ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

会場探し 天と地

2019-08-24 18:12:04 | 教育
 今も顧問の1人でいる東京都小学校児童文化研究会が、
発足から60年の節目を迎えた。

 来年3月に、現職やOB、関係者などが一同に会し、
都内で『60周年記念祝賀会』を計画していると、
知らせが届いた。
 大変嬉しく思うと同時に、当時の思い出が蘇った

 私は、平成17.18年度、この研究会の会長を務めた。
会長に就いてから最大の悩み事は、
『東京都小学校連合学芸会』の会場探しだった。

 この『都連合学芸会』は、確か今年で55回になる。
東京都教育委員会の後援を頂き、
東京都小学校児童文化研究会が主催してきた。

 当時は、2日間にわたって行っていた。
都内の各地から名乗りを上げた小学校が、劇を発表し合った。
 学芸会は校内で行うのが常だ。
ところが、普段は全く交流のない子ども同士が集まり、
演技を披露し合う。
 それは、貴重な経験として、
それぞれの子どもの財産となるのだ。
  
 さて、この学芸会の会場の件である。
長年にわたり渋谷区にあった「東京都児童会館」が使われてきた。

 ここの1階には立派なホールがあった。
本格的な広いステージがあり、舞台装置や照明も整っており、
技術スタッフも常駐していた。
 学校の体育館での学芸会とは違い、本格的な演劇環境なのだ。

 「この舞台で、演じさせたい。」
若い頃、私も何度かチャレンジを試みた。
 しかし、区内の連合学芸会での推薦が得られず、
断念をくり返した。

 つまり、子ども達と一緒に取り組む学芸会の、
素晴らしさを知る教師にとって、
『東京都小学校連合学芸会』が行われる「東京都児童会館」の舞台は、
一度は子ども達と一緒に行きたい場所だった。

 ところが、この会館の老朽化が進んだ。
数年後の閉館が、確かな情報として伝わってきた。
 「都連合学芸会の継続、そのために別の会場を探す。」
それは、会長をはじめ役員の大きな課題になった。

 演劇環境の整ったステージと、千席規模のホール。
都内各地からの交通の利便性、そして使用経費が条件だった。

 「東京都児童会館」と同様の会場はなかなか見つからなかった。
会長としての2年間、奔走した会場探しだ。
 その日々から落胆を重ねたエピソードを記す。

 それは、無謀な挑戦とも言えた。
しかし、「ダメでもともと」だ。
 そんな覚悟で、真っ先に電話したのは、
東京都が保有する立派な劇場だった。

 オーケストラの演奏会が行われる大ホールと、
ピアノ演奏などの小ホールがあった。
 私は、その小ホールにねらいをつけた。
都が運営していた。
 経費での特典も期待できた。

 電話口に出た担当者は、
「会ってお話を伺います。」
と、言ってくれた。
 数日後、役員数人とその事務室に出向いた。

 都連合学芸会の意義、歴史、規模、
子ども達や保護者の声、そして予算等をありのままに、
私は、熱く語った。
 そして、
「全都の子ども達が目指す学芸会の新しい場所、
目標の舞台をここにしたい。
 この劇場は、うってつけなんです。」
と、結んだ。

 応対してくれた職員は、2人とも私より一回りは若かった。
メモを取り、1つ1つうなずきながら話を聞いてくれた。
 一緒に行った役員が補足説明をし、約束の1時間が過ぎた。

 「ここは、東京都の施設です。
都民のものですから、東京都規模の学芸会のような使われ方は、
理にかなっていると思います。
 是非、使えるように、上の者とも相談し、
後日回答させてもらいます。」

 現実味のある反応に、うかれた。
東京都児童会館よりもずっとずっと新しい。
 その上ネームバリューもある会場だった。
新たなステータス・シンボルとして、期待が膨らんだ。
 いい返事がくると信じた。

 あのステージで、両手を広げ、
胸を張って演じる子どもの姿を思い浮かべた。

 ところがだった。
使用申請には問題はない。
 ただし、同日に他団体からも
使用申請があった場合には抽選になる。
 だから使用できない場合がある。
優先使用は適用できないと言うのだ。

