ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

間もなく

2014-09-30 21:35:36 | 北の湘南・伊達
 昨年12月中旬の日記にこんな一文があった。

 『今朝は一人で小一時間のジョギング。
若干雪解け気味の歩道を、
ザクザクという音と共に走り続ける。
時々東の空が、朝焼けで雲を赤くしていた。
うっすらと雪化粧をした有珠山が
朝日を浴び、神々しささえ感じた。
この美しい景色を見ながらのジョギングは、
伊達ならであろう。
私を朝のジョギングにかり立てる動機の一つが、
この景色にあるような気がしている。』

 さて、10月になる。

 きっと秋は駆け足で通り過ぎ、すぐに冬を迎える。
北国は、冬が長い。
 当然、寒い朝になる。
それでも、きっと
昨年と同じように
この冬もジョギングを楽しむと思う。

それは、日記の通り、
冬の美しい景色が、私を誘ってくれるからである。
そして、実はもう一つ、
それはオオハクチョウである。

 昨冬知ったのだが、
きっとシベリアから飛来するのだろう、
伊達の農地にオオハクチョウがやってくる。

 家内が友人から教えてもらったと聞き、
早速、市内稀府に車をとばした。

風の強い日で、地吹雪が舞っていた。
風で雪が吹き飛ばされ、土色になった畑地を選んで
百羽ちかいオオハクチョウが、
元気よく『クワックワッ』と、鳴き合いながら、エサを探していた。

冷たい強風にさらされながら、
あんなに沢山のオオハクチョウの群れ。

私は初めてその姿を見た。
その健気さとたくましさ、
そして生きることの厳しさを目の当たりにし、
私は、しばらくその場を立ち去ることができなかった。
そして、自宅に帰ってからも言葉を失っていた。

 それから数日後、
家内と一緒に、寒さに負けず朝のジョギングをしていると、
どこからか、『クワックワッ』と、
あの寒風の中で聞いたオオハクチョウの声が聞こえた。
まさかと思いつつ、上空を見上げると、
隣を走る家内も空を探していた。

見上げた斜め上の空、
手が届くところではないがすぐそばを、
6,7羽のオオハクチョウが列を作って、
稀府の方へ飛んで行くのだった。

 オオハクチョウが飛んでいる。
一羽だけが『クワックワッ』と泣きながら飛んでいく。
「オオハクチョウが飛んでいる。初めて見た。初めてだ。」
と、声を張り上げ、私は走りながら興奮していた。

 翌日から、自然と冬空を見上げながら走ることとなった。

 何度も何度も、オオハクチョウが『クワックワッ』
と、鳴きながら飛ぶ群れを見た。
それも決まって、朝のジョギングの時、
丁度、7時前後、稀府方面に向かう姿だけでだった。
きっと、宿にしている場所から、エサ場に、毎朝向かうのだろう。

 真冬のジョギングは、寒い。
それでもまた、『クワックワッ』と鳴きながら大空を行く
オオハクチョウ達に会えるのでは、
そう思うだけで私はワクワクしてしまうのだった。

 冬の伊達だからの体験。

 きっと寒さに負けそうになるだろうが、
それでも、
今年もオオハクチョウに会えるのではと、
冬の訪れを、少しだけ心待ちにしている。




実をつけたヤマボウシの街路樹
  
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かならず帰るっていう気持ち

2014-09-26 21:59:49 | 文 学
 児童文学作家・斉藤洋さんを知ったのは、
17年も前・1997年11月のことでした。
 その日、江戸川区の小学校を会場に、
第34回東京都小学校児童文化研究発表大会が行われました。

 斉藤先生は、その記念講演で『このごろ思うこと』と題して、
軽妙な語りで、500人を超える参加者を魅了しました。

 先生は、1986年に講談社児童文学新人賞に輝いた『ルドルフとイッパイアッテナ』の
創作課程やその作品のエピソードを、面白おかしく話され、
会場はしばしば大きな笑いに包まれました。

 しかし、大変残念なことに、当時の私はこの作品を知りませんでした。
従って、先生のお話を十分にくみ取ることができず、
悔しい思いをしました。
 翌日、早速買い求め、久しぶりに時間を忘れ、その本を読みました。

 この物語は、元飼い猫の小さな黒ねこ・ルドルフと
体の大きな野良猫・イッパイアッテナのお話なのですが、
まず何とも、ふたりの出会いがいいのです。

 飼い猫だったルドルフは、当然のごとく名を名乗ります。
「ぼくはルドルフ。あなたの名前は。」と。
そこで、大きなねこは野良猫ゆえ、
あっちではデカと言われ、
こっちではボスと言われ、
むこうではトラと言われるので、
「おれの名前は、いっぱいあってな・・」
と、答えるのです。
するとルドルフは、
「イッパイアッテナさんですか。」
と、応じるのです。
以来ふたりは、「ルドルフ」「イッパイアッテナ」
と、呼び合うのです。

 私は、ふたりのこんな出会いのやりとりを読み、
それだけでこの作品に惹かれました。

 ルドルフのなんとも飼い猫らしい無垢でまっすぐな性格。
そして、イッパイアッテナの思慮深くて落ち着いた雰囲気。
二匹の猫の見事な描写に、私はまず脱帽させられました。

 さて、この物語は、ルドルフが飼われていた家に帰ることを中心に
展開していくのですが、
私はその中である場面に大きく心を動かされました。

 あわてて跳び乗ったトラックの荷台でルドルフは気を失い、
一晩かけて東京に着き、とある下町でイッパイアッテナに出会います。
ルドルフは何から何までイッパイアッテナの世話になります。

しかし、ルドルフは、自分をかわいがってくれた
リエちゃんやロープウェイのおねえさんに会いたいのです。
一晩もトラックに揺られるほど、遠く離れたルドルフのいた町は
どこなのか、なかなか分かりません。

ところが、ある日、テレビから流れる町の映像を偶然見て、
その見慣れた風景からルドルフの町が、
岐阜であることを突き止めます。

すぐにでも戻りたいと思うのですが、
その手段がないのです。
電車を乗り継ぐのは難しいし、
トラックの荷台に隠れて跳び乗っても岐阜に行けるとは限りません。
帰る先が分かっても、帰れないのです。

ルドルフはイッパイアッテナや
東京で知り合ったねこ達にやさしく励まされます。
そして、ルドルフは失意の中でこう思うのです。

 『いざとなったら、歩いてだって帰れる。
歩いてなんて帰れやしないって思うから、ほんとうに帰れなくなるんだ。
かならず帰るっていう気持ちさえあれば、
どんなことをしたって帰ることができるんだ。』、と。

 物語の中でいきづく言葉の力強さに、私は酔ってしまいました。
 そして、この物語を読んだ日本中の沢山の子ども達が、
私と同じ言葉や、私とは違う様々な場面で
ルドルフやイッパイアッテナの言動に、
自分を重ね、勇気づけられたと思います。

 私に、児童文学・物語の素晴らしさを強く印象づけてくれた一冊です。
 斉藤洋さんのルドルフシリーズは現在、全4作が出版されています。
 どれも、輝いています。




晴れた日 伊達漁港からの東山
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北の温もり  盛春

2014-09-19 22:55:03 | 出会い
 5月の連休明けと同時に、私は手術台に載った。
 全身麻酔による2時間の右肘切開による神経移行は、
その手術が順調なものだったのかどうかなど、
その間眠っていた私には知るよしもなかった。
 円熟期を迎えていると思われる整形外科医は、
無事手術は終わったとだけ告げた。

 「神経の手術だから」と、何人もの人が言ってくれたが、
術後は薬指と小指それに手のひら、手首の麻痺と痺れに加え、
それまでなかった痛みが加わり、
半年近くが経過した今も、痛み止めは欠かさず服用している。

 さて、温泉の話である。

 各地の温泉には、必ず適応症と言う効能書のようなものがある。
私の知る限り、どこでもそこに『神経痛』の文字がある。
 本当に額面通りの効き目があるかどうかは、
人それぞれだと言うが、
来る日も来る日も右手の痛みとともに過ごす日々は、
その温泉の効能を、心から信じさせた。
まさに『わらをもつかむ』心境なのだ。

