ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

花 を 贈 る !

2022-04-30 12:34:45 | あの頃
 ▼ 朝食の食パンを口にしながら、
花屋さんを舞台にしたドキュメンタリーを、
ぼーと見ていた。

 お祝い事、感謝の意、激励、そして供養にと、
花を求める方の動機は様々。
 でも、綺麗な花がそうさせるのか、
花束を抱えた表情は、みんな晴れやか。

 初老の女性が、花の苗を買い求め、
小さな鉢を手のひらにのせながら、
インタビューに応えた。
 「次第に大きくなり、やがて花を咲かせるのを見て、
毎年、励まされているんです」。

 共感しながら、つい引き込まれて見ていたら、
昔々の花にまつわるエピソードを、いくつか思い出した。


 ▼ 学生時代に知った歌だが、
作詞・作曲が誰なのか知らない。

     花をおくろう     

  吹雪の夜を歩いて来た
  めかるみをとび越えて来た
  日照りにたたかれて来た
  嵐の夜を走って来た
  手をとりあってあるいて来た
  ふしくれだった荒れた手に
  ふるさとをつくるなかまの手から
  花をおくろう オレンジの 

 オレンジ色の花がどんなものなのか、
その形状などのイメージは、今もできない。
 勝手に、野の花だと思っている。

 オレンジに開花した野草を摘み取り、
片手いっぱいに握りしめて、差し出す。
 この歌には、そんな花をおくるシーンが思い浮かぶ。

 きっと、数々の山河を一緒に進んできた人へ、
その花をおくるのだろう。

 小学校を卒業する子供らが、
この歌に込められた想いを、
どれだけ受け止められたかは未知数だ。

 それでも、6年生を担任するたびに、
卒業式の朝には、黒板いっぱいに、
この歌を書き、子ども達を見送った。

 本当は、お別れにと歌ってあげたかったが、
最後まで歌い終える自信がなかったので、
板書だけにした。

 子ども達が去った教室で、
小声で歌いながら、歌詞の1字1字を消した。
 矢っ張り、いつも最後まで歌えなかった。
 

 ▼ 教頭になった年の連休明けだった。
前年度までの勤務校で、離任式があった。
 式では、代表の子どもがお別れの作文を読み、
もう一人の子が花束を渡すのが慣例だ。

 ところが、渡されたのは花束ではなく、
あじさいの花の鉢植えだった。
 
 「教頭先生になると、切り花を飾る場所もないでしょう。
鉢植えなら職員室のどこかに置けるでしょうから」と、
購入担当の先生が、配慮してくれたのだ。
 これが幸いした。

 実は、翌日に、着任した小学校で大きなイベントがあった。
戦時中の疎開が縁で、
新潟県U村立の4つの小学校と姉妹校になっていた。
 その村の6年生約50人が、修学旅行の一環として、来校するのだ。

 10時頃から、全校で歓迎会を開き、
その後、数名ずつ各学級に別れで交流授業をする。
 最後に、給食をともにし、全てが終わることになっていた。

 校長と教頭は、引率してきた村の役員や先生方10数人と、
会議室で給食を共にしながら、交流を深める計画だった。

 なので、その朝、ふと思いつき、殺風景な会議室のテーブルの中央に、
昨日の離任式でもらった鉢植えを置いた。

 給食を食べ始める前に、改めて校長が挨拶し、
続いて村の課長さんが返礼に立った。

 「・・・U村の花は、アジサイです。
その花まで用意して頂き、こんな嬉しいことはありません」
と、話の最後を結んだ。
 
 言うまでもない。
アジサイが村の花だなんて、知らなかった。
 でも、校長は胸を張った。
「この花は、教頭先生が準備しました!」。
 「それは、それは・・」。
いっきに、私の株が上がった。

 弁解できないまま、 
私は、ややうつむいて黙って給食を食べた。


 ▼ 校長選考試験を突破してから、
昇任までに2年がかかった。

 その間、知人友人、先輩同僚、親戚などから、
校長になった時のお祝いをたびたび尋ねられた。
 
 ただ恐縮して、
曖昧な返事をくりかえしてばかりはいられなかった。
 だから、
「校長室をお祝いの花でいっぱいにできたら、なんて・・・」
と、冗談まじりに応じていた。