 さらに、使用経費の特典は一部だけで、
照明機材の使用料等は対象にならない。
 他にも、様々な制約が知らされた。
全ては、条例がらみのことで、
それが足かせなのだとのことだった。

 「私たちも、是非お使い頂きたいと思って、
検討を重ね、頑張ってみたんですが・・。」
 担当者の無念そうな声が、受話器に残った。
膨らんでいたものが、一気に消えた。
 希望が、天から地に落ちた。

 それでも、懲りずに次に挑戦する一手を考えた。
都が運営する会場は、諦めた。
 ならば、民間の劇団がもつ劇場に照準を合わせた。

 某劇団が所有する複数の劇場の1つを、
勝手に候補に上げた。
 くり返す、「ダメでもともと」なのだ。

 小さな可能性に期待し、
心落ち着けて受話器を握った。
 電話にでたその劇団の担当者に、
依頼内容を伝え、面会を申し込んだ。
 事務的に、検討し後日回答する旨の返事だった。

 数日を経て、電話があった。
先日の担当者より上の立場の方からだった。
 丁寧な言葉遣いが印象に残った。

 「劇場使用のご依頼の件で、
会ってお話をしたいと伺いました。
 私どもも学芸会について、
話し合いの場を希望しておりました。
 是非、よろしくお願いします。
お待ちしております。」

 予想以上の好反応に心が高ぶった。
その劇団は、劇場がある近隣小学校を無料で観劇に招待した。
 子ども達へのそんな厚意を示す劇団である。
好条件での使用が、現実になるのではないか。
 そんな思いを勝手に描いた。

 そして、いよいよ劇団の応接室にお邪魔した。
私も役員たちも明るい表情で、
複数の劇団スタッフの方と挨拶を交わした。
 高価な茶菓が用意され、手ぶらでの訪問を恥じた。

 私から切り出した劇場使用の依頼について、
熱心に耳を傾けてくれた。
 しかし、回答は簡潔だった。

 「ご依頼はよくわかりました。
ですが、私どもの劇場は、今までも今後も、
他の劇団や団体の使用を認めることはありません。
 劇団の専用劇場としてのみありますので・・。」
 丁寧に頭まで下げられた。
 
 その明快さに言葉がなかった。
「わかりました。」
 それ以外、誰も何も言えなかった。

 若干の間があった。
そして、劇団スタッフは切り出した。
 「私どもが皆さんにお会いしたかったのは、
お願いがあってのことでございます。」

 一言ひとこと、言葉を選んでの話し方だった。
私は、次第に重たい気持ちになった。

 劇団は、数多くのミュージカルを公演していた。
子どもにも大人にも、人気あるものが多かった。

 確かにそれらのミュージカルをベースにしたものを、
子ども達が演じていた。
 それは都連合学芸会の舞台でも各学校でもしばしばあった。

 「私どものミュージカルの著作権は、私どもの劇団にあります。
学校であっても、それを尊重しなければいけないのではないでしょうか。」

 性急に対応してほしいと言った態度ではなかった。
研究会でも、改善策を考えて欲しいと言うのだ。
 
 意気揚々向かった場だった。
しかし、帰り道は誰一人、言葉を交わさなかった。
 会場探しが、それ以上の難しい課題に直面したのだ。

 応接室を後にした時、すでに退勤時間が過ぎていた。
役員の1人が言った。
 「いっぱい飲もうか。」
しかし、誰も賛同せず、そのまま散会となった。





 大きくなってきたイガグリ
       ※次回のブログ更新予定は 9月7日(土)です   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善意を かいま見て

2019-08-17 16:36:54 | 思い
 ▼ 学校の夏休みが始まり、
私の地域でも、ラジオ体操が2週間行われた。
 例年の様に、家内と一緒に毎日参加した。

 前年に比べ、参加者が少ない。
でも、顔馴染みになった子どもや大人と、
挨拶を交わし、一緒に体操するのは、
何とも気持ちのいいものだ。

 ある朝、パークゴルフなどで親しくしている奥さんの顔があった。
挨拶と一緒に言いだした。
 「今、日赤病院の花壇に水をあげてきたの。」

 初耳だったが、活動的な方なので、驚きは大きくなかった。
それでも、早朝のことである。
 「それはそれは、早くからご苦労様です。」
労いの言葉を返した。
 「少しでも、日赤や患者さんの役に立てば、
それでいいの。」

 早速、ネットで調べてみた。
数年前から、始めたらしい。
 10数名の『伊達市赤十字奉仕団』が
伊達日赤病院前に花壇を作った。
 今年も5月に、そこへ花の苗を植え、綺麗に造園した。
その後、そこの維持管理を継続していると言う。

 そのメンバーに、3名も知った顔があった。
頭が 下がった。


 ▼ 数年前になる。
伊達で知り合いになった方に、
私の教育エッセイ『優しくなければ』をあげた。

 「一気に読み、刺激を受けました。」
彼は、そう言って10数枚の原稿用紙を持ってきた。
 「私も、書いてみようと思いまして、
機会があったら読んでみて下さい。」

 思いたったかのように、
原稿用紙に文字が走り書きされた生原稿だった。
 気持ちが先行し、飛躍がほうぼうにあった。
それでも、彼の人生を感じ、心が熱くなった。

 その1部が、鮮明な記憶として今もある。
彼は、ある年齢になった時、
献血への協力を決意した。
 そのために、健康管理にも取り組み、
献血の回数を重ねることを誓った。

 自分の血液が、誰かの役に立つ。
ならば、出来るだけ献血しよう。
 『献血功労』。
そんな言葉をはじめて、彼の原稿から知った。
 「高齢のため、もう献血ができない。」
彼は、そう悔やみ、文章を終えていた。

 献血を10回重ねるごとに、ガラス器が贈られる制度があった。
また、50回の方には賞状が。
 そして68歳までに100回を越えた方には、
『有功章(ガラス器・金色)』が贈呈されることになっている。

 実に恥ずかしい。
1度も献血に協力したことがなかった。
 ところが、決して少なくない方々が、
献血のために腕まくり、
協力を惜しまない日々を送っている。

 「いつか機会をみて」。
そのくり返しのまま、一歩を踏み出さずにきた。
 そして、もう献血のできない年齢になってしまった。
私にもできそうな『献身』があったのに・・・。  

 
 ▼ 北海道は、多くの沿線道路の脇に、
『交通安全』の黄色い旗が、立ち並んでいる。

 伊達市の場合、それは市街地の生活道路にも並んでいる。 
旗は、年に数回新しい物に変えられる。
 その変換作業は、専ら各地域の自治会担当役員が行っている。

 風雨にさらされ、
色あせた上に一部が千切れてしまった旗が、
一斉に真新しいものに変わる時がある。
 ジョギングや散歩で、それに気づく。
そんな時、町に活気が蘇ったように感じるのは、
私だけではないと思う。

 さて、その旗についてだが、
昨年のことになる。
 台風接近がしきりに知らされていた日だ。

 まだ強風にも雨にもなっていない昼下がりだ。
窓越しに見える十字路脇に立つ旗に、脚立が置かれた。
 たった1人で、脚立に上がり、旗竿にその旗を巻いている方がいた。
テープでそれを止め、脚立をたたんで立ち去っていった。
 台風への備えだと分かった。

 その後、所用で車で出掛けた。
同じように旗竿に巻かれた旗を何本も、住宅街の一角で見た。
 きっとその地域を担当している役員さんによる、自主的活動だろう。
嵐で旗が傷まないように、そんな心遣いに触れた。

 そして、台風が去った翌日。
ふと気づいて、窓辺から十字路を見る。
 案の定、もうその旗は小さな風に揺らめいていた。
やはり心ある人のすることは・・・。


 ▼ 5月下旬の朝、横浜でカリタス学園の子ども達が、
殺傷事件に巻き込まれた。
 登校中の惨事に言葉を失った。

 その事件が契機なのか、
その後、登校時の子どもを見守る方が、増えていることに、
朝ジョギングをしながら気づいた。

 今まで見かけなかった道路脇で2人、
黄色いジャケット姿で立っていた。
 信号機のあるT字路で、同じ年格好の方が3人、
これまた同じ交通安全旗を手に、横断歩道の誘導をしていた。