 術後3週間、抜糸が済んでから、日帰り温泉に行き始めた。

 幸い、伊達の周辺には車で小1時間圏内に
数多くの日帰り温泉がある。
ほとんどが地元の方の利用であるが、
中には大浴場に露天風呂、サウナまで備えたところ、
そして温泉通に好まれる『源泉掛け流し』のところもある。

 6月のある日、朝のジョギングを終えてから、
家内に温泉行きを誘った。
毎日、「痛い、痛い。」と憂鬱な顔をし、
左手で右手を擦ってばかりいる私を見て、
少しぐらい痛みが和らぐならと、
「行ってもいいよ。」と、応じてくれた。

 北海道の6月、
それは1年で一番綺麗な季節だと私は思っている。
 山々は新鮮な緑色に包まれ、色とりどりの花が咲き乱れる。
中でも、アヤメの紫色が好きで、
その色合いとともにすっくとした立ち姿に、
つい見とれて、若かりし頃の初々しさが突然蘇ったりした。

 しかし、今年の6月は、心が沈み、
その春景色の美しささえ受け入れられずにいた。
それでも、
「温泉の温もりの中に右腕を存分に満たせば、
痛みからの解放と一日でも早い完治が訪れる」
と、一途に信じ、ネガティブになりがちな自分と戦っていた。

 その日は、近隣の町が開設した海辺の温泉に行った。
大きな浴場から、噴火湾が一望できた。
露天風呂からは、快晴の青空の下、
緑が折り重なる山もキラキラ輝く海原も見え、開放感がいっぱいだった。
それでも私は、そんな景観にさほど目もくれず、
右手をマッサージしながらぬるめの湯につかり、
ただただ痛みと向きあっていた。

 4,50分も入浴していただろうか、
風呂上がりはいつも、畳敷きの休憩室に行った。
そこは、幾つものの長テーブルと座布団が用意してあり、
常連さんはその座布団を2,3枚並べ、そこで昼寝をした。

 私は、明るい日射しのテーブルに席をとり、家内の湯上がりを待った。
その温泉では、昼食は同じ施設内にある食堂で
醤油ラーメンを食べることにしていた。
丁度そんな時間だった。

 私のはす向かいのテーブルに、
湯上がりの初老の男性が座布団一枚をぶらさげ、席を取った。
彼は、持参したエコバックのような袋から
アルミホイルにくるんだ大きなおにぎりを1つ取り出した。
そして、近くの自販機に行き、
昔ながらのビンに入った牛乳を1本買い戻ってきた。

 座布団に座った彼は正座だった。
テーブルにはアルミホイルのおにぎり一個と牛乳1本。
 軽く頭を下げ、キャップをとった牛乳とアルミホイルからのぞいた真っ黒なのりのおにぎり。
彼はそれを両手に持ち、交互にゆっくりと口に運び、
時々小首を窓辺に向け、何もない砂浜と揺らめく波間に目をやった。

 その表情は、温泉から上がってのおにぎりと牛乳、
こんな満足が、外にあるだろうかと、
誰かに問いかけているようで、
おにぎりを運ぶ口元には、微笑みがこぼれて見えた。

 きっと毎日は、外での仕事なのだろうと思わせるような日焼けした頬だった。
私より年上と感じさせるが、がっちりとした骨格をしていた。
連れ合いも友人もいない一人きりの昼食だった。
きっと自分でむすんだおにぎりだろうと感じた。

 私は、日帰り温泉の休憩室で出会った、
おにぎりと牛乳の昼食に、いつまでも釘付けとなっていた。

 帰りの道々、痛む手でハンドルを握りながら、
何度も何度も、あの初老のまぶしい表情が脳裏に浮かんだ。

心の持ちようの大切さを、痛いほど教えられた。
私もあんなおにぎりが食べたいと思った。

 幸せはすぐそこにもあるのに、
それを引き寄せようとしない自分を何度も何度も叱った。
 右手の痛みと不自由、そんなのは、
それよりも、だよ。




『コルチカム』が咲き始めた
 
 
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三つの実感を

2014-09-16 20:17:31 | 教育
 子どもにとって授業は、学校生活の中心にある。

 最近、「家庭での学習時間が、学力差につながっている。」とか、
「読書した本の数が、心の成長を左右する」とか、
そんな論調をよく耳にする。
 私は、決してそれを否定するものではないが、
それよりも重要なのは、授業のあり方なのではなかろうか。

