初めて温泉に入ったのは、
確か小学校2年生の春だったと思う。
両親と5歳違いの姉と一緒に、登別温泉に行った。
どうして、そこに行くことになったのか。
なぜ、兄たちは同行しなかったのか。
その辺りの経緯については、憶えがない。
朝食を済ませてから、
取って置きのワイシャツを着せられ、出かけた。
徒歩で30分の東室蘭駅から汽車に乗った。
4駅目の登別駅で下車した。
私は、母の手を握り、
慣れない鉄道の旅に緊張しながら、改札口を抜けた。
もうとっくに時効だから正直に言おう。
緊張の理由がもう一つある。
それは、体が小さかったので、
幼児と偽って、無賃乗車をした。
駅前から、登別温泉行の路線バスに乗り替えた。
最後尾の席に4人並んで座った。
少し行くと、道の両側に桜が咲いていた。
「後ろを見てごらん。ほら桜のトンネルよ。」
姉が、バスの後ろ窓を指さした。
私は、後ろ向きに座りなおして、それを見た。
バスが進んでも進んでも、
満開の桜におおわれた道は、とぎれなかった。
座席の背もたれに顎をのせて、ぼーっと見た。
「きれいでしょう。」
姉の言葉を聞いて、きれいの意味を初めて感じた。
今は年に数回、その道を通る。2車線が4車線に変わった。
でも、いつも、あの日の『きれい』との出会いを思い出し、
心が洗われる。
やがて、バスは終点に着き、乗客はみんな下車した。
通りの両側には、温泉宿や食堂、おみやげ店があった。
たくさんの人で賑わっていた。
私たちは、その通りの一番奥にある
『第一滝本館』を目指した。
日帰り入浴ができた。
昭和30年代のことである。
脱衣室は別々だが、大浴場は混浴だった。
ものすごく広くて、天井の高いお風呂場だった。
白い湯気で奥まで見通すことができなかった。
大人や子供の色々な声が、響いて聞こえた。
私は、その巨大さと喧騒にすっかりとおじけづいた。
だから、入り口付近の浴槽に体をつけただけで、
初めてのプールに近寄ることもなく、
逃げるようにして脱衣室に戻った。
そんな私を見て、父が駆けつけた。
「せっかく来たんだから、ゆっくり入りなさい。」
父に手を引かれ、もう一度入ったものの、
初めての大浴場に、ただ体を固くするばかりだった。
一緒じゃない兄たちが、恨めしかった。
さて、『第一滝本館』を出てからである。
遅い昼食をとることになった。
館内より、温泉街の方が安いからと、
通りに面したお蕎麦屋さんに入った。
見ず知らずの人でいっぱいだった。
隅のテーブル席に座った。
手狭で、隣の席の人たちと体が触れそうだった。
私には、刻みのりがのった蕎麦がきた。
食べ方がよくわからなかった。
母に、食べ方を訊こうと思った。
その時だ。
私の脳裏が、いつもと違ってしまった。
普段、『母さん』と呼んでいた。
ところが、遠い温泉地で、
しかも、こんなにぎわいの中は初めてだった。
『母さん』じゃなくて、
『お母さん』と言うのではないだろうか。
私は、躊躇した。
小さな声で、姉の耳元に尋ねた。
「ねえ、母さんでいいの?・・お母さんっていうの?」
「なに、言ってんのよ。」
姉の答えに、心がしぼんだ。
しばらく、下を向いたままだった。
「混んでるのよ。早く食べなさい。」
湯上りの顔をした母が、
たれの入った器に蕎麦を入れてくれた。
私は、何も言わずに、それを食べた。
初めての温泉、その思い出は、
おじけづいた大浴場もさることながら、
母をなんと呼んだらいいか、そのためらいであった。
あの頃、『母さん』、『お母さん』、『ママ』と、
各家庭で様々だった。
貧しい暮らしが培った劣等感があったのだろうか。
人前で『母さん』と言えなかった私だった。
それから1年後、同様のことが再びあった。
くり返しになるが、あの頃、貧乏暮らしだった。
私の衣類の多くは古着だった。
セーターの袖口はほつれ、そこをめくり返して隠していた。
「もっと、おかわりしてもいいよ。」
食事の時、母がどんなに勧めても、兄姉は誰もそうしなかった。
そんな毎日だったが、
年に1回だけ、父は私たちを連れて、
とびっきりの贅沢をした。
お盆休みの日だ。
一番上等な服を着て、家族全員がそろって出かけた。
母は着物姿で、押し入れの奥から、
箱に入った草履を取りだして履いた。
父も、その日だけはネクタイを締めた。
商売の売上金が入った手提げ金庫から、
あるだけのお金を財布に入れた。
そして、コードバンだと自慢する革靴を履いた。
私が、小学校に入学するずっと前から、
1年に1回のそれは、行われていたらしい。
しかし、私の記憶は、
小学校3年の大病が完治した年からである。
日本料理のお座敷、お寿司屋さんのカウンター、
中華料理店の個室など、市内で名の通ったお店に、
