ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

だての人名録 〔7〕

2018-09-28 22:40:53 | 北の湘南・伊達
 13 女性ならでは(?)

 たまたま表記テーマで、伊達で出会った何人かの中高年女性を、
スケッチしようと思い立った。
 そんな矢先、朝日新聞のコラム『折々のことば』<下記>に、
パッと明るい気持ちになった。

  母ちゃんは、信じられないところから褒め言
  葉を持ってくる。
                  山里亮太
    学校で先生に叱られた時は「反省してる
   感じ出すのうまいねぇ」と、この子はすぐ
   嘘をつくと言われた時は「聞かれてすぐに
   何か言えるって、しかも作って言えるって
   すごいねぇ」と、お笑い芸人の母は言う。
   そんな信頼の過剰に、息子はふつう、そこ
   まで言ってくれなくても、と退いてしまう。
   “親馬鹿”は子に、ときにクールな自己認
   識をもたらす。『天才はあきらめた』から。

 古い出来事だが、南海キャンディーズの山里亮太さんと、
息子の友だちが親しくしていると聞いた。
 それだけだ。
だが、それ以来、テレビに彼が出ていると気になった。

 あの悪びれない明るさの源泉は、お母さんにあった。
しかも、息子をして
『信じられないところから褒め言葉を持ってくる』
と言わせるお母さんなのだ。

 私などには全く思いもつかない、
肯定感山盛りのお母さんの言葉。
 さほどの深い意味はないが、
『女性ならでは』の凄さ、素晴らしさを感じた。
 羨ましくもあり、頼もしくも思える。

 さて、ここからは、伊達での日々から、
私が感じた「女性ならでは」のいくつかを記す。


 ①
 移住して、数日後のことだ。
家内と一緒に、市内探索を兼ねて、朝の散歩をした。

 初めて『だて歴史の杜公園』に着いた。
カルチャーセンター前の芝生の広場に、6月の朝日が降っていた。
 それだけで、爽快感があふれた。心が弾んていた。

 事前知識がないまま、開拓当時の迎賓館に足が向いた。
わずかだが、伊達の歴史を知った。
 心穏やかな時間が流れた。

 そして、吸い寄せられるように、
高い木々が乱立する『野草園』へ進んだ。

 どんな花が咲いていたのが、思い出せない。
だが、その一帯は、様々な草花におおわれていた。

 こんな素敵な朝に出会えたことが嬉しかった。
幾筋もの、木漏れ日が陽矢のようだった。
 その野草の小道に、女性が1人いた。

 朝の挨拶と一緒に、声をかけてみた。
 「素敵な公園ですね。」
「そうかい?」
 「はじめてですが、ここはいいですね。」
「野草園って言うんです。
私たちで、世話をしているの。」

 そんな会話の続きで、
私は、数日前に移住してきたことを伝えた。
 するとその女性が言い出したことが、
心に刻まれている。

 「伊達に、知り合いはいるのかい。」
「いえ、1人もいません。」

 「そりゃ、心細いね・・・。
あのね、長生大学って言って、年寄りが集まるところがあるよ。
 そこに行けば、きっと沢山知り合いができるよ。」
「そうですか。それは・・」。
 好意に、少し心が熱くなった。

 なのに、次だ。
「行ってみるといいよ。私は、行かないけどね・・。」
 「えっ、どうして?」
「今さら、勉強なんて、メンドクサイもん!」

 その女性は、そう言い捨てると、
さっさと歩き出し、
最後に
「詳しいことは、市役所に訊くといいよ」。

 私は、返す言葉がないまま、しばらくその後ろ姿を見送った。
 
 
 ②
 3年前から、地域のパークゴルフの会に仲間入りしている。
4月から10月初旬まで、月2回、20数人のメンバーで、
ワイワイガヤガヤと、笑い満載のプレイを楽しんでいる。

 その会も、今シーズンは後1回で終わりである。
例年通り、夏は急いで駆け抜けていった。
 そして今、郊外の道端では、銀色のススキの穂が、
風に揺れている。

 そろそろ製糖工場の煙突から白煙が上り、
国道は、ビート根を山積みしたダンプが、賑わうことだろう。

 海に接している街だが、三方は山に囲まれている。
その山々も、そして街中の街路樹も、パークゴルフ場の樹木も
これから色を替える。

 さて、丁度2年前の今頃だ。
見事な紅色が、伊達の秋をおおった日、
パークゴルフの最終回だった。

 私は、いつにも増して浮かれていた。
山々が、赤色に輝いていた。
 パークゴルフ場の芝生は、緑色がまだつややかだった。
そんな綺麗なシチュエーションが、私を上気させていた。

 プレイの最中、何度も立ち止まり、遠くの山々を見た。
時には、近くの木を見た。
 赤いグラデーション、黄色を帯びた葉、
そして全てを赤くした背景。

 パークゴルフもゴルフと同じで、4人が1組でプレイする。
私は、そのメンバーに何度も言った。

 「山も、この周りの木も、紅葉してますね。
綺麗ですね。」
 「そうね。」

 メンバーはみな、ひと言だけ私に応じ、
すぐにプレイに集中した。

 それでも、私はたびたび紅葉の美しさを語りかけた。
「紅葉って、綺麗ですね。」
 「あっちの山も真っ赤だ。すごい。」
「この木も、色づいている。」
 こりずに、言い続けた。

 すると、ラウンドの途中で、メンバーの女性が突然言った。
「綺麗だけど・・。秋だから、当たり前でしょ。」

 一瞬、打ちのめされそうになった。
それでも、その後も、綺麗な山々と木立に目を止め、
プレイした。
 私の幸せ感は、続いたままだったが・・・。
少し心が傷んだ 
 
 ③
 私の地域は、綺麗な花壇のお宅が多い。
それと同じように、家庭菜園に力を入れている方も少なくない。

 我が家も時々、そんな家庭菜園の恩恵を受ける。
つい先日も、
「採れ過ぎたので、食べて・・」。
 そう言って、袋いっぱいのミニトマトを頂いた。

 今の時期、朝食に並ぶトマトやピーマンを見て
「今日のは、誰からもらったの?」
 「昨日はAさんで、今日のはBさん」。
こんな会話が日常なのだ。

 さて、先日、家内が入っている女性コーラスサークルが
近隣の町の『音楽祭』に参加した。

 年に何回かの発表の機会だ。
そんな時は、できるだけ聴きに行くようにしている。

 いくつものコーラスグループが舞台に上がった。
ここでも、高齢化が進んでいると、いつも思う。
 でも、トビッキリのコーラス衣装に着替え、
若干の緊張感と一緒に歌う姿は、無条件に私の心を熱くする。

 さて、家内の女性コーラスだが、
私の耳には、その日聴いたコーラスで一番いいできばえだった。

 素敵な歌声が、メンバー全員を輝かせていた。
つやのあるパール色のロングドレスを着た一人一人が、
ひときわ、美しく見えた。

 それから数日が過ぎた。
徒歩で15分ほどだが、郵便局まででかけた。
 その帰り道、何を思ったか、
いつもと違う道を通ることにした。

 そこには、家内のコーラス仲間のご自宅が、
向かい合わせに2軒あった。
 
 ブラブラとその1軒のお宅の前を通った。
家庭菜園があった。
 そこで、女性が1人、しゃがみ込んで雑草取りをしていた。

 その姿が、まさに農家のおばさんそのまま。
かすりの野良着に、日焼け防止のためか、つば付き帽子で顔まで隠していた。
 それでも、コーラスのメンバーだと、私には分かった。

 挨拶をためらい、素通りした。
コーラス衣装に身を包み、
あの素敵な歌声のドレス姿とのギャップに、戸惑った。

 そして、2軒先のはす向かい。
ここにも、家内のコーラスのお仲間がいた。
 「エッ、ここも家庭菜園。」
生け垣の向こうに、野菜畑があった。

 そして、女性が作業をしていた。
同じような格好で、前かがみになりながら、
何かを拾い集めていた。

 同じ光景を、2度も見た。
インパクトが大きかった。

 我が家までの道々、
ステージで歌う素敵な姿の映像が蘇った。
 そして、顔をおおった野良着姿が脳裏でくり返した。

 「その両者があって当然なのだ。」
そう思うことに、私はエネルギーを使っていた。 




  秋が深まる 稲刈りが終わった
  
  ※次回のブロク更新は、10月13日(土)の予定です。             
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ウッッ! 腰が・・・

2018-09-15 20:22:05 | 思い
 ◆ 30歳代半ばの頃、2度目の異動があった。
都心区の小学校になった。

 まだ有楽町線が全線開通しておらず、
勤務校へは、東西線門前仲町駅から、
都バスに乗り換え、降車後は10分ほど徒歩の通勤だった。
 自宅からは、片道1時間半も要した。

 そこで私は、「少しでも時間短縮を」と、
門前仲町からは約15分の自転車通勤にした。

 それまで使っていた前カゴ付きの、
いわゆる『ママチャリ』をやめて、
ドロップハンドルの軽快な自転車を購入した。

 前傾姿勢で、変速ギアを切り換えながら、
片側2車線の広い道路を、風を切って走った。
 爽快感があった。

 だが、その自転車には2つも誤算があった。
1つは、ズボンのすそがチェーンに、よく引っかかる。
 絡んだりして、こげなくなることはないが、
チェーンの油で、すそが汚れた。
 相手が油なので、目立つし、
すぐには汚れをおとせないのだ。
 
 仕方なく、チェーン側の右足のすそだけ太いゴムで止めた。
さっそうと乗るはずが、ややかっこよさが半減した。

 もう1つの誤算は、ドロップハンドルによる前かがみだ。
この自転車に乗り始めてすぐから、この姿勢には違和感があった。
 信号待ちなどで、地面に片足を伸ばす。
そのたびに、腰への負担を感じていた。

 そして、遂に異常が発覚した。
勤務を終え、自宅の扉を目の前にした時だ。
 当時は、団地の1階に居を構えていた。

 玄関の扉まで、3段の階段へ1歩を踏み出した。
突然、腰を激痛が襲った。
 「うわっあっ!」
そんな声だったと思う。

 目の前が、自宅玄関なのに、
階段へ片足を置いたまま、動けなくなった。
 動こうにも、激しい痛みで足が出ないのである。

 その場に15分以上もいただろうか。
同じ階段を利用する方が、帰宅してきた。
 腰に手を当て、じっとしている私に声をかけてくれた。

 事情を話し、自宅の呼び鈴を押して貰った。
その後、家内の手を借り、
布団に横になるまでどれだけ時間がかかったろうか。

 若い頃から、時折腰痛を感じていた。
しかし、こんな激痛は初めてだった。

 翌日、なんとか整形外科医院へ行った。
すごく痛い思いをして、レントゲンを何枚も撮った。

 医者は、そのフィルムを診ながら、
「この骨とこの骨の間だが・・・」と説明した。
 そして、痛み止めの注射を打ち、
腰の患部に、マイナス何度だかの冷気を、強く吹きかけた。

 痛がる私の姿勢をくり返し変えて撮ったレントゲンと、
治療の関係が、全く理解できず、
 2度とその医院には行かなかった。
しかし、1週間程で痛みが消え、歩行もできるようになった。

 これが、人生最初の『ぎっくり腰』体験だった。
それからは、時々忘れた頃に、腰痛に見舞われた。
 でも、一番激しかったのは、
あの時のものだったと記憶している。

 「ドロップハンドルの自転車だったから」
今もそう思っている。
 だが、その後も2年程、その自転車に乗り続けた。
なのに、不思議なことに『ぎっくり腰』を忘れて過ごした。


 ◆ さて、話題は急変する。
まずは先週のことだ。

 台風21号が近畿地方を直撃する。
またまた大変な被害が出そうで、暗い気持ちになった。

 台風の進路を見ると、
5日の朝には北海道の日本海側を通過する。
 昨年の台風被害を思い出した。
嫌な予感がした。

 珍しく『備えあれば!』と、
ホームセンターへ防災グッズを買いに行った。
 なのに防災用品のコーナーなどなく、
それらしき物も探せなかった。

 仕方なく、予備の電池を多めに買い、
太いろうそくもつけ加えた。

 私の珍事は、まだ続いた。
自宅に戻ると、すぐに懐中電灯の明かりを確かめた。
 その上、携帯ラジオの感度まで点検した。

 さらに、花壇が気になり、夕暮れまで、
やや背の高い宿根草の咲き終わった花を摘んだりして、
風で倒れるのを防いだ。

 しかし、案ずるより何とかだった。
早朝、強風が吹き荒れたが、
伊達市内に大きな被害はなかったようだ。

 ところがだった。
翌日午前3時過ぎ、大きな揺れで目ざめた。
 「震度5弱だ。
きっと、どこかで大きな地震になっている。」
 すぐに、思った。

 早速、テレビを入れた。
震源地と各地の震度を知らせていた。
 大きな被害がなければと、願った。

 そして、間もなく突然電気が切れた。
暗闇の中で、昨日、台風に備えていた懐中電灯と携帯ラジオを探した。
 ここで役立つとは思わなかった。
全道で大規模停電になっていることを、ラジオが連呼した。

 5時を過ぎた頃から、LINEと携帯メールが頻繁になった。
『大丈夫ですか?』
 首都圏で地震後の映像を見た知人・友人からだった。
心遣いが嬉しかった。
 
 大きな被害が出ているのだと感じた。
でも、その情報を入手する手段はなかった。
 ただただ停電の回復を待った。

 2人の息子からは、
携帯のバッテリーを心配するメールが届いた。
 返信と情報入手で、
どんどんバッテリーがなくなった。

 お隣さんが「これを使って」と、
携帯用バッテリーを貸してくれた。
 
 翌7日の夜、ようやく我が家にも電気がきた。
今も、物不足は若干あるものの、生活は元に戻っている。

 さてさて、この10日間あまりだが、
私には、異変があった。

 原因は、台風に備えた花壇の転倒防止だ。
屈んだ姿勢で、長い時間咲き終わった花を摘んだ。
 場所によっては、腰をひねってハサミを使った。

 翌日から徐々に腰が痛み出した。
座っていても鈍痛があって、不快だった。
 トイレで、便器の蓋を下ろそうとした時だ。
遂に激痛が襲った。

 痛さをこらえて、ようやく夕食を摂った。
早々とベッドに入った。
 そして、地震だった。

 6日は、一日中停電していた。
私も、動くと痛みが激しくなるので、
横になって、そのまま1日を過ごした。

 日中の住宅街は、
いつにも増して静まりかえっていた。
 痛い以外の言葉がないまま、
痛みと向き合い、私も静まりかえっていた。

 真っ暗闇の長い夜だった。
それが私には、幸いした。
 横になるしかなかった。
長い時間を、ベッドで横になった。
 横になっていると痛みが消えた。
翌朝には、静かに歩けるようになった。

 午後、よくお世話になる整骨院の停電が回復した。
治療して貰った。
「まあ、10日はかかるでしょう。」

 見立て通りだ。
私の腰も、今は大分回復した。

 原因は、花壇だ。
でも、あの自転車同様だ。
 今後、花の世話をしても、腰痛にはならない気がする。 
だって、自転車の時もそうだったから・・・。




 『歌仙草(カセンソウ)』と言うらしい、名前がいい!

     ※次回の更新は、9月28日の予定です。
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ああ 思い込み ~ 岐阜編

2018-09-01 14:47:10 | あの頃
 朝ドラ『半分 青い』もあと1ヶ月で終わる。
毎朝、泣いたり笑ったりと相変わらずだが、
鈴愛と律をついつい応援している私。
 まさに、制作者の思う壺である。
 
 ところで、このドラマの多くは、岐阜が舞台になっている。
岐阜は、大好きな斎藤洋さんの『ルドルフとイッパイアッテナ』の
舞台でもある。
 だから、好印象をもっていい。

 なのに、もう相当昔になるが、
ここは、「ああ思い込みに続く思い込み」があった地で、
私の恥部になっている。

 1年近く前、我が一家全員で船橋で会食をした。
その場で、岐阜へ家族旅行したことが話題になった。

 「きっと忘れているだろう。」と、
期待していたのに、長男が、言い切った。
 「あのことは、しっかりと覚えているよ。」

 「あれは、反省した。ちょっとした勢い。忘れてほしい・・」
すかさず、明るく言い逃れを口にした。
 長男の記憶は、ある1つのことだけだったが、
一番忘れてほしいものだった。

 ◆ 確か長男は小学4年生、二男は1年生だった。
暮れが近づき、正月をどう過ごそうか、
夕食後の話題になった。

 その時、丁度テレビから、
五木ひろしの『長良川艶歌』が聞こえてきた。
 思いつきも、はなはだしい。
「よーし、岐阜へ行こう。
鵜飼いを見たりして、織田信長の岐阜を見物しよう。」
 父の突然の提案である。
家族は何も言えなかった。

 早速、大晦日から正月にかけて2泊3日、
長良川沿いの温泉宿と新幹線の指定席を手配した。
 後は、旅行ガイドをザッとめくってみた。

 近くには、犬山城も、明治村も。
岐阜市内には、お城もあるようだし・・・。
 現地へ行ってから、観光計画は考えればいい。
そんな緩い緩い旅行だった。

 これが、『ああ思い込み』の始まりになった。

 ◆ 旅館に着いて、最初の思い込みが発覚した。
有名な長良川の鵜飼いである。
 私は、季節を問わず、いつでも見物できると思っていた。

 だから、
「鵜飼いは何時からですか。」
 部屋に案内されてすぐ、仲居さんに尋ねた。
「お客さん、10月で終わってます。」
「エエッ、やってないの!」

 岐阜まで出向いた大晦日。
温泉には入ったが、後は紅白歌合戦を見て終わってしまった。

 私は、旅館にあった観光ガイドを次々と手にとり、
翌日の計画を練った。

 ◆ 元日、朝食を終え、若干時間をおいてから、
最初に、初詣を兼ねて、市内の正法寺と言うお寺へ行った。
 一番の目的は、ここにある『岐阜大仏』だった。

 昨夜、観光パンフレットで食い入るように見た。
『日本三大大仏』だと言う。
 奈良の大仏、鎌倉の大仏、そして岐阜の大仏なのだ。
思いがけない大仏との出会いに胸躍った。

 家内にも子ども達にも、
『三大大仏』への期待を口にした。
 そして、大仏殿へ足を入れた。

 確かに大きい仏像だった。
しかし、奈良や鎌倉の大仏とは、おもむきが全然違った。
 
 一応、初詣なので、その大仏に合掌し、新年のご挨拶をした。
しかし、どこか釈然としない。

 大仏の説明書きを見た。
別名『籠大仏(かごだいぶつ)』と言うらしい。
 竹材を編んで形を造り、
粘土で固めた上から和紙を貼ったものだった。
 だから、私の知る大仏のあの重厚さが、感じられないのだ。

 これとて大きさは大仏。
しかし、私の期待感は小さく縮んだ。
 あまりにも『日本三大大仏』への思い込みが過ぎたのだ。

 お寺を出て、家族には言い訳も出来なかったぁ。

 ◆ その後、電車に乗り、名鉄犬山駅へ行った。
目的は、『日本モンキーセンター』だ。
 観光パンフレットによると、
「世界屈指のサル類動物園」だと言う。

 『鵜飼い見物』、『岐阜大仏』の失態を挽回したかった。
バスに乗り換えるには、少し時間があった。
 駅構内を見わたした。
これから行くモンキーセンターの案内があった。
 3人を引き連れ、それを見にいった。

 「きっとそこでしか見ることができないサルが、
いっぱいいるのだろう。」
 そんな思いで近づくと、こんな言葉があった。

 『ジャンボゴリラが、みなさんを待ってます。』
横に、ゴリラの大きな足跡があった。
 「エッ、ジャンボゴリラがいるの!」

 足跡から、その大きさを想像した。
「これで、挽回できる。」
 「どんな大きさのゴリラなんだろう。」

 ワクワクした気持ちを隠しながら、
センターに着いてからは、檻にいるサルたちを見て回った。

 鳥の声に似たサル、リスと変わらないようなサル、
色鮮やかな毛並みのサルなど、次々と珍しいサルを見た。

 しかし、私の関心事は、ジャンボゴリラだ。
早く見たかった。
 そのゴリラだけでなく、
2人の息子の驚きの表情が楽しみだった。

 センターの方を見ると尋ねた。
「ジャンボゴリラはどこにいますか?」

 そしてついに、案内掲示にあった場所に近づいた。
思い込みもはなはだしい。
 それは、コンクリート製の大きな置物だった。

 大きな台座に腰掛けた動かないジャンボゴリラが、
私たちを見下ろしていた。

 てっきり、大きな檻に入った、
巨大なゴリラが動き回っていると思っていた。
 駅の足跡が、ずっと頭にあった。
私の勝手な思い込みだった。

 「そんなゴリラがいるはずないよ。」
息子達に諭され、私は肩を落とし、うな垂れるだけだった。

 ◆3日目、もう、早く岐阜を後にしたかった。

 名古屋まで戻って、熱田神宮をお参りし、
その後、明治村へでも行ってから、帰宅しよう。
 そうしようと決めた。

 なんとこれが、今も長男が忘れていない、
最高の思い込みの始まりだった。

 朝食後、早々宿を後にした。
岐阜駅から新幹線で、名古屋駅に行くことにした。

 4人分の帰りの新幹線指定券を持っていた。
改札を通る時、駅員に訊いた。
 「このキップで、名古屋駅で下車できますか。」
「はい、できますよ。」

 ごく普通のやり取りだった。
ところが名古屋駅に着き、改札を出ようとした時だった。

 途中下車なので、そのキップを見せるだけでいいと思っていた。
だが、改札口の駅員が言った。
 「駅を出るんですか。キップを頂きます。」
「エッ、東京駅までのキップだよ。」
 「でも、ここで改札を出るのでしたら、キップを貰います。」

 改札口で、同じ問答をくり返した。
周りが混雑した。
 「精算口で話してくだい。」

 今度は、精算口で同じ問答をくり返すことになった。
駅員は言う。
 「どうしても名古屋見物をしたいなら、
このキップはここまでです。
 東京駅までは、新たにキップを購入してお帰りください。」
「そんな無茶な。」
 私が言うと、
「キップを無駄にしたくないのなら、
このまま指定をとってある夕方の時間まで、
改札口内でお過ごし下さい。」
 「それは無理でしょう。」

 精算口でやり取りが続いた。
後ろに長い列ができた。
 息子達も家内も、何度も何度も私の上着を引っ張った。

 私は承服出来なかった。
とうとう別の部室に案内された。

 岐阜駅では、名古屋駅まで行けると言われた。
まさか途中下車ができないとは知らなかった。
 このままずっと改札口内で過ごすなんて、無駄なこと・・。

 私は、言いがかりとも言える理屈を言い続けた。
その間、家内と息子達はそばで小さくなっていた。

 小一時間以上も押し問答をしただろうか。
私も若干非を認めた。
 確か、特例として岐阜と名古屋間の料金を追加払いし、
一時的に名古屋駅を出ることができた。

 しかし、何とも後味が悪い。
夕方まで、名古屋でどう過ごしたか記憶がない。
 
 途中下車なんで、いつでもどこでもできるもの、
そんな思い込みが、とんだ汚点を残してしまった。
 恥ずかしい!
 
 
 


ベンチ2つだけの小公園 花壇は花盛り

※ 都合により、今後10月13日(土)までは隔週でブロクを更新します。
 その後は、毎週の予定です。 
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