 もう20年以上も前になるが、
その日の校長室の光景は、ずうっと色あせない。

 4月1日、辞令伝達式と、
区長や教育長への着任挨拶を終え、
校長として初めて学校へ行った。

 校長室の扉を開くと、窓辺の棚だけでなかった。
部屋の周囲の床にまで、鉢植えの胡蝶蘭が並び、
色鮮やかな花束がテーブル上にいくつも重なっていた。

 大小の鉢には、贈り主の名前があり、
花束にはメッセージが添えられていた。
 遠くは、北海道からの兄や姉のものも・・・。

 ついに花瓶が足りなくなくなった。
傘立てやバケツまで動員した。
 そこに、『百万本のバラの花』の歌ような、
真っ赤なバラの大きな花束や、
真白なカラーとかすみ草だけの花束を入れた。
 校長室はお祝いの花であふれた。

 その後、2年ほど、
私は職員との不協和音に辛い日を過ごした。
 どれだけ、あの花いっぱいの校長室が私を支えたか、
はかり知れない。
 

 ▼ それほど年齢差はなかったが、
大きな影響を受けた先輩教員が4人いた。
 その方々が、1年ごとに次々と定年退職を迎えることになった。

 長年の教職人生への労いとともに、
私を導き、励ましてくれたことへのお礼がしたかった。

 年度末が近づき、その方法に迷いながら、
出退勤をしていた。
 その通勤途中に、店構えの小さな花屋さんがあった。
夜は遅くまで店を開け、
ライトに浮かぶ花がいつも目にとまった。

 ふと思い立ち、店に踏み入った。
人のよさそうなご夫婦と娘さんが、
手を休めて話を聞いてくれた。

 3月で、定年退職する先生がいる。
その先生に何か贈りたい。
 花束もいいと思うが、つき並みなので迷っている。
でも、人生の大きな節目に、
抱えきらないほど大きな花束なら、どうかなと思って・・。
 それを31日にその先生の学校まで届けてもらうとしたら、
いくらかかるだろうか。

 一気に、私らしく熱く語ってみた。
主人は、私の予算内の金額を言い、
「抱えきれないほどの花束をうまく作れるかどうか。
でも、お客さんの期待を裏切らないようにします」と笑顔を作った。
 奥さんも娘さんも、ニコニコとうなづいてくれた。

 翌年、同じ時期に、再びその花屋さんを訪ねた。
私の顔を覚えていてくれた。
 同じように、抱えきれないほどの大きな花束を、
31日届けてほしいと頼んだ。
 うれしそうに3人は、私の注文を受けてくれた。

 そして、次の年もまた次の年も、
3月にその花屋さんを訪ねた。
 「そろそろ今年もおいでになる頃と、
噂してました。
 どういう訳が、同じ料金なのに、
年々花束が大きくなるんですよ。
いいですよね」。
 うれしそうに、そう言いながら領収のレシートを渡してくれた。
年1回だが、行くたびに3人との距離が近くなった。

 4年目に、「来年からは、もう贈る人がいません」と伝えた。
すると、事前に用意していたらしく、娘さんが、
「帰りの電車の邪魔になるかもしれませんが」と、
手提げの紙袋に素敵な花束を入れ、持たせてくれた。




    新緑の柳に 春風 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分の一部を失っても

2022-04-23 14:56:30 | 思い
  その1

 まだ30歳代の頃だ。
K校長先生が私の勤務校に着任した。

 すぐに児童用昇降口の外側と内側に
『おはようございます』と『さようなら』の
色鮮やかな大文字の標語を貼った。

 そして、開口一番、私たち職員に、
「挨拶は大事です。繰り返し指導するようにしてください」と言った。
 「ちょっと型破りな先生」が私の第一印象だった。

 その後も、私のイメージする校長先生とは、
違う言動がたびたびあった。

 例えば、月曜日には全校朝会があるが、
K先生は、2つの新しいことを始めた。

 その1つは、祝日講話だ。
祝日がある週は、私たち教員の1人に、
その祝日の意義などについて、全校児童を前に話すように求めた。
 2年に1度、輪番でその講話が回ってきた。

 私の初めての祝日講話は、「11月23日勤労感謝の日」だった。
新嘗祭とからめて、「どんな仕事も誰かの役に立っているんです」。
 そんなことを、緊張しながら話したことを、
今も鮮やかに覚えている。

