ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

喰わず嫌い 『きのこ』編

2017-10-27 22:03:38 | グルメ
 1昨年1月から、6回に分け、『喰わず嫌い』と題し、
『ノリの佃煮』編、『ウナギ』編、『貝』編、『イタリアン』編、
『兎鍋』編、『くだもの』編を書いた。

 それぞれ苦手な食べ物にまつわる、エピソードである。
読み返してみたら、『貝』編にこんな一文があった。

 「水産物の中の貝類、農産物の中のきのこ類、
ここには共通点があると勝手に解釈している。
 それは、それぞれの産物が
マイナーな食品と言ったイメージなのだが、
だからと言うわけではないにしても、
1部の例外はあるものの、
私はどちらも苦手にしている食べ物である。」
 そして、「今回は『貝』について記す」として、
帆立貝と北寄貝を取り上げていた。

 さて、貝と共に「マイナーな食品」とした『きのこ』であるが、
その後、私は何も語ってこなかった。

 つい10日程前になるが、
秋の味覚『きのこ』について、私は一歩踏み出した。
 いい機会なので、「喰わず嫌い『きのこ』編」として記す。

 きのこは畑ではなく、樹木に育つ。
それも老木のイメージがある。
 その上、燦々とした陽光より、日陰を好むのではなかろうか。

 私から見ると、暗い農産物なのだ。
どうしても大自然の恵み、
元気で健康な食べ物とは、思えない。
 だから、好きになれないできたのかも・・。

 しかし、この季節、店頭には山盛りのきのこが並ぶ。
椎茸をはじめ、シメジ、マイタケ、エノキ、エリンギ等々、
時には松茸も。
 この時期が旬なのは、その盛大さからもよく分かる。

 今までの私は、「それ程、好んで食べる物なのか。」
「そんなに、売れるのか。」と首をかしげてきた。

 ところが、先日、家内の買い物につきあって、
スーパーで行った。
 小さなナメコの袋づめに目がいった。

 「今日の夕食は、ナメコととうふの味噌汁はどうかな?」
自分でも意外だった。そんな提案をしていた。
 「えっ! いいの。きのこだよ。」

 私が、きのこを苦手にしていたので、
ナメコを使った料理が、
我が家の食卓に上ることはなかった。
 ましてや、私がそれを求めるなど、
まさに『あり得ない』ことだった。

 家内の驚きようは別にして、
その日の夕食、ナメコの入った味噌汁は、
期待通りの美味しさだった。

 実は、今年の春先からキノコ汁に、ある想いが芽生えた。
しかし、それをリクエストするには、
長年、「きのこは嫌い」と言い続けた私にとって、
大きなためらいがあった。

 何かの切っ掛けがほしかったが、
時だけが過ぎていった。
 そして、ついに一時の勢いで、
その日、突然の提案をしたのだ。
 ついに、『きのこ』へ、一歩足を進めることができた。

 その動機を書こう。 
大袈裟だが、5年もさかのぼる。

 伊達に来てから、ジョギングを始めた。
翌年の4月、『春一番 伊達ハーフマラソン』を知った。
 その大会で、初めて5キロを完走した。
それから、10キロ、そしてハーフと距離をのばした。
 毎年、なんとかゴールできた。

 4月のこの大会には、参加賞の他に、
『キノコ汁』券が付いてきた。
 なぜ『きのこ汁』なのか、その訳は知らないが、
ゴールしたランナーに、1杯の温かいキノコ汁が振る舞われた。

 当初、私には全く興味のないものだった。
それでも、完走の嬉しさが、
つい『キノコ汁』コーナーに向かわせた。
 案の定、キノコならではの味がした。
不思議なことに、喉の渇きがそれを完食させた。
 「美味しかった。」
決して、そんな言葉は出てこなかった。

