ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

清々しい振る舞い ~『キョウイク』『キョウヨウ』から

2019-11-30 20:25:54 | 素晴らしい人
 心理学者の多湖輝さんが書いた、
『100歳になっても脳を元気に動かす習慣術』にある言葉らしい。
 多湖さんも、100歳に近い先輩から教えられたのだとか・・。

 私は、定年退職後すぐ、同じ歳の友人から聞いた言葉だ。
「ツカちゃん、これからは『キョウイクとキョウヨウ』だよ。
それを大事にして、俺たちは暮らさなきゃ。」

 『キョウイク』と『キョウヨウ』?。
何を意図した言葉なのか。
 意味がつかめず、説明を求めた。

 「教育」ではなかった。
「今日、行く」ところがあることだ。
 「教養」ではなかった。
「今日、用事がある」ことだ。

 退職後を健康的に生きるために意識したいことだと言う。
最近では、これに『チョキン』が加わるらしい。 
 「貯金」ではなく、「筋力を貯めること」だ。

 「キョウイク」「キョウヨウ」「チョキン」を意識した暮らし方・・?
さて、私の日常はどうだろうか。
 密かに、「B」「G」「M」と、私の日々を表している。

 「B」は、ブログ=Blogのことで、
ほぼ毎週2日をこれに費やしている。

 「G」は、ゴルフ=Golfのことで、
シーズン中は、毎週1ラウンドは回っている。
 加えて、パークゴルフも毎週のように楽しんでいる。

 「M」は、マラソン=Marathonのことで、
大会参加を目指して、朝ランに励んでいる。

 「行くところがない」。
「何もすること(用)がない」。
 「だから、家でジッとしている」。
幸い、そんな日々とは、縁遠い。

 その上、時折、思いもしない依頼が舞い込んでくる。
できるだけ2つ返事で引き受けることにしている。

 それは、もう7年も住んでいるとは言え、
ここでは「新参者」である。
 その私への頼み事である。

 きっと半信半疑。
それでも信じて、私を見込んでのこと。
 勝手にそう理解している。
だから、期待に応えたいと、その都度心する。

 これが『キョウイク』や『キョウヨウ』を豊かにしている。
素直に、いいことだと思う。
 と同時に、実は、思ってもみなかった心温まることや、
貴重な出逢いに恵まれることがある。
 そんな1つを記す。

 今年度から、地域の自治会から2つの役目を頂戴した。  
1つは、自主防災組織の『防災リーダー』の仕事で、
もう1つが、『福祉部長』の任だ。
 その中から、福祉部の活動での一コマである。

 福祉部では、メンバーが手分けして、
5月と9月の年2回、75才以上の会員宅を訪問する。

 5月は、対象になる会員や担当者に変動もあるので、
年度初めの顔合わせを目的に、ご自宅を訪ねた。

 私にとって初経験だったが、、
ティッシュペーパー5個セットを持って、訪ね歩いた。

 今年75才を迎えた方は、決まって訪問に驚いていた。

 「後期高齢者なんだね。年寄り扱いされてもしかたないのか。」
と、やや寂しげに笑顔を浮かべる方。

 「自治会費を納めているだけで、何もしてません。
なのに、こんな物を頂いてもいいんですか。」
と、しきりに恐縮する方。

 「75才以上って、私もそうなんですか。
そう言われれば、そうですね。まあ・・。」
と、自分の年齢を確かめる方。

 様々な反応があり、その1つ1つが意外と楽しかった。
そして、こんなやり取りもあった。

 すでに80才をゆうに越えている女性宅だった。
 「どうですか。最近、お変わりありませんか。」
挨拶代わりにした私からの声かけだった。

 「娘と2人で暮らしているんです。
でも、昼間は仕事に行くから、私1人なんですよ。」
 彼女はそう切り出すと、昼間の寂しさを切々と語り出した。

 親しくしていた友だちも、次々と逝ってしまった。
散歩に出ても、人と会うことがない。
 週1回のデーサービスだけが楽しみ。

 解決策を持たない私は、ただただ聞き役でいるしかなかった。
「また9月に伺います。それまでお元気で。」
 そう言って、別れるまで小1時間を要した。

 高齢者の孤独感に、息が詰まりそうになった。
長生きも、闘いなんだと実感しながら、
さほど遠くではない我が身を、現実に置き換え、
うつむいてしまった。

 そして、訪問の2回目、9月になった。
『敬老の日』に合わせて、ご長寿のお祝いに伺うのだ。
 ここで、貴重な出逢いがあった。

 そのご夫妻は、5月にうかがった折りには、
担当が私に変わり、
「お世話になります。」
と、互いに挨拶を交わしただけだった。

 もう80才になろうかというお二人だ。
自治会からのお祝い品として、日本茶セットを2つ持参した。

 インターホンを押すと、
少し時間をおいで、玄関ドアが開いた。
 ご主人が迎えてくれた。

 「自治会の福祉部です。
敬老の日が近づきましたので、
ご長寿のお祝いをお持ちしました。」

 私からのそんな挨拶に応じたご主人。
そこから先、1つ1つの彼の振る舞いが、心に響いた。

 「そうですか。それはそれは、ちょっとお待ち下さい。」
ご主人は、足早に奥へ消えた。

 そして、玄関先で待つ私に、その声だけが聞こえた。
「お母さん、ほら今年も長寿のお祝いだって、
嬉しいね。玄関でお待ちですよ。」
 
 少しの時間が流れた。
ご主人の肩を借りながら、奥さんがゆっくりと現れた。
 私に顔を向け、弱々しく頭を下げ、唇が動いた。
どんな病気なのか、声になっていなかった。

 ご主人の「長寿のお祝いだって、嬉しいね」の声が、
くり返し、心にこだましていた。

 私は、手にしていた2つのお茶セットを、
さっと、ご主人に差し出した。

 すると、ご主人は、穏やかな笑みを浮かべ、奥さんを見た。
「お祝いですからね。貴方の分は貴方が頂くといい。」
 奥さんは、大きくうなずき、少しだけ表情を明るくし、
玄関先に進み出た。

 しきりに言葉を探した。
しかし、そんな時の私はダメだ。
 「自治会からのお祝いです。どうぞお受け取り下さい。」
それしか言えないまま、
お茶セットの1つを奥さんへ渡した。

 奥さんに代わって、ご主人が
「ありがとうございます」と頭を下げた。

 何の気配りもなく、
2つまとめて差し出した愚かさが恥ずかしかった。

 でも、それには触れず、もう1つをご主人に渡し、
玄関ドアを閉めた。 
 
 「幾つになっても、どんな暮らしであっても、
あんな清々しい振る舞いができる人間でいたいなぁ。
 俺は、まだまだ、全然だ。」

 帰宅してすぐ、家内にそうつぶやきながら、
小さな出逢いでみつけた大切な体験に、感謝した。




    公園の松も 冬支度   
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冬 を ど う 過 ご す ?

2019-11-23 19:46:22 | 思い
 ▼ 7年前、伊達に居を構えてすぐ、
家内は、市の情報紙を手がかりに女声コーラスに入った。

 週1回、2時間半の練習だが、いそいそと出掛ける。
そして、帰宅時には、毎回、大きな声で「ただ今~」と、
玄関ドアを開ける。
 その弾んだ声から、楽しさが伝わってきた。

 丁度1年前の今頃だった。
そのコーラスグループが、10数年ぶりに、
「コンサートをしよう」と話が進んだ。

 以来、日程やら会場予約やらに始まり、
発表曲目、そして衣装、ポスター、チケット、プログラム等々
コンサートに向けた準備がスタートした。

 家内にもその仕事の一部が割り振られ、
例年とは違う時を送った。

 9月のコンサートに向け、練習も本格化し、
6月からはその回数も増えた。

 そんな取り組みに対し、私は傍観者でいるだけだが、
その大変さを身近で感じていた。

 例えば、ポスター1つをとっても、
そのデザインだって、外注は費用がかかる。
 だから、身内のその才がある方でまかなう。

 その上、出来上がったポスターは、全員で手分けし、
店先や会館等に張り出してもらうようお願いして回る。
 
 万事が、自分たちでやるしか方法がないのだ。
いいコンサートにしたい。
 それには、コーラスの出来栄えと共に、
多くの方に足を運んでもらうこと。
 それも、メンバー一人一人の重要な役目だった。

 顔馴染みを訪ねては、
「是非、聴きに来てほしいの」。
 チケットを遠慮がちに売るのだ。

 そして、いよいよコンサート当日。
登別に住む実姉と義姉を誘い、会場に行った。
 私の勝手な予想を超えた人たちで、会場は埋まっていた。
それだけで、コンサートの半分は成功だった。

 やがて開演の合図が鳴り、
20数名の女性コーラスが、会場に響いた。
 半信半疑の客席が、次第に聴き入っていった。
拍手に大きさが加わった。

 私も、前のめりなった。
その歌声に、拍手を惜しまなかった。

 約2時間、全てのプログラムを終え、
ステージを去るメンバー1人1人の後姿が、
輝いてみえた。
 きっとそれぞれの達成感が、
そうさせてたのだと感じた。

 『自分たちの歌声を聴いてもらいたい。
そのためにコンサートをする。』
 全員で決めた目標だった。

 それを目指し、心1つに取り組んだ彼女たち。
そのエネルギーと響きに、
私が、刺激を受けない訳がない。


 ▼ さて、その私だが、  
5年前から、11月の最終日曜日は、
「夢の島陸上競技場」にいた。
 『江東シーサイドマラソン』で、ハーフに挑戦するのだ。
しかし、今年は違った。
 エントリーはしたが、抽選にはずれてしまった。

 例年、この時期は、そこでの完走を目指し、
その日が近づくにつれ、朝のランニングにも熱が入った。

 ところが、その目標がないのだ。
案の定、どうも調子がおかしい。
 矢張り、何かがブレている。

 その上、今年は寒さが早い。
すっかり冬である。
 1週間前から、外を走る気力がなえてしまった。

 ふり返れば、健康管理と生活習慣のためにと始めた
ジョギングだった。
 それが、やがてマラソン大会の参加を体験し、
そこでの完走する楽しさを知った。
  
 この7年間、生活の一部になったランニングは、
年5回の大会参加と、そこでの完走という目標があったから続いてきた。
 それを、今、急に原点に立ち返り、
「健康管理と生活習慣のため」と自身に言い聞かせても、
足はなかなか前へ進まない。

 その上、これから寒さは遠慮なしだ。
ついつい「何もせず、冬眠でも・・・。」と逃げ腰になる。
 そんな時季だ。

 でも、だからこそ新たな目標がほしいと強く思おう。
何か、身震いするような目標を探すのだ。

 現職の頃、「いい問題とは、半分分かって、
半分分からないもの。」と、
力説してきた。
 目標も、「出来そうだが、出来そうもない」。
そんな半々のものがいいはずだ。 

 さあて、それはどんなことだ。
答えのないまま、
それでも生活習慣はしっかりと身についている。
 なので、明日は、総合体育館のランニングコースでも、
走ることにしよう。

走りながら、答えに想いを巡らせ、
彼女たちのように、輝く後姿を見てもらえるよう、
「よし!」と思える目標を見つけ、この冬を過ごすことに・・・。


 ▼ 朝日新聞『折々のことば』に、力強い一文があった。
若者の情熱がヒシヒシと伝わってきた。
 私とはかけ離れた世代だが、それでも刺激的で、
この冬に戸惑う私に、熱さを与えてくれた。

  自分で気づいているかどうかにかかわらず、
  人のやることはどれも命懸けなんだ
                  都甲幸治
   将来のあてもないまま、大好きなことを
  やっているんだからと、絶望すれすれのと
  ころでともに楽しんだ日々。若き翻訳家二
  人はやがて別々の道を歩むも、一方は余り
  に早く逝く。その友を思う都甲はこう記す。
  何かをめざすのも拒むのも、萎れるのもへ
  たるのも、希望を失い打ち拉がれるのも、そ
  れぞれに必死であがいているからだ。『今
  を生きる人のための世界文学案内』から。
        2019.11.18
 
 


    木々もすっかり 冬もよう
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『 た ら れ ば 』 噺 

2019-11-16 21:31:28 | あの頃
 『にわかファン』がおお手をふったラグビーワールドカップに、
私も熱狂した。

 トライまで残り5メートルでの攻防から、
両チームの必死さが伝わり、
勝敗を越えて心も体も熱くなった。

 厳格なルールをレフリーが忠実に裁き、
それに逆らうことなく、果敢にプレーする選手たち。
 その姿勢から、常に危険を伴う競技だからこそのことと思いつつも、
『にわかファン』の1人として、魅了され続けた。

 テレビ観戦しながら、何度もつぶやいた。
「高校生の頃にでも、ラグビーに出会っていたら・・」。
 「若かったら、一度でいいからラグビーをしてみたかった・・」。
「ラグビーをやっていれば、きっとのめり込んでいたかも・・」。

 まさに『たられば』とはこのことだ。

 『たられば』?
よくゴルフ友だちと交わした会話のフレーズだ。

 「あそこで、オンしていたら・・」。
「あれが、OBでなかったら・・」。
 「あのパットが入っていれば・・」。
これを、『たられば』と言う。

 ゴルフに限らず、日常でも時折、つい口にする言葉だ。
そんな私の『たられば』噺を1つ。

 まずは、教育エッセイ『優しくなければ』から、
「夢」と題する一文を転記する。 


 【冬には横なぐりの粉雪をまともに受ける広場に、
一軒の家が建ちました。
 やがて、見知らぬ家族が引っ越してきて、
毎夜、その家の窓辺からは、明るい灯がもれていました。
 屋根に突き出した煙突からは、
石炭を燃やした真っ黒な煙がたえまなく流れています。

 私は、夕暮になると決まってその家が見える広場の道を通って、
おつかいに行かされました。
 強い北風を正面から受けながら、
それでも前かがみになって小走りにその道を急ぎました。

 今まで、何もないただの荒れた土地だった所に、
光がこぼれ、ぬくもりを伝える二階建ての家ができたのです。

 あれはいつ頃からだったでしょうか。
確か夏の終わりだったと思います。
 数人の大工さんが、毎日毎日つち音を響かせ、
かんな屑をまき散らしたのです。
 私は小学校からの帰り道、
立ち止まり立ち止まり、その様子を見ていました。

 コンクリートで仕切られた土台の上に、
太い角材で骨組みがされ、やがて屋根が造られました。
 そして、いつしか窓枠が取り付けられて、
家は出来上がりました。

 いつものようにおつかいに急いだある日、
その家の灯と窓辺に揺れる楽しいそうな人影に振り返った私は、
「そうだ。わかった。ぼくはあんな家を造る大工さんになろう。」
と心を熱くしました。

 「だって、大工さんはすごいよ。
そうでしょう。あの冷たい風の通り道に、
あんな暖かい家を造ってしまうんだよ。
 人間が幸せに暮らせる家を、大工さんは造るんだよ。」
私は5才違いの姉に夢中になって、そんなことを話していました。

すると、
「そうだね。大工さんは凄いよね。
でも、そんな不器用な手をしているあんたが家を建てるなんて……」
と、たしなめられました。
そして、夢はその言葉とともに、一瞬にしてしぼんでしまいます。

確かに姉の一言は的を射ていたのかも知れません。
しかし、以来私は何年もの間、
夢と言う言葉から遠ざかることになるのでした。】


 小学5年か6年の頃のことだ。
当時の私は、明るく振る舞ってはいたものの、
何事にも自信が持てなかった。

 その私が見つけた夢だった。
初めて抱いた夢でもあった。
 心が燃えていた。
それを『不器用な手』のひと言が一蹴した。

 今もそうだが、私の手は不器用そうで、
手のひらに比べ指が短く、しかも節くれている。
 「この手じゃ無理だ。」
姉の言葉に、私も納得がいった。
 そのまま、自信が持てない時が続いた。

 当然、その後の私は、
図画工作や美術には、全く意欲がなかった。

 ところが、小学校に勤務し、
1,2年生の担任になり、図工の授業があった。
 そこでは、楽しそうに絵を描いたり、粘土をさわったり、
紙を切ったりする子ども達がいた。

 それにつられて、節くれた手で、私も一緒に工作をした。
時には、放課後の教室で、折紙の本を片手に、
子どもと一緒に時間を忘れた。
 
 それが契機になった。
時間を見つけて、一人で折紙を楽しんだ。
 決め込み人形が趣味という保護者から手解きを受けた。
組み紐作りの本を片手に、夢中になった。
 不器用な手をすっかり忘れ、指を動かした。

 そして、ついには手芸店にまで足を運び、
籐手芸にまで興味を持った。
 その本と籐の束を買い込んだ。

 日用品から洒落た飾り物まで、
次々と制作意欲が高まった。
 難しい編み方や止め方、大きな器にも挑戦し、
寝る時間を削って、打ち込んだ。

 1つが完成すると、また新しい物を作りたくなった。
同じ器をくり返し編み、出来上がりの完成度を比較し、
一喜一憂した。
 ついには出来上がった物の置き場に困り、
友人や親戚にまで配った。

 そんな時だった。
地元のデパートで、工芸品の実演販売が催されていた。
 休日の午後、買い物ついでに、会場をのぞいてみた。

 その一角に、江戸和箒を制作する職人さんがいた。
巧みな手さばきで、ほうきを編んでいた。
 「黙々と」と言うべきか、「淡々と」と言うべきか。
作製中のほうきに向き合い、編み進める姿に見とれた。
  
 手の動き、出来上がる編み目の美しさ、無駄のない身のこなし、
その全てを熟練技というのだろう。
 何と素晴らしいことか。
半端じゃなかった。
 本物のオーラがヒシヒシと伝わってきた。
 
 血が騒いだ。
憧れた。
 ただただ羨望の目で、職人さんを追った。
厳しい下積みがあっての今だと思いつつも、
長い時間、その場から離れられなかった。

 あれからずっと、今も
物づくりの職人さんに惹かれている。

 「手の形は不器用そうでも、できることがある。」
あの頃、そう思えていたら・・・。

 だったらきっと、使い込んだ道具に囲まれ、
「ここをこんな風に」なんて想いを巡らせながら、
今日も、何かの物づくりに没頭する私がいたのでは、
ないだろうか。

 教職の道へ進んだことを、悔いたりなどしていない。
しかし、「あの時、ああだったら・・」なんて、 
凡人は、つい考えてしまうものだ。




  ついに寒波が訪れ 畑も雪化粧  
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続 ・ もう一度 行きたい

2019-11-09 18:49:34 | あの頃
 丁度1年前のことだ。
2週にわたり、こんなプロローグから、
『もう一度行きたい』とブログを記した。

 『そうか、紅葉の素敵な美しさの後は、
寒さの到来か。
 風邪で体調を崩した昨年の冬を思い出した。
やけに不安がつのる。
 こんな時は、旅でもしたくなる。

 「旅支度を急ぎ、明日にでも出掛けよう。」
そんな心づもりなどない。
 今は、いつか機会があったら、そんな程度。
さてさて、どこへ行きたい?』

 そうして、<1>長崎、<2>槍ヶ岳、<3>盛岡、<4>西表島、<5>石和と、
私の足跡を綴った。

 季節は同じ、やはり『こんな時は、旅でもしたくなる。』
2つ程、想いを追記する。


 <6> 毎年、家内の友だちSさんがご夫婦でゴルフをしに、
東京からやってくる。
 2泊3日で2ラウンドを、4人で回る。

 気心の知れた、年中行事だ。
今年は、私の好きな『北海道の6月』を選んでもらった。
 スコアは別として、綺麗な緑色の中、
楽しい3日間だった。

 帰り際、互いに1年後の再会が遠くに思えた。
「それじゃ今度は、私たちが東京へ行った時にでも・・。」
 「それがいい。」
「それ、いつになりそう・・?」

 そんな会話の只中、Sさんから突然の提案があった。
「一度『風里』に行きたいの。一緒に行けないかしら・・。」

 そこから、計画はとんとん拍子に進んだ。
10月初旬、中部国際空港で待ち合わせ。
 レンタカーで2時間半、
長野県木曽の開田高原にある『風里』へ。

 この宿については、
16年11月のブログ「禅語『喫茶去』から」で触れた。
 現職の頃に、毎年1,2回は出掛けた所だ。

 以下、ブログの一節を転記する。

 『大自然の中に、ぽつりと佇む温泉宿だ。
正確な部屋数は知らないが、20室程度かと思う。

 宿の前にある駐車場に車を止めると、
すぐにオルゴールの音色が流れるサロンに案内される。
 見慣れた顔のスタッフさんが、
口数少なく、席を勧めてくれる。

 ほっとくつろぐ私を見て、一杯のお茶を持ってくる。
その瞬間から、翌日「またのお越しをお待ちしてます。」まで、
全ての押し付けを排除した、静寂の時を私は過ごす。

 片道4時間をかけてでも、そこへ行こうと思いたつ日。
それは、私自身の何かが、煮詰まってしまいそうな、
そんな想いの時だ。

 しかし、宿までの長い道に流れる景色もいい。
高原の穏やかな緑色もいい。
『風が佇むふる里』と詠む温泉宿の湯煙もいい。
 いつだって、その全てが、私を迎え入れてくれる。
逆なでされたような心が、少しずつ潤っていくのだ。』

 8年ぶりだった。
宿の造り、スタッフさん、その迎え方などの全てが、
『風里』は、『風里』のままだった。

 部屋のデッキから見える御嶽山は、
数年前に大噴火し、沢山の犠牲者を出した。
 穏やかな山容からは想像できない惨事だった。

 以来、初めて御嶽山を見た。
変わらないその姿に見とれながらも、
心の痛みを感じていた。
 そこだけが、以前と違った。

 わずか一夜だが、
「もう一度、行きたい」、
その願いが叶った。

 ご一緒したSさんは、
「『風里』、サイコウ!!」
を、何度も口にした。
 そして、帰り際、
「来年も、また、ここに来ましょうよ。」
とくり返した。

 『風里』は、そう言わせてしまう宿なのだ。

 
 <7> 9月下旬、今年も『旭川ハーフマラソン』を走った。
その様子は、10月12日のブログ『71歳の新秋』で記した。

 そのハーフマラソン以来、
「もう一度、行きたい」と強く願う場所がある。

 旭川を走るのは、5回目だったが、
今年はじめて気づいたことがあった。

 スタートから10キロを過ぎてから、旭橋を渡る。
その後、大きく向きを変えて、常盤公園内へ入る。

 この辺りで、毎回、苦しい走りが始まる。
だから、公園内を見渡すゆとりがなかった。
 なのに、今年は、園内の道立旭川美術館前に、
大きな銅像があり、それに目がいった。
 その像が、ブールデルの『雄弁』のような気がした。

 ここに、『雄弁』があるとは思えなかった。
だが、記憶にあるあの力強い像によく似ていた。
 後日、ネットで調べた。
間違いなかった。
 すると、突然蘇った。

 箱根にある『彫刻の森美術館』は、7万㎡の広大な庭園に
120点もの野外彫刻が展示されている。
 そのメイン広場とも言える所に、
ブールデルの作品『雄弁』そして『力』『勝利』『自由』の勇姿が、
立ち並んでいる。

 まだ20代の頃、勤務校の図工の先生に案内され、
その美術館を訪ねた。
 その時、初めて彫刻に正対したのだと思う。

 最初に、この4体の勇姿に圧倒された。
それぞれが発する『強さ』を、唖然と見上げていた。
 「すごい!」と思うと同時に、
それぞれが発する真実の叫びに、押し倒されそうになった。

 そして、もう1つ。
ロダンの『バルザック』だ。
 マントを被った大きな体が、
やや見上げた、その反り返るような立ち姿から、
あふれ出るエネルギーが、伝わってきた。
 ブロンズ像なのに、その力感に押され、
私は、近寄れなかった。

 それから、何度も箱根まで足を運んだ。
ブールデルとロダンのその像に、時を忘れた。

 彫刻、いや芸術作品の意味するところを探求などできない。
だが、その像の前に立つたびに、勇気づけられ、励まされ、
私の中に何かがみなぎった。

 もう20年も、遠のいたままだ。
今なら、どんな対面ができるのだろう。
 箱根の山々に囲まれ、佇むあの像の前に、
そっと歩み寄ってみたい。
 きっと、「よおし!」なんて、
この歳でも、新しい力が湧き出すに違いない。
   
 



   有 珠 山  初 冠 雪 
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