 話し終えて降壇した私に、K先生は、
「この中の何人かの先生は、やがて校長になるでしょう。
 そのために、早くから講話の経験をした方がいいんです」。

 当時の私には思ってもいないことで、どう応じた忘れたが、
その経験が、校長になってからの私を随分と助けてくれた。

 全校朝会での2つ目の新しいことは、
なんと手品だった。

 毎月第4週の全校朝会で、K先生は手品を1つ2つ披露した。
手先の器用な方で、仕掛けのほとんどが手作りだった。
 成功すると、子ども達から大きな歓声が上がった。

 私たち教職員も手品の推移に固唾をのんだ。
うまくいくと、何故か胸をなで下ろした。

 全校児童と全教職員が、同じ1つの行為に息をひそめ、目をこらした。
みんなの心が一つになる、アットホームな素敵な時間が流れた。

 そして、こんなことも・・・。
風の強い中で、全校朝会が始まった。
 K先生は、朝礼台に児童用机を置き、
水の入ったコップを持ち上げ、机の空コップに移した。
 空コップに貯まるはずの水が、
どこかに消えて無くなる手品の予定だった。

 ところが強風で、空コップの仕掛けが動くらしい。
思い通りにいかないのだ。
 ついに、K先生は私を朝礼台に呼び、
そっとその仕掛けを押さえるようにとささやいた。
 
 狭い朝礼台の児童用机前に屈み、
強い風に吹かれながら、私は手品の小さな仕掛けを押さえた。
 だが、何度試みても、水は消えて無くならない。
それどころが、私のズボンは失敗するたびに水で濡れた。

 「今日の手品は、失敗でした。
来月は、必ずいい手品をします。お楽しみに」。
 最後に、K先生はそう言って朝礼台を降りた。

 「来月も、また補助を頼むかも!」。
K先生は、濡れた私のズボンなど気にもかけず、明るい顔だった。
 不思議な魅力があった。
ズボンのことよりも、次回は必ずうまくやってほしいと、
心から思えた。

 以来、K先生とは30年以上にわたり、
お付き合いをさせてもらった。
 児童文化研究会では、年齢は離れていたが
会の発展を願い、共に力を合わせた。

 そして、5年前、
K先生は、春の叙勲者になった。
 私は、その祝賀会の発起人代表をした。

 落語家さんやら、大相撲の親方さんやら、
脚本家・演劇人やら、学校関係者に止まらない面々からの祝辞に、
K先生は、最高の笑みで応じていた。
 最後は、やはり得意の手品で、その会を自ら締めた。
幾つになっても、周りを楽しませる方だった。

 その先生が、昨年末、亡くなった。
ご遺族は、コロナ禍のため身内だけの家族葬にした。

 生前、K先生からは、そっと弔辞の依頼があった。
「家族には、伝えておく」とのことだったが、叶わなかった。


  その2 

 4月16日の朝日新聞『折々のことば』が、心に響いた。

 哲学者・鶴見俊輔さんの著「神話的時間」の一文があった。
『老いることは、自分の付き合っている他人が死ぬことなんです。
 他人の死を見送ることです。』

 そして、この小欄の筆者・鷲田清一さんは、こう解説する。

 『大切な人、親しい誰かの死は、私がその人を亡くすこと、
いいかえると私が自分の一部を失うこと、
つまりはその人に私が死なれるということでもある。

 そのかぎりで自分がずっとかかわってきた人の死は、
日づけのある一度かぎりの出来事なのではなくて、
喪失という生の体験である。
 だから、後をひく。』

 この『折々のことば』は、何度も何度も読み返した。

 哲学者は、「老いることは・・他人の死を見送ること」と説く。
そして、鷲田先生は言う。
 「大切な人・の死は、・・自分の一部を失うこと・・。
そのかぎりで・・喪失という生の体験である。
 だから、後をひく」と。 

 昨年2月に逝った兄の納骨が、
家族の都合で延び延びになっていた。
 やっと5月の連休に、
父母の待つ墓に納められることになった。

 そして、連休明けには、義母の一周忌法要が待っている。

 最近では、冒頭のK校長先生が逝った。
それだけではない。
 教頭職だった6年間で、4人の校長先生のそばにいた。
3月にそのお一人が亡くなった。

 同じ教頭職の頃、研究発表をした私を、
高く評価をし、その後の自信をくださったS先生の訃報も、
つい先日届いた。

 大切な人、一人一人の死を次々と見送っている。
その度に自分の一部を失っているように思う。
 確かに、喪失という生の体験が、いつまでも後をひいている。
だから、老いるのは当然なのかも・・。

