ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

 『 昇  華 』

2014-08-28 21:19:24 | 出会い
 座右の銘までではないにしろ、
人それぞれ、その人を支えている言葉があるように思う。
 私も幸い沢山の言葉に出会い、励まされ、導かれてきた。
 その一つを紹介したい。

 教職について3,4年が過ぎた頃だったと記憶している。
 理科好きの後輩教員が研究授業をした。
その研究協議会の席で、講師の先生から教えて頂いた言葉である。

 誰もが知っているのだろうが、
不勉強な私は、その時初めて学んだ言葉だった。

 先生は、黒板に大きく『昇華』と書いた。
私はその字が読めなかった。
しかし、ドライアイスやしょうのうのように、
液体を通らずに、固体から気体、気体から固体になる現象を言うと知った。
「自然界では、まれにこういうことがある。」とのこと。
そして、理科教育に精通した先生が、
「文学の世界でもよく描かれている。」
と、付け加えた。

 私は、
「人生において、もしもそんなことがあるのなら。」
と、その字をノートに書き留め、
その後の講評など全く耳に入らず、
一人、心の高ぶりを抑えるのに必死だった。

 私は、幼少の頃から自分の人生を『後列の人生』と思っていた。
家は貧しく、しかも私は心も体も非力だった。
だから、どんな時も列の前に出ることはなく、
いつもみんなの後ろを歩いていた。
しかも、懸命に差がつかないように頑張って頑張ってであった。

 それは教職に就いてからも同じで、
表向きは元気で明るくほがらかを装いながらも、
しかし、先生方にはいつもかなわないと思っていた。
確かに私はそれでいいと思っていた節がある。

 ところが、『昇華』と出会った。
 この言葉は、私に夢をくれた。
 「もしかしたら、私だって、いつか何かで、液体を通らず気体になるのではないか。」
 「まだ気づかない私自身の何かが『昇華』するかも。」
 「信じよう。」
 そう思えた時、
私は今までとは違う新しい一歩を踏み出していた。

 今はもう、その言葉とは無縁なように思うが、
その言葉が私を力づけ、
その後の私を、
時には全力で日々かけぬけさせたのだった。




「だて歴史の杜公園」でみつけたカモの親子
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小学校教師のモチベーション

2014-08-23 22:07:39 | 教育
 子どもの頃、我が家は小さな魚屋を営んでいた。
 父と母、兄の三人で、毎日食事の時間も惜しんで立ち働いていた。
 夕食の団らんなど、私の思い出にはさほどない。

 しかし、お客さんが途絶えたころ、店じまいをし、
その日の売り上げを、車座になって数える時間がくる。

 幼い頃はその輪に加えてもらえなかったが、
小学校中学年になると、小銭を数えるお手伝いをさせてもらえた。

 父母と兄は、その日の売り上げ高を確かめ、
疲れを忘れたように元気な声になったり、
ため息まじりになったりしながら、
「○○さんがたくさん買ってくれたから。」
「あの魚はもっと高い値でも売れるよ。」
「明日は刺身用の品を多くしてもいいね。」
と、語り合い、
そして、翌日の算段を決め一日が終わるのだった。

 商売人のモチベーションは、その規模の違いはあれ、
毎日の売り上げ高が決めるように思う。
胸算用していた金額に達したと喜び「明日も」と、意気込み、
そうでなかった日は、新しい策を練り
「明日こそは」と、気持ちを高めるのである。

 しかし、
教師のモチべーションはそれとは大きく違う。

 1年生算数で「10の補数」を学ぶ。
『1と9、2と8、……、5と5…』
みんなもよくわかったと、授業の最後は明るい表情をし、元気になる。
 そして次の日。
昨日を振り返り
「10はどんな数でできているの?」と、訊いてみる。
すると何人かの子が「なんのことか。」と、不安な顔をするのだ。
 「みんな、あんなに明るい顔をして理解していたようだったのに。」
と、教師は落胆する。
また、昨日に戻って教え直しである。

 このようなことは、小学校ではいろいろな指導場面、どの学年でもよく見られることである。
 「だから、どうせどう教えたって、また明日は今日と同じ。」
そう思うようなら、その先生は他の仕事を探した方がいいと思う。

 小さい子どもほど、
繰り返し繰り返し、粘り強く指導してこそ、理解が進むのである。
しかも、その繰り返しは同じやり方ではなく、
手を変え品を変えといった指導の工夫が必須条件で、
それなしには子どもの意欲は継続しないのである。

 その上、どんなに粘り強く時間をかけ、工夫を重ねて指導しても、
理解が進まない子どももいる。
 「ここまでやってもダメなのか。」
と、熱心に指導した教師であればあるほど、その挫折感も大きく、
教師としてのモチベーションも失いかけるのである。

 適切な言葉ではないと思うが、
私は、子どもの体内には『熟成』という作用があると信じている。
その時、先生から繰り返し教えてもらっても、分からなかったことやできなかったことが、
数ヶ月先、いや数年先、あるいは十数年先に、
「そうか、分かった。」「なんだ、そんなことか。」「こんな簡単に、できた。」などと、気づくことがままある。
 音読が下手だった私が、
声より少し先の字を目で追うようになり、他の子と同じように読めるようになったのは、
そんな方法を教えてもらってから、2,3年あとだったと記憶している。
これを『熟成』だと私は言いたい。

 このような気づきは、過去における教師の熱心な指導の賜物である。
しかし、教師はそんな結果を知る機会に恵まれてはいない。

 だから、
 小学校教師とは、
「子どもへの熱心な働きかけが、はるか先・いつか、必ず実を結ぶ。」
そう確信できる人に与えられる仕事だと、私は思っている。




今朝、花壇を訪れたお客さん
 
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勝手にチャレンジャー!

2014-08-17 13:54:42 | ジョギング
 伊達に来て初めての冬を過ごし、間もなく春を迎えようとしてしていたとき、
『春一番・伊達ハーフマラソン』のポスターを見た。
 北海道では雪解けが早い伊達で、例年行われている大会だと知った。

 冬の間も除雪のすんだ雪道を、
スノー用のジョギングシューズと厚手のトレーニングウエア、防寒用帽子と手袋で、
それまでより少し遅い時間帯に
スロージョギングを続けていた。

しかし、その大会への参加など無理と思ったが、
ハーフマラソンの他に、10キロと5キロのコースが用意されていた。
よくよくそのコースを見ると、5キロはいつもジョギングしている道路と重複しており、
「ここなら私でも走れるかも。」
と、思わせるものだった。
しかも、それぞれのコースが年齢別エントリーとなっており、それも私を惹きつけた。

 数日迷ったあげく、思い切って家内を誘うと、
「やってみようか!」の返事。
その反応に背中を押され、
「そんな目的でジョギングしていた訳じゃないのに。」
と、思いつつ、それでもその日に向けてどことなく熱を入れて走るようになった。

 4月中旬の日曜日、
道内より3000人を超えるランナーが集まり、
久しぶりの熱気に、少し若返った気分で人混みの中にいた。

 コースごとに次々とスタートし、私たち5キロ組も走り出した。
沢山の若者に混じり、それでもしっかりと自分のペースを守り走り続けた。
 地元開催のためコースだけは熟知していた。
ここまではなだらかな上り坂、ここからしばらくは平坦、
そして下り坂はあの曲がり角までと思いつつ走った。

 私も家内も無事完走した。
 ゼッケンにはチップがついており、ゴールするとすぐに記録証がもらえるシステムになっていた。

 現職時代、毎年職場対抗のバドミントン等の親睦試合には出ていたが、
このような一般募集のスポーツ大会への参加は、30歳代以来だった。

 そのためか、完走し記録証をいただいた私は有頂天になっていた。
家内がむけたカメラに記録証をかさしピースサインまでし、
勢い首都圏にいる息子たちに、その写メまで送った。

 その頃、私たちがゴールした場所へは、次々と10キロのランナーが戻ってきていた。
特にそのランナーたちに興味があった訳ではないが、
ハイテンションの私は、10キロのランナーに拍手をしようとゴールそばへ行った。

 そのゴールに、手首と手首を紐で結んだ男女のランナーが入ってきた。
テレビ報道で知ってはいたが、視覚障害のランナーと伴走者だと気づいた。
ゴール後、二人はゆっくりと歩を進め、声をかけ合っていた。
二人の晴れやかな顔。そのとき、私の時間は止まっていた。
私の倍の距離を、しかも視覚障害というハンディがありながらゴールした女性。
またその人を援助し続け伴走した男性。
私の心は、ただただ震えていた。

 ところが、それは一組ではなかった。
その後、伴走者をともなったランナーが6組も7組もゴールしてきたのだった。
 「私は5キロを走るのに精一杯だったけど、貴方たちはどうやって練習したの?」
「なぜその不自由な視力で、10キロもの道を走ろうと思ったの?」
 私は、1本の紐で結ばれたランナーたちに、胸も目頭も熱くしていた。
そして、
今の今まで意気揚々とかざしていた5キロの記録証を後ろに隠し
「何か、恥ずかしい。」
と、つぶやいていた。

 大会からの帰り道、私は「来年は、絶対に10キロを走る。」と家内に言った。
 人にはそれそれ限界がある。
しかし、その限界を勝手に自分で決めてはいないだろうか。
還暦を過ぎた私にどれだけの可能性が残されているのか、
それにトライするのは、まさに身の程知らずなことかも。
しかし、私はこのままではいられない気持ちになっていた。

 紐で結ばれたランナーたちへ、勝手にチャレンジャーになった。



街路樹・ナナカマドが色づきはじめた
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階段でおはようございます

2014-08-10 20:59:18 | 出会い
 現職時代の私は、千葉市海浜地区に住み、
主に東京都東部の小学校に勤務していた。

 まだ車通勤が黙認されていた若い頃を除き、
いつも電車・バスを使い、1時間半前後の通勤だった。
 教員の宿命で、朝は早く、勤務校が変わっても
いつだって6時半には家を出ていた。
 通勤ラッシュ前には最寄り駅につき、そこから自転車かバス、徒歩で学校に行った。

 私に限らず出勤にはそれぞれの定刻がある。
だから、お定まりの車両の扉や駅ホーム、通勤路で毎日同じ人と会う。
 しかし、誰もが何かと慌ただしい時間に加え、
朝のこの時間はその日の仕事のこと等でいっぱいいっぱいで、
そのためだろう、毎朝出会い、すれ違うだけの人の顔など、
しっかりとは覚えていないものである。
ましてや、挨拶など交わすことなどない。

 とある日、
私は午後の研修会で他校へ出張に出かけた。
昼下がりの地下鉄の車内は、人もまばらで席が空いていた。
「これ幸い」と座った矢先、
斜め向かいからの視線に気づいた。
おもむろに、そちらに目を向けると、
その女性はすでに視線をはずし、うつむいていた。

 どこかで見たことのある顔だったが、思い出せなかった。
 私が視線をはずすと、その女性は再び私を見ているようだった。
 私は、「間違いなくどこかで会ったことのある、見覚えのある顔だけど。」
と、もう一度その女性を見た。
その時、視線が合ってしまった。
 私はためらいながらも素知らぬふりができず、
ゆっくりと頭をさげ無言の挨拶をした。
すると、その女性も会釈を返してくれたが、
しかし、その表情は私に何も教えてはくれなかった。
その女性は、次の駅で私を見ることもなく、降りていった。

 私と同じくらいか、若干年上ようにも思えた。
いつどこで会ったのか、仕事上の知り合いかプライベートかなど
全く思い出せないまま私は、
電車が出張先の駅に着く頃には、もう仕事のことを考えていた。

 ところが、ところがであった。
翌朝のことだった。
 定刻に家を出て、電車を一度乗り換えて
勤務校の最寄り駅で地下鉄を降り改札を抜け、
いつもの階段を登り始めた。

 この階段では、毎朝一人の女性とちょうど真ん中あたりですれ違った。
 その朝も彼女は、静かな足取りで近づいてきた。
何気なく顔を上げると、昨日の昼下がりの電車内が蘇った。
階段を登る足取りが止まりそうになった。
私の斜め前に座っていた女性だ。

 私は、一瞬躊躇した。
そして、階段を降り、私に近づいてくる女性も、一瞬躊躇したように思えた。

昨日、あの車内で頭を下げ合ったのは確かである。
私は、昨日の朝までと同じように
見知らぬ顔でその場を通り過ぎることができなかった。
できるだけ普通に、静かに「おはようございます。」
と言い、すれ違った。
ほぼ同じように、その女性も
「おはようございます。」
と、軽く会釈をし、階段を降りていった。

 以来、勤務校が変わるまでの毎朝、
私とその方は、
地下鉄から地上に出る細い階段で、
「おはようございます。」
と、挨拶をした。

 「あの昼下がり、車内で会った時、
貴方は毎朝階段ですれ違っていた私だと気づいていましたか。」
と、訊くこともなかった。

 人は誰でも、沢山の様々な人と出会う。
しかし、私にとってこの出会いは、なぜかいつまでも記憶にある。

 マスクをしていた日は、風邪ひいたのかなと、
 少し髪が短くなると美容院へ行ったんだと、
 そして、いつしか
 「おはようございます。」の声で、勝手に喜怒哀楽を感じたりしていた。

 人生には、そんなささやかなドラマがいくつもあっていいと、私は思う。



イタドリの花が咲き始めた(後ろは有珠山)
 
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9年目の涙

2014-08-04 21:28:19 | 教育
 教職について9年目のとき、久しぶりに1年生担任になった。
 その学級に自閉症の男の子T君がいた。
私にとって初めてのことだった。

 T君は言葉が少なく、いつもじっと椅子に座っていた。
 教科書もノートも筆箱も準備することはなかった。

 私がT君のそばに行き、ノートを机に広げてやると、
鉛筆を取り出し、勝手に電車の絵を描いた。
 「ダメだよ。今はお絵かきの時間じゃないよ。国語のお勉強だよ。」
と、電車の絵を止めさせようとすると、
突然大粒の涙をこぼし、大声で「お母さん、かえる。お母さん、かえる。」と叫び出すのだった。

 この「お母さん、かえる。」が始まると、私はもうお手上げ状態で、
仕方なくT君の家に電話をし、T君のお母さんに来てもらうのだった。
幸い、学校の近くに住まいがあったので、
いつも5分もかからずお母さんは駆けつけてくださった。
私は、その5分間をただオロオロとしているだけで、
T君の「お母さん、かえる。」を止めることができなかった。

 私は、T君に振り回される毎日を送った。
そして、いつも「お母さん、かえる。」の言葉を恐れた。

 しかし、徐々にではあったが、T君が分かるようになり、
少しずつ彼との距離を縮めることができた。
それでも、時折T君の思いを理解できず「お母さん。かえる。」の大声と大粒の涙に見舞われた。

 1年が過ぎ、2年生になってもT君を受け持った。
 その頃になると、学級の子どもたちともT君はうち解けて、過ごすことが多くなった。
時々、休み時間には学級の子どもたちと一緒に楽しく過ごした。

 ある日の休み時間だった。
T君は学級のみんなと校庭にいた。
そして、私は職員室で仕事に追われていた。
その時、校庭からT君の例の泣き叫ぶ声がした。
 久しぶりのT君の声に私は息を飲んだ。
 しかし、T君の「お母さん、かえる。」の声のはずが、
「先生、かえる。」
と、聞こえた。

 私は、校庭に走り出た。
「お母さん、かえる。」ではなく、はっきりと「先生、かえる。」と言っていた。
 T君のそばに走りより、
いつもお母さんがしていたように、
ポケットに入っている真っ白なハンカチを取り出し、
T君の涙をふきながら、
「もう大丈夫だよ。もう大丈夫。先生がいるからね。」
と、私は言いながら、ボロボロと涙をこぼした。

 あの時、私ははじめて教職に魅せられた気がする。



道ばたの紫陽花が綺麗



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