 小学校における授業の多くは、学級担任が行っている。
この時期の子どもには
授業を進める者と、受ける者との良好な関係が、
授業の成否・理解や習熟の程度に大きく影響するからと理解している。

 また、現在、様々な場で、各教科の専門性を重視し、
小学校においても教科担任制を導入すべきとの主張がある。
しかし、小学校における学級担任の役割を
決して軽視してはならない。

 ところで、私は、常々学級経営=学級づくりを重視してきた。
それは、学級の中での喜怒哀楽や楽しい学校生活が、
授業の充実を生み出すからであり、
学級担任は、そのことに常に心を砕く必要がある。

 その学級経営の柱は、3つある。
大きな物言いになるが、
人が人として生きていく根幹をなすもので、
人は、幼い頃から、次のような実感を持って生きることによって、
持っている力を存分に発揮し、
成長することができるのである。
それを、学級づくりの中心にすえることが肝要と考える。

  ① 有用感を実感する
    ・自分は誰か(みんな)の役に立っている
    ・みんな(○○さん)からかけがいのない人間と思われている。

  ② 成就感・達成感を実感する
    ・自分もやればできることがある
    ・すこしずつだけど目標に近づいている

  ③ 安心感・安定感を実感する
    ・みんなから(先生から)受け入れられている
    ・チャレンジに失敗しても居場所がある

 これら3つの実感のうち1つでも持つことができたなら、
誰だって意欲的になり、
胸張って、どんな困難にも立ち向かうことができると思う。

学級担任は、どの子もこの実感をもてる学級を目指したい。
そして、それを実感できる学級づくりが学級担任の使命と考えたい。

 3つの実感に包まれた学級であれば、
その授業は、子ども同士が学び合い、高め合いながら、
どんなに高いハードルでも挑戦していくことができるのである。




近所のお花畑でガーベラが満開  
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滝越え

2014-09-09 22:41:40 | 北の大地
 知床半島の付け根付近を流れる斜里川に、
『さくらの滝』と呼ばれる名所がある。
 私はまだ行ったことがないが、
「熊が出没する恐れがあるので注意するように」
と、観光案内にはある。

 この滝は、平成14年に一般公募によって命名されたが、
春には桜が咲き、
6月から8月にかけてサクラマスが
3、4メートルの高さの滝を越えるため
ジャンプを見せてくれることからついた名だとか。

 サクラマスは、渓流の女王と言われるヤマメが海に下り、
30㎝から70㎝位に大きく成長して
生まれ故郷の川に戻ってくるもので、
『さくらの滝』のような大きな滝をジャンプするのは、
世界的にも珍しいのだそうだ。

 時々、家内と一緒にスーパーに出向くが、
その折りにサクラマスを半身にしたものが並んでおり、
地元の方はともかく、私には大変物珍しく、しばらく足を止めた程だったが、
日本海と北日本の河川でその遡上が見られるようだ。

 『さくらの滝』には例年約3000匹が遡上するのだが、
力強さとタイミング、それに運を味方につけ、
滝越えに成功するのはわずか1割程度だと聞いた。

 私は、この成功率に何よりもまず驚いた。
そして、遠慮なく流れ落ちる大滝に
果敢に挑戦し続けるサクラマスの生きざまに、
せつなさと共に、
なんとしても諦めずに生き抜こうとするその強さに惹かれた。

 よく夢は持ち続ければ叶うと言う。
しかし、『さくらの滝』に挑む多くのサクラマスにそれは通用しない。
それが、偽りのない自然界の姿なんだと思う。

 自然界の厳しい掟のようなもの、
それはこの地に移り住んで、たびたび教えられる。

 サクラマスのチャレンジ、私は、また励まされている。




伊達市内を流れる気門別川
 
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