 しかし、どれだけ納得しても、
老いの足音は「無性に、切ない!」。
 「やっぱり、不死鳥でいたい」と頭を上げる。

 「そうだ!」。
失うのは致し方ない。
 でも・・・、その分、得るものがあったら、
老けないで済むに違いない・・・。
 さて、それができるかどうかだ・・・。 




     春 到 来 !  ル ン ル ン !
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サッカーとクラリネット

2022-04-09 16:52:47 | 思い
 ▼ まん延防止の措置が解除されたものの、
当地で発表される1週間ごとの感染者数は、
100人超えが続いたままだ。

 収束どころが、深刻さが増しているように思えるが、
危機感は、どんどん薄れていく。
 この先への不透明感に、暗い気持ちになるのは、
私だけでないはず・・・。

 その上・・・。
テレビも新聞もネットニュースも、
ウクライナでの残虐な戦況を、連日伝える。
 苦戦するロシアが、
「いつ生物・化学兵器の使用に踏み切ってもおかしくない」と、
言い切る専門家までおり、
テレビ画面にニュース速報のテロップがでるたびに、緊張する。
 
 多くの人びとが、一刻も早い終戦を願っているものの、
悲惨な事態を、世界の英知が止められないでいる。
 それが、今の世界なのだ。 

 「なんて人は愚かで、なんて無力なんだ!」。
私だけじゃない。
 そうぼやきながら、
多くの人がこの1ヶ月半を過ごしてきた。

 そのような最中、先日、テレビニュースが、私に光をくれた。
満開の桜の下で、大学の入学式に出席した新入生が、
インタビューに答えた。

 「教育は、平和につながります。
だから、大学で勉強して、先生になろうと思います」。
 
 私が信じた同じ道を、
胸張って歩もうとする青年がいる。
 「私にもできることが、まだまだある」。
そう気づかせてくれた。

 だから、今日もいつものように・・・、
私の周辺にこぼれている輝きをスケッチする。

 ▼ 「北の湘南」にも春がきた。
雪かきでできた雪山が、花壇からすっかり消えた。
 同時に、子ども達の春休みも終わった。

 今朝も、窓から見上げた空は、明るい青一色だ。
朝食の時を過ごしていると、我が家の前を、
5人の男の子が一緒に登校していった。

 昨年度から1学年上がって、
4人は5年生に、1人は2年生になったはずだ。

 10分も待たずに、今度は、
3年生になった制服姿の女子中学生が、
小走りに過ぎて行った。

 3月までなら、この後しばらくすると、
反対方向から、2人の男子高校生が自転車で走り抜けた。
 その姿を見ることは、もうない。

 リビングルームの窓から、こんな4月の光景を見ながら、
モーニングタイムを過ごすのが、日課である。

 1年また1年と、登校する子どもが成長し、
やがて、次々と姿を消していく。
 昔も今も、頼もしさと寂しさが、
ずっと私の中で同居している。

 ▼ そんな想いでいると、
ふと、懐かしい2人が、脳裏に浮かんできた。

 5年も前の3月末のことだ。
雪の消えた庭で、整地のまねごとをしていると、
通りがかった中学生が、突然立ち止まり、私を見た。

 彼には、朝ランで自宅そばまで戻ると、
よく出会った。
 いつも立ち止まり、わざわざ帽子を脱いで、
朝の挨拶をしてくれた。
 その折り目正しさが印象的で、しっかりと顔を覚えていた。

 庭の私に向かって、元気よく言った。
「4月から、K市のM高校へ行きます。
サッカーがしたいので、寮に入って頑張ることにしました。」

 彼がサッカーをしていることは、うすうす知っていたが、 
不意の決意表明に驚いた。
 いつも通り彼は、帽子を脱ぎすっと立っていた。

 「サッカーで有名なM校ですか。
親元を離れてのサッカー留学だね。」
「はい、そうです。」
 「それは大変だ。よく決めたね。」
「最後は、自分で決めました。」
 「すごい。頑張って!」
「ありがとうございます。さようなら。」
 一礼すると、帽子をかぶり直し、
彼は、足早に去っていった。

