ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

これは 『喝』でしょう!

2019-09-27 22:00:18 | 教育
 ▼校長としてキャリアを重ねると、
自校のことだけでなく、教育委員会に関わる仕事も増えた。

 校長職5年目を迎えたとき、
区内小学校の宿泊学習に関わる役割が回ってきた。

 例年通りにその任を、進めていてもよかった。
しかし、懸案事項があった。
 校長会でそのことを図った。
全員から賛同があった。

 早速、教育委員会の担当部署に出向いた。
内容は金銭がらみで、難しいことは覚悟していた。

 実は、それまで5年生の宿泊学習は、
都内から区の施設がある栃木県まで、電車で移動していた。

 子ども達は、2泊3日の持ち物を、
大きなリュックに詰め、それを背負って電車に乗った。
 当然、一般客も同乗していた。

 大きなリュックが、通路や座席の邪魔になった。
ホームでは、すれ違いで肩がふれ、
双方がよろける場面もあった。
 それまでに、事故がなかったことが不思議なくらいだった。

 そこで、私たちは提案した。
「電車から貸し切りバスへ、移動手段を変えたい。」
 学校の近くから、貸し切りバスに乗り込むのだ。
リュックも同乗でき、一般の方との接触もない。
 今までよりも安全な移動方法だった。

 ここで、若干補足説明をする。
私が勤務していたS区は、
宿泊学習にかかる経費のほどんどを、
公費が負担していた。
 賄い費つまり3食の食事代以外は、区が支払うのだ。
素晴らしいことだ。

 なので、電車賃もS区が支出していた。
もしバスを貸し切りにしたら、その費用も区が出すことになる。
 それは、電車賃に比べるとかなり割高だった。  
1つの管轄部署で決められる額ではなかった。

 難しい提案に、担当部署は二の足を踏んだ。
だが、私は諦めなかった。粘った。
 ついに担当部署と二人三脚で、
必要な書類を持参し、理解を得るため説明に回った。

 最後は財政をまとめる部署から呼び出しがあった。
私には同席が許されなかった。
 そこまで私と一緒に奔走してくれた区教委の職員が、
頑張ってくれた。
 その必要性を緻密な文章にまとめ、訴えてくれた。

 翌年から、バスによる宿泊学習が始まった。
若干の達成感があった。
 同時に、私たち校長の提案を理解し、
一緒に頑張ってくれた担当部署の職員に感謝した。
 そして、バスによる移動に切り替えた区教委の英断にも、
同様の想いだった。

 その後も、様々な施策ついて、
私は1校の長として区教委に依頼した。
 その要望を受け止め、多くに応じてくれた。

 ▼ところがだった。
そんな私が、区教委の提案に反旗を掲げたことがあった。

 平成14年度に学校週5日制が完全実施された。   
年間40日程、授業日数が減った。
 減った授業数をどうするか。
大きな課題となった。
 学校も区教委も頭を痛めた。

 様々な議論があり、
いくつかのアイデアが浮いたり沈んだりした。
 その1つが、『学校年2学期制』の導入だった。

 区教委は主な導入理由を次のように示した。
『始業式、終業式、定期考査の回数が減るために授業時数が確保でき、
ゆとりある教育活動の展開に効果がある。』
 『教職員の意識を改革し、学校の教育活動の向上を図るために
様々な工夫に取り組む上で効果がある。』
 
 各地域・学校で、学校週5日制が実施されてから、すでに15年が過ぎる。
今では、授業時数の確保策として、
長期休業の短縮や土曜授業の復活等々がある。

 しかし、当時は確かに手詰まりだった。
その結果として、2学期制の導入が考え出されたのだ。

 だが、私はどうしても賛同できなかった。
学校における『学期制』を、私は教育活動の節目と認識していた。

 子どもは、区切りのその日をめざして、毎日を過ごす。
その節目の日が、各学期の終業式だ。
 その日、学習の成果を通知表として受け取る。
そして次の学期、再出発に新しい意欲を持つのだ。
 また新しい区切りの日を目指す。
それが、『学期制』の意味するものだ。

 その節目の機会が減る。
そこに、どんな良さがあるのだろうか。
 時数確保策としても、小学校ではそれ程の有効性はなかった。

 区教委が実施検討を始めた当初から、
私は、機会ある毎に異議を表明した。
 区教委は、私の発言に眉を寄せた。

 その様なことがあっても、
区教委は、すでに2学期制を導入した地方の学校への視察、
そして、導入後の学校から講師を招いての研修会など、
合意形成のために着々と動いた。
 
