▼校長としてキャリアを重ねると、
自校のことだけでなく、教育委員会に関わる仕事も増えた。
校長職5年目を迎えたとき、
区内小学校の宿泊学習に関わる役割が回ってきた。
例年通りにその任を、進めていてもよかった。
しかし、懸案事項があった。
校長会でそのことを図った。
全員から賛同があった。
早速、教育委員会の担当部署に出向いた。
内容は金銭がらみで、難しいことは覚悟していた。
実は、それまで5年生の宿泊学習は、
都内から区の施設がある栃木県まで、電車で移動していた。
子ども達は、2泊3日の持ち物を、
大きなリュックに詰め、それを背負って電車に乗った。
当然、一般客も同乗していた。
大きなリュックが、通路や座席の邪魔になった。
ホームでは、すれ違いで肩がふれ、
双方がよろける場面もあった。
それまでに、事故がなかったことが不思議なくらいだった。
そこで、私たちは提案した。
「電車から貸し切りバスへ、移動手段を変えたい。」
学校の近くから、貸し切りバスに乗り込むのだ。
リュックも同乗でき、一般の方との接触もない。
今までよりも安全な移動方法だった。
ここで、若干補足説明をする。
私が勤務していたS区は、
宿泊学習にかかる経費のほどんどを、
公費が負担していた。
賄い費つまり3食の食事代以外は、区が支払うのだ。
素晴らしいことだ。
なので、電車賃もS区が支出していた。
もしバスを貸し切りにしたら、その費用も区が出すことになる。
それは、電車賃に比べるとかなり割高だった。
1つの管轄部署で決められる額ではなかった。
難しい提案に、担当部署は二の足を踏んだ。
だが、私は諦めなかった。粘った。
ついに担当部署と二人三脚で、
必要な書類を持参し、理解を得るため説明に回った。
最後は財政をまとめる部署から呼び出しがあった。
私には同席が許されなかった。
そこまで私と一緒に奔走してくれた区教委の職員が、
頑張ってくれた。
その必要性を緻密な文章にまとめ、訴えてくれた。
翌年から、バスによる宿泊学習が始まった。
若干の達成感があった。
同時に、私たち校長の提案を理解し、
一緒に頑張ってくれた担当部署の職員に感謝した。
そして、バスによる移動に切り替えた区教委の英断にも、
同様の想いだった。
その後も、様々な施策ついて、
私は1校の長として区教委に依頼した。
その要望を受け止め、多くに応じてくれた。
▼ところがだった。
そんな私が、区教委の提案に反旗を掲げたことがあった。
平成14年度に学校週5日制が完全実施された。
年間40日程、授業日数が減った。
減った授業数をどうするか。
大きな課題となった。
学校も区教委も頭を痛めた。
様々な議論があり、
いくつかのアイデアが浮いたり沈んだりした。
その1つが、『学校年2学期制』の導入だった。
区教委は主な導入理由を次のように示した。
『始業式、終業式、定期考査の回数が減るために授業時数が確保でき、
ゆとりある教育活動の展開に効果がある。』
『教職員の意識を改革し、学校の教育活動の向上を図るために
様々な工夫に取り組む上で効果がある。』
各地域・学校で、学校週5日制が実施されてから、すでに15年が過ぎる。
今では、授業時数の確保策として、
長期休業の短縮や土曜授業の復活等々がある。
しかし、当時は確かに手詰まりだった。
その結果として、2学期制の導入が考え出されたのだ。
だが、私はどうしても賛同できなかった。
学校における『学期制』を、私は教育活動の節目と認識していた。
子どもは、区切りのその日をめざして、毎日を過ごす。
その節目の日が、各学期の終業式だ。
その日、学習の成果を通知表として受け取る。
そして次の学期、再出発に新しい意欲を持つのだ。
また新しい区切りの日を目指す。
それが、『学期制』の意味するものだ。
その節目の機会が減る。
そこに、どんな良さがあるのだろうか。
時数確保策としても、小学校ではそれ程の有効性はなかった。
区教委が実施検討を始めた当初から、
私は、機会ある毎に異議を表明した。
区教委は、私の発言に眉を寄せた。
その様なことがあっても、
区教委は、すでに2学期制を導入した地方の学校への視察、
そして、導入後の学校から講師を招いての研修会など、
合意形成のために着々と動いた。
そして、最初に中学校で実施し、
翌年には小学校にも、導入した。
私の意見表明など、何の意味もなかった。
今も私の考えは正当だと思っている。
しかし、施策実施に対し微塵も揺るがず、
着実にそれを進めた区教委に、
今も一目を置いている。
学期制変更の専権は、教委にあった。
だから区教委は、2学期制の役割を検討し淡々と実施したのだ。
授業時数確保の一策として、学校を援助する。
そのためのことだった。
▼それに比べてだ。
わが町、伊達での出来事だ。
さほどのことではないとも言えるが、
いつまでも心に留まっている。
まずは、9月某日の新聞記事を付す。
『伊達150年記念事業と伊達青年会議所(JC、…)の
創立50周年事業を兼ねて8月31日に行われた
「ギネス世界記録に挑戦」で、小学校への参加要請が直前になったことが
12日に市議会一般質問で取り上げられ、
市側は「事前調整が必ずしも十分ではなかった」と認めた。
「ギネス~」は8時間で50メートルリレーを走った
最多人数を更新しようと市総合体育館で行われ、
従来記録を大きく上回る1684人がバトンをつなぎ、新記録と認定された。
大きく貢献したのが、市中心部の伊達小、東小、伊達西小の
児童約1060人の集団参加。
これについて吉野英雄議員が
「参加者募集など入念な打ち合わせに課題を残したのではーと父母からの声がある」
と指摘した。
市教委によると、本来なら学校が年間行事を決める年度末までに要請すべきところ、
種目決定などの実務を担当するJC側の準備が遅れ、
さらに一般募集では約200人程度しか集まらず、
JCからの参加要請は結局6月になった。
このため、各校長の裁量で休日だった土曜日の31日を登校日とし、
翌週の月曜日や金曜日を代休とするなどの措置を余儀なくされたという。
答弁した市教委は
「JCには『急いでね』と言ったが・・」と苦い顔だった。』
この記事を一読し、ため息がでた。
8月31日の舞台裏がこんなであったとは・・・。
素晴らしいギネス記録更新も、冷めてしまいそうだ。
それにしても、市教委の『急いでね』と苦い顔には驚く。
確かに、休日変更は校長裁量でできる。
その上、教育活動であるなら、
ギネスへの挑戦に子どもを参加させることも可能だ。
全ては校長の裁量でできることだ。
しかし、性急な上に、イベントの成否がかかった要請だ。
きっと3校の校長は、ノーとは言えなかったに違いない。
各校長の苦しい胸の内が垣間見える。
こんな時、校長の楯になるのが、
他でもない教委の役割だと私は思う。
バス移動に切り替えたのも、
事故の全責任を負う校長を思ってのこと。
賛同できなかったが、二学期制の導入も、
時数確保に苦慮する学校への想いからのこと。
確かにそれとは異質とも言える。
でも、今回のわが町の教委の姿勢、
「これは『喝』でしょう!」と言う。
アヤメ川公園内の『水神』さま
※次回ブログ更新予定は、10月12日(土)です
自校のことだけでなく、教育委員会に関わる仕事も増えた。
校長職5年目を迎えたとき、
区内小学校の宿泊学習に関わる役割が回ってきた。
例年通りにその任を、進めていてもよかった。
しかし、懸案事項があった。
校長会でそのことを図った。
全員から賛同があった。
早速、教育委員会の担当部署に出向いた。
内容は金銭がらみで、難しいことは覚悟していた。
実は、それまで5年生の宿泊学習は、
都内から区の施設がある栃木県まで、電車で移動していた。
子ども達は、2泊3日の持ち物を、
大きなリュックに詰め、それを背負って電車に乗った。
当然、一般客も同乗していた。
大きなリュックが、通路や座席の邪魔になった。
ホームでは、すれ違いで肩がふれ、
双方がよろける場面もあった。
それまでに、事故がなかったことが不思議なくらいだった。
そこで、私たちは提案した。
「電車から貸し切りバスへ、移動手段を変えたい。」
学校の近くから、貸し切りバスに乗り込むのだ。
リュックも同乗でき、一般の方との接触もない。
今までよりも安全な移動方法だった。
ここで、若干補足説明をする。
私が勤務していたS区は、
宿泊学習にかかる経費のほどんどを、
公費が負担していた。
賄い費つまり3食の食事代以外は、区が支払うのだ。
素晴らしいことだ。
なので、電車賃もS区が支出していた。
もしバスを貸し切りにしたら、その費用も区が出すことになる。
それは、電車賃に比べるとかなり割高だった。
1つの管轄部署で決められる額ではなかった。
難しい提案に、担当部署は二の足を踏んだ。
だが、私は諦めなかった。粘った。
ついに担当部署と二人三脚で、
必要な書類を持参し、理解を得るため説明に回った。
最後は財政をまとめる部署から呼び出しがあった。
私には同席が許されなかった。
そこまで私と一緒に奔走してくれた区教委の職員が、
頑張ってくれた。
その必要性を緻密な文章にまとめ、訴えてくれた。
翌年から、バスによる宿泊学習が始まった。
若干の達成感があった。
同時に、私たち校長の提案を理解し、
一緒に頑張ってくれた担当部署の職員に感謝した。
そして、バスによる移動に切り替えた区教委の英断にも、
同様の想いだった。
その後も、様々な施策ついて、
私は1校の長として区教委に依頼した。
その要望を受け止め、多くに応じてくれた。
▼ところがだった。
