が往来をくり返したため、
路面は圧雪され、平らになった。

 その状態になると、例年同じことが必ず起きた。
路面の雪が急に解けると、ザックザック雪になるのだ。
 そのため最悪の場合、
車はハンドルをとられ、動けなくなるのだ。

 だから、「今からでも除雪をお願いします」。
1市民として、私は市役所にメールを送った。
 市からは、案の定無反応だった。

 そして、予測していた事態になってしまった。
2日間の暖かさで、ザックザック雪の車道には、
車輪の深いわだちができた。
 ハンドルが効かないまま、車はわだちに沿って、
のろのろ運転を強いられた。
 私も、車道から愛車を駐車場へ入れるのに、
そのわだちに難儀した。

 翌日の朝食時に、電話が鳴った。
「会長、市役所へ頼んでくれよ。
 俺の家だけでないんだ。
この道じゃ、隣近所みんな車出せなくて困ってるサ。
 頼むよ!
昨日、何回も市に電話したけど、
除雪に来ないサ。
 会長からも、頼んでくれないかな」。

 実は、そんな電話を私は心待っていた気がする。
市へ出向く口実ができた。
 「分かりました。
除雪してもらえるように、急いで陳情に行って来ます」。 

 朝食後、近隣地域を車で走りまわり、
道路状況の写真を撮った。
 そして、市役所の開庁を待って、
除雪の担当課へ出向いた。
 もう顔馴染みになった課内の面々に、
「お願いがあって」と口火を切った。
 
 写真を見せるまでもなかった。
今日中には、
全域の除雪を済ませる約束をしてくれた。

 午後、再び電話が鳴った。
「会長! 除雪車来たよ。
ありがとう。助かったわ」。

 そして、深夜に今季2回目のドカ雪になった。
『Good Timing』に、胸を撫でた。


  ② 2月 某日

 社会福祉協議会から研修会の案内が、
自治会長宛に届いた。
 講演「避難所運営における地域の役割について」
とあり、出席を決めた。

 会場には60人程度がいた。
講師は、市危機管理課長だった。

 最近は、どこでも誰でも、
パワーポイントを使いプロジェクターで、
スクリーンに文字などの画像を示しながら
講演するスタイルが定番になっている。

 今回も同様のスタイルだった。
講演内容は違っても、テンションは同じ感じ。
 それだけで私の興味、いつも半減した。
だからか、今回は心に残ったことが2つだけだった。 

 1つは、『正常性バイアス』と言う聞き慣れない言葉だ。
「この程度の雨なら、去年も降ったさ、大丈夫!」
 「え!津波? ここまで来ねぇって。大丈夫だ!」
と言った根拠もない安全への思い込みを言うらしい。

 この心理が、大災害に対する無視や過小評価につながり、
遂には逃げ遅れの原因になると講師は強調した。
 
 聞きながら、ふと3、11の翌朝を思い出した。

 あの日、私の学校は『帰宅困難者』の避難所になった。
校長として経験のない状況下で、
職員と力を合わせ150人以上の方を受け入れ、
不安と緊張の一夜を過ごした。

 翌朝、鉄道各社は次々と運転を再開した。
避難した方も次々と帰宅の途に着いた。

 ところが、若い夫婦2人だけは帰ろうとしなかった。
2人は、学校の近所から避難してきていた。
 帰宅しない理由を、
「またあんな大きな地震が来るかも、怖くて帰れない」
と言う。
 帰宅してもらうまでに長時間の説得が必要だった。
 
 講演を聴きながら、
「あの時の2人の心理は、『正常性バイアス』とは
真逆だったのでは」
と思った。  
 そして、災害時の心理状況の複雑さに想いを馳せながら、
パワーポイントのスクリーンを呆然と見続けた。

 さて、もう1つは段ボールベッドだ。  
今や、避難所に欠かせないアイテムになった物だ。
 市危機管理課は、訓練や研修会のたびに、
このベッドの作成体験を企画する。
 今回も、出席者数人に体験させ、
私らはそれを見学した。

 講演の最後に課長は訊いた。
「このベッドはいくらすると思いますか」
 私は、「2000円と思う方?」に胸を張って挙手をした。
しかし、「15000円以上と思う方」が正解だった。

 人それぞれ、価値観に違いがあっていい。
しかし、どんなに強靱でも段ボールだけでできたベッドである。
 その高額に驚いたのは私だけだろうか。

 その上、このベットを市は60数個備蓄していると言う。
その少なさに唖然としたが、課長は堂々と
「少ないけど、近隣の市などと協定を結び、
災害時には借りることができます」
 「近隣の市はどれだけ備蓄しているんですか?」
思い切って質問しようした。
 不安をあおるだけになる気がして、
止めてしまった。 




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気がかりな 老後

2024-02-10 11:02:35 | 思い
 今年の正月は、能登半島大地震の、
悲惨な映像を見ながら過ぎた。
 「誰も皆、同じ!」だったと思う。

 一瞬にして崩壊した家屋、
家中に散乱した家財道具。
 そして、避難所の冷えと、
不安に耐える孤立地区の人々。
 どれも胸を締め付け、耐えがたい。

 「今できることは?」と問い、
買い物で渡された釣り銭の5百円硬貨を、
コツコツとへそくりしていた袋を、
丸ごと募金箱に入れてはみたが・・・。

 そんな七草がゆまでの日々だったが、
例年通り、沢山の年賀状が届いた。

 その時だけはテレビを切り、
年に1度の便りに、ゆっくりと目を通した。
 1人1人の近況と共に、その人らしい筆跡が、
私に精気を届けてくれた。

 しかし、最近は「年賀状じまい」という用語が一般化した。
私にも「今年限りで年賀状を失礼させてもらいます」の
添え書きが増えた。
 併せて、他界した方々も・・・。

 だから、当地で暮らし始めた年は、
300枚を越えていたものが、
12年が過ぎた今年は、250枚にも満たなくなった。

 今年の賀状に、重い気持ちになったものが2枚あった。
いずれも、教職に就いてすぐの頃から、
賀状を交換していた方である。

 1人は、私より5歳上の先輩で、人当たりがよく、
見習う所の多い人柄の方だった。
 宛名にはいつも私たち2人の名が併記され、
彼らしいオリジナルの賀状には、
欠かさず温かなひと言が添えられていた。

 しかし、今年は違った。
手書きされた宛名は、私の氏名だけ。
 しかも、「様」がなかった。
その上、既製の年賀はがきで、どこにも彼の言葉はなかった。
 差し出し人の氏名だけが、片隅に小さくあった。
別人からの賀状かと見間違いそうだった。
 認知症を予感させた。
 
 もう1人の賀状は、
お年玉年賀はがきの抽選番号発表後に届いた。
 そこには、新年の言葉と共に、
こんな近況が書かれていた。

 「最近、認知症の症状が出始めました。
でも、今のところ普通に生活できます」

 どんなに遅くても、私の年賀状は5日までには届いているはず。
それからの返礼賀状にしては、あまりにも遅い。
 確か、彼はひとり暮らし。
認知症の発症と共に『普通に生活できます』が、
不安を増幅させた。

 さて、2通の年賀状もそうだが、
老いとともに気がかりなのが「認知症」である。
 私の日常にあった2つを記しておく。
 
  ≪その1≫
 8週おきだが、眼科に通院している。
2種類の点眼薬を、1日3回さすことが日課である。 
 先日も予約時間に、残った薬を持って、
早くて2時間を要する医院へ行った。

 待合室は、検査と診察を待つ人でいっぱいだった。
2回に分けた検査と診察、
その後会計と処方箋がいつものパターンだ。

 とにかく、待って待ってが続く。
じっと耐える時間が続く。
 「致し方ない!」。

 私の前の長椅子に、
杖を持った老人と付き添いらしい女性が座っていた。
 私より一足早く検査に呼ばれ、その後が私の順番だった。

 長い待ち時間が続いた。
前の2人が、いつも視野に入っていた。
 2人は全く言葉を交わさず、ジッとしていた。

 ようやく指名があり、2人は診察室へ行った。
間もなく、私は診察室前の中待合室に呼ばれ移動した。

 席に着くと、診察室のやりとりが漏れてきた。
まず驚いたのは、
言葉を交わさない女性は奥さんだったこと。

 そして、医師は前回処方した4本の点眼薬が、
全然使われてなかったことにビックリし、
問いただしていた。

 ご主人は「忘れていた」と弱々しく言うだけ。
そして、奥さんは
「この人の薬なんて私は知りません」
と、何度もくり返した。

 医師は、薬を使わないと目は良くならない。
だから「毎日、目薬をさして下さい」と説明する。
 2人は無言のまま・・・。

 堂々巡りが何度かあり時間が過ぎ、
とうとう医師は、 
 「もうこの4本は古いから、これは捨てます。
新しいのを出しますから、
それを朝と晩、使ってください。
 そうしないと治りませんからね」。
無言のまま2人は、
看護師に付き添われて診察室を出た。

 その後、どうやって会計を済ませ、薬を貰ったのか。
そして、どうやってどこへ帰宅したのか。
 診察を受けていた私には全く分からない。

 ただ、帰宅後何度もため息が出た。
認知症かも知れない夫婦に、
ずっと気持ちは沈んだままだった。

  ≪その2≫
 自治会長になってからは人目が気になり、
2人でスーパーへ行くことが減った。

 その日は、午後の買い物客が少ない時間に
久しぶりに私も行った。

 醤油や天ぷら油、お酒など重たい物も買い、
ワゴンいっぱいに買い込み、レジに並んだ。

 私たちの前に、同世代の女性がいた。
買い物カゴの半分くらいに品物が入ってた。
 その女性の番になった。

 買い物カゴをレジのカウンターに置いて、
女性が言った最初のひと言に驚いた。

 レジの店員さんに、
カゴに入っていたお菓子の小袋を指さし、
「これ、要らない!」
 「エッ、要らないって! 
キャンセルですか?」
 店員さんは、目を丸くして訊いた。

 「そう、要らない!」
店員さんは、不機嫌な顔で、
カゴからお菓子の小袋を取り出し、別の棚へ置いた。
 すると
「これも、要らない」
 次は、ソーセージの小袋を指した。
黙ったまま店員さんは、それも別の棚に置き、
レジをすすめた。

 今度は『R-1ヨーグルト』の空き瓶が
カゴから出てきた。
 「これ、ゴミですか?」
店員さんは、空き瓶を女性の前で振って見せた。 

 「そう、ゴミ!」
「どうしたんですか?」
 「飲んだ!」
「お店のですよね」
 「そう、お金払うから!」

 店員さんは、もうあきれ顔。
でも、気を取りなおし、空き瓶を読み取り機に通した。
 「これからは、支払いを済ませてから飲んでくださいね」。
女性は、表情を変えることもなく、
会計の金額を店員さんに渡し、レジを後にした。

 経験のない事態に、あっけにとられた。
しばらく思考が停止したまま、押し黙った。
 だんだんと女性の行動が、尋常でないことだけは分かった。
「認知症なのかなぁ?」
 私の問いに家内も同意した。




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                 ※次回のブログ更新予定は2月24日(土)です
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