 そして、最初に中学校で実施し、
翌年には小学校にも、導入した。
 私の意見表明など、何の意味もなかった。

 今も私の考えは正当だと思っている。
しかし、施策実施に対し微塵も揺るがず、
着実にそれを進めた区教委に、
今も一目を置いている。

 学期制変更の専権は、教委にあった。
だから区教委は、2学期制の役割を検討し淡々と実施したのだ。
 授業時数確保の一策として、学校を援助する。
そのためのことだった。

 ▼それに比べてだ。
わが町、伊達での出来事だ。
 さほどのことではないとも言えるが、
いつまでも心に留まっている。

 まずは、9月某日の新聞記事を付す。

 『伊達150年記念事業と伊達青年会議所(JC、…)の
創立50周年事業を兼ねて8月31日に行われた
「ギネス世界記録に挑戦」で、小学校への参加要請が直前になったことが
12日に市議会一般質問で取り上げられ、
市側は「事前調整が必ずしも十分ではなかった」と認めた。

 「ギネス~」は8時間で50メートルリレーを走った
最多人数を更新しようと市総合体育館で行われ、
従来記録を大きく上回る1684人がバトンをつなぎ、新記録と認定された。

 大きく貢献したのが、市中心部の伊達小、東小、伊達西小の
児童約1060人の集団参加。
これについて吉野英雄議員が
「参加者募集など入念な打ち合わせに課題を残したのではーと父母からの声がある」
と指摘した。

 市教委によると、本来なら学校が年間行事を決める年度末までに要請すべきところ、
種目決定などの実務を担当するJC側の準備が遅れ、
さらに一般募集では約200人程度しか集まらず、
JCからの参加要請は結局6月になった。

 このため、各校長の裁量で休日だった土曜日の31日を登校日とし、
翌週の月曜日や金曜日を代休とするなどの措置を余儀なくされたという。

 答弁した市教委は
「JCには『急いでね』と言ったが・・」と苦い顔だった。』

 この記事を一読し、ため息がでた。
8月31日の舞台裏がこんなであったとは・・・。
 素晴らしいギネス記録更新も、冷めてしまいそうだ。
それにしても、市教委の『急いでね』と苦い顔には驚く。

 確かに、休日変更は校長裁量でできる。
その上、教育活動であるなら、
ギネスへの挑戦に子どもを参加させることも可能だ。
 全ては校長の裁量でできることだ。

 しかし、性急な上に、イベントの成否がかかった要請だ。
きっと3校の校長は、ノーとは言えなかったに違いない。
 各校長の苦しい胸の内が垣間見える。

 こんな時、校長の楯になるのが、
他でもない教委の役割だと私は思う。

 バス移動に切り替えたのも、
事故の全責任を負う校長を思ってのこと。
 賛同できなかったが、二学期制の導入も、
時数確保に苦慮する学校への想いからのこと。
 
 確かにそれとは異質とも言える。
でも、今回のわが町の教委の姿勢、
「これは『喝』でしょう!」と言う。 


  

    アヤメ川公園内の『水神』さま

     ※次回ブログ更新予定は、10月12日(土)です
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尺骨神経麻痺が契機 ~怪我の功名!?

2019-09-14 19:57:25 | あの頃
 5年前の7月、このブログを始めた。
それから、250回も更新を重ねた。
 その都度、話題に想いを巡らし、
何よりも私自身が楽しみながら続けてきた。

 時々、4,5年前、そして2.3年前に記したものを
読んでみる。
 赤面してしまうものも多いが、
「これも私」と自身を納得させ、削除などはしないことに・・。

 さて、ブロクを始めた2014年だが、
伊達に居を構えて2年が経過した頃だ。
 この年を、私は『節目の1年』と思っている。
しばしふり返る。

 雪融けを迎えた3月、自宅前の車道は、
圧雪が氷結し、なかなか解けなかった。

 そこで、ホームセンターで『氷裂き棒』なるものを買い求めた。
その棒を、打ち下ろし打ち下ろしして氷を割った。
 それを使うと、路面の氷は面白いように砕け散った。
つい夢中になり、何日も何時間もその作業をした。
 きっと、それが悪かったのだと思う。

 夕食の時、手が震えて、
箸で食べ物がうまくつかめなくなった。
 それを皮切りに、徐々に右手の異常が始まった。
親指に力が入らない。
 手首付近の感覚が鈍い。
時々痛みが走る。

 整形外科に行って、「箸がうまく使えない。」と訴えた。
でも、医者に軽くあしらわれた。
 「年齢とともに、そうなるもんですよ。」
だって・・。

 特段腕を動かさなくても、症状の悪化が進んだ。
4月下旬、総合病院で手指の専門医の診察を受けた。
 『尺骨神経麻痺』のため手術が必要との診断だった。
連休明け早々、2時間半の手術を受けた。 