 ところが、1年に1回の大会。
そこで振る舞われるキノコ汁だ。
 ゴール後のキノコ汁に対する想いが、
次第に変わっていった。

 昨年、この大会のハーフに、はじめてエントリーした。
途中から、強い風と冷たい雨に見舞われた。
 それでも、完走した。

 体が、温かさを求めていたのだろうか。
その後の、きのこ汁はそれまでのと違った味だった。
 「ウーン! 美味しい!」
思わず、そんな言葉がもれた。

 その1杯が、キノコ汁の美味しさを私に刻んだ。
ハッキリと、記憶に残った。

 そして、今年の春だ。
地元・伊達で、2回目のハーフを走った。
 後半、予想以上に苦しい走りになった。
ようやく走り続ける私に、沿道の声援が励みになった。

 そんな時だ。
走りながら、ゴール後のあのキノコ汁が、
急に思い浮かんだ。
 あの美味しさを思い出した。

 「ゴールしたら・・、キノコ汁が・・」
なんと、きのこ嫌いだった私が、
気力だけで走っていた途中から、
あの味を思い出し、力にしたのだ。

 「頑張ってゴールしよう。そしたら、キノコ汁・・。」
残り3キロあたりから、何度も心をよぎった。
 まさに「目の前に人参を下げられた馬」である。
 
 ゴール後、すぐに『キノコ汁』コーナーに行った。
にぎわうランナーたちをさけ、
外れのベンチでその1杯を口した。

 この味だ。
「伊達ハーフマラソンを完走すると、
この美味しさが待っている。」
 きのこへの想いが、はっきりと変わったのだ。

 あれから半年である。
『紅葉狩り』と称して、家内とドライブにでかけた。
 昼食によった食堂で、
私は、ためらいもテレもなく、
『きのこ入り天丼』を注文した。

 大きな丼の上に、椎茸、マイタケ、白シメジの天ぷらが、
いっぱいのっていた。
 キノコ汁だけでなく、
秋の味覚『きのこ』を十分に堪能した。

 人は、美味しさに対し、こうも変わるのだろうか?
いや、喰わず嫌いだっただけかも・・。





   秋の赤色 『山法師』の紅葉
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それよりも もっと寂しい今に

2017-10-20 22:38:06 | 時事
 ずっと続いているが、毎年年賀状には、
自作の詩を添えている。
 その中から、30年前、1987年の『今 わたし』を転記する。

      今 わたし

  鉄鋼・造船の不況に喘ぐ街からも
  これが最後と閉山に涙する町からも
  久しぶりの筆跡
  なつかしい口調
  定まりの言葉の中に
  やすらぎを載せ
  私はひととき
  故郷に思いをはせる

  決まって三交替のサイレンが鳴り
  工場から
  掃き出されるように
  吸い込まれるように
  人々が忙しく動き出す鉄の町

  一日中鉄索がガチガチガーガーと
  石炭を山積み
  川には真っ黒い水があふれる産炭地

  家族が卓袱台に集い
  一本の電線につり下がった電球の下で
  皿に盛られたおかずを競う時が
  ここにも あそこにも
  それは
  カルチャー ファッション グルメとは
  無縁の時代

  そして 私は 今
  コンクリートの林と
  鉄の扉の玄関と
  窓辺にはサザンカが
  赤く咲き乱れる季節に


 ▼ この詩に沿いながら、最初に私と家内の、
10歳前後の暮らしぶりから振り返ってみる。

 私が過ごした鉄の町は、いつもどこかから工場音がしていた。
特に、一日に3回鳴り響くサイレンがその象徴だった。

 その合図と共に、大きな工場につながる道路は、
製鉄所の専用バスと工員さんであふれた。
 その光景は、子どもながらに、町が生き物のように思えた。
 
 広い製鉄所の中に、5本の高い煙突が立つ工場があった。
小学生の頃、そこが見える小高い丘で写生をした。
 私は、その工場と一緒に、
そこへ向かう工員さん達や専用バスを沢山描いた。

 「人もバスも見えないよ。見たとおり描きなさい。」
先生に注意されても、私は消さなかった。

 余談が過ぎた。
しかし、当時鉄の町は、工場にも働く人たちにも力強さがあった。
 小さいながらも、きっと、
それを絵にしたかったのではなかろうか。

 さて、家内はどうだったのだろうか。
いくつもの炭鉱がある町で彼女は育った。

 掘り出された石炭は貨物列車がある駅に集められた。
その集積方法は、トロッコだの、トラックだの様々だった。

 その1つに、山奥の炭鉱から駅の集積場まで、
高い鉄索を等間隔に立て、ケーブルを張る。
 そこに大きなバケツをつるし、
山積みした石炭を運ぶ方法があった。

 家内の家の近くに、そのケーブルがあった。
いつも鉄索とケーブルがすれる音がしていた。
 時に、石炭の真っ黒い水滴が、洗濯物を汚した。
でも、それに腹を立てる人は少なかった。

 それより、時々そのケーブルのバケツに、
石炭ではなく、炭鉱夫が乗っていることがあった。
 「危険きわまりない行為だ。」

 それに驚き怒るどころか、
子ども達はバケツに乗る炭鉱夫を見ると、
みんな遊びをやめ、それぞれ、空に向かって大声で叫んだ。
「テッサクーの、おーじさーん!」 

 すると、危険きわまりないおじさんは、
下の子ども達に大きく手をふってくれるのだ。
 子ども達は、それが嬉しかった。

 今度は、子ども達も大きく手を振り、再び叫ぶのだ。
「テッサクーの、おーじさーん。オーーイ!」
 そのおじさんが、頭上から見えなくなるまで子ども達は、
声を張り上げ、手を振り続けた。
 家内も、そんな子の1人だった。

 山に囲まれた小さな盆地。
あの頃、この町で子ども達を笑顔にした微笑ましい風景である。


 ▼ それから30年が過ぎ、『今 わたし』を記した年。
その年から、バブルと呼ばれる時代がはじまった。
 当初、私にその実感は全くなかった。

 それよりも私の故郷は、
『鉄鋼・造船の不況に喘いでいた』。
 そして、家内の実家がある産炭地は、
『これが最後と閉山に涙』していた。
 そのことに私の心は痛んだ。

 だが、一方で、カルチャーだとか、
ファッション、グルメなど、使い慣れない言葉が、
テレビや新聞、雑誌を賑わしていた。
 それまでとは違う時代の始まりを、
あの痛みと同時に予感していた。

 当時、私は首都圏の新築分譲団地で暮らしていた。
整然と並んだ5階建ての団地群は、
まるで『コンクリートの林』のように見えた。

 そんな無機質な住居を補うように、
団地内の芝生の敷地には、四季折々の草花が植えられた。
 そこに咲く花が、つかの間の時間を、私たちに提供してくれた。
特に、北国育ちの私には、冬の真っ赤な山茶花には、
つい心が奪われた。

 確かに、暮らしには、
様々な新しさ、豊かさが加わっていた。
 10歳のそれとは、明らかに違う。
そんなライフスタイルが定着していった。


 ▼ そして、今である。
驚くことに、6人に1人の子どもが、貧困の中にいると聞く。
 そして、都会と地方の2極化が、進んでいる。

 『今や、地方は疲弊の道を突き進んでいる。』
それを言い過ぎと否定できない現実を、随所に見る。 
 『地方の町は、寂れていくだけ。』
伊達に移り住み、私は、各地の町並みで、それを実感する。

 一見、時代の大きなうねりの中で、
暮らしは便利に変化し、豊かさを漂わせているように思う。

 しかし、1つの明かりの下に家族がそろい、
大皿に盛られたおかずを囲んだ夕食風景は、姿を消してしまった。
 今では、仕事や塾に追われ、スーパーの惣菜を並べ、
家族それぞれが、自分の時間帯で食事している。

 もしかすると、30年前のあの『不況に喘い』だまま、
『閉山に涙』したままが、続いているのではないだろうか。
 いや、それよりももっと寂しい今になっているのでは・・・。





エッ! 近くの畑でヒマワリが満開! ビックリ!
 
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M先生が・・・・ そして

2017-10-13 21:51:02 | 思い
 毎週金曜日は、朝から机に向かう。
前日から、このブログのために思いを巡らせ、
そして、1日をつかい、パソコンのキーボードと試行錯誤をするのだ。

 2週間前のその日も、朝食を済ませるとすぐ、
2階の自室の扉を閉めた。
 この日は、すでに書きたいことが決まっていた。
それをどう文字にするかだった。

 心を落ち着け、ノートパソコンの電源を入れた時だ。
下の階のリビングから、家内のいつもと違う声が飛んできた。
 「ねえ! M先生、亡くなったよ。」

 私には恩師と思える先生が2人いた。
その1人が、中学3年の担任・M先生だ。
 
 返答につまった。
大きく深呼吸をしてから、階段を下りた。
 リビングのテーブルに、新聞が広げてあった。

 家内が紙面を指さした。『お悔やみ』欄だ。
そこに、M先生の名前が載っていた。
 喪主は、奥様になっていた。
先生が逝去した事実を認めるしかなかった。

 5月に恵庭の病院で、
長期入院している中学校時代からの友人・T君を見舞った。
 (彼については、最後にもう一度記す。)
その時、M先生が癌らしいと聞いた。

 しかし、5年前にお会いした先生は、腰を悪くしていたものの、
その表情や語り調には、覇気があった。
 「M先生のことだ。きっと癌など、ものともしないだろう。」
私は、不安な気持ちを、勝手に吹き飛ばしていた。

 あの時の、自分勝手な解釈と軽薄な期待感を悔いた。
こみ上げてくるものがあった。
 それを、必死にこらえた。
次から次、先生から頂いた数々の教えが脳裏をめぐった。

 このブログに、何回もM先生を記した。

 中学3年の夏祭りの日に、父が母に手をあげるケンカをした。
それを見た私は混乱した。
 一人で思い悩む日を送った。
そんな時、M先生が私に声をかけてくれた。

 『M先生は、私の肩を抱えるようにして、
職員室の片隅につれていった。
 二人で向きあうと、先生は穏やかな表情で私の目を見た。
「どうした。元気ないぞ。」「先生に、話してみないか。」
と、言った。

 あのシーンが浮かんだ。
涙がこみ上げてきた。私は、それを必死にこらえた。

 大切な父と母のことである。その両親のいさかいを、
言葉にすることなど、私には無理だった。
 両親を辱めることなど、決してできないと思った。

 私は、先生から目をそらし、
「何もありません。」と、小さくうつむいた。
 「そうか。そうならいいんだ。」「元気、出しなよ。」
と、先生は私の両肩を、力強く握ってくれた。

 「はい。」と少し湿った声でうなずき、
私は、深々と頭を下げて職員室を出た。

 嬉しかった。
急に廊下の床がにじんだ。
何粒もの涙のしみが、廊下にできた。

 一人ぼっちじゃないと思えた。
冷えていた心が、温かくなっていった。
 ちゃんと見てくれている人がいた。
それだけで、勇気が湧いた。心強かった。
 前を向こう。顔を上げて歩こうと思った。』
           (15年6月のブログ『夏祭りの日に』抜粋)

 教師にとって最も大切な子どもを見る目。
M先生のその目が、少年の私を救ってくれた。
 中3のその体験が、その後の私の支えになった。

 M先生の教えは、続く。

 私を校内の弁論大会の弁士に推薦してくれた。
私は、その期待に応えようと頑張った。
 それが、自信や自己主張などと無縁だった私を、
変えてくれた。
           (15年7月のブログ『初めての岐路から』参照)

 高3の時、進路について無関心だった私に、
教職の道へと背中を押してくれたのも、M先生だった。
           (16年2月のブロク『背中を押してもらって』参照)

 『中学生だった私から見て、
M先生の最大の武器は、先生ならではの話し方だった。
 一つ一つの言葉、その言い回しは、
他の先生とは違い、すっと私に入ってきた。
分かりやすかったと言ってもいい。

 あの頃、私の学級に、男子生徒の多くが注目する
『学級のマドンナ』がいた。
 彼女は、中3になってすぐ転入してきた。
口数の少ない子だった。
 その子がいると思うだけで、多感な男子は登校に心が弾んだ。