 以来、ずっと会ったことがない。
その後の消息を知る方法もない。
 サッカーはどうしたのだろうか。
今も続けているのだろうか。
 いずれにしても、
彼なら素晴らしい日々を過ごしているに違いない。
 
 ▼ 初めて朝の挨拶を交わしたのは、
彼女が中学生の時だった。
 長い髪を三つ編みにし、通学鞄と一緒に、
いつも黒い楽器ケースを持っていた。 

 ケースの楽器がクラリネットであることを知ったのは、
1年が過ぎてからだった。

 いつも人懐っこい笑顔で、朝の挨拶をするだけだったが、
ある日、登校途中の彼女に、声をかけてみた。

 「吹奏楽をしてるの。」
「はい。」
 「何を吹いているの。」
「クラリネットです。」
 「今度、市民音楽祭があるけど。出場するの。」
「はい、今、特訓中です。」

 市民音楽祭のプログラムが進み、
彼女の中学校吹奏楽部の演奏になった。
 沢山のメンバーと一緒に登場した彼女は、
片手にクラリネットを持って、堂々としていた。
 いっぱい拍手をした。

 進学した高校は、バス通学だった。
朝ランでバス停を通ると、時々黒い楽器ケースを持った彼女を見た。
 変わらず笑顔で、挨拶してくれた。

 3年が過ぎた朝、自転車で我が家の前を通るのを見た。
ショートカットにした彼女を呼び止め、声をかける機会があった。
 地元の看護学校へ行っていることが分かった。
「しばらくクラリネットはお休みです」と明るく言っていた。

 そして、昨年のことだ。
ジューンベリーの実をつんでいた時に、
レジ袋をさげた娘さんが通った。 
 すっかり大人顔になった彼女だった。
懐かしさのあまり、遠慮を忘れ声をかけた。

 「だいぶ前に看護学校は終わったよね。
もう看護師さんなのかな。」
 「そうです。今は、T病院で看護師をしてます。」
「T病院か。そう遠くないなあ。
 もう少し年寄りになったら、お世話になったりするかもね。
その時はよろしく頼みます。」

 半分冗談、半分本気の私が、そう言いながら、
成長の早さとたくましさがまぶしくて、
つい目を細めた。




    キバナノアマナも 咲いた
                 ※次回のブログ更新予定は4月23日(土)です
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

晴れたり曇ったり <3話>

2022-04-02 13:56:55 | 
 ① 待ちに待った3回目のワクチン接種の日が来た。
集団接種会場へ行くと、入口玄関に係員が構えていて、
検温を促された。

 そして、すぐに案内係に誘導され、受付へ関係書類を提出する。
その後も、数歩進むと係員が、次へ次へと私を導く。
 何も戸惑うことなどない。
あっという間に、左上腕へ注射針が打たれた。

 「針が刺さった箇所と小さな絆創膏を張ったところが、
違っているのでは?・・」。
 でも、それを訴えるほどの大事ではないと思い、
押し黙った。

 その後は、椅子の並んだ場所で15分間の待機だ。
同世代の顔なじみが何人もじっと座っていた。
 1分刻みに、担当者から待機制限が解かれ、次々と立ち上がる。
私も同様にその時を待ち、最後は会場出口へ向かう。
 再び、玄関で係員が、今度は外を指差し帰宅を促した。

 高齢者の集団接種である。
誰一人迷うことなく進めるには、
これだけの気配りがいるのだろう。
 運営のご苦労を思うと、
他地域に比べて接種時期が遅かった当地の対応への不満も、
小さくなった。

 左腕に痛みは出たものの、
幸いなことに高熱などの副反応がなく、
まもなく1週間が過ぎる。

 そこで、
「よ~し、少し安心してしばらく暮らせる!」
と、意気込んだ矢先だ。
 「政府は4回目接種用として、
ファイザー製とモデルナ製の確保を進めています」
のニュースが流れてきた。
 「いったい、どう言うことだ」。
安堵の想いが再び遠のき、心が曇った。

 まだまだ先は見えない。
コロナ騒動は、これからも長く続くのか・・・。


 ② 雪解けが進んだが、小雨の降る夕暮れ時に、
買い忘れた物を思い出した。
 急ぎ、市内のスーパーへ車を走らせた。

 左折して、その店の広い駐車場へ入ろうと、
ハンドルを切った。
 すると、一瞬、左後輪が縁石に乗り上げ、車体が傾いた。
わずかなミスだが、長い運転歴で初めての経験だ。

 ショックだった。
自宅に戻ってから、何度もその時を振りかえった。

 確かに、雨と夕暮れで、駐車場入り口の左側面がよく見えなかった。
だから、左折のタイミングを間違えた。
 ミスの原因はそれだと思った。

 それにしても、
雨と夕暮れの条件は、特別なことではない。
 「よく見えない」なんて、
今までには考えられないことだった。
 不安が膨らんだ。
確かに、視力の衰えは少しずつ気になっていた。

 突然、同年齢の何人かが、
白内障の手術を受けたことを思い出した。

 年に1,2回だが、一緒にゴルフをする友人と、
手術後はじめてラウンドした時だ。
 私のドライバーショットがバンカー方向へ飛んでいった。
てっきりバンカーへ入ったものと思った。
 ところが、「50センチ位手前で、止まっているよ」。
彼は自信満々だった。

 近くまで行くと、彼の言った通り、
ボールがフェアウエーに残っていた。 
 「手術したら、よく見えるようになったんだ」。
彼は胸を張った。
 どの人も術後の感想は同様だった。

 彼らにあやかりたい。
「私も手術してもらおう!」。
 思い立ったら、一刻も早い眼科受診を望んだ。
 
 数日を待って、予約が取れ、
初めて眼科の検査を受けた。
 幾つもの検査機器のレンズをのぞいた。
気づくと、2時間以上が過ぎていた

 対面した医師は、検査結果と自らの診察から
「白内障については、まだ手術する必要はありません。
これ以上悪くならないように、薬を出します」。

 手術で、画期的な改善を期待しながらも、
「その必要なし」の診断結果に、小心者の私は胸をなで下ろした。

 ところが、医師は続けた。
「それよりも、眼圧が高くて、
このままでは、やがて緑内障になる可能性があります。
 眼圧を下げる薬で様子を見ましょう」。

 予期しないことだった。
医師は、緑内障は失明にもつながると説明していたようだが、
もう上の空だった。

 検査で焦点が定まらないままの目で、
眼科医院近くの薬局から外を見上げた。
 晴れていたはずが、重たい雲に変わった。

 年齢に伴う衰えは、誰もが同一ではない。
私の新たな老化に唇を噛みながら、
それでも、まだ高い空を見続けていようと誓った。


 ③ 早春の朝は、快晴で無風の日が多い。
まだ肌寒いが、10日前から、
体育館のランニングを、外の朝ランに変えた。

 矢っ張り爽快感が違う。
そして、矢っ張り伊達の景観が好きだと思った。
 
 やや上り坂がきつい5キロの終盤だった。
顔見知りのご夫婦が散歩していた。
 追い越しながら、挨拶をした。

 すると、ご主人が私を見て、訊いた。
「今年の伊達ハーフは、どうするの?」。
 少し走りを緩めて振り返り、応じた。
「まだコロナだがら、高齢者は避けた方がいいでしょう。
今年は止めにしました」。
 
 もう2ヶ月も前に決めたことだ。
エントリー締め切りもずっと以前に終わっている。
 だが、誰にもそれを言わずにきた。
いや、誰かに言う機会もなかった。

 不参加を初めて口にした。
すると、急に気分が軽くなった。
 不思議な感覚に、私が驚いた。

 そんな変化に想いを巡らせながら、
上り坂ランを続けた。

 伊達ハーフマラソンについては、
3年前に途中棄権してから、再開を待ち望んできた。
 やっと、今年、リベンジの時がきた。

 でも、私は、ワクチン接種でも優先してもらう
高齢者だ。
 「まだ、出番じゃない」。

 そう決めたが・・・。
心は、晴れていなかったようだ。
 ご夫婦を追い越した時の問いへの答えが、
それに気づかせた。

 5キロを走り終え、まもなく自宅に到着。
「なんだ、お前!・・もう1年待てばいいだけ・・」。
 私へ、そう笑ってみせた。




    やっと 今年の 福寿草
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする