ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

ゴ ル フ あ れ こ れ

2020-08-29 17:58:18 | あの頃
 ▼ 自己紹介の趣味欄には、
『マラソン、ゴルフ』と書いている。
 この年齢でも、体が動く。
健康でいることがありがたい。

 さて、そのゴルフであるが、
40歳代後半から始めた。
 まもなくキャリア30年になろうとしている。
いっこうに上達しない。
 それでも、ゴルフの楽しさは色あせない。

 今は、月に数回、家内と二人だけのラウンドだが、
毎回、一打一打に一喜一憂し、
その日の夕食は、反省で盛り上がる。

 大好きなゴルフから、いくつか話題を拾ってみる。

 ▼ コースデビューしてから、2、3年が過ぎた頃だ。
ようやくゴルフの楽しさを感じるようになっていた。
 時々、弧を描いて遠くまでボールが飛んだ。
その爽快感が、たまらなかった。

 夏休み、お盆の帰省の時のことだ。
義兄がゴルフに夢中だと聞いていた。
 「一緒にまわりませんか。」
1ヶ月程前に、思い切って電話してみた。

 義兄は、大変喜んでくれた。
コースの予約、一緒にプレーする方選びなど、
準備を整え、その日を用意してくれた。

 初めて北海道のゴルフ場に立った。
白樺に囲まれ、広々としていた。
 そして、1つ1つのコースの距離が、
思いのほか長く、驚いた。

 いや、それ以上に驚いたのは、
義兄と同行メンバーの腕前だった。
 まず、ドライバーの勢い。
飛距離が違った。
 そして、2打目の正確性にも息を飲んだ。

 グリーンまでツーオン、スリーオンは当たり前で、
私がやっとの思いでグリーンオンするのを、
いつも談笑しながら待ってくれた。

 ゴルフは「紳士のスポーツ」と言う。
だから義兄も同行者も、私の下手さを受け入れ、
淡々とプレーした。

 だが、私は時間が経過するにつれ、
ラウンドが進むにつれ、力の差に萎縮した。
 ミスを重ね、そしてまたミスをした。
短いパットまで、入らなくなった。

 こんな上級者と一緒する機会は貴重だ。
ならば、違いに舞いあがるよりも、
彼らの一振り一降りから学ぶ、そんな好機にすれはいい。
 なのに、すっかり冷静さを失い、
そのまま、その日のラウンドは終わってしまった。

 帰り際、義兄は、1本のユーティリティクラブを、
プレゼントしてくれた。
 「このクラブを使えるようになるといい。
ゴルフをなめたら、ひどい目にあうからな。
 東京に帰ったら、まずゴルフの本を10冊は買って、
読むことだ。
 そこから、始めれ!」。

 見下されていた。
しかし、受け入れるしかなかった。

 早速、手当たり次第,
『最強のゴルフレッスン××』、『ゴルフ上達の言葉○○』等の本を、
買い求め、読んだ。

 スイング法やクラブ選びなど、きっと理解が進むと信じた。
私の読みの浅さだろう、期待通りではなかった。
 いろいろなゴルフ理論があった。
どれが私に適しているか、皆目見当が付かなかった。

 以来、その手探りは今も続いている。
ただ、義兄に頂いたあのクラブは、
あの日から20年近く私のキャディーバックに入っていた。

 そして、「困った時のユーティリティー」とばかり握りしめ、
難しい場面で必ず活躍してくれた。

 ▼ 次第にゴルフを趣味にする教員のネットワークができた。
いくつかのコンペグループに加えてもらった。

 今と変わりなく、当時も学校は多忙を極めていた。
それでも何とかやりくりをして、
貴重な休日、みんなコンペに参加した。

 1日中、小さな白球を打っては、後を追った。
そして、喜んだり肩を落としたりをくり返す。
 それが、明日からのエネルギーになった。
私だけではない。
 コンペに参加する者に共通した想いだった。

 あるコンペに、常にグロス1位という達人がいた。
彼とは、他のコンペでも一緒によくプレーした。

 ドライバーだけでなく、どのクラブも上手で、
ボールをうまくコントロールしていた。
 特に、バンカーショットは見事だった。
さすが、実力者だと、その技にいつも見とれた。

 遂に、コンペの幹事が私にも回ってきた。
参加者が決まり、組合せに頭を痛めていた。
 その時、年上のメンバーから電話があった。

 先輩は恐縮しながらも、
彼と一緒の組はいやだと話し出した。
 「確かに上手だ。だけどマナーが悪いんだよ。
グリーン上でのマークはいい加減。
 ひどい時は10センチも前にボールを置くんだ。
それに、OBと思われるボールも必ず見つける。
 あれも不愉快で気分が悪くなる。」

 その他にも、次々といやな理由をあげた。
「だから、ゴルフが面白くなくなる。」
 そう言って、私に配慮を求めた。

 先輩の言い分には心当たりもあった。
私は否定できず、
先輩の要望をそっと聞き入れた組合せを作った。

 以来、彼と一緒にプレーする機会があると気になった。
確かにグリーン上のマナーは、良くなかった。
 正しくマークしても彼の実力からすれば大丈夫なパットでも、
少しでの有利な所にボールを置いた。
 同行メンバーから、それを注意されても、
再び同じようにいい加減になった。

 あるコンペで、彼の第一打がOB方向に飛んだ。
珍しく私は、フェアーウエーのいい所だったので、
彼に同行し、ボール探しを手伝った。

 しばらくすると、彼がボールを見つけた。
そして、最高のショットでグリーン方向へ打ち出した。
 ナイスショットだった。

 ところが、そこから3,4メートル先のOBエリアに、
彼の使用球と同じボールが落ちていた。
 私はそれを拾い上げ、彼の目をきつく見ていった。
「これは、ナニ?」
 彼は、私から目を反らし、足早に歩き始めながら言った。
「今回は、大目に見て・・・」。

 些細なこと、いやゴルフにおいては重大なルール違反。
だが、その時の私はそれを黙認してしまった。
 大事にすることを避けた。

 思い出すと、今も少し心が傷む。
だってゴルフは『紳士のスポーツ』なはずだもの・・。
  




  夏空・洞爺湖畔の『リップル・ダンス』(関正司・作)
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『 も げ る ! 』

2020-08-15 15:02:01 | 出会い
 ▼ 今、伊達の小中学校は10日間程の夏休み中だ。
残念ながら、地域のラジオ体操はなくなった。
 夏祭りやサマーイベントも軒並み中止である。
日本中、どこも同じだろう。

 一つ一つの催しが、暮らしにメリハリをつけていた。
お盆の墓参りも同様だ。
 それらが全て、コロナでくるってしまった。

 世界が大きく変わる分岐点なのかも・・・。
「だから」と、「何かをどうかする」こともできやしない・・・。
 せめて、どんな想いで見聞きし、何を記憶に刻むか、
一人の目撃者として、気概だけは忘れないでいようと思う。

 さて、最近の私だが、やや調子がおかしい。
とにかく、『朝ラン』がダメだ。
 いつも、心が揺れる。

 2,3日おきに、5キロか10キロを走ってきた。
それが、危ういのだ。
 確かに、この1ヶ月程天候不順だった。
それだけが言い訳ではない。
 
 前夜、「明日は走ろう!」。
そう決めて、就寝する。
 ところが、その通りにことが進まない。

 目ざめても、その後のストレッチが済んでも、
まだ、ためらいが続く。
 「今日はやめにして、明日にしようか。」
そんな想いが、いつまでも巡る。 
 
 ようやく自分を励まして走りだしても、
2キロ付近までは,うつむいたまま走る。
 ようやく『朝ラン』が楽しくなるのは、
折り返しを過ぎてからだ。

 「何故だ?」。わかっている。
やはり目標が大事なのだ。
 例年なら、この時季は、
9月の『旭川ハーフマラソン』が意欲をかき立ててくれる。
 それがないのだ。

 それぞれの思いを持ってランナーが北都・旭川に集まる。
老若男女は違っても、みんな輝いて見える。
 その中の1人でいることが嬉しい。

 そして、自分のペースで1歩1歩進む。
みんな同じ方向を向いて、精一杯走る。
 私も一緒に頑張る。
義姉妹の声援にも助けられ、
矢っ張り、完走したくなる。

 そんなマラソン大会の楽しさを知った。
だから、『朝ラン』も続いてきた。

 「なのに!なのに!」なのだ。
どうも気乗りしない。
 「しかし・・、きっと・・、必ず・・、再び・・」。
いつかマラソン大会が開かれる。
 まだまだ先かも・・・。
それでも、『継続は力なり』だ。
 「老いてなどいられない!」。

 今は、大会にまつわる出会いをふり返り、
明日からの『朝ラン』のエネルギーにしよう。

 ▼ 総合体育館のトレーニング室が音頭をとり、
『スマイルジョグだて』と名づけたマラソン仲間ができた。
 最初の春、『伊達ハーフマラソン』に向けて、練習会があった。

 予定外だったが、若い連中に混じって、
本番同様のハーフコースを走ることになってしまった。

 当然、私はスローペースのグループだ。 
経験豊富な女性ランナーがコーチになり、
4人で走った。
 
 前後2人ずつ、並走した。
私と30歳代らしい女性が後方についた。

 1キロ7分少々のラップを正確に刻み、コーチは
私たちをリードした。
 
 坂道にかかると上りや下りの走法、
走行中に水を呑み込むコツなど、
走りながらコーチから教えてもらった。
 その教えは、今も役立っている

 さて、5キロを残した辺りで、コーチが言った。
「今日は別ですが、本番はここからペースを少し上げます。
 もうみんなバテバテでしょう。
その時に、頑張って数人を追い抜くの。
 すると力が湧いてきて、
ゴールまでいいペースで走り切れるから・・。」 

 感心して聞いていた私の横で、
そこまで一緒に走ってきた彼女が、
荒い息のまま、初めて声を上げた。   

 「私、抜かれてガックリする方だった。
今度は、絶対そうする。」
 前方を見たまま、
晴れ晴れとした顔をした。

 しかし、その後2回も、
それをやってのけるとは思いもしなかった。

 ▼ その日から2週間後が、本番だった。
全道から健脚が伊達に集まった。
 活気があった。

 コーチからのアドバイスをすっかり忘れ、
ただただ完走だけを目指した。
 だから、1キロごとのペースを守って走ることを心がけた。

 伊達ハーフマラソンコースは、10キロから15キロまでが上りだ。
次第に走力が落ちた。
 上りが終わり、1キロが過ぎても、
ペースは遅いままで戻らなかった。
 周りのランナーも、同じようにバテバテで走っていた。

 その時だ。
「ワァ、追いついた!」。
 張りのある女性の声が後ろから聞こえた。
2週間前、私と並んで走った彼女だった。

 その走りには勢いがあった。
荒い息のまま、彼女は言った。
 「もう、足、もげそう。
でも、何人も抜いてきた。
 最後まで頑張れそう。」

 私の返答など聞くこともなく、
彼女は走り去った。

 ゴール後、会場に彼女がいた。
自己ベストだったと明るかった。
 「足、もげると思ったけど、
最後を頑張れたから・・」。

 相変わらず私は、終盤に失速したことを悔いていた。

 ▼ 同じ年の5月、洞爺湖マラソン大会で、
初めてフルマラソンに挑戦した。
 彼女も、初めてエントリーしたと聞いていた。

 31キロ過ぎの苦境を乗り越え、
ただただ1歩又1歩とゴールに向かって、粘った。

 私の限界が間近だと思いつつ、
『ゴールまで3キロ』の標示を見た。
 ここまで39キロも走ってきたのに、
「もう無理かも」と弱気になった。
 その時だった。

 「ワァ、追いついた!」。
張りのある女性の声が、後ろから届いた。
 聞き覚えがあった。

 「1歩1歩足を前へ!」。
それだけが全てだった私に、向けられた弾んだ声だ。
 嬉しかった。

 彼女は私と並ぶと、すぐに言った。
「もう、足、もげそう。でも、最後まで頑張る。
残り5キロから、何人も抜いてきたよ。」

 彼女は、しばらく並走してくれた。
「ありがとう。先に行って。」
 私が促すと、彼女はペースを上げ離れていった。
1人2人と追い抜く姿が見えた。

 私に力が戻った。
「ここからだ。1人でも2人でもいい、
追い抜いてゴールするんだ。」
 そんな気持ちになっていた。

 完走したゴールの先で、
芝生にスラッとした足を投げ出した彼女がいた。
 「足、もげなかったね。」
私が言うと、
 「うん、また走っても、この足、付いているみたい。」

 その日以降、彼女には会っていない。
転勤したと聞いている。
 いつかどこかの大会で、今度は私が言う。
「ワッ、追いついた!」。
 そして、「足、もげそう。」って、
必ず言う。




   夏 ガクアジサイが 素敵!
                ※次回のブログ更新予定は 8月29日(土)です  
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どんなメンタル?!

2020-08-08 16:17:57 | 思い
 ▼大阪の吉村知事が、
コロナウイルスとうがい薬の関連性についてコメントした。
 すると、一気に店頭から『イソジン液』が消えた。
そんな報道があった。

 数ヶ月前のトイレットペーパーも同様だ。
その信ぴょう性を確かめるよりも、
「まずはもしものため、安心感がほしい!」。
 そんな衝動が店へと走らせるのだろう。
コロナが、ウイルスと一緒に不信や不安をまき散らしている。
 そんな一例だと思う。

 そうは言いつつ、私も渦中の1人だ。
不信も不安も、大ありだ。
 だが、世界中の第一線で闘っている研究者を信じる。
 「必ず、この闇を抜け出す時が来る」。
その道を、きっと切り開いてくれる。

 だから、今の私は出来ることを、
淡々と平然とやりながら過ごす・・。 
 それに尽きる・・・。

 しかし、長期戦だ。
問題は長きに耐えるメンタルだ。
「まずはもしものため・・」なんて、
店頭へ走らない強さが大事だ。
 
 メンタルが問われているのだ。
さて、どこまで強いか。どれだけ弱いか。
 私のメンタルを、さかのぼってみる。

 ▼ それは、確か小学校1年生のことだ。
当時、両親は魚の行商をしていた。
 夕方、遅くにならないと戻ってこなかった。
放課後、1人きりの私が気がかりだった。

 そこで、せめてもの贈り物だったのだろう。
私を励まそうとの思いもあったのだろう。
 「これで遊んでいてねぇ」だったのかも・・・。

 あの頃、さほど出回っていなかったが、
子供用自転車を買ってくれた。

 青い色で、私にはやや大き目だった。
補助輪をつけて、
舗装なんでされていないガタガタ道を行ったり来たりした。

 姉の手助けもあって、
1か月もすると、補助輪をはずした。
 スイスイとペダルをこいだ。
 
 事件は、その数日後だった。
自転車が楽しくなって、学校から帰るとすぐに乗り回した。
 得意気だった。油断したに違いない。

 今で言う排水溝だ。
当時は、道路横の汚水が貯まったドブだ。
 フタなどはない。

 気づくと自転車がドブに向かっていた。
慌ててブレーキを握ったが、
自転車と一緒に、汚い水に落ちていった。

 頭まで水中に沈んだ。
ドブの底を足で蹴った。
 ようやく青空が見えた。
すぐにまた濁った水になった。

 また、足で底を蹴った。
手も足も忙しく動かした。
 また青い空が見えた。
ホッとする間もなく消えた。

 何回も青空を見たり、濁った水になったり・・。
息が苦しい。
 もう蹴るものがなくなったような気がした。
それでも、足で何かを蹴ろうとした。

 青空が見たいと首を伸ばした。
水が喉に詰まった。
 次第にまわりが暗くなっていった。
その時、上から大きな手が私の両脇をつかんだ。

 声も出ないまま、その手に抱かれた。
顔馴染みの近所の伯母さんが、
ドブに入り、私をかかえてくれた。

 青空がずっと見えた。
私はすすり泣いた。

 伯母さんは、回りの子ども達に手伝わせて、
タライに水を入れ、私を洗ってくれた。

 伯母さんの家には、
女の子の着替えしかなかった。
 私は、母が戻るまで、それを着て待った。

 青い自転車もドブから上げてくれた。
もう安心していい。
 なのに、ドブから救い出された私の体は、震え始めた。
女の子の格好で、ガタガタと震えた。

 汚水に沈み、ようやく見た青空。
苦しいまま足がドブ底に着く。
 また空が見たいともがく。
何度も何度も、濁った水に息を止められた。

 それが、鮮やかにくり返し頭に浮んだ。
体が小刻みに震えた。ずっと震えた。

 「なのに!}だ。
3日もすると、私は何もなかったかのように
再び、得意気に青い自転車をこいだ。
 ただ、ドブだけはわざわざ遠ざけるようにした。
体の震えもすっかり忘れてしまった。

 ところが、4年生の時だ。
水泳教室があった。海水浴場ではじめて海に入った。
 それまで水泳の経験がなかった。
先生に促されて、みんなと一緒に海に頭を入れた。 

 何の前触れもなく、
青い自転車と一緒に落ちたドブの中が、突然蘇った。
 青空が見たくて、息を詰まらせながら必死な私がいた。

 急に、体がブルブルガタガタと震え始めた。
深呼吸をくり返しても、震えは止まらなかった。
 震えたまま、いち早く砂浜に上がった。

 「もう大丈夫!」。
意を決し、海に再び顔を入れに行った。
 でも、ブルブル震え出した。

 翌年も、翌々年も水泳教室があった。
「今年こそは大丈夫」。
 海に頭を沈めた。
震えが始まり、止まらなくなった。

 「ほら、アンタは腎臓の病気をしたでしょう。
そのせいで、水に入ると人一倍寒くなるのよ。」
 母は、明るく私を慰めた。

 先生には、母の弁を借りた。
腎臓病を言い訳に、さっさと海から上がった。 





   オニグルミの実が「こんな!」 
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