ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

北の温もり  晴秋

2014-10-25 11:11:23 | 出会い
 一晩中吹き荒れた嵐が去った日、
少し遠出をし、
樽前山の裾野にある日帰り温泉に、
家内と二人で出かけた。

 次第次第に風も静まり、
雲間からきれいな青空が見えだした。

 場所が場所だけに、
北海道の大自然にすっぽりと包まれたような濃い緑色の、
しかも、静寂としたたたずまいの中、
その温泉は、どこか重厚さえ感じさせてくれた。

 私は、バスタオル等の入った袋をぶら下げ、
人々が仕事に汗流しているウイークデーのお昼時、
シニア料金を払い入場した。

 八割かたが、私と同じ料金の方であったが、
人気の温泉のようで、予想外の賑わいだった。

 家内とは、入浴時間の目安を確認して別れた。

 外観に比べ、浴場は狭く感じた。
しかし、外を見ると露天風呂は、広々としており、
開放感がいっぱいのように見えた。
この露天だと、
「樽前山の全景に手が届くのでは。」
と、期待しながら、
まずは体を温めようと、内湯の湯舟に浸かった。

 相変わらず痛む右手をさすりながら、
大きな浴槽に半身を浸けていると、
ただそれだけで、体中が安らぎで満たされた。

 周りには、私と同じように半身浴の人、
首まで温まっている人、そして足湯だけの人もいた。
どの人も、のんびりとした時間と共に、湯煙の中だった。

 ふと、シャワーのある洗い場に目がいった。
ちょうど、そこに今まさに浴場に入ってきたばかりの老人が、
ゆっくりと腰を下ろした。

その老人は、シャワーをしっかりと握り、
肉のそげた老いた体にかけた。
そこに、私よりやや年若い、明らかに息子と分かる
顔の似た男性が近づき、
風呂桶にくんだ湯を、老人の背中にそっとかけてやった。
老人のシャワーは背中に届かず、
息子は二度三度と、背中へのかけ湯を繰り返した。

 やがて、老人はシャワーを止め、
そして、至極当然のように、息子の手を借り、
静かに立ち上がった。
二人の会話など一つもなかった。
しかし、立ち上がると老人は一人でゆっくりと歩き出し、
私の隣の浴槽へと進んだ。

足が悪いようで、その歩みはどことなく心許なかった。
息子は後ろからついてきた。
あたかも老人は、
「大丈夫、まだ一人で歩ける。」
と、言うがごとく、心なしか胸をはり、
それでも、ゆっくりゆっくりと
一歩一歩を確かめながらのものだった。
後ろの息子は、物静かに歩調を合わせ、
老人から目を離さなかった。

 湯舟につくと、老人はさり気なく横に片手を伸ばした。
息子は、その手をとり、
老人が湯に足を入れる手助けをした。
いつしか息子の両手は、父の両手を支え、
浴槽の中央へ進んで行った。

 突然、私の目の前の全てがにじんだ。
私は、両手で湯をすくい、顔にかけた。
いい光景を見させてもらったと思った。

 私の父は、もう35年以上前に他界している。
父が年いってからの子だった。
それだけに、まだ若い時の死別だった。
親孝行などというものができないままの別れに、
尊敬できる父であったこともあり、
悔いることが、いつまでも私の心残りになっていた。

 何も飾らない、
ありのままの父と息子の常しえの関係と、
老いた父を思う息子の有り様を、
私は、ゆらゆらと揺らぐ湯煙の中で見た。
そして、「こんな親孝行がしたかったなあ。」
と、私はもう目頭を抑えようとはしなかった。

 湯上がりの後、小銭を取り出し、
自販機で三ツ矢サイダーを一本買っていた。
栓を抜き、息子は老人に差し出した。
杖を横に置き、長椅子に腰を下ろし、
タオルで汗を拭った老人は、
そのサイダーに口をつけ、
美味しそうに一口二口と飲んだ。