父は、毎年私たちを連れて行った。
若干、余談になる。
その体験が、大人になってどれだけ心強いものになったか、
計り知れない。さすが、わが父である。
どんなに貧しい暮らしでも、
子育ての真髄を心得ていた人だったのだと思う。
その年は、中心街の一角にあった有名なレストランに入った。
髪をオールバックにした蝶ネクタイの長身男性が、
その店の個室に案内してくれた。
真っ白な布におおわれた大きなテーブル席に、
父から順に座った。
最後は、私だった。
母の隣の椅子を動かし、その男性が笑顔で私を見た。
「お坊ちゃん、どうぞ、こちらへ。」
その椅子に座りながら、顔が熱くなった。
頬が赤くなるのが分かった。顔を上げられなかった。
「今日は、洋食のフルコースだ。」
奥の席から、父の落ち着いた声がした。
ドキドキが続いていた。
テーブルに、いくつものフォークとナイフが並んだ。
「美味しい料理が次々にくるけど、
慌てないで落ち着いて、ゆっくり食べなさい。」
父は、そんな説明をしていたようだ。
でも、私は「お坊ちゃん」が耳から離れず、
緊張の頂点のままだった。
父の声は、全く届いていなかった。
スープがきた。パンが置かれた。
みんなのまねをして、何とかした。
次は、大きな平皿に載った料理だった。
肉か魚か、思い出せない。
初めて、フォークとナイフを使う時が来たのだ。
全員にその皿が置かれた。
一斉に、フォークとナイフを握り、食べはじめた。
私は、どれを使うのか、持ち方はどうするのか、
誰かに教えてもらいたかった。
料理を運んできたあの男性もいなくなった。
家族だけの個室だ。
遠慮なく訊けばいいのだ。
なのに、ここでは『僕はお坊ちゃん』なのだ。
私は、勇気を出した。
母の耳元に小声で尋ねた。
「ねぇ・・、お母さん!
どのフォークとナイフ、使うの?」
母は、すぐに察してくれた。
兄や姉に気づかれないように、小声で教えてくれた。
「母さんで、いいの。」
すっと、心が静かに鳴った。
大きな涙が、ボトッと床に落ちた。
その後、涙をこらえて、フォークとナイフを使い、
洋食のフルコースを食べ終えたようだが、
その記憶は定かではない。
しかし、人生で1回だけ、
母の耳元で『お母さん』と呼んだことに、
気づいた人はいなかった。
初めて体験したグルメの、ささやかな告白である。
真冬の小枝 もう春を告げていた
確か小学校2年生の春だったと思う。
両親と5歳違いの姉と一緒に、登別温泉に行った。
どうして、そこに行くことになったのか。
なぜ、兄たちは同行しなかったのか。
その辺りの経緯については、憶えがない。
朝食を済ませてから、
取って置きのワイシャツを着せられ、出かけた。
徒歩で30分の東室蘭駅から汽車に乗った。
4駅目の登別駅で下車した。
私は、母の手を握り、
慣れない鉄道の旅に緊張しながら、改札口を抜けた。
もうとっくに時効だから正直に言おう。
緊張の理由がもう一つある。
それは、体が小さかったので、
幼児と偽って、無賃乗車をした。
駅前から、登別温泉行の路線バスに乗り替えた。
最後尾の席に4人並んで座った。
少し行くと、道の両側に桜が咲いていた。
「後ろを見てごらん。ほら桜のトンネルよ。」
姉が、バスの後ろ窓を指さした。
私は、後ろ向きに座りなおして、それを見た。
バスが進んでも進んでも、
満開の桜におおわれた道は、とぎれなかった。
座席の背もたれに顎をのせて、ぼーっと見た。
「きれいでしょう。」
姉の言葉を聞いて、きれいの意味を初めて感じた。
今は年に数回、その道を通る。2車線が4車線に変わった。
でも、いつも、あの日の『きれい』との出会いを思い出し、
心が洗われる。
やがて、バスは終点に着き、乗客はみんな下車した。
通りの両側には、温泉宿や食堂、おみやげ店があった。
たくさんの人で賑わっていた。
私たちは、その通りの一番奥にある
『第一滝本館』を目指した。
日帰り入浴ができた。
昭和30年代のことである。
脱衣室は別々だが、大浴場は混浴だった。
ものすごく広くて、天井の高いお風呂場だった。
白い湯気で奥まで見通すことができなかった。
大人や子供の色々な声が、響いて聞こえた。
私は、その巨大さと喧騒にすっかりとおじけづいた。
だから、入り口付近の浴槽に体をつけただけで、
初めてのプールに近寄ることもなく、
逃げるようにして脱衣室に戻った。
そんな私を見て、父が駆けつけた。
「せっかく来たんだから、ゆっくり入りなさい。」
父に手を引かれ、もう一度入ったものの、
初めての大浴場に、ただ体を固くするばかりだった。
一緒じゃない兄たちが、恨めしかった。
さて、『第一滝本館』を出てからである。
遅い昼食をとることになった。
館内より、温泉街の方が安いからと、
通りに面したお蕎麦屋さんに入った。
見ず知らずの人でいっぱいだった。
隅のテーブル席に座った。
手狭で、隣の席の人たちと体が触れそうだった。
私には、刻みのりがのった蕎麦がきた。
食べ方がよくわからなかった。
母に、食べ方を訊こうと思った。
その時だ。
私の脳裏が、いつもと違ってしまった。
普段、『母さん』と呼んでいた。
ところが、遠い温泉地で、
しかも、こんなにぎわいの中は初めてだった。
『母さん』じゃなくて、
『お母さん』と言うのではないだろうか。
私は、躊躇した。
小さな声で、姉の耳元に尋ねた。
「ねえ、母さんでいいの?・・お母さんっていうの?」
「なに、言ってんのよ。」
姉の答えに、心がしぼんだ。
しばらく、下を向いたままだった。
「混んでるのよ。早く食べなさい。」
湯上りの顔をした母が、
たれの入った器に蕎麦を入れてくれた。
私は、何も言わずに、それを食べた。
初めての温泉、その思い出は、
おじけづいた大浴場もさることながら、
母をなんと呼んだらいいか、そのためらいであった。
あの頃、『母さん』、『お母さん』、『ママ』と、
各家庭で様々だった。
貧しい暮らしが培った劣等感があったのだろうか。
人前で『母さん』と言えなかった私だった。
それから1年後、同様のことが再びあった。
くり返しになるが、あの頃、貧乏暮らしだった。
私の衣類の多くは古着だった。
セーターの袖口はほつれ、そこをめくり返して隠していた。
「もっと、おかわりしてもいいよ。」
食事の時、母がどんなに勧めても、兄姉は誰もそうしなかった。
そんな毎日だったが、
年に1回だけ、父は私たちを連れて、
とびっきりの贅沢をした。
お盆休みの日だ。
一番上等な服を着て、家族全員がそろって出かけた。
母は着物姿で、押し入れの奥から、
箱に入った草履を取りだして履いた。
父も、その日だけはネクタイを締めた。
商売の売上金が入った手提げ金庫から、
あるだけのお金を財布に入れた。
そして、コードバンだと自慢する革靴を履いた。
私が、小学校に入学するずっと前から、
1年に1回のそれは、行われていたらしい。
しかし、私の記憶は、
小学校3年の大病が完治した年からである。
日本料理のお座敷、お寿司屋さんのカウンター、
中華料理店の個室など、市内で名の通ったお店に、
父は、毎年私たちを連れて行った。
若干、余談になる。
その体験が、大人になってどれだけ心強いものになったか、
計り知れない。さすが、わが父である。
どんなに貧しい暮らしでも、
子育ての真髄を心得ていた人だったのだと思う。
その年は、中心街の一角にあった有名なレストランに入った。
髪をオールバックにした蝶ネクタイの長身男性が、
その店の個室に案内してくれた。
真っ白な布におおわれた大きなテーブル席に、
父から順に座った。
最後は、私だった。
母の隣の椅子を動かし、その男性が笑顔で私を見た。
「お坊ちゃん、どうぞ、こちらへ。」
その椅子に座りながら、顔が熱くなった。
頬が赤くなるのが分かった。顔を上げられなかった。
「今日は、洋食のフルコースだ。」
奥の席から、父の落ち着いた声がした。
ドキドキが続いていた。
テーブルに、いくつものフォークとナイフが並んだ。
「美味しい料理が次々にくるけど、
慌てないで落ち着いて、ゆっくり食べなさい。」
父は、そんな説明をしていたようだ。
でも、私は「お坊ちゃん」が耳から離れず、
緊張の頂点のままだった。
父の声は、全く届いていなかった。
スープがきた。パンが置かれた。
みんなのまねをして、何とかした。
次は、大きな平皿に載った料理だった。
肉か魚か、思い出せない。
初めて、フォークとナイフを使う時が来たのだ。
全員にその皿が置かれた。
一斉に、フォークとナイフを握り、食べはじめた。
私は、どれを使うのか、持ち方はどうするのか、
誰かに教えてもらいたかった。
料理を運んできたあの男性もいなくなった。
家族だけの個室だ。
遠慮なく訊けばいいのだ。
なのに、ここでは『僕はお坊ちゃん』なのだ。
私は、勇気を出した。
母の耳元に小声で尋ねた。
「ねぇ・・、お母さん!
どのフォークとナイフ、使うの?」
母は、すぐに察してくれた。
兄や姉に気づかれないように、小声で教えてくれた。
「母さんで、いいの。」
すっと、心が静かに鳴った。
大きな涙が、ボトッと床に落ちた。
その後、涙をこらえて、フォークとナイフを使い、
洋食のフルコースを食べ終えたようだが、
その記憶は定かではない。
しかし、人生で1回だけ、
母の耳元で『お母さん』と呼んだことに、
気づいた人はいなかった。
初めて体験したグルメの、ささやかな告白である。
真冬の小枝 もう春を告げていた