 全治を期待した。
しかし、術後の回復は、私を裏切った。
 それまでとは違った痺れや痛み、麻痺に見まわれた。
執刀医は、徐々に良くなりますよと言うだけ・・。

 数週間後、
「軽いジョギング程度ならいいです。」
とは言ってはくれたが、
長距離の運転や、腕を振るゴルフなどは、固く禁止された。

 私は、悶々とした。
ジョギングで軽く汗を流した後、
読書以外に日常を過ごす方法がなかった。

 新しい刺激を求めた。
右手のことを忘れる時間が欲しかった。

 そんな時、ネットでいくつかのブログに出会った。
毎日更新するものから、不定期なものまで。
そして、内容の多彩さにも驚いた。

 それまでブログに関わる機会がなかっただけに、
日に日に興味が拡大した。
 「私もやってみようかな・・。やってみる!」。
そう思うまでに1ヶ月がかかった。

 ブロク開設当初、
キーボードは左手だけがたよりだった。
 余談だが、
今も右の薬指と小指は役立たずのまま・・。

 週1回更新すると決めた。
想像していた以上に、充実感があった。
 「すごいプレゼントが舞い込んだ。」
そんな想いで、気持ちが明るくなった。

 2日をかけて、内容を吟味する。
その時間がよかった。
 右手のストレスが和らいだ。
不自由さを忘れている時があった。

 その上だ。
色々な角度からブロクを綴っている内に、
私自身への新しい気づきがあった。
 そのくり返しが、私を育てていると実感した。

 そう感じるようになるまで、時間を要しなかった。
この年齢になってもなお、自身を高めることができる。
 それが嬉しかった。

 『怪我の功名!』。
そんな言い方もできよう。

 類似したことがもう1つあった。

 その年の秋口だ。
手にわずかだが感覚が戻ってきた。
 ゴルフクラブはまだしっかり握れないが、
パークゴルフなら大丈夫と勝手に決めた。

 気候のいい時期だった。
週に1,2回、家内を誘ってパークゴルフへ行った。
 
 そのパークゴルフ場で、
ご近所に住む自治会役員の方と挨拶を交わした。

 「パークをやっているのなら、
ご近所だけの会があります。一緒にやりませんか?」。

 何回かお会いした時、そんな誘いを受けた。
同世代の者同士で、気遣いはいらないと言う。
 遠慮する理由がなかった。

 家内と一緒に、その会に加えてもらった。
メンバーは20名程だった。
 すぐに打ち解けた。

 翌年から、月2回のパークゴルフ会が楽しみになった。 
その会が契機となり、
ご近所に顔見知りが一気に増えた。

 自治会の行事にも気軽に参加できるようになった。
それまでとは違うご近所付き合いが始まったのだ。

 それが契機になった。
次第に頼まれ事が舞い込んできた。
 それも縁と思い、
「私でいいのなら・・。」
と、できるだけ引き受けた。

 自治会の役員に始まり、
パークゴルフ会の幹事、そして自主防災の委員等々。
 初めての役割ばかりだった。
でも、どれも楽しみに変えた。

 気づけば、右手の怪我が、
この町での人とのつながり、ネットワークを広げてくれていた。

 そして、「こんなことまで」と思いつつ、
地元でコツコツと執筆活動を続ける『楽書きの会』から、
同人のお誘いを受けた。
 
 7月末、その会へ最初の寄稿をした。
早々8月下旬の地元紙『室蘭民報』に私の随筆が載った。
 誰よりも、私自身が嬉しさに震えた。
 
 


ナナカマドの実 もう真っ赤!
  
      ※次回のブログ更新予定は、9月27日(金)です 
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『冷暖自知』・・・? ~夏のすれ違いから

2019-09-07 10:57:41 | 思い
 ▼ 目覚めと共に、空模様が気になる。
次に、私自身の体調と気力を問う。

 雨や強風でなければ、1つ目はクリアーだ。
2つ目はどうか。
 ゆっくりと時間をかけて、ストレッチをしてみる。
徐々に体が目ざめ、意欲が前向きになる。
 これで、オーケーだ。

 ランニング姿に着替える。
時には家内も一緒だが、最近は1人が多い。

 いつものごとく、1キロ過ぎまでは呼吸が整わず、
苦しさだけの走りだ。
 なのに、その内に背筋が伸び、最近は初秋の風に気づき、
心持ち樹木の緑が変化してきたとつぶやきながら、足を進めて行く。 

 通常は5キロ、時に10キロを走る。
その間に、何人かの方とすれ違う。
 登校中の子ども、自転車で出勤するスーツ姿、
愛犬と散歩する女性、そして、私を追い抜いていくランナー等々。
 その出逢いが、朝のジョギングをさらに楽しくしている。
 
 今まで何度も、その一瞬のふとしたやり取りに、心が動かされ、
時に励まされ、時に豊かさを頂いてきた。

 スローでも走っている私と、歩道で交わすわずかな会話だ。
それに、どんな思いがこもっているだろうか。
 違和感を覚える方もいるに違いない。

 まさに『冷暖自知』(れいだんじち)だ。
「冷たいか温かいかは、自分で触ってみないとわからない。」
 それと同様、私だけが知る体験なのかも・・。
でも、短い北の夏でのすれ違い。
 その1コマをスケッチする。

 ▼ その方は、暮れにはまだ早い、
そんな時期に決まって訪ねて来る。
 「郵便局のSと申します。
今年も、年賀はがきを買ってもらえませんか。」
 深々と頭を下げて、玄関ドアを開けるのだ。

 もう恒例のことなので、迷わない。、
インクジェット版のものを例年同様の枚数で注文する。
 彼は、破格の笑みで立ち去る。

 数週間後、必ずその年の年賀はがき発売初日に、
はがきの束と一緒に、いくつかの粗品までもってやって来る。
 「ありがとうございます。来年もよろしくお願いします。」 
支払いを済ませると、明るくそう言って帰って行く。

 今や、少ない我が家の年中行事の1つと言っていい。
だから、そのSさんの顔を私はしっかりと覚えている。

 半年以上も前になるだろうか。
郵便局前の通りをジョギングしていた朝だ。
 出勤途中だったのだろう、徒歩の彼に出逢った。

 明るい声で挨拶した私に、
彼は何か考え事の最中だったのか、
うつむいたまま、会釈だけ返してくれた。
 あの笑顔はなかった。
若干期待が外れた。
 それが心に残り、留まった。

 そして、夏のことだ。
再び、同じようなシチュエーションで彼に出逢った。
 やはり、うつむいたままの会釈だった。

 2度目の出逢いがこのまま過ぎるのがいやだった。
また期待外れが心に残る。

 すれ違いざまに言ってみた。
「Sさん、ですよね?!」。
 突然、彼は足を止め、私を見た。

 私は、走りながらふり向き、もう一度明るい声で挑戦した。
「Sさん?、ですよね!」。

 彼は、不思議な表情で、ぼう然としていた。
そして、私を見たまま軽くうなずき、
「だれ?」と唇が動いた。

 「ほら、毎年、年賀はがきを買ってる・・、ツカハラ!」。
後ろ走りをしながら、私は少し大きな声で叫んだ。
 不審な表情が、急にあの明るい顔に変わった。
私は、片手を挙げてから、再びジョギングに戻った。

 「ヤッター!」。
何故か、少年のような気分になっていた。

 我が家に着いて早々、家内に教えた。
「迷惑だったかも知れないよ。」
 「そうか」と思い直してはみたが、
また出逢ったら、同じことをするだろう。
 きっと、そうする。

 ▼ ノルディックウオーキングのストックを手に散歩する方に、
出逢うことが多い。
 何故か、高齢の女性ばかりだ。

 天気予報にはなかったのに、途中で雨が降り始めた。
それほど強い雨にはなりそうもない。
 そのまま走り続けたが、
朝なのに小ぬか雨が辺りをうす暗くしていた。

 よく走るお気に入りのコースの終盤だった。
右折して少し行くと、
しばしばすれ違う両手にストックの方と顔を合わせた。

 陽差しを避けた広いつばの帽子と、
これまた大きめのリュックを背負い、
一歩一歩しっかりとした足どりの方だった。
 私より一回りは上なのではないだろうか。

 いつもの挨拶に替えて、声をかけた。
「雨、降り出しましたね。大丈夫ですか。」
 すると、その方は、私に顔を向け明るく答えた。
「あと少し、頑張ります。」

 その力強い返事に、反応した。
「そうですか。頑張って、気をつけてください!」
 「ハイ!」

 雨でも、もう少し頑張って歩いて見よう。
てっきり、そんな意気込みだと思った。
 その強さに、少し元気をもらった。

 だから、ふとふり返って見た時に、
その後姿がなかったことに、驚いてしまった。

 「なぜいない。」
雨に濡れ、走りながら、姿が消えた訳を考え続けた。

 私が右折してきた道までは行ってないはず・・・。
ならば、どうして・・・?
 ヒントは、「あと少し」にあった。

 それは、あと少しでゴール、つまり自宅に着くと言うこと。
その意味だったのだ。
 それを私は、勝手に解釈した。

 小雨模様のジョギングの最中、
少しの時間、「狐にだまされた童話」の中にいた。





    ジョギング道に秋桜が満開
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