 ところが、半年あまりで、突如転校することになった。
マドンナとの最後の日、
先生は私たち男子の気持ちを察したのか、
帰りのホームルームでこう話した。

 「逢うは別れの初めなり。あのなぁ、昔の人はそう言って、
別れの悲しさや寂しさをこらえたんだ。
 君たちも、今、それが分かるだろう。」

 下校の道々、先生の言葉が、私の中を何度も巡った。
せつない気持ちを、コントロールするのに十分だった。

 そんな体験がいくつもあったからだろう、
先生に勧められ、教職を志した時、
あの『しゃべり』方を、私も身に付けたいと思った。』
           (16年7月のブログ『巧みなしゃべり方を ~教師の資質として』抜粋)

 M先生は、教師としての私の目標になった。
そんな恩師が、逝ってしまった。

 隣町での葬儀には、家内も同席してくれた。
会場の傍らに、生花を置かせてもらった。
 「ワタル君、来てくれたのか。ありがとう。」
遺影が、やさしく語ってくれているようで・・・、
胸がつまった。
 何度も目頭が熱くなった。

 受付で頂いた『会葬御礼』の栞を開いてみた。
「大きな優しさをありがとう
     深い愛情をありがとう」
そんなタイトルで、奥様の一文があった。

『夫は長年 教員として励んでおりました
 小中学校の教壇に立ち 未来輝く子どもたちの
 ために尽くす やり甲斐のある仕事です
 そんな天職と同時に夫が現役時代に得た大切な
 ものがもうひとつ 趣味のゴルフです 職場の
 お仲間方とグループを作って日曜日は欠かさず
 出かけていきました 家族で九州や東北など 
 旅行も何度かしましたが やはり一番はゴルフ
 だったようで『僕はゴルフに行くからあなたは
 お友達と旅行をしなさい」なんてつれないところも
 あったものです ただそれがかえって居心地が
 良く 快く好きなことをさせてくれたおかげで
 私も沢山の思い出ができました
 晩年になると庭に出る時間が増え 几帳面に草を
 とって植木の手入れをしてと穏やかな時間を紡いで
 おりました 夫が鳥のえさを用意していると
 リスがそれを食べにくることがあり「ちび」と
 名前をつけて夫が呼べば寄ってきてその様子を
 見て二人で笑い合ったことも懐かしくて… 共に
 過ごした日々を振り返ると幸せだったと実感し
 涙がこぼれてしまいます
 寂しいけれど みんなに優しかった夫のことです
 これからもこちらを見守ってくれると信じて
 います  (後略)』

 2度3度と読んだ。
M先生の人柄が、そのまま伝わってきた。

 「大きな優しさ」と「深い愛情」、「几帳面」、
「みんなに優しかった」。
 M先生にふさわし言葉の数々が、
悲しさに耐えていた私を救ってくれた。

 さて、むすびになる。
M先生が、癌を患っているらしいことは、
5月に見舞った、長期入院中のT君から聞いた。

 M先生の訃報を彼にも知らせようと携帯に電話した。
何度呼び出しても出ない。
 仕方なく自宅に電話した。

 すると、息子さんが電話に出た。
私は開口一番、説明した。
 「お父さんの携帯に電話したんですけど、
中々出ないので、それでご自宅に電話しました。」

 息子さんが、落ち着いた口調でそれに応じた言葉に、
その日2度目の衝撃を受けた。

 「父は、今月9日、亡くなりました。
葬儀は、家族だけで・・・」。

 彼のことは、つい最近『エッ!そんなことって』の題で、
このブログに書いた。
 大切な友人の1人だ。
 
 悲報に続く、悲報。
あれから2週間が過ぎた。
 どれだけ時が過ぎようと、私の落胆はそのままである。
 
 M先生 享年83歳。T君 享年69歳。
2人とも、まだまだこれからがあったのに・・・。
 せつない。




     秋真っ盛り サクラも
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69歳の向暑&野分(後)

2017-10-06 22:08:05 | ジョギング
 (2) 野分の1日

 ① 前半の走り
 9月24日(日)、旭川ハーフマラソンがあった。
この大会も3年連続3回目の参加になる。

 快晴の花咲陸上競技場は、
ハーフに2000人、10キロに1000人など、
4000人以上のランナーでにぎわった。

 ゼッケン1748を胸に、
私はハーフランナーの最後尾付近から、走り始めた。

 「昨年の失敗をくり返さない。
そのためには、前半も後半も同じ走りをする。」
 それが、今回のテーマだ。

 1年前、体調の良さを過信し、スタートから軽快に走り出した。
ところが、暑さも加わった後半、足が重くなった。
 失速に失速を重ね、ようやくゴールした。

 「今年は同じ失敗を絶対にしない。」
何度も自分に言い聞かせながら、陸上競技場を後にした。
 「計画した1キロごとのラップを守りながら走る。」
それだけを胸に、足を進めた。
 夏が過ぎ、秋を思わせる気配が、旭川の街路樹の木の葉色にあった。

 実は、9月に入り、私は明らかに練習不足になった。
夏の疲れからか、朝のジョギングに二の足を踏む日が増えた。
 だから、スタートしてすぐ、息が荒くなった。
「このまま21キロを、ラップ通り走り続けることできるか。」
 不安が大きくなっていった。

 どんなことでも言えるが、不安は、心にゆとりを失わせる。
この大会は、3キロ付近から約6キロまで、
陸上自衛隊駐屯地内がコースだった。
 その敷地内沿道には、10メートル程の間隔で、
3,4名の自衛隊員が立ち、ランナーに声援を送ってくれた。
 昨年はそれが、すごく励みになった。嬉しかった。

 ところが、今年は、屈強な体をした隊員の、
太い『頑張って下さい』の連呼が、やけに不快に感じた。
 何故か、耳障りで、励ましには聞こえなかった。

 明らかに、相手の好意を、
素直に受け入れられない私になっていた。

 それは、約8キロ付近にある旭川西高校前でも同じだった。
ここでは、毎年、西高校のブラスバンド部が、
力強い演奏で、ランナーを励ましてくれた。

 昨年も一昨年も、私は両手を振り、
「ありがとう」と叫びながら、演奏の前を通過した。

 今年も、数十人のメンバーで演奏していた。
演奏に合わせ、フラッグを振る10数人の女子高生もいた。
 そこには、華やかな空気が流れていた。

 私たちランナーへの激励である。
嬉しいと思っていい。
 なのに、そこを通過する私は、
『負けないで!』の曲を耳にしながら、
「わかってるよ!」と言い返したい心境になっていた。

 明らかに、ゆとりや素直さ、
そんな気持ちを失ったままの走りだった。
 練習不足の不安感が、そうさせていたと思う。

 でも、私は計画通りのラップを刻み、足を進めた。
その私の後ろを、
私よりも荒い息で、付いてくるランナーがいた。
 そのランナーの息と足音に気づいたのは、
西高校より1キロ程前からだった。
 私につかず離れず、10キロの給水所近くまで、
「ハアハア! ハアハア!」と付いてきた。

 1度振り向いた。20歳代の女性の顔だった。
必死に私を追っているのか、
その足音と息遣い、一瞬の表情から伝わってきた。

 若い女性だからではない。
私の走りを目印にしている人がいる。
 そのことが、嬉しかった。力が湧いた。
走りながら、新しいエネルギーを得た。
 練習不足の不安感が少しずつ消えていった。


 ② 後半の走り

 ハーフ中間点の折り返しは、石狩川の土手道にあった。
もう後ろから「ハアハア! ハアハア」の荒い息は、
付いてこなくなっていた。
 きっとペースダウンをしたのだろう。

 私は、不安感を忘れ、
土手道から、若干水かさの増した川面を見下ろし、
いいリズムで走った。

 間もなく旭橋、そして一般道に出るところに、
旭川在住の家内の姉と義妹がいた。
 半畳程の大きなノボリには、『ファイト 一発』の文字と、
私や5キロを走った家内、
初めてハーフに挑戦した甥の名が大きく記されていた。

 素直にその激励を受け止めることができる私がいた。
前半の私でなくて、よかった。
 少しテレながら、そのノボリの前を通過した。
最大の笑顔になっていた。
 軽い走りだった。

 14キロを走り、美しいアーチ型の旭橋を渡った。
その辺りからだ。
 私の前方右斜めに、
少し癖のある走り方をする男性がいた。

 薄い空色の帽子をかぶっていた。
その男性を、『青帽子』と勝手に名付けた。
 なぜが気になり目にはいった。

 しばらく走って、ふと気づくと、
前方に『青帽子』がなくなっていた。
 すると、私の横を抜け、右斜め前に現れた。

 再び、ずっと『青帽子』を気に止め、走った。
そして、やがてその姿をまた見失った。
 すると、私の横を抜けて、すっと現れるのだ。

 周りには、『青帽子』のほかに沢山のランナーがいた。
それでも、ついつい彼に目がいった。
 
 残り5キロを切ると、
周りのランナーの走力は、だいたい同じになる。
 私と同じようなペースで走る人ばかり。
抜いていく人も少なく、私が誰かを抜くことも少なくなる。

 私は、ついに『青帽子』を抜けないまま、
彼を前にして走るようになった。
 彼との等間隔が、スタミナが切れかけた私には、
絶好のペースメーカーだった。
 『青帽子』を見ながら、後3キロ、後2キロと自分を励ました。

 20キロに、給水所があった。
残り1キロのため、立ち止まってスポーツドリンクを1口飲んだ。
 再び走り出しだが、『青帽子』がいない。
少し急いで走り、数人を抜いても、見つからない。

 そのままゴールの競技場に入った。
すると、トラックを走っている『青帽子』がいた。
 ゴールまで約300メートルだ。

 何を思ったか、私は『青帽子』を追いかけていた。
ラストスパートの力が残っていた。
 何人ものランナーを、抜いた。
『青帽子』に追いつきたかった。

 ところが、残り150メートル。
『青帽子』がスピードをあげた。
 縮んだ距離が、離れていった。

 ゼッケン番号から、『青帽子』が50歳代だと分かっていた。
最後は、年令の差と納得しながら、ゴールした。

 21キロの長い道である。
そのゴールを目指した旅には、
志を同じくした者同士のちょとした支えがある。
 見えないネットワークである。
それを実感した。
 

 ③ ゴールの後

 ゴールするとすぐに、家内と家内の姉、義妹が駆け寄ってくれた。
競技場の日陰を探し、腰をおろした。

 手にした記録証には、昨年より若干早いタイムが刻まれていた。
同時に中間点のタイムも記されていた。
 前半と後半の走りに差がなかった。
計画通りのラップにも満足した。
 そんな喜びが、私を饒舌にした。

 「スタートしてから、ここまで、ずっと走り続けさ。
1回も休まない。歩かない。
 ずっと辛い。
途中で、なんでこんな苦しいことをしているんだ?と自分に訊く。
 馬鹿みたいだと思うこともある。
でもね、ゴールして、
もう走らなくていいと思う。その瞬間がいいんだ。
 次に、よく走り続けたと感心する。それがいい。
そして、記録証をもらいに行く。
 高校生の女の子が、
『完走、おめでとうございます。』って明るい顔して、
両手で渡してくれるんだ。
 もう涙が出そうになるよ。
こんな感動、5年前まで、知らなかった。
 いい経験していると思うんだ。
すると、また走りたくなるんだよ。」

 3人を前に、一気に語った。

 私たちの後ろで、それを聞いていた方が声をかけてきた。
年令や住まいを訊かれた。
 そして
「私は60歳になったばかり、まだひよこです。
でも、走り続けます。がんばります。
来春は伊達に行きますね。」
「ぜひお越し下さい。お待ちしてます。」

 9月、野分の候。
旭川の空には、秋雲が浮かんでいた。

 今年、この大会にエントリーした70歳以上の男性は41人だった。
来年、私はその仲間入りをする。
 「よぉし!」と腰を上げた。




    『蝦夷野紺菊』が 目に止まる
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