ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

深 ま り ゆ く 秋 に

2019-10-26 16:16:22 | 北の湘南・伊達
 ① 10月23日の朝日新聞『折々のことば』(鷲田清一・著)を、
転記する。

  今日一日がないみたいというのは、こんなに
  も楽なのか
                  角田光代
   短編小説「こともなし」から。聡子は家
  族のために作った料理の写真とレシピをブ
  ログに載せる。こんなに幸福な毎日ですと
  ばかりに。ある日友人に、自分を捨てた男
  に読ませたいから(?)と指摘されてふと
  我に返り、その日はブログを更新しなかっ
  た。自分は幸せだと自分に確認するために
  書いていたのか。苦い思い出から放たれる
  日がきたらブログもやめるのか……。

 短編小説「こともなし」は読んだことがない。
しかし、ブログへの想いを鷲田さんの一文から読み取り、
無性に心が冷えた。

 ブログへの動機は、様々だろう。
「さて、私はどうか?」。
 ふと、考えさせられた。

 心動かされたこと、動いたことを、
できうる限り確かなものにしたかった。
 そんな機会をブログがくれた。
それが楽しくて、続いている。
 それだけ・・・。

 いずれにしても、コラムにある猜疑心のようなものとは、
無縁でいたい。
 それよりも、素直に、
日々の暮らしにある宝物を探せたら、
なんていいのだろう。

 今は深まりゆく秋に心騒ぐ時間を見つけたい。

 ② 息子達が幼い頃、
定期購読していた絵本に、彼岸花が載っていた。

 地方によって、その花の呼び方に違いがあると書かれていた。
曼珠沙華の他に、痺れ花、剃刀花、狐の松明、
はっかけばばあ、天上の花など多彩だった。

 呼び名だけでなく、田んぼのあぜ道や川の土手を、
真っ赤に染める様を、その絵本から知った。
 以来、秋を華やかに彩るものとして、
毎年、彼岸花に目が止まった。

 だが、伊達で彼岸花を見ることはない。
同じ時期、ここでは道端や家々の庭に、
淡い紫色をした『コルチカム』が一斉に咲く。
 小さく可憐な花だが、あざやかさは彼岸花に及ばない。

 その2つの花を比べ、秋に違いがあるように思えてならない。

 例えば、彼岸花は言うだろう。
「ほうら、待っていた秋が来ましたよ。
存分に、楽しみましょう」と。

 一方、コルチカムは、
「秋になってしまいました。
すぐ冬が来ます。急いで急いで・・。」
そうつぶやくのでは・・。

 追記すると、
彼岸花の花言葉「情熱」に対し、
コルチカムのそれは、英国で「私の最良の日は過ぎた」、
仏国で「美しい日々は過ぎた」だと聞いた。

 くり返しになるが、
私は、コルチカムと一緒に秋を迎えている。

 ③ この時季の『だて観光物産館』は、
いつになく賑わっている。

 伊達市民だけでなく、全道各地からの来客者が多い。
おめあては、秋の伊達野菜のようだ。

 それに応じるかのように、
館内には、旬の野菜が豊富に並ぶ。

 農家さんごとに仕切られた棚には、
様々な種類の野菜が置かれている。
 カボチャだけでも、きっと7,8種はあるだろう。
その1つ1つの棚を見るだけで楽しい。

 つい先日のことだ。
「これはどうだろう。」「あれもいいかも。」と、
館内のショッピングカゴを抱えながら、家内と歩き回った。

 ここ数年、年中行事の1つになった。
決まって毎年、家内は言う。
 「もらっても迷惑なんじゃない。」
私は、少し不機嫌そうに応じる。
 「それでもいい。
それより送ってあげたいんだ。この野菜を!」。

 紅くるり大根、辛味大根、小粒キュウリ、生食白菜、生とうがらし、
それから、カボチャに長いも、ゴボウ等々。

 きっと頂いた友人は、呆れているのだろう。
でも、色とりどりの野菜に、
きっと伊達の秋を感じてくれるに違いない。

 そんな友人の奥様から、
またお礼の野菜入り絵手紙が来ることだろう。
 それを待つのも、秋ならではのこと。

 ④ また無知をさらす。
伊達ではじめて秋を迎えた年だ。

 有珠山の山肌が、次第に変わり始めた。
他の山々は、濃い緑のままだった。
 なのに北西にあるその山だけは様相が違った。

 定期的に噴火をくり返す山だ。
山頂付近は、火山特有の灰色をしているが、
中腹辺りからは、木々が育ち、
いつもは緑色におおわれている。
 ところが、その色が徐々に変わっていくように感じた。
  
 実に恥ずかしいことだが、正直に書く。
街路樹や公園の樹木、校庭の木々が、
紅葉したのを見てきた。

 日光などの景勝地を旅して、
車窓から紅葉の赤に歓声を上げた。

 だが、間近にある山が、
上から下までまるごと赤と黄に染まっていく様子など、
目撃した覚えがなかった。

 だから、有珠山の色が変わっていくのが、不思議だった。
「やっぱり違う。昨日までとは少しだけ違う色だ。
どうしてなんだろう。」

 密かにその変化に不安が増していった。 
時には、火山活動の前ぶれではと、考えたりした。
 「そうならもう誰かが気づいてもいい。」
密かにそんなことを思う日が続いた。

 ところが、空が真っ青な朝だった。
ジョギングしながら、次第に大きくなった有珠山が、
朝日を浴びで、赤や黄色に輝いていた。
 「噴火の前兆じゃないのか?」。
そんなことを口走らなかったことに安堵しながら、
山の秋に、目も心も釘付けになった。

 今年も、周りの山は見事な秋色になった。
次第に衣替えする山々、その目撃者の1人に私もいた。




   洞爺湖畔の紅葉と裸婦像

      ※次回のブログ更新予定は 11月9日(土)です       
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稚拙なエールだが 

2019-10-19 19:48:47 | 教育
 2ヶ月ほど前になるが、
東京都小学校児童文化研究会からたて続けに2つ、
原稿依頼が飛び込んできた。

 1つは、研究会の創立60周年記念誌へのお祝い文、
もう1つは、2月に開催される全国並びに東京都の
児童文化研究大会紀要への特別寄稿だ。

 研究会へは、久しぶりの執筆である。
あれこれと想いをめぐらせながら、
文字数制限内にまとめた。
 
 まだ早いと思いつつも、
その原稿をブログに載せることにした。

 私が書いたものが、どれだけのものか。
たかが知れている。
 でも、1日でも早く、後輩たちへ届けたい。
そこには、某小学校のあきれた蛮行への怒りがある。
 
 多忙を極めながらも、情熱を持ち続ける大多数の先生たち、
決してうつむかず、子どもに寄り添いながら、
あなたの歩みを、進めてほしい。

 以下、稚拙だが私からのエールのつもり・・。


 ① 60周年記念誌へ掲載文から

    60年に思いを馳せ

 昭和35年3月、本研究会は産声を上げました。
それから60年です。
 今日まで歩みをつないできた多くの方々と共に、
喜びを分かち合いたいと思います。

 さて、60年前にさかのぼります。
その年、私は北海道の田舎町、そこの小学5年生でした。
 「東京の偉い先生が、口演童話をしてくださる。」とのことで、
私たちは体育館に集められました。

 「東京の偉い先生」と聞いただけで驚き、
私は背筋をすっと伸ばして椅子の前の方に座り、
そのお話を聞きました。

 時に笑い、時にワクワクしながら、時間が過ぎました。
そして、最後にその先生は、私の心にある言葉を残してくれました。

 『人間、世のため人のために働くこと』。
それは、消防士のお父さんが幼い我が子に語ったものでした。

 初めて口演童話を聞いた60年前のことです。
なのに、それからずっとその言葉は、私に生き続けてきました。

 私の体験が、全てを語っているとは思いません。
でも、きっとそんなことが、私のように心を揺り動かし、
生きる力になっている方は少なくないと思うのです。

 だから、口演童話に限らず、
本研究会が提唱する数々の児童文化手法が、
今日も学校教育の場に受け入れられ、
脈々と力を発揮しているのではないでしょうか。

 60周年の節目にあたり、一少年の原画を記し、
応援歌とします。


 ② 第56回東京都児童文化研究大会紀要の寄稿から 

       児童文化手法とは

 本研究会の童話部に所属し、長年授業実践を重ねてきた先生が、
5年生道徳の授業をした。

 当然、初めの展開は、素話だ。
その日の子どもを念頭に吟味した話題を、
心のこもった口調で先生は語った。
 授業を見せてもらっていた私も、
子どもと一緒の気持ちになり、その語りに聞き入った。
 その後授業は、盛り上がり活気があった。
途中には白熱した話し合いの場面も・・・。

 その授業の終わりに、
「今日の道徳の時間はどうでした?」。
 先生は感想を求めた。
色々な意見が出された。
 充実した授業だったことを証明するかのように、
その多くは、授業を通しての道徳的気づきだった。
 それで、十分だ。

 ところが、「ボクも言いたい」。
声を張り上げた子がいた。
 指名を待ちきれず、勢いよく立ち上がりひとこと言った。
「ボクのために、先生が話してくれていたから、楽しかった」。

 「これだ!」。
私は、大きくメモした。
 素話は、子どもの反応を察知しながら、
一人一人の目を見て話す。
 その語りが、『ボクのために』と彼は受け取ったのだ。

 今回、私に頂いた寄稿依頼『児童文化手法とは』の回答は、
上記の一事で十分に示すことができると思う。

 しかし、類似したことは、素話に限らない。
全ての手法を列記する紙面がない。もう1つだけ・・。

 明日の授業を思い浮かべ、放課後の教室で準備を始める。
子どもが目をひきそうな人や動物、
背景を次々とデザインしたり選択したりする。
 そして着色と切り抜き。

 明日、子どもに伝えたい内容を練りながら、
それをパネル上で操作してみる。
 時間に追われながら、くり返しアイディアを絞り出す。
時には、新たなキャラクターを追加制作することも。

 そして翌日、
デジタル化した巧みであざやかな映像の対極とも言えるアナログ的手法で、
授業は始まる。

 先生が手作りした人や動物、山、木々が登場する。
そして、その1つ1つを張ったりはがしたりしながら、
先生の生の声が追う。
 パネルシアターが展開していく。

 子どもは、時に直感を働かせ、時に想像を膨らませながら、
白いパネルの上で進むストーリーを受け止めようと、
まなざしを輝かせる。

 3Ⅾ映像のような説明はできない。
しかし、子どもの思い描く力が、しっかりと補ってくれる。
 やがて表情が緩む。
それがいい。それが楽しいのだ。

 ゆったりとした空気、親近感が漂う。
パネルに張り付いた動物たち、そのギクシャクとした動き、
補足する先生の言動、見入る子ども。
 次第に教室中に親和的雰囲気が作り出されていく。

 さて、時代はPCからAIの時代へと移行している。
便利さの追求が、遂に日々の『冷暖』さえも追い越して行こうとしている。
 「時代に乗り遅れてはいけない」。
学校教育もついついそう焦ってしまう。
 私も同様傾向にあるが、立ち止まろう。

 実は、『ぼく(わたし)のため』と感じるような、
子どもに寄り添った温もりのある授業が、
強く求められている時代だと思えてならない。
 『児童文化手法とは』、それを実現するものと言いたい。





   朝日を受けた 私の町と噴火湾 
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71歳の 新秋

2019-10-12 20:41:40 | ジョギング
 ①
 伊達に住み始めて7年になるが、
以来ずっと、散歩代わりにランニングをしてきた。

 生活のリズムとして始めたが、
こんなに長く続くとは思ってもみなかった。

 『伊達ハーフマラソン』大会を初め、
いくつかのマラソン大会に参加するようになった。
 それが励みになり、継続できたのだと思う。

 さて、5年前からマラソン大会出場の定型ができた。
それは、
 4月に伊達ハーフマラソン(ハーフ)、
 5月に洞爺湖マラソン大会(フルマラソン)、
 6月に八雲ミルクロードレース(ハーフ)、
 9月に旭川ハーフマラソン(ハーフ)、
 11月に江東シーサイドマラソン(ハーフ)だった。

 ところが、今年はそれに狂いが生じた。
1つは、5月の洞爺湖から6月の八雲までの期間が短く、
八雲へ出場することを諦めた。
 もう1つは、出場を予定していた『江東シーサイドマラソン』だが、
エントリーが多く、抽選で外れてしまい、出場できなくなった。 

 その上にだ。
4月の伊達は10キロも走らずにギブアップ。
 5月の洞爺湖は30キロまでがやっとで、リタイア。
ここまで、完走がないのだ。

 こうなると、9月29日(日)の旭川ハーフマラソンが、
今年最後の大会出場となる。
 想いはだた1つ。
今年1枚きりになるが、『完走証がほしい!』。

 記録は、自己ワーストでいい。
完走者の最下位でもいい。
 とにかく2時間40分の閉門までに、
21、0975キロをゴールしたい。
 それだけを目標に、その日、私は走った。


 ② 旭川は、広い盆地の中にある。
しかも、いくつもの大きな川が流れている。
 大会の主催者はあいさつで、
開口一番「皆さん、川の街へようこそ」と言った。

 そんな幾筋もの川の土手道や河川敷の遊歩道と橋、
道内第2の都市の市街地の4車線、そして自衛隊駐屯地内の道路と、
バリエションあるコースが、このマラソン大会のポイントだ。

 平坦な道に、土手や河川敷への上り下りが数カ所あり、
その上勾配のある橋が、体力を奪うのだ。

 だが、他のマラソン大会より、コースのいたるところで、
声援を送ってくれる人々がおり、途切れない。
 私は、それに励まされる。

 これで出場が、5回目になる。
コースも熟知している。
 例年と同じ場所で声援を送ってくれる方々の記憶が蘇った。

 まずはその声援についてだ。

 市街地の道路脇、7キロ付近には私設の給水所がある。
その先の交差点そばの自宅前では、簡易ベンチを出し、
家族そろって手を振り、ランナーを見送っていた。
 民家の並ぶ道では、
門柱に、『みんな、ガンバレ』の看板が立っている。
 旭橋では、義姉が私の名前入りのぼりを掲げて待っている。
1つ1つに、心が熱くなった。

 さて、10キロを過ぎて後半に入ってからだ。
次第に足が重くなった。
 走り込み不足を後悔しながら、マイペースで走った。

 コースが公園の散歩道から、土手道への上りにさしかかった。
この坂では、歩きだすランナーが意外と多い。
 私は、決まって呼吸を整えてから、
淡々と駆け上ることにしていた。

 その坂にかかってすぐだ。
道路右脇から、声が聞こえた。
 その声は、確か昨年も1昨年も聞いた気がする。
だが、この坂道に夢中で、気に止めてこなかった。

 なのに、今年は耳に飛び込んできた。
その声は、つぶやくように細かった。
 「これ、食べて行きなさい。食べて行きなさい。」

 やや腰の曲がった女性はそう言って、
四角い缶から、小さなクッキーを差し出していた。

 隣に並ぶ同世代の女性が、続いた。
「手作りです。手作り!」。

 「いただきます。ありがとうございます。」
笑顔で、クッキーを1枚手にしたかった。
 でも、その余裕が私になかった。
軽く会釈だけした。

 通り過ぎてから、
「これ、食べて行きなさい。」
の、あの細い声が母のそれと重なり、
いつまでも耳にあった。
 しばらくはそれが力になり、走り続けられた。

 続いて最終版だ。
ゴールまで2キロをきった所に、
河川敷からの最後の上り坂が待っている。

 ここで、3人の方が応援してくれていた。
もうヘトヘトの場面での励ましは、
そこに立って見守ってくれているだけで、
力になる。

 なのに、1人の男性が何やら叫び続けていた。
聞き取れるところまで近づいた。

 「もう少しで、ビールが飲めます。
もう少しで、ビールです。」
 それだけをくり返し、大声で言っていた。
 
 「そうか。ビールか。」
きっと私だけではないに違いない。
 このタイミングで、この声援だ。
どれだけのランナーが、この声を聞きながら、
この坂を上ったことだろう。
 
 今夜の宿と、夕食の生ビールを想像した。
その間に、スイスイと坂道を進んでいた。

 上りきって左の橋へ曲がった。
欄干から後続ランナーを見た。
 「もう少しで、ビールが・・」
と、声援が続いていた。
 後1キロ余り、苦しさに変わりはないが、
明るい気持ちでゴールを目指していた。 

 
 ③ 沿道からの声援は、
素敵なことばかりではなかった。

 実は、昨年の大会から、
ハーフマラソンのコースが一部変更になった。

 10キロまでの折り返し地点が近くなった。
その分、後半のコースが5キロ程度延長された。

 それを知らずに声援を送るお年寄りがいた。
彼は、目の前を通りランナー1人1人に、
小声でくり返し言った。

 私にも言ってくれた。
「ゴールまで後2キロです。ガンバレ。」
 変更前は、その通りだった。

 それが間違いだと瞬時に分かった。
でも、1人1人への声援が嬉しかった。

 しかしだ。
そのお年寄りは、
私の後続ランナーにも同様の声援を送った。

 最初に、そのランナーの弁護をする。
ゴールまでまだ7キロ、3分の1も残っていた。
 辛さ、苦しさのピークが近づいているところだ、
そこで、ゴールまで2キロと言う誤った情報だ。

 後続ランナーは、小声で声援するお年寄りに向かって、
声を荒げた。
 「そんなはず、ないだろう!」

 その声の大きさと、強さに、私まで萎縮した。
それまで長い時間、
声援を続けてくれた沿道のお年寄りが、
どんな気持ちになったか。

 でも、走り続けるしかなかった。
しばらく心が傷んだ。

 後続ランナーの言動を理解しつつも、
許せなかった。

 71歳のランナーは、ムキになった。
「この人より先にゴールする。絶対に抜かせない。」
 それしか私の気持ちを納める方法がなかった。
後続の足音を気にかけながら、走り続けた。

 さて、21、0975キロの結果だが、
完走証を手にすることができた。
 ほっとしてまもなく、花咲陸上競技場の門が閉鎖され、
トラックから人影が消えた。

 「また来年、ここを走りたい。
そして、またあの声援を受けたい。」
 そう思いながら、
夕食の生ビールをグイッと飲んだ。
 「う~ん、うまい!」。

 


  10月 伊達の遠景 何故かもの悲しい! 
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