半分ほど飲み残したそのビンを、息子に渡した。
息子はそれをゴクリゴクリと飲み干し、
「玄関の所の椅子に座ってて。車もってくるから。」
と言い、立ち去った。
「分かった。座って待ってる。」
と、老人は答えた。

足の悪い父への気遣いとそれに応じる
『座って』
と、いう短い言葉のやり取り。
私は、またまた感動に震えた。

玄関脇の椅子に腰を下ろしている老人に、
「お先に。」
と、声をかけ、外に出た。

 温かさに包まれた私に、爽やかな秋の風が。
 晴れわたった空に、小鳥のさえずりがした。




伊達は柿の北限とか 街路樹の柿の実

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南吉ワールド

2014-10-18 11:51:46 | 文 学
 時間を持て余し、テレビのチャンネルを何度も切り換えていると、
「世界一受けたい授業SP」で
『教育者に聞いた日本の名作ベスト50』を発表していた。

 最初を見逃したので、
それがどんな調査方法で選ばれたかは不明であったが、
興味をもった。

 このベスト50は、
映画あり、小説あり、絵画、アニメ、童話、絵本等と幅広く、
その順位と作品に、
私は次第次第に期待感を膨らませていった。

 異論反論も多かろうが、
私が、最後に勤務していた墨田区に縁の深い葛飾北斎の
「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」が、
ベスト1であったことに、
ひとり胸を張ったりしていた。

 それにしても、何よりも私を喜ばせたのは、
9位『ごんぎつね』、13位『てぶくろをかいに』
と、新美南吉作品が2つ、
しかも上位にランクインしていたことである。

 この2つの物語は、
国語の教科書によく登場してくる。
私も授業で、その感動を子ども達としばしば共有したが、
新美南吉特有のストーリー性が、読む手の心を捉えてしまう。
それが、上位ランクインの源だと思うが、
この2つの作品にも色濃く表現されている南吉の世界に、
私は、しばしば心迷わされてしまう。

 そのことについて、記す。

 まず『てぶくろをかいに』についてである。

 余談になるが、ある批評に、
“なぜ母狐は、片手だけ子狐の手を人間の手にしたのか。
その疑問で、思考が止まってしまう子どもがいるのでは”
とあり、興味をもったが、
それにしても人間の手とは反対の手を出しても、
てぶくろを買うことができたのである。

だから、無事帰り着いた子狐は
「にんげんってちっともこわかないや。」
と言う。
ところが、母狐は
「ほんとうににんげんは、いいものかしら。」
と、なんと二度も繰り返すのである。
そして、この物語は、この母狐の言葉で終わる。

何故ハッピーエンドにしないのかといった思いと共に、
人間からの数々の理不尽さが、
この母狐の深い心の傷となっているのでは。
そう思うと、
私自身、己の浅はかさに不安感を抱き、
私は着地点のないまま、
いつも悶々とするのである。
それは、南吉が私たちに残した警告なのではないだろうか。

 つづいて『ごんぎつね』である。

 ある子が、銃でうたれてもなお
「ごんは死んではいない。絶対に生きている。」
と、言い張ったが、その願いは別にして、
ごんは死ぬ間際まで兵十と心を通わすことができなかった。

振り返ってみると、
ごんは、自分の至らなさのつぐないを健気に繰り返した。
しかし、その代償が死であった。
玄関先に様々な品を届けたごん。
それを知らずに、“またいたずらをしにきたな”
と、兵十は銃をとり、うつ。
そして、土間にある栗を見て、
「ごん、おまえだったのか。いつも、くりをくれたのは。」
ごんがぐったり目をつぶったままうなずいた後、
兵十は、火縄銃をばたりととり落とす。

 物語は、そこで終わるのだが、
私はその後の兵十を思うと、心が張り裂けるほど苦しくなる。

 『ごんぎつね』は、
至らなさが生んだ間違いへのつぐないが、新しい間違いを造る。
そんな物語だと言えるが、
しかし、わりに合わないでは、事は済まされない。

 確かにうなぎを食べさせてあげることもできず
母を亡くした兵十の無念さが、
ごんに銃口をむけさせたのであろう。
しかし、ごんの行為を知った兵十は、
今後どんな生き方をして、ごんへつぐなうのだろう。

 新美南吉は、
なぜ、銃を打つ前に兵十に栗を気づかせなかったのだろうか。
なぜ、ごんが死に至るところまで描いたのだろうか。

 勝手に想像するしかないが、
日々繰り返す私たちの過ち、それへのつぐない。
その重さを、南吉は教えてくれたのだと思いたい。

 しかし、わたしは
『てぶくろをかいに』と『ごんぎつね』の
幕の引き方に釈然としない。
そして、せつなさだけが心に残り、
オロオロとしてしまうのである。

 まさに、南吉ワールドにはまっているのかも。




街路樹の銀杏も秋色に

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本当のごちそう

2014-10-13 11:09:50 | 北の湘南・伊達
 そばの味を知ったのは、40代になってからである。
 そのはじめが、『鴨せいろ』だったためか、
そば店の暖簾をくぐると、
ついそれを注文してしまうことが多かった。
 鴨肉の入った温かいつゆと冷たいそば。
そのマッチングの訳は、
冷たいそばを少しずつ温かいつゆに移して食べることで、
温かいつゆの中でのびてしまったそばではなく、
最後まで風味あるそばを食べることができるからだそうだ。
そう教えられてからは、余計に『鴨せいろ』が好きになった。
また、それだけそばは、繊細なものだとも知った。

 そんな私だが、
そばに関して、伊達に来てから若干変わったことがある。

 実は、伊達には意外とそば店が多い。
 休日などに近隣の町から、
伊達のそば店をめあてに来られる方も多いと聞いた。
中には、情報誌などで紹介された店に、
北海道外からも旅の途中に、わざわざ立ち寄る方もいる。
土地の人によると、
伊達は水がいいので、美味しいそば店が多いのだとか。

 さて、私は『T』と名乗る店の暖簾をくぐることが多い。
ここは、主人のそば好きがこうじて、脱サラをして店を持ったという。
店内は、小上がり席を含めても40席程度であるが、
伊達で最初にそばを食べたのが、この店だった。
当然『鴨せいろ』を注文した。間違いない味で、大いに満足をした。

 しかし、最近はなすが旬の時は、
それを素揚げにした『なす揚げそば』を注文し、
それはそれでそばとの相性がよく、私を堪能させてくれる。
そんな、そばとの新たな出会いを楽しんでいる。

 ある日、同じ勢いで
『辛みあろしそば』というメニューに目が止まり、食べてみた。

 私は、どちらかと言えば辛い味を苦手にしていた。
だから、そばに限らず辛口な料理を遠慮するようにしていた。
なのに何故、おろしそばの頭に「辛み」
とまで謳ったものを食べる気になったのか、
今も理解できずにいる。
だけどである。この辛みのある大根おろしとそばが、
それはそれは、ピリッとした辛さと冷たいそば、
冷たいつゆが見事な旨味を作りだし、
私は、そばの美味しさを再発見した思いだった。

 そして、つい先日のことだ。
『T』そば店へと出かけた。
当然、目指すは『辛みおろしそば』。

 昼時の忙しい時間が過ぎた店内は、私と家内の二人だけだった。
そこに、四角い黒塗りのお盆にのった、
ちょっと深めの丼に入った注文の品が二つ、運ばれてきた。
濃い醤油色のつゆに浸った、これまた冷たいやや細きりのそば。
その上に真っ白な大根おろしが、一口饅頭ほどの大きさでもられ、
かいわれ大根と鰹節が少量添えられていた。
私は、それらを乱暴にかき混ぜ、
ずるずると音をたてて食べた。

 その辛さは、少々荒々しく、ちょっとした意地の悪さを連想させた。
その少しつらくなるような辛さが、そばの旨味によくあった。
つゆがまたその美味しさに加わり、
私は食後の満足を得ることができた。

そして、仕上げにと、熱々のそば湯をその丼に注ぎ、
添えてあったれんげを手にとり、ひとすくいし、
そして味わいながら飲んだ。
これまた、うすい醤油色をしたそば湯は、
美味しさの余韻に私を導いてくれた。

そして、最後のひとすくいをした時だった。
その丼の底が見えた。
なんと、『夢』の筆文字が現れたのだ。

 美味しさの余韻に酔っていた私の眼前に現れた文字が『夢』である。

 私は、思わずその丼を持ち上げ、その外回りを見た。
そこには、ぐるりと『春夏秋冬』の味わい深い文字があった。

 脱サラをして、そば店を営む店主は、
一度も厨房から姿を見せたことはない。
勝手に地味な人柄の方と思い込んでいた私だが、
その丼を通して、店主の心意気を垣間見た気がした。

 美味しいそばを食べ、
満たされた思いでそば湯まで飲み干した者へのプレゼント。
それが『夢』の一文字。
『春夏秋冬』。それを「いつも」と私は解釈した。

 支払いを済ませ、店を出た私は、
本当のごちそうをいただいた思いだった。

 見上げた空は高く、澄んでいた。
 穏やかな風が、応援歌を連れてきた。




庭のすすきが秋を演出

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽しい授業の条件 その1

2014-10-07 11:41:33 | 教育
 子どもにとって豊かな学校生活の第一は、
授業が楽しいことである。

 わかること、できること、そして少しでも上達できたこと、
そんな達成感を伴った喜びを実現させるのが、楽しい授業である。
 そんな授業をつくり出すこと、それが教師の大きな仕事である。

 そのために、教師は研修に励み、
たえず『子どもを見る目』と『教材を見る目』を鍛え、
子どもに楽しい授業を提供できるよう努めなくてはならない。

 さて、子どもにとって楽しいと感じる授業の条件であるが、
授業実践と授業観察から、次の3つに、私は絞っている。

   ① その授業の学習課題(学習問題)に魅力があること。
   ② その授業の学習方法(進め方)に魅力があること。
   ③ その授業の学習構成員(教師・友達)に魅力があること。
 この3条件を全て備えた授業がベストであるが、
1つでも2つでも備えていれば、十分に楽しさを実感できる授業になると思う。

 まず、第一の条件である『学習課題』についてであるが、
それが明確な解答を期待するものであれば、学習問題と言い換えてもいい。
いずれにしても、授業の目標と言えるが、
その授業で、何を学ぶか、
あるいは何を知ろうとするか、
分かるか、
できるようになるか、
作れるか、
習得するか等々をさす。

授業の冒頭、
そのようなことに子どもが魅力を感じると、
きっとその目標にむかって、
自らチャレンジすると思う。そしてやがて楽しいと感じると思う。

 学習課題の魅力、
その第一は、
「不思議だ。」「知りたい。」「やってみたい。」
と、言った子どもの内面から沸き上がる知的好奇心、
つまり内発的動機が原動力となる。
これをどう刺激するか。
それが重要なのである。

 そのために、学習課題は、
決して抽象的であったり、曖昧なものであったりしてはならない。

 できうる限り具体的で、子どもがイメージしやすいものあることが重要なのである。
その上、
例えば、学習課題を解決する手段がある程度見通せること。
あるいは、その課題が半分分かりそうで、半分分からない。
つまりよく考えれば分かるかも、できるかも、そんな期待感が持てること。
または、
その子が今、切実感を持って直面している困難と対応していること。
そんな視点で設定された学習課題が、魅力に繋がるのである。

 だから、教師は、楽しい授業のために、
毎時間、魅力ある学習課題への吟味を怠ってはならないのである。

 次に、②学習方法、③構成員の魅力についてであるが、それは、後日に記す。




私の好きな伊達の景色も秋の気配
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする