ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

書き残し いろいろ

2020-12-26 14:38:13 | 出会い
 年末だからと、数年ぶりに書棚の拭き掃除をした。
すると、忘れかけていた雑誌や小冊子から、
私が執筆したものが出てきた。
 いくつかを転記し、今年を締めくくることにした。


  ① 某季刊教育誌に掲載  ~寄稿随筆から~
 
      生きる原点

 H氏は私と顔を会わすと必ず、
「先生、ぜひU村に足を運んでください。」
と言われます。
 その村は、皆様には馴染みがないかと思いますが、
N県にある「農村」と言っていいかと思います。

 この村に、私が以前勤務していたS小学校の卒業生H氏が、
『O山荘』という別邸を設けているのです。

 H氏はとうに70才を越えた方ですが、
H氏をはじめとする当時のS小の児童は、
終戦間近の昭和19年ころU村に学童疎開をしました。
 それが縁で、S小学校は村の小学校と姉妹校提携をして、
今も盛んに学校間交流をしております。

 この交流が決して絶えることがないように、
そして学童疎開という悲劇が風化することのないように、
そんな願いを込めて、10年以上前にH氏は私財を投じて
U村の旧農家を買い取り、山荘を開きました。

 私は、H氏にお会いするたびに、小学校6年生・12才の体験を、
昨日のことのように語る姿にふれ、
H氏の生きる原点が学童疎開と言う体験にあることを
思い知らされてきました。

 人間は誰でも、それぞれの長い人生の中で、
その人の生き方を決定づけるような出来事や事柄に出会うものです。
 それを私はその人の生きる原点と言ってきました。

 H氏のような強烈な出来事ではなくても、
学校生活を通してそんな原点を持つことになる子どもも
きっといると思います。

 そう考えると、私たちの1つ1つの行為の重大さに、
身の引き締まる思いがします。 


  ② 某月刊教育雑誌に掲載  ~子どもに語る例話(小学校向け)から

   くまの子ウーフは、何でできているの?

 神沢利子さんが書いた「くまの子ウーフ」のお話で、
私が一番好きなところを紹介しますね。

 ウーフは、毎朝、目をさますと決まってニワトリ小屋へ行くんです。
するとめんどりが必ず卵を一個ぽんと産むんです。
 翌日また行くと、また卵を一個産むんです。

 そんな朝をくり返しているある日、ウーフは大発見をするんです。

 「そうか、めんどりは、毎朝毎朝、卵を一個産むということは、
あのめんどりの体の中は卵だらけ、卵でいっぱいなんだ。
 つまり、めんどりの体は卵でできているんだ。」
と、ウーフは考えたのです。

 それで、そのことをウーフは、
友だちのきつねのツネタ君に話すんですね。
 「ツネタ君、めんどりはなんでできているか知っている?」
と、ききます。

 ツネタ君が、「さあ」と言うと、ウーフは、胸を張って、
「めんどりの体は、卵でできているんだよ。
だって、毎朝毎朝、卵を産むんだもの。
あの体は卵でできているに決まっている」
と、言うんです。

 そこで、ツネタ君は、
「じゃウーフ、お前は毎朝何をするんだ?」
 「うん、ぼくはオシッコ!」
「じゃ、ウーフはオシッコでできているのか?」
 「えっ。ぼくはオシッコでできているの。そ、そんなのいやだ!」

 ウーフは泣きながら、ツネタ君のところから逃げだすんです。
そして、坂道でころんでしまうんです。
 すると、足から血が出るんです。
目からは涙がいっぱい流れ出すんです。

 そこで、ウーフは、
「あっ、そうか。ぼくはオシッコだけじゃない。
血も涙も出るんだ。」
と、気がつくんです。
 そして、ウーフは泣くのをやめて、おうちに帰ります。

 おうちに着くと、ウーフはお母さんにきくんです。
「お母さん、ウーフはなんでできているか知っている?」。
 とてもやさしいお母さんは、
「さあて、ウーフはいったい何でできているのでしょうね」
と、答えます。

 そこで、ウーフは、
「お母さん、ぼくはね、ぼくでできているんだよ」
と、胸を張るんですね。

 私は、このウーフのお話をよく思い出します。
だって、ウーフはすばらしいと思いませんか。
 ウーフはいろいろと間違った考えを持ちます。
だけど、ウーフはそのときそのとき、
しっかりと自分の考えを持つでしょう。

 そして、間違いに気づくとまた新しい考えを持つ。
そうやって、本当のこと、真実にたどりつくんですね。
 皆さんが毎日している学習も、
きっとそういうものだと私は思います。


  ③ 某児童演劇協会パンフレット ~演劇教室推選文から

    子ども達の 期待に
 
 いつもは体育学習の場、朝会や集会、
入学式や卒業式などの各種行事の会場である体育館。

 そこが、その日は劇場に変わる。
ある時は、教室の自分の椅子を持って入場、
あるいは、体育用のマットが座席。

 でも、そこにはいつもとは違う特別な空気が流れている。
どの子もそれを敏感に感じ取る。

 私は、いつもその会場に、
子ども達全員が入場を済ませた頃合いを
見計らって入ることにしている。
 まだ静まりかえる前の子ども達のざわめきが、
そこにはある。
 朝会や児童集会のそれとは
一味違う子ども達のざわめきを感じるのは、
私だけだろうか。

 年に1回きりの演劇教室。
それは、子どもにとって特別な時間なはず。

 何が始まるのだろうと言った期待感。
いつも「できた」「分かった」「やりなさい」「しなけれれば」
と言った学校の時間と生活の中で、そこから解き放され、
今からは目の前で始まる人形劇や影絵劇、お芝居に、
自分の感情を泳がせることが許される。

 面白かったら笑えばいい。
悲しければ涙すればいい。
 理不尽には怒ればいい。

 その期待感が、いつもの上滑りのざわめきとは違った、
どこか落ち着きのあるしっかりとしたざわめきとして、
私の耳と心に響いてくる。

 これこそが演劇教室のあるがままの幕開け前。
私は、そこにこそ演劇教室の意義が、
全て凝縮しているように思える。
 教師はその期待感を感じ取り、
この教育活動をさらに発展継続するのを、
再認識しなければならない。

 また演劇人には、
そんな子ども達にいつも応える舞台を、
提供し続けてほしいと切望している。




  すごい降雪に ジューンベリーが 寒そう
               ※次回更新予定は 1月 9日(土)です
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コロナ一色だけど 特記

2020-12-19 18:08:12 | 思い
 ▼ 各地から大雪の知らせが聞こえてくる。
1ヶ月位前から病院クラスターで、頻繁に取り上げられている旭川だが、
そこに住む義弟から夕方、家内にメールがあった。

 「雪が降り積もり、今日は家の前を3回も雪かきでした。
老体にはこたえます・・・」。

 伊達は同じ北海道でも雪の少ない所だが、
それでも、4日連続で朝の雪かきだった。
 と言いつつ、申し訳ないが、わずか数センチの積雪だ。
老体にこたえる程ではない。

 それにしても、コロナだ。
北海道では、札幌の感染拡大が、
今、道内各地に広がっている。
 ついに伊達にも、その足音が聞こえてきた。

 冬本番だけでも、行動が制限されるのに、
その上、コロナ禍だ。
 外出しない日が、ずっと続きそうだ。

 2階の自室に巣ごもりする時間が、
益々多くなるだろう。

 さて、こんな時を好機にできるかどうか。
問われているように思う。

 ここ数ヶ月、友人らから3冊も出版本が届いた。
「『緊急事態宣言』で思いもしない時間ができたので・・」。
 中には、出版の動機について、そんな添え書きのものも・・・。

 私は今冬をどう過ごすか。
まだ定かではない。
 人生、永遠な訳じゃない。
「いつかやろう!」は、そろそろ通用しない年齢だ。

 「わかっている!」と呟きつつ、さてさて・・・。
ただ淡々と春を待つ日々にはしたくない。

 ▼ なんやかやと思いつつ、今年も残り半月を切った。
1年を振り返ると、世界中みんなコロナ一色に違いない。

 私の今年もその色が濃いが、2つの事を特記したい。
1つは、1月末のA氏逝去に心揺れていたことだ。

 いつもはるか先にいた方だった。
決して越せないと思いつつ、
それでも遠い彼の背中を追っていた。

 『「ツカちゃんもやるねぇ!」。
冗談半分でもいいから、
いつか彼からそんな声が聞けたら・・』。

 そんな想いが、ずっと心に染みついていた。
これからは、どう頑張ってもその願いは叶わない。

 気づくと、日常の何気ない瞬間に、
ふっと寂しさが押し寄せてきた。
 「慣れだよ!慣れ!慣れること!」。
何度も何度も言葉にしてみた。

 今、ようやく、
小さな一文を書き上げても、
「ツカちゃんもやるねぇ!」を期待しなくなってきた。
  
 ▼ 14年も前の夏に、
詩集『海と風と凧と』を出版した。  

 勤務校の最寄り駅近くの書店や、
自宅そばの本屋、千葉市内のデパートの書籍売場で、
しばらく平積み販売をしてくれた。
 売れ行きはともかく、出版祝いの声がたくさん届いた。

 出版からしばらくしてからだ。
同じ区内校長らの懇親会でのことだ。 
 当時、校長会長は女性だった。
その先生が、私の詩集出版の紹介をしてくれた。
 そして、詩集の一編を朗読した。

 実は、それまで私が書いたものを、
私以外の人が声にしたのを聞いたことがなかった。

 やや高い澄んだ声で、彼女は読み始めた。
静かに耳を傾ける校長らに、ややテレながら私も聴き入った。

 途中から、胸が高鳴った。体中が熱くなった。
その朗読は、私のイメージを越えていた。
 予想とは違うトーンで、彼女はその詩を声にしていた。
私の想いよりも、ずっとずっと素敵な情景が広がった。
 別物の詩のように思えた。
  
 それ以来、残念だが、私の書いたものを、
誰かの声で聞くことはなかった。

 ところが、家内が言い出した。
朗読ボランティアのサークルで、勉強会があると言う。
 どうやらそこでメンバー1人1人が、朗読を披露するらしい。
「私、あなたのエッセイを読もうと思うの。いいかしら」。

 家内が読みたいと言ったのは、
私の思い出が詰まった『スタートライン』だった。
 どう朗読するか、興味があった。
 
 私が自室に籠もると、
居間から練習する声が時折聞こえた。
 でも、一度も私に聞かせることなく、
家内は、その勉強会へ行った。

 「全然だめ、うまく読めなかった」。
帰宅するなり、家内は何度も言った。
 そして、「聞いてみる」と、
ボイスレコーダーをテーブルに置いた。

 聞き慣れた声が、静かに私の言葉を語っていた。
私が思い描こうとしたことよりももっと、
その声は豊かにその場を伝えていた。

 聞きながら、新しいエネルギーを受け取っていた。
 
 今年の特記2つ目である。
そのエッセイを転記しておく。

  ◇    ◇    ◇    ◇    ◇  

      スタートライン

 昭和46年3月、北国の春は雪解けから始まります。
しかし、その年は春が遅く、根雪がまだ窓辺をおおいつくし、
やわらかな春の陽差しを遮っていました。

 私は、なんとか大学を卒業し、
教員として東京へ向かう準備をしていました。

 高校生の修学旅行と教員採用試験のために、
それまでに3度程上京したことはありました。
 しかし、東京での暮らしには、ただ不安だけで心がいっぱいでした。

 それまで、東京での暮らしなど考えてもみませんでした。
東京は西も東もわかりませんでした。

 北海道の山深い小さな村の小学校の先生を夢見ていた私にとって、
教員の第一歩は、あまりにも違いすぎるものでした。
父が、「自分の生まれ育った土地で先生をやってこそ、
本当の教育ができるのだ。」と、
常々私に聞かせていました。
 それだけに、東京の教壇に立つことに、
私は一種のおびえさえ持っていたのでした。

 母は、そんな私に、わざわざ綿を打ち直して、
新しい布団を一組作ってくれました。
「北海道のような厚くて重い布団は、もういらないから」
と、誰から聞いてきたのか、
それまでの布団より薄くて軽いものを作りました。

 まだ、東京での住まいが決まっていなかった私は、
その布団を赴任先の小学校に送りました。

 東京へ出発する数日前、
私は父に呼ばれました。
 丸いちゃぶ台をはさんで対座した私に父は、
茶封筒に3万円のお金を入れて差し出しました。

 「父さんが渉にわたす最後のお金だ。
後は立派な先生になって、
自分の働いたお金で暮らしていきなさい。」
父はそれだけ言いました。

私は、自分の心の内を一言も言わず、
ただ深々と頭をさげ、茶封筒を受け取りました。

あれは、私にとって、親との別れの儀式だったのかも知れません。
何故か、涙がいつまでもいつまでも止まりませんでした。

 出発の日、姉1人が駅まで見送りに来てくれました。
私は、駅の小さな待合所で、
ゴム長靴から、
姉がお祝いにと買ってくれた真新しい黒い革靴に履き替えました。

 改札口で、姉に「じゃ・・」と精一杯無理をして笑顔を作った私は、
それから1度も振り返らず、一歩一歩確かな足取りで、
プラットホームに向かうつもりでした。

 背中の方から、「いい先生になんなさい。」と、
それこそとてもやさしい姉の声がとんできました。
 目の前の階段がにわかににじんでしまい、
私は歩くことができなくなってしまいました。

 姉に背を向けたまま、
何度も「うん、うん」とうなずいていたことを
忘れることができません。

 毎年おとずれる東京の3月は、
いつも明るくすがすがしい光につつまれています。
 しかし、私の心の中の3月は、いつも昭和46年に戻ってしまうのです。
そして、両親や兄姉の温かさを思い出し、
「ねえ、俺、ちょっとはいい先生になったかな。」
と、そっと北の空に尋ねてしまうのです。

  ◇    ◇    ◇    ◇    ◇



     嘉 右 衛 門 坂 も 雪 化 粧
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寛 容 と 不 寛 容 の は ざ ま

2020-12-12 14:55:54 | 思い
 ▼ 最初に、私の教育エッセイ『優しくなければ』の一編を転記する。

  *    *    *    *    *  
                         
     不  寛  容

 もう何年も前に目を引いた記事です。
しつけについての特集で、『不寛容』の見出しで書かれていましたが、
日本は子供のしつけについて、
あまりにも口うるさいのではないかと言う問題提起でした。

 一例として、バスの中で子供が楽しく歌ったり踊ったりしている。
そんな時、私たちは当然のように
「まわりの人の迷惑になるから」
と止めさせるのではないでしょうか。

 しかし、地中海のマルタでそんな光景に出会うと、
大人たちは子供に「もっとやれ」とばかりに、
はやしたてるのだそうです。

 民俗性や文化の違いがあり、
それを即、受け入れることはできません。
 しかし、私たち大人に、子供は飛び回るもの、
はしゃぐものと言った認識が薄れているのでは……。

 「子供だからしょうがない!」と言う寛容の心が、
もっと必要ではないでしょうかというものでした。

  *    *    *    *    *

 ▼ 1か月程前になる。
ゴルフからの帰りのことだ。

 愛車で、広い畑と畑にはさまれた真っ直ぐな道を走っていた。
陽差しが次第に西へ傾きかけ、
道端のススキが銀色に光っている。

 その歩道を、ランドセルを背負った少年3人が、
走りながら下校していた。
 何やら声を張り上げ、前の子を追っている。
3人の長い影も、躍動していた。

 しばらく行くと、今度は、
同じくランドセルを背負った少年が、1人だった。
 やや背を前かがみにし、ゆっくりと歩いている。
その長い影が、やけに物静かで気になった。

 この時に限らないが、下校する子供の姿によく目が行く。
そのたびに、ランドセルをゆらしながら、
かけ足する子供の姿に、
自然と気持ちが明るくなった。

 それに比べ、重たそうにランドセルを背負い、
1人で淡々と道を行く子供に出会うと、
物寂しく、つい不安になってしまうのだ。

 きっと『安全な暮らし』からすると、
淡々と歩く方が、安心だろう。
 しかし、思わずかけ足をする姿には、
子供らしさがあふれているように映り、安らぎを覚えるのだ

 しかし、現職だった頃の私には、そんな寛容さがなかった。
『廊下は静かに歩きましょう』。
 そんな標語を大文字にし、
校舎内のいたるところに掲示した。

 そして、不寛容さを貫き、
つい廊下を走ってしまう子をみつけると、
その場で厳しく叱った。

 ▼ 10月に国勢調査があった。
市役所から依頼があり、その調査員を引く受けた。

 担当は百数十軒の世帯。
地図をたよりに下調べをしてから、
一軒一軒を訪問し、調査をお願いして回った。

 5年に一度のこの調査を、
よく理解している方ばかりではなかった。
 
 調査書類を渡してから、回答方法を説明する。
その後、世帯の代表者名と人数を聞き取るのだが、
すんなりと教えてもらえない事がしばしばあった。

 個人情報への警戒感がそうさせるのだろう。
ある世帯では、インターホン越しに国勢調査の役割等を、
くりかえし説明しても理解が得られず、不審者扱いをされた。
 しかし、「これも想定されていたこと!」。
 
 ところが、調査依頼を始めて3日目だった。
そのお宅を訪ねた時、ご主人は、丁度、家庭菜園の手入れをしていた。
 作業の手を止めて、調査書類を受け取り、
私からの一連の説明も静かに聞いてくれた、
 そして、世帯主名と人数を聞き取った。
その直後だ。

 「これ、いつからやってるんだ。」
「訪問ですか。3日前からですが・・。」
 「3日も前からなのに、随分遅いじゃないか。
早くもって来いよ。」
 ご主人の声は、やや尖っていた。

 私は、その勢いと予期しなかった言葉に驚き、
「それはそれは、失礼しました」。
 軽く頭をさげ、その場を去った。

 当然、不快感が残った。
それ以上に、随分と寛大な対応の私であったことに安堵し、
気持ちを切替えて、次の家へと訪問を急いだ。

 そして、翌日の夕暮れ時だ。
同じ通りで、留守だったお宅に依頼へ行った。

 「早くもって来いよ」のお宅前を通った。
たまたま玄関からあのご主人が出てきた。
 すぐに、私を呼び止めた。

 「まだ、配っているの?」
「はい、留守の所があるもんですから・・。」
 できるだけ明るい声で応じながら、
またクレームかと身構えた。

 「丁度よかった。
俺さ、昨日変なことを言ってしまった。
 沢山の家を回るんだから、何日もかかるのに、
いや、済まなかった。」

 ご主人は、軽く頭をさげ、静かな表情で私を見た。
そして、「言ってから、気づいてさ・・。今、会えてよかったよ。」
とも。

 「いえ、いえ・・、そんな・・。」
その場を後にしながら、
ご主人の寛大さに思いを馳せていた。

 ▼ 近隣の町の大きな病院でコロナのクラスターが発生した。 
早速、そこの町長さんがコメントを出した。

 その一節は、コロナに感染した入院患者と病院関係者への、
差別や偏見への注意喚起であった。

 伊達も同じだが、都会とは違う。
うわさの伝播は早いに違いない。
 それだけに、差別や偏見には大きな警戒感がいるのだろう。

 そんな風潮にため息しながら、
コロナに見まわれた方々へのあの寛大さは、
どこへいったのだろうと思った。

 ダイヤモンド・プリンセス号の濃厚接触者が
房総の三日月ホテルで2週間の隔離生活に入った。

 あの時、ホテル前の砂浜で大漁旗を振り、
エールを送った人たちがいた。
 
 同じ頃、コロナで逼迫する病院前に、
応援の大看板メッセージが並んだ。

 確かに今は、感染拡大を防ぐことが重要だろう。
だから、一人一人が日常的に感染防止に努めなければならない。
 
 でも、大漁旗を振ろうと言って欲しい。
応援の大看板を作ろうと呼びかけて欲しい。
 そうやって、みんなでコロナ禍を越えて行けたらいい。
 



   越冬するオオハクチョウ
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私 『楽書きの会』同人 (3)

2020-12-05 11:12:15 | 思い
 昨年の夏、『楽書きの会』に加えてもらった。
以来、2,3か月間隔で、私の随筆が、
地元紙「室蘭民報」の文化欄に掲載されている。

 それだけで嬉しいのに、
掲載された日は朝からLINEメールがあったり、
思いがけない反響が届いたりする。

 6月に掲載された『コロナ禍の春ラン』(6月27日ブログに転記)については、
数日して、飲食店をしている兄から珍しく電話があった。

 「俺だ。民報、読んだぞ。
俺が読んでも、いやぁ、良かったわ。
 店で働いているみんなも、褒めてた。
すごくいいって。」

 真っ直ぐな賛辞に、返す言葉に照れた。
すると、すかさず電話は義姉に変わった。
 年相応に老け、体調を崩し気味だったが、
この日は張りのある声だった。
 
 「春が来ると、本当に嬉しいものね。
民報の渉チャンの文で、一番よかったわ。
 今までのより、よく分かったもの。」

 私の返答など聞かず、義姉は勢いよく続けた。
「私ね、娘時代に、よく本を読んでいたの。
あの頃、いつか何か書きたいと思っていたの。
 すっかり忘れていたけど、思い出したの。
ありがとう」。

 「本が好きだったですか。
それは、凄い・・・。」
 そんな私の声など聞こえなかったのか、
言いたいことを言い終えたらしく義姉は、受話器を下ろした。

 電話が切れるまで、わずかな時間があった。
「お母さん、話せて、良かったね!」。
 一緒に店で働く娘の明るい声が、小さく聞こえて切れた。

 思いもしない、時間だった。
小さな一文が、こんな広がり方をした。
 静かに満たされていた。

 そして、もう1つ。
 
 1か月程前のことだ。
「ねぇ、塚原さんって、
室蘭民報に何か書いているの?」。
 ご近所のパークゴルフ仲間の奥さんから、
月例会の会場で訊かれた。

 「時々、載せてもらっているけど・・。
どうかした?」。

「やっぱりそうだったのね。
あのね、私の友だちが塚原さんって知ってるって言うから、
知ってるけど、どうしたのって訊いたの。

 そうしたら、民報の『大手門』を毎回読んでいて、
すっかり塚原さんのフアンになったんだって。」

 その日、パークゴルフのコースは雲の上みたいで、
ずっとフワフワと歩きながら、ボールを追っていた。

 6月27日の「私『楽書きの会』同人≪後≫」に続き、2編を転記する。 

 ◇    ◇    ◇

     花壇のお裾分け           

 団地やマンションでの暮らしが長かった。
その上、草花への関心が薄い。
 だから、自宅の庭に花壇なんて思いもしなかった。

 ところが、この地に居を構える時、
「手間のかからない花壇にしますから・・」。
 業者のそんな勧めに従うことにした。
造ってもらったのは、北の風土にあった宿根草の庭だ。

 季節ごとに咲く花に、徐々に興味を持った。
やがて雑草が気になり、抜き始めた。
 葉に害虫がつくと、殺虫剤を買いに走った。

 雪融けと共に芽を出す花たちなのだが、
年によってその勢いに違いがあった。
 小さな驚きだった。

 今春は『アルケミラ』が特に力強い。
沢山の花を咲かせた。
 その花は、菜の花に似ているが、
それよりもやや黄緑色で、小ぶりだ。
 そんな可愛い花が一斉に開花し、花壇が華やいだ。

 ある朝、私は園芸用のハサミを片手に花壇へ入った。
それまで、切り花をした経験がなかった。

 実は、曲がりなりにも、我が家には小さな仏壇がある。
位牌分けをしてもらった両親に、
毎朝手を合わせるのを、日課の1つにしている。
 いつもは買い物ついでに仏花を求め、それを供えた。

 でも、この日、アルケミラを仏花にと思い立った。
両親に、この時季の花壇のお裾分けがしたくなったのだ。

 可憐に黄色く咲く茎にハサミを入れた。
1本また1本・・。
 「はじめて花を摘んだ!」。

 7本程を片手に束ね、かざしてみた。
朝の日差しがよく似合った。
 「あらぁ、キレイね!」
母は、きっとそう言ってくれるに違いない。

       <令和2年9月5日(土) 掲載>

  ◇    ◇    ◇    ◇

    今春・『愛の巣劇場』

 陽気に誘われ早朝散歩に出た。
近所のご主人が庭の手入れをしていた。
 「最近、カラスがうるさいね」。
それが挨拶替わりだった。

 確かに、朝から大声を張り上げ鳴いている。
小鳥のさえずりとは違い耳障りだ。
 でも、いつもの春と思い直した。

 翌日、2階にある私の部屋から見える電柱に、
カラスの巣があるのに気づいた。
 これまた年中行事だが、
数日後、高所作業車が出動し、その巣を撤去した。

 それで今年は終わらなかった。
翌朝、いつも以上にカラスの鳴き声がする。
 小枝をくわえたカラスがしきりに飛び交い、
電柱の梁に止まり、
そこで向きを変えたりしていた。
 2日後、撤去前と変わらない巣ができた。

 その後も、しばしばカラスは飛来し、
いつもの声で鳴いていた。
 案の定、再び高所作業車が来た。
時間をかけて、巣を取り除いた。
 巣の形跡は全く無くなった。

 それから間もなくして、
やけに甲高く鳴き交わす声がする。
 2階の窓から様子を見た。
代わる代わるカラスが来た。
 巣のあった梁や近くの電線に止まり、
次々と声を張り上げた。
 だが、その声も姿も次第に消えた。

 ところが、巣のあったすぐそばの電線に、
2羽のカラスが並んで止まっていた。
 鳴き声などない。風もない。
空だけが青かった。

 2羽は次第に近づき、
寄り添うようにしながら、
何度も何度もクチバシを交互に合わせた。
 時には、そのクチバシで相手の羽をなでた。
一方はその行為を受け入れ動こうとしない。

 2羽は、巣を失った悲しみに耐えているようだった。
巣には、すでに産み落とした卵があったのかも知れない。
 その落胆を互いに優しく慰め合っていた。
私の目にはそう映った。

 2羽の仕草は30分程続き、
やがて1羽が電線から離れた。
 もう1羽がそれを追った。
以来、電柱にカラスを見ることはない。

 春の陽気に包まれながら、
思いがけない『愛の巣劇場』を見た。
 熱いものがこみ上げていた。
 
       <令和2年11月21日(土) 掲載>



   ずっと 芝生広場は 緑色
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