そんな私が、区教委の提案に反旗を掲げたことがあった。
平成14年度に学校週5日制が完全実施された。
年間40日程、授業日数が減った。
減った授業数をどうするか。
大きな課題となった。
学校も区教委も頭を痛めた。
様々な議論があり、
いくつかのアイデアが浮いたり沈んだりした。
その1つが、『学校年2学期制』の導入だった。
区教委は主な導入理由を次のように示した。
『始業式、終業式、定期考査の回数が減るために授業時数が確保でき、
ゆとりある教育活動の展開に効果がある。』
『教職員の意識を改革し、学校の教育活動の向上を図るために
様々な工夫に取り組む上で効果がある。』
各地域・学校で、学校週5日制が実施されてから、すでに15年が過ぎる。
今では、授業時数の確保策として、
長期休業の短縮や土曜授業の復活等々がある。
しかし、当時は確かに手詰まりだった。
その結果として、2学期制の導入が考え出されたのだ。
だが、私はどうしても賛同できなかった。
学校における『学期制』を、私は教育活動の節目と認識していた。
子どもは、区切りのその日をめざして、毎日を過ごす。
その節目の日が、各学期の終業式だ。
その日、学習の成果を通知表として受け取る。
そして次の学期、再出発に新しい意欲を持つのだ。
また新しい区切りの日を目指す。
それが、『学期制』の意味するものだ。
その節目の機会が減る。
そこに、どんな良さがあるのだろうか。
時数確保策としても、小学校ではそれ程の有効性はなかった。
区教委が実施検討を始めた当初から、
私は、機会ある毎に異議を表明した。
区教委は、私の発言に眉を寄せた。
その様なことがあっても、
区教委は、すでに2学期制を導入した地方の学校への視察、
そして、導入後の学校から講師を招いての研修会など、
合意形成のために着々と動いた。
そして、最初に中学校で実施し、
翌年には小学校にも、導入した。
私の意見表明など、何の意味もなかった。
今も私の考えは正当だと思っている。
しかし、施策実施に対し微塵も揺るがず、
着実にそれを進めた区教委に、
今も一目を置いている。
学期制変更の専権は、教委にあった。
だから区教委は、2学期制の役割を検討し淡々と実施したのだ。
授業時数確保の一策として、学校を援助する。
そのためのことだった。
▼それに比べてだ。
わが町、伊達での出来事だ。
さほどのことではないとも言えるが、
いつまでも心に留まっている。
まずは、9月某日の新聞記事を付す。
『伊達150年記念事業と伊達青年会議所(JC、…)の
創立50周年事業を兼ねて8月31日に行われた
「ギネス世界記録に挑戦」で、小学校への参加要請が直前になったことが
12日に市議会一般質問で取り上げられ、
市側は「事前調整が必ずしも十分ではなかった」と認めた。
「ギネス~」は8時間で50メートルリレーを走った
最多人数を更新しようと市総合体育館で行われ、
従来記録を大きく上回る1684人がバトンをつなぎ、新記録と認定された。
大きく貢献したのが、市中心部の伊達小、東小、伊達西小の
児童約1060人の集団参加。
これについて吉野英雄議員が
「参加者募集など入念な打ち合わせに課題を残したのではーと父母からの声がある」
と指摘した。
市教委によると、本来なら学校が年間行事を決める年度末までに要請すべきところ、
種目決定などの実務を担当するJC側の準備が遅れ、
さらに一般募集では約200人程度しか集まらず、
JCからの参加要請は結局6月になった。
このため、各校長の裁量で休日だった土曜日の31日を登校日とし、
翌週の月曜日や金曜日を代休とするなどの措置を余儀なくされたという。
答弁した市教委は
「JCには『急いでね』と言ったが・・」と苦い顔だった。』
この記事を一読し、ため息がでた。
8月31日の舞台裏がこんなであったとは・・・。
素晴らしいギネス記録更新も、冷めてしまいそうだ。
それにしても、市教委の『急いでね』と苦い顔には驚く。
確かに、休日変更は校長裁量でできる。
その上、教育活動であるなら、
ギネスへの挑戦に子どもを参加させることも可能だ。
全ては校長の裁量でできることだ。
しかし、性急な上に、イベントの成否がかかった要請だ。
きっと3校の校長は、ノーとは言えなかったに違いない。
各校長の苦しい胸の内が垣間見える。
こんな時、校長の楯になるのが、
他でもない教委の役割だと私は思う。
バス移動に切り替えたのも、
事故の全責任を負う校長を思ってのこと。
賛同できなかったが、二学期制の導入も、
時数確保に苦慮する学校への想いからのこと。
確かにそれとは異質とも言える。
でも、今回のわが町の教委の姿勢、
「これは『喝』でしょう!」と言う。
アヤメ川公園内の『水神』さま
※次回ブログ更新予定は、10月12日(土)です