 さらに、コンビニのある交差点では、
黄色い帽子をかぶった大柄な男性が、
無言のまま横断する子どもたちの手助けをしていた。

 そして、ずっと以前から、
私の住まいの周辺では、主な交差点で、5人もの方が、
1年を通して、毎朝、見守りを続けている。


 ▼ 日々の暮らし、その身近にある善意。
しかも、どれもみな同世代の献身だ。
 私にもできそうなことだが、その一歩がなかなか難しい。

 1年ほど前になるだろうか。
伊達市と、近隣市町の若いランナーらが、
『ガードランナー』と言う組織を立ち上げた。

 みな市民ランナーである。
趣味で朝夕に、街中などをランニングする。
 その最中、子どもや年寄りに声をかけたり、
手を貸したりすべき場面に出会うことがある。

 でも、「もし不審者と思われたら・・」。
そんな気持ちが、ついつい手助けの障害になってきた。
 そこで、彼らは組織を作った。

 その取り組みが、『ガードランナー』と記したTシャツと腕章だ。
警察にも届け、それぞれがランニング時にそれを着用する。
 不審者ではない。
だから、堂々と子どもやお年寄りに声をかけられる。
 手を差し出せる。
そんな取り組みを始めたのだ。

 若い市民ランナー達の、純粋な意気込みに、
心が熱くなった。
 しかし、私は高齢ランナーだ。
手助けより、手助けされる側と思い、参加をためらった。

 ずっとずっと心に漂っていた。
「腕章をつけて走ること、
それでいいならできるのでは・・」。
 私の周囲にある様々な善意が、遂に背中を押した。

 今朝も、『ガードランナー』の腕章を巻いて、
5キロのジョギングをした。 
   

 

  ご近所の花畑 ガーベラが素敵
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北に うまいもんあり

2019-08-03 16:40:48 | 北の大地
 きっと日本中いたるところ、夏野菜の最盛期だろう。
ここ伊達も同じだ。

 だて観光物産館の野菜売場は、
旬の『伊達野菜』であふれている。
 とうきび(トウモロコシ)も、
豊富に並びだした。
 枝豆も出回った。
そして、この頃は万願寺唐辛子の美味しさに、
私ははまっている。

 つい先日の朝だ。
ラジオ体操の帰り道、親しくさせて頂いているご近所さんから、
「トマトとピーマン、持って行かないかい?」
と、声がかかった。

 案内されたのは、ご自宅の裏庭だ。
見事な家庭菜園だった。
 その一角に、トマトやピーマンがいっぱい実をつけていた。
家内と2人、両手に抱えられない程、頂いてきた

 早速、朝の食卓に。
トマトは、生野菜と一緒。
 そして、ピーマンはそのまま丸焼きに。
まさに、もぎたて。
 美味しくないはずがなかった。

 そんな午後、玄関になじみの顔が、
「インゲン豆がいっぱいできたから、食べて。」
 これまた、ありがたく頂き、夕食でゴマ和えにする。

 どれもこれも「美味しいね」を連呼しながら、
暑さを忘れてほおばる。
 夏やせどころか、夏太りを心配する有り様だ。

 さて、歳を重ねるにつれ、「食」への関心が増している。
若い頃は、忙しさもあったのか、
お腹を満たせばそれでいいと思っていた向きがある。

 しかし、今は違う。
朝食の食パン一切れにも、こだわりがある。
 卵1個も同様で、卵なら何でもいい訳じゃなくなった。

 だから、うまいと思うものを口にした時の満足感は大きい。
北海道で知った『うまいもん』を、2つ紹介する。


 ① 松尾ジンギスカン

 今年、義父の13回忌を迎える。
その父が、元気だった頃からだ。
 お盆の帰省で、実家がある芦別に行くと、
定番コースのように、昼食時に出向くところがあった。

 そこは、車で片道30分、
滝川市内にある『松尾ジンギスカン本店』である。

 今も、芦別で暮らす母を訪ねた折、
欠かさずにと言うくらいに、車をとばす。

 この『松尾ジンギスカン』だが、
次第に有名になっているようで、
東京都内にも支店があると言う。
 また、新千歳空港内にもその看板がある。

 さて、ジンギスカンについてだが、
その食べ方には2通りある。

 よく知られているのは、羊肉を焼いてから、
ジンギスカンのたれをつけて食べるものだ。

 もう1つは、長時間たれに漬け込んだ羊肉を
焼いて食べるものだ。
 これは、たれにつけたりせずに、そのまま食べる。 
『松尾ジンギスカン』はこのタイプである。

 店独自の秘伝だれに漬け込んであり、
肉の柔らかさもあるが、その味がいい。
 ジンギスカン鍋で一緒に熱を通し、
そのたれが浸み込んだもやしやタマネギが、これまたうまい。

 よく蟹を食べる時は、みんな無言になると言う。
それと変わらない。

 父が一緒だった時も、
そして今、母と家内、私の3人でも、
食べている間、会話はほどんどない。

 肉も野菜もご飯も味噌汁も、
全てがなくなってから、
「美味しかったね。」
と、口をそろえるのが常なのだ。

 今年も、お盆が近い。
芦別への墓参を予定している。
 また、あのジンギスカンが楽しみになってきた。

 つけ加えるが、
「本店の味は、支店とは違う。」
 勝手に、私はそう決めつけている。 


 ② 王鰈(まつかわ)の刺身

 10歳も年の差がある兄は、
中学生の頃から父を手伝って魚の行商をしていた。

 その行商は、やがてリヤカーから四輪トラックに変わり、
遂には、鮮魚を中心にした食料品店を開くまでになった。
 余談だが、そのお陰で私は大学に行き、
教職に就くことができた。
 店の最盛期には、従業員が20人以上にもなっていた。
しかし、大型店舗の進出と不況に飲まれた。

 兄は、自身の体力の衰えもあったのだろう。
10数年前に、食料品店をたたみ、
家族で切り盛りする魚料理を中心とした飲食店を始めた。

 人口減少が著しい町での、店の切り盛りは大変のようだ。
でも、80歳になった今も、
毎日元気に調理場に立ち、腕を振るっている。

 あるタウン雑誌が、
魚の目利きのよさと、
お客さんへの人当たりのいいご主人として、兄を紹介した。
 その記事を読みながら、ちょっと胸を張り、
1人自慢気になっている私がいた。

 我が家から車で30分、
東室蘭駅近くにあるその店には、
時折、夕食を食べに顔を出す。

 兄は、その日一番の煮魚と刺身が載った定食を、
用意してくれる。
 いつもその味にはずれはない。

 ババガレイなど旬の煮魚も美味しい。
しかし、いつも私が感心するのは、
兄が造る刺身である。

 日本料理店が出す『お造り』みたいな洒落たものではない。
安価な皿に、大根のつまを盛り、
その上に5切れ程の刺身が2種類並んでいる。

 日によって魚は違う。
鮪の中トロ、赤身、イカ、ヒラメ、かんぱち。
それが、いつだって最高に美味しいのだ。

 刺身と言えど、その辺の調理人とは年期が違う。
何と言っても、正真正銘、たたき上げの魚屋の腕前だ。 
 「他と違って当然。」
身内だが、そんな風に兄を評価している。。 

 ある日、その刺身皿に、鮪と一緒に白身魚があった。
一切れを口にした時だ。
 「それ、マツカワだ。美味しいべ。」
カウンター越しに兄の声が届いた。

 主に、北海道の太平洋沿岸で採れるカレイだ。
『王鰈』と書いて、マツカワと言う。
 そう書き表すだけあって、美味しいと聞いていた。

 しかし、高級魚で魚屋の店頭に並ぶことはない。
私は、その時はじめてマツカワの刺身を食べた。

 そのマツカワなのに、兄は、奮発したらしい。
7切れもあった。
 美味しさは、他の刺身の比ではなかった。
特別だった
 1切れ1切れに、心がざわついた。

 以来、まだ2度目のマツカワの刺身に巡り会っていない。
どうやら、旬は、夏から秋にかけてだと言う。
 今だ。

 さて、次はいつ食べられるのだろうか。
いや、もう2度とないのかも・・・、
 そ、そんな・・・・。 



 暑い日 人気のない『恋人海岸』

 次の更新予定は、8月17日(土)です。     
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする